「独合点」86号

     目 次
ゲスト詩人;田口三舩
詩作品「有り体に言えば」

金井雄二
詩作品 ;「猫がまるくなって眠っている」
エッセイ 
「剃刀」




有り体に言えば

田口三舩

 

 

殺風景なわたしの部屋にも

少しは心やすまる飾りものはないかと

むかし訪れた外国の

古城の写真などを飾ってみたのだが

どことなくよそよそしい

あれこれ迷ったあげく思いついたのが

父と母の写真だった

 

それからしばらくたって

父の目線と母の目線が

微妙にくいちがっているのに気がついた

わたしは遠い日々をかき回して

父と母の汗臭い物語を探し出しては

睨めっこさせてみたり道化させてみたり

時には父と母の写真の横に

季節の花を置いてみたりもしたのだが

どうもぴったりしないのだ

 

いっそとり外して模様替えでもと

考えてはみたものの

父と母の写真 とり外した後の

ぽっかり空いたその格好が

泣きべそかいていたわたしの

心のかたちにそっくりなのである

有り体に言えば

ただそれだけのことで

目線が微妙にくいちがっている

色あせた父と母の写真

いつになってもとり外せないでいる










猫がまるくなって眠っている

金井雄二

 

 

 

 

 

予備灯をつけると

ほのかな明かりの中に

まる

まるくなって

眠っている

死んだばかりの死体を

ぼくはまだ見たことがないけれど

まる

まるくなったまま

死ぬことはあるのだろうか

みんな完全に動かなかったら

どうしようか

死んでからは

夢を見ないだろうが

眠っているときは

夢をみることもあった

まる

まるまっちいままの

猫は夢をみるのだろうか

ぼくは最近

眠っている感覚がない

横になったとたん

気がつくと目覚めたことにホッとしているからだ

そのあいだ

ぼくは死んでいるにちがいない

そう思うと眠るのがこわい

まる

まんまるの中にぼくも溶け込んでいく

 



 


剃 刀                  金井雄二

 

 

 小説の神様といわれた人は志賀直哉だ。当の志賀先生はどう思っていたのか知らないが、ほんとうにこの人の文章はうまい! と思うときがある。うまいと思うのと、作品が好きなのとはまた違う。ぼくにとっての志賀直哉という作家は、好きな作品と嫌いな作品が極端に分かれる作家なのだ。

 「剃刀」は好きな作品。その書き出しはすごい。

 

  麻布六本木の辰床の芳三郎は風邪のため珍しく床へ就いた。

 

 これが一行目だ。どこに住んでいる、何の商売の、男がどうしてしまったのか、まで一気に言っている。東京のど真ん中にある理髪店、そこの親方が病気で寝込んでいるという構図は、その後の不穏な成り行きを想像するに足りる書き方だ。状況の説明、イメージの喚起には申し分ない。「珍しく」という一言に、男の勤勉で、実直な性格まで表されているようだ。

 芳三郎という剃刀の達人が、風邪の影響もあってか、はじめてその使い方を誤り、客の咽喉元に剃刀を深く差し込み、殺してしまうまでのお話だ。

 「剃刀」という小説、ぼくはなぜ好きなのかというと、その細やかな描写にある。その一つに音だ。

 けたたましい硝子戸の開け閉ての音。寝床から声を出す芳三郎。だが、かすれて女房に聞き取れない。店の中の兵隊たちの話し声。その後の静まり返った店内。芳三郎のいらいらした声。剃刀を研ぐ音。赤児の啼く声。そしてやってくる静けさ。芳三郎が客の額に傷をつけるまでの静寂。ここの部分に緊張が走る。殺された客には悲鳴がない。死人のように静まり返る夜。

 音のイメージが、張り詰めるような緊張感を生んでいる。つまり、音だけをとりだしてみても効果はバツグンだし、それが自然な文体のなかから、かもし出されているのだから、脱帽としかいいようがない。

 もうひとつは色彩だ。

 昼間の情景。ばたばたした店内。そして、薄暗くなる夕方の光。夜が深まっていき、薄暗いランプの光。黄色い濁った光。風邪でほてった熱の色がわかるような気配がする。芳三郎が客に傷をつける場面では、その色彩の細かい描写はすばらしい。

 

  傷は五厘程もない。彼は只それを見詰めて立った。薄く削がれた跡は最初乳白色をして居たが、ジッと淡い紅がにじむと、見る見る血が盛り上って来た。彼は見詰めていた。血が黒ずんで球形に盛り上って来た。それが頂点に達した時に球は崩れてスイと一ト筋に流れた。

 

 引用したこの部分は本当にすごい文章だと思う。今、この時代からしたら、平明なだけで新しさのない文章と思われるかもしれないが、そうではない。この文章を書くには、言葉に対する真摯な態度がなければ出てこない。それは志賀直哉の時代も今の時代も同じこと。ましてや詩を書く人間には一番必要なことだと思う。

 

 詩に説明はいらない。一行をどのように保つのかはその人の考え次第だが、詩の一行は説明ではいけないのだ。詩の中には説明でない言葉が書かれなくてはならない。その意味で意味を飛び越えた言葉だ。単なる描写でもない。描写であっても描写の言葉の中から言葉では言い表せない一つの雰囲気を醸し出しているものでなければならない。音の描写が「剃刀」のなかには多々あった。音の大きい、小さいが分る。静寂が分る。そしてなにより、芳三郎の気持ちの揺れが音の描写によって分るのだ。志賀直哉はもちろん芳三郎の気持ちについて、苛々して、とか荒々しい、とか書いているが、その気持ちを本当にあらわしているのは、音だったり、色だったり、なのではないだろうか?

この文章の最初には「剃刀」の第一行を引用した。この一行は詩ではない。小説の一行だ。なぜなら完璧に説明をほどこしていることに尽きるからだ。ただ、言葉の性質から、いかに説明だけを施してもこの小説のイメージを決定づける要素は兼ね備えているのだ。

後半に引用した、傷から血があふれる文章。このリアリティは詩になりうるものだ。「剃刀」のなかでは小説の文章だが、この手法は詩として成立するのではないかと思う。

ぼくは作家の阿部昭が「短編小説礼賛」をだしてから、本格的? に志賀直哉を読んだ。「剃刀」もその影響で読んだ。志賀のありとあらゆる小説も。エッセイも。そして、志賀直哉は努力家だったと今、思う。「箱根山」と題された、小エッセイがある。これは志賀直哉が文章の勉強のために書いた、習作だと思う。眼に見えるものと見えないものを、いかに言葉にするのか。小説もエッセイも言葉について考えることはたいして変らないのだ。

それにしても志賀直哉大先生は日本の国語をフランス語にしたいという考えがあったようだ。本当にあなたはそのようなことを考えていたのでしょうか? 小説の神様は、日本語の本当の素晴らしさを知っていたのでしょうか?

 

 

 


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