鬼が来た!

 最近一番ビックリした事といえば、中国で開催されたサッカーのアジアカップにおける、中国人観客の大ブーイングである。
asiacup_chi サッカー試合におけるブーイングは日常的なものだし、クラシコと呼ばれるような試合では競技場全体がブーイングに包まれる事はさほどめずらしいことでもないけれど、自国の出ている試合でもないのに、特定のチームの、しかも国家演奏時にブーイングを浴びせるといったシーンはちょっと記憶に無くてビックリしたのだ。
 感情的で取り扱い注意な問題であることをふまえたうえで、今一度冷静になって考えると、より根本的な「ビックリした」原因が見えてくる。

 それは、恥ずかしいことだけれど、彼の地に対する理解と現状認識が全く甘くて足りなかったということだ。

 そりゃー戦時中に日本軍が行った行為であるとか、中国共産党による近代、現代史に偏った歴史教育であるとかはなんとなく知っていたつもりだった。でも日本国旗を焼いたりするシーンがニュースで流れる度に、「こういうことは彼の地でもごくごく一部の人たちがやっていることで、自虐的な日本のマスコミが針小棒大にとりあげているのだろう」などと思っていたのは、かなりの甘ちゃんであったとしか言いようがない。
 その後の政治家や知識人たちのコメントや発言をみるところ、甘ちゃんだったのは私だけではなかったようで、それはそれでトホホな話である。

 それにしても、「憎しみは新たな憎しみしか産み出さない」という古びた命題が、9・11以後の世界においてまたしても証明されていくのを見つめる日々の昨今、このような出来事があると改めて国家間の齟齬、軋轢について考えさせられ、無力感と裏表の暗澹とした思いにとらわれる。

 旧日本軍の中国における行為、憎しみの発生と連鎖については、「鬼が来た!」チアン・ウェン[2000]が印象に残っている。
 この映画は中国政府がカンヌ出品を違法だとし、さらに監督が修正要求に応じないため、いまだ本国で上映禁止の措置を受けているいわくつきの作品だ。
 チアン・ウェンは、「紅いコーリャン」「芙蓉鎮」の名演で知られる中国の俳優。映画監督としてのデビュー作「太陽の少年」[1994]は、世界中から賞賛されてヴェネチア国際映画祭主演男優賞、米TIME誌年間第1位など、数々の賞に輝いた。蛇足だが奥さんはフランス人で、本人もフランス語はペラペラらしい。
鬼が来た1
 この映画で、捕らえられて中国の寒村に監禁される日本兵・花屋小三郎を演じているのが香川照之(この人は三代目猿之助の息子さん。たしか東大卒なんだよね・・・)で、撮影後の彼のインタビュー記事の中に、非常に興味深いものがあったのを秘書サンディー(愛称)。MS社製のオフィスツールを小脇に抱えた才媛。本名は e-machines J4320 改。が見つけてきたので抜粋したい。

 チアン・ウェン監督「鬼が来た!」(中国)の撮影は、香川照之にとって衝撃的な体験となった。
 1998年8月12日17時45分、香川は北京空港に着いた。それから3日間、北京にある軍の宿舎で、台本打ち合わせ、衣装合わせ、文献・資料読み。その後北京から離れ、武装警察訓練基地で一週間の軍事訓練を受ける。真夏の太陽の下、“気を付け”30分を5回、1時間を1回。ランニング、担え銃訓練。その過酷な軍事訓練は、これから起こるハードな撮影のプロローグに過ぎなかった。

 「東京にいるときは花屋に近づこうと思い、役作りを考えました。しかし8月(1998年)に北京空港に降り立ったときから、余りにも僕の意志とは違う大きな波の中に飲み込まれてしまった。役を考える余裕もなく、与えられた状況をこなしていくうちに、花屋小三郎になっていた。僕の意図は全くそこにはありませんでした。日本で行われているような役作りなんて一切なく、いきなり一週間の軍事訓練、それ以降の撮影中に起こっていることも考えられないことばかり。まさに僕は極限状態に置かれ、花屋小三郎そのものになっていたんです」

 東京にいる香川には、花屋が突然刀を振り回すシーンなど、日本兵の振る舞いが理解できなかった。しかし、中国での過酷な撮影状況が、香川を次第に洗脳していった。

 「日本兵の行動の理不尽さ、悪さ、唐突さ。僕がまだ日本にいた6月とか7月に台本を読むでしょ。そのとき、なんでなの?と理不尽に感じた。しかし北京に入って、まず軍事訓練が僕の中ではものすごい体験になった。そしていざ撮影に入ると、これが本番なのかリハーサルなのかわからない、いつご飯になるのかわからない、解放されていいときも解放されない、今日の撮影がいつ終わるのかわからない、明日どんな撮影があるのかわからない、そんなことを毎日毎日毎日毎日繰り返していると、あの行動が理不尽でなく思えてきた。やはり中国人とはわかりあえないんだと。僕自身異常な状況に置かれて、理屈でなく、花屋たちが破壊を起こすのが普通なんだと。でも一年半後カンヌ映画祭でこの映画を見て、やっぱり理不尽だなと思いましたけどね」

鬼が来た2 顔を見せず『私』と名乗る男が、捕らえてきた日本兵と中国人通訳を村へ預ける。混乱に陥る村人と日本兵との言葉の壁が生むすれ違い。日本兵は死への恐怖の裏返しからわめき散らすのだが、身の危険を感じた通訳が罵詈雑言をわざと誤訳して伝える内容が、香川扮する日本兵の鬼気迫る演技とは裏腹にブラックな笑いを誘う。
 映画の内容と似たような状況が撮影現場にもあったらしい。

 「一応通訳はいるけど、監督は通訳する時間なんかぜんぜん気にせずに、どんどん進めていく。たまに通訳が訳してくれることがあるけど、“香川さん、監督はこう言ってます。でもぜんぜん気にすることないよ”と。僕は通訳の意見を聞いているわけじゃないのに、勝手に自分の意見を混ぜてくる。ただ中国語はわからなくても、監督は役者でもあるので、もっと深いところから声を出せ、こんな様に!そうした声のトーンでわかりました。言葉の苦労も、花屋という人間を追い込むのに役立ったという気がします」
                               『名古屋カルチャー通信』より転載

 人間が極限状態でとる行動には突発的なものが多く、さらにそこに集団への依存心理が働いた場合、倫理、論理が吹っ飛んでしまう事例には古今東西事欠かない。
 そういった行動そのものを正当化するつもりは勿論ないが、事例を検証する上で大切なのは、そこに至るそもそもの起因、そこに導いた外的、内的な要因を明らかにすることではないだろうか。
 「鬼が来た!」においては、顔も見せず『私』と名乗る男が、捕らえた日本兵と中国人通訳を村へ預けたまま連絡を絶つという行為が一つの起因であり、そこにはなんらかの意図があったとも考えられる。
 最後まで観客には正体が明かされることの無い『私』だが、華北という舞台設定などから『私』が当時の八路軍であることは明白であろう。イデオロギーの違いを超えて国民政府軍と共に抗日戦線を展開した八路軍だが、その組織力の強固さから、当初からゲリラ戦(中国語では麻雀戦!)や後方攪乱を担っていて、その捕虜工作、捕虜教育はきわめて意識的、組織的であり一貫性をもっていたらしい。1940年代に入ると国民政府軍との敵対構図がはっきりしたものとなり、日本軍の敗退後はその武器を摂取するなどして八路軍は軍備を整え、1946年国共内戦勃発後、再編成されて展開し、47年10月に現在の名称、中国人民解放軍と改めた。現在の中国政府は、その発展の歴史の中で日中戦争を戦いながら、同時に国民政府とも戦ってきたわけである。
 この映画が本国で上映禁止の措置を受けているのは、つまり上記の歴史の上で触れられたくない点にこの映画が言及しているからに他ならない。監督が修正に応じない部分というのは容易に想像がつくではないか。
 火が無いところには確かに煙は立たないが、世の中には自分(あるいは自分たち)の利益の為に平気で他人の家に放火したり、隠れて油を注いだりする魑魅魍魎どもが跋扈しているのだ。

チェチェン地図 この雑文を書いている最中に、ロシア南部の北オセチア共和国で、学校が占拠されて人質となった子供達ら330人以上が死亡するという大変なテロ事件が発生した。依然200人以上が行方不明らしい。犯人グループはチェチェン独立強硬派と見られるとの発表があった。なんか重い話ばかりで、筆も進まず気が滅入るのだが、「事例を検証する上で大切なのは、そこに至るそもそもの起因、そこに導いた外的、内的な要因を明らかにすること」って書いたのは誰だったっけ?

・ 18世紀後半、南下政策をとる帝政ロシアはチェチェン人の住むカフカス地方を軍事的に侵略して併合した。以来この地域は現在に至るまで石油、農畜産物、兵役などロシアが必要とする資源の供給源となってきた。

1942年北カフカスはナチスドイツの占領下にはいる。

・ 1944年2月、独ソ戦争のさなか、スターリンは約50万人のチェチェン人、イングーシ人を、対独協力の口実で、ほとんど一夜にしてカザフスタンへ移住させた。この50万人は、チェチェンに戻った時には半減していたと言われる。

・ 20世紀後半になってソビエト連邦崩壊後、独立を求めるチェチェンはロシアと対立。当時のエリツィン大統領のもと、ロシアは大規模な軍事作戦を遂行して、約70万人のチェチェン人のうち8〜10万人が死亡したとされる第一次チェチェン紛争が起こった。

・ 96年にいったん戦争は終わり、このとき結ばれた「ハサブユルト和平合意」では、チェチェンの国家としての地位は5年後の2001年に再度検討されるはずだった。

・ 99年春、チェチェンとロシアの定期会談がストップ。8月7日、チェチェンのイスラム原理主義者といわれるシャミーリ・バサーエフ野戦司令官らが、隣国ダゲスタンに、ロシアの支配からの開放と称して侵攻した。8月31日から、モスクワなどの都市では大規模なアパート爆破事件が続発し(計五件、死者約300人)、ロシア政府はすべてチェチェン人の犯行で、犯人たちはチェチェンに逃亡と発表(しかし犯行声明はいまだに何処からも出されていない)。この二つの動きを受けて、9月23日、ロシア政府は「テロリスト掃討」のため、再びチェチェンへの空爆を開始して、第二次チェチェン紛争が始まる。

チェチェン2・ 1999年9月以来、ロシア、チェチェン両軍の間で激しい戦闘が続き、チェチェンの首都グロズヌイは無差別爆撃によってほとんど廃墟となった。駐留ロシア軍の規律は乱れ、民間人への暴行・略奪は日常茶飯事となっている。

・ 20万人以上が周辺国へ難民として流出して今なお帰還は進んでおらず、難民たちはキャンプの強制閉鎖といった厳しい状況に現在直面している。

・ 2002年10月、チェチェン武装勢力がモスクワの劇場を占拠。26日、特殊部隊が突入して犯人一味を射殺、人質を解放。その際に使用された特殊ガスの影響により人質多数が死亡。

・ 2004年5月、親ロシア派のカディロフ大統領が爆殺される。

・ 同8月、ロシアの旅客機2機が同時に墜落し、後日当局はテロと断定。

・ 同9月1日、ロシア南部の北オセチア共和国で、学校が占拠されて人質となった子供達ら330人以上が死亡するというテロ事件が発生。


 若者は教育を受けることも出来ず、武器の扱いだけに詳しくなり、自暴自棄のテロへと走る。
 「ロシア政府は何千人ものチェチェン人を人生に意義を見いだせない状態まで追い込んでいる」(独立派を率いるマスハドフ前大統領)
 
 一昨年10月、モスクワ市内の劇場占拠テロ事件の50人の犯人たちのほとんどは20代前半の若者だった。うち18人は女性。多くは爆破装置を体に巻き付けていた。彼らは治安部隊との戦闘で死ぬことが望みだった。
「私の夫も子供もロシア人に殺された。私にはもう何も無い。一人でも多くロシア人を殺して、夫と子供のところにいく」(犯人グループの女性)

 ロシアでは南部カフカス地方の北オセチア共和国の学校占拠事件で反カフカス感情が高まり、チェチェン人を含むカフカス系市民に対する襲撃や暴行が相次いでいる。
 モスクワ市の地下鉄駅付近で九日夜、巡回中の警官二人が男性を職務質問、「チェチェン系の姓」を持つロシアの英雄で宇宙飛行士のトルボエフ大佐だと知りながら殴るけるの暴行を加えた。二人の警官は「黒人(ロシア語でチョールヌイ、カフカス系の卑称)野郎はここ(ロシア)から出ていけ。仲間にも絞め殺してやると伝えておけ」とののしっていた。
 ウラル地方のエカテリンブルク周辺では同夜、グルジアやアルメニアなど異なるカフカス系市民が経営する四つのレストランがほぼ同時刻に襲撃され、このうち三軒が全半焼。一人が死亡し、四人が重軽傷を負った。(産経新聞) 

 アゼルバイジャン共和国バクー市にあるチェチェン人難民学校の6年生生徒たちが綴った、日本の小学生たちから届いた手紙への返信。

 「戦争のせいで僕たちは望みもしないのに生まれ故郷を離れました。故郷を捨てざるを得なかったのです。僕たちはテロリストじゃありません。きちんとした人間です。 もし戦争が終わったらとってもきれいだと言われているあなた達の国、日本に行けたらなあと思っています。お元気で、ごきげんよう。 僕たちのところではヘリコプターからおもちゃが投下されます。そのおもちゃを拾うと爆発して手も足も残らず木っ端みじんになります。とても怖くて気が狂いそうです。 あなた方のことは一生忘れません。」

 「あなたが私達の心に同情を寄せてくれると知ったとき、とてもうれしかったです。
私達にとっては、別の民族が私達のために心配してくれているということがわかるだけで、とてもうれしく感じます。
皆さんの国には戦争がないと知って、私はうれしいです。
そして、皆さんの国にこれからも戦争がないことと、皆さんの顔にいつまでも笑顔が残ることを神様にお願いします。
よりよい幸せを願います。」 

 今は、9月11日の深夜だ。