ゲティスバーグ演説の翻訳  トップページへ


リンカーン ゲティスバーグ演説     1863.11.19

katokt訳(katoukui@yahoo.co.jp)

© 2002 katokt プロジェクト杉田玄白正式参加作品(http://www.genpaku.org/)
本翻訳は、この版権表示を残す限りにおいて、訳者および著者にたいして許可をとったり使用料を支払ったりすることいっさいなしに、商業利用を含むあらゆる形で自由に利用・複製が認められる。(「この版権表示を残す」んだから、「禁無断複製」とかいうのはダメだね、もちろん)

アメリカ ペンシルバニア ゲティスバーグ近くの戦場にて

87年前に、われわれの祖先はこの大陸に新たな国を作り上げました。その国は自由という理念の上に打ち立てられ、全ての人は生まれながらにして平等であるという考えに捧げられていました。

いまわれわれは大きな内戦のさなかにいます。この国が、というより自由という理念の上に打ち立てられ、全ての人は生まれながらにして平等であるという考えに捧げられた国が、永続するかどうかを試されているのです。われわれは、この戦争の激戦の戦場に集まっています。

われわれは、この国が生き永らえるよう、ここで命を投げたした人々にとって、この戦場の一部を最終的な安息の地として捧げるためにやってきました。われわれがこうすべきなのは、まったく正しく適切であります。

しかし、より大きな意味でとらえれば、われわれには捧げることはできません、われわれには呈することはできません、つまりわれわれにはこの地を捧げることはできないのです。勇敢なる者で、生き残ったにせよ、戦死したにせよ、ここで奮闘したものだけが、この土地を捧げてきたのです。われわれの微力では、それにつけ加えたり減じたりすることはできないのです。世界はここでわれわれが言ったことにはたいして注意を払いもしなければ、後世まで記憶することもないでしょう。しかし勇敢なるものがここでなしとげたことは、決して忘れられることはないのです。

ここで戦ったものがこれまで気高く推し進めてきた未完の仕事に、ここで新たに身を捧げるのはむしろ生き残ったわれわれです。ここでわれわれの前に残されている大事業に、ここで身をささげるのはむしろわれわれなのです。その大事業とは、われわれがこれらの名誉の戦死からいよいよ決意をもって、戦死者が全力をもって身を捧げた大義へと身を捧げることです。その大事業とは、これらの戦死者の死を無駄にしないようにと固く誓うことです。その大事業とは、神の庇護のもとにこの国に新たな自由が生まれるようにすることです。その大事業とは、人民の、人民による、人民のための政治をこの地上から滅びないようにすることなのです。

あとがき

さて、波風のたたないところにわざわざ波風を。

プロジェクト杉田玄白(http://www.genpaku.org/)にはご存知の通りすでにゲティスバーグ演説は登録されているわけ(http://www.genpaku.org/lincoln/lincoln01.html)。

そこのあとがきでは「government of the people, by the people, for the people」についてかかれているけど、ぼくは山形さんから直接同じ意味の指摘を以下のようにもらっている。

ゲティスバーグ演説は、プロジェクト杉田玄白にもすでに入っていて、そこにも書いたけれど、ぼくはあの最後のところの「of the people」の部分を「人民の」と訳すのは意味不明でよくないと思っています。「人民の政治」というのは、一見もっともらしいけれど具体的に考えると何のことやらわからないでしょう。
 
 玄白訳でもコメントしたように、あれは「人民を統治(govern)すること」、つまり統治の対象となるのが人民であることを明記したもんです。ふつうの「人民の人民による人民のための」だと、最初の「人民の」は意味不明で、後者の、権力をふるうのが人民で、受益者が人民だ、というのだけが意識に残るけれど、実際にはその統治によって権力をふるわれるのも人民なんだ、というのもあわせてきちんと言っているわけです。
 
 ご承知だったかもしれませんが、いまのkatok訳だとそれが弱いな、と思ったもので。

取り急ぎ。 

 おぉ、そうなんだ。やっぱり政治家たるものみんなの耳に優しいことだけ言ってるわけじゃない、と感心してたんだけど、記憶っていうのは恐ろしいもので昔なんかこの件について聞いたことがあったなと。

で結論から言えば、ぼくは「of the people」は人民が統治の対象って意味ではなく、人民が統治する権利をもってるという意味の「人民の」だと考えています。

ただもちろんこんなことは常識に属することで、「これこれ」を読めばちゃんと説明されてるよってことであれば、ご教示いただければ、すぐにでも修正するのにやぶさかではありません。

さてぼくが上記のように判断した理由を2つ。

1.リンカーンのこの演説は、歴史的に以下の2つの演説の流れにあること。

Daniel Webster. (1782-1852)

The people’s government, made for the people, made by the people, and answerable to the people.

Second Speech on Foot’s Resolution, Jan. 26, 1830. P. 321.

Theodore Parker. (1810-1860)

A democracy, that is a government of all the people, by all the people, for all the people; of course, a government of the principles of eternal justice, the unchanging law of God; for shortness’ sake I will call it the idea of Freedom.

The American Idea: Speech at N. E. Anti-Slavery Convention, Boston, May 29, 1850.

もちろん違う人の、違う演説だから直接の証拠にはならないけど、特に一つ目の演説の「of the people」にあたると思われる「The people’s government」で人民を統治の対象とみなすのは少し無理があると。

それから、二つ目の演説にもある democracy の語源をチェックすると ギリシャ語:democratia = demos(people、人民)+cratos(power、力)

なんてところですか。つまり民主主義は、語源からいえば人民が(統治する)力をもつことをいってるわけ。二つ目の演説も民主主義を定義していて、その government of the people も「人民が統治する力をもつ」って意味で、よって「人民の政治」ということになると。

2.統治する権利をもっているのは誰?

山形さんは先の訳(訳自体は岡田晃久さん)の注でもこう書いている。

アメリカ建国以前の政府というのは、人民(という統治される対象)を、官僚や貴族たち(という統治する主体なり実体)が、王さまや教会(という統治の旗印なりなんなり)の利害のために支配する、という形態だったわけだ。それとの対比で考えてもらうと理解しやすいかと

アメリカ建国以前の政府は、人民を統治する権利を王さまや教会がもってて、統治をじっさいに行うのが官僚や貴族達。誰のための統治かって、そりゃ王さま、教会、官僚、貴族達の利害のためだったわけだ。

すると以後は、人民を統治する権利を人民がもっていて、統治をじっさいに行うのも人民で、誰のための統治かってそりゃ人民の利害のためだよって解釈が「人民の、人民による、人民のための政治」って訳になる。

そして、そう考えないとアメリカ建国前後で、3つの状態がどう変わったのかを人民に強く訴えかけることにならないかと思うんですが。

いかがなものでしょう。きっとまた自分の無知と英語&日本語読解力のなさをさらしたんだろうなぁ。それにしても本文より長いあとがきなんて...

先頭に戻る