ジキルとハイド
Robert Louis Stevenson
Katokt(
© 2001 katokt プロジェクト杉田玄白(http://www.genpaku.org/)正式参加作品
本翻訳は、この版権表示を残す限りにおいて、訳者および著者に対して許可をとったり使用料を支払ったりすることいっさいなしに、商業利用を含むあらゆる形で自由に利用・複製が認められる。(「この版権表示を残す」んだから、「禁無断複製」とかいうのはダメ)
ドアにまつわる話
アターソン氏は弁護士で、いかつい顔をしており、ついぞ笑った顔を見せたことがなかった。話すときも冷たい感じで、言葉少なめにもごもごと話すといった具合だった。背が高くやせており、そっけないものうげな男だったが、どこか憎めないところがあった。内輪の会合で、ワインを口にしたときなどは、隠し切れない人間味がその目からうかがえたものだ。こうした感じは、話しぶりからは決してうかがえないのだが、夕食後の顔に声には出ないものとして見出せるだけでなく、日常生活の行動の端々にしばしばうかがえるのだった。節度のある男で、一人のときは高いワインを控えてジンを飲むくらいだったし、芝居好きにもかかわらず、劇場の門をくぐったことは20年もないほどだった。しかしみなも認めるように、他人には寛大だった。人が不始末をしでかしてひどく意気消沈していると、ときどきうらやましいとばかりに驚き、本当に困っているときには非難するどころか助けてやるのだった。
「私は、カインの反論には同感だな」ともらしたりして、「私は自分の兄弟だって、本人の趣くままに地獄にだって行かせるよ」といった風に言うのだった。こういう性格なので、よく堕落していく人の人生に最後まで良く付き合い、いい影響を与えるめぐりあわせになったりした。そしてこれらの人が、彼の事務所に姿を現しても、まゆ一つしかめるでもなかった。
疑いもなく、こういったことはアターソン氏にはなんでもないことだった。なぜならできるだけ外に感情を出さないようにしていたし、友情さえ同じような寛大な性格の上に築かれたものだったから。つつしみ深い人の常として、機会があったときの交友範囲を受け入れ、この弁護士の流儀も全くそのとおりだった。友達は、親戚か長い間の知り合いかのいずれかというわけだ。友情は、つたのように、長い時間をかけたもので、友達としてふさわしいかどうかは別問題だった。したがって疑いなくリチャード・エンフィールド氏との交友関係もこのようなものだった。彼は遠い親戚で、町の名士だった。多くの人には、この2人がお互いをどう思っているのか、どんなことを共通の話題にしているのかは、ちょっとした謎だった。日曜の散歩で出くわした人が話すのによれば、2人はだまってつまらなそうで、友達にでも会うと明らかにほっとしたように挨拶をするらしい。それにもかからわず、2人はこの散歩を非常に大事なものと考えていて、毎週をかざりたてる物のように思い、散歩をじゃまされずに楽しむためなら、他の娯楽をかえりみないばかりか、必要な用事もそっちのけなのだった。
そんな散歩をしていたときに、たまたま2人はロンドンの繁華街の裏通りにさしかかった。道はせまく、まあ閑静であるといってよかったが、ウィークデーにはまずまず商売も繁盛しているようだった。住人はみな金持ちらしく、見栄えがよいように、かせぎの余剰が装飾につぎこまれているのだった。だから店がならんで競い、客を誘う様子は、微笑みながら売り子が列をなしているようにも見えた。日曜日なのでばら色の容色はベールでおおわれ、人通りもすくなかったが、それにもかかわらず森の中の火事のように目をひき、薄汚れた近辺とはくらべものにならなかった。塗りたてのシャッターやみがきあげられた看板、そしてとにかくきれいで、ひどく艶やかな感じがして、すぐ通る人の目をひきつけ楽しませるのだった。
東にむかった左手の、ある角から2軒目で、家並みは中庭への入り口で途切れていた。そしてちょうどその場所に、ある不吉な感じの建物がその屋根を道に向かって突き出していた。2階建てで、1階には入り口が1つきりで、2階にも前面には窓がなく、壁もよごれていた。それはどこからみても、長いあいだ無頓着にほっておいたしるしとしか思えなかった。ドアにはベルもノッカーもなく、さびがでて変色していた。浮浪者たちはくぼみにかがみこんで、壁でマッチを擦っていた。子供たちは階段で店番をしたり、建物の出っ張ったかざりでナイフを研いだりした。
エンフィールド氏とアターソン氏はその裏通りの道の反対側を歩いていたが、その家の入り口のすぐ近くにくると、エンフィールド氏がステッキをもちあげ指し示した。
「あのドアに気づいていましたか?」エンフィールド氏はたずねた。そしてアターソン氏がうなずくと、「とても奇妙でかわった話があるんですがね」とつけ加えた。
「本当かい?」アターソン氏は少し声の調子をかえて言った。「で、何なんだい?」
「あぁ、こんな調子です」エンフィールド氏は答えた。「私はどこか果てしなく遠いところから、家にかえるところでした。真っ暗な冬の夜明けの3時くらいで、帰る道すがらではまさしく街灯以外で見えるものは何もないんです。どこまで行っても、街はすっかり寝静まっていて、どこまでいっても、教会での行列のようにあかりがともり、それでいて教会みたいにがらんとしていたんです。とうとう私は耳を熱心にすましながら、警官の一人でも目に入らないかと強く望みはじめる気持ちになりましたよ。そうするとすぐに、私は2人の人影を見ました。一人は小さな男で急ぎ足で東へとどんどん歩いていき、もう一人はたぶん8才か10才の少女で大きな道と交わる横道を息せき切って走ってきました。それでです。その2人が角で、もちろんぶつかってしまったんです。それからが、この話の恐ろしいところです。というのも、その男は平然と、子供の体の上を踏み越えていったんです、子供を地面につっぷして泣き叫んだままにしてね。なんでもないことに聞こえるかもしれないですが、見ていればまるで地獄といった感じです。人のすることじゃないです。あの忌まわしいクリシュナ神みたいなものですな。私は大声をあげて、逃げようとしたその男にタックルし、そのときにはすでに大勢が取り囲んでいた泣き叫ぶ子供のところまでその男をつれていきました。その男は落ち着きはらって、抵抗らしい抵抗もしませんでした。私の方を一べつしたんですが、その醜いことといったら、おもわず汗が流れ落ちるくらいものでした。その少女の家族のものも往来にでてきて、すぐあとに少女が呼びにいかされた医者が姿を現しました。そして、その医者が診たところ、少女のけがはひどいことはなく、ただひどく驚いているということだったんです。これで一件落着と思われるでしょう。でも、まだ一つだけ不思議なことがあるんです。私は一目見てその紳士がいけ好かないやつだってことは分かりましたし、子供の家族もそうだったのは、当然のなりゆきでしょう。でも医者のようすが、私の心をひどくゆさぶりました。その医者というのはどこにでもいるような薬剤師で、年格好にもこれといって特徴はなく、ひどいエジンバラ訛りがあったんですが、ただバグパイプとおなじくらい感情的な男でした。だから彼ときたら、私たちと全く同じ気持ちだったんです。私がつかまえた男をみるたびに、その医者は殺してやりたいとばかりに顔色をかえました。気持ちが手にとるようにわかりました。私とまったく同じです。殺すなんていうのは実際には出来ない相談だから、次善の策をとりました。この男にこういってやったんです。このことをスキャンダルにして、ロンドンの隅から隅までおまえの評判を貶めてやると。それからもしおまえに友達なり信用なんてものがあるとしたら、それらを失うことはうけあってもいいとね。そのあいだ、私たちは激怒してそうまくしたてながらも、女性たちはできるかぎりその男には近づけないようにしました。というのも女性たちもギリシア神話に出てくる怪物のハルピュイアみたいに手におえない状態でしたから。あんなに険悪な集団は見たことがありませんよ。しかもそのまんなかにいる男は、なんというか平然と悪意のこもったうすら笑いをうかべているんですから。もちろんあせってはいるんでしょうが、私にはそれがわかりましたよ、でも平然とやりすごそうとしてるんです。まったく悪魔ですよ。その男がいうには“もし君たちがこの事件に乗じようとしてるなら、私にはまったくもってどうしようもない。紳士なら醜態はさけたいものだし、金額をいいたまえ”ですから。そして私たちも子供の家族のために、100ポンドをしぼりとってやりました。その男は明らかにがんばり通そうともしましたが、私たちが多勢に無勢でやっかいとでも思ったんでしょう、とうとう折れましたよ。次の問題はどうやって金を回収するかです。そこで、その男がどこに私たちをつれていったと思います、他でもないあのドアの場所ですよ。鍵を取り出すと、中に入って、すぐに10ポンドぐらいと持参人払いの小切手をもってもどってきました。その小切手のサインの主は、私の口からは名前をいえないような、まあそれがこの話の重要な点の一つなんですが、少なくとも著名人でよく新聞にものる人なんですよ。金額も大きいが、署名が本物なら、それ以上でも問題なかったでしょう。私は傍若無人にも指摘してやりました。一体どうなってるんだと、ふつうの生活では、朝の4時に地下室のドアみたいなところに入っていって、他人が署名した100ポンド近くもの小切手をもってくるなんてありえないぞとね。でもその男ときたら落ち着きはらって、にやにやしているだけなんです。“落ち着きたまえ”なんていうんですから、そして“銀行が開いて、自分で小切手を現金化するまで、いっしょにいてやるから”と続けたんです。そこで私たちは、医者も、子供の父親も、その男も私も連れ立って、私の部屋で朝までを過ごしました。次の日になり、朝食をとって、そろって銀行にでかけていきました。私は自分でその小切手をさしだして、どうにも偽造らしいと思うんだがと言いました。でも、偽造ではなかったんです。小切手は本物でした」
「ちぇ、ちぇ」アターソン氏は舌打ちした。
「どうやら、私と同じ気持ちですな」エンフィールド氏は言った。「そうです、ひどい話ですよ。話にでてきた男ときたら、まあ、相手にする人はだれもいません、憎むべきやつです。そして小切手に署名した人は、本当の財産家で、有名人、なお悪いことには、いわゆる高潔なことをしているあなた方の仲間の一人でもあるわけです。恐喝、だと思います。正義の士が若気のいたりかなにかで、目の玉が飛び出るほどの金額を払ってるんですよ。あのドアの家を、私は恐喝の館と呼んでます。そうだとしても、もちろん全部が全部説明がつくわけでもないですが、」とつけ加えたが、その後、もの思いにふけってしまった。
アターソン氏がややだしぬけに質問すると、エンフィールド氏はもの思いから覚めた。「小切手の署名をした人が、そこに住んでるかどうかは知らないのかい?」
「ありそうなことです」エンフィールド氏は答えた。「たまたま私は、その人の住んでるところを知ってるんです。どこかの街区に住んでたと思います」
「君は、あのドアの場所については尋ねたことはないんだね?」アターソン氏は聞いた。
「いいえ、私にも慎みってものがありますから」というのが答えだった。「いろいろ質問するには、強い抵抗があるんです。最後の審判の真似でもするみたいじゃないですか。一つでも質問をはじめれば、一つの石を転がすようなもので。自分は、丘の上に静かに腰かけてね。そして石は転がって、他の石を巻き込んでいく。やがて思いもよらないような、穏やかで年とった人が自分の裏庭で頭に石が当たってしまう。そしてその家族が名前を変えなければならない。いやいや、私は自分に規則を課しているんです。困っているように見えれば見えるほど、私は質問をしないことにしてるんです」
「いい規則だとも」アターソン氏は言った。
「でもその場所については、私なりに調べてみました」エンフィールド氏は続けた。「家には見えないくらいです。他にはドアはないし、あの男がほんの稀に出入りする以外には、出入りするものもなし。2階には中庭に向けた窓が3つあるが、1階には1つもない。窓はいつも閉め切りだが、きれいに磨かれている。それから煙突があってそこから煙がでているので、誰かが住んでるにちがいないんだが。とにかくはっきりしません。あのあたりは区画がごちゃごちゃしていて、どこからどこまでが1軒かわからないくらいです」
2人は再び黙って歩き始めた。それから「エンフィールド君」とアターソン氏が口を開いた。「君のあの規則はいいね」
「あぁ、そう思います」エンフィールド氏は答えた。
「そうなんだが、」アターソン氏は続けた。「一つだけ質問してもいいかい。私は子供を踏み越えた男の名前が知りたいんだ」
「いいですよ」エンフィールド氏は答えた。「別に問題もないでしょうし、ハイドというのがその男の名前です」
「ふーむ」アターソン氏は言った。「外見はどういった感じなんだ?」
「なんとも言いがたいんです。外見に、どこかしら邪悪なところがあるんです。不愉快な、まったく憎悪すべきところが。あんなにむかむかさせる男には、今まで会ったことがない、どうしてむかむかさせるのかはさっぱりわかりません。どこか奇形なところがあるに違いありません。奇形といった感じを強く与えるんです。どこが、ということはいえないんですがね。まったく途方もない外見の持ち主で、私にはなんとも言葉で言い表しようがないんです、えぇ、まったく出来ません。表現しようがないんです。忘れたわけではなく、今でも目の前にその姿がありありと浮かぶくらいなんですがねぇ」
アターソン氏は再びだまって歩き出すと、明らかに深く考え込んでいるようだった。
「確かに、その男が鍵をつかったんだね?」アターソン氏はとうとう、そう尋ねた。
「いったい、」エンフィールド氏は驚いてわれを忘れ、そう口走った。
「あぁ、わかってる」アターソン氏は言った。「変に思うのはね。実際、私がもう一方の名前を尋ねないのも、私には分かってるからなんだよ。リチャード、君の話で合点がいったよ。もし少しでも不正確な点があれば、訂正してくれないか」
「前もって言ってくれればいいのに」エンフィールド氏は、いくぶんむっとして答えた。「あなたの質問に答えておけば、学者ほども正確な話をしましたとも。その男は鍵を持っていました、それどころか、今でも持っていますよ。私はその男が鍵を使うところを、この一週間以内にも見たんですから」
アターソン氏は深いため息をついたが、何も言わなかった。エンフィールド氏はすぐに口を開いた。「なにも言わないことというのが教訓ですね。長々とお話しして恥ずかしいばかりです。この話には二度とふれない約束をしましょう」
「そのとおりだ」アターソン氏は言った。「約束のしるしとして握手しよう、リチャード」
ハイド氏をさがせ
その晩に、アターソン氏は憂鬱な気分で一人きりのわが家にもどり、暗澹たる気持ちで食卓についた。食事が終ると、だんろの側に座って、無味乾燥とした神学の本を読書台にひろげて読むのが日曜の晩の習慣だった。それはだいたい近所の教会の12時の鐘がなるまでで、それから厳粛に神に感謝をささげ、床に向かうのだった。しかしながらその夜は、食卓のテーブルクロスを片付けると、ろうそくを持って事務室へと入っていった。そこで金庫をあけ、そのなかでも一番プライベートな場所から、ジキル氏の遺言と封筒に裏書された文書をとりだした。そしてその中身を調べるために、まゆをひそめ座りこんだ。遺言は自筆でかかれたもので、というのはアターソン氏はジキル氏の遺言の作成の管理を引き受けていたのだが、その遺言を作るのに少しでも協力することは断ったのだ。その遺言には、医学博士、民法学博士、法学博士、王立協会会員等たるヘンリー・ジキル氏が死亡した場合には、すべての所有物を“友人であり、恩があるエドワード・ハイド氏”に譲ること、ただしジキル博士の“3ヶ月を越える失踪や行方不明”の場合にも、前述のエドワード・ハイド氏は、ヘンリー・ジキル氏の財産を、遅滞なく、また少額を博士の使用人たちに払う以外はなんの障害も妨害もなしに引き継ぐこと。この書類は弁護士にとっては、このうえなく不愉快なものだった。弁護士としても、人生の正しい慣習に従うことを愛するものとしても、もっとも奇抜といえるようなこれは、不快以外のなにものでもなかった。そして今まで、ハイド氏を知らなかったことも怒りに火をそそいでいた。さて、一転して、その男を知るようになったわけだ。名前が名前だけでそれ以上知らないときは、十分悪いことのように思われたが、その忌まわしい人柄がわかるといよいよ始末におえなかった。そして長い間、目の前にもやもやとしてきた想像上の霧がはれ、とつぜんはっきりした悪魔が姿を現したわけだ。
「気が狂ってるとしか思えん」アターソン氏は、不快になる書類を金庫にもどしながら言った。「不名誉なことにならなければいいが」
そうしてから、ろうそくを吹き消した。外套をはおって、キャベンディッシュ街に出かけていった。そこは医学の中心地なのだが、友達のラニョン医師が居をかまえていて、押し寄せる患者に対応していた。「誰か知っているものがいるとしたら、ラニョンだけだろう」と考えたのだった。
厳粛な執事がアターソン氏と認め、中へとおしてくれた。
少しも待たずに、直接食堂に案内され、そこではラニョン医師が一人ですわってワインを傾けていた。ラニョン医師は親切で、体も丈夫、こざっぱりとした赤ら顔の紳士で、もじゃもじゃの髪の毛はそんな年でもないのに白くなっており、騒々しく、断固たる性格の持ち主である。アターソン氏が目に入ると、ラニョン医師は席から立ち上がり、両手をひろげ歓迎した。その歓迎は、いつものことだったが、芝居がかってみえるのだが、心からの気持ちにまかせたものだった。2人は学校、大学を通した古くからの友人で、それぞれ自尊心もつよかったが、お互いも同じくらい尊敬しあっていた。そして必ずしもそうとは限らないことも多いのだが、お互いの交際を心から楽しむのが常だった。
何ということはない会話を少しした後、弁護士は先ほどからあれほど不愉快に心を占めていた話題の方へ話をふった。
「私が思うには、ラニョン君」アターソン氏は言った。「君と私はヘンリー・ジキルの一番の古くからの友達だろ?」
「その友達とやらが、もっと若ければよかったんだがなぁ」ラニョン医師は含み笑いをした。「でもそうだと思う。それがどうかしたのかい? 私は最近はほとんどジキルとは会ってないんだが」
「本当かい?」アターソン氏は言った。「私は、君たちが同業者としてのつながりがあると思ってたが」
「かつてはね」というのが答えだった。「でも10年来になるかなぁ、私からみるとヘンリー・ジキルが少し空想にふけるようになったと思うんだ。間違った方向へ行ったんだ、精神的にね。そうはいっても、もちろん昔のよしみで注意は払ってきたんだが、ほとんど会ってない。あんな非科学的なたわごとをいってるようでは、」医者は顔を真っ赤にしてつけ加えた。「デーモンとピシアスだって断交しただろうよ」
このちょっとした気分の高揚は、アターソン氏にはいい気休めとなった。「2人はなにか科学上の問題で衝突しただけなんだ」と思ったのだ。そして科学にはまったく興味がなかった(財産譲渡証書以外は)ので、こうつけ加えたくらいだった。「それだけのことか!」それから友達が平静をとりもどすのを待って、自分がたずねようと思っていた質問へと移った。「彼の弟子というか、ハイドという男を知っているかい?」
「ハイドだって?」ラニョンは答えた。「いや、聞いたこともないな、私は」
そして弁護士がその大きな暗いベッドまで持ち帰った情報は、これだけだった。ベッドでアターソン氏はあちこち寝返りをうち、そうこうしている間に朝になってしまった。まったくの暗闇のなかで、心は乱れに乱れ、まんじりともせず、次から次へと疑問がわきおこるのだった。
都合がよいことに、アターソン氏の住居のほど近くの教会の鐘が6時をうったが、アターソン氏はまだその問題をあれこれ考えていた。これまでは合理的な方面だけから検討してきたのだが、今や想像力までが借り出されていた、というより想像力にとりつかれたようになっていたのだ。全くの夜の闇の、カーテンを引いた部屋の中で横になり寝返りをうっていたが、エンフィールド氏の話が心の中で目の前を映画のように流れていった。夜の街にたくさんの街灯が並んでいるのが見え、一人の男が急ぎ足で歩いている。そして子供が医者の家から走ってきた。2人はぶつかり、人間の姿をしたクリシュナが子供を踏みつけて、悲鳴もかまわず通り過ぎていく。または、裕福な家の一室が見えた。友達がぐっすり寝ている。夢をみながらその夢に微笑んでいる。そのとき部屋のドアが開けられる。ベッドのカーテンがさっとひっぱられて、眠っているものも起こされる。そして、見よ! 寝ているものの側に力をもった一人の男が立っている。そして友達はこんな真夜中にでも、起きて命令に従わなければならない。この2つの場面の男の姿は一晩中、弁護士を悩ませた。そしてうとうとしようものなら、その男の姿が寝静まる家から家へとこっそり忍んでいくのだった。そしていよいよ早く、いやさらに早く、目にもとまらないほどの速さで、街灯が照らし出す広い迷路の中を走っていき、街角という街角で、子供とぶつかっては、悲鳴をあげるのもかまわず、その場を去るのだった。そしてその姿では、見分けられるような顔がないのだ。夢のなかでさえ、顔がない、というか当惑させるような顔で目の前で消えうせていくのだった。従って、弁護士の心のなかには、特別強い、ほとんど極端といってもよいような本物のハイド氏の姿をみたいという好奇心が、わきおこり大きくなっていった。もしひと目でも見ることが出来れば、たいがい不思議なことがよく調べればそうなるように、この不思議さも明らかになり、解消するだろうと考えたのである。そうすれば友達の奇妙な特別待遇というか、苦しい境遇(なんといってもよいが)、そしてびっくりするような遺言の条項の理由がわかるだろうと思ったのだ。少なくとも、顔を見ておく価値はあるだろう。その男の顔は、心に慈悲をもたないもので、感じやすいとはいえないエンフィールドにさえ、長くつづく憎悪を引き起こさざるえない顔だったのだ。
そのときから、アターソン氏は店のならぶ裏通りのあのドアへしばしば通いはじめた。仕事に出かける前の朝早くや、仕事に追われ暇のない昼間、そして霧にけむる月の夜の街に、どのような光の下でも、人通りがないときも雑然としているときも、弁護士は決まった場所に姿を現すのだった。
「やつがハイド氏なら(隠れるなら)」アターソン氏はこう考えたものだった。「私はシーク氏になってやる(見つけてやる)」
そしてとうとう我慢が報われた。雨が降ってない天気のいい夜だった。霜がおり、道は舞踏場のようにぴかぴかだった。街灯は風も吹かないので、ぴくりとも動かず、一定の明かりと影を投げかけていた。10時になると店は閉まり、その裏道は人通りがなくなり、ロンドン中から低い唸るような音が聞こえてきたにもかかわらず、とても静かだった。小さな音でも遠くまで響き渡り、家々から聞こえてくる家庭内での音も、道の反対側でも聞いてとれるくらいだった。通行人の近づいてくる音も、姿がみえるずっと前から聞こえてきた。アターソン氏はしばらくその場にいたが、奇妙な軽い足音が聞こえてきた。夜のパトロールにおいてアターソン氏は特定の人物の、その人がどんなに遠くにいようとも、その風変わりな足音におなじみになっていた。突然、その足音が街のざわめきや騒々しさから際立ってはっきり聞こえてきた。しかしこのときほど、はっきりと明敏に注意をひいたこともなかった。このときほど成功の強い予感を感じたことはなかったし、それゆえアターソン氏は中庭の入り口に姿をかくした。
足音はすぐさま近づいてきて、通りの角を曲がると一段と大きな音になった。弁護士は入り口から前方をみつめ、すぐにどんなやつを相手にしているのかを見てとることができた。小柄で質素ななりをしており、その外見は遠く離れていても、どこか見ているものの気に障るところがあった。ただその男は、近道をして直接ドアの方へと進んでいった。やってくると、家に帰るかのようにポケットから鍵をとりだした。
アターソン氏は一歩踏み出し、通り過ぎようとする男の肩に手をおいた。「ハイドさんですね?」
ハイド氏ははっと息をのみ、あとずさりした。でもすぐさま立ち直り、弁護士の顔を直視したわけではないが、十分落ち着きはらってこう答えた。「いかにも私の名前ですが、なにか御用ですか?」
「家に入っていこうとしたところを見たもので」弁護士は返答した。「私はジキル博士の親友で、ゴーント街のアターソンといいます、名前はお聞きになったことがあると思いますが。ちょうどあなたにお目にかかれましたので、家にあげていただけないでしょうか」
「ジキル博士はいません、家をあけてます」ハイド氏は、鍵に息をふきかけながら答えた。そしてとつぜん顔もあげずに「どうして私のことを知ってるんです?」と尋ねた。
「まずあなたに、」アターソン氏は言った。「お願いがあるんですよ」
相手は答えた「喜んで、で何なのでしょう?」
「顔をよく見せてもらえませんか?」弁護士はそう頼んだ。
ハイド氏は顔を見せることを躊躇していたが、それから、とつぜん何か思いついたように、まるで挑戦でもするかのようにこちらに顔を向けた。そして2人はしばらくのあいだにらみあっていた。「さて、これで私にもあなたと次に会ったときもわかるでしょう」アターソン氏は言った。「役にたつでしょうな」
「そうだ、」ハイド氏は答えた。「お互いにとっても。ちなみに私の住所もお教えしておきましょう」そしてソーホー街のある住所を教えた。
「いいぞ!」アターソン氏は心の中でそう思った。「こいつも遺言書のことでも考えたのだろうか?」でも胸の内はあかさず、住所を忘れないようにもごもご復唱した。
「さて」ハイド氏は行った。「どうやって私のことを知ったんでしょう?」
「説明を聞いたんでね」というのがその答えだった。
「誰の説明ですか?」
「共通の知り合いがいますからな」アターソン氏は言った。
「共通の知り合い?」ハイド氏は、いくぶんしゃがれた声で繰り返した。「それは誰なんだ?」
「例えば、ジキルです」弁護士は言った。
「ジキルが言うもんか」ハイド氏は、顔を上気させてさけんだ。「あなたが嘘をいうなんて」
「まってくれ」アターソン氏は言った。「適切とはいえない言葉だな」
ハイド氏は大きく、下品な笑い声をたてた。そして次の瞬間には、おどろくべき素早さでドアを開け、家の中に姿を消してしまった。
弁護士はハイド氏にとりこのされた後も、不安な面持ちでしばらく立ちつくしていた。それからゆっくりと通りを戻りはじめたが、一歩二歩歩いては立ち止まり、悩みがある人のように額に手をあてていた。アターソン氏が歩きながら悩んでいた問題は、すぐさま答えがでるようなものではなかった。ハイド氏は青白く背が低い男で、どこといって奇形というわけではないが、気味が悪い印象を与え、笑い方は不愉快で、弁護士に対しては、臆病さと大胆さが入り混じった殺気を感じるふるまいをした、そしてかすれて、ささやくような、途切れ途切れの声で話した。それらはみなハイド氏に不利な点で、ただこれら全てをあわせたところで、アターソン氏が感じた得体のしれない嫌悪感や、嫌な感じ、そして恐怖は説明がつかなかった。「なにか別のことがあるに違いない」と悩み顔の紳士はこぼした。「よくわからないが、何かもっと事情があるのだ。神様、あの男は全く人間らしくありません! 野蛮人みたいなところがあるといってもいいかもしれない、というかフェル博士の昔話みたいなものでしょうか? それとも単に邪悪な魂が光を発し、それが体を通り抜け、その外見をも変貌させているのだろうか? そうに違いない。わが友ヘンリー・ジキル、悪魔の印が顔についているのを読めるとしたら、君の新しい友人の顔にこそあるじゃないか」
裏道からの角をまがると、昔風のお屋敷の一角にさしかかった。とはいっても、今ではほとんどが当時の邸宅からは落ちぶれて、その階ごと、部屋ごとにさまざまな職業のものたちが住み込んでいた。地図の製版をやるもの、建築家、うさんくさい弁護士、そして何やらわからない会社の代理人などである。しかし、角から2軒目のある家は、まだ一つの邸宅になっていた。そしてその門がまえからは、暗闇で玄関の上の窓からもれる光しかなかったが、とても裕福で立派な家である雰囲気がうかがえた。アターソン氏は立ち止まり、ノックをした。こざっぱりとした身なりの年老いた従僕がドアを開けた。
「ジキル博士は在宅かな、プール?」弁護士はたずねた。
「見てまいります、アターソンさま」プールは答えると、話しながら来客を天井が低い落ち着ける大広間に通した。広間には石が敷きつめられていて、めらめらと燃える暖炉で(田舎の邸宅のように)暖かく、そしてオーク材でできた高価なキャビネットがすえつけられていた。「暖炉の側でお待ちください、もしくは食堂で明かりをお持ちしましょうか?」
「ここでいいよ、ありがとう」弁護士は言った。そして暖炉の側に近づいて、その囲いにもたれかかった。アターソン氏が一人残されたこの広間は、友達である医者のお気に入りだった。アターソン氏も常々、ロンドンでも一番快適な部屋だと言っていたものだ。でも今夜にかぎっては、血も凍らんばかりで、それもハイドの顔が心に重くのしかかっているからだった。アターソン氏としては、めったにないことに人生に憎悪と嫌悪を感じていた。そしてそんな精神状態で、暖炉のあかりがよく磨かれたキャビネットにちらちらする中や、天井にふいにあらわれた影に、不吉なことを読み取っているようだった。そしてプールがすぐに戻ってきて、ジキル博士の不在をつげたとき、ほっとしたのが恥ずかしく感じられた。
「私はハイド氏があの古い解剖室のドアから中へ入って行くのをみたんだが、プール」アターソン氏は言った。「ジキル博士が留守のときなのに、大丈夫かい?」
「全く問題ありません、アターソンさま」従僕は答えた。「ハイド氏は鍵をお持ちですから」
「おまえの主人は、あの若者に全幅の信頼をおいてるらしいね」考え考え、アターソン氏はもらした。
「えぇ、そのとおりです」プールは言った。「われわれはみな、彼の命令に従うように言われています」
「私はハイド氏に会ったことはなかったように思うんだが」アターソン氏はたずねた。
「えぇ、ここで夕食をとったことはないですから」従僕は答えた。「われわれも家のこちらがわでは、ほとんど彼の姿をみないんです。彼はたいがい実験室から出入りしてますから」
「では、おやすみ、プール」
「おやすみなさい、アターソンさま」そして弁護士はとても憂鬱な気分で家路へと向かった。「かわいそうなヘンリー・ジキル」アターソンは思った。「私が思うに、どうやらジキルは苦境に陥っているらしい! 若いときはむちゃもやったからな。ずいぶん昔のことだが、神様はお見逃しにならないのだ。あぁ、そうにちがいない。昔にやった悪いことの亡霊、かくしておいた不名誉な罰だ。因果応報、すっかり忘れ去り、自分ではとうに許した、何年もたった後になっても、罰は与えられるのだ」そして弁護士は、その考えにおびえ、自分自身の過去をじっくり振り返ってみた。記憶の隅から隅まですっかりひっくりかえして、まるでびっくり箱かなんかのように古い悪行が白日のもとにさらされないかどうかを考えた。自分の過去はまあ清廉潔白なものだった。このように過去の人生を振り返ることができるものは、そう多くはあるまい。でもアターソン氏は、自分がやってきた悪いことを卑下するのだが、これまで今にもするところだったが、回避した多くの悪行を思うと、再び落ちつき、感謝の念を忘れないのだった。それから元の問題にもどると、一縷の望みを見出した。「あのハイドのやつは、よく調べれば、秘密をもってるに違いない。それもあの様子では、絶対隠しておきたい秘密をもっているんだろう。それと比べれば、かわいそうなジキルの秘密なんてどんなに悪いものでも太陽みたいなもんだ。とにかく、このままにはしておけない。もしあんなやつがヘンリーの枕もとに盗賊のようにしのびよるなんて、考えただけでもぞっとするぞ。なんて目覚めだ! それに危険でさえある。もしあのハイドが遺書の存在を知ったら、相続を待ちきれんかもしれないからな。あぁ、私はジキルが任せてくれれば、本腰をいれて取り組まなければならないぞ」そして、こうつけ加えた。「もしジキルが任せてくれればだが」というのも、ふたたび以前に心に浮かんだ、あの遺言書の不可解な文言が透けて見えるほどはっきりと心に映るのだった。
落ち着きはらっていたジキル博士
2週間後、きわめて好都合なことに、博士は5、6人の旧友をまねいて夕食会を開いた。みんな知性にあふれ、世評の高い人々でワインにもうるさかった。アターソン氏は思う所があったので、みんなが帰ったあとも一人後に残っていた。これはめずらしいことというわけではなく、何回とあったことでもある。アターソン氏は歓待されるところでは、非常に手厚くもてなされたものだ。招いた側は、移り気で、おしゃべりな客がしきいをまたいだあとも、このさっぱりした弁護士をひきとめるのを好んだのだ。この控えめな客といっしょに座って、一人に慣れ、大いに騒いで疲れたあとに、この友人の落ち着いた沈黙に心を落ち着けることを望んでいた。ジキル博士も、その例外ではなかった。アターソン氏と暖炉をはさんで反対側にすわっていたのは、背が高く、かっぷくのいい、ひげのない50才ばかりの男で、目つきに意味ありげなところがあったが、才能とやさしさに満ちあふれた人だった。その様子をみれば、ジキル博士が、アターソン氏に心からのあたたかい友情を感じていることはわかっただろう。
「君とずっと話したいと思ってたんだよ、ジキル」アターソン氏が口火を切った。「君の遺言書についてだ」
注意深く物事を観察する人なら、その話題が不愉快なものだったことは容易に推測できたことだろう。しかし博士は、明るい様子でそれを打ち消して、「悪いなアターソン、こんな依頼人で」と言った。「僕の遺言をみたときの君ほど困りきった人は、今までみたことがないくらいだよ。あのなにもかも隠したがる衒学者のラニョンが、彼自身はそういってるが、僕の科学としては異端の説に対するのは別としてもね。あぁ、ラニョンもいいやつだってことはわかってる、そんなに眉をしかめるなよ。でもとにかくなんでも隠したがる衒学者だ。何も分かってない、騒々しい衒学者なんだ。とにかく、ラニョンにはがっかりさせられたよ」
「遺言については、僕が絶対賛成できないのはわかっているだろう」アターソン氏はその話題は無視して、性急にいいはった。
「遺言? あぁ、そのことはわかってるよ」博士はやや厳しくこう答えた。「前にも同じことを聞いたな」
「うん、とにかくもう一回言っておくよ」弁護士は続けた。「ハイドとかいう青年についてちょっと耳にしたものだからね」
ジキル博士の大きく整った顔がくちびるまで真っ青になり、目には不機嫌なようすがうかがえた。「それ以上は聞きたくない」ジキル博士は言った。「そのことについては触れない約束をしたと思ったがな」
「聞いたことが、聞いたことなんでね」アターソン氏は言った。
「別に問題ないよ。だいたい君は僕の立場がわかってないんだ」博士はしどろもどろの風で答えた。「僕は苦しい立場に立たされているんだ、アターソン。僕の立場は非常に微妙なものだ、とにかく微妙なんだ。とにかく話してもどうにもならない類のことなんだ」
「ジキル」アターソン氏は言った。「君だってわかってるだろう、僕は信頼にたる男だよ。信頼して、なにもかも胸のうちを打ち明けるんだ。そうすればきっと僕は君を救ってやれるよ」
「ありがとう、アターソン」博士はいった。「本当にありがとう、君は本当にやさしい。なんと感謝していいかわからないくらいだ。僕は君のことを完全に信頼している。もし選択の余地があるなら、だれよりも君のことを信頼するよ、あぁ、自分自身よりもだ。でも実際のところは、君が思っているようなことじゃないんだ。そんなに悪いことでもないんだ。君の心を落ち着けるためにも、一つだけ言っておこう。僕がきめたら、ハイド氏とはいつでも手をきることができるんだ、誓ってもいい。とにかく何度でも君にありがとうといいたい。で、もう一言くわえさせてもらってもいいかな、アターソン。悪くとらないでほしいんだが、これはプライベートなことだから、そっとしておいてもらいたいんだよ」
アターソンは火をみつめながら、しばらく思案していた。
「まあ、君のいうことはもっともだ」アターソン氏は立ち上がりながら、とうとうそう言った。
「あぁ、でもこの話題にふれたからには、またこれで最後にしたいと思うんだが」博士は続けた。「君にもひとつだけ分かっておいてもらいたい点があるんだ。ハイドのことを、僕は本当にとても心配している。君はあいつと会ったんだろう、無作法だったかもしれん。でも本当に、心の底からあの若い男のことが心配で心配でならないんだ。もし僕が死んだら、アターソン、あいつを許して、あいつの権利を守ってやることを僕と約束してくれないだろうか。君も全部分かれば、そうしてくれると思うんだ。もし約束してくれたら、僕の心の重荷が軽くなると思うんだが」
「あいつを好きなふりまでは、できないと思う」弁護士は答えた。
「そんなことは頼んでないよ」ジキルは、アターソンの手をとって懇願した。「ただ正当にやってほしいということだけだ。僕が死んだら、僕のためだと思ってあいつを助けてやってくれとお願いしてるんだ」
アターソン氏は思わずため息をついて「あぁ、約束しよう」と答えた。
カルー殺人事件
それから一年ほども後のことだろうか、18××年の10月に、ロンドンは稀に見る凶行に騒然とし、その被害者の地位の高さゆえに、よりいっそうそれだけ注目を集めた。事件の詳細ははっきりしないが、とにかく驚くべき事件だった。川岸からそれほど離れていないところの一軒家に一人で住んでいる家政婦が、11時ごろに二階のベッドへ向かった。深更には霧が街をおおっていたが、夜も早いうちは雲ひとつなく、家政婦は窓から外を見渡し、道は満月で明るく照らされていた。その家政婦はロマンティックな性質だったらしい、というのも窓のすぐ下に置かれていた箱にこしかけ、もの思いにふけっていたから。(後にこのことを語るときに、彼女はそういったものだった)私はあのときほど、全ての人がやさしく、世界を親しみのあるものと感じたことはなかったと。そしてそうして腰かけていると、一人の白髪で年配の立派な紳士が道をこちらにやってくるのに気づいた。そしてもう一人、とても小柄な紳士が向かい合うようにして進んできたが、彼女は最初はなんの注意もはらわなかった。2人が話ができるほど近くにくると(それはちょうど家政婦の窓の真下だったが)年をとった男が挨拶をし、相手にとてもていねいに話しかけた。話しかけた内容は大したことではなかったようだ。実際に、年とった男が指をさしていたところからみると、どうやら道をたずねていただけのように思われた。話している男の顔を月が照らし、家政婦はそれにうっとりと見とれていた。その顔には、古きよき日の昔かたぎの気質が感じられ、そればかりか自分に十分満足しているゆえの気品さえ感じられた。やがて家政婦の目は、もう一方の男に注がれた。もう一人の男がハイド氏であることを認め、彼女は驚いた。ハイド氏はかつて彼女の主人のところに訪ねてきたことがあり、よくない印象をもっていたのだ。ハイド氏は片手にずっしりとした杖をもち、それをもてあそびながら、一言も口を聞かず、がまんできないと言った感じで相手の話を聞いていた。そして突然、ハイド氏は怒りを爆発させ地団駄をふむと、杖を振り回した。そして(家政婦が語るのによれば)狂人のようにあばれまわった。老紳士はとてもおどろいて一歩退いたが、すこし傷ついたようだった。そしてハイド氏は我を失い、相手を地面に杖で殴り倒した。そして次の瞬間には怒り狂い、被害者をふみつけると雨あられとなぐりつけた。そして骨が砕ける音がし、死体は道で跳ねた。この恐ろしい光景と音で、家政婦は気を失った。
彼女が我にかえって、警察を呼んだのは2時になったころだった。殺人者は、とっくにその場を去っていた。ただ道の真ん中には、信じられないくらい叩きのめされた被害者が横たわっていた。この行為に使用された杖は、めずらしいものでとても硬く重い木で作られていたが、この恐ろしく残酷な行為で真っぷたつに折れていた。半分におれた片方は近くの溝におち、もう片方は間違いなく、殺人犯が持ち去ったようだった。財布と金時計が被害者からみつかったが、名刺や身分をしめすものはなく、封をして切手をはった封筒を一通所持していた。たぶん、その封筒をポストまで持っていくところだったのだろう。その封筒にはアターソン氏の名前と住所が記されていた。
この封筒は、弁護士のもとに翌朝、まだ起床する前に届けられた。そして手紙をよみ、事情を説明されると弁護士はすぐに唇をとがらせた。「死体をみるまでは何も言えません」というと、「事態は深刻だと思われます。着替えるまで待っていただけるでしょうか」と続けた。そして同じような深刻な様子で朝食をすばやくとると、警察署へと急いだ。そこにはすでに死体が運び込まれていて、小部屋に入ると、すぐに弁護士はうなずいた。
「たしかに」弁護士は言った。「そうです、残念なことですがこれはダンバース・カルー卿に間違いありません」
「なんてことだ」警官は大きな声をだした。「本当ですか?」そして次の瞬間には、その目は功名心でぎらぎら光っていた。「これは大変な騒ぎになります、犯人を逮捕するのにご協力願えないでしょうか」そして警官は、手短に家政婦が目撃したことを述べ、折れた杖を見せた。
アターソン氏は、ハイド氏の名前を聞いただけですっかりおじけづいてしまった。しかし杖が目の前に示されると、疑いの余地はなかった。折れていて、めちゃくちゃになっていたが、それは間違いなく何年も前に彼自身がヘンリー・ジキルに贈ったものだったからだ。
「ハイド氏の背は低かったですか?」弁護士は尋ねた。
「背はかなり低く、かなり邪悪な感じを与える外見だったと家政婦は言っています」警官は答えた。
アターソン氏は考え込んでいたが、頭をあげるとこう言った。「もし私と一緒の馬車で来ていただけるなら、」と続けて、「その男の家までご案内しましょう」
朝の9時ごろで、季節の最初の霧がたちこめていた。濃い茶色の霧が空をおおい、風は止むことがなく、このたちこめた霧をふきとばしていた。そのため馬車が行く道々で、アターソン氏は薄ら明かりがさまざまな色合いを見せるのを目にした。ここが夕方の終わりのように暗いと思えば、あちらは、大火の不思議な光のように、とても濃い茶色の光で照らされていた。そしてしばらくすると、この場所でも霧が急速に晴れていき、気味が悪い一条の光がうずまく雲の中から射した。ソーホーのものさびしい場所は、こんな風景のうつりかわるなかでみると、泥だらけの道やだらしない道行く人や、けっして消えない、もしくは闇がふたたび押し寄せないように灯されたような街灯のせいで、弁護士の目には、悪夢の中の街並みの一角のようにも思われた。さらに弁護士の心にうかぶ考えも、暗い色合いを帯びていた。同乗者を見やると、法や警官に対する恐怖がこみあげてくるのを感じた。その恐怖は、正直このうえない人でも時々悩まされるものなのだ。
馬車が指定した住所のところまで行くと、霧も少し晴れて、さまざまな風景が目に入った。みすぼらしい道や、安酒場、安いフランス料理を食べさせる店、1ペニーの雑誌や2ペニーのサラダといった細々したものを扱う店、多くのぼろをまとった子供が戸口に集まっていて、さまざまな国籍の女性がたくさん、手に鍵をもち、朝の一杯をやりに出かけて行く。そして次の瞬間には、赤褐色のような褐色の霧がふたたびそこの場所に立ちこめ、そのひどい光景をさえぎった。ここがヘンリー・ジキル博士のお気に入り、つまり25万ポンドの相続人が住んでいる場所だった。
象牙のような肌をした銀髪の老婆がドアをあけた。老婆は気味の悪い顔つきだったが、見せかけは人当たりがよく、応対はそつがなかった。「はい」と彼女は答えた。「ハイド氏はこちらに住んでいます。でも不在でいらっしゃいます。昨夜は大変遅くにお帰りでしたが、一時間としないうちにまた出かけていきました。そういうことは別に不思議ではありません。ハイド氏の習慣は変わってるんです。しばしば家をあけますし、たとえば昨晩かえってきたのもほとんど2ヶ月ぶりくらいですから」
「よろしい、では部屋をみせてもらいたい」弁護士は言った。老婆がそれは無理だと口を開きかけたとき、「この人が誰なのか言った方がよさそうだな」とつけ加えた。「この人は、スコットランドヤードのニューコモン警視だ」
明らかにうれしいといった風が老婆の顔にうかがえた。「あぁ!」と口にだし「逮捕されるんですね! なにをやらかしたんです?」と続けた。
アターソン氏と警視は視線を交わした。「ハイド氏は、とても好かれていたとはいえないようですな」警視は言った。「では、お婆さん、私とこの紳士に調べさせてもらいたい」
老婆をのぞけば、その家にはだれもいなかった。ハイド氏は2部屋を使っていただけで、その部屋は高価で趣味がよい家具が入っていた。戸棚にはワインが並び、食器は銀製で、シーツや枕カバーは優雅なものだった。素晴らしい絵が壁にかかり、アターソン氏が考えるところでは、それは絵の目利きであるヘンリー・ジキルからの贈り物なのだろう。じゅうたんは何層にも積み重ねられ、色合いもふさわしいものだった。しかしながら、このときは部屋は最近にあわただしくかき乱された跡があちこちに見てとれた。服がポケットを裏返しにして床になげだされ、鍵のかかる引出しも開けっ放しだった。そして暖炉には白い灰が積み重なっていて、まるで多くの書類を焼いたかのようだった。その燃えさしの中から、警視は燃えなかった緑色の小切手帳の片端をかきだした。杖の片われもドアの影から発見された。これだけ嫌疑が固められ、警視は喜びの色をかくせなかった。銀行へ行って、数千ポンドが殺人者の預金口座に入っていることも確認されたので、警視は大喜びだった。
「これで大丈夫です」警視はアターソン氏に言った。「もう捕まえたも同然です。慌てたにちがいありません、そうでなければ杖や、まして小切手帳を焼くわけはありませんから。なんたって金が全ての男です。人相書きを掲示して、銀行でまちぶせればいいんです」
ただし人相書きについては、作るのは容易なことではなかった。というのもハイド氏には、知り合いといったものがほとんどいなかったからだ。家政婦の雇い主でさえ2回しかハイド氏に会ったことはなかったし、家族の居場所はわからなく、写真もなかった。ふつうの人にはよくあることだが、何人かが描写したハイド氏の姿はかなり異なったものだった。ただ一つの点では一致した。この逃亡者が見るものに与える、容易に忘れられない、なんともいいようがない奇形な感じという点で。
手紙の件
午後遅くに、アターソン氏はジキル氏の家を訪ねた。すぐにプールが家に入れてくれ、台所のわきを通り、以前は庭園だった庭を横切り、研究室とも解剖室ともどちらともいえるような建物まで案内された。博士はこの家を、著名な外科医の相続人から買い取ったのだが、博士の興味は分析というよりは化学にあったので、庭園のいちばん奥にある建物の用途を変更したのである。弁護士が、博士の家のこの場所に通されたのはこれが初めてだった。弁護士が目にしたのは、薄汚い、窓のない不思議な建物だった。そしてかつては意欲にあふれる学生で一杯だったろうが、現在は寂しく静かな手術教室を通り過ぎるときは、なんともいえず奇妙な感じがしてあたりを見回した。そのテーブルには科学器具が所狭しと並べられ、床には箱がちらばって、荷造り用の紐が散乱していた。曇りガラスの丸天井からは、ぼんやりとした光が落ちていた。もっと奥の登り階段は、赤い生地をはったドアにつながっていた。そこをとおりぬけ、アターソン氏はとうとう博士の書斎に通された。大きな部屋で、一面にガラスの戸棚が備え付けられ、他のものに交じって、大きな鏡が一つと事務机が一つあった。外の庭の方には、3つの鉄格子のついた窓があった。暖炉には火がはいり、暖炉の上にはランプが一つ灯っていた。というのも家の中でさえ、霧が濃く立ちこめはじめていたからである。そしてジキル博士は、暖炉のそばで、ひどくやつれたようすで座っていた。ジキル博士は来客を出迎えるのに立ち上がることもしなかったが、冷たい片手をのばし、様変わりした声で歓迎の意をのべた。
「それで」プールがその場を去るとすぐに、アターソン氏は言った。「あのニュースはもう聞いてるだろうな?」
博士は身震いをして、「広場で叫んでいたからな」と言った。「私は食堂で、そのニュースを聞いたよ」
「一つ言っておく」弁護士は言った。「カルーは私の顧客なんだ、もちろん君も顧客だが。私は自分のしていることを把握しておきたいんだ。君はまさかあいつをかくまうほど、おかしくなってないだろうな」
「アターソン、神に誓って」博士はさけんだ。「神に誓って、あいつと二度と会うことはないよ。私の名誉にかけて君に誓うが、もうあいつとの関係は終ったんだ。なにもかもが終ったんだ。やつも私の助けは請うまい。君は私ほどあいつのことをしらないんだ。やつは無事だ、全く無事なんだ。私の言葉を覚えておいてくれ、やつのことを聞くことは二度とないよ」
弁護士は、憂鬱な気分でこれを聞いていた。どうにも友達の熱に浮かされたような感じが気に入らなかったのだ。「やつのことにはずいぶん自信があるようだが」と続けた。「君のためにも、君が正しいことを祈りたいよ。裁判になれば、君の名前もでるかもしれないからな」
「やつのことは絶対だ」ジキルは答えた。「私には確固たる理由があるんだが、だれにも言えないんだ。でも一つだけ君の忠告をもらいたいことがある。私は、そう、私は一通の手紙を受け取ったんだ。これを警察にみせるべきかどうか迷っている。私はこの手紙を君に託すことにするよ、アターソン。君なら賢明に処置してくれるだろうと思う。君のことは、本当に心の底から信頼しているんだよ」
「私が思うには、君はその手紙でやつの所在が露見することを恐れてるんだな?」と弁護士は尋ねた。
「いいや」ジキルは答えた。「私はハイドのことがどうなろうが、ぜんぜん気にしてない。やつとのことは、すっかり終ったんだ。私が気にしてるのは、もうすでにこの恐ろしい事件にかなり係わり合いになっている自分の評判のことだけなんだ」
アターソンは、しばし黙り込んでしまった。友達があまりに自分勝手なのに驚いたのだ。ただほっとして、ついに「あぁ、では手紙を見せてくれたまえ」と言った。
手紙は、奇妙な金釘体の文字で「エドワード・ハイド」と署名されていた。その手紙は、とても短いもので、こう書かれていた。私の保護者たるジキル博士には、たいへんお世話になっていながら、恩を仇で返すようなことになって、もう私の身の安全についてはなんの心配もしていただかなくて結構だ。まったく心配する必要のない逃げ出す手段があるのです、と書かれていた。弁護士は、この手紙でほっとした。2人の親交は、弁護士が疑っていたようなものではなく、ずっとまともな関係だったのだ。弁護士は自分が少しでも疑ってしまったことを反省した。
「封筒はないのかい?」弁護士は尋ねた。
「燃やしたよ」ジキルは答えた。「なんということもなしにね。でも消印はなかった。使いのものが持ってきたんだ」
「この手紙を預からせてもらって、一晩考えさせてもらっていいかい?」アターソンは尋ねた。
「もう、僕の代わりに判断してくれないか」というのが答えだった。「私は自分にすっかり自信がなくなってしまったんだ」
「あぁ、考えてみよう」弁護士は答えた。「もう一言だけ言わせてくれ。君の遺言状に失踪の項目を入れさせたのは、ハイドのやつなんだろう?」
博士はめまいに見舞われたようだったが、口を固く結んだまま、うなずいた。
「私には分かってたんだ」アターソン氏は言った。「やつは君を殺すつもりだったんだ。九死に一生をえたんだぞ」
「私は、それとは比べものにならないほどのことを経験したんだ」と博士は神妙に答えた。「私は一つの教訓を得たんだ。あぁ、アターソン、なんて教訓なんだろう!」と両手でしばらく顔をおおっていた。
弁護士は暇をつげると、立ち止まって、プールに一言二言声をかけた。「ところで、今日手紙を渡しにきたものはいたかい? 使いみたいなものが来たかを聞きたいんだ」しかしプールの答えは、ポストに届いたもの以外は全くないというものだった。プールがつけ加えるには、それもちらしだけということだった。
この返事は、訪問者をふたたび不安にさせた。明らかに、その手紙は実験室のドアから届けられたか、あるいは実際のところ、書斎で書かれたものかもしれないのだ。そしてもしそうなら、違った判断を下さなければならないし、より注意深い扱いが必要になる。新聞配達の少年が、歩道を「号外、下院議員が惨殺」と大声をだしながら走っていた。それは、弁護士の友人であり顧客でもある人物への弔辞だった。ただ、もう一人の友人で顧客の名声に、スキャンダルの渦で傷がつくのを恐れる気持ちも確かにあった。少なくとも弁護士が下さなければならなかったのは、やっかいな問題だった。そして普段はなんでも自分だけで決めるのだが、アドバイスが欲しい気がしはじめていた。直接アドバイスを受けることはかなわなくても、たぶんそれとなく聞き出すことはできるだろうと考えたのである。
すぐさま、弁護士は暖炉の片側に腰をかけ、事務頭のゲストがもう片方に腰を下ろした。二人の間には、暖炉からほどよい距離に、家の地下室に長いこと寝かされていた特別古いワインが一本置いてあった。街は動いている霧にうもれ、街灯はざくろ石のように光っていた。その覆いや低くたちこめた霧を通じて、街の息吹がまだ大風のようなうなりをあげて街の大通りを行き来していた。しかし部屋の中は、暖炉の光で明るかった。ボトルのワインは酸味がすっかりなくなって、まるでステンドグラスの窓が色あいを増していくように、上質な色合いが時を経て深みをましていた。丘陵の葡萄畑への暖かい秋の午後の光が今にもふりそそぎ、ロンドンの霧を消散させようとしていた。弁護士も自然と気分がやわらいだ。ゲストほど気兼ねがおけない相手は他にはなく、思わず秘密をもらしてしまいそうになるほどだった。ゲストは仕事で博士の所にもしばしば行ったことがあり、プールのことも知っていた。ハイド氏が我がもの顔で博士の家に出入りしているのも知らないはずはあるまい。それならば、謎を解決に導くあの手紙を見せても悪いと言うこともないだろう? とりわけゲストは筆跡に関しては造詣が深いし、鑑定家でもあるから、見せるのは自然なことでもあり、当然のことでもあるのではないだろうか? それだけではなく、執事は相談にのれる人物でもあったのだ。これほど奇妙な手紙を読めば、意見のひとつも言わないということはあるまい。そしてその意見で、アターソン氏がこれからどうすればいいかもわかるかもしれないのだ。
「ダンバース卿には残念なことだったな」とアターソン氏は口火を切った。
「全くです。街じゅうも大騒ぎです」ゲストは答えた。「もちろん、犯人は気が狂ってるんでしょう」
「これについて、おまえの意見を聞きたいんだが」アターソン氏は続けた。「私はここに手書きの文書をもっている。ここだけの話にしてほしいんだが、というのも私にもどうしていいものか分からないんだ。なんといってもいい話ではないからな。で、これがその文書だ。おまえのお手のものだ、殺人者の筆跡だよ」
ゲストの目がらんらんとかがやき、すぐさま座り込むと、熱心に調べはじめた。「えぇ」ゲストは言った。「狂ってはいませんが、奇妙な筆跡です」
「あぁ、なんといっても、とても変わったやつが書いたからな」
ちょうどそのとき、召使が手紙をもって部屋に入ってきた。
「それはジキル博士からではないですか?」執事は尋ねた。「手紙だと思いますが、拝見してもいいですか、アターソン様?」
「ただの夕食への誘いだよ、どうしてなんだ? これが見たいというのかい?」
「ちらっとです。ありがとうございます」執事はそういうと、2つの手紙を並べ、念入りにその筆跡を調べた。とうとう「ありがとうございます」と言うと、2通ともアターソン氏へ返した。「とても興味深い筆跡です」
しばらく沈黙があり、アターソン氏はいらいらした。「なんだってこの2通をくらべたりするんだ、ゲスト?」と突然尋ねた。
「えぇ、ご主人さま」執事は答えた。「奇妙な一致があるんです。2つの手紙の筆跡は多くの点で一致します。ただ少し文字の傾け具合が違うだけなんです」
「たしかに変わってる」アターソン氏は言った。
「そうおっしゃるとおり、たしかに変わっています」ゲストも答えた。
「この手紙のことは他言無用だぞ、もちろん」アターソン氏は言った。
「もちろんです、ご主人さま」執事は言った。「分かっておりますとも」
しかしアターソン氏はその晩一人になるとすぐに、手紙を金庫にしまった。手紙はそのとき以来ずっと金庫にしまわれたままだった。「どういうことだ!」アターソンは思った。「ヘンリー・ジキルが殺人犯の手紙を偽造するなんて!」そしてアターソン氏は、体中の血が凍る思いだった。
ラニョン氏の忘れられない事件
時がすぎ、事件には何千ポンドの賞金がかけられた。ダンバース卿の死は公傷としてとりあつかわれた。しかしハイド氏はそもそも存在すらしなかったかのように、警察の手をのがれ姿を消してしまった。ハイド氏の過去の大部分は明るみにだされたが、まことにひどいものだった。その男の残忍さ、また冷酷かつ乱暴であるゆえの話が暴露され、堕落した生活、忌まわしい仲間たち、そして生活のなかでの憎悪にからむ話などがあった。でも現在の消息となると、うわさの一つもないのだった。殺人のあった朝にソーホーの自宅を出て以来、完全に姿を消してしまったのだ。そして時が経つにつれ、アターソン氏も強い疑いをもつ状態から平静をとりもどし、今ではすっかり落ち着いていた。ダンバース卿の死は、アターソン氏によれば、ハイド氏がいなくなったことで、すっかり償われていたのである。悪影響がなくなったので、ジキル博士には新たな生活が始まっていた。隠遁から姿をあらわし、旧交を温め、ふたたび友達を訪ねたり、迎えたりするようになった。慈善家として知られていたこともあるが、今ではそれに劣らず信仰のあるものとして有名であった。忙しい生活で、外出もすれば、よいこともたくさんした。顔にも外交的な明るさがうかがえた。それはまるで内面においても善行を意識しているかのようだった。2ヶ月あまりも、博士は安らかな生活を送っていた。
1月8日、アターソン氏は博士の家の小さなパーティの夕食に招かれた。ラニョン氏も招かれていた。主人は、3人が離れがたい友人だったころのように、2人の顔をかわるがわる見つめていた。しかし12日、そして14日も弁護士は玄関払いを受けた。「博士は家にひきこもっておられます、誰にもお会いになりません」とプールは言うのだった。15日には、再び家を訪ねたが、断られてしまった。ここ2ヶ月というものほとんど毎日といってもいいほど会っていたために、再び隠遁してしまったことは弁護士の心を重くした。5日目の晩にゲストといっしょに夕食をとり、6日目にはラニョン氏を訪ねた。
そこでは少なくても、玄関払いされるようなことはなかった。しかし中に通されると、ラニョン博士の様子が様変わりしていることにショックを受けた。死相がはっきりでていて、健康そうだった顔色もすっかり青ざめていた。げっそりやせ、外見はあたまが禿げ、年をどっと取ったかのようだった。しかしそれ以上に弁護士の注意をひいたのは、外見の急速な衰弱の様子というよりは、目や態度に見受けられる精神的に深く根ざした恐怖というようなものだった。医者が死を恐れるなんてことはありそうにないことだが、アターソンには疑いの念が晴れなかった。「そうだ」と弁護士は思った。「ラニョンは医者だ。自分の状態も死期もわかっているに違いない。それにはとても耐えられないのだろう」そしてアターソンが死相を指摘すると、ラニョンははっきりと自分の死期が近いことを断言した。
「ショックなことがあって」ラニョンは言った。「私はもうだめだ。もう何週間しかもたないだろう、あぁ、人生は愉快だった、私は人生を楽しんだよ。あぁ、君、人生は楽しかった。ただ何もかもを知るくらいなら、死んだ方がよかったと思うこともないでもないな」
「ジキルも病気だよ」アターソンは言った。「ジキルには会ったのかい?」
ラニョンの顔色が変わった。そして震える片手を持ち上げると、「もうジキル博士には会いたくもないし、ジキルのことを聞きたくもない」と大きな震える声で言い放った。「あんな男とは断じて絶交だ。君にも、私は死んだと思ってるような男のことなんかを口にだすなと頼むよ」
「ちぇ、ちぇ」アターソンは言った。それからしばらく黙り込むと、「なにかできることはないか?」と尋ねた。「3人は昔からの友達じゃないか、ラニョン。もう他にこんな友達はできやしないよ」
「できることはなにもない」ラニョンは答えた。「やつに聞いてくれ」
「会ってくれないんだ」と弁護士が言うと、
「驚きやしないがな」とラニョンは答えた。「アターソン、僕が死んだら、いつかなにが正しくてなにが間違っていたかがわかると思うよ。私には言えない。ところで、君が座って他のことを話してくれるなら、どうか、ここにいてそうしてくれたまえ。ただこの忌まわしい話を続けたいって言うなら、どうか、この場を去って欲しい。私には耐えきれないんだ」
アターソンは、家に帰るとすぐに座り込んで、ジキルに手紙を書いた。手紙は門前払いをくらっていることに文句をつけ、ラニョンとの不幸な仲違いの理由を正したのである。そして次の日、長々とした返事がきた。痛ましい言葉が連ねられていて、ところどころどうにも意味がわからないところがあった。ラニョンとの仲たがいは修復の見込みがなく、「私は旧友を責めようとは思わない」とジキルは書いていた。「ただ、われわれがもう会うべきではないというラニョンの意見には同意する。私はこれからは完全にひきこもって生活していこうと思っている。驚かないでくれ、ただ私の友情も疑わないでくれ、もし私の家のドアが君に対してさえ閉ざされていたとしても。どうかほっておいて、私だけの暗い道を行かせてくれ。私は自分のせいで、何ともいいようのない罰をうけ、危険な目に会っている。もし私がもっとも重い罪を背負ったものであるとしても、私はまたもっとも苦しんでいるものでもあるのだ。私はこの世で、これほど打ちのめされるような苦難艱難が待ち受けているとは、思ってもみなかった。アターソン、お願いだからこの運命を少しでも和らげるために君にできることは一つだけだ、私の沈黙を尊重してはくれないだろうか」アターソンはこの手紙を読んで驚いた。あのハイドの悪影響がなくなってから、博士は昔の仕事と友達のところにもどったのだ。ほんの一週間前には、心温まる名誉に満ちた老後が固く約束された見通しがあったというのに。そして今や一瞬のうちに、友情も心の平穏もそして生活全体もすっかりだいなしになってしまった。これほどすっかり予想もできないほど変わってしまうなんて、狂ったとしか思えないほどだ。しかしラニョンの態度や言葉からしてみると、もっとなにか深いわけがあるに違いない。
それから一週間後、ラニョン博士は床につき、二週間とたたないうちに亡くなった。すっかり悲しい思いにうちひしがれた葬式の晩に、アターソンは事務室のドアに鍵をかけ、悲しげなろうそくの明かりのそばに腰をおろした。そして死んだ友人が書き、自分で封をした手紙を取り出して自分の前に置いた。「親展:G.J.アターソン宛、氏が死亡時は読むことなく破棄すること」と強調して宛名に書かれていた。弁護士は開封するのが怖かった。「今日、一人友人を失った」とアターソンは考えた。「もう一人失うようなことになったらどうすればいいのだ?」ただ開封を恐れるのは友達に対する背信だと思い直し、封を切った。中にはもう一通封筒が入っていた。その封筒にも封がされており、その上には「ヘンリー・ジキル氏が死亡、または失踪するときまで開封せざること」と記されていた。アターソンは目を疑った。そう、また失踪だ。あの本人にはるか昔に差し戻したおかしい遺言にあったように、またもや失踪とヘンリー・ジキルの名前が結びついている。しかし遺言は、あのハイドという男の邪悪な差し金によるもので、あまりに明白で恐ろしい意図の下に書かれたものだった。ラニョンの直筆で書かれたこの手紙は、どういう意味なんだろうか? 好奇心が弁護士の心にわいてきて、約束を破らせ、すぐにでも開封して秘密を知りたいと思わせた。しかし職業上の意識と死んだ友人への友情が、厳しい足かせとなった。そしてその束を自分の金庫の一番奥にしまいこんだ。
好奇心を押さえることと、打ち克つことは別のことである。その日以降、アターソンが以前と同じように心から、もう一人の友人との親交を望んだかは疑わしい。アターソンはジキルのことを心から思いやっていたが、胸騒ぎがして不安でもあった。確かに家を訪ねはした。ただ門前払いをうけてほっとしたくらいである。たぶん、心のなかでは、好き好んでひきこもっている家の中に通されて、謎に満ちた世捨て人と座り込んで話をするより、開放的な街の雰囲気の玄関のところでプールと話をするほうが気楽だったのかもしれない。実際プールにも、わざわざ話すほどの知らせはなかった。博士は前よりも研究所の上の書斎に引きこもっていて、そこで眠ってしまうこともあるようだった。元気がなく、口もきかないようになり、本さえ読まなかった。まるで心に何かをかかえているようだった。アターソンはいつもこういうかわらない知らせに接していたので、だんだん家を訪ねる足も遠のいていった。
窓の事件
たまたま日曜日のことで、アターソン氏はエンフィールド氏といつもの散歩をしており、その道程が再びあの裏通りにさしかかった。あのドアの前にきたとき、2人は立ち止まってそれをじっと見た。
「えぇ」エンフィールドは言った。「とうとう話もおしまいですね。ハイド氏には二度とお目にかかることはないでしょう」
「そう願うよ」アターソンは言った。「私が一回、ハイドと会った話はしたかな? 君と同じで強い不快感を感じたものだ」
「会えば誰でもかならずそうなりますよ」エンフィールドは答えた。「まぁ、ともかくも、わたしがここがジキル博士の家の裏口へ通じているなんて知らないのは、さぞかし間抜けなことだとあなたは思ったでしょうね! 気づいたのは、まぁ、あなたのおかげといってもいいんですけどね」
「あぁ、君も気づいたかい?」アターソンは言った。「そうなら、路地まで入っていって、窓のところでも見ようじゃないか。本当のことを言えばだ、ジキルのことが気にかかるんだよ。家の外にでも、友達が一人でもいることがジキルにとっていいことに思うんだ」
路地はひんやりとしていて、少しじめじめしていた。空は夕焼けではるかまで明るかったが、夕暮れがせまっていた。3つの窓の真ん中の窓が半分あいていて、その側に腰かけているものがいた。まるで絶望の淵につきおとされた囚人のように、深い哀しみにうちひしがれたようすだった。アターソンはジキル博士を見たのだ。
「ジキルじゃないか!」アターソンは叫んだ。「良くなってるようじゃないか」
「だめなんだ、アターソン」博士は、さびしそうに返事をよこした。「ぜんぜんだめだ。ただもう長くはあるまい、神に感謝しないと」
「家にとじこもってばかりだからだ」弁護士は言った。「エンフィールドやわたしみたいに、外にでて気分転換しないと(あぁ、これがわたしの従兄弟のエンフィールドだよ、あちらがジキル博士だ)さぁ、来い。帽子をもって、われわれと出かけよう」
「君は本当にいいやつだ!」ジキル博士はためいきをついた。「どんなにそうしたいことだろう、でも、だめなんだ、だめなんだよ、そんなことは絶対できないんだ。する勇気もないよ。でもアターソン、本当に君に会えてうれしい。本当に心の底からうれしいんだ。家に上がってもらわなくてはいけないんだが、ここはそんな場所でもないんで」
「いいや」弁護士はおだやかに言った。「われわれもここで君と話している方がいいよ」
「そうさせてもらおうと思ったんだ」博士は微笑みながら返事をした。しかしその言葉は明らかに変わっていて、笑みがジキル博士の顔からさっと消えると、まったくの恐怖と絶望に満ちた表情に急変し、階下の2人の紳士はぞっとした。窓はすぐに閉まったので、2人はちらっとその表情を目にしただけだった。ただ、ちらっと見ただけで十分だった。2人はきびすを返し、一言もいわずに路地を後にした。一言も口をきかずに裏通りを歩いていき、日曜日でもかなりにぎわっている大通りまできてから、アターソンが連れの方に振り返った。2人とも顔面蒼白で、目にも恐怖の色がうかがえた。
「神よ許したまえ、神よ許したまえ」アターソンはそう言った。
ただエンフィールド氏はとても深刻そうにうなずいただけで、一言も口をきくことなく歩き続けた。
最後の晩
アターソンが夕食後に暖炉の側にすわっていると、驚いたことにプールが訪ねてきた。
「どうしたんだ、プール、何があったんだ?」アターソンは叫んだ。それから再びプールをみて、「何か困ったことがあったのかい?」そしてつけ加えた。「博士の調子が悪いのか?」
「アターソンさん」プールは言った。「何かおかしなことが起きているんです」
「まあ、まず腰かけて、それからワインを一杯どうだい」弁護士は言った。「さぁ、落ち着いて、私に言いたいことをはっきり説明してくれ」
「博士の習慣はご存知ですよね」プールは答えた。「そして一人でひきこもっていることも。そうです、書斎にすっかりひきこもってしまったんです。私には気に入りません。まああれを気に入れっていうんなら、死んだ方がましなくらいです。アターソンさん、心配なんです」
「さぁ、さぁ」弁護士は言った。「はっきり頼むよ。何が心配なんだい?」
「1週間ものあいだ、心配のし通しです」プールは、聞かれたことには全くふれずに答えた。「もう耐えられません」
プールの様子からは、まったく言葉通りであることがうかがえた。物腰は不安でたまらないと言った様子だったし、始めに恐怖を口にしたとき以外は、一度も弁護士の顔を見なかった。今でさえ、ひざにまったく口をつけていないワインをのせて座り、視線の先は床の隅といった具合だった。「もう耐えられません」とプールはくりかえした。
「さぁ」弁護士は言った。「しかるべき理由があるんだろう、プール。何かとんでもないことがあるんじゃないかと私は思うんだが。さぁ、何があったか言ってごらん」
「私は、殺人があったのではないかと思うんです」プールはかすれた声で言った。
「殺人だって!」弁護士はひどく驚いて、どちらかというとしまいにはむっとして叫んだ。「どんな殺人なんだ? 博士とどういう関係があるんだ?」
「私の口からは言えません」というのが答えだった。「どうか私と一緒にきて、ご自身の目で見てもらえないでしょうか?」
アターソン氏の答えはといえば、立ち上がって帽子とコートを手にとることだった。ただアターソン氏は執事の顔に浮かんだ安堵と、ワイングラスを置いたときに少しも口をつけていないのを見て、いよいよ驚いたくらいだった。
3月らしい風が強い寒い夜で、月が青白く、風に押されて傾いているかのようだった。そして透明でカーテン生地のような雲がちぎれちぎれに飛んでいた。風のせいで、話もできず、顔にまだらができるくらいだった。その上、風が吹き飛ばしたようで、いつになく道には通行人もいなかった。アターソンはロンドンのこの地域がこれほどさびれているのを見たことがなく、人がたくさんいればなぁと思ったほどだった。生まれてこの方、こんなにはっきり誰か他の人を見てふれたいと思ったことはないほどだった。いくらもがいても、惨事がおきるという予感を心からふりはらうことができなかった。その場所についたときも、風がふきあれ、埃がまっていた。そして庭のひょろひょろとした木々が風にあおられ、柵に打ちつけられていた。プールは一、二歩前をあるいていたが、道の真ん中で立ち止まり、これほど寒いのに、帽子をとって赤いハンカチで汗をぬぐっていた。急ぐには急いできたが、そのぬぐった汗は急いだからというよりは、何かに苦しんで流した汗というべきものだった。プールの顔は青ざめていて、話したときの声はかすれ割れていた。
「さて」プールは言った。「ここまできましたが、どうか何事もないように」
「アーメン」と弁護士も言った。
そして執事が、音をひびかせないようにノックをした。鎖がついたままドアがひらき、中からたずねる声がした。「プールか?」
「その通りだ」プールは答えた。「ドアを開けてくれ」中に入ると、広間は明るく、暖炉には火がおこされていた。そして暖炉のあたりに、全ての召使が男も女も、まるで羊の群れみたいに集まって立ちすくんでいた。アターソン氏を見ると、あるメイドはヒステリックに泣き叫ぶし、コックは大声で「おぁ、神よ。アターソン氏だ」と叫び、両腕でだきしめようとばかりに駆け寄る始末だった。
「どうしたんだ、どうしたんだ? みんなここにいるのか?」弁護士は腹をたてたように言った。「だらしないし、みっともないぞ。君たちの主人がみたら、喜ばんだろうな」
「みんな怖がっているんです」プールが言った。
沈黙がその場を支配し、だれもそれに意義を唱えなかった。メイドだけが叫び声をあげ、大声で泣き始めた。
「静かにしろ」とプールはメイドにどなりつけ、その乱暴な調子は自身もいらいらしている証拠だった。現にメイドが突然嘆きの声をあげたときには、みんなおどろき恐ろしいことが起きるのではないかという顔で奥のドアを見つめたのだった。「それで」執事は、ナイフとぎの少年に命令するようにこう続けた。「ろうそくをもってこい、すぐにこいつを片付けてやる」それからアターソン氏に一緒についてくるように頼むと、裏庭へと先導していった。
「さて、」プールは言った。「できるだけお静かに願います。耳をすませて、それからわれわれの足音が聞こえないように願います。もしなんらかの事情で中に入るように言われても、決して入ってはいけません」
アターソン氏は思わぬことのなりゆきに、体のバランスをくずして転びそうになった。でも再び勇気を奮い起こすと、執事の後を追って、研究室の建物に入り、箱やビンがちらかった外科教室をぬけて、階段の下へとやってきた。そこでプールは手振りで、片側によって耳をすませているようにと合図した。そして自身はろうそくを置き、勇気をせいいっぱいふりしぼると、階段をのぼり、赤い羅紗の書斎のドアを片手でノックした。
「アターソンさんがお目にかかりたいということですが」とプールは声をかけた。そしてそうしているときに、もう一回大きな身振りで耳をすますように合図をした。
中から声が聞こえてきた。「誰にも会いたくないと言ってくれ」と不平そうな声だった。
「すみません」とプールは言ったが、その声にはどこかやったぞという響きがあった。そしてろうそくを再び取り上げ、アターソン氏を伴って庭をもどると、大きな食堂に入った。そこでは暖炉に火はなく、虫が床をはいまわっていた。
「どうです」プールは、アターソン氏の目を見ていった。「あれが私の主人の声でしょうか?」
「だいぶ変わったようだな」弁護士は、青ざめた顔でそれでも相手の目を見返して、答えた。
「変わったですって? そうです、変わったんです」執事は言った。「この家に20年はお世話になっていますが、私が主人の声を聞きそこなうとでも? いいえ、ご主人さまは連れ去られたんです。8日前に連れ去られたんでしょう。その日、私はご主人さまが神の名を呼ぶのを聞いたんですから。あそこにいるのは、ご主人さまの身代わりで、なぜそこにいるのか、天にでも聞かなきゃなりますまい、アターソンさん!」
「なんともおかしな話だね、プール。とっぴな話といってもいい」アターソンは、つめをかみながら答えた。「おまえが思っているようなことだと仮定してみよう、ジキル博士が、そうだ、殺されたとしてみよう、どうして殺人犯がそこにとどまっているんだい? それでは筋が通らないよ。納得できないな」
「あぁ、アターソンさま、あなたはやっかいな方ですね。でも説明しますよ」とプールは言った。「先週中は(あなたも知ってらっしゃいますが)、やつ、もしくはそれ、まぁとにかく何であれ書斎で生活しているやつが昼夜かまわず、ある薬品をもとめて叫びつづけていたんです、ところが気に入るものが手に入らない。たしかにそれは、ときどき主人もやったやり方なんですが、つまり、注文を紙に書いて階段のところに置いておくんです。この一週間というもの、そればっかりです。紙だけ、そしてドアは締め切りで、食事さえそこに置いておくと、誰も見ていないときにこっそりと引き込むといった具合です。えぇ、毎日で、あぁ、一日に二回も三回もです。注文と文句ばかり。それで街の薬の卸しに飛んでいきます。ものを買ってくると、次の紙があって、不純だから返せといわれる。そして別の店への次の注文です。この薬が何としても必要ということらしいです」
「その紙をもっているかい?」アターソン氏は尋ねた。
プールはポケットをさぐると、くしゃくしゃになった紙を取り出した。弁護士はろうそくを近づけると、注意深くそれを調べた。その内容はこうだった。「ジキル博士よりモー商会へ。前回のサンプルは不純なもので、こちらの目的にはそぐいません。18××年にジキル博士がモー商会より大量の買い付けをしています。どうか細心の注意をはらって、その同じ物の残りをさがして、すぐにジキル博士のところまで届けてください。代金は気にしなくてかまいません。ジキル博士がどれほどその薬を必要としているかは、説明のしようがないほどです」手紙はここまでは抑制がきいたものだったが、ここから感情がほとばしるのを押さえられなかったらしく、とつぜん筆がみだれていた。「どうか、」と続けていた。「元のと同じ物を見つけてください」
「奇妙なメモだな」アターソン氏は言った。それからするどく、「どうしてこれが開封されているんだ?」と問いつめた。
「モー商会のものがかんかんに怒って、こんなにくしゃくしゃにしてつっかえしてきたんです」プールは答えた。
「ただこれは疑いなく博士の筆跡だね、そうだろう?」ふたたび弁護士は質問した。
「そうだと思いますが」執事はかなりむっとして答えた。それから声の調子をかえて、「筆跡がなんだっていうんです」とつづけた。「私はやつを見たんです!」
「やつを見たって?」アターソン氏は繰り返した。「本当かい?」
「その通りです!」プールは答えた。「こういう具合です。私がとつぜん庭から教室に入ったことがありました。やつは薬かなんかを探しに部屋の外に出ていたんでしょう。書斎のドアも開いていました。そして部屋の向こう側で箱をひっくりかえしていたんです。私が入って行くと、やつは顔を上げて、悲鳴みたいな声を出したかと思うと、階上の部屋へ飛び込んだんですから。やつを見たのは一分やそこらだったでしょう。でも私の髪は逆立ちました。もしそれが私の主人だったら、どうして覆面なんてしなきゃならないんでしょう? もし私の主人だったら、どうしてあんなネズミみたいな叫び声をあげて、私から逃げなきゃならんのです? 私はずっとご主人さまに仕えてきたんです。それに...」執事は一息おくと、手で顔をなでた。
「奇妙な状況だな」アターソン氏は言った。「ただ分かってきたような気がするぞ。おまえの主人は、プール、たぶん苦痛のあまり人相までかわるような病気にかかっているんだよ。だから、たぶん、声も変わったし、覆面をしたり、友達を避けたりしているわけだ.薬をやっきになって探してるのもそうだ。薬で完治する希望を捨ててないんだよ、なんとかして願いがかなえばいいんだが! これが私の解釈だ。ひどいことだ、プール、まったく、考えるだけでぞっとするよ。でもこれではっきりしたし、当たり前のことでもある。つじつまもあうじゃないか。いろんな恐ろしい不安からも解放されるってもんだよ」
「アターソンさま」執事は、まだ青白い顔をして言った。「やつは、私のご主人さまではありません、それは確かです。私の主人は、」とここであたりを見回して、声をひそめた。「背が高くて、がっちりした体格ですが、やつはずっと小さいんですから」アターソンはさえぎろうとしたが、「アターソンさま」とプールが叫んだ。「私が20年もお仕えしたご主人さまを見まちがえるとでもお考えですか? 毎朝ご主人さまを見ていたのにも関わらず、私が書斎のドアのどのあたりまで、ご主人さまの頭がくるのか分からないとでもいうんですか。いいえ、アターソンさま、覆面をしたやつは断じてジキル博士ではございません。神のみがご存知です、でもジキル博士でないことだけは確かです。殺人が行われたに違いありません」
「プール」弁護士は答えた。「もしおまえがそこまでいうなら、はっきりさせるのが私の義務だろう。おまえの主人の感情を損ねたくないし、この紙はまだ彼が生きている証拠にちがいないと思わないでもないが、あのドアを壊してでも中へ入るのが私の義務だろう」
「あぁ、アターソンさま、その通りです!」執事はさけんだ。
「そこで二つ目の問題だ」アターソンは続けた。「誰がそれをやるかということだが、」
「もちろん、あなたと私で」というのが執事の勇敢な答えだった。
「よく言ってくれた」弁護士は答えた。「何があっても、おまえには迷惑がかからないようにするからな」
「教室に斧があります」とプールは続けた。「で、アターソンさまは台所の火かき棒をもってください」
弁護士はそのごつごつとしてずっしり重い棒を手にもち、重さを確かめた。「わかってるか?」と顔をあげてプールへ言った。「これから、おまえと私でいささか危険な場所へ乗り込むんだぞ」
「そうですとも」執事は答えた。
「それなら、もっと正直になろうじゃないか」弁護士は言った。「私たちにはまだお互いに言ってないことがあるようだ。すっかり打ち明けようじゃないか。そのおまえが見た覆面をした男というのは、誰だかわかったかい?」
「えぇ、あまりに動きが早くて腰をかがめてましたから、確かにとはいえませんが」というのが答えだった。「でもアターソンさまが言いたいのは、ハイド氏では? ということでしょう。えぇ、そうです、私もそう思いました! 背の高さも同じくらいですし、身のこなしが軽いのもそっくりです。それに他の誰があの研究室のドアから入ってこれるというんですか? お忘れではないでしょうな、アターソンさま、あの殺人事件のときもやつがまだ鍵をもっていたということを。でもそれだけではありません、アターソンさま。ハイド氏には会ったことがありましたか?」
「あぁ」弁護士は答えた。「ハイド氏とは、一回話したことがある」
「それなら私たちと同じように、あのお方にはどこか奇妙なところがあったことをよくご存知なはずです。どこか、人にショックを与えるようなところがあるんです。なんて言えばいいのかはよくわかりませんが、とにかくアターソンさまも、背筋がぞっとするような目に会われたことでしょう」
「おまえが言うとおりだ」アターソン氏は答えた。
「そうなんです」プールは答えた。「それで、あの覆面をつけたサルみたいなやつが、薬品のなかから飛び上がって、書斎に逃げ帰ったときは、ぞっとしました。はっきりした証拠はないんですが、アターソンさま、私も書物でいろいろ学んでますから。ただ人には感じるということがあります、聖書に誓って、やつはハイド氏です!」
「そうか、そうか」弁護士は言った。「私が心配していたことも全く同じことだ。私が心配したように、悪いことが行われたんだ、2人の関係から悪が生じたに違いない。あぁ、おまえのいうことを信じるよ。ヘンリーはかわいそうに殺されたんだ。おまけにその殺人者は、被害者の部屋に潜んでいるというわけだ(何の目的なのかは、神のみぞ知るのだろう)。よし、仇を討ってやろう。ブラッドショーを呼ぶんだ」
召使はよばれて、青くなっておどおどしながらやってきた。
「しっかりしろ、ブラッドショー」弁護士は言った。「私にもわかっているが、どっちつかずの状態がおまえたち全員をびくびくさせているんだ。これからそれにも決着をつけてやる。ここにいるプールと私で書斎に押し入るから。もし万事上手くいったなら、責任は全部私がもつ。そのあいだに、なにか失敗をやらかしたり、犯人が裏口から逃げ出すようなことがあったら、おまえとあの男の子でしっかりした棒をもって、あの角をまがって、研究室のドアのところで待ち伏せるんだ。持ち場につくまで10分の猶予をやるから」
ブラッドショーが行くと