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CRACKDOWN Law and Disorder on the Electronic Frontier by Bruce
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ベルの黄金のヴェイパーウェア
テクノロジーにはライフサイクルがある。都市や、団体や、法律や政府がそうであるように。
どんなテクノロジーも最初の段階では、クエスチョン・マークがついている。それはしばしば「黄金のヴェイパーウェア」として知られている段階である。この初期の段階では、そのテクノロジーは幻想だけのもので、発明家の夢の段階にすぎない。こうした発明家の一人が、アレキサンダー・グラハム・ベルという名前の演説家で、電気修理屋だった。
ベルの初期の発明品は、独創的なものだったが、世界をうごかすというわけにはいかなかった。1863年、ティーンエイジャーのベルと彼の兄弟のメルビルは木材とゴムと樹脂、そしてすずを使って人工的に話す機械を作った。この風変わりな機械は、ゴムでおおわれた動く木製の部品でできた「舌」とゴムが震える「声帯」、ゴムの「くちびる」と「ほお」がついていた。メルビルが肺を模したふいごを使って、すずの管から空気を送り、若きアレック・ベルが「くちびる」と「歯」と「舌」を操作すると、その機械から甲高いファルセットのわけのわからない言葉がでてくるのだった。
もう一つの技術的なブレイクスルーにつながったかもしれない発明品は、1874年のベルの「フォンオートグラフ」で、本当に人間の死体の耳からつくったものだった。三脚の上に固定された、この気味の悪い機械は、震える耳の骨に接着された細いわらでくもりガラスに音波形を描くのだった。
1875年には、ベルは聞き取れる音を作り出すことができるようになっていた。その音は、ひどくやかましい、かなきり声で、磁石と振動版と電流でもって作り出された。
たいていの「黄金のヴェイパーウェア」テクノロジーは、どうにもならないものだ。
しかしテクノロジーの第二段階は、「有望なかがやける星」か「まぬけな試作品」かの段階だ。電話は、ベルのもっとも意欲的な装置だったが、1876年の3月10日にこの段階に達した。この偉大なる日に、アレキサンダー・グラハム・ベルは、人がききとれる声を電気として送信した最初の人物となった。そのとき若きベル教授は、自分のボストンの研究所で熱心に自分の機械をいじくりまわしていたが、ズボンに酸をこぼしてしまった。助手のワトソンは、助けを呼ぶ声を聞いた。そう、ベルの実験用の音声を電信で伝える機械で聞いたのだ。これは予想だにしない出来事だった。
「間抜けな試作品」段階のテクノロジーは、ほとんどまともには動かない。実験段階だから実用的とはいえないし、どちらかというと骨折り損のくたびれもうけみたいなものだ。試作品は魅力的で斬新かもしれないし、絶対何かの役に立つに違いないと思うかもしれない。でも発明家をふくめて誰も何の役に立つかは、はっきりわかっていない。発明家、投資家、評論家たちはその潜在的な用途について確固たるアイデアを持っているように思えるかもしれないが、たいていぜんぜん間違ってる。
間抜けな試作品の自然生息地は、見本市や大衆紙だ。生まれたばかりのテクノロジーは、まるでよちよち歩きの子牛がミルクを必要とするように、パブリシティや投資を必要としている。これはベルの機械にもまさに当てはまったことだ。調査や開発の費用をあつめるために、ベルは自分の装置を舞台の見世物にして旅してまわった。
電話の舞台デビューについての当時の新聞の記事は、かなり不安が交じってはいるが好意的な驚きを表明している。ベルの舞台での電話は、ぶかっこうなスピーカーがついた大きな木製の箱で、その全体のサイズや形は、育ちすぎたブラウニーカメラといった具合だった。そのぶんぶんうなる鋼の音響版は、強力な電磁石で上下したが、観客席全体へと響き渡る大きな音をたてた。かなりキーボードが上手かったベルの助手のワトソンが、オルガンを離れた部屋でひいていたのが効果的だった。後にはそれは離れた都市からになった。この離れ業はまさしく素晴らしい一方で、本当のところ、とても気味の悪いものに思われた。
ベルの電話に対するもともとの考えは、マスメディアになるのではというものであり、そのアイデアは二年ほどは見込みがありそうに思われた。今日ではベルのアイデアは、現代の「ケーブルラジオ」に近いものといえるかもしれない。中心の情報源から電話で、音楽、日曜日のお説教、重要な演説が、回線が張り巡らされた加入者の有料ネットワークへと流されるのだ。
当時、ほとんどの人がこの考えはとてもいいと思っていた。事実、ベルのアイデアは現実的なものといえる。ハンガリーでは、この電話の考え方が実用にうつされ、成功していた。ブダペストでは、第一次世界大戦後の1983年から何十年ものあいだ、政府が運営する「テレフォン・ヒルモンド」と呼ばれる情報サービスがあった。ヒルモンドでは、中央にニュースや娯楽や文化の情報源があり、株式市況、演劇、コンサート、小説の朗読が行われていた。一日の特定の時間に、電話がなり、家族で聞けるようにスピーカーに電話を接続するのだ。するとテレフォン・ヒルモンドが放送される、というよりはむしろ電話を通して聞こえてくるのだ。
ヒルモンドは今日では廃れた技術だ。ただヒルモンドは、現在の電話線でアクセスするコンピュータ・データ・サービスの精神的な祖先とみなせるかもしれない。たとえば、CompuServe、GEnie
や Prodigy といったようなサービスの。ヒルモンドの基本的な考え方も、コンピュータの「掲示板システム」や、1970年代後半に急速にアメリカ全土に広がって、この本でも大きく取り扱われることになるBBSの考え方と大きくかけ離れたものではない。
われわれは電話を一対一の個人的な会話に使うのになれているが、これはベル電話会社のシステムになれているにすぎない。つまりこれは、電話のもつ多くの可能性のうちのほんの一つにすぎない。コミュニケーション・ネットワークは、特にハードウェアが十分に進んでいれば、とてもフレキシブルで、変幻自在なものだ。どんな用途でも使うことができる。そして実際に使われてきたし、これからも使われるだろう。ベルの電話は栄光への道を歩んでいたが、この道のりは政治的な決定と、法廷での抜け目のない争い、直感的に当たっていた産業上のリーダーシップ、受け入れやすかった地域の状況、そしてまったくの幸運が重なったものだった。現在のコミュニケーションシステムにもだいたい同じことが当てはまる。
ベルとその支持者は、19世紀のニューイングランドの現実の世界にその新式のシステムを導入しようと奮闘したが、懐疑主義や産業上の競争と争わなければならなかった。当時すでにアメリカには、強力な電信コミュニケーションネットワークが存在した。電報だ。ウェスタン・ユニオン電報システムの社長は、ベルの試作品を「電気じかけのおもちゃ」と退けて、ベルの特許の権利を買うことも拒否した。電話は、室内での娯楽にはいいが、まじめなビジネス向きではないと思われていたのだ。
電報は、ただの電話とは違って、メッセージが後までずっと物理的な記録として残る。電報は電話と違って、受け手に時間があって、都合のよいときに返事をすることができる。そして電報は、ベルの初期の電話よりずっと広い範囲を網羅していた。これらの要因が、電報は電話よりずっとしっかりとした、そしてビジネス向きのテクノロジーだと思わせたのである、少なくともある人々にとっては。
電報のシステムは広大なもので、まったくゆるぎないものだった。1876年には、アメリカは21万4千マイルの電報のケーブルが張り巡らされ、8500の電報局があった。ビジネス、株式トレーダー、政府、警察そして消防局の専用の電報さえもあった。そしてベルの「おもちゃ」は、舞台でのマジックの音楽用の装置として一番よく知れ渡っていた。
テクノロジーの第三段階は、「金のなる木」の段階として知られている。「金のなる木」の段階では、テクノロジーは世界でその落ち着き場所を見つけ、十分に発達して、定着し、生産的なものとなる。一年やそこらで、アレキサンダー・グラハム・ベルとその資本提供者たちは、19世紀のサイバースペースからでてくる不気味な音楽は、その発明品の真のセールスポイントではないと結論づけた。その代わりに、電話は会話に、個人間の私的な会話、人間の声での人間同士の会話、やりとりにつかわれた。電話は、中央の放送センターから放送されるようなものではなかった。個人間の、親密なテクノロジーになるべく運命づけられていたのだ。
あなたは電話をとるとき、機械からでてくる冷たい出力に関心があるわけではない、他の人と話しているわけだ。いったんこれを理解すると、電話に対する、気味が悪いとか不自然な機械だとかの本能的な嫌悪感はたちまちに消えうせる。「テレホン・コール」はテレホン自体からコールされるわけではなく、たいていあなたの知り合いで誰だかわかってる人からコールされるわけだ。肝心なのは、機械があなたのために、あるいはあなたに何をしてくれるかではなく、人間であり市民であるあなた自身が、機械を通して何ができるかということだ。初期のベル・カンパニーにとって、これは決定的に重要なことだった。
最初の電話ネットワークは、ボストンの、大部分は技術に興味をもつ、裕福な人達のあいだに敷かれた(100年後に、パーソナルコンピュータを買うことになるのは、アメリカの大衆の全く同じ層だ)。ゆるぎない電報の支持者たちは、あざ笑いつづけていた。
しかし1878年、一つの災害が電話を有名にした。一台の電車がコネチカット州、タリフビルで事故をおこした。ハートフォードの町の近くにすむ進歩的な医者たちは、ベルの「電話」をすでに取り付けていた。ある気がきく地域の薬剤師が、その地方の全ての医者たちのコミュニティに電話をして、医者たちは事故現場にかけつけ救助を行った。その災害は、災害のつねとして新聞で大々的に報道された。電話は、現実の世界で有用なものだと証明されたわけだ。
タリフビル以降、電話のネットワークは雑草のように広がっていった。1890年までには、ニューイングランド全域に広まり、93年にはシカゴへ、97年にはミネソタ、ネブラスカとテキサスにも広まった。1904年には北アメリカ大陸全域に広まったのだ。
電話は、成熟したテクノロジーとなっている。ベル教授(実際に学位はとってないが、今ではベル博士として知られている)は、きわめて裕福になった。そしてブームになった電話ネットワークの退屈な毎日のビジネス上の混乱には興味を失い、再びいろいろな自分の研究所での独創的なハッキングに喜んで戻っていった。研究所は今ではずっと大きく、よく話題にものぼり施設も充実していた。ベルは他の発明では成功することはなかったが、彼の思いつきと試作品は、光ファイバーや有人飛行、ソナー、水中翼船、四面構造、モンテッソリ教育法の先駆者となった。音の大きさを表す標準的な単位のデシベルは、ベルにちなんで名づけられている。
ベルのヴェイパーウェアの発想はこれだけではない。彼は優生学にも熱心だったし、また何年もかけて重力が存在しない自分だけの天文学の仕組みを考えていた。
ベルはたしかにエキセントリックだった。ヒポコンデリー気味で、生涯を通して朝の4時まで床に入らず、昼までは起きない習慣だった。しかしベルは偉大なことをなしとげた。大衆の人気者で、その影響力や富、大いなる人間的な魅力は、エキセントリックさとあいまって、彼を何をしでかすかわからない人(a loose cannon on deck)と印象づけた。ベルは、自分のワシントンD.Cの冬の別荘で盛んに科学サロンを開き、それは政府や科学界に背面からの大きな影響力を与えた。「Science」や「National Geographic」の主要な財政上の支援者でもあり、それらは両方とも今日でも、アメリカの科学界のエスタブリッシュメントの重要な機関誌となっている。
ベルの同僚のトーマス・ワトソンも同じように大金持ちになったが、同じくらいかわっていて、19世紀のSF作家で、社会改革家といってもいいエドワード・ベラミ−の熱心な政治上の弟子となった。ワトソンは、またしばらくシェークスピアの俳優として舞台にもあがっていた。
もう一人のアレキサンダー・ブラハム・ベルが出てくることはなかったが、それから数年で驚くほどの数の彼に似た人々が現れた。ベルはハイテク時代の起業家のプロトタイプだったのだ。ハイテクの起業家は、この本でもとても重要な役割を果たす。たんに技術屋やビジネスマンとしてではなく、技術上のフロンティアの先駆者としてだ。彼らはハイテクノロジーから得た力と名声を、政治や社会の領域につぎ込むことができた。
ヴェイパーウェア:
ヴェイパーウェアについては、vapor/vapour
は蒸気なんて意味で「見えるけど手には取れない」とか、「逃げ水みたいな、近くにいくとなくなって、いつも遠くにはみえてる」なんて意味合い。まぁ、こう書くときれいなイメージなんだけど、現実にはリンク先の下の方の記述みたいなもの。
機械(gadget):
gadgetってのはだいたいこんなようなもの。
樹脂(gutta-percha):
グッタペルカ、ゴムに似た物質;
絶縁体・歯の充填(じゅうてん)材・ゴルフボールなどに用いる
Watsonの読み方:
Watsonの読み方について(ワトソン
or ワトスン)。僕はワトソンが好きなんで。
よちよち歩きの子牛(a tottering calf):
Cash Cow=金のなる木とかけてるわけだ。訳すのは難しいけど。
電話の発明の経緯:
べルの父親はスコットランド生まれで聾唖教育の専門家だった。その父親の仕事を手伝うためにベルは医学部に進み、音声生理学の教授になった。そして音について基礎研究をはじめ、電気や光による音の伝送はできないものかというアイデアにとりつかれ、それが電話の発明に結びついた。つまり耳や口の不自由な子どもたちと、どのようにしたら話せるようになるか、聞こえるようになるかという切実な願いが電話機の発明に結びついた。英語のテレフォン(電話)は「遠くの音」という意味だとされる。
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