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THE HACKER CRACKDOWN  Law and Disorder on the Electronic Frontier by Bruce Sterling  Universal Service

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全国へのサービス
  
 後世の起業家のように、ベルは自分の技術テリトリーを猛烈に防御した。電話が普及しはじめると、ベルはすぐに自分の特許をまもるためのはげしい訴訟の渦にまきこまれた。ベルのボストンの弁護士たちは優秀な人材だったが、ベル自身も雄弁術の教師で、生まれながらの演説家だったので、かなり効果がある証人となった。特許から18年で、ベルの会社は600件の別々の訴訟にまきこまれた。印刷された法廷記録は149巻にもおよんだが、ベルの会社は全ての訴訟に勝った。

ベルの排他的な特許権の期間が終了すると、ライバルの電話会社が、アメリカ中に雨後のたけのこのように出てきた。ベルの会社、「American Bell Telephone」はすぐに深刻な状態になり、1907年には、ウォール街に巣食っていた悪徳資本家の邪悪なJ.Pモルガン金融カルテルの手に落ちた。

その時点で、歴史はちがった方向へと向かっていたかもしれない。アメリカでは、永久に地方の電話会社のつぎはぎだらけのサービスしかうけれらなかったとしても不思議ではない。多くの地方政治屋や地方のビジネスマンたちが、それがいい方法だと思っていたのだ。しかし、American Telephone and Telegraph もしくは AT&T という名前の新しいベル持ち株会社は、セオドル・バイルというビジョンをもった企業家が実権をにぎるようになっていた。バイルは元郵政省長官で、大きな組織を理解しており、もともと大規模なコミュニケーションの本質というものをつかんでいた。バイルは AT&T が技術の最先端をもう一度奪い返す必要性をみてとった。プピンとキャンプベルの「ローディング・コイル」とデフォレスト「真空管」は今日ではともに廃れたテクノロジーだが、1913年当時は、バイルの会社にそれまででベストの長距離回線をもたらした。長距離通話を支配におくことで、小さい地方の会社をつなぎ、それらをこえ、しまいには凌駕するようになった。AT&T は、すぐさまそれらの会社を支配下に置き、あちこちで吸収していった。

バイルは利益を惜しみなく研究開発に投資し、ベル伝統の大規模なすばらしい研究がはじまったのだ。

技術的にも財政的にも AT&T は、だんだん対抗するものを押しつぶした。独立電話会社は決して完全になくなることはなく、今日でも何百という会社がある。しかしバイルの AT&T は優れた通信会社になっていた。ある時期バイルの AT&Tは、ウェスタン・ユニオン自身を買い取った。ベルの電話を「おもちゃ」とあざわらったあの会社だ。バイルはウェスタン・ユニオンの極めて保守的なビジネスを、徹底的に自分の近代的な方針に基づいて改革した。しかし連邦政府がこの権力の集中化に懸念をつのらせるようになると、バイルはもめずにウェスタン・ユニオンを手放した。

この集中化のプロセスは、ここだけのことではなかった。全く同じようなことがアメリカの鉄鋼、石油、鉄道で起こっていた。しかし AT&T は、他の会社とは違って、優位な立場を維持しつづけることとなった。他の産業の独占悪徳資本は、政府の独占禁止につぶされてばらばらになってしまったのだ。

バイルは、元郵政省の役人だったので、アメリカ政府とうまくやっていこうとしていた。事実、政府と実質的な同盟関係にあった。AT&T は完全にそうというわけではなかったが、ほとんどアメリカ政府の一部門といってもよかったし、ほとんどもう一つの郵便局といってもよかった。AT&T は進んで連邦の規制をうけたが、その代わりに政府の規制を自分を守ってくれるものとして利用した。それにより競争相手を排除し、ベルの会社の利益と独占を保障させたのだ。

これはアメリカの電話システムの二度目の誕生、つまり政治的な誕生だった。バイルの調整は大成功で、1982年まで長きにわたって維持された。そのシステムはアメリカの産業社会主義の奇形だった。レーニンの共産主義と同時期に姿をあらわし、ほとんど同じくらい続き、これは認めざるをえないが、ずっとよい結果をおさめたのだ。

バイルの仕組みは機能した。アメリカにおいては宇宙開発をのぞいては、電話ほど完全にテクノロジーが独占されたことはなかった。電話ははじめから、典型的なアメリカのテクノロジーと思われていた。ベルの方針は、とりもなおさずセオドラル・バイルの方針ということだが、「どこからでもアクセスできる」という本当に民主的なものだった。バイルの有名な会社のスローガンは、「一つの方針、一つのシステム、全国へのサービス」という政治的なスローガンで、とてもアメリカらしいひびきがあった。

アメリカの電話は政府やビジネス専用の道具にはならずに、だれもが使えるものになった。最初は、たしかに金持ちだけが自分の電話をもっていて、ベルの会社はビジネスの市場を第一に追い求めていた。アメリカの電話システムは資本家の努力であり、つまりは金稼ぎで、慈善事業ではなかった。でも当初から、電話サービスにかかわるほとんどすべてのコミュニティには、公衆電話があった。そして多くの店には、とくに雑貨屋は、電話をだれでも使えるようにした。電話をもってなかったとしても、本当に必要ならいつでも電話システムに入っていけたわけだ。

電話を公共的かつ全国的なものとするこの決定は、必然というわけではなかった。バイルのシステムには、一般大衆への深い信頼があり、この決定は政治的なもので、アメリカ社会の基本的な価値観として喧伝された。他の国々や、他のシステムでは状況はぜんぜん違っていたかもしれない、実際にもそうだった。

たとえば、ジョセフ・スターリンはボルシェビキ革命後すぐにソビエトの電話システムの計画に反対した。スターリンは、誰でも使える電話が反ソビエトの反革命やその共謀の道具になるだろうと確信していたのだ(それはたぶん正しかっただろう)。電話がソビエトに普及したときは、党の権力者のための道具で、いつもしっかり盗聴されていた(アレキサンダー・ソルジェニーツィンの「収容所群島」の「最初の環」では、電話をスターリンの目的にかなうように改良していく努力が描かれている)。

フランスでは、その伝統的な合理的中央集権国家ゆえに、電報にさえひどく抵抗があった。フランス人には電報でさえ、あまりに無秩序で軽薄なものと思われたのだ。何十年も、19世紀のフランスでは「目に見える電報」で通信が行われていた。「目に見える電報」とは、国家規模の、丘の上の大きな石のタワーでできた政府所有の信号装置システムで、風車のような大きな腕木をつかって広大な距離を通信していた。1846年には、一人の熱狂的な信号装置の支持者であるバーベイ博士は、オープンなメディアに対する「セキュリティの専門家の意見」といえるようなものの記念すべき原型を口にしている。

「けっして電報はすばらしい発明とはいえない。それは常にささやかな破壊にも、乱暴な若者たちや、よっぱらい、浮浪者たちのなすがままになるだろう。電報は、監視が不可能なほんの数メーターの電線が破壊されただけでだめになるのだ。一人の人間が、姿を見せることもなく、パリにつながっている電線を切断できる。同じ回線を24時間、10箇所にわたって切断しても、逮捕されることもない。目に見える電報なら、それとは違って、タワーがあり、高い壁がある。その門は内側から武装した人々に守られている。私は断言したい。電報が目に見える電報の代わりするなんて、恐るべきことで、まったくばかばかしいと」

バーベイ博士とその高いセキュリティを誇る石の機械はそのうち不首尾におわったが、その意見は、つまり、通信が国家の安全と利便のために存在し、システムを破壊しようとするような乱暴な少年たちや暴徒たちから、きちんと守らなくていけないという意見は、繰り返し聞かされることになる。

とうとうフランスにも電話システムが普及したとき、その混乱した不十分さは名高かかった。アメリカのベルシステムを支持するものは、しばしば懐疑論者たちにフランス行きをすすめたものだった。

エドワード7世時代のイギリスでは、階級とプライバシーの問題が、電話の普及の妨げとなっていた。誰か、道ばたの馬の骨が、電話のベルだけを先触れとして、オフィスや家庭にわめきちらしながら侵入してくることができるなんてことは、礼儀に反したことだと思われていたのだ。イギリスでは、電話はビジネス用になんとか我慢して利用するもので、プライベートでは電話はクローゼットや喫煙室や召使の部屋に押し込められていた。電話のオペレータは、イギリスでは評判がわるかった。というのは、「分をわきまえないもの」と思われていたからだ。育ちのいいものは、名刺に電話番号を記載することはなかった。そんなことは、見も知らぬ人たちと知り合いになる粗野な試みに思われていたのだ。

しかしアメリカで電話をかけるのは、当たり前の権利になっていた。普通選挙権と同じようなもので、いやそれ以上でさえあった。アメリカの女性は、電話が普及したころにはまだ投票ができなかった。ただ初めから、アメリカの女性は電話を溺愛した。このアメリカの電話の「女性化」は外国人によく指摘されることである。アメリカでは電話は、盗聴されたり、堅苦しかったり、形式ばったものではない。社会的で、プライベートでつかわれる、親密で家庭的なものだった。アメリカでは母の日が、一年で一番電話が混み合う日なのだ。


元郵政省長官:
 確か郵政省って、postal service じゃなかったっけ? a former Post Office managerのPost Officeって何? と調べてみたら1971年に公社化されるんだけど、その前は、Post Officeなわけだ。現在では助成金ももらってないし、やるねぇ。

Edward 7世時代:
1901年‐1910年

収容所群島:
日本の出版状況にはあきれるね、この本が絶版だなんて。オンラインの本屋で調べただけだけど。それにしてもbk1は重い、軽さだけでアマゾンを使いたくなるぞ。

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