『ハッカーを追え』の翻訳。特に誤訳、誤字などの指摘があったら、メールでもいただければ。

太字は英文のポップアップつき。


Literary Freeware: Not for Commercial Use
THE HACKER CRACKDOWN  Law and Disorder on the Electronic Frontier by Bruce Sterling

Phile 9-1-1

Terminus の Netsys 掲示板は、普通の掲示板の機能の大半を備えてはいるが、ありふれた掲示板ではない。Netsys はスタンドアローンのマシンで動いているわけではなく、世界規模のUUCP という協力して動くネットワークの一部として機能している。UUCPネットワークは一組の Unix のソフト、Unix-to-Unix Copy とよばれるプログラムを使い、そうすることで Unix のシステムはデータを公衆網を利用して高速にやりとりできる。UUCP は徹底的に分散されていて、UNIXコンピュータの非営利のネットワークのためのものである。数万の UNIX マシンがあって、小さいものも強力なものも、他のネットワークにつながっているマシンもある。UUCP は強大なインターネット同様、確かに JANET, EasyNet, BITNET, JUNET, VNET, DASnet, PeaceNet、FidoNet のようなメジャーなネットワークに比べれば良く知られていない接続法だ(いわゆるインターネットは実際にはネットワークそのものではない、むしろいくつもの地球規模のコンピュータネットワークがお互いに通信できるような「相互接続のための」標準といった方がいい。この世のものとは思えない複雑にからみあう現代のコンピュータネットワークに魅了された読者は、たぶん John S. Quarterman の立派な719ページの本「The Matrix」 Digital Press, 1990 を楽しめるだろう)

Terminus の UNIXマシンの熟練したユーザーなら、ほとんど全ての世界中の主要なコンピュータネットワークとEメールのやりとりができる。Netsys は掲示板というべきものではなく、むしろ node とよばれるべきものだ。Node とは、掲示板とくらべて大きくて、早くて、より洗練されているものであり、ハッカーたちにとっては世界につながっている node を溜まり場にすることは、単に地域の掲示板を溜まり場にすることからの大きなステップアップといえる。

メリーランドの Terminus の Netsys node は、興味を共有していたり、少なくともその自由を鼓舞するような態度を分かち合っている人が運営している他の同様の UUCP node の多くに直接つながっていた。そういった node の一つが、 Richard Andrews が持っていた Jolnet で、 Richard Andrews は Terminus のように、独立して UNIX のコンサルタントをやっていた。Jolnet も UNIX で走っていて、世界中のメインフレームのマシンと高速に結ばれていた。Jolnet の大半は他の UNIXプログラマーたちが、メール、データの蓄積、ネットワークへのアクセスのために使っていた。Jolnet は、200人ほどのユーザーだけではなく地方の短期大学をネットーワークにアクセスさせることができた。

そういったさまざまな機能とサービスのなかに、Jolnet でも Phrackマガジンが提供されていた。

Richard Andrews も自分なりの理由で、Robert Johnson という名前の新しいユーザーを疑わしく思っていて、思い切って、かれが Jolnet に置いたものを見てみることにした。そして Andrews は、E911文書をみつけることになる。

Robert Johnson こそが Legion of Doom の Prophet であり、E911文書はProphet がベルサウスのコンピュータに侵入して不法にコピーしたデータだった。

E911文書は、きわめてのろわれたデジタル所有物の一つであり、その長くて入り組んだ悲惨な経歴がふたたびはじまろうとしていた。

Andrews は、拡張された 911Systemについて言及している文書を電話会社の従業員でもない人間がもっていることをすごくうさんくさく感じた。そのうえ、文書自体にも明確な警告が記されていた。

「警告:ベルサウスおよびその子会社外で、明文化された契約なしに利用もしくは公開を禁ず」

こういった標準的な非公開の文言は、しばしばありとあらゆる会社の文書についているものだし、電話会社はとくに目に入るものほとんど全てに「利用もしくは公開を禁ず」というスタンプを押すことで悪名高い人種だ。ただ、この特別なデータの一部は911システムに関するもので、Rich Andrews にとっては間違ったことが行われているように思った。

Andrews は、こういったトラブルを無視するつもりはなく、この文書について相談してみるために UNIXネットワークの友人や知り合いに渡すのが賢明なことに思われた。そう、1988年の9月ごろのことだ。Andrews はE911文書の電子コピーをもう一部、AT&T の従業員である人物、 Charles Boykin におくった。かれは、テキサス州ダラスで attctc とよばれる UNIXベースの node を運営していた。

Attctc は AT&T の所有物で、ダラスにある AT&T の顧客技術センター(AT&T's Customer Technology Center)で運営されていて、そこから名前をとって、attctc となっている。Attctc は、Killer といった方が通りがいいかもしれない。それはシステムが動いていたマシンの名前だ。Killer はしっかりした、高い性能のAT&T 3B2 500 モデルで、メモリが32M、びっくりすることなかれ3.2Gの記憶装置を備えている、マルチユーザー、マルチタスクの UNIX をプラットホームとするマシンだった。1985年に Killer がはじめてテキサスにきたとき、 3B2 のマシンはIBM と企業コンピュータの市場で肩をならべようとする希望の星の一つだった。Killer はダラスのインフォマート、つまりハイテクの展示場の顧客技術センターにもちこまれ、展示用モデルとして備え付けられた。

Charles Boykin は AT&T のハードウェアとデジタル通信の専門家でベテランであり、AT&T 3B2 システムの地域での技術対応職員だった。インフォマート展示場での展示モデルとしては、Killer はほとんどやることはなく、システムの能力を無駄にするのは恥ずべきことのように思われた。だから Boykin は、Killer 向けに UNIX の掲示板ソフトを書き上げ、地域の電話ネットワークへそのマシンをつなげた。Killer の1985年後半のデビューで、テキサス州ではおおっぴらに使える UNIX のサイトがはじめてできた。使いたいものは誰でも歓迎された。

そのマシンはすぐに電子コミュニティをひきつけた。UUCPネットワークにつながり、80をこえる他のコンピュータのサイトへネットワークのリンクを提供した。それらのサイトは、より大きなサイバースペースの世界へ Killer を使ってつながっていた。それは大企業のためだけのものではなく、パーソナルコンピュータのユーザーもアミガ、アップル、IBM、マッキントッシュのフリーウェアを Killer の巨大な3200Mのアーカイブにいれておくことができた。一時期、Killer はテキサスで一番大きなマッキントッシュのパブリックドメインだったこともある。

ついには、Killer は1500人のユーザーを集め、みなが忙しく通信、アップロード、ダウンロード、メールをしたり、ゴシップをばらまき、少数の人にしか知られていない遠く離れたネットワークに接続したりした。

Boykin は Killer の運営にお金をとったりはしなかった。 AT&T 3B2 system のいい宣伝になるだろうと考えたのだ(その売上は、けっしてきらびやかというものではなかったが)。しかし自分の技術でつくりあげた、活気がみなぎるコミュニティを純粋に楽しんでもいて、自分で書いた UNIXの掲示板ソフトを無料で配った。

UNIXのプログラムコミュニティでは、Charlie Boykin は温かく、心が広い、穏健な性格の男だという評判をえていて、1989年にテキサスのUNIXのプロたちのグループは、Boykin を System Administrator of the Year に選んでいる。的確なアドバイスをくれる人物としては、うってつけだった。

 1988年9月、警告もなくE911文書は、Richard Andrews から転送されて Boykin の生活の中に飛び込んできた。Boykin はすぐにこの文書がやばい持ち物であることを見て取った。音声通信にはかかわりがなく、Baby Bells のあれこれについてはほとんど知らなかったが、911システムがどんなものかは知っていた。そして911システムに関する極秘のデータが、悪いやつの手の中にあることに怒りをおぼえた。これは確実に電話会社のセキュリティに関わる問題だ。そして1988年の9月21日、Boykin はE911文書のコピーをとり、自分の知り合いで、AT&Tの情報セキュリティ部門の専門家である Jerome Dalton に送った。 Jerome Dalton は後になってまさしく Terminus の家に尋問にいくことになる。

AT&Tのセキュリティ部門から、E911文書は Bellcore に投げられた。

Bellcore (BELL COmmunications REsearch) は、かつてはベルシステムの中央研究所で、ベル研究所の従業員がUNIXシステムを開発した。現在では、Bellcore は半独立の、7つの Baby Bell RBOC の研究部門として共有される会社である。Bellcore はRBOC のセキュリティ技術とコンサルティングを行う立場にあった。そしてこういった仕事の責任をもつ男が Henry M. Kluepfel であり、彼はベルシステムのベテランで、24年間セキュリティ関係の仕事をしてきていた。

1988年の10月13日、Dalton はE911文書を Henry Kluepfel に送った。Kluepfel は、電話通信詐欺やコンピュータ犯罪事件にも数多くかかわってきた専門家で、これより悪質なトラブルにもみまわれてきたが、この文書がどういったものかはすぐに把握した。ハッカーの侵入によるトロフィーだと。

しかしながら、侵入によってどんな害があったにせよ、それはたぶん昔のことのようだ。現時点でできることはない。Kluepfel は状況を注意深く整理したノートをつくり、さしあたって問題を棚上げした。

何ヶ月かが経過した。

1989年の2月になった。アトランタの2人はベルサウスの交換機で大いに騒いでいて、まだ報いは受けていなかった。Legion はもりあげっていた。ということは、Phrack も同じだ。Prophet が AIMSX に侵入してからなにごともなく6ヶ月が経っていた。Prophet はハッカーの習性として、今までの実績にあぐらをかいてるのにうんざりしてきた。Phrack の編集者である、Knight Lightning や Taran King は出版する何かいいネタがないかと Prophet に頼んでくる。Prophet は、ここまで経てば追跡もないにちがいなく、安心して自慢し、いばってみせびらかすことができると考えた。

そしてE911文書のコピー、また別のコピーを Rich Andrews の Jolnet から ミズーリ大学の Knight Lightning の BITnet のアカウントに送った。

さて、ここまでの文書の運命をふりかえってみよう。

0.オリジナルのE911文書:これはアトランタのメインフレームのコンピュータの AIMSXシステムにあり、何百人がつかっている。ただし全員、たぶん、ベルサウスの従業員だろう。その中の何人かは、この文書のコピーを自分でもっているかもしれないが、全員プロであり、電話会社に信頼されている。

1.Prophet の不正なコピー:ジョージアの Decatur の自宅の自分のコンピュータにあった。

2.Prophet のバックアップのコピー:イリノイの Joliet に近い Rich Andrews の家の地下の Jolnet のマシンに入っていた。

3.Charles Boykin のコピー:Joliet の Rich Andrews から送られたものでダラスの Killer にあった。

4. Jerry Dalton のコピー:ダラスの Charles Boykin から送られたもので、ニュージャージーの AT&T情報セキュリティ部門にあった。

5.Henry Kluepfel のコピー:Dalton から送られたもので、ニュージャージーのベルコアのセキュリティ本部にあった。

6.Knight Lightning のコピー:Rich Andrews のマシンから Prophet が送ったもので、ミズーリのコロンビアにある。

この所有権が存在する文書の「セキュリティ」状況が、一度 AIMSX から取り出されると、すぐにとっぴなものになっていることが分かる。金銭の授受や、これといった苦労もなく、このデータは少なくとも6回はコピーされ、国中にばらまかれている。しかしながら、最悪の事態はこの後やってくる。

1989年2月、Prophet と Knight Lightning は、このトロフィーの運命をめぐって電子的に取引を行っていた。Prophet は自慢したかったが、同時に逮捕されたくはなかった。

Knight Lightning の立場としては、自分がなんとかできる範囲内でこの文書を発行したかった。Knight Lightning は、情報の自由の問題に強い関心をもつ政治学専攻の青二才で、アンダーグラウンドの力量と電話会社の困惑をすばらしいものに見せるものならほとんど何でもよろこんで発行した。ただ、Knight Lightning も電話会社のセキュリティにつてがあり、ときどき手に入れたものが発行には危険すぎやしないか相談していた。

Prophet と Knight Lightning はE911文書を、それとわかるようなしるしの大部分を削除するために編集することとした。まず第一に、大きく書かれていた「利用もしくは公開を禁ず」という警告を削った。それから他の部分にも手をつけた。たとえば、フロリダのベルサウスの911の何人かの専門家の事務所の電話番号が記載されていた。もし Phrack にその電話番号がのれば、電話フリークがそのベルサウスの従業員を困らせるのはありそうなことだ。そうすると、ひどくベルサウスを怒らせることになるだろう。あきらかに Prophet 、Phrack の両者にとっても、作戦上やっかいなことになる。

したがって、Knight Lightning は、電話番号、やっかいな事柄や特定できる情報のいくつかを削除して、その文書をほぼ半分に刈り込んで、Prophet に電子的に送り返した。Prophet はまだ神経質だったので、Knight Lightning はもう少しばかりけずった。2人はそれでいいだろうと合意して、「盗聴者」というペンネームで Phrack に載せた。

これは1989年の2月25日のことだった。

Phrack の24号は、共同編集者の電話フリークの Chanda Leir との雑談調のインタービューがトップ記事で、BITNET と他のコンピュータネットワークへのリンクの記事が3本、Unknown User による800番と900番の電話番号に関する記事、電話会社の基本的なことがらに関する VaxCat の記事(Ma Bell のセキュリティのベールを剥ぐというふざけたタイトル)そしていつもの Phrack World News となっていた。

ニュースの部分には、痛烈な皮肉で、Shadowhawk の判決の詳細がとりあげられていた。Shadowhawk とは18才のシカゴのハッカーで、William J. Cook みずからが連邦刑務所に叩き込んでいた。

それから「盗聴者」による2つの記事があった。一つめは編集されたE911文書で「拡張された911サービスの特別なサービスと主課金センターの管理局の運営」であり、もう一つはE911文書の電話会社の頭文字や専門用語の氾濫を説明してくれる用語集の記事だった。

この不幸な文書は、通常の Phrack の配布ルートで今や150のサイトへと配られた。150人ではなく、150サイトであることに注意してもらいたい。これらのサイトのいくつかは UNIX の node や掲示板とつながっており、それ自身でも何十人あるいは何百人といった読者をもっていた。

これは1989年の2月のことだった。すぐには何も起きなかった。夏がきて、アトランタの連中はシークレットサービスに手入れをうけ、Fry Guy は逮捕された。ただ Phrack には何事もおこらなかった。あれから6号が発行され、全部で30号になり、だいたい一ヶ月に一冊のスケジュールだった。Knight Lightning と共同編集者の Taran King は手つかずのままだった。

Phrack は、追跡がせまったときにはいつでも身をひそめて隠れることにしていた。1987年の夏の捜索(ハッカーの捜索は夏に集中している、たぶん大学より家にいるときのほうが見つけやすいということだろう)のあいだ、Phrack は何ヶ月も発行されず、休眠状態だった。LoD の取り巻きの何人かが逮捕されても、アンダーグラウンドのゴシップの花形である Phrack の連中には何もおこらなかった。1988年には、Phrack の編集は新たな編集者アナーキーなファイルにことさら興味をいだく騒々しい若者の Crimson Death にひきつがれた。

しかしながら1989年はアンダーグラウンドにとっては収穫の年のようだった。Knight Lightning と共同編集者の Taran King もふたたびかかわりはじめ、1989年には Phrack は活気に満ちていた。アトランタの LoD は1989年の夏に打ちひしがれていたが、Phrack は快調なままだった。E911文書は Phrack にはなんのトラブルもひきおこさないように思われた。1990年の1月になり、Phrackでその記事がでてほぼ一年になった。Kluepfel、Dalton、ベルコアとAT&Tセキュリティの社員は16ヶ月間はその文書を所有しており、事実 Knight Lightning が手に入れる前に所有していたくらいだった。ただ、その文書が配布されるのを止めるためになんら特別な手段を講じることはなく、Rich Andrews や Charles Boykin に Jolnet や Killer といった UNIX の node から文書のコピーを削除するようにとさえ言ってなかった。

しかし1990年の1月15日、恐ろしいマーティンルーサーキング記念日の事故が起こった。

丸三日後の1月18日、4人の捜査官が Knight Lightning の寮へと姿をあらわした。ひとりは Timothy Foley で、もう一人は Barbara Golden 、二人ともシカゴ支局のシークレットサービス捜査官だ。それにミズーリ大学のセキュリティ職員と Southwestern Bell のセキュリティ担当社員 Reed Newlin が同行していた。Southwestern Bell はミズーリを管轄にしていた。

Foley は、Knight Lightning を電話システムの全国規模の崩壊を引き起こした件で告発した。

Knight Lightning はこのその告発に驚いた。Knight Lightning は自分がやっていないことを知っていたが、たしかに表面的には、その疑惑に全く根拠がないとはいえなかった。多くの腕ききのハッカーたちが電話システムを崩壊させることができると自慢していたから。たとえば、Shadowhawk は William Cook が最近刑務所送りにしたシカゴのハッカーだが、掲示板で何回も「AT&T公衆回線ネットワークを止める」ことができると自慢していた。

そしてこの事態だ、あるいは全く同じに思えるようなことが実際に起こったのだ。その崩壊が、シカゴタスクフォースのもとに火をともした。以前は日和見主義だったベルコアと AT&T も、仕事にとりかかりはじめた。ベルサウスの侵入者たちの技術に肝を冷やしていた電話会社のセキュリティのコンセンサスは、デジタルアンダーグラウンドは手に余るというものだった。LoD と Phrack に手がつけられた。

そして、Prophet のE911文書が発行され、Phrack は取締り当局に力のある法的な武器となるようなものを提供した。

Foley は、Knight Lightning にE911文書をつきつけた。

Knight Lightning はおびえており、すぐに伝統的にデジタルアンダーグラウンドにつきものの「全面協力」をはじめた。

Knight Lightning は、Foley に Phrack の全号を、三穴のバインダーにとじたプリントアウトでさしだし、Phrack の購読者の電子メールの一覧を提出した。Knight Lightning は、Foley とその一団に4時間も尋問され、Prophet がE911文書を渡したこと、それが電話会社へのハッカーの侵入によってもたらされた盗品であることを知っていたことを認めた。Knight Lightning は、この供述にサインをしてみとめ、捜査員に協力することを文書で同意した。

翌日、1990年の1月19日、金曜日にシークレットサービスは捜査令状をもってひきかえしてきた。そして徹底的にKnight Lightning の寮の二階の部屋を捜索した。フロッピーディスクを全部押収し、しかし興味深いことに、コンピュータとモデルは残していった(コンピュータにはハードディスクがなく、Foley の判断によれば証拠は何もないということだった)。ただこれは、Knight Lightning を襲った急激に増加するトラブルのなかでは、ささいだが明るいできごとだった。ここまでで、Knight Lightning は、連邦警察、検察官、電話会社の捜査官、大学のセキュリティによってだけでなく、寮の上級生たちによっても、十分窮地に陥っていた。上級生たちは、不本意ながら連邦コンピュータ犯罪者をかくまったと考えて憤慨していた。

月曜日には、Knight Lightning はシカゴに召喚された。そこで Foley と USSS のベテラン捜査官 Barbara Golden にもっと尋問をうけた。今回は、弁護士が立ち会っていたが。そして火曜日には、連邦大陪審によって正式に起訴された。

Knight Lightning の裁判は、1990年の7月24日〜27日におこなわれたが、ハッカー一斉取締りの決定的な公開裁判だった。その裁判については、この本の第四部で詳しくみてみよう。

ところで、われわれはE911文書を辛抱強く追いつづけなければならない。

1990年の1月には、E911文書は1989年の2月に発行された Phrack の形で少なくとも150のばらばらの方角へ光速に飛び散ったことは明らかになっている。この電子魔人を瓶の中へもどそうという試みは、まったく無駄なものだ。

それなのに、E911文書はまだ公式に法律的にいえば盗まれた財産だ。それをもつ権限がないものによるこの文書の電子転送は、電話詐欺行為として解釈されうる。電子財産をふくむ盗品の州をまたがる転送は、連邦犯罪となる。

シカゴコンピュータ詐欺悪用タスクフォースは、E911文書は巨額の価値があるとした。事実、ベルサウスのセキュリティ職員からその価値の正確な見積もりを得ている。79449ドルだ。この金額なら強制的な起訴にも見合うものだろう。たとえそのようなダメージがなくても、少なくともこのような大きな金額は、盗人に厳罰をあたえるいい法的な口実を提供することだろう。また同じように裁判官や陪審にも印象づけられるし、法廷で Legion of Doom を片づけるのにも使えるだろう。

アトランタの連中は、シカゴタスクフォースが Phrack に取りかかったときには、すでに逮捕されていた。しかし Legion は根絶できるものではない。1989年の後半には、新しい Legion of Doom 掲示板「Phoenix Project」がテキサス州、オースティンにあらわれた。Phoenix Project のシスオペをしていたのは他ならぬメンター自身で、見事な補佐をしていたのはテキサス大学の学生であり、常連のDoomster である Erik Bloodaxe だった。 

Phrack の告白を以前にみたが、メンターはハッカーの狂信者で、コンピュータ侵入を道徳的な義務に近いものだと考えていた。Phoenix Project は野心的な試みで、デジタルアンダーグラウンドをメンターが絶頂期だと思っている1980年代前半のようなものにしようとするものだ。Phoenix 掲示板では、あつかましくもエリートのハッカーたちを電話会社の「敵対者」と差し向かいで話すようにした。Phoenix では、アメリカのもっとも賢いハッカーたちが、電話会社のぼんくらたちを、そのみじめな境遇に甘んじている態度ゆえに辱め、それから Legion of Doom のエリートこそが本当にりっぱなやつらだということを納得させようとした。Phoenix Project の花は、Phrack によって高らかに歌い上げられ、Phoenix Project には Phrack が全ての号完璧に揃っており、そこには Phrack で発行されたままのE911文書がふくまれていた。

Phoenix Project は、アメリカ中で不法にE911文書を所有している多くの、たぶん何百という node や掲示板のひとつに過ぎない。しかしPhoenix は遠慮というものをしらない恥知らずの Legion of Doom の掲示板だ。メンターが導くもとで、電話会社のセキュリティ職員の目の前で見せびらかしをしている。それより悪いことに、職員たちをデジタルアンダーグラウンドのエリートの賛同者として仲間に引き入れようとしている。Phoenix にはクレジットカード番号や課金コードはなく、ハッカーのエリートは、Phoenix が厳密にいえば合法だと考えていた。しかし Phoenix には人を堕落させる影響力があった。Phoenix にて、ハッカーのアナーキーさは、デジタルの酸のように企業の所有物の防御が弱い部分を侵食していった。

シカゴコンピュータ詐欺悪用タスクフォースは、テキサスのオースティンを急襲する準備をしていた。

奇妙なことに、タスクフォースの捜査は一つではなく二方向からオースティンに迫っていた。オースティンには、大きな大学の研究所があったり、モトローラ、デル、CompuAdd、IBM、Sematech、MCC といった数多くの最先端の電気通信企業があって、アトランタと同様にサンベルト情報時代のとりでとなっていた。

コンピュータメーカーが行くところに、ハッカーもついていく。オースティンで有名なのは、いま LoD の悪名高いアンダーグラウンド掲示板の Phoenix Project だけではなく、数多くの UNIX の node が存在した。

こういった node のひとつが Elephant で、Robert Izenberg という名前の UNIX のコンサルタントが運営していた。Izenberg は、ゆったりした南の生活スタイルと生活費が少なくてすむところをさがして、最近ニュージャージーからオースティンに引っ越してきていた。ニュージャージーでは、Izenberg は AT&T のための UNIX のコードをプログラミングする独立系の請負会社で働いていた。Terminus は、Izenberg がプライベートでやっていた Elephant の node をひんぱんに使っていた。

Terminus を尋問して、Netsys の記録をしらべ、シカゴタスクフォースは、UNIXソフトウェア海賊のアンダーグラウンドのギャング集団を見つけたと確信していた。こいつらを見せしめに、AT&T のソースコードの不法コピーを他州と不法に取引していいたということで有罪にするというわけだ。Izenberg は、自称究極のUNIXハッカー、Terminus の捜査網に引っかかってしまったのだ。

オースティンで Izenberg は、IBM のテキサス部門のUNIXの仕事に落ち着いていた。Izenberg はAT&Tの請負としては仕事をしていなかったが、ニュージャージーには友達がいて、少なくともしたいときには、ニュージャージーのAT&TのUNIXコンピュータにログオンすることもできた。Izenberg の行動は、タスクフォースにはきわめて怪しいものとして映り、AT&Tのコンピュータに侵入して、AT&Tのソフトをかっさらい、Terminusや他の共犯者に UNIX の node のネットワーク経由で渡しているはずだと考えたのだ。そしてこのデータは、79499ドルどころではなく、何十万ドルにも相当する。

1990年2月21日に、Robert Izenberg はIBMでの仕事から帰宅して、全てのコンピュータがオースティンのアパートから跡形もなく消えているのを目にした。とうぜん彼は盗まれたものだと考えた。Elephant の node、他のマシン、ノート、ディスク、テープ、全てがなくなっていた! しかしながら、他のものには全く手がつけられていない、単に荒らしまわったというわけではないようだ。

5分もすると、ますます混乱はひどいものになった。オースティンのUSシークレットサービス捜査員 Al Soliz がテキサス大学のセキュリティ職員 Larry Coutorie  とどこにでも姿を現す Tim Foley といっしょに  Izenberg の家の玄関にポロシャツにふつうのズボンという私服で姿をあらわした。中に入ってくると、Tim Foley は Izenberg を Legion of Doom に属している罪で告発した。

Izenberg は彼らに Legion of Doom なんて聞いたこともないと答えた。では盗まれたE911文書はどうだ? こいつは警察の緊急回線への直接の脅威となるんだぞ。Izenberg は、それについても聞いたこともないと反論した。

捜査員たちにはにわかには信じられなかった。Terminus を知ってるか?

だれだって?

Terminus の本名をつげると、あぁ、知ってると Izenberg は答えた。そいつならよく知ってると。AT&Tコンピュータ、とくに AT&T 3B2 についてのインターネットでの議論をひっぱってるやつだ。

AT&T はこのマシンを市場に押し込んでいたが、AT&T のコンピュータ市場に入り込もうとする多くの野心的な試みとおなじように、この 3B2 のプロジェクトも光り輝く成功というわけには行かなかった。 Izenberg は自身も、かつて3B2 をサポートしているAT&Tの部門の請負で働いていたが、その部門自体がなくなっていた。

最近では、こういった面倒なマシンのわからないことを聞く一番安くて早い方法は、インターネットの Terminus の議論のグループの一つに加わるということになっている。そこでは親切に知識が豊富なハッカーたちが、ただで助けてくれるだろう。とうぜんのことながら、このグループの中の意見では the Death Star  が褒めたたえられるというわけにはいかないだろうが、それが何だっていうんだ?

Foley は、Izenberg に Terminus がやばいソフトウェアを Izenberg のマシンを経由して手に入れていると告げた。

Izenberg はこれを受け流した。毎日8MBものデータが、自分のUUCPサイトから流れ出ているんだ。消防用のホースから水があふれ出るように、UUCPnodeからはデータがあふれ出ているんだ。Elephant は直接、Netsysにもつながっていたし、別に驚くようなことじゃない。Terminus は 3B2 の専門家で、Izenberg は 3B2 の請負として働いてきたんだから。Izenberg は、attctc にもテキサス大学にもつながっていた。Terminus は有名なUNIXの専門家で、Elephant でお祭り騒ぎでもしていたのかもしれない。だからって、Izenberg には何もすることはできない。物理的に不可能だ。干草のなかから針をさがすようなもんだ。

4時間の尋問で、Foley はIzenberg になにもかもを白状するように、そしてTerminus やLegion of Doom のメンバーと共謀していたことを認めるように迫った。

Izenberg はこれを否定した。Izenberg は妙なティーンエイジャーのハッカーではないのだ。32才でハンドルさえもっていない。Izenberg は以前はTVの技術者であり、大人になってからUNIXのコンサルティングに転職した電子技術者だ。Izenberg は、Terminus にじっさいに会ったことすらない。ただ一度安い高速モデムをかれから買ったことはあるが。

Foley は、このモデム(19.2KのTelenet T2500で、すでにIzenberg の家からは持ち出されシークレットサービスの保管庫に入っていた)がまずいものであるようだと説明した。Izenberg はこれには盲点をつかれたが、とはいっても Izenbergの備品の大部分は、この職業のフリーのプロの備品と同じように、値引きされたもので、手から手へとあらゆる種類のバーター取引やあやしいマーケットから受け渡されたものだ。そのモデムが盗まれた物だっていう証拠はないし、たとえそうだとしても、Izenberg にはどうしてそれが自分の家から全ての電子機器をもっていく権利を与えるのかがまったく分からなかった。

それでも、もしUSシークレットサーボスが国家の安全保障上の理由で自分のコンピュータが必要だと説明するなら、いや理由はどうであれ、Izenberg は反対はしなかった。20000ドル相当のプロの備品が、よき市民としての全面協力の名のもとに、どういうわけか犠牲にならなくてはいけないということだ。

Robert Izenberg は逮捕されなかった。Izenberg はいかなる罪でも起訴されていない。そのUUCP node、自分そして何十人かそこらの全く無罪な利用者のファイル、メール、データでいっぱいの140メガは、「証拠」として持ち去られた。ディスクとテープもいっしょに持っていかれて、Izenberg は800メガほどのデータを失った。

6ヶ月ほどして Izenberg がシークレットサービスに電話して事件がどうなったかをきいてみた。Robert Izenberg が William Cook の名前を耳にしたのはそれがはじめてだった。1992年の1月で押収から丸々2年がたっても、Izenberg は何の犯罪でも起訴されていないし、自分の何千ドルもの価値がある押収品を返してもらおうと、法廷の泥沼のなかで奮闘している。

一方では、Izenberg の事件はまったく報道されることはなかった。シークレットサービスはオースティンの自宅に侵入して、UNIXの掲示板システムを押収して、ともかく作戦上全く困難をともなうことはなかった。

ただ、一斉の取締りという言葉はすぐさま Legion of Doomに浸透した。Mentor  は自分で、Phoenix Project を閉めた。まさに Mentor が望んだように、電話会社の従業員が、いつもの LoD やとりまきやフリーク、ハッカー、熱狂的ファンに混じってじっさいに Phoenix に姿を現し始めたので残念だったが。US SPRINT セキュリティの Sandy つまり Sandquist や、ベルコアからも Henry Kluepfel という名前の男が来ていた! Kluepfel は1月の30日(マーティンルーサーキング記念日の事故の2週間後だ)からハッカーたちと Phoenix で軽口をたたきあっていた。このような一流の電話会社の社員の存在は、Phoenix Project としてまさに望んだものだった。

ただ、Mentor は天候を測っていた。アトランタの連中は破滅した、Phrack はひどいトラブルに見舞われている。UNIXのnode で、何かよくないことが起こっていて、慎重にしたほうがいい。Phoenix Project はオフラインになった。

Kluepfel は、もちろん自分なりの計算があって、この LoD の掲示板、そしてシカゴの一団を監視していた。1987年の6月には、Kluepfel はテキサスのアンダーグラウンド掲示板 Phreak Klass 2600 にログオンしている。そこで、シカゴの Shadowhawk という若者が、AT&Tのコンピュータファイルをかっぱらったことをこれみよがしに自慢して、AT&Tのベルコアのコンピュータを、トロイの木馬のプログラムでいっぱいにしてやるという野望をみせびらかしているのを、Kluepfelは見つけた。そのことをシカゴの Cook に伝えて、Shadowhawk のコンピュータはシークレットサービスの保管庫に押収され、Shadowhawk 自身は刑務所行きとなった。

そして今度は、Phoenix Project の番だった。Phoenix Project は「合法」であり、単に「知的な好奇心に動かされている」という態度をとっていたが、アンダーグラウンドのにおいがプンプンした。Phrack があり、E911 もあった。システムへの侵入についての危険な会話があった。それには、Mentor とその友人がやろうとしていたハックしたシステムの暗号化されたパスワードをクラックするのを助ける空想の「暗号解読サービス」のような、あつかましく向こう見ずなものも含まれていた。

Mentor は大人で、仕事場にも掲示板があった。Kleupfel はその掲示板にもログオンし、それが Illuminati とよばれていることを発見した。それは Steve Jackson Games とよばれている会社によって運営されている掲示板だった。

1990年5月1日、オースティンの一斉取締りは、新たな段階に到達した。

5月1日火曜日の早朝、21才のテキサス大学の学生 Erik Bloodaxe 、Phoenix Project の共同運営者で Legion of Doom の自ら認めるメンバーは警官に頭に拳銃をつきつけられて目をさました。

Bloodaxe は、いらいらしながら、シークレットサービスの捜査員が300ボーの端末を使って、ファイルを持ち去り、悪名高い Robert Morris のインターネットワームの宝物のソースコードを見つけていた。しかし Bloodaxe はずるがしこい運営者であり、このようなことが起こるかもしれないと予測していた。自分の一番大切な備品は、どこか他に隠していた。侵入者たちは電子備品は何もかももっていき、それには電話機もふくまれていた。かれらは大きなアーケード版のパックマンのゲームには悩まされていたが、そのまま残していった。それというのも、ただ動かすには重すぎるという理由で。

Bloodaxe は逮捕されなかった。どんな犯罪でも起訴されていない。ただ二年ほどがたつが、警官はもちさったものをまだ持ちつづけている。

Mentor には警戒心が欠けていた。夜明けの手入れがMentor とその妻を寝巻きのままベッドから追い立て、6人のシークレットサービスの捜査員に、オースティンの警官とHenry Kluepfel 本人が同行して、大量の押収を行った。成果物は持ち去られ、捜査員の白のシボレーのミニバンに運び込まれた。4MBのRAMと120MのハードディスクのIBM−PC互換機、Hewlett-Packard LaserJet II のプリンター、完全に合法で高価なSCO-Xenix 286 オペレーティングシステム、ページメーカーのディスクや説明書、ワードプロセッシングプログラムのMicrosoft Word、Mentor の妻は書きかけの学術論文をハードディスクにしまっていたが、それも持っていかれた。また電話も同様だった。二年がたつが、押収物はすべて警察の保管庫に入ったままだ。

Mentor には捜査員が Steve Jackson Games に手入れをする準備のために、アパートで見張りがついた。そこがビジネスの拠点で個人の住宅ではないという事実は、捜査員を思いとどまらせはしなかった。まだ早朝で、だれも働いていなかった。捜査員はドアを壊して侵入しようとしたが、シークレットサービスの無線のやりとりを聞いていた Mentor がそうしないように頼み、そのビルへの鍵を差し出した。

次の事態の正確な詳細は、不明なままだ。捜査員たちはだれも建物の中には入らせなかったからだ。捜査令状は作られてはいたが、サインはなかった。はっきりしているのは、朝食を地域の「Whataburger」で済ませたということくらいだ。というのは、ハンバーガーのゴミが後から中で見つかったからだ。おまけに、SJGの従業員がもっていたゼリービーンズの袋から何個かをつまんだことや、だれかが、「デュカキスを大統領に」というステッカーを壁からはがしたことも分かっている。

SJG の従業員たちは、仕事にでてきたところを、ドアのところでUSシークレットサービスの捜査員に出くわし、簡単な質問をされた。従業員たちは、捜査員がバールやスクリュードライバーを使って押収したマシンといっしょに姿を現すのをびっくりしながら見ていた。またボルトカッターで戸外の倉庫もあけていた。捜査員は背中にシークレットサービスと入った青のナイロンのウィンドブレーカーをきていて、運動靴をはき、ジーンズをはいていた。

Jackson の会社は3台のコンピュータ、何台かのハードディスク、何百枚のフロッピーディスク、二台のモニター、三台のモデム、一台のレーザープリンター、電源コード、ケーブル、アダプターをいくつか(それに奇妙なことに、ねじやボルトやナットの小さな袋まで)失った。Illuminati 掲示板の押収は、SJG から全てのプログラム、テキストファイル、掲示板のプライベートな電子メールまでもを奪った。他の2台の SJG のコンピュータを失ったことも同様に深刻な打撃を与えた。なぜなら、電子的に保存しておいた契約、資金見通し、電話番号一覧、メールアドレス一覧、個人のファイル、ビジネスのやりとり、そしてそれだけではなく、次に出すゲームやゲーム本の草案を失ったのだ。

Steve Jackson Games の誰も逮捕されなかった。どんな犯罪でも起訴されていない。訴訟をおこされてもいない。押収されたもの全ては、公式にはどれとは特定されない犯罪の「証拠」として保管されている。

Phrack の見せしめの裁判のあと、Steve Jackson Games のスキャンダルは、1990年のハッカー一斉取締りのもっとも奇妙で、攻撃的なできごととなる。シカゴタスクフォースのSFのゲーム出版社への手入れは、丸二年が経っても、広範囲へ拡がっていく市民の自由の問題を提起し、いまだに紛糾している終わりなき論争を引き起こし、そのスキャンダルがもつ意味合いの範囲は大きくなっている。

E911文書の追跡は、Steve Jackson Games の手入れで終った。これまで見てきたように、たぶんアメリカの何千人ものコンピュータユーザーがE911文書をもっている。理論的には、シカゴはそういった人々の誰でも逮捕できる法的な権利をもっていて、法的には Phrack を購読している人のマシンを押収することができる。しかしながら、Jackson の Illuminati 掲示板にはE911文書のコピーはなかった。シカゴの捜査はそこで完全に終わり、それ以来誰の捜査も行っていない。

Rich Andrews と Charlie Boykin は、電話会社のセキュリティにE911文書を注意をひくようにしてやったので、公的には疑いを受けなかったと考えるかもしれない。しかしこれまでも見てきたように、すすんで「全面的に協力」したとしても、連邦反ハッカー起訴に対する保険にはまったくならない。

Richard Andrews は、E911文書のせいで深刻なトラブルにまきこまれた。Andrews は、イリノイに住んでいて、そこはシカゴタスクフォースの縄張りだった。2月の3日、6日に、家と仕事場の両方を USSS によって手入れを受けた。かれのマシンも運びだされ、逮捕はされなかったが、長々と尋問をうけた。Andrews は他のものに混じって、UNIX SVR 3.2; UNIX SVR 3.1; UUCP; PMON; WWB; IWB; DWB; NROFF; KORN SHELL '88; C++; and QUEST を所有していたことで有罪とされた。Andrews はこうした所有権の存在するコードを、AT&T は公式にはゆうに25万ドルを超えると見積もっているが、UNIXのネットワーク経由で、そのほとんどは Terminus の個人的な行為で貰っていた。たぶんもっとまずかったのは、Andrews がそのお返しに、Terminus にAT&Tの所有物である STARLAN のソースコードを渡したことを認めたことだろう。

Charles Boykin 自身は AT&T の従業員だったが、まさにトラブルに巻き込まれていた。1990年には、88年の9月に通報したE911文書のことはすっかり忘れていた。事実、それ以来もう二件のセキュリティの警告を Jerry Dalton にしており、Boykin にしてみればE911文書よりそれらの事態の方がずっと始末におえないと考えていた。

しかし1990年は、一斉取締りの年であり、AT&Tの情報セキュリティ部門は Killer にはうんざりしていた。このマシンはAT&Tにはなんら直接収入源にはならない。その一方で、会社外の疑わしいよそ者を助けたり元気づけたりしている。そのうちの何人かは明らかにAT&T、その所有物、会社としての利益に対して悪意をもっている。いかに Killer の1500人の献身的なユーザーから好意と宣伝が得られようとも、セキュリティのリスクを考えると割に合わないと考えられた。1990年の1月20日、Jerry Dalton はダラスに到着し、電話線のジャックを引っこ抜き、Killer の多くのテキサスのユーザーたちには混乱した警告となった。Killer は永遠にオフラインとなり、巨大なプログラムのアーカイブや大量の電子メールを失った。ふたたびサービスが復活することはなかった。AT&Tは、これらの1500人の「財産」について特別な配慮を示すことはなかった。利用者がどんな財産をAT&Tのコンピュータにしまっておいたとしても、それは完全に消失してしまった。

Boykin は E911 の問題を自分が通報したにもかかわらず、今や疑惑を受けることとなった。シークレットサービスの押収へ民間のセキュリティが奇妙にも応じる形で、Boykin の家に AT&T のセキュリティが訪れ、Boykin のマシンは運び去られた。

しかしながら、Boykin の場合は特別だった。Boykin のディスクやパーソナルコンピュータは会社の従業員がすぐに調べて、2日ほどで丁寧に返却された(シークレットサービスの押収で事態は違って、通常何ヶ月もしくは何年もかかる)。Boykin はいかなる罪や不正な行為で起訴されることはなく、AT&T で働きつづけた(とはいうものの、1991年の9月に52才でAT&Tを辞めているが)。

USシークレットサービスが Boykin の Killer の node を捜索し、AT&Tのコンピュータを持ち去ることには、どういうわけか失敗しているのに注目すると興味深い。そればかりでなく Boykin の自宅も同様だ。まるで、AT&T の従業員、そしてAT&T の Killer の node はハッカーの不法取引とは無縁で、信頼できるというAT&Tのセキュリティの言葉を完全に受け入れたいとでもいうようだった。

Killer の3200MBのテキサスの電子コミュニティのデータは1990年に消えてなくなり、Killer も州外に運び出され、デジタルの世界ではその時点でどうにもならないことになった。

しかし、Andrews と Boykin、そしてそのシステムのユーザーたちの経験は瑣末な問題として放っておかれた。ゆっくりと、だが着実に Steve Jackson Games の手入れの問題に集まりつつある社会、政治そして法律的な重要性を、かれらは考えはじめていなかった。

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