『ハッカーを追え』の翻訳。特に誤訳、誤字などの指摘があったら、メールでもいただければ。

太字は英文のポップアップつき。


Literary Freeware: Not for Commercial Use
THE HACKER CRACKDOWN  Law and Disorder on the Electronic Frontier by Bruce Sterling

Phiber Runs Underground and Acid Spikes the Well

Phiber はアンダーグラウンドを駆け抜け、Acid Well にダメージを与える。

投稿は予想通り、大変な騒ぎをまきおこした。Well ではハッカー議論のまきおこる素地はすでにできていた。1989年の11月、悪意あるコンピュータ侵入の倫理に関する Well での論争を Harper という雑誌が主導した。40人ほどのコンピュータ通が参加し、Barlow はその論争でもスターであることを証明した。Acid Phreak と Phiber Optik も若いニューヨークのハッカー連中だが、同じようにスターだった。そしてかれらの電話交換機侵入に関するスキルは、かれら自身の名声に対する明らかに際限ない欲望に応じたものだった。この2人の自慢したがりやのアウトローの Well の世界への出現は、かなりシックなカクテルパーティにブラックパンサーが出現したくらいのセンセーションを巻き起こした。

とくに Phiber Optik は1990年の今を楽しんでいた。2600サークルのファンであり、ニューヨークのハッカーのグループ「Masters of Deception」の熱烈な支持者だった。Phiber Optik は、反体制に肩入れしているコンピュータ侵入者のまさしく典型例といっていい。18才の Optik は高校を中退し、バイトでコンピュータの修理をする、若く頭がきれ、強い強迫観念にとらわれていた。そしてファッショナブルな服装に身を包み、弁の立つデジタルなやつで、完全にまた快活に自分以外の他人のルールはバカにしていた。1991年の終わりには、Phiber Optik は Harper'sEsquireNew York Times に登場し、数多くの公開ディベートやコンベンションに姿をみせ、Geraldo Rivera がホストをつとめるテレビ番組にも出演した。

Barlow やその他の Well の常連にていねいな扱いで、Phiber Optik はすぐさま Well の有名人になった。奇妙なことに、Phiber Optik はそのとげとげしい態度や全く一つのことしかみていない視野の狭さにも関わらず、出会った多くの人に強い保護本能を発揮させるものがあるようだった。ジャーナリストにとってはいいネタであり、恐れ知らずにいつでも自慢してまわり、それどころか、じっさいにいくつか気が狂ったようなデジタルの離れ業を「やってみせたり」した。生まれながらのメディアの寵児といっていい。

警察でさえ、この特別なトラブルメーカーにはどこか世間がわかってなく、犯罪ではないといったような認識をもっていたようだ。あまりにあつかましく、傲慢で、若くて、明らかに前途はのろわれていたので、彼の行為に強く眉をしかめる人たちでさえ、その身を気づかうようになり、まるで絶滅寸前のあざらしの子供でもあるかのように彼のまわりをうろつきはじめた。

1990年の1月24日(マーティンルーサーキング記念日の事故の9日後)、Phiber Optik、Acid Phreak、そして3人目のニューヨークの犯罪者 Scorpion はシークレットサービスに逮捕された。かれらのコンピュータは押収され、お約束のように大量の文書、ノート、CD、留守番電話、ソニーのウォークマンなども一緒に押収された。Acid Phreak と Phiber Optik は事故の原因であると告発されたのだ。

天網恢々といった具合だった。事態は最終的には、ニューヨーク州立警察の手にゆだねられた。Phiber は自分の機器を押収されたが、一年以上も立件されることはなかった。かれの苦境は Well によって広く知られていたし、そこでは警察の戦術に対して強い敵意が生まれていた。ハッカーに対する押収や逮捕について単に伝え聞くのと、じっさいに自分が個人的に知っていた誰かが警察の攻撃をうけるのを見るのとではぜんぜん別のことだったし、そのハッカーは自分の動機を十分に語ってたわけだからなおさらだ。Well での Harper's 主催の議論を通じて、Wellbeing には Phiber Optik がじっさいに「何かを破壊」しようとしているわけではないということが明かになっていた。自分たちの若い頃には、多くの Wellbeing が警察との街頭でのつばぜりあいで催涙ガスをあじわっていたし、市民不服従の行為については猶予したいという気持ちになるのは自然なことだ。

Wellbeing はまた、典型的なハッカーの捜査と押収の厳しい行動について知り、驚いていた。将来的には自分たちも同じ扱いをうけるという想像も決して妄想とはいえなかった。

1990年の1月には、Well の意見は不快を表明しはじめ、「ハッカー」が乱暴な当局によってひどい扱いを受けていることについて文句をつけはじめた。雑誌 Harper's のとりまとめでは、コンピュータ侵入はいったい「犯罪」だろうかと疑問を呈していた。Barlow はのちにこう言っている「もし AT&T が全ての洞窟を所有しているなら、われわれは洞窟を探検するものを更正の見込みのない犯罪者とみなさなきゃならないのか疑問に思い始めている」

1991年2月、自宅での押収の一年以上あと、Phiber Optik はとうとう逮捕された。そしてニューヨーク州法違反、第一級コンピュータの不許可使用およびコンピュータへの不法侵入で告発された。またサービスの窃盗の軽犯罪でも告発され、それには900番台の番号に対する複雑なただがけも含まれていた。Phiber Optik は軽犯罪で有罪の判決をうけ、35時間のコミュニティへの奉仕を命じられた。

一般社会のわけのわからない世界からの一過的ないやがらせは、Optik にとってもほとんど意味をもたなかった。1月の押収でコンピュータをうばわれたが、代わりにノートパソコンを買っただけだし、そのおかげで警察は母親と住んでいる自宅の電話をモニターできなくなった。そしてかれはそのまま略奪行為をつづけ、ときにはラジオの生放送やテレビカメラの前でやることもあった。

この一斉取締りの押収は、たぶん Phiber Optik を思い止らせるには何の影響も与えなかっただろう。ただ Wellbeing を怒らせた影響は大きなものとなっていた。1990年がすすむにつれて、トラブルは積み重なっていく。Knight Lightning が手入れをうけ、Steve Jackson が手入れをうけ、全国にサンデビル作戦が及んでいった。法取締機関のレトリックは、じっさいにハッカーへの断固とした一斉取締が進行中だということを明らかにしていた。

ハッカーカンファレンスのハッカーたち、Wellbeing、その仲間は、「ハッキング」に対するときおりの一般大衆の勘違いについては、実際のところ全然気にしてなかった。まぁ、ふつうの社会との違いは、「コンピュータコミュニティ」にとっては差別化、より賢いこと、すぐれているという感覚をもたらしていたから。ただ、かれらは今まで一致団結した中傷キャンペーンには直面したことはなかった。

Barlow の対抗措置における中心的な役割は、1990年代のアノマリーの一つと言っていい。はげしい論争を追っていたジャーナリストはしばしば Barlow の事態につまづくが、たいがいは埃をはらって何ごともなかったかのように先を急いでしまう。まるで、Grateful Dead の1960年代からの奇人が連邦法取締機関の作戦との接近戦に参加して、「じっさいに勝つところだというのは」、とても「信じられない」というかのようだった。

 Barlow は、この種の政治的な闘争のための権力基盤をすぐには見つけられなかった。なんら正式の法的、あるいは技術の資格をもっているわけではない。ただ Barlow は真の才能にめぐまれたコンピュータネットワーカーだった。簡潔に、生き生きと書くという詩人の才能も持ち合わせていた。あとはジャーナリストの洞察力も持ち合わせているし、風変わりなところがあり、へりくだった知性をもち、シンプルな人間的魅力におどろくほど満ちていた。

Barlow がもっている影響力は、文学、芸術、音楽のサークルではかなりよく見られるものだ。才能にめぐまれた批評家は、時代の気分を明らかにして、その時代のどこでも通用するキャッチフレーズや議論の的をつくりだすことだけで、芸術的な影響力を大いにおよぼす(じっさい、Barlow はアルバイトで芸術批評もやっていた「過去」があり、Frederic Remington の西洋美術をとくに愛好している)

Barlow は、William Gibson の衝撃的なSF用語「サイバースペース」を現在のコンピュータおよび電気通信ネットワークの集合体をしめすものとしてつかった最初の解説者だ。Barlow はサイバースペースが質的に新しい世界で、「フロンティア」とみなさなければならないと主張した。Barlow によれば、電子コミュニティの世界はコンピューターの画面をとおして目に見えるが、ハイテクの配線がからみあったものにすぎないとみなすのは意味がないことだ。そうではなく、そこはある「場所」、つまりサイバースペースなのだ。そこでは新しいメタファー、規則、行動が必要とされる。Barlow の使ったその用語はまさしく琴線にふれ、サイバースペースというコンセプトは「Time」、「Scientific American」、コンピュータ警察、ハッカーたち、憲法学者たちにさえ使われるようになった。「サイバースペース」はいまや言葉として一時的な流行ではないものになっているようだ。

Barlow 本人はとても人目をひく。背が高く、いかつい顔立ちで、あごひげをはやし、低い声のワイオミング出身者で、かっこいい西部風のジーンズ、ジャケット、カーボーイブーツ、首にネッカチーフを巻くといういでたちで、永遠のGrateful Dead の七宝細工のバッチをえりにつけていた。

ただ、モデムがあれば Barlow は本当に本領を発揮する。きちんとしたヒエラルキーは Barlow には合わないし、「大企業と働きバチ」をその硬直的で画一的な態度ゆえにいつも馬鹿にしていた。Barlow は根っからの自由の信奉者であり、高級官僚や小役人に感心することもほとんどなかった。しかしデジタルの情報伝達となると、Barlow はサイバースペースにおいてきわめて優れていた。

強大な大勢の Barlow の軍隊があるわけではなく、いるのは Barlow 一人だけだ。確かに Barlow は特異な個人だが、この状況は、Barlow 一人だけを「要求」しているようにも見えた。実際1990年以降、多くの人は一人の Barlow が期待したよりもはるかに大きな存在であることを結論づけざるを得なかった。

 Barlow の怒りに満ちた FBI との邂逅についての短いエッセイは、Well に大きな反響をもたらした。アップルコンピュータ関係の自由を信奉する多くの人たちも容疑をうけていた。そしてかれ以上に、そのエッセイを大いに気に入った。

そうした人のひとりに、Mitchell Kapor がいて、彼は表計算プログラム「ロータス1-2-3」の共同開発者であり、Lotus Development Corporation の設立者でもある。Kapor は、ボストンの地方FBI本部で指紋をとられた過去の屈辱についてかきなぐっていたが、Barlow の投稿が FBI の全国的な捜査網を Kapor にはっきりと認識させてくれた。その問題は Kapor にとって第一の関心事となった。シークレットサービスが1990年に全国的な反ハッカー作戦にとりかかかるときには、Kapor はその一挙手一投足を強い懐疑の念とむくむくわきあがる警戒感をもって見守った。

運良く、Kapor は Barlow と面識があった。Barlow は Kapor をカリフォルニアコンピュータジャーナルのためにインタビューしたことがあったのだ。Barlow に出会ったたいがいの人と同じように、Kapor も彼にとても夢中になった。そして Kapor はこの状況についてざっくばらんに話すために、Barlow のところまで出かけていくことにした。

Kapor は、Well の常連で、Whole Earth Catalog 当初からのファンでもあって、雑誌の全ての号をちゃんと保存していた。Kapor はモデムだけじゃなく、プライベートジェットももっていた。個人の何百万ドルの持ち株会社 Kapor Enterprises Inc でのさまざまなハイテクへの投資を追いもとめ、Kapor はいつもふつうの人がファックスを送るような感覚で州境をこえている。

1990年6月の Kapor と Barlow のワイオミング州、Pinedale での会合が、電子フロンティア財団(EFF)のはじまりだった。Barlow はすぐさま「犯罪と困惑」宣言を書き上げ、それは自分と Kapor  の政治的な組織の意図をアナウンスしたものだ。その組織の目的は、「デジタルにおける言論や憲法のサイバースペースへの拡張に関連した分野での、教育、ロビー活動、訴訟に対して基金を設置し、分配」することだった。

それだけではなく、その宣言は財団が「シークレットサービスが出版への厳しい制約、言論の自由の制限、適切でない機器やデータの押収を行うこと、過度に力を行使すること、そしてそもそも気まぐれで不当な憲法に反した方法で活動することを明らかにするための法的な努力に対して資金をだし、実施し、サポート」を行うと言明していた。

「犯罪と困惑」は、コンピュータネットワークを通じて広範囲に配布され、Whole Earth Review にも掲載された。ハッカーの立場からの理論整然とした政治的な反撃のこの突然の宣言は、コミュニティを興奮させた。Steve Wozniak(たぶん、ニュープロメテウスのスキャンダルで少し傷ついたのだろう)は、すぐに Kapor が提供したのと同じ額の提供を財団に申し出た。

 サンマイクロシステムズの初期の社員の一人である John Gilmore からは、すぐにかなりの額の財政的なサポートと個人的なサポートが提供された。Gilmore は熱烈なリバータリアンであり、電子プライバシーの問題を、とくに政府や企業のコンピューターの助けをかりた個々の市民の監視からの自由を雄弁に語ることを示した。

サンフランシスコでの2回目の会合は、より多くの仲間があつまった。Point Foundation の Stewart Brand、バーチャルリアリティのパイオニアのJaron Lanier と Chuck Blanchard、ネットワークの起業家でベンチャーキャピタリストの Nat Goldhaber。この夕食会で、アクティビストたちは一つの公式の名前で落ち着いた。電子フロンティア財団(Electronic Frontier Foundation, Incorporated)。そして Kapor が議長になって、新しいEFFのカンファレンスは、Point Foundation の Well で開かれ、Well は「EFFの本拠地」として正式に宣言された。

マスコミの報道は、迅速でくわしいものだった。19世紀の精神的な先祖、Alexander Graham Bell と Thomas Watson のように、1970年代と1980年代のハイテクのコンピュータ起業家たち、たとえば Wozniak、Jobs、Kapor、Gates、H. Ross Perot のような人たちは、光り輝く新しい産業を独力で支配するまでにのし上がった人たちで、いつもいい新聞ネタになった。

しかし Wellbeing がよろこびにわきあがっているときに、マスコミ一般は「サイバースペースの啓蒙者」という自称に困惑しているように思われた。「ハッカー」との戦いが深刻な憲法上の市民の自由の問題に含まれるという EFF の主張は、いくぶんこじつけめいて見えた。とくに EFF の設立者に、弁護士も有名な政治家もいなかっただけに。経済紙はとくにこの話の核心をこうとらえればいいと考えていた。ハイテク起業家の Mitchell Kapor が「ハッカーのための防衛基金」を設立したと。EFF は重大な政治的進歩なのだろうか、あるいは単に金持ちの風変わりな集団が既存の権威に任せておけばいい問題をもてあそんでいるのだろうか? まだ結論はでていなかった。

しかし公開の対決の舞台は整っていた。最初のそしてもっとも重要な戦いは、「Knight Lightning」のハッカー公開裁判だった。

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