『ハッカーを追え』の翻訳。特に誤訳、誤字などの指摘があったら、メールでもいただければ。

太字は英文のポップアップつき。2002/12/21 修正


Literary Freeware: Not for Commercial Use
THE HACKER CRACKDOWN  Law and Disorder on the Electronic Frontier by Bruce Sterling

A Scholar Investigates

一人の学者の研究

この論争の初期からの影響力のある参加者としてもう一人、Dorothy Denning がいる。Denning 博士はコンピュータアンダーグラウンドの研究者の中ではユニークな存在といえる。彼女が論争になんら政治的な動機をもちこまないという点でユニークといえよう。彼女はプロの暗号学者でコンピュータセキュリティの専門家であり、そのハッカーへの興味の中心は「学術的」なものだった。数学で学士、修士を修め、コンピュータサイエンスで Purdue 大学で博士を修めている。コンピュータセキュリティの大家 Donn Parker がいるカリフォルニアのシンクタンク SRI International で働いていたこともあるし、「Cryptography and Data Security」(邦訳は「暗号とデータセキュリティ」)という影響力のある文を書いている。1990年には、Denning 博士は Digital Equipment Corporation の Systems Reseach Center で働いていた。彼女の夫 Peter Denning もコンピュータセキュリティの専門家で、NASA の研究所で応用コンピュータ科学を研究していた。「Computers Under Attack: Intruders, Worms and Viruses」という本も編集していて、好評を博している。

Denning 博士はデジタルアンダーグラウンドと接触することを、多かれ少なかれ人類学的な興味をもって自ら買って出た。そこで彼女がみたのは、こうしたコンピュータ侵入を行うハッカーたちは、反倫理的、無責任、社会への深刻な脅威とみられているが、じっさいには自分たちだけのサブカルチャーと規則をもっていることだった。特別によく考えられた規則というわけではないが、まさに規則ではある。基本的にハッカーは金は取らないし、何も壊さない。

彼女の冷静な研究レポートは、まじめなコンピュータのプロフェッショナルに大きな影響を与えた。かれらは、John Perry Barlow がサイバースペースを熱狂的に語るのに目を白黒させてきた種類の人たちだ。

デジタルアンダーグラウンドの若いハッカーたちにしてみれば、Dorothy Denning と会うのは実にびっくりぎょうてんするような経験だった。髪型もきちんとして、ひかえめな服装で、きゃしゃで小さな人物がいて、ほとんどのハッカーたちには母親やおばを思わせるからだ。ただ彼女は、コンピュータアーキテクチャーと強力なセキュリティを備えた情報の流れについて深い知識をもっている IBM のシステムプログラマーなのだ。

Dorothy Denning はアメリカの理数系知識階級のかがやかしい見本であり、コンピュータサイエンスのエリートの中心にいる本当に輝かしい人物である。その人物が、20才の恐ろしい目をした電話フリークにかれらの行動のより深い道徳的にもつ意味についてやさしく質問するのだ。

この本当に素敵な女性と対面すると、ほとんどのハッカーたちは姿勢を正して、アナーキーファイルといったものがちょっと怪しいくらいのものだということくらいにしておこうと努める。ただし、ハッカーはじっさいには Dorothy Denning と深刻な話題についてまじめに議論しようとしているのだ。ハッカーたちは進んで口にだされなかったことを口にして、弁護されなかったことを弁護し、情報は所有できないとか政府や大企業のデータベースは個人の権利やプライバシーへの脅威になるという信念を口にする。

Denning の記事は多くの人に、「ハッキング」とは何人かの悪意ある精神異常者の集団がただ破壊にいそしんでいるということではないのを明らかにした。「ハッキング」とは、無視したらなくなったり、何人かの首謀者を監獄送りにすれば存在ごとなくなるような常軌を逸したような脅威ではない。そうではなく、「ハッキング」とは情報化時代の知識と権力において、これからどんどん大きくなる根源的なところでの闘争の兆候なのだ。

Denning はハッカーたちの態度は少なくとも部分的には、ビジネス界の先見性のあるマネージメントの理論家たち、たとえば Peter Drucker や Tom Peters と似たところがあると指摘している。Peter Drucker は「The New Realities」 という本で、「政府による情報のコントロールはもはや不可能だ。情報は実際見られるように国境をこえ、お金と同じで祖国をもたないものだ」と述べている。

マネージメントに通じている Tom Peters は自分のベストセラー「Thriving on Chaos」の中で大企業の硬直した所有権についてたしなめている。「情報を秘匿することは、とくにそれが政治的な動機に基づき、権力を追い求める人々による場合、アメリカ産業、サービス業、工業において当たり前のこととなっている。それは明日の組織の首をしめるどうしようもない重荷となるだろう」

Dorothy Denning は、デジタルアンダーグラウンドを覆っていた社会的な薄い膜をびりびりとやぶった。Neidorf の裁判にも出廷し、弁護側の専門家として証言するための準備をしていた[訳注: 裁判の報告は,http://www.cs.georgetown.edu/~denning/infosec/Neidorf.txt,邦訳は大谷和子訳「クレイグ・ニードルフ事件」bit, No. 24, No. 1, pp. 12-24(前編), No. 2, pp. 6--58(後編)]。彼女は2つの大きく重要なコンピュータの市民自由運動家の会合を陰から支えている主催者でもある。どこからみても熱狂的といったタイプではないが、電子コミュニティのさまざまな部分を、驚くほど実りの多い一つの集団にまとめあげた。

Dorothy Denning は現在、ワシントンDCのジョージアタウン大学のコンピュータサイエンス学部の学部長をつとめている。


自由市民運動コミュニティには多くのスターがいる。ただ、その中でもっとも影響力のある人物は間違いなく、Mitchell D. Kapor である。他の人たちには公的な肩書き、あるいは政府の地位があり、犯罪、法律、もしくは理解できる人の少ないコンピュータセキュリティや憲法学的な理論に詳しい。しかし1991年には Kapor はそういった狭い役割はすべて超越していた。Kapor はすでに「Mitch」となっていたのだ。

Mitch は当座は市民自由運動家の中心となっていた。Mitch は最初にたちあがり、直接、力強く怒りに満ちた大きな声をだして、自分の名声と非常に多額の個人的な財産をリスクのある中にさしだした。91年の中頃には、Kapor は大義を主張するもっともよく知られた人物で、サイバースペースの市民自由運動の問題に直接影響のあるアメリカのほとんど全ての人に「個人的に」知られていた。Mitch は橋をつくり、裂け目をわたり、パラダイムを組み替え、メタファーをつくりあげ、電話をかけ、名刺を交換し、めざましい効果をあげた。そしてだれにとっても「ハッカー問題」において、Mitch が何を考えるだろうか、つまり友人にはどう語るだろうかを考えずには、なにも行動できないくらいになった。

EFF は、単に状況を全く新しいものへと「ネットワーク」しただけだ。事実、これが最初からのEFFのよく考えられた戦略だった。Barlow と Kapor は二人とも官僚制が大嫌いで、「価値のある個人の接触」が電子的なクモの巣を通して完全に機能するよう良く考えて選択したのだ。

EFF を設立して一年後、Barlow と Kapor は二人とも満足してうしろをふりかえる十分な理由があった。EFF はインターネットのノード「eff.org」をつくり、電子版市民権、プライベートの問題、学問の自由についての電子文書アーカイブを十分に蓄積していた。EFF は、印刷された季刊雑誌「EFFector」と1200人以上の購読者がいる電子ニュースレター「EFFector Online」を出版していた。そして EFF は、Well でも成功していた。

EFF はケンブリッジでの全国の中心となり、フルタイムのスタッフも抱えていた。会員制の組織をとり、草の根の支援も集めている。30人ほどの市民の権利を扱う弁護士の支援もえて、サイバースペースでの憲法の保護のために無料奉仕をしようと待ち構えていた。

EFFは、ワシントン、マサチューセッツでのロビー活動にも成功しており、コンピュータネットワークの州および連邦法の改正を行っている。とくに Kapor はベテランの専門家として、米国科学工学アカデミーの計算機科学および通信にかんする理事会にも参加している。

EFF は、「コンピュータ、自由、プライバシー」会議や CPSR の円卓会議といったような会合も支援した。マスコミ対策も行い、「EFFector」の言葉をかりれば、コンピュータネットワークに関する世論の趨勢に影響をあたえ、国中の関心を集めていた「ハッカーへのヒステリー」に対する流れを逆転させている。

Craig Neidorf の監獄行きも阻止した。

そして最後になるがもっとも重要なこととして、電子フロンティア財団は、Steve Jackson、Steve Jackson Games Inc、3人の Illuminati 電子掲示板システム利用者を代表として連邦訴訟をおこしている。被告はアメリカ合衆国シークレットサービス、William Cook、Tim Foley、Barbara Golden、Henry Kleupfel だったというか、である。

その訴訟は、本書の執筆時点ではオースティンの連邦法廷で公判前の手続き中で、憲法修正第一条および第四条、1980年Privacy Protection Act(42 USC 2000aa それ以降)、Electronic Communications Privacy Act (18 USC 2510 それ以降、および 2701 それ以降)に対する違反を矯正するための市民運動である。

EFF は信頼があること、自分にも攻撃する手段があることを示してきた。

1991年の秋には、ぼくはマサチューセッツに行き、Mitch Kapor と個人的に話すこととした。それがこの本での最後のインタビューになる。


ボストンという都市は、アメリカの共和制にとって常に知的な中心地の一つでありつづけた。アメリカにしてみれば、非常に古い都市であり、居並ぶ巨大ビルが17世紀の墓地に影をなげかけ、128号線沿いのハイテクのベンチャー企業が工業化以前の手工業による「いにしえの装甲艦」米国艦船 Constitution号の優雅な姿と共存しているところだ。

Bunker Hill の戦いは、アメリカ独立戦争で初期のもっとも激しい戦いの一つだが、ボストン近郊でおこったものだ。今日、Bunker Hill には記念の塔がたっていて、町のどこからでも良く見える。共和制革命の意気込みが武器を取らせ、相手に銃弾をあびせ、丸々二世紀はぬぐいきれないような文化遺産を後に残した。Bunker Hill はいまだにアメリカの政治のシンボルの潜在的な中心地であり、76年の精神はいまだに大衆の意見に影響をあたえようとする人たちの心に潜在的にうかぶものだ。

もちろん、国旗を身にまとう人が全員愛国者にちがいないということはない。1991年の9月に塔を訪れたときにはその台座のところにはスプレー缶による大きな字で、上手く消せていなかったので「BRITS OUT -- IRA PROVOS」という落書きがよんでとれた。塔の内部には、ガラスのケースに入った何千という小さい兵士の人形が飾られてるジオラマがあり、反乱軍と英国軍が緑の丘、川沿いの沼地、反乱軍の塹壕で戦ったり死んだりしていた。騎兵中隊の動きや、戦略の変更については説明板に示されていた。ここでも Bunker Hill のモニュメントが、人形の兵士の軍隊戦争ゲームシミュレーションの中央に位置していた。

ボストンの中央には、大きな大学がいくつかあり、その中でもマサチューセッツ工科大学が一番有名であり、「コンピュータハッカー」という言葉ができたところでもある。1990年のハッカー一斉取締りは、アメリカの都市の間の政治的な闘争と解釈することもできる。つまり、ボストン、サンフランシスコ、オースティンといった伝統的な長髪の知的リベラリズムの本拠地対、シカゴやフェニックスといったような、なりふりかまわない産業のプラグマティズムの渦巻く場所というようなものである(アトランタ、ニューヨークといった内部闘争を含有している都市もある)。

電子フロンティア財団の本拠地は、ボストンの郊外、Charles 川の北部、ケンブリッジの155 Second Street にある。Second Street は穴ぼこだらけの草が生えてる歩道があり、煉瓦はくずれかかって、アスファルトも古くて亀裂が入っていた。大きな標識が「豪雪緊急時以外は駐車禁止」と警告していた。ここは中小の規模の製造業の古いエリアで、EFF は Greene Rubber Company の対角線上にあった。EFF の建物は煉瓦造りの二階建てで、大きな木製の窓は上品なアーチ型で下枠は石でできていた。

Second Street に面した入り口のガラス窓にはレーザープリンターから打ち出されたきちんとした文字でかかれた3枚の紙が掲げられていて、それぞれ ON Technology、EFF、KEI と読み取れた。

「ON Technology」というのは、Kapor のソフト会社で、現在はアップルのマッキントッシュ用の「グループウェア」を専門にとりあつかっている。「グループウェア」とは、オフィスで働く人たちをコンピュータで結んでより効率的な集団での相互のやりとりをできるようにするものである。ON Technology の現在まででもっとも成功しているソフト製品は、「Meeting Maker」 や「Instant Update」である。

「KEI」は、Kapor Enterprises Inc であり、Kapor の個人的な持株会社で、公式に彼の膨大な他のハード・ソフト会社への投資を管理している商業組織だ。

「EFF」は政治活動を行うグループで、特別なものだ。

中に入ると、だれかの自転車が階段の質素な手すりにチェーンで結びつけられていた。流行のガラスのレンガの壁が控えの間とオフィスを区分けていた。レンガの向こう側には、壁にうめこまれた警報装置があり、こまかい数字が並んでいてサーモスタットとCDプレーヤーを足して二で割ったようなものに見えた。壁沿いには最新号の「Scientific American」が入った箱がたくさん積み上げられていて、そこでは「サイバースペースで働き、遊び、成功する方法」という号で電子ネットワーク技術および政治問題に関して幅広く扱っていて、Kapor 自身の記事もふくまれていた[http://www.eff.org/Publications/Mitch_Kapor/cyberliberties_kapor.article,邦訳は石田晴久訳「魔女狩りにあうハッカーたち」『別冊日経サイエンス コンピュータネットワーク』105, 1992. pp. 110--115]。こうした箱は EFF の通信担当の Gerard Van der Leun に送付され、すぐにこうした雑誌が EFF のそれぞれのメンバーに郵送されることになる。

現在 Kapor が借りている EFF、KEI、ON Technology 共通の事務所は、適度に騒々しい場所で、大きさは Steve Jackson のゲーム会社ほどだった。それは確かに、Lotus Development Corporation が所有する Monsignor O'Brien 高速道路沿いにある、巨大な鉄筋の鉄道で出荷するための倉庫とは比べものにならないような規模だ。

もちろん Lotus は Mitchell Kapor が70年代の後半に創設したソフトウェア大企業であり、Kapor も共同製作者である「Lotus 1-2-3」は未だにこの会社のもっとも収益率の高い製品である。「Lotus 1-2-3」は、デジタルアンダーグラウンドでも比類なき特徴をもっている。たぶん歴史上でももっとも海賊版がでまわったソフトだろう。

Kapor は、ホールの奥の自分のオフィスでぼくを大歓迎してくれた。名前は KAY-por と発音し、40代前半で、結婚していて、2人の子供の父親である。丸々とした顔で額は高く、鼻筋はまっすぐでしらが混じりの少しみだれた黒い髪をしていた。大きなブラウンの目は両目が離れていて、思索にふけっているようで、情熱的だと評する人もいるかもしれない。Kapor はネクタイは軽蔑し、普通のときはトロピカルなプリントの、それほど派手すぎなく単に華やかでちょっと変わったという感じのハワイアンシャツを着ている。

Mitch Kapor にはどこかハッカー風といったところがある。ワイオアミングの仲間の John Perry Barlow のように、猛スピードで馬を乗り回したり、ギターを爪弾いたりするようなカリスマではないかもしれないが、人を少し立ち止まらせる何かがある。東海岸の都市出身者の雰囲気があり、山高帽をかぶり夢みがちで、Longfellow を引用するポーカーの名人で、「たまたま」ポーカーのカンチャン待ちのカンチャンを引く数学的に正確な確率を知っている人物でもある。頭の活動が決して鈍いとはいえないコンピュータコミュニティの仲間内でさえ、Kapor  はかなり知的な人物として強い印象を与えている。早口で、迫力のあるゼスチャーをして、ボストンなまりのアクセントはときおり鼻にかかった若い頃のロングアイランドのするどいなまりになる。

Kapor の Kaporファミリー財団は慈善事業もたくさんしていて、ボストンコンピュータミュージアムの主要なスポンサーでもある。Kapor のコンピュータ産業の歴史に関する興味は、おもしろそうなものを集めることだ。たとえば、オフィスのドアの外にある「byte」。この「byte」は8ビットのものだが、トランジスターの前の時代のコンピュータの残骸からもってきたもので、小さなオーブントースターほどの大きさのガンメタルのラックである。親指ほどの大きさの真空管が手ではんだ付けがされている配線板が8スロットついていて、もしテーブルから落ちたりでもしたら、足を骨折してしまうことは間違いない。ただそれが1940年代のコンピュータの状況を示している(正確にはこの本の第一章を保存するのに、こうした原初のトースターが、157,184個は必要となる)

またコイルが巻かれたさまざまな色のうろこのついたドラゴンが、どこかのインスパイアーされたテクノパンクアーティストによって、トランジスター、コンデンサー、明るい色のプラスティックでコーディングされたワイヤーだけから作り上げられていた。

オフィスの中では、Kapor は少しわびをいって自分の Macintosh IIfx.でマウスをすばやく動かして雑務をこなした。もしその大きな画面が開いた窓だったら、身軽な男だったらたいした苦労もなく窓から忍び込むことができるほどの大きさだった。Kapor のひじのところにはコーヒーカップがおかれていて、最近行った東ヨーロッパの記念品があり、それは白黒の印刷された写真で、その下のタイトルは「資本家のバカどもの旅」となっていた。Kapor、Barlow と知り合いの二人のカリフォルニアのベンチャーキャピタリストの4人、ふきさらしでにっこり笑ったベビーブーマー世代が革のジャケット、ブーツ、デニム、旅行かばんをもち、以前は鉄のカーテンの向こう側のどこかの飛行場で立っていた。なんだかとっても人生を楽しんでいるようだ。

Kapor は昔を楽しむような調子だった。Kapor の若い頃について話をした。数学おたくだった高校生時代。毎土曜日にコロンビア大学の高校生サイエンス名誉プログラムに参加し、そこではじめて1965、66年のIBM 1620sでコンピュータプログラムの経験をした。「とても好奇心をおぼえた」Kapor は言った。「それから大学にいって、ドラッグ、セックス、ロックにはまった。脳みそが半分くらいしかないやつがそうしているように」大学卒業後、コネチカットの Hartford で二年ほどプログレッシブロックのDJをやった。

ロックンロールの日々が懐かしくないか、ラジオの仕事をまたやりたいとは思わないか尋ねてみた。

きっぱりと首をふり、「Altamont のあの日のあとは、DJにもどりたいなんて考えることはやめてるんだ」

Kapor は1974年にボストンにもどり、メインフレームでCOBOLのプログラミングをする仕事についた。その仕事には向かなかったので、仕事をやめて超自然瞑想の教師になった(Kapor の長期の東洋神秘主義への傾倒が「ロータス」」(Lotus=「蓮」)の世界をつくった)

1976年には Kapor はスイスにいった。そこでは超越瞑想法運動(TM運動)が、St-Moritz のビクトリア風の巨大ホテルをかりあげて、男だけのグループ、120人ほどが、悟りを開くかくたばるまでがんばっていた。Kapor も超越瞑想法にできるかぎりとりくんでみたが、だんだん「組織のばかばかしさ」に幻滅するようになっていった。「他人に空中浮遊を教えてるのに」 Kapor は床をみながら言った。声はオクターブさがって平坦な声だった「自分達は空中浮遊しないんだから」

Kapor はあきらめた。合衆国にもどって、心理学カウンセリングで学位をとった。しばらく病院で働いたが、そこにも耐えられなかった。かれが言うには、「私の評判は、多くの可能性をもった聡明な少年だけど、まだ自分がわかってないってものだった。もう30だっていうのにね、迷子みたいなもんだよ」

最初にコンピュータ Apple II. を買ったとき、Kaporは失業中だった。ステレオを売って現金を手に入れ、消費税をおしんで New Hampshire まで買いにいったのだ。

「買った次の日」 Kapor はぼくに語った。「私はコンピュータの店をうろうろしていて、40くらいの身なりのいい男がいるのをみかけた。そしてかれと店員との会話に耳をすませんだ。かれはコンピュータについては何も知りやしなかった。私には一年プログラミングをした経験があって、BASICでプログラムを組むことはできた。独学だったけど。だから私はかれのところにいって、コンサルタントとして自分を売り込んだんだ」そこで一息つき、「いったいなんだってそんなずうずうしい真似ができたんだろうね。がらじゃないんだけど。ただこういったんだ『お手伝いできますよ。お聞きしてたんですが、あなたが必要としてることもわかりますし、私がお手伝いできると思います』。そしてかれは私を雇ってくれた。最初の顧客だったわけだ。Apple II を買った次の日にはコンピュータコンサルタントになっていた」

Kapor はようやく自分の天職をみつけ、もっと多くの顧客にコンサルタントサービスを提供し、Apple のユーザークラブも始めた。

Kapor の友人の Eric Rosenfeld は MIT の大学院生で問題をかかえていた。複雑な金融統計のテーマにとりくんでいて、MITの混雑していたメインフレームのキューに自分のジョブを割り込ませることができなかった(もし Rosenfeld がずるをしてMITのメインフレームに侵入したら、Kapor は Lotus 1-2-3 を発明してなかっただろうし、PCのビジネスも何年も遅れていたかもしれないことに気づく人もいるかもしれない)。Eric Rosenfeld は Apple II はもっていたが、それをつかえば問題を簡単にできるかもしれないと考えていた。Kapor が好意からBASICでそうするプログラムを書いてやった。

とつぜん二人には、このプログラムを「売る」ことも可能ではないかという考えが浮かんだ。かれらは自分たちでプラスティックのバッグにいれ、一個100ドルで通信販売で売っていた。「おちこぼれコンサルタントの全くの自家産業ってところだ」誇らしげに Kapor は言った「まさしくそれが私の出発点なんだよ」

のちにウォール街の有名人になる Rosenfeld は、Kapor に MBA をとるためにMITのビジネススクールに行くように勧めた。Kapor は七ヶ月ほどはそこにいたが、MBAをとることはできなかった。ただいくつか役にたつことを身につけた。主には会計の考え方をしっかり身に付け、彼自身の言葉を借りれば「MBAとの話し方を身につけた」ということだった。だから途中で退学して、シリコンバレーへと向かった。

Apple コンピュータの最初のビジネスプログラムである VisiCalc の開発者は、Mitch Kapor に興味をしめした。Kapor はかれらのところで熱心に6ヶ月ほどはたらき、カリフォルニアにうんざりして、もっとましな本屋があるボストンへと戻っていた。VisiCalc の連中は、「プロフェッショナルマネージメント」を持ち込むという致命的なミスを犯していた。「それで地に堕ちたんだよ」と Kapor は語った。

「あぁ、最近は VisiCalc のことは聞かないなぁ」ぼくはつぶやいた。

Kapor はびっくりしたようだった。「うん、Lotusが、私たちが『買収』したんだよ」

「あぁ、『買収』したんですか?」

「そうだよ」

「Bell System が Western Union を買収したみたいに?」

Kapor はにやりと笑った「そう、まさしくね」

Mitch Kapor は、自分や業界の運命を完全に把握していたわけではない。1980年代初期のもっとも人気があるソフトは「コンピュータゲームだった」。アタリはアメリカ中のティーンエイジャーの家庭に入り込むように運命づけられているかのようだった。しかし Kapor は単にコンピュータゲームには特別興味がもてなかったので、ビジネスソフトに取り組んだ。しかし Kapor はきわめて鋭かったし、新しいアイデアを受け入れ、自分のカンを信じていた。そしてそのカンもばっちりだった。つきあった人もすばらしかった。才能あるプログラマーの Jonathan Sachs (Lotus 1-2-3 の共同開発者)、金融の天才 Eric Rosenfeld、抜け目のないウォール街のアナリストでベンチャーキャピタリストの Ben Rosen。Kapor は Lotus の創設者でCEOとなり、20世紀後半でもっとも目覚しく成功したビジネスベンチャーの一人となった。

今はとんでもないくらいの富豪で、ぼくは彼に正確にどのくらいの金を持っているか知っているかを尋ねた。

「あぁ」かれは答えた「一パーセントやそこらならね」

正確にはどのくらいもってるんだい?

彼は頭をふった「たくさん、たくさんだよ。答えるようなことじゃない。お金や階級の話なんてのは本当にうんざりするね」

ぼくは詮索したりはしなかった。肝心な問題でもなかったし。無作法にも、Kapor が少なくとも4000万ドル、それはLotusを離れたときに一年で稼いでいた額だが、はもっていると推測しているものもいる。消息通は、株でもっているので市場に左右されることはあるとしても 1.5億ドルはあると主張する。もし Kapor が まるでかれの同業の友人であり、ライバルであるビルゲイツが同じようなソフトウェア新興企業のマイクロソフトに居座ったように Lotus に居座ったら、ゲイツがもっているのと同じくらいの富をもつことになっただろう。それは数百万ドルは誤差があるかもしれないが、三億ドルくらいだろうか。Mitch Kapor は、ほしいだけの金を手に入れていた。お金はかつては彼を魅了していたものを失ってしまっていた、いやたぶんもとからそれほど魅力はなかったのだろう。Lotus が硬直的、官僚的になり、自分にとって本当の満足をもたらすものではなくなると、Kapor は立ち去った。たんに会社とのあらゆるつながりを絶ち、ドアをでていった。誰もがそれに呆然とした。かれを良く知っているもの以外はということだが。

Kapor は、サイバースペースの政治に変化をもたらすのに全財産をなげうつ必要はなかった。EFFの最初の年に、予算は25万ドルほどだった。Kapor は EFF を自分のポケットマネーで運営することができた。

Kapor は自分のことを生まれながらの市民自由運動家だと考えたことはない、と一生懸命ぼくに説明した。たしかに最近は正真正銘の市民自由運動家とすごす時間もふえたが、かれらの政治的正当性は Kapor をうんざりさせた。Kapor にしてみればかれらはあまりに法的なあら捜しをするのに時間を費やしすぎで、毎日の現実の世界での市民権を行使するのに余り熱心でないように思えた。

Kapor は起業家だ。あらゆるハッカーと同じように、かかわりが直接的なこと、個人的であること、自分の手が届くことを好む。「EFFがインターネットのノードになったことはすごいことだ。われわれは出版者であり、情報の発信者でもある」 eff.org のインターネットのノードが提供するものには、「Phrack」のバックナンバーも含まれている。EFF の内部においてもそれには議論があったが、最終的には思い切って公開することとした。他のデジタルアンダーグラウンドの出版物も扱っているが、そうしているからといって、Kapor が言うには「われわれは、Donn Parker が書いたものや、Gail Thackeray が薦めてくれたものも扱うよ。そういったものを公共のライブラリに入れるんだ。ありとあらゆるいろんな使い方ができるようにね。みんなが決めた方向へと私達は進化していくんだ」ということだった。そしてにやりと笑って「ありとあらゆる記事を分類しようとしてるんだよ」

Kapor は、公共サービスにおけるインターネットの問題に取り組もうとしている。「今日ネットでノードをやる際に問題となるのは、有能な技術専門家を確保しなければならないということだ。私達には Chris Davis がいて、言うことをぜんぜん聞かない機械の面倒をみて、世話をしてくれている。自分たちじゃ到底できないからね」

そこで一息つくと、「だから技術が進歩しなければならない一つの方向は、技術屋でなくても楽にあつかえるように、もっともっと標準化しなくちゃいけないってことだ。ミニコンピュータからPCへのシフトと同じで、私は将来にはみんなネットにノードを持つようになると思うよ。だれでも出版できるんだ。そうなったら今のメディアよりずっといい。それは可能だし、私達は一生懸命活動している」

Kapor は本領を発揮して、流暢になり、自分が話していることを完全に把握している「ハードウェアを扱うインターネットのハッカーにみんながネットではノードをもつべきだというとしよう。そうするとハッカーたちがいうのは『IP が対応できない』ってことだ(IP というのはインターネットのインターフェースのプロトコル)。現在のままでは、IP ソフトウェアは無制限の拡張ができない。使用できるアドレスが枯渇してしまう、つまり満杯になってしまうんだ。『答えは、』」 Kapor がいうには、「プロトコルを進化させればいいってことだ。頭がいい連中をあつめてどうすればいいかを論じさせればいい。ID を追加するのか? 新しいプロトコルを追加するのか? 『できない』なんていうもんじゃない」

頭がいい連中をあつめてどうすればいいかを論じさせるのは、明らかに Kapor が得意にしていることだ。ぼくはインターネットの人たちは自分達の技術的なエリートの地位を楽しんでいて、ネットを民主化するということに特別熱心ではないようだけど、と反論した。

Kapor は軽蔑している様子をみせながら、同意した。「そういうやつらには、そんな態度は『メイフラワー号』にのっていた人たちが、『次の船に』乗ってきた人たちを見下すような俗物根性だっていってやるんだ。みんなより1年、いや5年か10年早くきただけじゃないか、だからといってサイバースペースの所有権はないよ。なんの権利があるっていうんだい?」

ぼくは電話会社も電子ネットワークで、かれらは自分達の専門知識をとりわけこっそりとガードしているようだと意見をいった。

Kapor は、電話会社とインターネットはまったく異なる生き物だと反論した。「インターネットはオープンで、何でも出版でき、なんでも議論できるし、基本的にだれでもその議論に加われる。非開放的でエリート主義なのは、ただ使い方が難しいからというだけだよ。使い方を簡単にすればいい」

ただその反対に、立場をすばやくかえて、いわゆるエリート主義にも一理あることは認めた。「新しい人たちはやってきて、提案したり、ネットなんて『ぜんぜんなってない』なんて批判したり(中略)する前に、少なくともその文化をかれらの見方で理解する時間をとるべきだ。そこには歴史があるし、それなりには尊重しなきゃならない。それくらいには、私も保守的だよ」

インターネットは、Kapor の将来の電気通信のパラダイムだ。インターネットは分散しており、ヒエラルキーがなく、ほとんど無秩序といっていい。ボスもいなければ、命令系統もないし、秘密データもなし。もしそれぞれのノードが一般的なインターフェースの標準に従えば、中央のネットワークの権威なんてものはまったく必要ない。

それは組織としては AT&T にとって悪夢なんじゃないのか? とぼくは尋ねた。

そういった予測は、Kapor を少しもたじろがせなかった「今のところの大きな利点は、回線を全部保有していることだろう。ただ二つのことが起こりつつある。公用地をもっているところは光ファイバーを敷設している、Southern Pacific 鉄道とかそんな連中だ。多くの『ダークファイバー』が敷設されている(『ダークファイバー』とは光ファイバーのケーブルで、容量が大きく、現在利用するだけの需要をはるかに上回っていて、光ファイバーの多くに光の信号が行き渡っていないということ、つまりまだダークで(暗くて)、将来使われるのを待っているということだ)」

「もう一つは、加入者回線がワイアレスになっているということだ。Bellcore からケーブルTV会社、AT&Tにいたるまでだれもが、『パーソナルコミュニケーションシステム』とよばれているものを導入しようとしている。つまり加入者回線では競争がある。多くの人、多くの地域では電柱がつかわれるだろう。他にはダークファイバーを使う人がいる。電話会社はどうなる? そう両側から大きなプレッシャーがかかるんだ」

「これについて考えれば考えるほど、わたしは脱工業化のデジタルの世界では、規制に守られた独占という考え方は間違っていると信じるようになった。将来の人たちはふりかえって、19世紀と20世紀には公共事業が妥協として認められていたんだというだろう。地上には回線が必要だった。そうでなければ、経済的にみて非効率だったと。それは一つの企業が運営するということも意味している。しかし現在では、ワイアレスなところもあるし、回線ではなくハイレベルなインターフェースを通じて接続が行われるようになってきている。わたしが言ってることは、『最終的には』回線もあるだろうが、回線もひとつの商品にすぎないということだ、光ファイバーやワイアレスと同じように。もはや公共事業として「必要」ではない」

水道やガスの公共事業は?

もちろんそういったものは必要だ、とかれは認めた。「でも情報を動かすときには、物理的なものの代わりに、異なる種類のルールが適用できる。今のそういったルールを進化させるんだ。もっと分散化したシステムにできるし、もっと市場で競争するようなものにできる」

「政府の役割は、誰かがごまかしをしないようにすることになるだろうね。おなじみの『公平な競争条件』ってやつで、独占を阻止する政策だ。そうすればよりよいサービス、低価格、より多くの選択肢、地域分権が実現するだろう」 Kapor は微笑んだ「わたしは地域分権が大いに気に入ってる」

Kapor はビジョンをもった男だ。それは非常に新しいビジョンで、Kapor とその仲間が非常に詳細に、そして熱心につめているものだ。物事の暗い面をみる、シニカルで神経過敏なサイバーパンク作家であるぼくとしては、「分散化した、ヒエラルキーのない、地域分権」のネットワークのもたらす暗い面についてもいくらか考えざるを得ない。

ぼくは電子ネットワーク、ファックス、電話、小規模なコピー機は、中央集権的な共産主義を崩壊させ、ワルシャワ条約を無効なものにするのに大きな役割を果たしたと何人かの専門家が示唆していると指摘した。

社会主義はそれじたいが信用のならないものになったんだよ、と東ヨーロッパから戻ったばかりの Kapor は言った。ファックスだけでそれを成し遂げたという考えは、希望的観測にすぎるね。

電子ネットワークがアメリカの産業や政治的な基盤を、すべてがだめで、上手くいかなくなるところまで蝕んで、東ヨーロッパで起こったように、古い秩序をむちゃくちゃに壊すことが起こらないといえるのだろうか?

「いいや」 Kapor はきっぱりと答えた。「わたしはそれはまったく違うと思う。ひとつには10年か15年前、わたしは同じような希望をパーソナルコンピュータについてもっていたが、それは実現することはなかったからね」皮肉たっぷりにわらったが、眉はひそめていた「テクノユートピアなんてごめんだね。そんなものは見かけるたびに、尻尾をまいて逃げ出すか、徹底的に叩きつぶすことにしてるよ」

ぼくは、Mitch Kapor が世の中を民主主義に居心地がいいところにしようとしているのではないことに気づいた。かれは無政府主義者やユートピア主義者に居心地がいいところにしようとしているわけでもない。コンピュータ侵入者や電子詐欺を行うものにとってなんてのは論外だ。Kapor が本当に望んでいることは、将来のMitch Kapor にとって居心地のよい世の中にすることだ。この世界は分散化した小規模なノードの世界で、すぐれたものたちが即座に世界中にアクセスできるようにした、Mitch Kapor をいまあるようにした裸一貫からの資本主義のためのパーフェクトな環境だ。

Kapor はとても聡明な男で、ビジョンのある熱心さととてもプラティカルなところを併せもったまれな人物である。EFFの理事、John Barlow、ACLU の Jerry Berman、Stewart Brand、John Gilmore、Steve Wozniak、女性のコンピュータ起業家の Esther Dyson は同じような才能とビジョンと非常にすぐれたネットワークの才能を分かち持っている。かれらは1960年代の人たちで、荒波にもまれ、富と名声を勝ち得た。電子コミュニティが輩出したとても明晰な人物たちだが、現実の世界でもうまくやれるのだろうか? あるいは夢みているだけなのだろうか? かれらは少数派で、かれらに反対している人はとても多い。

ぼくは、Kapor とネットワークをする従業員が新しくインストールされたマッキントッシュのシステム7ソフトウェアの面白そうな複雑さと、楽しそうに格闘しているのをあとにした。次の日は土曜日で、EFF は休みだった。ぼくはこの町のダウンタウンの面白そうなところをいくつかまわってみることとした。

そうした場所の一つが、電話の生誕地だ。それは白と黒の斑点がある大理石の土台にブロンズの板で示されていて、John F. Kennedy 連邦ビルのショッピングセンターにあった。まさしく Kapor が FBI に指紋を取られたところだ。

その板は、ベルの初めての電話の絵が彫られていた。「電話の生誕地」とあり、「1875年6月2日、ここでAlexander Graham Bell と Thomas A. Watson がはじめて回線を通じて音を送った」

「この成功はかつて Court Street 109 だった場所の5階の屋根裏部屋で行われ、世界にひろがる電話サービスの始まりとなったところだ」

Court Street 109 はすでになくなっている。ベルの記念の板からみえるところに、通りをはさんで、NYNEXの電話局、地域ベル RBOC が Bowdoin Square 6 に存在した。

ぼくは通りを渡り、電話会社のビルのまわりをゆっくりと、両手をジャケットのポケットにつっこみ歩いた。明るく、風の強い、ニューイングランドの秋の日だった。電話局は立派な1940年代の巨大な建物で、後期アールデコの8階建ての建物だった。

建物の背面の外側には、電源供給トラックが停車していた。その電源供給はぼくをひどくびっくりさせた。この8階建ての巨大な建物には自前の電源供給設備がないっていうのか? その疑惑は、NYNEX がAT&T のニューヨークを陥れた電源事故のことを聞いてないわけがないということに思い当たった。この電源供給は、ベルトにサスペンダーってことだ。電話会社らしい。

正面入り口のガラスのドア越しには、アールデコの蔦、ひまわり、小鳥がベルのロゴのまわりに配置され、伝説のニューイングランド電信電話会社とかかれたブロンズのすてきな彫りものがあった。それはいまや公式には存在しない会社名である。

ドアはセキュリティがしっかりしていて閉まっていた。ぼくは曇りガラスごしにのぞきこんでみた。内部には公式のポスターがあり、そこにはこう書かれていた。

ニューイングランド電話会社 NYNEX

注意

ニューイングランド電話会社の敷地内にいる全ての人物はみえるところに身分証明カードを示すこと(刑事訴訟法 第2章 1ページ目に基づく)

訪問者、ベンダー、請負業者、他のすべての人物は一日限りのパスを見えるところに示すこと。

ご協力に感謝します。Kevin C ビルセキュリティ担当者

外の角のところでは、通用門に金属のでこぼこのあるセキュリティのシャッターが閉まっていた。通りかかった誰かが、このシャッターに落書きをしていた。その落書きは一言、赤いスプレーの筆記体でこう書かれていた。

「怒り」

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