読書日記:日記ということで、日付順にさらさらと書きながしていきます。
ただ日付はついてるけど、すぐに古くなるような内容にはしてません。過去分も読んでみてください
●はその本を読むに至った動機、▲は主に印象に残ったフレーズの引用
いろいろ本読んでるんですけどねー、いまいち仕事関係で引用したりする面白みにかけてるのは何だね。いや個人的にはむちゃくちゃうける一節があったりするんだけど、あんまり共有できるものでもないし...
気分転換本でこんなところを、たいしたエッセイでもないけど、まあメトロポリタンに関連するところがにやりとさせられて許されてる部分はあるけど、軽く読み流すにはなかなか笑える。それにしても靴一足を作る時間をソ連とアメリカで比べる教育がされてたなんてホントかね??
おもしろい一節にはみちあふれてるけど、こんなところの引用を。
先頭に戻るすべての神の子たちが美しいわけではない。事実、ほとんどの神の子は人前に出せる代物ではない。外面的な美しさを追求する代りに内面的な美しさを発揮しようなどと考えるほうがおかしい。内面的な魅力が輝きだす可能性があるとしたら、それは体のどこかに穴があいた場合だけだ。
けっこう、絵つきの本って好きなんですよね。でもなかなか鑑賞に堪える本って少ないじゃないですか、いい大人が懐かしむ以外の理由で子供向けの絵本を読み返すのもどうかと思うし。
と、ニッチでマイナーな分野にもちゃんと光があたるところが豊かな日本社会のいいところだね、三日月物語、絵と物語が非常に上手くマッチしていて、どちらもどちらを損ねてない。それほどお互いを高めてるともいえないとこはつらいところだけど(たとえば最初の葉桜の君とよばれるエピソードなんてばっちりなんだけど、どうして葉桜の印象的な風景を書けないかな?)
これくらいの大きな本でだしてくれるのもいい。少なくとも手元に置いときたい気にさせるね。現代小説では説明的すぎてくどい橋本治の文も古典を読む分にはちょうど解説と本文がうまく折り合ってるようでちょうどいいんだよな。
先頭に戻るえー、期待してたのになー。やっぱり著者のいろんなしばりがきつかったんでしょうか? いや期待をうらぎったのは文体、言葉だからそれだけともいえないんだけど旧訳は古臭い口語で読めなかったのでそれよりはぜんぜんいいけどでも及第点はあげられない。
ぜんぜん2003年のキャッチャーインザライになってないよ。もう村上春樹の耳もさび付いちゃったんだろうか。
ただ訳者の後書きも許さない著者のしばりもどうかと思うね。この作者は結婚とかして子供はいるんだっけ。いないこと&著作権を相続する人がいないことを祈るね。そうしたら死んだらフリーだ。もう終わった作家なんだろうし、著作権上も作者の文学的な死っていうのもあっていいのにねぇ。でこれが口語だっていう例を「阿修羅ガール」から
先頭に戻る恋の道は終わったの。これ以上生きてたって何にもなんないの。もういいの。こんなにあっさり死んでバカみたいだけど、でも生き恥晒して生きるより、こうして死にかけたところであっさり死んだほうが楽だしマシ。ごめんごめん。こんな風に生きる意思弱くてごめん。でもしょうがないの。こうやって私は逃げていくけど怒んないでください。唐突に告って一瞬でふられて速攻で死んで、でも私もうこんでいいの。
さよなら陽治。ホントに好きだった。
愛してた。
あの時からずっと、陽治しか見てなかった。でもこの恋かなわなくてホント残念。
この世に、陽治しか、欲しいものなんてなかったのに。
バイバイ。
あーあ。このまま空の上まで落ちて、私は一体、どうなるんだろう。
原書は「マーティン・イーデン」って主人公の名前なわけだけど、邦題は「ジャックロンドン自伝的物語」かぁ。いいのかね。まぁ善意にとると、すべての物語にはなんらかの自伝的要素ははいりこむって意味ではジャックロンドンっていう名前の強調にすぎないともいえるわな。
ただ徹底的にリアリズムにこだわった作者からしてみれば、自伝的物語なんて屈辱的なタイトルともいえなくはない。「的」って、いったいどこがリアリズムからはずれちゃってるのと。
いえ、はずれてません、とことんリアリズムありながら物語で、読ませます。別にそんなたいした小説でもないけど、若者のはつらつとした気分と進取の気性、恋愛、そしてそのすべての盛り上がりと幻滅が一気に味わえる。幻滅の描き方がいっそういい。
先頭に戻る何かが僕から出て行ってしまったのです。僕はいつだって世間を恐れることなどありませんでしたが、もういやでかなわないなどとは夢にもおもったことがありません。何やかやとありすぎたから、もう何も欲しくないんです。
日本の戦後史なんてまったく魅力なし。飢えからの脱出と戦前のアンシャンレジームの全否定、そして追いつけ追い越せのあとは、石油ショックにJapan As No1 で失われた10年ってところでしょう。
で、その時代を魅力的に描いたこの本がでてくるわけだ。最初の方こそ一般的な記述でだらだらするものの、ニコラスに焦点をしぼりこんでからは一気によませるものがある。ただもっといつもの野球モノみたいにもっとアメリカとの違いを強調してもいいかなと思わせるところもある。人の魅力で終わっちゃってるところもあってせっかくのこれだけの取材がもったいない。
いや続編で活用してるのかもしれないし、おまけに著者の照準の低さのあらわれなのかもしれないですけど。それにしても綿密に調査してくれていることを示す執筆ノートから、最近うしろの方を読んでばっかりだな。
アメリカでは昔から、賄賂は不道徳、という発想が広く深く根づいている。賄賂禁止法が成立した時代でさえそうだ。賄賂に対する強い道徳的反発は、刑罰に代わる一種の懲罰を生み出した。賄賂を渡したり受け取ったりした人間は、世間から厳しく軽蔑されるのだ。それにひきかえ日本では、政治的な賄賂がまったく別の結果を生むような文化的素地がある。賄賂を受け取った政治家は、公衆にさらされて恥ずかしい思いをしつつも、道徳的罪の意識は感じてないフシがある。おまけに収賄の事実を認めても、政治的キャリアに傷がつくどころか、その後もあいかわらず権勢を思うがままにするケースが少なくない。
リチャードミッチェルのPolitical Bribery in Japanからの引用。賄賂はねたみの対象にはなるけど自分では恥ずかしくない文化的素地って、分かる気もするけど、確かに人に説明するのはかなり困難。それにしても豊かさが一巡した今の時代になって、むやみに明るいだけじゃなく、音楽もそこそこ静かで、適正な値段で本格的な料理を食べさせてくれる店(要は昔のニコラ)のニーズがでてきたときには、その店はすでになしと。でもまぁ東京のレストランもそれほど捨てたもんじゃないよ。ただいぜんとしてサービスって言葉の意味がわかってない店はたくさんあるけど。
先頭に戻る独特といってもいい文体とそのリズムはとうぜんこの短編集でも健在で、熊のエピソードとか動物をおとなしく死なせる能力だとか、不器用で構成の粗い個所はここそこらに見当たるんだけど、それも欠点にはなっていない。
そこでうんざりしてページをとじたりすることなしに最後まで読み進められるばかりか、再度ページをめくらせる力すらある。
どこにその魅力があるのか? もう少しいくつか本を読んでみよう。
持ってた本を全部よんだわけじゃないらしい。買った本は全部よめっつうの馬鹿!
ちまたでは2ch小説とかなんとか。たしかに道具立てと文体の織り成す女の子語りのパワーは、殺されずうまく生かされてるとは思う。まぁでも最後にむけて集中して盛り上がっていく構成が少し雑というか散漫な感じで、いまいちだれちゃうところもあるね。
ただ書き出しもなかなか好きだし、途中の大きな文字のところなんて面白くて、この作者の他の本も読んでみようと思うほどにはなかなか魅力的であることはつけ加えておきましょうか。その書き出しを
減るもんじゃねーだろとか言われたのでとりあえずやってみたらちゃんと減った、私の自尊心。
返せ。
最初に読みはじめたときは短編かと思ったぐらいだけど(この作家でそんなことはありえないんだけど)、最後までなんとかたどりつくのはそれ相応のキャリアのなせる業なんでしょう。
とくにこれといったシーン・言葉もないんだけど、シャーロットのおくりものやスチュアートの大ぼうけんなんかの懐かしアイテムから、アンカーとかのマスコミ業界、あいかわらずの事故(今回のはどれもちょっとユーモラスすぎるけど)なんかをふくめて、さっと読む現代小説としてはまずまず楽しめるかと。
どこか励まされるところもあったりするしね。
ひさびさに漫画らしい漫画を読んだ気が。これが映画だったらよっぽど魅力的な主人公をもってこないとあきれるし、本だったらぜったい最後まで読めないだろうし、漫画ってまぁそういうものでしょう?
ストーリーは単調で結末はほぼ見えてるし、絵にも魅力はあるもののそれほどとは思わないけど、上手い組み合わせは読ませる漫画へつながると。
まぁそうはいうもの、一冊5分、30冊2時間だからともいえるだけど。
ラストへ向けての盛り上げは確かに見事でそこは素直に気持ちもあがっていくものがある(だから読後にはかなり爽快感が)。そこだけでも一読の価値はありでしょう。もちろん最終巻だけ読めばいいってことじゃないよ、笑
I can feel his burroughs' book closing in.
バロウズのほとんどの質の高い翻訳を手がけてきた山形浩生氏によるバロウズの評論。
評論といってもそこらに転がってるなんのパワーもない、自己満足の内輪向け引きこもりの自問自答じゃない。60年代以降の社会情勢からマクロ・ミクロ経済、バロウズの人生からクスリ・ゲイ、カットアップのわかりやすい書きかえからナボコフのカットアップ版、記憶の解放から自由の意味まで、本人曰くの「なにもかもをつめこんだ」何度も読み返し、読み返すそのたびに読者を考えさせる作品。バロウズに興味がある人もない人も、小説を手に取る人にならお奨めできる。
なかでもぼくが好きな一節は、
I can feel the heat closing in, feel them out there making their moves, setting up their devil doll stool pigeons, crooning over my spoon and dropper I throw away at Washington Square Station... 異質でありながら、共通の何かを持つことばであり続ける。ぼくたち自身の可能性を示唆してくれるものであり続ける
という部分。定番中の定番の引用からはじまりながら、思わず口ずさみたくなる一節だ。評論を読んでて口ずさみたくなることなんていままであっただろうか?
で、お約束の毒舌ぶりなんかも補遺のゴシップのセクションで健在(山形氏のいつもの読者にとってはもはや毒舌には感じられず、まぁ正当な評価じゃないぐらいに思ったりするわけだが)。
あとは警告で、この口調でしか語れない評論のまさにその口調になじめない人や、真面目でありつつジョークでありつつの、そのジョークが解せない人は読むのを止めておいた方がいい。世の中のあらゆる本は、読まれる対象を選ぶわけだから。いやしくも本を読もうとするなら、必要とされる知識はいろいろあるわけ。
それに不満を挙げるなら、批判にはジョークだからで逃げられる余地を残しながらという常に逃げ道を確保しての書き方だろうか。すこし愚直に正面からぶつかるものがあってもよかったと思う。特にこの題材だからということでもあるが、他にこれほど正面から取り組めるモノを他に持ってるのだろうか? いや、持ってるのかも。常に先を期待させるところも彼の大きな特徴だったりもするし。
思考停止のつまらない言い訳に知性のものさしをあて、ふたたび生き生きとした「知」とは何かを自ら実践しつつ、みなに教えてきてくれた山形浩生氏の最新作。
どこでもかれのバロウズを聞け。どの世でもかれのバロウズを聞け。
ロンドンで「リシン」が騒がれている昨今だが、なぜ騒がれているかわかるだろうか? 「サリン」みたいな目新しい毒物だからじゃないの、なんて意見はあまりに歴史をしらなすぎ。っていっても僕もこの本を読んではじめて知ったんだけど。
1978年9月7日、マルコフ(亡命ブルガリア人)は勤務先BBCへと急いでいた。バス停の前を通り過ぎたとき、右腿裏にチクリと痛みを感じた。通行人のかさの先が触れたようだった。男は詫びを言って去った。なんとも思わなかったマルコフだが、じきに熱を出して寝込んでしまった。彼は三日後に死亡した。
金属球が検死によって発見された。ブルガリア秘密警察の暗殺道具だったのである。傘の先に仕込まれたばね銃で金属球を打ち込む手口だ。まるで映画にでもでてきそうな見事さ! 殺人が芸術行為にまで昇華される瞬間を、たぶんこの小さな球は表現している。
このときの直径1.53ミリの金属球に2つの穴があいてて、その穴の中に植物性の毒物リシンが仕込まれていたわけ。
映画なんかでも現実の世界をモチーフにしたものはあまりに多い、サイコ、ロープ、羊たちの沈黙などなど。いずれも歴史をしらなくても充分に楽しめるけど、知ってればもっと楽しめることはいうまでもない。この本で有名な殺人はひととおり網羅されていて、エッセイのよせあつめになっているので気軽に読めるところもいい。
わからないときに人に聞くのはぜんぜん恥ずかしいとは思わない。ただ人を間違えないようにしないと、いよいよ混乱のきわみというわけで、どうにかして言ってることの80%くらいは信頼できる人を分野毎には押さえておきたい。当然自分の専門分野は自分でよろしく。
で、映画。映画ってよくわかんないんだよねっていうと、みんなに一様に白い目でみられ、対応は3パターンほど。まずあの映画はね、こーいう話なんだよってていねいにストーリー解説をしてくれる派。ありがとう、いや、でもさすがにそんなことはわかってるって。おまけに説明には明らかに誤解・妄想もあったりするし(それはそれで面白いが)。わかんないのは、たいてい二番煎じを薄めたような、ラストをむりやりどんでん返しの、ラストのためのラスト、映画化のための映画なんて展開でどこが楽しめるの? 原作の方がずっといい(もちろん例外あり)、なら原作読んだ方がいいじゃんってこと。
お次が、だってカーアクションや格闘がすごいじゃんってやつ。そうそう、すごいね。でもたいてい2時間半くらいの映画で1時間半くらいで行われるあらゆるアクションで主人公は絶対死なないからね。さぁそれを念頭にシーンをみてみよう。ねっ、緊迫感も1/3くらいでしょう。いやこれはよくない癖で、本の残りページを意識しちゃうのにも似たものがあるのでちょっと邪道です。でも確かにアクションがすごいのは認めるよ。リアルのヨーロッパラリー、F1、K-1はもっとすごいけどね。おまけに映画としてはそれだけお金がかかって、それを回収しなきゃいけないから誰でも理解できるようストーリーを単純化しちゃうわけ。
最後が、俳優ゴシップ。誰と誰がつきあって、別れて、ふられて、トイレットペーパーを買いにいかされて、結構、結構。確かに私生活もとうぜん作品の一部くらいな勢いなのは映画にかぎらず、ポップ文化がもたらした功績なんでしょう。ただそこだけじゃ情報を入れるのも大変だし(だって作品をみてもぜっーたい俳優のゴシップはわからん)、それに差異が小さくてマニアベースになっていくのは否めないでしょう。それにしてもそんなにみんな整形技術を絶賛しなくてもよさそうなもんだけど。
で、けっきょく映画ってつまんないよね、と昔なつかしい安心できる勧善懲悪、ボーイミーツガール、ドリームカムトゥルーものをテレビの深夜放送で眺めるくらいになっちゃった方にこそ、ぜひこの本を。
題名はちょっとひくかもしれないけど、内容はていねいでわかりやすい。
もちろん作者の意図など知らなくても「この花は綺麗だな」とか「写真みたいにリアルだな」という表層的な感想は持つことができます。でもそれだけです。それだけじゃつまらない、という人のために、映画だけでは見えない意図や背景、いわゆるサブテキストを探っていくのがこの本です。
完成した作品だけでなく、その製作過程を辿らないと勝手な推理や思い込みに陥る危険があります。本書では映画の研究がスケッチや習作、X線で見える描き直しの跡を調査するように、シナリオの草稿や企画書、関係者のインタビュー、当時の雑誌記事などに当たって裏付けを取りました。
たとえば『2001年宇宙の旅』には、人類の祖先が敵を殴り殺した骨を空高く放り投げると、それが宇宙に浮かぶ「宇宙船」につながる有名なシーンがあります。どの映画解説書にも「骨から宇宙船までの進歩を一瞬で表現した場面」と書かれている場面です。
でもこれは本当は「宇宙船」ではありません。核ミサイルで敵国を狙う軍事衛星なのです。スタンリー・キューブリックが書いたシナリオでは「大国同士が核ミサイルを突きつけ合って、全面戦争寸前」という趣旨のナレーションが流れることになっていました。つまり「人間は棍棒を核兵器にまで進歩させてしまった」という不気味な場面なのです。
「そんなことをいわれても」と文句が言いたくなる人もいるでしょう。
「完成した映画にはナレーションがないし、BGMに『美しき青きドナウ』が流れるので、逆に文明の進歩を謳歌しているようにしか見えない。いちいちシナリオまで探さないと理解できないなんて面倒くさすぎる」
ご安心を。それを代わりに調査するのが本書です。映画に関する文章でメシを食う者の仕事です。試写室で観た映画の感想文を書いてるだけじゃバチが当たります。
バチ当たりだらけの世の中なので、少しの良心がかがやいて見えるってことはあるけど、それにしても地獄の黙示録は「闇の奥」かぁ、なるほどね。また見てみよう/読んでみよう。
課題の作家、オーウェルの作品。それにしても本ってすぐに手に入らなくなっちゃうものだねぇ。このシリーズもでて10年もしたら絶版。どこかでだれかが言ってるように著作権も5年単位くらいの更新性が合理的なのかも。
で、こいつは女性が主人公で、「空気をもとめて」の女性版ととらえればいいかな。ただ男性のときは宝くじにでも当たれば日常生活を飛び出せたんだけど、女性が主人公だとなかなか日常生活との結びつきは強いわけだ。記憶喪失なんてかなり無理な設定で乗り切ってる、いや乗り切れてないな。記憶喪失ものってついドグラ・マグラなんて思い出させるね。
ただそれ以降はあいかわらずのオーウェル小説で、下層階級の生活や放浪生活を描いて一気によませる。でも道徳観の変化ってあっという間だから、この小説の中心になっている「女性の慎み」なんて、すぐに誰にとっても意味がわからないものになってそうだな。
いぜん不夜城で場所の作家と激賞して、鎮魂歌、漂流街まで読んでて、けっこう気に入ってたんだね。ただこの本でこの作家の本を読むのは最後だと思う。スリーアウトってやつだね。場所の作家が、得意の場所をはなれてまったく同じ枠組みでスケールダウンした物語を語る姿ほど惨めなものって世間ではなかなか見れない貴重な姿かもしれないが。
前読んだときはそうでもなかったけど、ある文脈の中で読むと、本って全く違う意味をもつことがあってこの本はその典型。いやいい本だから、もともと読む価値はあるんだけど。
実績ある企業の成功のかぎとなる意思決定プロセスと資源配分プロセスこそが破壊的技術を拒絶するプロセスである。顧客の意見に注意深く耳を傾け、競争相手の行動に注意し、収益性を高める高性能、高品質の製品の設計と開発に資源を投入する。これらのことが、破壊的イノベーションに直面したときに優良企業がつまずき、失敗する理由である。
顧客があきらかにもとめていない破壊的技術が出現したとき、経営者はどうするべきでだろうか。(中略)独立した組織をつくり、その技術を必要とする新しい顧客のなかで活動させることである。
まぁ簡単にいえば、既存の技術の持続的改善は優良企業でがんばってそのままつづけてね。ただ破壊的技術については、スピンオフした独立企業で新しい市場を開拓して独自にすすめなきゃだめってこと。日本企業にあてはめるとわかりやすい。その没落もスピンオフとそこで独自戦略をもった進め方ができないところにあるわけだ。あとはあくまで最初の市場と破壊的技術は別個の市場で、公正に競争しないとってこともあるかな。
ストーリーとしてはある男の一生と、その一生をいくばくかのお金を手に入れて現在の生活の逃避から一週間の故郷への旅をする物語ではさんでいる。田舎での男の子の生活、釣り、冒険、悪い仲間、そして戦争、結婚、なつかしくもありどこか寂しさがともなう。男の子にお奨め。ちなみに訳は口調が古めかしくてお奨めしない。
どんなことでもいいから考えてみてください。それぞれの時間を集計して、一生の時のうちで、そのことをするのに、さいてきた時間を計算してみなさい。そうした上で、ひげをそったり、バスに乗って動きまわったり、鉄道の乗り換え駅で待ったり、わい談のやりとり、新聞を読む、そんなことに使った時間を計算してごらん。
しかしときには、とくに寝顔に接する段になると、全く別な感じを持つようになる。夏の宵口、まだ明るい頃など、彼らのしとねのわきに、かぶさるようにたちはだかりながら、まるっこい顔、私のより数段と明るい亜麻色の髪の毛をして眠っているわが子らを、じっと見入ってたときもあったんだが、そんな時受けた感動というのが、例のバイブルの中で読む、わがはらわのこがるる思いといってあるものだ。こんなときには、自分は一文の値打ちもない、カラカラに干上がったまめがらのようなもので、唯一の取り柄というは、この子らを世の中のものとし、大きくなっていくあいだ養ってやることだ、と感じるのである。しかしそういうのもつかの間のことにすぎない。
OED(オックスフォード英語辞典)の編集にともなう話。まずびっくりするよねぇ、これらの辞書が出来る前、シェークスピアは辞書なしで作品を書いたんだよ。辞書なしだよ、まったく。そしてこの辞書の作成もありとあらゆる用例を集めることで作成されていて、その集める部分がオープンソース的な開発手法の先例なわけ。
この計画に着手するには、一人の力では足りない、とトレンチは言った。英語のあらゆる文献を丹念に読み、ロンドンとニューヨークの新聞にくまなく目を通し、雑誌や定期刊行物のうち文学的なものを綿密に調べるためには、「多くの人びとの協力」が必要だ。そのためにはチームをつくらなければならない。何百人もの人びとで構成さ
れる巨大なチームをつくり、アマチュアの人たちに「篤志協力者として」無給で仕事をしてもらわなければならない、とトレンチは述べた。
このアイデアには、粗野で民主的ともいえる魅力があった。それはトレンチの基本的な考え方とも一致していた。つまり、新しい大辞典はそれ自体が民主的な作品でなければならず、個人の自由を最優先することを実証する書物でなければならない。誰もが、辞典に管理された厳格な規則に従うことなく、好きな言葉を自由につかえるのだ
という考え方を身をもってしめすものでなければならないのである。「辞典は史的記念物である」中略「一つの観点から見た国家の歴史であり、言語がさまよいこんだ間違った道は(中略)正しい道とほとんど同じくらい有益かもしれない」
この本では、参加者の一人に着目していく。彼が参加しはじめたきっかけとしては不幸な人生と社会への参加意識みたいなことが挙げられているが、逆にやめるきっかけも興味深い。30年にわたって精力的に続けられてきた辞書への貢献が、死以外の何によって止むのだろうか。金銭が絡んでたりすると意外と簡単に崩壊する関係も今回はそういう要素はまったくなし。
結論からいうと平凡だけど、複合条件で加齢による体調(精神状態もふくむ)の悪化、病院の管理者の変更による管理体制の強化、何人かの知己の死亡なんかになるのかな。何にでも終わりはあるものだけど、30年にわたる貢献は十分すぎるし、かつ後世にとっても幸福な貢献だったと思う。
ゴンゾーね。ネットで新しく提供された多品種少量広告には、とうぜんTVなんかのマスコミで提供される少品種大量広告とは必然的に違う面があるのは異論のないところで、そこらへんが具体的に説明されてる。
手前勝手名な消費者操作のおかげで多くの企業が創り出した評判を通じて、マーケティング担当者たちは信用をなくした。今日、市場は接続され、ネットワーク化されている。消費者たちはお互いに話をしている。そしてこれがすべてを変える。
ポスト放送時代にあって、ブランドは企業が述べたことと、そしてそれを述べるときの気持ちの総和となる−企業とその利害関係者すべてとの関係状態を示す強力なシンボルとなる。最高のケースでは、ブランドは共有された理解と深い敬意の評判となる。こうした価値を伝えないブランドは、恥ずかしい公開旗印となり、無知と傲慢さと、無駄に失われた機会とを示すものとなるだろう。
山形浩生の訳文は Good。こういうたぐいの本でちょっと他の訳者は考えにくいくらいはまってる。ただ解説はめずらしく外してると思う。
解説でゴンゾーマーケティングの記述は「第三者的に見たそのサイトの信頼性という視点が抜けている」としている。それについて2点ほど。
まず抜けてない。p282でマイクロソフトのSlateの例をだして、その反トラスト訴訟の報道でSlateがどれだけ信頼できるか問うている。信頼性の話あるじゃん。そしてジャーナリズムに昔からある編集とビジネス利害の権力の分離(または欠如)の問題だときちんと記述している。だからべつにそれはゴンゾーマーケティングだけの問題じゃない、もちろん個人サイトの方が分離や欠如が起こりやすくなるって話はあるかもしれないが。
それから第三者的にみたそのサイトの信頼性ってそもそも何? ってことがある。そんなものは結局存在しないでしょうに。逆にあるふりをして、みんなに無条件に信頼できると誤解させることの方がずっと恐ろしい。新聞は広告主の悪口を書きにくいってことを、みんなは新聞を読むときにつねに意識できてるだろうか? 記事にならない事項もふくめてあやしいもんだ。そういう意味で山形氏の例をとれば、そもそもゲイツ君のサイトをいまどこの企業も引き受けてないのか確認してるのかね? もうすでにサンが引き受けてるかもしれないよ。
サイトに対して金が出てるから歪むかもしれない、出てなければ歪まないなんて、そもそもの金が出てるかどうかが読む側に分かるわけでもなし、あまりにナイーブすぎる意見。みんなだいたいどこからしかお金は出てるわけよ。しかもお金だけの問題でもなかったりするしね。
どちらかといえば、出てるのか出てないか、出てるとしたらどこからか、それが分かることの方が重要だと思う(上述したように個人サイトの方がわかりにくい、調べにくいって問題はあるかもしれないが、それは全く別の問題)
最後に最大の反論の「自分にそんな経験がない」っていうのもひどくないか?
長年サイトやってるけど、本職のコンサルへの依頼がないっだって?
たしかに意識的にか無意識にか山形氏にはこの本でいうゴンゾー的なところ満載だけど、じゃあそのサイトで何をマーケティングしてるんでしょう? そもそもマーケティングするつもりがあるかどうかも明らかじゃないけど、少なくとも本業のコンサルがその対象じゃないでしょうに、ちなみにサイトにコンサルに関する詳しい説明があるわけでもない。一方で雑文書きに関する依頼は、自身や関連サイトの及ぼす影響ってあったんじゃないだろうか?いい意味でも悪い意味でもネットのもたらす反応っていうのが、翻訳や雑文書きに少しは役にたってることもあるだろうに。
ちなみにbk1やアマゾンはどうして山形氏のサイトを引き受けないんだろう(山形氏がそれを受けるかっていうのはあるけど、依頼側からはいい話だと思う)。bk1は一時期そういう方向性なのかと思いきや、なんも分かってなかったみたいね。
それから最後にゴンゾーマーケティングの欠点ともいうべきところ。熱烈なファンをつくりやすいってことは、熱烈なアンチファンをつくりやすいってことでもある。結局魅力っていうのはそういう二面的なものなわけ。行動力のあるアンチファンの妨害活動を生み出しやすいっていうのも、まぁ無視すればそれまでだけど、ゴンゾー的な手法の弊害として把握しといた方がいいかな。
いやつねひごろから感謝してるファンだけに余計なチェックということで。
最近手に入らない本ばかりで。でも読書日記にも書いたけど、サイトの日記を読めばいいような。ネットも罪つくりだねぇ、暇つぶしとして確実にあるレベルの本の代替になりえてるな。
理性がどんなにはっきりとつまらないであろうことを予測しても、彼の心の中にある助平な好奇心が、なおも一パーセントの可能性にこだわるのである。「だって、もしかしたらイイかもしれないじゃないか」と好奇心は主張してやまない。しかも、好奇心は、「つまらないならつまらないで、どんな具合につまらないのか」ということをさえ知りたがるものである。
ちょこっとだけかえて
電話のような機械は、いずれ早晩、憎まれる運命にあるのだ。なぜなら、コミュニケーションは憎しみを生むものだし、コミュニケーションが生み出す憎しみは、コミュニケーションを媒介する機械への憎しみに転嫁されやすいからだ。
広告会社は自社CMを打たない。彼らはそんなものがペイしっこないことをよく知っているのだ。
こういう本が絶版だものなぁ、いいのかね、こんなことで。なんでもすぐに忘れてく世の中だ。この本の日本語訳の発刊も1975年くらいだし、現代の平均記憶期間って20年くらいじゃないの。ネットでこういう状況は少しは変化するなんていわれることもあるけどどうかね、あんまり期待もできないな。TV時代で映像のない時代のことがすっかりなかったようになって記憶期間の短縮が大きく加速されたように、ネット時代でも次から次へと新しいことがたくさん蓄積されていってどんどん短くなる一方だったりして。ただこの本を一回でもよんだら、ソ連の体制をいかなる形でも以前といっしょには見れないことは確かだと思う。ものごとには限度ってものがあるよなぁ。
もし物事が次のように簡単だったら、どんなに楽なことか! もしどこかに悪党がいて、悪賢く悪事を働いており、この悪党どもをただ他の人びとから区別して、抹殺さえすればよいのだったら。ところが、善と悪とを区別する境界線は各人の心のなかを横切っているのであり、いったい、誰が自分の心の一部を抹殺することができるだろうか。
そうそう、人は個人より集団のためにより強く闘うし、集団よりも、
イデオロギー!、それは邪悪な所業に必要な正当化と悪党に必要な長期にわたる頑強さを与えるものである。それは、自分の行為を自分と他人に対してその潔白を証明し、非難や呪いではなく、名誉と尊敬をもたらすことを助ける社会的理論である。(中略)イデオロギーのおかげで20世紀は何百万人という人びとを殺害する邪悪な所業を体験しなければならなかった。これは否定することも、無視することも、沈黙を守ることもできない事実だ。
ネットでの朝○の叩かれ具合なんかをみてると、イデオロギーへの反感っていうのはけっこう今でも強いものがあるのではと。
今回は本も長いので引用も応じて多くなる。最初の引用は厳粛時代に先立ち、それを予感させる裁判の中で。次は収容所群島に送られる際の持ち物について。最後は、収容所の中でスパイを強要されてと盗賊について。
「有罪の証拠はありません。その事実もありません。いや、起訴状すらありません。歴史は何というでしょうか?(ああ! おどかしたものだ! だが歴史は忘れるだろう! そして何もいわないだろう)」
常に心にしまっておけるようなものだけを持つがよい。いろんな言語を知れ、いろんな国を知れ、いろんな人びとを知れ。あなたの記憶こそ−あなたの旅行かばんであるべきだ。記憶せよ! 記憶せよ!ただこの苦い種子だけがいつの日か発芽するかもしれないのだから。
いや連中がチェスの規則を知っていればいいものを。
三回同じ手を使ったら、ゲームは引き分けとなるのに。だがここでは違うのだ! 何ごとに関しても怠け者である彼らも、この点だけは怠け者ではないのだ−相手は同じところから百回も相変わらず私に王手をかけてくる。私は百回も同じ歩の陰に隠れて、またぞろ出て来るのだ。相手に工夫はないが、時間だけはたっぷりある。ところで盗賊の心理は非常に簡単で、非常に真似しやすいものである。
1 自分が生きて楽しみたい、ほかの奴なんかどうでもいい!
2 いちばん強い者が正しい。
3 自分に関係なければ、手を出すな!(つまり自分が殴られないかぎり、
殴られている人に味方をするな。自分の順番を待っていろ、というわけである)
従順な敵を一人ずつかたづけていくこと! なんだか聞きなれた手口ではないか。そうしたのはヒットラーだ。そうしたのはスターリンだ。
村上春樹、マスコミ報道まで同時代を網羅的にとりあつかいながらも、オウムに一定の評価を与え大学教授の職を辞した自らの体験を中心にオウムを分析していく。あとは、中沢”確信犯”新一もウォッチングしないとなと思わせる。引用をいくつか
社会がまだ貧しい時代においては、宗教の役割は、恵まれない境遇にある人間たちに豊かになれるという希望を与え、その希望を実現する手助けをすることにあった。したがって、その時代に生まれる宗教は、高度経済成長時代の創価学会がそうであったように、強烈な現世利益を説いた。
社会に生きる若者たちが生きることに虚しさを感じてしまう現代のような時代には、虚しさからの解放を実現してくれる宗教が勢力を拡大していく。現実の社会は、虚しさから脱却していくための方法を示すことができないからである。
若者たちが生きることに虚しさを感じてしまうのは、一つには、社会に豊かさがもたらされ、それほど熱心に働かなくても、あるいはまったく働かなくても、親のすねをかじれば、食べていくことだけはできるからである。食べていくために働からなければならない状況におかれていれば、漠然とした虚しさを感じる余裕などない。その意味で、虚しさは、社会の豊かさの証である。社会が豊かになれば、必然的に虚しさを感じる人間が増えていく。
中略。社会が豊かになっても、虚しさを感じない人間もいる。たとえ虚しさを感じることがあったとしてもオウムのような宗教に向かわない人間の方が数としては多い。両者を分けるものは、何なのか。
ときたところで、ユリゲラーの超能力とバブルで金が全ての風潮に乗り切れなかったこと、家族と離れていたことなんかを、オウムへ流れていった要因にあげているのは噴飯ものなんだけど、オウムの宗教団体としてのキラーコンテンツに関する分析はなるほどと思う。たしかに社会と馴れ合って幼稚園経営にいそしむベンツにのる宗教法人のお寺の住職と比べると、中沢新一の「虹の階梯」からのチベット密教の流れをくむオウムの仏教としての純粋性はいよいよ際立つし。
ただ、この作者の根本的な弱さは世間知らずなところにあるんだよなぁ
オウムの経済的な優位性を低下させるためには、社会の側がそのための努力をしていく必要があろう。経済的な優位性をもたせないために、パソコン、プログラム関連の分野における省力化、機能の高度化などを進め、オウムが必ずしも経済的に優位ではない状況を作り上げていく必要がある。
中沢とは違って宗教にまい進するのではなく、作者は最後に「私たちは孤独に耐え、その孤独を楽しみながら、自分の頭を使って、これからを考えていかなければならない」なんて書いてるんだから、オウムの経済的な側面に着目したのはいいチャンスで、その記述がいかに「ばかげているか」よく考えた方がいいと思う。
サイバーパンクもの。リズムがあって気軽に読めるし、なによりピザ配達とハッカーとスケートボードが出てくる小説なんて読むしかないでしょう。バベルの塔の話もでてくるし。
とくに最初のボーイミーツガールの部分なんかまでは、息つく間もなくスピード感で一気によませるが、後半はいろいろ詰め込みすぎでだれるなぁ。もう少し刈り込み希望。ただお約束のラストはなかなか好きかも。
で、引用はハッカーについて
15年前、ヒロが初めてプログラムの書き方を覚えたころ、ハッカーはじっと座って一本のソフト全体をひとりで書くことができた。今ではそれも無理な話だ。ソフトは工場で作られ、ハッカーたちは要するに流れ作業の一員でしかない。しかも、いったん管理職になってしまうと自分でコーディングすることなどいっさいなくなってしまうのだ。
裏で、ハッカーを追えを訳していることもあってひさびさに読みたくなって、レビー続きだし。
ハッカーがどういう人たちか知りたければ、思い思いのどうのこうのの定義を読むより、この本を読めば一番すっきりするのに。それにしてもエピローグのRMSは、いつ読んでもヒーローっぽいな。
で、引用は元ハッカーの言葉。
「今はもう、ハッキングのことばかり考えているわけにはいかなくなっちゃったんだ。現実の責任ってものがあるんだから。生活費をかせいだり、結婚したり、子供を作ったり、とね。あのことのぼくが持っていて今は持っていないものは時間だ。それと、ある程度のスタミナもそうだな」
純粋に暗号について知りたいなら『暗号解読』だろうが、暗号にかかわる人について知りたければ、それから人が集まるところに必ずついてくる政治(ここではアメリカの政治)について知りたければこの本。ディフィー・ヘルマンのディフィー、PGPのジマーマンなど暗号における現代の主要な人物は一通り網羅されている。
それにしても同じ暗号っていう題材を扱っても、『暗号解読』と『暗号化』の2冊の違いはなかなか面白いものがある。暗号解読がエニグマの詳しい仕組みを説明する一方で、暗号化ではディフィーの恋愛が取り扱われる。この書き方が暗号化には少し不適切だと思うなら、暗号化ではどのようにその進歩がなされたかよりも、どうしてその進歩に結びついたかにより筆を割いているといってもいい。
ジマーマンは、スタンフォードやMITといった名門出の優秀な暗号研究者でもなく、ビジネスやマーケティングのセンスもほとんどなかった。それなのに、公開鍵暗号を発明した世界一流の数学者や市場に精通したビゾスにも達成し得なかったことをやってのけた。大衆ユーザーを味方につけ、巨大な諜報組織への大いなる 挑戦とも評されたボトムアップ型の「暗号運動」を生み出したのである。そんなわけで、1992年の末ごろには、フィル・ジマーマンは無名の人間から一挙に暗号前衛運動のヒーローに上りつめていた。「ヨーロッパに行っても、僕はただでランチが食べられるだろうね」当時彼は言った。「熱烈なファンがたくさんいるんだよ」
公開鍵暗号の真の発明者といわれるエリスとディフィーの会合について
あの日ジェームズ・エリスの頭に何が去来したのかは、いまや知るよしもない。エリスは革命的なアイデアを思いつき、やがて他人がそれを再発見して名声を勝ち取るのを目にした。自分の貢献を語る論文をわざわざ書きながら、生きているうちにそれが公表されることはなかった。さらに、自分のアイデアが他人に公表されて開花し、新しい産業や社会が生まれ、この分野が大きく変貌を遂げるのを目の当たりにした。その変貌はあまりに激しく、影の世界まで変わらずにいられなかった。それでも彼は、規則を破って秘密を明かすことはできず、そうしようともしなかった。民間にいた自分の分身に対しても。
こいつも山形浩生お奨め。読書ガイド率かなり高めだな。
この本も微笑ましいシリーズで、なんといっても動物の絵がいい。いろんな動物の絵が書きたかったんだろうな、かめいぬのジャクスンとかね。とくに出てくる人間の絵と比べると、動物に注がれる愛情がよくわかる。
一方、機械なんて嫌いそう。機械の絵はカメラが一箇所出てくるくらい。文章では大活躍のタイプライターもぜんぜん出てこない。
文章も最初は訂正とか手書き(これが絶妙でほんとに誰かがつけ加えたかと思うくらい、図書館とかで借りてきてつけ加えて返してあげたいくらい、笑)が多くてゆっくり入れるし、最後の方は話が盛り上がるにつれてスムーズに進めるようになってる。あとはページとか綴じるところにもある細かい工夫が微笑ましい。
でも1900円は微妙な値段だな、どうせなら絵本の意味合いを少し強くして、もう少し大判で出したほうがいいかな? あんまり翻訳の趣を再現できてないけど、以下に引用を
わしは立ちあがると、今度はガウンをはおって、また甲板に上がった。手すりのところまでいくと、月光に照らされた海原のむこうに輝く山脈の姿が目にはいった−そのときの心のたかぶりを想像してもらいたい。すぐさま、ほとんど何も考えずに、そのとき生涯でもっとも重要な決断をくだしたのだ。
それにしても、血とかコーヒーとか肉汁のしみがなんともいえずよい。
まず佐藤亜紀シリーズから、鏡の影は長すぎてなんか中だるみでそれほど感心しない。それからたしかに日蝕は鏡の影の影響がないとはいえないだろうけど、盗用っていうにはねぇ。それは単なる感想ですが。
ただ鏡の影は、今でもbk1からも検索できないなんて状況もあるし、絶版にするタイミングとか信頼関係にも編集者は気をつかう必要はどうみてもあるでしょう。もっと殺伐としたビジネスがやりたければ、いくらでもそういう業界はあるだろうに。
佐藤亜紀は1809、戦争の法はかなりはまるし、いい小説。戦争の法あたりから読むのがいいのでは、ただ戦争の法も絶版で、手にはいるかどうかは怪しいところだけど。
それから次は酒見賢一のピュタゴラスの旅。こいつは短編集。くじ引きっていう、犯罪者をくじ引きで決める話は面白くよんだけど、それくらい。
最後に、山形浩生紹介のエリアーデのオカルティズム、魔術、文化流行。たとえば占星術とか、どうしてこういうものが人気があるか、人が惹かれるのかをそれぞれ個別にきちんと論じている本。
(前略)諸君の人生が天体現象と関連しているという発見は、確かに諸君の存在に新たな意味を授けるのである。諸君はもはや単にハイデッガーやサルトルによって描かれたような匿名的個人ではないし、不条理で無意味な世界に投企され、自由を宣告され、サルトルがよく言うように、己の状況に限定され歴史的契機によって条件づけられた自由を背負う異邦人でもない。むしろ星占いは諸君に新たな尊厳を啓示する。それは諸君が全宇宙といかに密接に関係し合っているかを示すのである。
最近は「不条理で無意味な世界に投企され、自由を宣告され」の方が本当に前提になってるかどうかも、かなり怪しげだけどね。
パリ・ロンドンでも貧困が大きな社会的問題だった当時に、オーウェルが実体験した貧困生活のルポタージュ。それ以降の作品の根底にもなっている。
ルポタージュを基本とするあるタイプの小説家の基礎は、こういうところで養われてるんだなっていう背景もみえる。言葉に対する敏感さもみてとれるし、ただそういう部分の訳はどうしても難しいね。
彼のもつ性格は、まぎれもない浮浪者のものだ−うらぶれて、そねみやすい、走狗のもつ性格である。とはいうものの、彼はいいやつであった。天性ものおしみせず、その最後のパンくずを友と分かちあうことが出来た。そして現に、一再ならず、この私と文字どおり最後のパンくずを分かち合ったのだ。
オーウェルも好きな作家、代表作だけじゃなくてもう少し腰をいれて読まないとね。
山形浩生のお奨め本。コンピュータ関係の本で10年も前の本にも関わらず、これほど古びない本もめずらしい。
ただいかんんせんアマゾン、bk1じゃ手に入らない。こういう本こそ書評で取り上げて、在庫してもらえばいいのに。ちなみに、上のリンク先のアスキーではまだ取り扱ってる。最近は出版社もネットでの取扱いをしてくれることが多くなったね。ただ郵便為替同封方式で微笑ましいっちゃ微笑ましい。
コンピュータ、UNIX本というよりは、つねに現場で興味をいだくことの大切さを教えてくれる本。教育に関して、
新しい世界に飛び込むために必要なものは、まず挑戦しようとする”意思”である。その気のないユーザーを見ていると、けして教えた以上のことをやろうとしない。おそらく/usr/docを探しまわることなどしないであろうし、片っ端からmanコマンドをタイプしてみることもないであろう。
後継者はこんなところでしょうか? こちらも最近メンテモードに入ってしまったみたいだが、再活性化が望まれる。それにしてもこの系統の人って、みんな電車やラジオ、オーディオ好きだな。
とくに取り上げるほどの本でもないけど、犬猫好きによいかなと。
ロボット、山椒魚戦争のチャペックの動物もので、それにしても年取ると園芸やペットにはしったり、よかれあしかれ人間なんてそんなものだと。
微笑ましいっちゃ微笑ましいできなんだけどね。
ダーシェンカは、この世の悪意や様々な陰謀や罠を、まったく考慮に入れていない。世界には、その上をうまく走ることのできないものがあるなんてことは、どうしても理解できないことなので、三回ほど、庭の池に頭から飛び込んだ。
ぜんぜん話はかわるけど、韓国で犬は食べそこなったなぁ。中国では猫を食べられるとか、興味はなくもない。
佐藤亜紀のお奨め。
それにしてもこの物語をアニメにするっていうのもチャレンジャーだな。銀河の元気のよさだけを切り出してもねぇ。小説の1/5くらいの楽しみしかないと思うんだが、まぁ、そこから小説に入ってくる人もいるんだろうね。
小説としては、銀河という太い筋に、混沌などの細かい流れを上手く絡めて、さらっと読めてかつ楽しめるできになっている。特に細かい流れの処理(混沌なんて中国史へのアンチテーゼ!)が上手くて安心して楽しめるといった具合だ。
「兄弟は天下を取ろうと思っているのか? 馬鹿なことを言っていないで、そのへんの銭を拾い集めて帰るんだ。また 沚水に寄って遊ぼうや」
古い説話にこういうものがある。人の心は太鼓は生命力の混沌とした沼であった。生の欲求がときどきぼこっと浮かんできて泡になる。その泡が弾けて、泡の中に詰まっていた気(ガス)を吸うことによって人は生命の欲求を知るのである。
あえて言うとしたら、漢文の部分を読ませるように書いたほうがいいんじゃないの? ってことくらいかな。たとえば『「然リト」 はい、と言った。』はいかにも冗長でしょう。「然りと」というふうに漢文の部分を読ませるようにしたほうがよかったんじゃないのということ。でも読む側の大部分にもう漢文の素養・リズムも失われて久しいから、無理なのかも(一部にはぜったい漢文のリズムにニーズがあると思うが...)
ポリティカルコレクトシリーズは、以前にも本編・続編と読んでて、2作目の方がより力も抜けて笑いの方向へシフトしているようにって読んでるけど、三冊目はもう読むこともないかなという感じ。シリーズとしての目新しさもないし、まずだいたいクリスマスを題材に選ぶことから、本来のポリティカルコレクトのパワーを失ってない? トナカイの労働条件談義が少しわらえるくらいで、クリスマスキャロルなんて、もともとの物語のパワーにまけてるくらいだからなぁ。
ポリティカルコレクトは、メリークリスマスからハッピーホリディズへの言葉の言い換えなんかを含めてあれほどの力をもってるのに、やっぱり長編はつらいのかも。それ自体が「笑い」を超える有効な力を持ちえてないんだね。少年少女物語なんかで可能性はあると思うんだけどねぇ。
じつは下の本と読んだ順序は逆で、この本をよみつつ、下の本を手に入れ、先に読了してこの本にかえってきたということ。人に聞くとあんまりこういう読書方法はないみたいで、複数同時に読みすすめとか、FIFO方式(順番に一冊ずつ読んでいく)がメジャーのような。でも2冊の本のサンドウィッチ方式もなかなかいけるよ。この2冊は、昨日の協力関係モデルの理論とその究極の実践というところでしょうか。
佐藤亜紀はホームページも有名かな。作家としてはどうなんでしょう。あと2〜3冊読んでみようかって気にはさせるけど。
ゲーム理論の本。囚人のジレンマのやつだ。確かにこれもとくに目新しい内容のある本ではないけど、(いわゆる、自分からは裏切らない、相手が裏切ったらすぐさま一度だけ反撃して水に流すってやつ)、その簡単なルールがなぜ強力かを前提条件をふくめていねいに分析している。
裏切られたらすぐに怒りをあらわにした方が良い結果を得ていた。つまり、ふいに裏切られたときに反撃を躊躇していると、それは悪い信号を送っていることになる恐れがある。何度も相手の裏切りをまかり通させてしまうと、ますます相手は裏切っても大丈夫だと思い込んでしまうだろう。このパターンが定着してしまうと、それを打開することがさらに難しくなる。怒るなら、遅いより早いにこしたことはない。
怒りを示す可能性とは、必ず報復するという意味ではなく、報復する場合もありうるということである。理論的には、怒りを示すタイミングは少し間をおいてからでもよいし、必ず報復する必要もない。しかしあまり手をぬいてはいけない。ともかく、相手に裏切る気を起こさせないようにすることが肝心である。
当然のことであるが、怒るということには危険を伴う。もし相手がどうしても裏切ろうと望むならば、報復が報復を呼び、争いははてしない裏切りあいに発展する恐れがある。
社会生活を営む基本にしてほしいもんですな。
とくに目新しい内容のある本ではないけど、日本の金融機関と規制当局がどういうものだったか、あるいは今もどういうものかを分かりやすく描きだしている。
どうしていつまでたっても「天下り」ってなくならないのかな。官僚と金融機関の間違った行動のインセンティブの大部分が、この仕組みに支えられていると思う。過渡期の問題はあるけど、変革は必須でしょう。
その代わりに必要な仕事をする官僚には、いいじゃない、それ相応の給料を払えば。それも退職金ではなく、ちゃんと給料で払おうよ。責任と給料が比例するのは当然のこと。低い給料で重い責任を負わせるから、余計なインセンティブが働きやすくなるんじゃないの?
それからこういうときにマクロの問題とミクロの問題を混ぜちゃいけないとかなんとかいって、具体的な部分での責任追及を曖昧にする風潮があるけど、マクロの問題はそれとしても、ミクロな部分の明確な責任もきちんと追求する必要があるのはいうまでもない。もっと日銀・官僚には金融のあるべき姿(金融政策)を追求してほしいし、金融機関にも守られた規制の中でモラルハザードに陥るような悪循環から抜け出してほしい。
それにしても読み進めるにつれ暗澹たる気持ちにさせる本。
暗号についてどれか一冊といえば、その動機から仕組み、歴史、未来像までを上手く網羅したこの本になるんだろうなぁ。
暗号という特殊な分野で秘密になりがちな歴史をできるかぎり追及しているし、また写真をのせることで暗号に大きな役割を果たしてきた人を身近に感じさせる工夫もささいだがなかなかいい。
こういう本はなかなか一部を引用するものでもないんだが、
量子暗号システムが長い距離で使えるようになったとき、暗号の進歩はそこで止まる。プライバシーの探求劇もそこで幕となる。
トラフィック分析とは、メッセージの内容は読めなくとも、それを送信したのが誰か、あて先は誰かを突き止めるテクニックである。送信者と受信者を突き止めることができれば、内容もそれなりに推測できてしまうのだ。
フィル・ジマーマン(PGPの作者)によれば、われわれは暗号の黄金時代に生きているのだ。「現代においては、どんな方法でも決して解読できない暗号を作ることができる」
インターネットのあるサーチエンジンで検索してみたところ、「ホイットフィールド・ディフィー」は1382件ヒットしたが、「クリフォード・コックス」は15件だけだった。コックスの抑えた態度はあっぱれなほどである。「世間に認められたたくてこの業界に入る人はいませんよ」ウィリアムソンも同じく冷めている。「まあ、そういうこともあるだろうね」と思いました。また一歩一歩やっていくだけです。
ただ暗号にしても、プライバシーのために秘密の通信手段を確保するのは前提としても、そもそも秘密でないといろいろなことが通信できないような社会を徐々に変えていく(許容度が高い社会への)方向の努力も損なわれちゃいけない気もするな。
小説が売れるまでの苦労話や交通事故で九死に一生を得る話もふくめて読ませるんだけど、再度読みたいかっていわれると本人の小説と同じで二度とは手にとらないかな。
小説作法としても英語、日本語の違いはあるけど基本的なことはなかなか網羅されてる。でも健康維持、家庭円満、本をよく読みよく書く、気が散らないようにする、からはじまるあたりもなかなか楽しめる。少し引用も、
思うに消極的な愛人が受け身の態度を好むのと同様、臆病な作家が受け身に逃げる。受け身は安全なのである。進んで厄介な行動に出ることはない。主語は目をつぶってイギリスを思い、ヴィクトリア女王がどう言い換えるかをかんがえていればいい。
悪文のほとんどは不安に根を発している。
優れた小説は必ず、物語にはじまって主題に辿り着く。主題にはじまって、物語に辿り着くことはほとんどない。わずかに考えられる例外は、ジョージ・オーウェルの寓話小説「動物農場」くらいのものだろう。もっとも、この場合にしても、物語の発想がまずあったのではないだろうか、と私は密かに思っている。あの世でオーウェルに会ったら尋ねてみたい。
はなはだ残念なことながら、それが現実というもので、アメリカ人はレイモンド・カーヴァーの短編小説よりも、テレビのクイズ番組に熱狂するのである。
それにしても、書いた文章を送ってくれれば読むなんて書いてあるけど本気かな? だいたい人に教え始めると作家や芸術家としても終わりかなって気もするけど、どうなんでしょう。
1989年に全てがはじまり1994年に全てが終わるまで、ハッカーのみにターゲットを絞り、サイバースペースでの出来事を描いた本。より多方面からの歴史をふまえた同時期の話を読みたい場合は、「ハッカーを追え」をどうぞ。
この本ではMODvsLODのハッカーのグループ対決をふくめてすべてが劇画調なので、それを割り引くことも忘れちゃいけない。まぁさすがに、EFFのバーロウと主人公ファイバー・オプティックの対決なんかには、手に汗握るものがあるんだけど。
全体的に、捜査資料をふくめて、ただいたずらにハッカーたちのプライバシーを侵しているだけのような気持ちにさせる。それぞれのハッカーにはそれぞれのバックグラウンドと考え方があるのは確かなんだけど、ここまで詳細に個人が特定できるまで書く必要があったのか。今このときでも10代後半の少年が、世界のどこかで同じようなことをやっているんだろうが、良かれ悪しかれこの本の彼らだけがある種のハッカーの代名詞でありつづけることは間違いない。
あとはEFFのハッカー擁護と政策推進のあいで揺れ動く対応も、最近のDVD関係の対応と比べると興味深い。少し引用も。
AT&Tがすべての洞窟を所有しているとしたら、洞窟探検者はみな、むこうみずな犯罪者ということになってしまうのだろうか?
だがこの一件のおかげで、連邦政府がどれほどコンピュータのことに、そして公民権や電子のフロンティアについて無知かをバーロウは痛感することになった。
あとがきには、ハッカーの語源の説明があって、山形浩生の説明と重なってるけど、もともとはMITでタイムスライスで使われてるコンピュータで仕事をさっさと片付ける(=ハック)するところから生まれたって説明があって、事実はどうあれ話としては上手くできてるなって感じだね。。
本が実用的なことって割合少ないが、この本はめちゃくちゃ実用的。というか、この本を読めば少なくともギャンブルと中途半端な気持ちで付き合わなくてすむ。あるいはなんにも考えずにギャンブルすることが、単に効率よく楽しくおかねをなくす方法だと割り切れる。
もちろんギャンブルには、パチンコ、カジノをはじめとして、競馬、宝くじまでありとあらゆるものが含まれる。とにかく、これ以上税金払うのもなんだよなぁ
なんだかんだと能書きをいったところで、目が出れば、すべて偶然である。有機的なつながりが目の流れにあるように考えるのは、こちらの方法論のための勝手な思考にすぎない。
カジノに行くことがあったら、この本を一読してからがお奨め。なにをやればいいかくらいは、はっきりするしね。
長い物語の読後感っていいねぇ。なんかものさびしいようなお腹いっぱいのような。この物語だと終わり方もきちんと考えられてるんで安心して終われる。
なかにはあるものなぁ、長編でなにもかもとっちらかったまま終わっちゃう話。そういう思いは現実で十分すぎるほど味わってるから、せめてかなり長い物語はちゃんとした終わり方をするものを読みたいもの。
愛するものが危険に瀕してる場合、しばしばこうならざるを得ないものだよ、サム。つまりだれかがそのものを放棄し、失わなければならないのだ。
あとは、作者も触れているように「短い」の一言にすぎるねぇ。エルフ語という新たな言語までつくっての緻密な土台には、より長い物語がふさわしいようにも思うけどね。
それから、映画化されるんだって? どうせホビットが主人公じゃなくなるんだろうなぁ...
長い物語だと、読み始めてからしばらくしてから昔読んだことを思いおこさせる。
以前読んだときは、二度読むことはないと思ったものだけど、まぁじっさい読んでみればそれはそれなりに楽しめるもの。かなり時間は食うけどね。
「わたしはゴクリには少しもあわれみを感じないんです。あいつは死んだっていいやつです」
「死んだっていいとな! たぶんそうかもしれぬ。生きている者の多数は死んだっていいやつじゃ。そして死ぬる者の中には生きていてほしい者がおる。あんたは死者に命を与えられるか? もしできないのなら、正義の名においてそうそうせっかちに死の判定を下すものではない。それもわが身の安全を懸念してな。すぐれた賢者ですら、末の末までは見通せぬものじゃからなぁ」
続きも気にならなくもないけど、さぁ、そろそろやることやっとかないと。
あんまり期待せずに手にとったんだけど、なかなかの収穫。現代の暗号の数学的な基礎を素数から公開鍵まで簡単に知りたいなら、特にお奨め。クイズをはじめとして気軽に取り組めるけど、そのうち手を動かさないといつのまにか置いていかれちゃうんだよな。
いかんせん、ふつうの人に読ませる本として暗号の「この先」というところは省かれているが、それはhttp://www.cayley-purser.ie/をよめばいい。
After math aftermath の章もなかなか現代を反映していて楽しめる。よせられる手紙や資本家の申し出も「有名」になることはどういうことかをよく物語っているし。それにしても16歳でも分かる当たり前の判断ができてない大人が多すぎない? (まぁ邦訳の表題への皮肉もこめて、こういう表現で)
わたしはそれまでに何度も両親とその科学者仲間との会話を耳にしたことがあった。だから、どんなにつまらないことでも、あるいはわかりきったことでも、それが自分の「すばらしい成果」であるかのごとく発表する人たちのことを、本物の科学者が心の底から軽蔑していることを知っていた。
ビジネスとしてうまくいかないというのと、科学がいい加減だというのは次元の違う話だ。
記者たちが、本人に事実を確認したり考え方を聞いたりすることなく、書きたいと思ったことをほとんどなんでも書けることを知ったのは、背筋が寒くなるような経験だった。
暗号の世界でそれ相応の暗号として認められるには、ちょっとやそっとの年月じゃだめなんだよな。それもふくめて、暗号の世界も数学の世界と同じように経験が重視される大人の領域になりつつあるんだろうな。でもこの本でも見られる集中力をみると、いちばん良い数学者やプログラマーはやっぱり10代にいるような気もするな。
それにしても本ってあっという間になくなっちゃうものだねぇ。この本も1981年に出版されて、もう手に入りにくくなっている。本当に図書館さまさまだよ。
で、暗号シリーズのてはじめにこの本、現代暗号の最初の専門家、クリプトアナリスト(暗号解析者)という用語をつくりだしたウィリアム・フリードマンの伝記から。なんせフリードマンが取り組む時代では、エドガー・アラン・ポーの論文が参考文献になるくらい(さすがに黄金虫ではないが)だから、まさにここから現代の暗号は始まったといっても過言ではないだろう。この本では、暗号学でコード(略号)、サイファ(換字)システムの整理からその洗練まで、暗号マシンでは