リレーエッセイ「ニュータウンの街かどから」

第8話 「ニュータウンの外側から〜あの雑木林が〜


【序章】

 「緑の小径」は、港北ニュータウンに在住されている方達を主要メンバとして、発祥からまもなく5周年を迎えようとしています。 私自身は、一般的に「ニュータウン」と称される所から車で10分程の、JR横浜線鴨居駅に在住しています。 そんな私が何故ニュータウンと関わり、ニュータウンにこだわるのか、それは今から四半世紀さかのぼる事になります。
 

【私の少年期】

 私は40数年前、今の東京都港区三田で生まれました。 今でこそオフィイス中心の街になってしまいましたが、当時はまだ下町風情の残る庶民の町で我が家に風呂も無く、カランコロンと下駄を鳴らして銭湯に通う様なのどかな所だったのです。 地元の公立の小学校、中学校と、今風の「お受験」とはおよそ縁遠く、のんびりとした少年期を過ごしておりました。 そんな少年をよそに、世の中は高度成長期の真っ只中に突入し、親父族の仕事もネクタイを締めたサラリ−マンの比率が急激に高くなりました。 東京駅中心に形成されていたビジネス拠点も手狭となり、新宿が副都心と呼ばれ、山手線沿線を中心にじわじわそのエリアを拡大し始めたのです。 折からのマイホ−ムブ−ムも重なり、住宅のド−ナツ化現象が社会統計で注目され、静かだった町は少しづつその姿を変えていきました。

 当時の我が家は、ご近所同様、土地は借り物、建屋は自前、賃貸契約は10年、20年単位の長期という代物でした。 自作農・小作農なんて時代の名残なんでしょうか。 よほどの事情が無ければ、居住をよそに移す必要が無かったのですね。 やがて訪れたのは「立ち退き」の四文字でした。 バブルの頃の「地上げ」の様な、えげつないものではありませんでしたが。 小さな家々を取り壊し大きなさら地にして、オフィイスビルに建て替える、そんな時代が訪れたのです。

 我が家もいつそうなるか判らない。 両親は住む所が無くちゃ話にならんと、とりあえず今の横浜の土地を手に入れました。 三田の家の地主との交渉は数年単位にまで縮小され、次の契約の時は「申し渡し」がある、との感触を得た両親は、中学3年で高校入試を控えた私に、横浜市内の私立高校で取りあえず三田の家からも、土地のある横浜の駅からも通える所を第一条件にしたのです。 当時、都立高校が学校群制度の弊害で優秀な生徒に敬遠され、私立優先思考の時代でもありました。 結果、田園都市線市ヶ尾駅からバスで10分程の高校に進学する事になり、三田から1時間半の遠距離通学をする高校生が誕生したのです。

 学友は、皆都内の高校に進学したので、その学校に進学したのは私だけ。 これまで幼稚園から中学まで全て徒歩1分圏内だったのに比べると、気が遠くなる様な距離と時間。 なれない土地。 最初の不安感は、相当なものでした。 田町から国鉄で大井町駅へ、田園都市線に乗り換え、市が尾駅からバス。 大井町からは始発で、進行方向が下りだったのがせめてもの救いだったでしょうか。 田園都市線もいまだ長津田までしか無く、新玉川線は影も形もありませんでした。 駅も宮前平、宮崎台、あざみ野は、まだ存在していなかった様に記憶しています。 学友の大半は、田園都市線沿線在住で生来住んでいる者と、親が家を買って移り住んで来た者に二極化されており、自分はそのうち後者の仲間になるんだな、と思っていたものです。

 高校一年の時、三田の家の更新時期を迎えましたが、無難に2年契約で更新されてしまいました。 え、ちょっと待ってよ、じゃあ3年生の途中までこのままジャン!といささかショック。 3年で大学受験を控え、またまた学校選びで頭を悩ます羽目になり、結局その時も1年契約で更新する事になり、なんのことはない、高校3年間1時間半の遠距離通学を真っ当する結果になったのです。 その間、今のニュータウンから通学する学友も何人かおり、皆畑の真ん中や雑木林の影にひっそりとたたずむ様な家から通学しており、バスに揺られ通学時間も私とほとんど変わらず、何度か遊びに行った時も「こりゃ大変だわ」と感心しきり。 自分はまだ恵まれた方だと、自分を慰めたものでした。

 その後、大学受験に失敗し代々木の予備校に通う事になり、家から30分足らずの楽々通学になり、やれやれと思っていたら、いよいよ契約非更改が確定し横浜の土地に家を建て始め、受験日も近い12月に引越しと相成ったのです。 12月となればもう受験も追い込み時期、何の因果でと文句を言いながら、手垢にまみれた参考書を段ボ−ルに詰め、新築の今の家へ移り住んだのです。 そこで私を待っていたのは、今度は上り電車の通学地獄。 参考書を広げて読もうにもラッシュ馴れしていないせいか、いつのまにか人の間に挟まれそれもままならず。 おまけに当時の横浜線はいまだ単線。 電車の本数も限られており、1本逃すと次がくるまで10分待ちは当たり前。 おおもとは不勉強だったせいなのですが、それが追い討ちをかけ再び受験失敗。 現役の時に引っ掛かっていた3流私立大学が無ければ二浪の憂き目にあう所だったのです。

 当時大学経営が、都内の土地高値の為郊外移転をはじめたはしりで、通学先は八王子。 今度は2時間とさらに遠くなってしまったのです。 ただ、普通に都内の高校に通っていては決して味わう事の無かった、のどかな田園風景に毎日浸れた事、学校は山のてっぺんだったせいか、近隣の女子高校生に接触するなんぞ皆無でしたが、それはそれで楽しい青春の1ペ−ジです。 田園都市線も3年間の間に少しづつその姿を替え、駅も増え駅前の施設も充実し、車窓から見える田畑や雑木林も減っていきました。 卒業証書の筒を携えながら、もうこの風景を見る事は無いのだな、と感傷に浸ったものでした。
 

【港北区にニュータウンが出来るって】

 大学を終え社会人になった頃でしょうか、母が新聞の地元版を読みながら話かけてきました。 あの何もない山を切りひらいて開発し、一大文化住宅を県も市も肝いりで開発していると。 かなりセンセ−ショナルな記事だった様に記憶しています。 あの田んぼや畑とうっそうとした雑木林に囲まれた山あいがどうなるのかね? といささか懐疑的に受け止めたものです。 一昔前、テレビ、冷蔵庫、洗濯機が「三種の神器」と呼ばれた頃に開発された多摩ニュータウンが過渡期を迎えた時期で、ニュータウンという響きにあまりいい印象を持たなかったからかもしれません。
 

【もう一つの大開発予定地 東戸塚】

 港北ニュータウンの事をすっかり忘れていた平成元年10月に結婚し、東戸塚にアパ−トを借り新婚生活がスタ−トしました。 東戸塚もJRや大手デパ−ト、ス−パ−が協賛で新しく駅を作り、駅前に一大ショッピングモ−ルを作成する予定の地でしたが、バブルの崩壊と共に開発は頓挫し、駅前の坂道は野原が延々と続いており、色あせた建築計画予定図が取り外される事なく放置されていました。 その分、利便性のわりに家賃が安くて決めた様なものなのですが。 その後、家内が長男を懐妊。 結婚前からの予定通り、鴨居の実家で私の両親と同居する事になりました。 二世帯住宅にするのはもったいないが、さすがにそのままではと2階を拡張・改装して、新しい生活がスタ−トする事になったのです。 東戸塚が計画図のとおりになる姿を見る事もなく。 その時、横浜市営地下鉄は、いまだ新横浜が始発駅でした。
 

【TVの港北ニュータウン特集】

 2年程前のある日、会社からかえってなにげなくTV.を見ていたら、「港北ニュータウン 東急、阪急、あいたい 三つのデパ−ト戦争」の様な番組。 目から鱗が落ちてしまいました。 当時、緑区・港北区統廃合で青葉区と都筑区の四つに分かれた事は知っていました。 しかし、都筑区となった港北ニュータウンは、私が想像だにしていなかった姿に生まれ変わっていたのです。 「そうなんだよ、この辺、今開発が進んで凄いんだよ、今度行ってみようよ」、と言う家内の声が遠くから聞こえていました。 私にとっては、あの田畑と雑木林しかなかった所が、いつの間にかこんなになっていた。 その事の方が大きな衝撃でした。 その番組で見たのは、地元在住のネットコミュニティで店の新作が良ければ一気にヒットする、という場面。 昔、口コミ、今、ネットコミ?

 次の週末、早速車で出かけてみました。 多かった緑をふんだんに残し、ゆったりとした街並みがTVで見たとおりの姿で現れたのです。 横浜市営地下鉄が田園都市線とつながった話は知っていましたが、鉄道がつながった背景には、これだけ大きな変化があったなんて。 東戸塚の姿を見て、バブルがはじけてから、大開発は全て同様に建築途中のまま放置されているんだろう、と思い込んでいた私には、大きな衝撃でした。 家に帰って買って間もないPCで「港北ニュータウン」を検索。 知りたかったのは、TVに出てきたあのネットコミのHP。 それらしきペ−ジが幾つか検索されましたが、何気なくクリックしたのが、「緑の小径」だったのです。 それが私と「緑の小径」との出会いでした。 高校生の頃、田畑や雑木林だった所に新しい街が出来、比較的若い世代の住民達が、自分達の街にしようと、エネルギッシュに活動している姿が見えてきました。 彼らがそこでどの様に暮らし、どの様に笑い、何を求めているのか。 退廃していく横浜市の中で、一つの光を見た思いでした。
 

【そして緑の小径の仲間へ】

 中古で買ったばかりのPCを悪戦苦闘しながら操作し、何とか世話役の「Joe」さんへメール。 その後中々入り口がわからず、やっと開いた扉の向こうには、多くの仲間が待っていました。 最初は港北ニュータウンの人達だけと思い込んでいたのですが、近隣だけでなく、かなり広範囲の方達が参加されていて一安心。

 実は、私自身本格的にこの仲間になってから1年も経っていません。 なのに、HPのリレ−エッセイ執筆なんて大役が舞い込むなんて夢にも思っていませんでした。 オフ会もまだ参加した事もありませんし、どちらかと言うと新参者の部類です。 ただ、「緑の小径」は新しく入ってきたものを、自然に招き入れてしまう独特の優しさがあります。 最初は、皆さんのコメントを読んでいるだけで十分なのですが、そのうち「え、それってどういう事?」と自然に発言出来る様になり、気が付いてみたら自分から勝手に言いたいことをコメント出来る様になってしまう、そんな不思議な魅力がある所です。 このHPを見てほんのちょっぴり興味を持たれたら迷わず世話役の「Joe」さんにメ−ルを入れて扉を開いてみて下さい。 日々の生活に一味違ったペ−ソスが加わる事になりますよ。 なんでわかるんだ、ですって? 私がそうだったから自信を持って言えるんです。
 

【その後の東戸塚】

 これまでの文面で東戸塚を引き合いに出してしまいましたが、ここ数年でじょじょに開発が進み、駅前は私が住んでいた当時とは見間違う程になりました。 環状2号線も整備され新横浜まで15分程度、ニュータウンまでだと30分位と、道路網も整備されました。 ほぼ、計画どおりの街並みになった事であの色あせた建設計画図はさすがに取り払われたでしょうね。
 

【最後に】

 21世紀を向かえ、横浜市も大きく変貌を遂げています。 私も三田での生活より東戸塚も含めると横浜市での生活の方が長くなってしまいました。 今は、横浜が故郷かな、と自然に思う様にもなりました。 私が通っていた三田小学校は児童数不足で廃校になり、当時の学友はほとんど離散してしまい、今となっては連絡もつかない状態です。 これも時の流れゆえなのでしょうか。

 自分自身が親となり子供を育てる中、昨年父が他界し、我が家も世代交代を迎えつつあります。 今の子供達が我々の世代になった時どうなっているか、想像も出来ませんが、人と人とのコミュニケ−ションやコミッティは、やはり必要不可欠なものとして残るでしょう。 今はネットが急速に普及し、この様な手段が一般的になりつつあります。 今の形がそのまま残る訳ではないでしょうから、その時どんな社会で、どんな手段でそれを行っているか? 私にとっての鉄腕アトムは、彼らにとってはなんなんでしょう。 その答えは数十年後に、彼らが出してくれるのでしょうね。
 きっと。
 


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