| 年 代 |
事 項 |
出 典 |
| 1817(文化14年) |
君津市中村糠田の池田久蔵、孫久吉を助手として鑿井業を始める。鉄棒の先に矢筈形の金具をつけ、台棒突き足場によって約20間掘る |
「中村誌」 |
| 1818(文政元年) |
中村籾山大宮寺ほか9戸飲料・灌漑用に突井戸を掘る |
大宮寺所蔵文書 |
| 1820(文政3年) |
貞元村三保田方で突井戸を掘る |
鳥居敏子氏所有文書 |
| 1821(文政4年) |
中村籾山大宮寺ほか10名飲料・灌漑用に突井戸を掘る |
大宮寺所蔵文書 |
| 1837(天保8年) |
大野台村では干損に備え井戸仲間を結成し、突井戸を掘る |
大野台区有文書 |
| 1852(嘉永5年) |
大野台村で先の天保年間、掘削した突井戸の管理方法等について文書で再確認する。この確認文書から共同の井戸だけでなく、個人で掘削した井戸もあることがわかる |
大野台区有文書 |
| 1857(安政4年) |
このころの紀行文によれば、奈良輪(現袖ヶ浦市)付近の民家には家ごとに自噴井戸があったことがわかる |
「遊房総記」 |
| 1864(元治元年) |
中村の池田久吉は、親戚の池田徳蔵を助手として鑿井業を行なう |
「中村誌」 |
| 1879(明治12年) |
東京府下千住E(丸に漢数字の六)組定兵衛が弟子5,6人を連れて、小櫃村俵田で掘抜井戸(突抜井戸)の掘削を始める。俵田の住人大村安之助は、定兵衛についてさく井法を覚えたという |
「君津郡誌」 |
| 1880(明治13年) |
小櫃村寺沢の鳥海栄次郎宅付近に掘り抜き井戸を掘る。俵田飯田長之助、山口竹次郎、内田浪次郎らは、大村安之助の助手となる |
|
| 1881(明治14年) |
大村安之助は、成田参詣の折、ガス管7尺を買って帰る |
|
| 1882(明治15年) |
大村安之助は、金棒の代りに樫棒を用いることを考え、台棒突きによって50〜60間掘る |
菱田忠義「上総掘り考」、「中村誌」 |
| このころ池田徳蔵も樫棒による掘削を試みる |
|
| 1883(明治16年) |
中村沢田金次郎、小櫃村大村安之助らが「竹ヒゴ」の利用を考案し、200〜300間に及ぶ掘削を可能にする |
菱田忠義「上総掘り考」 |
| 沢田金次郎はバルブ(弁)を考案し、大村安次郎は樫棒の先に竹管をつけその先に鑿をつけて掘削を試みたという |
|
| 1886(明治19年) |
大村安之助、竹管を鉄管に換えて掘削を試みる。池田徳蔵も鉄管を用い、その先に輪鑿、輪一をつけて掘削を試みる |
「中村誌」 |
| 明治10年代から20年代にかけて上総・安房地方の水田面積が他地域に比べ増加する |
大島暁雄「上総掘りの民俗」 |
| 君津市上の石井峰次郎は池田徳蔵を助け、揚げ足場・ハネギなどを考案する |
「中村誌」 |
| 1890(明治23年) |
大多喜町で上総掘りによって天然ガスが掘り当てられる |
太田芳輝氏所蔵銅版画 |
| 沢田金次郎はシュモク・ヒゴグルマを考案する |
|
| 1893(明治26年) |
この年木更津の住人鹿島太助という人物が、新潟県新津油田で石油の掘削を試みる |
「日本石油史」 |
| 1896(明治29年) |
この頃には、一連の上総掘りの技術体系が完成する |
|
| 石井峰次郎、池田錦里らが台湾や九州、北海道で上総掘りを普及する |
石井峰次郎「上総式温泉掘削の栞」 |
| 明治30年代に関東各地に広まり始める |
|
| 1902(明治35年) |
F.J.ノーマン著した「カズサ・システム」第二版がインドにおいて刊行される |
「カズサ・システム」 |
| 1905(明治39年) |
このころから上総掘りによる探鉱も試みられるようになる |
|
| 1914(大正3年) |
全国各地で上総掘りの職人が活躍する |
|
| 1923(大正12年) |
関東大震災によって多くの上総掘りによる井戸の自噴が停止する |
|
| 1929(昭和4年) |
石井峰次郎が鹿児島で温泉を掘削する |
|
| 1945(昭和30年代) |
動力による掘削機械の普及、圃場整備等により、この頃から上総掘りの姿がみられなくなっていった |
|
| 1965(昭和40年代) |
米の生産調整がはじまり、昭和40年代半ばころには、上総掘りの姿はほとんどみられなくなった |
|
| 1984(昭和59年) |
人力による経費の問題や工法等の簡便さが見直され、上総掘り職人であった近藤晴次氏らがフィリピンやアフリカで上総掘りによる井戸の掘削をおこなう |
|