第一話 子供十字軍
第二話 オフィーリア
第三話 婚礼の客
第四話 黒の騎士
第五話 落馬した男
第六話 いちじく
第七話 天上の離宮
第八話 隠者
第九話 笛ふき男
第十話 湖水
第十一話 少女
第十二話 塔守り
第十三話 予言の鳥
第十四話 白鳥
第十五話 虫
第十六話 空腹
森は暗く恐ろしかった。いくえにも繁った枝に月明かりも届かない。頼りなげな松明の光に、木々の幹はいっそう黒く、恐ろしげに見えた。遠く近くの茂みからは虫の声が不吉に響き、はるか遠方からは獣の吠え声が聞こえた。あれは狼か、それとも人を食らうという化け物か。そしてなによりも恐ろしいのは、木々の背後の暗闇だった。松明に浮かびあがった幹の向こうの闇は底知れない。そして燈火が揺れるたびに、そこには何かあやしい影がうごめいているようだった。
日が暮れて、しかも、このような深夜に森を行くことになろうとは、考えてもみなかった。しかし行かねばならない。もはや引き返すには遅すぎる。隠者の庵をさして森へ入ったのは、まだ陽が高いころだった。庵は森の深いところにあるらしいが、暗闇が訪れるまでには十分に行きつけるはずだった。それでも、けっして安全な行程とはいえないかもしれなかったが、村長の私としては、どうしても行かねばならなかった。
奇妙な噂がひろまったのは一月くらい前からだった。森で恐ろしい獣を見たというものが現れた。長い毛をまとった大きな動物で、低い吠え声と、鋭い牙を持っているというのだ。このあたりの森にはもともと大きな動物などいない。冬には雪深いこの地では、リスや野ネズミ、そしてウサギくらいしか住めないのだ。おおかた、臆病者が何かを見誤ったのだろうよと笑っていたが、そのうちに、俺も見た、いや、俺などはあやうく難を逃れたのだ、などというものが次々に現れた。
皆の話では、森の奥深くに隠者が住みついてからのことらしい。ぼろぼろの服をまとった老人で、どこからやって来たのかもわからない。いつのまにか粗末な庵を結んで住みついたようだ。あの獣は隠者が連れてきたのではないだろうか。村の教会の絵図にも、恐ろしい獣と暮らす隠者の姿があったではないか。あれこれと話し合っているときだった。突然、一人の男が息をのんだ。
「うちの餓鬼。そうだ、あのあたりは餓鬼どもの遊び場じゃあねえか」
その通りだ。とんでもないことだ。村の子供たちは野良仕事を手伝うのがあたりまえだが、足手まといになるような小さい子供は勝手に遊ばせておく。もちろん、小さい子供だけでは危険なので、年長の子供の中で身体の弱い、あまり役にたたないのが面倒をみるしきたりだ。そんな子供たちの遊び場といえば、あの森の口のあたりだ。そして、身体の弱い年長の子供というのは、他ならぬ私の息子なのだ。
隠者とはいえ、危険をもたらすのをほうっておくわけにはいかない。獣を始末するか、それとも、森から出て行くか、村長たる私が談判の使者にたつことになった。言われなくともわかっている。すぐに森へ入ることにした。庵は森の深くにあるらしい。獣に出会ったという村人の話から、だいたいの見当をつけた。大丈夫だ、めったに通らないとはいえ、狭い道をたどっていけるだろう。陽のあるうちにはつけるはずだった。
恐ろしさをこらえながら、なおも道を急いだ。太い幹の向こうの闇は見ないようにしているつもりだったが、気にすまいと思うほど、かえってうごめく影に気づかずにはいられなかった。今の影には確かに手足があった。鉤爪に、とがった尻尾もあったようだ。こんどは大人の腰たけほどの影だ。こちらが気づいたと見るや茂みの後ろに隠れたようだ。森で人を迷わすという魔物だろうか。それとも地中に住むという小鬼か。
その時だ。木の根に足をとられて前のめりに倒れてしまった。しまった。四つ這いのまま、地面にころがった松明を追った。心臓は何かにぎゅっと掴まれたようにつめたい。そして、こめかみは熱く脈打っていた。松明を拾いあげてほっとすると、背中が汗でびしょぬれだ。足をとられたあたりを用心深くうかがった。本当に木の根だったのか。地中の小鬼に足を掴まれ引きずりこまれたら、底知れぬ坑道で永遠にやつらの奴隷にされてしまうというではないか。
こんな所は早く離れるに限る。松明をかざして先を急いだ。それにしても、隠者の庵はこんなにも遠いのだろうか。森にはあまり入ったことはないが、それでもおおよその見当はついているつもりだった。普通の足ならば、とうに森を抜けているはずだ。道に迷ったのだろうか。それとも、すでに魔物の手中におちてしまったのだろうか。けどられぬように用心しながら、ところどころで小枝を目印に折った。
突然、風が吹いて松明の火がなびいた。木々の枝が大きな音をたてた。風の音に獣の吠え声がいりまじった。見上げると、黒い巨木の枝がざわめき、風に葉裏を返している。枝から枝へ葉裏が翻ってゆくさまは、何かが走りぬけていくようだった。来た! 妖怪か森の精霊かは知らぬが、いよいよ私をとらえにきたのだ。森に闇がおちたときから、ずっと見張っていたにちがいない。それなのに、私はなんということをしてしまったのだ。目印の小枝をそっと折ったのを見られてしまったのだ。あさはかな知恵が、彼らの怒りを呼んだのだ。
恐怖を感じた。本当に恐ろしかった。声を出すこともできなかった。夢中で走った。立ち止まればやつらの手中におちてしまう。二度と森を出ることはかなうまい。松明の火の粉が散った。風が追いかけてくる。黒い幹の向こうを闇が駆けてくる。逃げなければ。隠者のことは、もうどうでもよかった。夢中で走るうちに、突然、足もとに手ごたえがなくなった。私はそのまま闇の中へ落ちていった。
父ちゃん、父ちゃんと呼ぶ声で気がついた。私の顔をのぞきこんでいるのは、わが息子ではないか。父ちゃん、こんなところで寝ちゃだめだ。風邪をひいちまう。そういう口ぶりは私とそっくりのようでもあり、妻に似ているようでもあった。心配そうな顔の背後に青空がまぶしい。すでに陽は高いようだ。してみれば、私は森を抜けたのか。それにしても息子よ、お前はどうしてこんなところにいるのか。あの森をどうやって越えたのだ。
私の問いに息子がけげんそうな顔をした。父ちゃんこそどうしたんだ。ここは家からほんのひとっ走りだ。だのに朝になっても帰ってこねえ。母ちゃんはかんかんだ。それで、おらが道をたどってみたら、こんな所で眠りこけてる。ここかい? ここはじいさん先生の小屋のすぐ近くだ。それ、その薮の向こうが先生の小屋だ。
言われてみれば、私が横たわっているのは、やや下りの山路だった。起きあがろうとすると、身体のあちこちが痛い。肘や足は擦り傷やら打ちみだらけだ。どうやら、暗闇のなかで、足をすべらせたらしい。木々のむこうをうかがってみたが、下草の生えた、ただの森だった。
わが子に手を引かれて行くと、明るい陽のさす森の切れめに粗末な庵があった。たしかにわが家からひとっ走りだ。庵のまわりでは村の子供たちが楽しそうに遊んでいた。拍子抜けするほど明るくのどかな光景だった。とまどう私を子供たちがとりかこんだ。
やがて庵の主が現れた。なるほど、身につけたものは粗末だが、話に聞いていたほど汚なくはない。私をみつけると手をうって歓迎の意を表した。
「これはこれは、村長さま。お待ちしておりましたぞ。したが、随分と遅いお着きじゃ。さては道みち、難儀されましたかのう。」
招じいれられた小屋の中は意外に快適だった。よく乾燥した香りの良い干し藁を敷きつめてある。片隅には小さな炉があった。すすめられるままに腰を下ろしたが、どうも落着かない。隠者が天候やら麦の出来ぐあいやらを問いかけてくるが、うわの空だ。何かが、何かが気にかかるのだ。
気にかかるだと。ここで気にかかるものなど、決まっているではないか。そうとも、気にかかるものといえば一つしかない。
「獣ですかな」
隠者の声に、身体の中に緊張が走った。どうして私の考えがわかったのか。そう問いかける間もなく隠者は続けた。
「獣なら、それそこに、先程から村長さまのうしろに控えておりまする。すぐ後、首すじに息がかかるほどでございますぞ」
思わず身体がこわばった。そうだ、先程からの気配はこれだったのだ。小屋に入った時から感じていた。隠者と話していながら、私の首すじは焼けつくようだった。もはや遅い。獣は私の背後で牙をむいているのだ。目のまえが暗くなった。私の右肩に獣が前足をかけたのがわかった。もうだめだ。首すじには獣のはく息が熱い。この隠者、私をわなにかけたのだ。
恐ろしさに目を閉じた時だった。隠者が手を打って笑いだした。
「村長さま、いかがなされた。さては我が言葉を真に受けられましたな。この狭い庵に獣などあろうはずがございませぬぞ。それ、後をご覧うじろ」
恐るおそる背後をふり返った私の目に入ったのは一枚の絵図だった。森に住む隠者と巨大な獣の姿だ。村の教会で良く目にするのと同じ聖者の絵図だった。
父ちゃん、父ちゃん。息子が楽しそうにまとわりつく。隠者の庵を後にしての帰り道だ。息子は二、三歳、幼くなったようなはしゃぎかただ。父と二人で歩くのがそんなに楽しいか。そういえば、息子と連れだって歩くなど、ずっと覚えがない。畑仕事と村長の役目で、そんな暇はなかった。
獣、獣と口の中でくりかえしてみた。息子よ、確かに獣はいたのだ。昨夜、暗い森を急ぐ私のまわりは獣と化けものでいっぱいだった。お前と私の間も恐ろしい獣でいっぱいだった。今朝、気を失った私を、お前が揺りおこすまではな。息子よ、早く家へ帰ろう。妻はかんかんになって私を待っているのだったな。仲裁はお前に頼むとしよう。
おわり
Dec/1999