第一話 子供十字軍
第二話 オフィーリア
第三話 婚礼の客
第四話 黒の騎士
第五話 落馬した男
第六話 いちじく
第七話 天上の離宮
第八話 隠者
第九話 笛ふき男
第十話 湖水
第十一話 少女
第十二話 塔守り
第十三話 予言の鳥
第十四話 白鳥
第十五話 虫
第十六話 空腹
湖は荒れていた。対岸へ渡ろうとする私たち一行が足どめされて何日かが過ぎた。急いで湖水を渡らねばならない理由があるわけではない。しかし、こう何日もじっとしていると、いらだちがつのってくる。いらぬ焦噪は額の汗となって、おのが目をふさぐものだ。一日一日と待つうちに、一刻も早く向こう岸へ着かねばならぬ、さもなければ何か大変なことが起るような気がしてくるのだった。あの人は、そんな私たちの気持を察して苦笑いを浮かべた。
「人の力で波を静めることなどできるはずがあろうか。波は風によって立ち、風は天より吹いているのだ。風の気ままにまかせて、我らは待っているしかないのだ」
「舟もなしに湖を渡るすべなど考えぬがよい。湖水は私たちの行く手をはばもうとして、そこにあるのではない。私たちが、そこを通りかかったに過ぎぬ」
いくぶん気持ちは落着いたが、夜ともなれば、明日は湖を渡れるだろうかと、期待と焦りが頭をもたげるのだった。眠られぬ夜は長い。寝返りをうっては溜息をつくうちに夜は更けていった。
物音に目を覚ますとすでにあたりは明るい。いつの間にか寝入っていたようだ。どうしたことか、私は湖岸に一人で横たわっているのだった。舟着場の方から呼びかう声がする。見ると大きな船が出航の準備をしていた。この小さな入江にといぶかりながら、私も乗船の列についた。列の最後は背の高い男とその連れだった。後に並びながら、この船で対岸へ渡れるだろうかと男に問うた。その人物がふりかえると、背の高い男と見えたのは茶色のラクダではないか。賢げな眼で私を見つめている。驚いて連れの姿を確かめると、それもラクダだった。
「この船の行き先は、いまだ定まってはいない。しかし、お前は乗船することはかなわぬ。この船に乗れるのは一種族にひとつがいと決まっている。すでにすべての種族が列についている。砂漠を越えてきた我ら夫婦が最後の乗客なのだ」
「見よ。お前の種族は今や船上の人となるところだ」
列のずっと向こう、船べりを越えようとしているのは、確かに一組の男女だった。しかも見よ、あの女性は。横顔を確かめるまでもない。見知らぬ男と腕を組んでいるのはまぎれもない。私が故郷の村を出奔する前、ひそかに想いを寄せていた少女、その人に違いない。後姿の男は見当もつかないが、あの村の若者の一人だろうか。
待て、私を残してどこへ行く。船に乗るのは私だ。その場所にいるのは私だ。叫びをあげようとしたが、喉からはひゅうひゅうという息がもれるだけだった。乗船の列はみるみる短くなる。しかし、私は一歩も進むことができなかった。やがて、出航の銅鑼が鳴った。それは思がけないほど澄んだ音色で、青空に吸いこまれる鐘の音のように、三度打ち鳴らされた。待て、待て。私の叫びは鐘の響きに打ち消されたかのように声にならない。待て、待つのだ。私を乗せるのだ、待て。
気がつくと私は寝床の中でもがいていた。良かった、眼を覚ました者はいないようだ。あたりを見まわして安堵した。夜明まではしばらくありそうだ。屋根の破れから群青色の空がのぞき、大きな金色の星が見えた。
「美しい」
思わず見入ってしまった。なんと美しいことか。そして気がついた。あの人はすでに眼を覚まして祈っているに違いない。私の夢にもお気づきだろうか。
舟は湖面をゆっくりと進んでいった。この湖でなりわいをたてている漁夫の小舟を、ようやく借りることができ、こうして対岸へと向かうことになったのだ。あれほどにも待ちこがれた出発だったが、低く単調な櫂の音は睡魔をさそった。気がつくと舟の上には私ひとりしかいなかった。皆はどうしたのだろうかと、ぼんやりと考えた。湖面は霧に覆われ、対岸はどこにあるのかもわからなかった。舟べりから身をのりだした私に漁夫が声をかけた。
「この舟は対岸へ向かっているのではない」
そしてある村の名前を告げた。それは何年も前に、私が後にしてきた地。父と母を残して出奔してきた村の名だった。そうか、あの村へ行くのか。私はさほど不思議には思わず座りなおした。そうか、そこへ行くのか。
しかし、漁夫よ。あの村へは水路は通じていない。それどころか、ずっと南の山あいにあるのだ。この舟で、どうやって行こうというのか。漁夫は答えずにこぎ続けた。
しばらく行くと、霧の中にぼうっと明りのようなものが見えた。湖を行く小舟だろうか。だんだんと近づいてくる。目を凝らすと、それは人影だった。湖水の上をなにごともないかのように歩む人影だった。そして、その人の行く手には一そうの舟。波はこんなにもおだやかなのに、まるで嵐にもまれるかのように揺れていた。舟縁にしがみついておののいているのは、我が兄弟たちではないか。どうしたというのだ。お前たちは私とともに、この舟で対岸へ向かったではないか。
大きな声で叫ぼうとして気がついた。あの舟こそは私たちが対岸へ向かった舟だ。私だけが知らぬ間にはぐれてしまったのだ。私は声も無く叫んだ。私を戻してください。私を戻してください。あの、兄弟たちの乗る舟に。嵐にもまれ、微塵に砕けそうなあの舟に。
宿の入口のほうで人の騒ぐ声がする。寝床から身を起して様子をうかがった。まだ夜半のようだ。数人の男があわただしく駆けだして行く音が聞こえた。何ごとか。私よりも先に起きだしていた仲間の一人が戻ってきて伝えるには、強風をついて湖を渡ろうとした舟が、夜になっても帰らぬということだった。いまだ波は高く、助けを出すことは危険だが、家族の懸命の求めに応じて、勇気のある者が舟の準備に走ったのだった。さらに伝えて言うには、あの者たちといえども、今夜は舟を出すことはかなうまい。それほどまでに湖水は荒れている。強風に松明の火の粉を散らしながら、じりじりと夜明けを待つことになろう。
夜は長かった。風が扉をたたくたびに、はっとして戸口を見るが、むろん、しらせは何も届かない。それにしても、この強風に舟を出すとは、よほどの急ぎの用向きだったのか。どのような男であったのか。家族とは妻と子供であろうか。それとも年老いた両親か。しかし、口に出すのははばかられた。押しだまって壁にもたれているうちに、疲れが重く身体をつつんだ。
あの人の方をそっとうかがうと、こちらを見ながら、ゆっくりと首を左右に振った。本当ですか。本当に我らは待つしかないのですか。天から吹く風は、それほどまでに気ままなのでしょうか。自問するうちに、私は眠りにおちていた。
気がつくと、夜明けが近いようだった。部屋の明りは消え、人々の姿もなかった。私は気がついた。あの人が、ひとり、祈りを捧げるころだ。いつもと変りなく、一心に祈るあの人を金色の星が見守っているに違いない。しかし、どうしたことか、あの人の姿は、どこにも見当たらなかった。外へ出ると、風向きが変ったのがわかった。
朝早く、人々が明るい表情で帰ってきた。聞くと、舟が戻ってきたのだった。年若い漁夫は、すでに妻と幼い子供の待つ家へ帰ったという。なんと運の良い男よ。人々は口々に言いあった。戸口に出てみると、あの人が出発の準備を終えて待っていた。
「すぐにも舟をだすぞ。湖は鏡のようにおだやかだ。急いで準備するがよい」 私は大きな声で答えると、仲間を起こしに走った。やっと湖を渡ることができる。待ちに待った願いがやっとかなったような喜びを感じながらも、私は見逃さなかった。あの人のサンダルはびしょ濡れだった。まるで水の中を歩いてきたかのように。
おわり
Jul/2000