煙突

 古い建物の背中に大きな煙突が伸びているのを見かけることがあります。建物はかしこまった表情をしているのですが、煙突は隠そうとしているものが裸で出てしまったような全く違った唐突な印象を与えます。建築家は煙突も均整のとれた全体の一部として考えたのでしょうが、煙突はそれを越えて自己主張をしているように感じられるのです。機能上の理由で煙突が時として不釣り合いに大きくなることがそれを助長しています。

 上の写真は、インドのムンバイで見かけたものです。このホームページにはこの他にも廃墟のような工場に立つ煙突の写真をいくつか載せています。現実離れした雰囲気が、煙突の印象をなおさらあからさまにします。

 煙突は何か特別な、暴力的ともいえるものを暗示します。こういった性格はいろいろな高い塔とも共通するようにも思えます。塔についてはマグダ・レヴェツ・アレキサンダーの「塔の思想」に次のような文章がみられます。「塔は実用建築以前のものであり、非現実的な、精神的目標をもつものである。塔を建設することは、人間の抗いがたいひとつの衝動のように見える。」「象徴的に表現され、芸術的に実現された垂直上昇の理念の純粋な具体化。」ヨーロッパの街には多くの塔が立っていて、確かにちょっと不気味な独特の印象があります。インドや東南アジア、また中国大陸にも独特の塔があります。日本にも五重の塔から東京タワーまでいろいろな塔があって、性格はもっとおだやかではありますが同じような雰囲気も感じられないこともありません。

 煙突や塔の形の最も本質的なことは、それが見上げるように高く聳え立っていることなのはもちろんです。地上に居ながらにして感じる高さの恐怖と、それに裏腹の快感を感じさせます。きっとそれは地上から離脱の仮想なのです。また、高さを実現するための構造上の理由で特に根元はかなり太くなっています。真下に立って見上げると空に伸びる物体の巨大さに圧倒されてしまいます。こういった独特の感覚は、高層建築でも同じです。特にそれが束になっているマンハッタンでビルの谷間を歩く時、その圧迫感は気分を妙に興奮させ、同時に滅入らせるのです。

 ただ、アレキサンダーは高層建築について次のように消極的に書いています。「そこ(摩天楼)には内面の衝動、感情を表現したいという意志がまったく欠けている。」「これらの建築物が、塔と共通にもっている唯一の要素は、競争心である。」「垂直高層化の中に見られるものは、単なる物質的なものだけであって、精神的生命ではない。」「アメリカは塔を必要としなかった。」「アメリカは凌駕したいという自己の欲求を芸術的なしかたで解決し、表現する必要がなかったのである。無限への願い、逸脱したいという衝動は、そこでは 日常生活の中で、物質の中で、技術的領域で、完全に満足のいく方法で解決されている。」

 最後のあたりの、アメリカについて技術的であって芸術的ではないという認識はヨーロッパからの見方としては納得できます。まして煙突などアレキサンダーにとってはただの塊でしかなかったのかもしれません。しかし、何の表現も意図されないことで、芸術に昇華される以前の根源的な衝動が露出してくるのです。無限を目標にして、永遠に完結することのできないものへの衝動につながっていきます。そこにあるものは、聖書のバベルの塔の物語によるブリューゲルの絵(註2)に赤裸々に表れた野蛮さと同質のものではないでしょうか。そして、この性格をになっているのが上空へ伸びる直線であり、その端的なものこそ煙突なのです。装飾的な形を伴った煙突もありますが、それが妙に中途半端な印象になるのは、この直線によって表現される高さと大きさという性格が弱められているからです。

 煙突の姿は機能一点張りで装飾されることもなく、丸太のような粗雑な形のものがほとんどです。ほとんどの場合、その形は意識されることなく作り出されているのでしょう。それだからこそ、直線の性格をなおさらあからさまにしているのです。煙突を目にすると、人は心に沈んでいた衝動を思い起こすのです。かつてお化け煙突というものがありました。異様に大きく、黒い煙をもうもうと吐く煙突は、得体の知れない怪物に見えたのです。現在の我々にとっての煙突はもう見慣れたものになってしまっているのですが、「見上げる形」の代表として、今でも別の世界を指し示しているのです。



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2007年3月7日