ゲーデル・不完全性定理


先日読んだ「ウロボロスの偽書」でも、パラドックスが論じられていた。(上巻50ページあたりと70ページあたり)

この本での、論理の扱いに不満なのは前述したとおりなのだが、さて、ゲーデルの不完全性定理とは?と明確に解かっていないので、以前読んだブルーバックスをおさらいしてるみることにした。

ここで、ラッセルのパラドックスに関する、いくつかのバリエーションが紹介されている。(p100)

ある村に、その村でただ一人の床屋がいて、村人のうちで自分で自分のヒゲを剃らない人全員のヒゲを剃り、自分で自分のヒゲを剃る人のヒゲは絶対に剃らないとします。さて、この床屋は自分のヒゲをそるのでしょうか?そらないのでしょうか?もし剃るなら、自分で自分のヒゲを剃る人だから剃ってはいけません。でも、剃らないなら、剃る対象にいれなくてはなりません。

このバリデーションが面白いのは、無限を持ち込むまでも無く、パラドックスの例になっているところである。さて、実際のこんな誓いをたてた床屋がいて、自分のヒゲを剃るべきかどうか悩んでいても、「勝手にしときなさい」というぐらいである。それは実際の世界では、矛盾なんかはあって当然なのだが、数学の世界はそうはいかず、ゴキブリのように目の敵になる。事実ゴキブリは根絶することは出来ない。つまり「数学的体系の中には、真とも偽とも証明できないものが必ずある」と証明してしまったのが、ゲーデルの第一不完全性定理である。

本書は、そのゲーデルの不完全性定理を、カントールの「集合論」とヒルベルトの「公理化」の流れの上でとらえている。

カントール(1845-1918)は、「濃度」という概念で、「無限」を数学的に扱う方法を示した。数えられるというのは自然数と一対一に対応できるものとして、「可算濃度」もしくは「可付番濃度」と呼び、アレフ・ゼロと表した。あるルールで並べられるもので、有理数はアレフ・ゼロである。無理数を含んだ実数の濃度は、アレフ・ゼロより大きい。(つまり実数は順番に並べるルールを見つけられない)ということは、カントールによって証明されており。この濃度アレフ・ワンはアレフ・ゼロの次の濃度であるというのが、「連続体仮説」である。( 1938年ゲーデルは、連続体仮説の否定が証明できないことを証明した。)

数学で無限を扱うことには、ある種の抵抗があった。カントールの師であるクロネッカー(1823-1891)は、自著「数の概念について」で、すべての数学的対象を自然数に還元する「算術化」という思考を展開している「神は自然数をつくった、それ以外の数は人間が偽造したものだ」というぐらいで、カントールの業績を認めなかった。師に拒否されたカントールの論文はリヒャルト・デデキント(1831-1916)の尽力によって公開される。

とはいえ、「無限」なるものを持ち込んだばっかりに、パンドラの箱が開けられ、矛盾というほころびがでてくる。例えば、前述のラッセルのパラドックス。バートラント・ラッセル(1872-1970)はホワイトヘッドとの共著による「プリンキピア・マテマティカ(数学原理)」で、自己言及的な記述は、そもそも、別の階層に属するものという立場から、同列に表現するには制約が必要という「型の論理」を展開する(論理主義)。また一方、L・E・J・ブロウウェルは、無限を対象にするのに、今までと同じ前提でいいのかと、「排中律」を前提としない説を持ち出した(直感主義)。「排中律」というのは「Aであるか、もしくはAでないかのどちらが成立する」つまり「『Aでない』でないなら、A」という前提で、これを制限されると「背理法」が使えなくなり、今までの数学がぐんと制限されたものになる。この考えを真っ向から拒絶したのがダヴィッド・ヒルベルトである。

ヒルベルトのアプローチは、数学の徹底的な形式化・抽象化である。このアプローチの端緒は、紀元前三世紀にまで遡る。古代ギリシャで発展した「幾何学」についてまとめた、ユークリッドの「原論」である。「原論」は「定義」から始め、「公準」と「公理」を出発点に論理的推論を積み重ねて「定理」を導く、という首尾一貫した方法で書かれている。「原論」について議論の的になるのが、第五公準「1つの直線直線が2本の直線と交わり、同じ側の内角の和が2直角より小さいなら、この直線は2直角より小さい側で交わる」。この公準を自明のものをしないという仮定したのが「非ユークリッド幾何学」である。このように、数学とはある約束事を出発点として展開するものなのだが、これをものすごく厳密な形で構築しなおそうとしたのがヒルベルトの「幾何学の基礎」である。

ヒルベルトにとっては、その対象が「直線」や「点」など現実に意味があるものでなくてもよく、数学とは抽象化した対象を定義と公理から論理展開していく過程である。出発点となる公理体系にとって、重要なのが「完全性」「無矛盾性」「独立性」の3つの概念である。「完全性」とは、数学の枠内で記述されたすべての定理を証明できること。「無矛盾性」とは、「真」でも「偽」でもあるということが成り立たないこと。「独立性」とは公理の1つを除くと、証明ができなくなる定理が存在すること。ここで「完全性」と「無矛盾性」は相反する方向性があり、「公理系」を強くすると証明できる定理も増えるが、矛盾になってしまうリスクも大きい。さて、ヒルベルトの目的は「数学の無矛盾性」を証明することである。

このもくろもみは、ゲーデルの第一不完全性定理で打ち破られる。「無矛盾な体系では、決定不可能な、すなわちそれ自身もその否定も証明できないもの存在する」(第一不完全性定義)。証明の基本的なアイデアは、命題の記述を整数に変換することで、命題が可付番であるとしたこと。nについての命題を順にならべると「n番めの論理式は証明できない」という命題もあるはず。これがn0番目だったとして、nにn0を代入すると…「自分自身が証明できない」という命題ができあがるという骨子になる。この説明を聞いて、ジョン・フォン=ノイマンは、次に証明されるであろう、第二不完全性定理も予見してた。つまり「無矛盾な体系では、自らの無矛盾性を証明できない」と。

本書のポイントは、数学がそれに関わる人々のドラマによって発展してきた、その過程に触れることである。彼ら天才の幾人かは、数学的業績を達成できる脳細胞を持つ代償に、社会生活において、精神の病に悩むことになる。カントールもしかり、ゲーデルもしかり。さらにもう一人、ゲーデルやフォン=ノイマンとプリンストン大学で同じ時間を過ごしていた、ジョン・ナッシュである。