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元 寇 史 跡 情 報
「元 寇 防 塁」 と 「遺跡」について
1.「元寇」とは鎌倉時代の後半(1274)に、当時の中国「元」が日本を支配下
におく為、2回にわたり大軍を以て北九州に来襲した事を言う。 第1回目の
来襲を「文永の役」と言い、この後幕府は再度の来襲に備えて博多湾沿岸の
今津から箱崎浜まで20qにわたり 高さ2m巾2mの「石築地」を構築した。
これが現在も残る 「元寇防塁」 で、各武将に割り当て半年で完成させた。
7年後(1281) 再度来襲した「弘安の役」では、敵はこの為博多沿岸には
上陸出来ず、防備の無い「志賀島」一帯に上陸はしたが、我軍の海陸からの
出撃により一旦引き上げ、伊万里湾で再度の侵攻を準備中 大暴風に遭い
壊滅したのである。
警備体制はこの後も永きに亘って維持され、「石築地」も常に補修し、海岸線
の移動に伴って改築もされた。 (注:「元寇防塁」とは後世の命名で、当時は
「石築地」と言った。) 後年小早川隆景の名島城、黒田長政の福岡城築城の
際、近くの石築地を城石として利用したと言う事で、恐らく露出部分はこの時
持ち去られたものと思われる。「元 寇」 の概要については別ページ 「元寇の概要」を参照して下さい。
2.「元寇防塁・遺跡」
の場所
場所の確認・地図等については、福岡市教育委員会及び玄洋公民館(今宿)
のご指導によるものを含む
「元寇防塁」は 国指定の史跡で、昭和6年に指定され、次の10ヶ所にある。
(1)今津地区(復元展示), (2)今宿(横浜)地区, (3)今宿(青木)地区,
(4)生の松原(復元展示), (5)姪浜(向浜)地区, (6)姪浜(脇)地区,
(7)西新(藤崎)地区,(8)西新(百道)地区(復元展示), (9)地行地区,
(10)箱崎地区
「元寇遺跡」 としては「祖原山元寇遺跡」,「蒙古塚」(今津、志賀島,能古島)
及び「今津元寇記念碑」等がある。
注: 自作ビデオ 「福岡市内10ヶ所・史跡元寇防塁」(15分)
があり、市内小学校2校に寄贈してあります。
(上記ビデオご希望の方は下記宛Eメールにてご連絡下さい) (無料)
お問い合わせ先(クリック)
3.各地区の概要
(1)今津地区 (今津長浜海岸一帯)
海岸全体に亘り石築地の露頭が見えており、中央部分約100mを掘り下げ
復元されている。
見学者駐車場から復元展示場所まで約750m歩く。この
途中に休憩展示施設があり、元寇についての説明パネルがある。(大正2年
7月「元寇現地後講演会」の際発掘が行われ「元寇防塁」が姿を現した。−
下段白黒写真)
(2)今宿(横浜)地区 (「今宿」信号から今津方向へ700米「横浜」信号の西北
80米)
信号から今津の方へ70米位行った所、小径を左折して10米位に
「史蹟
元寇防塁境界」 の標石がある。恐らく今宿海岸(当時)の石築地の
起点を示すものであろう。 ↓(下段写真の左2点)

(3)今宿(青木)地区 (長垂山の西1,5q の元国道202号沿、 ↑
「牧のうどん」の前) 柵があり、露頭は殆どみえぬ。中央に「史蹟元寇防塁」の
標石、東端に説明板がある。 (上段の右端の写真)(4)生の松原地区(姪浜より明治通りを今津の方へ約1q「九大宿舎前」のバス停
の少し西から海岸へ約100米入る)此処は海岸全体に亘って嘗ての「石築地」
の露頭が見られ、この一部100米位を掘り下げて復元展示されている。ただ
国道との間にある松林が九大演習林なので、車による進入が困難である。

平成10年この海岸に大きな石を積み重ねた大規模な護岸工事と、復元場所に接し
て石畳の遊歩道が建設中であった。 更にその後中央部50メートルを元寇当時の姿に
復元して保存整備する工事が行われ平成12年完成、当時の状況を偲ぶ事が出来る
様になった。 下記は現在の史跡「生の松原元寇防塁」の姿である。 (H12年6月)
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聞くところによれば、この復元整備は、当時サミットを福岡に誘致する話があり、シラク
大統領が福岡に行ったら「元寇防塁」を見たいとの意を受けて急遽整備したものとか。
実際には蔵相会議のメンバーを車を連ねて案内したが、その後一般の為の駐車場も
無く、相変わらず行き難いが、大河ドラマ「北条時宗」の為最近は訪れる人も増えている。5)姪浜(向浜)地区 (小戸公園内,駐車場の直ぐ南側)
芝生の公園風で柵がある。露頭は殆ど見えない。北端に説明板があり
↓南端に「史蹟元寇防塁」の標石がある。(左下の写真)
(6)姪浜(脇)地区 (小戸公園の東方約1q、市営姪浜北団地の北側台地)↑
柵のある台上に「史蹟元寇防塁」の標石が立っているが露頭は見えず、
道路沿いに説明板がある。(右上の写真)
(7)西新(藤崎)地区 (早良区役所の北150米、西福岡税務署の角を東へ
入り100米) 説明板があり柵の中に石築地の露頭が明瞭に見える。
「史蹟元寇防塁」の標石は更に30米東の民家の角にある。

(8)西新(百道)地区 (「西新」交差点の西方「防塁前」バス停から北へ入り
次の角を左へ10米) 長さ数十米部分を掘り下げ復元展示されている。
(大正9年10月西新小学校の生徒によって発掘された)
(9)地行地区 (明治通りから福岡ドームへの入り口「地行」交差点を北に入り
200米位、次の大通り迄の丁度真中の十字路を西へ曲がって100米位、
「地行2丁目12番地」) 此処は戦後民家となっていた史跡の土地を、最近
買い戻して、これから整備するとか(市当局の話)。掘れば石積みがあるので
あろうが、今は只の更地であるる
(下左の写真)

(10)箱崎地区 (東区筥松3丁目、坂本町バス停西北50米) 地蔵松原公園
の奥に隣接して柵に囲まれた草地がある。 説明板があるが既に錆びて
いて全く読めない。 「元寇防塁」の石標は鹿児島本線の線路側にある。
恐らく設立当時は一面の松原で、線路の反対側からでも良く見えたので
あろう。 ここは近所の人に聞いても殆ど知らない。(上右地図参照)

(11)祖原「元寇遺跡」 (早良区昭代1丁目7、祖原バス停西南約200米)
現在は小高い丘の公園となっている。ここは元寇の古戦場跡で、台上
及び北端の麓に「元寇遺跡」の標石が建っている。昔は台上に立てば
博多湾から百道・鳥飼・赤坂山一帯の元寇の激戦地を望む事が出来
たが、今は見え難い。
(12)蒙古塚 今津、能古島、及び 志賀島 にある。
今 津: (下左写真) 今津海岸の元寇防塁の南側
「野の花学園」の
構内に小高い堆土があり上に「蒙古塚」と記した石碑がある。
又これより東の方へ100米位(下中・右写真)、畑の中に
古墳とも見える背丈の倍程の堆土があり、灌木に覆われて
道路からは見え難いが台上に「蒙古塚」の石碑が建っている。
戦前の調査で多数の人骨が発見され、元軍のものかは不明
であるが、前者を千人塚、後者を万人塚とも言う。
(最下欄に詳細地図あり)
能古島: (下左写真) 能古島船着場より西へ徒歩15分位、道路の
右側「磯辺公園」の中に「三界万霊」と記した小さな石碑が
あり傍に「蒙古塚」と書いた標注がある。 明治年間にこの
辺り一帯から多数の人骨が掘り出されたが、人骨は畑の
あちらこちらに散在し、放置された状態であるので、元軍
のものである可能性も高いとされ、無縁仏として祀られた。
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志賀島: (上中写真) 西岸「金印公園」から北500米位行った所
石段を登った台上に大きな「蒙古軍供養」の石碑が建ち、
傍らに「日中友好」の碑がある。昔は「首切り塚」と言って
いたが、昭和3年日蓮宗の僧侶により現在の石碑が建立
され、当時の満洲・モンゴルからも来賓が参列した。(13)今津元寇記碑 (上右写真) 今津公園南側の石段を登った小高い
所に大きな石塔があり、「元寇殲滅之處」と書いてある。 これは
大正2年に発掘された「今津元寇防塁」を保存顕彰する為、地元
村長以下が発起人となり、福岡市長以下多数の賛助を得て、
大正5年に完成したもので、当時今津を元軍殲滅の場所とする事
について反論があったとか。 確かに弘安の役で元軍が台風の為
壊滅したのは伊万里湾周辺であるが、元軍の目標は「大宰府」
であり、「博多湾岸」が主戦場となったもので、全体として見れば
一応納得できる所であろう。
今津蒙古塚等の位置関係詳細図(下)