使徒聖アンデレ日
使徒聖ペテロの兄弟で、主イエスの最初弟子の1人。彼は主御自身から教えを聞いて、その弟子
ペテロを御もとにつれてきた。ガリラヤ湖畔で、主を慕ってきた数千人の人が食べ物が無かった時
彼は五つの大麦のパンと二つの小魚を見つけて主に差し出した。エルサレム祭のために来た数千人
のギリシャ人が主に合わんことを願ったとき、それをとりついだのも彼であった。伝説によれば彼
はギリシャのパトラスで殉教したが、主のように十字架につけられるのはおそれ多いいと言って斜十字架につけられ、
アンデレ Andrew シモン・ペテロの兄弟。12弟子の一人(ヨハ1:40)
ヤのベツサイダの人(ヨハ1:44)シモンと同じ漁夫(マル1:16)で、カペナウムにとも
に住んでいた。(同1:29) はじめバプテスマのヨハネの弟子であったが、<神の子羊>に出
会い、イエスのメシヤであることを確信し、シモンをイエスのもとに連れてきた。
(ヨハ1:35〜42) 彼はイエスと親しい交わりを持ち(マル1:16,17) 使徒に任命された。
伝承によれば、彼はアカヤのバトラで殉教し、X字型の十字架に磔刑にされたので、それを
「アンデレの十字架」と呼ばれてる。ギリシャ ローマ教会ではの11/30を彼の祭日とし
ている。
| 日付 | 祝祭日名 | 第1日課 旧約 | 第1日課 新約 | 第2日課 旧約 | 第2日課 新約 |
| 11月30日 |
使徒 聖 アンデレ日 |
イザヤ 55: 1〜5 旧P1152 |
Tコリント 4:1〜16 新P 303 |
イザヤ 49: 1〜6 旧P1142 |
ヨハネ 1:35〜42 新P163 |
日本聖公会初代主教ウィリアムズ
(1910年) チャニング・ムーア・ウィリアムズ。日本に派遣された最初の聖公会
宣教師で、日本聖公会最初の主教。 1827年北米バージニヤ州リッチモンドで生まれ、幼
い時に父を失い、敬虔な母に育てられた。 神学校を卒業すると共に支那伝道を志願した。の
ちに日本伝道を命じられ、1859年7月上旬(安政5年)長崎に上陸した。 当時はキリス
ト教禁制時代で伝道の道が開かれず、長い間多く困難と戦ったが、よく忍耐して日本聖公会の
基礎を築いた。 1866年に主教に聖別され、大阪を中心とし、のちに東京を中心とし伝道
した。 1889年には主教職を辞して京都に隠退したが、伝道は一日も忘れなかった。日本
に骨を埋める決心であっったが、老齢ために同労者の重荷になることを恐れ、1908年4月
30日、ひそかに横浜出帆の船で帰国した。2年後のこの日、彼は郷里のリッチモンドで世
を去った。彼の墓碑には日本語で「彼は道を伝えて己を伝えず」と刻まれている。 彼の聖徒
的生活を語る多くの逸話が伝えられ、「老監督」と愛称されて偉大な感化を残した。
P align=justify>※アジアの殉教者フランシスコ・ザビエル(1552年) 彼は日本に来た最初の宣教師で、東洋の使徒と呼ばれる。パリー大学で
勉強中、聖イグナシウス・ロヨラの感化を受け、共にイエス会を組織した。35歳のとき
二人の修士と共にインドに派遣され、インド及びマラッカで伝道した。日本伝道のために
鹿児島に上陸したのは、1549年8月1日であった。2年3ヶ月間各地で伝道し、将
来に大きな期待を持った彼はまた支那伝道を志し、1552年8月、香港に近い三州島に
上陸したが本土に入ることを許さず、 病気になって同年のこの日、47歳で地上の
生涯を終えた。彼の書籍は残されており、彼の東洋伝道の様子を知ることができる。
アジアの殉教者フランススコ・ザビエル Xavier,Francisco
(バスク1506〜52 12/3) イエズス会創立の一員。ナヴィラ王国ザビエロ城主の
子に生まれ、1529年パリのバルバラ学院に入学、イグナチオ・ロヨラと相知り、信仰的熱情
に感動、'40年ともにイエズス会を創立した。 東方伝道を志しポルトガル王の命を受けて
'42年インドのゴアに到着。 ついでマライ半島、モルッカ諸島に布教。
日本人ヤジローを先導して'49年鹿児島に上陸布教した。 わが国にキリスト教の伝来し
た最初である。 のち、平戸、山口を経て京都に上がったが間もなく豊後に帰り、更に中国
伝道を志し広東に行ったが病死した。
司祭教会博士アレキサンドリアのクレメンス (201年頃)
パンテオキヤの弟子でオリグネスの先生。有名なアレキサンドリヤの神学校の校長として伝道者、神学者を養成し、
キリスト教こそ真実の哲学であることを証明しようとして多くの著作を残した。
セベラス帝の迫害のとき、スリヤに、のちにカパドキヤ方面に逃れ、そこで淋しく世を去ったと伝えられる。
12月6日主教ニコラス (342年ころ)
彼は小アジアに生まれ、幼いときに主教である叔父から、この子は将来「悩める者の慰め
となるであろう」と言われた。のちにスリヤのムラの主教に選ばれた彼は、貧しい人、悩
む人の為に尽くした。あるとき貧しさのために三人の娘を売ろうとする人のことを聞いて
、その家の窓から金袋を投げ入れた。爐辺でそれを発見した両親はそれを神よりの賜物と
して感謝するとともに、間違った考えを深く悔やんで恐るべき罪から救われたという。
サンタ・クロースとはこの聖人の名であるが今ではキリスト教に関係のない年末売り出し
の神様みたいにされてしまったのは遺憾である。ニコラスとは「戦勝軍隊」という意味
主教教会博士アンプロシウス (395年)
イタリヤのミラノの主教で、西部教会の四大公会博 士の一人。彼は35歳のときミラノの知事として、
大聖堂で行われた主教選挙監督のために臨席しした。選挙に関して争いが起こったためである。その時ある子供が「アンブロシウスを主教に」
と叫んでやめなかった。やがてそれが集まっていた信者全体の声となり、彼を主教に選んでしまった。
彼はそれを拒んだが、ついに主教にせられてしまった。彼は最も忠実な神の僕となり、異端を退け、
正しい信仰のためにセオドシウス皇帝をもユスチナ皇后をも責めた。聖アウグスチヌスに洗礼を施したのも彼であり、
教会音楽の発達も彼に負うところが多いい。賛美の謳は聖アウグクチヌスが洗礼を受けたとき、この二人が交互に歌ったと伝えられるが、
この伝説は確かでは無い。アンブローズとも呼ばれる。「不死」のいう意。
主教教会博士アンブロシウスAmbrosius (およそ340〜397 4/4)
初代キリスト教の教父、ミラノ司教。アリウス派の 異端と戦い、当代の代表的教父、説教家として教会
生活及び修道院生活に多くの範を垂れ、著述も多く また教会音楽にも秀でグレゴリウス一世以前に
ヨー ロッパ教会音楽の発達に功績があった。「アンブロシウス旋法」といわれる四旋法を制定、
また民謡より取材した賛美歌を作り、聖歌の唱法を改良して「交互唱」、「応答唱」などの唱法を東方からイタリヤへ輸入した。
Ballerini編の全集がある。
殉教者おとめルシア 処女・殉教者 (304年頃)
彼女はシチリアに生まれ、幼いときに生涯を全く神に捧げる決心をした。
彼女は 年と共に美しくなり、信仰もすすみ、貧しい人には惜しみなく与えた。
異教徒の或青年 が彼女と結婚してその財産を手に入れようとしたとき、彼女はその求婚を退
けた。 いかった青年は彼女をキリスト信者として密告した。とらえられて死刑の宣告を受けた。
ルシヤは「私はすべてを犠牲としてささげたが、なお残っている唯一のもの、 私自身をさ
さげる」と言って勇ましく殉教した。 刑場にいた人々は皆、彼女の信仰と 勇気に強く心を
打たれたという。 イタリア語ではルチヤ。
使徒聖トマス日
イエスの弟子トマスは、新約聖書の中で「ディデ モ」(双子)と呼ばれているが、キリスト信者の
界では「疑い深いトマス」として知られている。 トマスは、真理を探し求めて、それを発見しても
初は信じることが困難であったが、最後には誇り もってそれを信じた弟子であった。
ある時イエスは弟子達に言われた。「わたしは あなかたのために場所を用意しに行く。行ってあ
たがたのために場所を用意したら、戻って来て、 なた方をわたしのもとに迎える。わたしがどこへ
くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスは心を乱し、イエスに言った。 「主よ、どこ行かれるのか、
どうしてその道を知ることが出来 でしょうか。」 イエスは答えられた。「私は道あり、命である。 私を通らなければ、だれも父のとに行くことができない。あなたがたが私を知っいるなら、私の父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。」(ヨハネ14:3〜7)
イエスが復活後に弟子達に現れた時、トマスは彼等と一緒にいなかった。イエスが生きておら
れるという彼等の言葉をトマスは信じないで、「あの方の手に釘の跡を見、また、この手を釘
跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れて見なければ、私は信じない」と言
った。 8日の後、イエスが再び使徒達に現れた時、トマスはそこにいて、イエスの手と、脇
腹にさわって、「私の主、私の神よ」と叫んだ。イエスは、「見ないで信じる人は幸いである」
とトマスをさとされた。 トマスが宣教師としてインドに行ったことは昔から伝えられてい
て、インドの信者達は自分達を「聖トマスのキリスト信者」と呼ぶことが多いい。彼の遺骸は
マドラスの近くのミラポアの教会に葬られたと伝えられている。
ヨハネ伝福音書は聖トマスの性格を語る
三つの記事をのせている。
1・彼は主のために死を恐れなかった(11:16)
2・見ないことを信じなかった(20:25)
3・ 真実を知ろうとした(14:15)
伝説によれば彼はインドに伝道し、そこで殉教したと。
| 日付 | 祝祭日名 | <第1日課 旧約 | 第1日課 新約 | 第2日課 旧約 | 第2日課 新約 |
| 12月21日 |
使徒 聖トマス日 |
ヨブ 42: 1〜6 |
Tペテロ 1: 3〜9 |
イザヤ 43:8〜13 |
ヨハネ 14: 1〜7 |
主教トーマス・ベケット
彼は英国王ヘンリー二世に大法官に任ぜら1161年にカンタベリーの大主教に選ばれ
た公民と人民の権利を守るために彼は国王と争い、迫害されてフランスに逃れた。
数年の後に王との和解ができて、1170年12月4日に彼はカンタベリーに帰り、人々
から大歓迎を受けた。翌日、王の使者が大主教邸をたずねて、ある人々の破門取消を要求した。
彼は率直に、悔い改めない限り破門の取消は出来ないことを表明した。王はその時フランスのノルマンデ
ィーにいたが、使者の報告を聞いて怒り、不用意の言葉を発した。それを聞いた四人の騎
士は王が大主教暗殺を望んでいると早呑込みした。 彼らはドーバー海峡を渡り、
12月29日に大主教邸に走せつけた。大主教がなおも王の要求をしりぞけるのを聞
いて彼らは剣を抜き、大聖堂内に逃げた大主教を追って殺してしまった。王は騎士の
行為を心から悔やんだが、おそかった。聖トマスは人々からその徳を慕われ、カンタ
ベリー大聖堂内の彼の墓には巡礼が絶えなかった。
12月25日
降誕日 主イエス・キリストがベツレヘムで生まれた事を記念する。クリスマスの物語は小さな
子供でも知っているから、ここに書き記す必要はないであろう。御子の降誕を祝うと共に、私達は
「我ら恵みによりて再び生まれ、神の子となれるもの、日々聖霊によりて新たなることを得させ たまえ」と祈る。昔からこの日には夜半、早朝午前中にもう一度と三回の聖餐が行われた。降誕
と、それに関して牧羊者、博士達の来訪を記念するためであると言われる。
| 日付 | 祝祭日名 | <第1日課 旧約 | 第1日課 新約 | 第2日課 旧約 | 第2日課 新約 |
| 12月25日 |
降誕日
|
ゼカリヤ 2:10〜13 P1709 |
Tヨハネ 4: 7〜16 P514 |
ミカ 4:1 〜5, 5:2〜4 P1682 |
ヨハネ 3:31〜36
|
12月26日
最初の殉教者ステパノの日
公会最初の輔祭で、最初の殉教者。ステパノはギリシャ語で「冠」と言う意味がある。この
聖人については使徒言行録6、7章以外に資料がない。聖パウロの改心は聖ステパノの説教と
殉教に負うところが多いい。実際に聖ステパノの信仰と精神とは聖パウロのいちに生き、発展
したとも言える。この聖人の祝日は最も古い公会の祝日の一つである。降誕日の翌日にこの
聖人を記念するのは、血をもってキリストをあかししたからである。女性名はステパナ
| 日付 | 祝祭日名 | 第1日課 旧約 | 第1日課 新約 | 第2日課 旧約 | 第2日課 新約 |
12月26日 |
最初の 殉教者 聖ステパノ |
歴代史下 24:17〜22 P809 |
使徒言行録 6: 1〜7 P258 |
知恵の書 4: 7〜15 P187 |
使徒言行録 7:59〜8:8 P263 |
12月27日
福音記者使徒聖ヨハネ
ヨハネ伝福音書はこの使徒が書いたと言われ近年その節を支持する学者もふえてきた。最後
の晩餐の時彼は主の胸により、十字架上の主から聖母を託され、エルサレムの自宅に伴っ
いった。伝説によれば彼は聖母の死後エルサレムを去り、エペソで伝道した。ドミシアヌス帝
の迫害のときローマに護送され、ラテン門の前で煮え立つ油釜に入れられたが害を受けず、
パトモス島に流された。のちにエペソに帰って紀元101年頃まで生きていたという。晩年
説教のとき「若者よ互いに、相愛せよと」繰り返し教えたと伝えられる。降誕後二日目にこの
使徒を記念するのは、彼が清い生涯を持って主をあかししたからであると。
ヨハネは「神の賜物」の意。女性名はヨハンナ 、ジェーン、ジーン等である。
| 日付 | 祝祭日名 | 第1日課 旧約 | 第1日課 新約 | 第2日課 旧約 | 第2日課 新約 |
|
12月27日 |
福音記者 使徒 聖ヨハネ日 |
箴言 8:22〜31 P1158 |
ヨハネ 13:20〜35 P226 |
イザヤ 44: 1〜8 P1311 |
Tヨハネ 5: 1〜12 P515 |
・聖なる幼児の日 公会はこの日、
ベツレヘムでヘロデのために殺された幼子たちを記念する。(マタイ2:16参照)降誕後三日
後にこの日を守るのは、死をもって主をあかししたからであると。
昔からこの日には慎みの色。紫の祭服を用い(主日に当たるときは赤) 大栄光の頌も賛美
の頌も用いない習慣がある(主日に当たるときは用いる)
| 日付 | 祝祭日名 | 第1日課 旧約 | 第1日課 新約 | 第2日課 旧約 | 第2日課 新約 |
|
12月28日 |
聖なる 幼児の日 |
イザヤ 49:13〜23 |
マタイ 18: 1〜14 |
イザヤ 54: 1〜13 |
マルコ 10:13〜16 |
主教トーマス・ベケット
彼は英国王ヘンリー二世に大法官に任ぜら1161年にカンタベリーの大主教に選ばれ
た公民と人民の権利を守るために彼は国王と争い、迫害されてフランスに逃れた。
数年の後に王との和解ができて、1170年12月4日に彼はカンタベリーに帰り、人々
から大歓迎を受けた。翌日、王の使者が大主教邸をたずねて、ある人々の破門取消を要求した。
彼は率直に、悔い改めない限り破門の取消は出来ないことを表明した。王はその時フランスのノルマンデ
ィーにいたが、使者の報告を聞いて怒り、不用意の言葉を発した。それを聞いた四人の騎
士は王が大主教暗殺を望んでいると早呑込みした。 彼らはドーバー海峡を渡り、
12月29日に大主教邸に走せつけた。大主教がなおも王の要求をしりぞけるのを聞
いて彼らは剣を抜き、大聖堂内に逃げた大主教を追って殺してしまった。王は騎士の
行為を心から悔やんだが、おそかった。聖トマスは人々からその徳を慕われ、カンタ
ベリー大聖堂内の彼の墓には巡礼が絶えなかった。
1月1日
主イエス命名の日
この日は昔、クリスマスの八日祭として守られてた。第七世紀の頃ゴール(いまのフランス)の教会が初めて受割礼日という名を用いた。
この日は、主が旧約の律法に従って割礼を受けられたという事よりも、主が「もろもろの名にまさる名」すなわちイエスという名を付けられ、
「天にある物、地にあるもの、地の下にある物、ことごとくイエスの名によりてひざをかがめ」(ピリピ2:9,10)
「われらのたよりて救われるべき」(使徒言行録4:12)御名のつけられたことの意義が深い。
各国聖公会では8月7日を「主イエスの聖名」の祝日としているが、英国で中世紀に8月6日にこの日を守り、
後に7日になったという以外、その理由を確かめることができない。1月1日に主イエスの命名の日を守ることが歴史的に見て適当であり、
聖公会外のある教会でもそうしている。
|
1 |
|
※ 主イエス 命名の日 |
イザヤ 62:1〜5, 10〜12 旧P1346 |
マタイ 1:18〜25 新P1 |
創世記 17: 1〜12, 15〜16 旧P24 |
黙示 19:11〜16 新P552 |
|
1月6日
顕現日
この日は紀元三百年頃には、東方教会で一般に守られ、主の降誕、ヨルダン
川における主の洗礼、カナにおける主の第一の奇蹟によって主が栄光を現したという三重
の記念の日であった。西部では第四世紀にゴールで初めてこの日が守られ、次第に各国に
普及した。 西部では一般にこの日を博士達来訪の記念日とし、主の洗礼とカナの奇蹟
はその後の主日に記念されるようになった。
|
6 |
|
顕 現 日 |
イザヤ 49: 1〜7 旧P1322 |
マタイ 12:14〜21 新P25 |
52: 7〜10 旧P1329 |
黙示 21:22〜27 新P556 |
|
1月8日
聖ルシアン 殉教者(312年)
アンテオキヤの司祭で、紀元312年にニコディアで殉教した。すぐれた聖書学者で、新旧約聖書 のいろいろな写本を調べて、誤った箇所を訂正した。これが一世紀後ヒエロニムス(ゼローム)が
聖書をラテン語に訳すとき大いに役立った。彼は信仰のために迫害され、獄に入れられた。体は
床に縛り付けられていたが、両手は自由になったので、彼は自分の腹を祭壇とし、寝たまま聖餐を
行い、獄中の信者に聖品を授けたと伝えられる。彼は皇帝の前で信仰を告白し、断頭の刑に処せら
れた。ルシアンは「光」という意味。女性名にルシア、ルーシーがある。
1月13日
主教ヒラリー 主教・証者・博士(369年)
ゴール(今のフランス)ポアティエルの主教アリウス派の異端と戦い、博学と雄弁とをもって
正統信仰を守った。 異端派が政治的勢力を得たとき、信者は主を迎えるごとくに彼を迎えて喜んだいう。
彼の著書「三位一体論」は有名である。この日に顕現8日祭を守るときは、この聖人の日の特祷を第二特祷として用いる。
十四日にこの聖人を記念する所もある。ヒラリウスとも呼ばれる。「元気な」とか「愉快な」とかいう意味。女性名はヒラリヤ
1月17日
アントニオ修道院長
276年、アントニオの両親は莫大な財産を残して亡くなった。 彼は、イエスが裕福な
青年に、すべての持ち物を売って貧しい人々に与えるように言われたことを聞いてその通
りに実行し、砂漠に行って孤独の生活を始め、祈りと苦行をした。 アントニオは度々悪
魔の誘惑に苦しめられたが、常に打ち勝った。 長年の間に彼が会った唯一の人は、6ヶ
月に1度彼の所にパンを持って来た人であった。 彼は孤独を愛していたが、彼の教え
を受けるために集まった多数の人々のために修道院を設立し、105歳で亡くなった。
孤独な静かの生活をする者は、三つの戦いから逃れたのである。それは聞くことと、話す
ことである。 しかし彼は絶えず一つのこと・・・・すなわち自分自身の心に対して戦わねばならない」
1月20日
聖ファビアン 主教・殉教者(250年)
デシウス皇帝のキリスト教徒迫害のときに殉教した ローマの主教。聖シプリアンは彼を比類無き聖者と
ほめている。ローマを七区に分け、七人の輔祭をたてたのも彼であり愛と徳とをもって良く教会を治めた。
ファビアヌスとも呼ばれる。 公会はこの日ローマの殉教者聖セバスチャン(303年)をも記念する。
彼は近衛隊長であった。迫害中よく信者を世話し、また獄中の信者を訪れては励ました。
紀元303年には彼にも殉教者の栄冠が与えられた。皇帝の命によって彼は柱に縛り付けられ、生きながら兵卒達の弓矢の的になった。
彼は一信徒の手厚い看護によって、不思議にも生きかえった。ある日彼は皇帝の来るのを知って道に達構え、
皇帝の罪を面と責めた。皇帝は非常に驚いて一瞬何も言えなかったが、次にセバスチャンを円技場につれて行っての、
棍棒で殴り殺すように命じた。その死体は下水溝に投げ込まれたが、信者達によって発見され、アッピア街道そばに葬られた。
今日そこに聖セパスチャン教会が建っている。
1月21日
殉教者おとめアグネス (30年頃)
ローマの貴族の家に生まれ、十三歳のとき信仰と貞潔を守るために殉教した。彼女は多く
の人の前で火刑に処せられたが、激しい火も彼女を殺すことが出来なかった。打ち首とい
う事になったが、白い衣を着て祈りつつひざまずく少女の後ろにたった首切り人の手はく
るった。二度目の太刀でようやく首が落ちたという。彼女の信仰と純潔と勇気は多くの信
者を励ました。コンスタンチン帝のとき彼女の墓の上に壮麗な聖堂が建てられ、この若き
聖女の記念としてささげられた。聖アグネスの像や画に子羊がついているのは、彼女の清
潔を現すためである。少女の守護聖人と仰がれている
1月22日
殉教者執事聖ビンセント 輔祭・殉教者(304年頃)
聖アグネスと共に、第四世紀のはじめの最も有名な殉教者。スペインのサラゴサで
生まれ、わかくて輔祭に任ぜられ、ディオクレシャン帝のとき二十二歳で殉教した。彼
の信仰と勇気は獄の役人も驚き、改心して彼を看護したと伝えられる。聖アウグスチヌスは
この聖人をほめて「力と純潔とを与える酒(聖霊)と酔って、ビンセントは
キリストの御国を滅ぼさんとする暴君に勝った」といった。ビンセントとは「勝つ」
という意味。ビンセンシウスとも言う。
1月25日
使徒聖パウロ改心日
キリスト教の熱心な迫害者であった彼が、ダマスコの途上で改心したことを記念する。使徒行伝の
後半は伝道者としての彼の活動を伝えている。異邦人の使徒となった彼は偉大な神学者であった。
彼自身から、また彼の手紙から私達の学ぶべき事は多いい。パウロとは「小さい」との意。パウロ
から来た男性名はポーリナスであり、女性名はポーラ、ポーリナである。
|
25 |
土 |
※4 使徒 聖パウロ 改心日 |
45:18〜25 P1316 |
フィリピ 3: 4〜11 |
シラ 39: 1〜11 |
使徒 9: 1〜22 |
|
1月26日
聖パウロの協力者聖テモテ・聖テトス
聖テモテ 主教・殉教者(第一世紀)
使徒聖パウロの同労者。リストラのラオデキヤの生まれのギリシャ人で、祖母は敬虔なユダヤ人ロ
イス、母はユニケ。幼い頃から聖書を良く学んだ。聖パウロは彼を「我が真実の子」と呼んだ。聖
パウロの殉教後、彼はエペソの主教となり、エペソの女神ダイアナの祝日に福音を伝えようとして
、群衆に石で打ち殺されたと伝えられる。テモテとは「神を敬う」との意。
1月27日
主教教会博士ヨハネ・クリソストム(407年)
紀元347年頃アンテオキヤで生まれた。彼の博学と雄弁とはアンテオキヤの信徒
に非常な感化を与えた。彼は最も偉大な説教者と言われ、キリソストム(金口)と呼ばれるよ
うになった。のちにコンスタンチノーブルの総主教に選ばれたが、罪悪と異端に満ちた首都を
改革しようとした彼の生涯は、初めから反対と迫害の連続であった。あるとき彼は、断食しな
い信者に聖体を授けないといって激しく責められた。彼は絶対そんなことない、もしそれが真
実なら自分に主教の資格がないと断言した。彼の最大な敵は異端者ユウドキシャ皇后であった
。彼はポント地方に追放せられ、3年の流浪生活ののち寂しく世を去った。彼は聖アタナシオ
、ナジアンゼンの聖グレゴリー、聖バシルと共に東部の四公会博士と呼ばれている。
1月28日
司祭教会博士トマス・アクイナス 証者・博士(1274年)
彼は学者のうちで最も偉大な聖人、聖人のうちで最も偉大な学者と言われる。
彼はアクィノ侯の子として1226年に生まれ、幼くして教育のためにモント・カシノ修道院に送られた。
16歳の時ドミニコ修士会に入って修士になった。彼の不朽の名著スヌマ・テオロジカ(神学大系)は最後の7年間、
多忙の生活の内に執筆され、完成し得ずに第3部第9問で終わったが、スコラ神学のピラ ミッドとして、
今日でも神学の重要な文献となっている。
2月2日
被献日(処女聖マリヤ被潔白日)
降誕後四十日目のこの日、公会は幼き主がエルサレムの宮でささげられたこと、聖母マリヤが律法 に従ってきよめの式を受けられたことを記念する
|
|
日 |
被 献 日
|
サムエル上 2: 1〜10 |
ヨハネ 8:31〜36 |
ハガイ 2: 1〜9 |
Tヨハネ 3: 1〜8 |
|
2月5日
日本の殉教者
わが国で初めて殉教者の血が流されたのは1597年(慶長2年)のこの日であった。
それ以来日本の各地で信者が殉教し、日本は殉教者の国とさえ言われるようになった。この日には日本の最初の殉教者26聖徒ばかりでなく、すべての日本殉教者を記念するのが適当である。
インド聖公会ではこの日を日本および支那の殉教者記念日としている。
2月11日
日本聖公会組織成立記念日
聖公会の日本伝道は、日本聖公会の最初の主教となられたウィリアムス師の長崎上陸(1859年7月初旬)から数えられる。
米英ミッションが合同し、日本聖公会組織のために、宣教師と日本人聖職と信徒代表者が大阪で総会を開いたのが
明治22年の紀元節(1887年2月11日)であった。
この総会で日本聖公会は組織され法憲法規も定められた。のちにこの総会を日
本聖公会第一総会と呼び、この日を日本聖公会組織記念日として守ることになった。
2月23日
殉教者主教ポリカーブ (155年頃)
使徒聖ヨハネの弟子で、聖ヨハネによってスムルナの主教に任ぜられたという。彼は主イエスの人
性を否定するグノーシス派の異端と戦ってこれを退けた。 彼がピリピの教会に送った手紙のう
ちに、聖ヨハネ第1書を引いて「おおよそイエス=キリストの肉体にて来たりたまいしことを言い
あらわす霊は神よりいず。なんじらこれによりてかみの御霊を知るべし」と戒めた。アントニウス
・ピウス帝のとき、八十六歳で殉教したが、猛獣も烈火も彼を害することが出来ず、刑史は剣で彼
の心臓を刺し貫いて殺したと伝えられる。
2月24日
使徒聖マツテヤ日
イスカリオテのユダの代わりに選ばれた聖マッテヤは、他の使徒達と共に初めから主の
弟子であり、主に選ばれた70人の伝道者の一人であったという。彼はカパドキヤに伝道した
とも言われ、紀元六四年頃、十字架につけられて殉教したと伝えられる。
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24 |
金 |
※2 使徒 聖マツテヤ日 |
サムエル上 16: 1〜13 P524 |
Tヨハネ 2:18〜25 P511 |
サムエル上 12: 1〜5 P513 |
使徒 20:17〜35 P294 |
3月1日
聖デイビッド日 主教・証者(544年)
英国メニビヤの初代主教。ウェールズの守護聖人と仰がれている。幼いときから教会で教育を
受け、古典に通じ、若くして聖職に任ぜられた彼は厳格な修道生活をなし、祈祷、労働、勉学
写本に毎日の大部分をささげた。この聖人とその修道達の信仰と博学によって、当時英国をお
びやかしたペレジウス派の異端を退けることができたという。デビットあるいはダビデは「愛
せられる者」との意。
3月7日
殉教者パペチュアと仲間達
203年、カルタゴで6人のアフリカ人が洗礼志願者としてとらえられた。そのうちの2人は女性
で、ヴィヴイア・パペチュアという貴族出身の22歳の人妻は自分の乳児に乳を飲ませていた。フェ
リチタスは妊娠中の奴隷であった。田野4人の仲間はサトゥルニノ、スクンドゥロ、サトゥロ、レ
ポカートという男たちであった。
パペチュアとサトゥロによる獄中記には、この囚人たちの苦しみがどのように大きなものであっ
たかが記されている。裁判官の前では誰も恐れず、「今、あなたが私たちを裁いていますが、今に
神様があなたを裁判なさるでしょう。」と言った。 パペチュアはある日、天国の美しい幻を見た
。羊の乳をしぼっていた1人の老人が彼女にミルクを与え、神のみ前にいた人々は、彼女に楽しく
遊びましょう、と呼びかけた。処刑の日になると、これまで飢えさせていた豹と
熊といのししがキリスト信者たちに勢いよく襲いかかった。
パペチュアとフェリチタスは野生の牛に角でつき刺されたが、苦しみながら慰めあった。
最後に、2人ののどにとどめの剣が突きささって2人は殉教の栄冠を得た。
3月12日
主教教会博士グレゴリー 主教・証者・博士(604年)
ローマの主教。一般に大グレゴリーと呼ばれる。ローマの名家に生まれ、若くして高官になったが感ずるところが
あって地位と富とを捨てて、貧民の良い友となった。
彼は聖ベネジクトの生活を学び、その邸宅を修道院にして、 同志と共に祈祷と奉仕の生活を始めた。
彼はローマの主教に選ばれてその任に付くと、教会改革と伝道に力を尽くした。
聖オーガスチンを長として、四十名の修士を英国伝道のために派遣したのも彼であり、教会音楽の発達に
新しい紀元を画したのも彼であった。また自ら異端をしりぞけ、聖書の講解その他の名著を残した。
彼はアムブローズ、ヒッポの聖ゼロームと共に、西部教会の四大公会博士と言われている。 グレゴリウスとも呼ばれる。
3月17日
主教パトリック 証者(461年)
アイルランドの使徒。彼は少年の時奴隷としてアイルランドに売られ、6年の苦役の後故国の
ブルタニヤに帰った。 アイルランド伝道を志して、ゴールで熱心に哲学を勉強した。アイルラン
ドで彼はしばしば迫害を受け、多くの困難と戦ったが、ついに島民の教化に成功した。
パトリックとは「高貴な」という意味。
3月18日
主教教会博士エルサレムのシリル 証者
(386年) 紀元315年頃エルサレムの近くで生まれ、成長して聖書と公会
師父の研究に専心した。エルサレムの主教に選ばれてからは、異教徒の改心に尽力した。彼が
復活祭の前の7週間、毎日洗礼志願者になした講話は、今でも重要な文献になっている。彼は
聖別されたパンと葡萄酒がキリストのからだと血であることを明らかに教えた。異端者から迫
害されて、三度も国外に追放されたが、ついにエルサレムに帰り、平和のうちに教会を治むる
ことができた。キリルとも呼ばれる。「貴族的な」とか「威厳のある」という意味の
3月19日
聖ヨセフ日 証者
処女マリアの配偶者で、幼き主イエスの保護者。福音書は彼を義人と呼んでいる。主イエスが12
歳のとき、ともにエルサレムの宮に行ったことはきろくされているが、その後彼に関する記事がな
い。彼は主が成人になった頃、主の手に抱かれ、すべてを感謝しつつ安らかに眠ったと伝えられる
。ヨセフは「増し加えられる」との意。女性名にはジョセフィン、ジョシファがある。
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※聖ヨセフ 日 |
イザヤ 63: 7〜16 旧P1348 |
マタイ 1:18〜25 新P1 |
歴代史 下 エペソ 6:12〜17 3:14〜21 旧P780 新P412 |
3月21日
主教トーマス・クランマー Cranmer,Thomas (英1489 7/2〜1557 5/21) 宗教改革者。
カンタベリーの大司教。アスラクトンに生まれ、ケンブリッジに学ぶ。
1530年ヘンリ八世の好遇を受けローマからドイツに遊学しプロテスタントの思潮に接す。
帰国後'33年にカンタベリー大司教となり、ヘンリー八世と王妃カザリンの結婚を無効と断じて
ヘンリ王の再婚を確認。以後エドワード 六世の治世にわたって英国宗教改革の中心人物 として国教確率につとめ、
式文を制定し、英訳聖書いわゆる「クランマー聖書」の使用を広め 、聖職者の結婚を許し、ミサを廃した。
彼の行った改革は王権に妥協的で、その行為には無定な点が多かったが、
旧教徒メーリ・ステュアートの即位に際しては敢然とこれに反対し、一時は妥協しようとしたが、
ついに反逆と異端との名を付られて、 '56年焚刑に処せられた。著作は一般祈祷と聖式の施行」や
リドリーとの共著「四十二箇信条」等があり、現在の英国国教会の祈祷書、基本信条の基となっている。
3月25日
処女マリアへの御告げ日
処女マリアがナザレで大天使ガブリエルから、救い主の母となるという
神の御告げを受けたことを記念する日で、ルカ伝1章26〜38にその記事がある。聖ヒッポリタス(235年頃)は既にこの祝日のことをしるしているが、一般にこの日を
守るようになったのは 第7世紀の終わりのころである。
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25 |
水 |
※ 聖マリヤ へのみ告げの 日 |
イザヤ 52: 7〜12 旧P1148 |
ヘブル 2: 5〜10 新P402 |
知恵の書 9: 1〜12 続P169 |
ヨハネ 1: 9〜14〜11 新P163 |
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4月3日
主教リチャード 証者(1253年)
英国チチェスターの主教。名家に生まれたが、家運が傾いたために苦難を経験し、
のちにパリーにいって苦学した。 涙ぐましい長年の研究と努力が認められ、オックス
フォード大学に任命されて帰国した。 彼は学識と高徳を慕われ、ついに大学
総長に選ばれた。 チチェスターの主教に叙任されてからも、貧しかった時代を
忘れずに、質素な生活を続けて惜しみ無く貧しい人々を助けた。
リチャードは「強い」という意味。
4月21日
聖アンセルム 主教・証者・博士(1109年)
カンタベリーの大主教。幼いときから敬虔な母に信仰を教えられ、ついに修士として生涯を神にさ
さげる決心をした。 父の反対があったが、ノルマンジーのベック修道院で修院長ランフランクの
指導を受け、祈祷と神学研究に精進した。若くしてベック修院長の退任を負わされ、終夜祈ること
が多かった。 カンタベリー大主教に任ぜられてからは、公会の自由と独立に力を尽くし 学者と
しても大きな貢献をした。
アンセルムとは「神与のかぶと」の意。
4月23日
聖ジョージ 殉教者(303年頃)
最も有名な殉教者の一人で、英国の守護聖人と仰がれている。正確な史実は残ってないが、
カパドキヤの名家に生まれ、幼い時から熱心なキリスト信者であったという。17才のとき父
のように軍人になり、ついにデオクレシアヌス帝の近衛隊長になった。皇帝が信者を迫害した
とき、彼はその残酷を怒って皇帝を責めたので、死刑に処せられ殉教の栄冠を受けた。彼が
リビヤで竜を退治し、クレオドリンダ姫を救ったという話はパレスチナ辺から出た伝説である
言われる。ジョージアとは「農夫」との意。 女性名はジョージアナ。
4月25日
福音記者聖マルコ日 マルコ伝14章5
にしるされている「ある若者」とは聖マルコ自身であり、主が最後の晩餐をなされた家、最初の教
会となったのは彼の家であった。母の名はマリヤ。彼はヨハネとも呼ばれた。聖バルバナの親戚で
、聖パウロの第一伝道に同行した。その後は聖バルバナと共に伝道したが、後にローマで聖パウロ
にも聖ペテロにも仕えた。彼の書いた福音書は聖ペテロの話を筆跡したものであろうといわれてい
る。伝説によれば彼は殉教前にエジプトに渡り、 アレキサンドリヤを中心として伝道したとの事で
ある。マルコとは「輝ける」との意。女性名は マルシヤあるいはマーシャ。
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25 |
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福音記者 聖マルコ日 |
シラ書 2: 1〜11 続P220 |
使徒 12:25〜 13:3 新P275 |
イザヤ 62: 6〜12 旧P1346 |
Uテモテ 4: 1〜11 新P456 |
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4月30日
おとめシェナのカタリナ 処女(1380年)
1347年イタリヤのシェナに生まれた。6歳のとき使徒達に囲まれた栄光の主イエスの幻を見
て以来、幾度も主の幻を見た。ついに主が十字架でうけたと同じ傷を自分の身に受けたという
。彼女は聖ドミニコ会の第3会員であったが、法王の対立を嘆いて、フランスのアビニョンま
で出かけ、法王グレゴリーを説いてローマに帰還させ、教会の分裂を救った。33歳でこの世
を去ったが、その信仰と功績とはいつまでも語り伝えられている。カサリンとも、カスリン
とも、キャサリンとも呼ばれる。
5月1日
使徒聖ピリポ・使徒聖ヤコブ日
聖ピリポは聖ペテロ、聖アンデレと共に、ガリラヤのベッサイダの人。伝説によれば彼は小アジヤ
の各地に伝道し、フリギヤのヒエラポリスで十字架につけられて殉教したという。聖ヤコブと区別
して「小ヤコブ」と呼ばれる。その兄弟も「イスカリオテならざるユダ」と福音書にしるされてい
る。伝説によれば、彼はエルサレムで迫害を受け、大きな棒で打ち殺されたという。教会史家聖ビ
ードは彼を「主の兄弟」と同一人であるとしている。 東部教会の伝説も同じである。ヤコブは「
押しのてける者」との意。英語ではジェームズ。ピリポは「馬を愛する」との意。英語ではフィリ
ップ。女性名はフィリッパ。
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1 |
使徒聖ピリポ 使徒聖ヤコブ日 |
ヨブ 23:1〜12 旧P931 |
ヨハネ 1:43〜51 新P191 |
箴言 4:7〜18 旧P1150 |
ヨハネ 12:20〜26 新P223 |
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5月2日
主教教会博士アタナシオ (326年)
アタナシウスともいう。有名なアレキサンドリヤの総主教で、東部教会の四大博士の一人。紀
元325年ニケヤで最初の全公会会議が開かれたとき、アレキサンドリア総主教に随行して会
議に出席し、堂々とアリウスの異端と戦って、「御子は御父と同質なり」との正統信仰を明ら
かにして、公会を大きな危機から救った。彼は間もなくアレキサンドリアの総主教に選ばれた
、政治的勢力を得た異端者から激しい迫害を受け、四度も国外に追放された。しかしついにア
レキサンドリアに帰り、総主教として晩年を安らかに過ごすことが出来た。彼の著書は今でも
読まれている。
5月4日
モニカ 普通聖女(387年)
ヒッポの聖アウグスチヌスの母。彼女はアウグスチヌスの不道徳と不健全な信仰を嘆いて日夜祈り、
愛子を失った母よりも多くの涙を流したと言われる。「涙の子は滅ぶることなし」とカルタゴの主教から慰められたが、
ついに彼女の祈りがきかれる日が来た。アウグスチヌスは387年の復活前日、ミラノで聖アムブローズから洗礼を受けたばかりでなく、
聖職として生涯を神にささげる決心をした。神は彼女の願い以上のものを与えたもうたのである。
聖モニカは聖アウグスチヌスと北アフリカに帰る途中、オスチアで船を待っているうちに病気になり、愛子の腕に抱かれて、
すべてを感謝しつつ安らかに世を去った。アウグスチヌスが「懺悔録」に自らしるした母の思い出は、今でも読む人の心に大きな感動を与える。
5月9日
主教教会博士ナジアンゾスのグレゴリー(390年頃)
東部教会の四大公会博士の一人。ナジアンゼンの主教の子として生まれ、アテネの大学では聖バシルと親しい交わりを結び、
主教教会博士ナジアンゾスのグレゴリー共に大学えの道と教会えの道しか知らなかったと言われる。聖バシルが教会を建てたとき、
彼もすべてを捨てて参加したが、父が死んだとき彼はナジアンゼンの主教にされてしまった。のちのコンスタンチノーブルの総主教に選ばれ、
異端と戦いつつ、381年のコンスタンチノープルの全公会会議までよくその大任を果した。彼の著書は多く、今でも学者に読まれている。
ナジアンゼンはナジアンズスとも、呼ばれる。
5月25日
司祭教会博士ビード (735年)
英国の聖人。彼は7歳のときからノーザンブラアの修道院から教育を受け、そのまま修道院にとどまって55年間修士として神に仕えた。
彼の著書のうちには聖書の翻訳、殉教者伝、初代聖徒伝等があるが、最も有名なのは英国教会史である。彼は735年、昇天日の夕方、
病床でヨハネ伝の翻訳を口述して筆記させ、それが完成したことを喜んだ。そしてからだを起こしてもらい「父と子と聖霊に栄光あれ」と
言い終わると息が絶えたと伝えられる。 高徳を慕われる昔からベネブル(尊敬すべき)ビードと呼ばれている。
5月26日
主教カンタベリーのオーガスチン 証者 (605年)
法王グレゴリーによって彼は40名の修道師と共に英国伝道につかわされた。597年にカンタベリーに居住を定めた。 翌年の聖霊降臨日には
ケント王エセルバートが洗礼を受け、クリスマスには一万人が洗礼を受けた。やがて彼はゴールで主教職に任ぜられ、カンタベリーの初代主教となった。
当時英国は既に北方から伝道されており、ローマ教会とは異なる慣習を持っていた。彼は英国の教会統一に努力したが、
その目的は後継者によってようやく実現された
5月31日
おとめ聖マリアの訪問
御告げを受けて間もなく、聖マリアがユダヤの山里に聖エリザベツを訪問したことを記念する日。
「わが主の母われに来る。われ何によりてこれを得し。見よ。なんじのあいさつの声わが耳に入るや、わが子胎内にて喜びおどれり」と
若いいとこを迎えた老聖母と、「わが心、主をあがめ、わが霊はわが救い主を喜びまつる」と神を賛美する聖処女。
山里の祭司の家における両聖女は美しい画題でもあるり静想の良い主題でもある。
6月1日
殉教者ジャシチン (167年頃)
彼はサマリアのシケムで生まれ、ギリシャ哲学を研究したが満足できず、ついにキリスト教に帰依した。
彼は最初のキリスト教哲学者と言事が出来よう。彼はローマで迫害中に皇帝アントニウス=ピウスにキリスト教弁護の書を献じた。
そのためか一時迫害が緩やかになった。のち皇帝マルクス=アウレリウスに第二の護教論を献じたが、
やがて捕らえられ、六人の弟子と共に殉教した。
ユスチヌスとも呼ばれる。 「正しい」との意。女性名はユスチナ、ジャスチナ。
6月4日
主教教会博士バジル(379年)
東部教会の四大公会博士の一人。幼いときから祖母マクリナより信仰を教えられた。アテネの大学で勉強中にいろいろの疑問をいだいたが、
それは結局、机の上で神の真理を知ろうとしたからであると悟った。 彼はこの世を捨てて荒野の聖者から生きた真理を学ぼうとした。そしてエジプトの各地、 パレスチナ、小アジヤの各地をめぐって聖者の教えを学ぶと共に、その生活を良く観察した。帰ると生まれ故郷に近いイリス川のほとりに修道院を建てて静かな、 厳格な祈りの生活を始めた。彼の書いた修道院生活規範は今でも東部教会の修道院でまもられている。彼はやがてカイザリヤの主教に選ばれ、 十年間その務めを忠実に果たし、正統信仰のために貴重な文献を残した。多くの人からその学識と徳とを慕われ「大バシル」と呼ばれるようになった。 バシルとは「王の如き」の意。6月5日
殉教主教ボニフェース(753年)
伝道主教として海外で殉教した最初の英国修士。彼は30歳で司祭に任ぜられ、熱心に伝道したが、先輩修士の模範にならってヨーロッパ伝道を
志願し、ついにその許しを受けた。 そしてゲルマニア(今のドイツ)に行き、37年間異教徒の改心に最善をつくした。73歳のとき主教職を辞し、
8人の弟子をつれてライン川をくだり、フリギヤ(今のオランダ)の伝道に出かけた。
聖霊降臨日にブルダ川のほとりで堅信礼を授けようとしていた時、突然異教徒に襲われ、彼も弟子達も抵抗せずに敵の剣に倒れたという。
クリスマス・ツリーの起源は彼のゲルマニア伝道と関連して伝えられている。ボニフェースとは「恩人」の意。
6月9日
修院長コロンバ
コロンバは、アイルランドのドニゴール州で生まれ、15年間アイルランドで宣教して、デリーとケルスとデュローに有名な修道院を設立した。
563年にスコットランドのイオナ島へ航海して1つの修道院を建てたが、それは何世紀もたつううちに有名な所となり、イオナはケルト地方の
キリストの中心地となった。またイギリスやスコットランド本土にも修道院が出来たが、コロンバはその後34年間を宣教の仕事にささげた。
597年6月8日、コロンバは詩編を写していたが、「主を愛する者に良い者に良いものが掛ける事は無い。」という句の所で筆を止めて、
残りは彼の徒弟ベーティングが書くべきだと言った。その翌日、コロンバは帰天した。
6月11日
使徒聖バルナバ
「ここにクプロに生まれたるレビ人にて、使徒たちにバルバナ(慰めの子)ととなえられるヨセフ畑ありしを売てその金をもちきたり、
使徒達の足もとに置けり」これが聖バリバナにつにて使徒行伝にあらわれた最初の記事である。改心した聖パウロを使徒達に紹介したのも、
パウロをタルソに尋ねて伝道の同労者にしたのもエルサレム会議で聖パウロと共に異邦の改心者に不必要な重荷を負わせないように主張したのも
彼であった。 紀元48年頃第二回伝道旅行に出かけたが、ある事情のために聖パウロと別れて、故郷のクプロに伝道した。その後のことについて聖書は何も記録していないが、伝記は彼のクプロにおける殉教を語っている。
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11 |
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使徒 聖バルバナ |
シラ書 31: 3〜11 続P276 |
使徒言行録 4:32〜37 P256 |
ヨブ 29: 1〜16 P938 |
使徒言行録 9:26〜31 P267 |
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6月22日
殉教者オルバン (凡305年)
英国最初の殉教者。彼はローマに留学したこともあり、ハートフォードシャーの名士で、旅人や貧しい人々に親切を尽くしたと伝えられる。
ある日一人の旅人が来て宿を求めたが、その人は迫害者の手を逃れて来た司祭であった。それとは知らず に迎えたが、オルバンはその司祭の敬虔に心を打たれ、 福音を聞いて洗礼を受けた。迫害者が司祭の居所をつきとめて引き渡しを求めたとき、オルバンはその司祭の衣をまとっと現れ、英国最初の殉教者になる栄誉を 与えられた。オルバンとは「白い」という意。6月24日
洗礼者聖ヨハネ誕生日
聖徒はこの世を去った日に記念されるのが普通であるが、施洗者聖ヨハネは誕生日にも記念される。不思議な摂理によってエリザベツの
胎内に宿った彼は、誕生においても、伝道においても、死においても、主イエスの先駆者となった。主の出現が近ずいたとき、彼は「天国は近ずけり、 なんじら悔い改めよ」と主のために人々の心を備え、また主のあかし人として「彼は必ず盛んになり、我は衰うぺし」(ヨハネ伝3-30と言った。昔の歴によると クリスマスから次第に日が長くなり、施洗者聖ヨハネの誕生日から次第に日が短くなったので、その事にも関連して、この聖句を引いて教えられた公会師父もある。 ヨハネとは「神の賜物」との意。女性名にはヨハンナ、ジェーン、ジーンなどがある。|
24 |
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洗礼者 聖ヨハネ 誕生日 |
マラキ 3: 1〜5 ?P1733 |
ヨハネ 3:22〜30 ?P195 |
マラキ 3:19〜24 ?P1735 |
マタイ 11: 2〜19 ?P122 |
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6月28日
殉教者主教イレナエウス(202年)
彼はスムルナの聖ボリカーブの弟子で、後ゴールに伝道し、ついにリヨンの主教に選ばれた。聖書に通じ、正統信仰を堅く守って
異端を退けると共に、異教徒の伝道に尽くした。彼の著書は今でも貴重な文献となっているが、「異端反旗論」は最初の組織神学と言われる。リヨンで殉教した。イレネウスは「平和」の意。英語ではアイリニアス。女性名はアイリーン。
6月29日
使徒聖ペテロ・聖パウロ
両使徒ともネロ皇帝のときローマで殉教したがその日は不明である。迫害中その遺骸は信者によって安全な所に保存され、354年6月29日に両使徒の遺骸は、 それぞれ殉教の場所にたてられ記念聖堂に移された。その日が両使徒の記念日として守られるようになった。 ペテロとは「岩」という意。女性名はペトラ。|
3 |
月 |
使徒 聖ペテロ 聖パウロ日 |
エゼキエル 2: 1〜17 P1502 |
使徒 11: 1〜18 P272 |
イザヤ 49: 1〜6 P1322 |
ガラテア 2: 1〜9 P398 |
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7月11日
修院長ベネディクト 聖 Benedictus (伊 480〜543 3/21)
聖職者、ベネディクト教団創立者。 華美な都会の生活をきらい14歳の時家を出て山中に隠遁生活をなすこと3年。その後、修道院生活を続けて
529年頃ナポリ近くのモンテ・カシノに修道院を開き、修道院戒律 Regula Monschorumを定め、厳格な規律の中に質実な生活を営み 信仰生活の充実を 計るとともに勤労を合理的に行い、農業、手工業をも経営した。中世におけるすぐれた学者、聖職者がこの教団から出ている。7月22日
マグダラの聖マリヤ日
主イエスによって7つの悪霊を追い出された婦人で、聖書には「罪ある女」としるされている。罪を全く悔い改めて新生涯に入った彼女は、
全てにまさって主を愛し 、主に使えた。 最後まで十字架のもとに立っていたのも彼女であり、復活の主に 最初に会ったのも彼女であった。 昔から痛侮者の守護聖人として仰がれ、この日を 大祝日として守られるようになった。|
22 |
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マグダラ の聖マリヤ日 |
ゼパニヤ 3:14〜20 P1706 |
マルコ 15:47〜16:7 P112 |
出エジプト 15:19〜21 P137 |
Uコリント 1: 3〜7 P377 |
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7月25日
使徒聖ヤコブ
ゼベダイの子、使徒聖ヨハネの兄弟で、主の最初の弟子の一人。もう一人の使徒ヤコブと区別して「大ヤコブ」と呼ばれる。
彼はペテロ、ヨハネと共に主の特別の弟子であった。紀元43年頃ヘロデ=アグリッパの命によって捕らえられ、エルサレムで首を切られて最初の殉教者となった。 (使徒行伝12章1、2参照) 伝説によれば彼は聖霊降臨後スペインに伝道したという。
7月26日
おとめ聖マリヤの母アンナ
処女聖マリヤの母。彼女のことは聖ヤコブ福音書という第2世紀頃の文献に出ている。信仰の
あつい義人で、聖マリヤを立派に育て上げた典型的な母として、昔から非常に尊敬されている
アンナとは「恵み」との意。英語でアン、へブル語ではハンナ。
8月6日
主イエス変容の日
高い山においてイエスの姿が変わったという神秘的な事件である。(マタイ17:1〜8、マルコ9:2〜8,ルカ9:2〜36)。これは神秘的にみられたり、また復活物語の挿入として見られたりすべき物でなく、事実として受け取られるべきであろう。
イエス・キリストの重要な事件として注目されている。ピリボ・カイザリヤにおける弟子達のキリスト白と、イエスの受難告知に引き続いて 変貌の出来事が起きていることは注目に値する(マルコ8:27〜9:1)。変貌に於いて、暗黒を破って輝き出したイエス の姿の輝きは、その本質の栄光を顕示するものである。また、天からの神の声により、
神の子たる 確証を与えられた。 モーセとエリヤとの間での姿はイエスが旧約預言 の成就者メシヤたることを示すものであろう。この変貌の起こった山はタボル山とも言われるが ヘルモン山であろう。
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6 |
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主イエス 変容の日 |
出エジプト 24:12〜18 |
Uコリント 4: 1〜6 |
ダニエル 7:9〜10, 13〜14 |
ヨハネ 12:27〜36a |
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8月8日
司祭修道士ドミニコ (1222年)
彼は1170年にスペインで生まれた。14歳のときバレンシヤ大学に入学し、司祭として生涯を神にさ
さげる決心をした。司祭に叙任された彼は敬虔と熱心とをもって知られた。やがて異教徒改心のた
めに説教者の一団、ドミニコ修士会を組織して各地の伝道に努めた。アシシの聖フランシスコと同
時代で、共に修道生活と伝道に新しい紀元を画した。ドミニコとは「主に属する」という意。
8月10日
殉教者執事ローレンス (258年)
彼はサラゴサで教育を受けたスペイン人であるが、法王によってローマの7人の輔祭の長に任ぜら
れ、貧民の救済に力を尽くした。迫害が激しくなって法王が捕らえられた時、彼も共に殉教したい
と願い出たが、法王はそれを許さずに、貧民や病人ばかりでなく、迫害されている者や殉教者の家
族の世話を彼に命じた。彼は法王に最後の別れを告げようとした時に捕らえられた。役人から3日
以内に教会の宝物を全部提出することを命じられたが、彼が3日間に集めたものは金銀でなく
て、不具者と貧民であった。 これを見て怒った皇帝は、すぐ彼を火刑に処した。コンスタン
大帝はこの聖人の墓の上に立派な聖堂を建てて彼の記念とした。ライレンチウスとも言う。
「月桂を戴いた」という意味の名である。
8月11日
修院長おとめクララ 処女(1253年)
アシジの聖フランシスコのことが語られるときには、その最初の女弟子、聖クララの美しい
生涯も語り伝えられる。彼女は1194年にアシジの名家に生まれ、早くからその美貌をたたえら
れていた。彼女が18歳のある日、聖フランシスの説教を聞いて感動し、両親の反対を押し切っ
て彼の弟子となった。のちにその妹アグネスも母も他の婦人達も彼女に加わり、聖ダミアの聖
堂の近くに修女院を設け、共に聖フランシスの精神に従って生涯を神にささげた。クララとは
「輝ける」との意。英語ではクレーアともいう。
8月15日
主の母聖マリヤ(聖母被昇天)
主イエスの母聖マリヤは主の昇天後11年目にエルサレムで使徒達にかこまれつつ安らかな眠
りについたと伝えられる。御子に汚れなき人性を与えた聖マリヤは、女のうちで最も祝福された神
の選びの器であった。使徒達の后と呼ばれる聖母は天の栄光で輝いていると信じられる。この祝日
は東西両教会で早くから守られた。東部では処女聖マリヤの安息の日と呼ばれ、西部では聖母被昇
天日と呼ばれている。
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主の母 聖マリヤ日 |
サムエル上 2: 1〜10 旧P497 |
ヨハネ 2: 1〜12 新P192 |
エレミヤ 31: 1〜14 旧P428 |
ヨハネ 19:23〜27 新P240 |
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又はゼカリヤ 2:10〜13 旧P1713 |
又は使徒 1:6〜14 新P247 |
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8月18日
ヘレナ(普通聖女 323年頃)
コンスタンチン大帝の母。彼女はその敬虔と慈愛とによって多くの信者に慕われた。
老齢に達したが聖地を巡礼して主の十字架を発見した。 皇帝と協力してゴルゴダの丘に聖十
字聖堂を建て、ベツレヘムに聖降誕聖堂を、オリブ山に昇天聖堂を建てたことは有名である
。 ヘレナとは「光」という意。ヘレンともいう。
8月20日
修院長教会博士聖ベルナルド(1153年)
彼は貴族の家に生まれ、早くから修士として生涯を主にささげる決心をした。そして23才のとき、3
人の兄弟と27人の貴族子弟と共にシトー修道院にはいった。 彼の清い生活と熱心とは、たちまち多
くの人を感化した。のち彼はクレアボーに修道院を建て、その初代修院長となり、厳格な生活を続けつ
つ、深遠な知恵と知識とをもって修士たちを教えた。彼の雄弁はヨーロッパを動かしたと言われるが、
異端者も彼の博学と雄弁には敵し得なかった。
法王も諸国の王も彼の教えと助言を求めた。彼の著書は多く、今でも彼は神の愛について語っている。
彼は最後の公会師父と呼ばれている。ベルナルドとは「熊のごとく勇敢」との意。
8月24日
使徒聖バルトロマイ多くの学者は聖バルトロマイと使徒ナタナエルは同一人物であろう
ナインの人で、主は彼は「まことのイスラエル人なり、そのうちに偽りなし」と
言った。伝説によれば、彼はマタイ伝福音書を携えてインドに伝道し、のちにアルメニヤの伝道に行き、アルバナという所で殉教したという。
バルトロマイとは、「トルマイの子」、ナタナエルとは「神の賜物」といの意。|
24日 |
使徒聖バルト ロマイ |
創世記 28:10〜17 旧P52 |
ヨハネ 1:43〜51 新P191 |
イザヤ 66: 1〜2, 18〜23 旧P353 |
Tペテロ 5: 1〜11 新P |
8月28日
主教教会博士オーガスチン
北アフリカ、ヒッポの主教で、西部教会の四大公会博士の一人。
356年11月13日に北アフリカのタガステで生まれた。波乱の多かった彼の生涯は。自ら涙をもって綴った自叙伝「懺悔録」のうちによく表されている。
ミラノで修辞学の教授中、主教聖アムブロースの感化を受け、387年の復活前日に洗礼を受けた。 そして生涯を神にささげる決心をして故郷に帰った。彼は財産を貧しい人々に分け与え、同志と清貧の生活を続け、祈祷と研究と執筆に精進した。 彼の願いは隠れた生活であったが、
彼の博学と雄弁は次第に知られ、ついにヒッポの主教に選ばれた。35年間忠実に主教の勤めを果たしつつ、神学研究と異端者との論争にも全力を尽くして 多くの貴重な文献を残した。ラテン名はアウグスチヌス9月8日
おとめ聖マリヤの誕生日
東部教会では早くからこの祝日が守られた。西部教会では第七世紀の終わり頃に、
この日に用いる連檮(リタニ)が定められた。東部の諸教会ではこの日から八日間
教会一致のために特別祈祷がささげられる。
9月13日
殉教者主教シプリアン(258年)
北アフリカ、カルタゴの主教。彼はカルタゴの修辞学教授として知られ、文学的著作も多く、人
々の尊敬を受けていた。信仰に入ったのは壮年期を過ぎた頃であった。信者になってからはその博
学と才能とを全く神にささげて、良い模範を示した。やがて彼は司祭に任ぜられ、ついにカルタ
ゴ の主教に選ばれた。当時外には迫害があり、内には異端があって困難な時代であり、その上に猛
烈 な疫病が流行した。彼は困難と戦いつつ良く教区を治め、異教徒をも無言のうちに感化した。バ
レリアヌス帝の迫害の時に殉教したが、教理上貴重な文献を残している。シプリアンとも言う。
9月14日
聖十字架日
335年コンスタンチン帝は、ゴルゴダの丘と主の墓とを境内として壮麗な聖堂を建て、
聖ヘレナによって発見された聖十字架を納めた。そしてこの日に聖十字しょう栄のために献堂
式を行った。614年ペルシャ軍がエルサレムに侵入したとき、多くの信者は殺された。
9月19日
主教セオドル (690年)
タルソ生まれのギリシャ人で、博学と高徳とをもって知られた。法王は彼をカンタベリー第七代の主教に任じた。六十七歳で英国に赴任した彼は、
全英をめぐり、その愛と知恵をもって良く教会を治め、北部の教会との統一に成功した.彼はまた学校を建てたり、教区、教会を定めたりして大きな功績を残した。 セオドルとは「神の賜物」の意。英語ではセオドリア女性名はセオドラ。9月20日
オーストラリア・オセアニアの殉教者
調査中
9月21日
福音記者使徒聖マタイ
第一福音書の記者で、主の召しを受けるまでカペナウムの収税官吏をしていた。アルパヨの
子レビと呼ばれていたが、主の弟子になってからマタイと名ずけられたようである。パピアス
の記録によれば、彼はへブル人に伝道するためにへブル語で福音書を書いたと。伝説に
よれば主の昇天後十五年間、パレスチナのユダヤ人に伝道したのち、エチオピアに行き、そ
こで殉教したという。マタイとは「神の賜物」という意。
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福音記者 使徒 聖マタイ日 |
イザヤ 8:11〜20 旧P1242 (P1073) |
ローマ 10: 1〜15 新P334 (P288) |
ヨブ 28:12〜28 旧P937 (P810) |
マタイ 13:44〜52 新P30(P26) |
9月29日
聖ミカエルおよび諸天使の日
聖書にはしばしば天使のことがしるされている。この日はもと諸天使の祝日であったが、第6世紀
頃から大天使聖ミカエルをも記念するようになった。聖ミカエルについては、ダニエル書10、1
1章、ユダ書9節、黙示録12章にしるされている。
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29日
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水
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聖ミカエル及び 諸天使の日
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ヨブ記 38: 1〜7
旧P955 |
ヘブル 1
新P464 |
ダニエル 12:1 〜3 P1517 又は 列王記下 6: 8〜17 旧P677 |
マルコ 13:21〜27 P103 又は 黙 5: 1〜14 新P531 |
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9月30日
司祭教会博士ジェローム
ラテン語でヒエロニムスと呼ぶ。西部教会の四大公会博士の一人。 彼は346年にダルマチ
アとハンノニアの間にあるストリンドンという町に生まれ、のちローマに移って洗礼を受けた
。ギリシャとラテンの文学を深く研究したが、信者になってからは聖書と神学の研究に専心し
た。385年頃彼はローマを去り、アンテオケに近い荒野に退いて、キリスト教に改宗したユ
ダヤ人からヘブル語を学んだ。のちに聖地に行き、ベツレヘムに修道院を建て、20余年の努
力ののち、旧約聖書のラテン語訳を完成した。この聖書は今でもローマ教会の唯一の公認聖書
となっている。ヒエロニムスとは「聖名」の意。
10月4日
アシジのフランシス 修士・証者(1226年)
彼は最も人に親しまれている聖人であろう。イタリヤの中央、ウムブリヤのアシジの商人の子とし
て生まれたが、騎士を夢みつつ気ままな生活をしていた青年であった。
しかし彼は出征、捕囚、釈放、重病を次々に経験して突然信仰に目覚め、文字どおり
イエスの足跡に従う決心をした。彼が全てを捨てて貧しい伝道者になったのは27歳のときであった
彼の模範に従う者が次第に増し加わったとき、新しい独身奉仕者の団体が自然に生まれ、修道生活
にも新しい紀元を画するようになった。主の山上の垂訓は彼の生涯のうちに新しい生命となって萌え
いで、人々の心に新しい神の愛を呼び起こしたと言われる。フランシスコは英語でフランシス
「自由」という意味があると。女性名はフランシスカ、英語ではフランシース
(またはフランセス)イタリヤではフランチェスコ。
10月17日
殉教者主教イグナシウス
聖イグナシオとも呼ばれる。伝説によれば、主が弟子達に「なんじら幼子のごとくならずば天国
に入ることあたわず」と教えられたとき、主に抱かれていた幼子はこの聖イグナシオどあったとい
う。 彼はアンテオケの総主教として忠実にその努めをしていたとき、迫害者に捕らえられ、死刑
に処せられるためにローマに送られた。その途中彼が小アジアの諸教会に書き送った七つの手紙は
、今でも貴重な文献となっている。「我は喜びて死すべし・・・・・我は神の麦なり。猛獣の歯に
て砕かれ、イエス・キリストの尊きパンとなるこそ我が願いなり」とは彼の言い残した有名な言葉
である。彼はローマの円戯場で主の御名を呼びつつ殉教したと伝えられる。
10月18日
福音記者聖ルカ日
アンテオケ生まれの医者で、聖パウロの同労者「愛する医者ルカ」と、聖パウロは彼を呼んで
いる(コロサイ4:14) 彼がルカ伝福音書と使徒行伝の記者であることは誰にも知られてい
る。古い記録によれば「彼は妻も子もなく、聖霊に満たされ、74歳のときビシニヤで血を流
した」と。
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福音記者 聖ルカ |
エゼキエル 47:1〜12 |
ルカ 1: 1〜4 P115 |
イザヤ 52:7 〜10 P1329 |
使徒 1: 1〜8 P247 |
10月28日
使徒聖シモン・使徒聖ユダ日
聖シモンは熱心党のシモンとも、カナン人シモンとも呼ばれている。
聖ユダはイスカリオテならざるユダと福音書にしるされている。
聖ユダは主に「主よ、何ゆえおのれを我に現して世に現したまわぬか」と尋ねた。主はそれに直接
答えず、「人もし我を愛せば、わが言葉を守らんわが父これを愛し、かつ我らそのもとに来たり
て住家をこれと共にせん」と言いたもうた(ヨハネ伝14:21〜24)彼はその御言葉をいつまでも
記憶していたであろう。 この二人の使徒はエジプトにもメソポタニアにも
伝道したと言うが、のちに共にペルシャで伝道し紀元47年7月1日に殉教したという伝説が残っている。
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使徒 聖シモン 使徒聖ユダ日 |
イザヤ 28: 9〜16 P1277 |
エペソ 4: 1〜16 P412 |
イザヤ 4: 2〜6 P1235 |
ヨハネ 14:15〜31 P227 |
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11月1日
諸聖徒日
昔から殉教者は非常に尊敬されていた。聖霊降臨後第1主日(今の三位一体主日)を世界の殉
教者記念日として守った。607年から610年の間にローマの地下墓地から多くの殉教者の
遺骨が掘り出されて、一カ所に改葬された。その上に聖堂を建てて聖マリヤ及び諸聖徒の誉れ
のためにささげられた。諸聖徒の祝日を11月1日に守るようになったのは紀元835年からである。
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1 |
土 |
※2 諸聖徒日 |
エズラ・ラ 2:42〜47 続P391 |
ヘブル 11:32〜12:2 新P481 |
知恵 5:1 〜5, 14〜16 続P188 |
黙示 21: 1〜4,22 〜22:5新P554 |
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11月2日
諸魂日
忠実な信者には救いが約束されているが、死後すぐに天の御国に行ける程全く清められている者はごく
少ない。多くの信者は死後、罪 の汚れが全く清められるまで待たねばならない。
その状態を「中間状態」と言い、待望教会とも浄罪界とも煉獄とも呼ばれている。
公会は昔から世を去った信者のために祈りをささげ、祭壇で記念して来た。生きている信
者が互いに祈り聖徒の代祷を求め、世を去った信者の為に祈ることによって「聖徒の交わ
り」が成り立つ。聖徒の祝日に続いて諸魂日を守ることは誠に適当である。英国、スコットランド、南アフ
リカ、インド等の聖公会では諸聖徒の8日祭の日に、まだ世界的に公認されていない聖公
会の聖者、殉教者博士を記念するように教会暦にしるしている。
11月10日
主教教会博士レオ (461年)
公会に尽くした偉大な功績によって、彼は大レオと呼ばれる。第四世紀の末にローマで生まれ、440
年に選ばれてローマの主教になった。 当時は種々の異端と蛮族侵入とで、内外とも多事多難なときで
あった。彼はそのすぐれた知恵と博学と勇気をもってよく公会を守り、指導した。カルセドンで開かれ
た第四回全公会々議に彼が送った手紙は有名であり、キリストの神性と人性について正統信仰を明かに
し、会議を指導するものとなった。ローマが蛮族に襲われたとき、彼が自ら蛮長と交渉して、都民を無
事に守った話も有名である。レオは「ライオン」の意。これから来た名にレオナルドがあり、女性名に
レオノーラがある。
11月11日
主教マルチン 証者(397年頃)
ゴールのツールの主教。彼は幼いときに福音を知り聖アントニオに清い生涯を聞いて、洗 礼を受け
修道生活をしたいと願っていたが、なかなか機会が与えられなかった。彼は父の希望に従
って軍人になり、ゴールに派遣された。ある寒い日、彼は馬に乗って出かけた。一人の乞
食に会い、何も与えるものがなかったので、着ていたマントを軍刀で二つに切ってその半
分を乞食に与えた。その晩彼は乞食に与えた半分のマントを身にまとった主イエスの夢を
見た。彼はすぐに軍隊を退き、主教ヒラリーの教えを願い、洗礼を受けて修道院に入った
。371年頃ツールの主教が世を去ったとき、人々は彼を選び強いて主教にしてしまった
。主教になっても彼は修道生活を続け、多くの修士に父と慕われ、貧しい人々に敬愛せら
れつつ伝道に力を尽くした。この聖人について、いろいろの美しい伝説が伝えられている
11月17日
修院長ヒルダ 処女(680年)
彼女は大叔父、ノーザンブリヤ王エドウィンと共に、627年の復活前日に聖ポーリナスから洗
礼を受けた。この日こそノーザンブリヤ教会誕生の日と呼ばれ、英国教会史に一世紀を画した日で
ある。 それから20年後、彼女はウィーア川のほとりに建てられた修女院長として、聖エイダン
の指導を受け、さらに10年後にはホイットビー大修道院長に任ぜられ、多くの修士と修女とを良
く治めて偉大な感化を残した 彼女は英国の生んだ最も偉大な女性の一人と言われる。
11月22日
殉教者おとめセシリア (230年頃)
彼女はローマの名家に生まれ、乳母からキリストの福音を聞いて洗礼を受け、処女として生涯を神
にささげる決心をした。その清い美しい信仰は多くの人をキリストに導いたが、迫害のとき自宅で
殺された。いつも美しい声で神を賛美していたので教会音楽の守護聖人と仰がれるようになった。
11月23日
殉教者主教ローマのクレメンス(100年頃)
彼はローマに生まれ、真理を求めてキリスト教の信仰に入った。聖パウロがピリピ書4章3節に「命の書にしるされたるわが同労者」としてクレメンスの名を 上げてい るが、この聖人のことであるという。彼がローマ教会を代表してコリント教会に送っ書簡は、初代教会の文献として有名である。 古い殉教録によれば彼はトラヤヌス帝の迫害の時に捕らえられ、首に鎖をつけられて海に沈められたと。クレメンスともいう。 「あわれみある」という意味のある名。
「ああ神よ、私達を静けさの子供、平和の後継ぎとして下さい。
強い者は弱い者の世話をしなければならない。金持ちは貧しい人々が
必要とする物を与えなければならない。貧しい人々は、彼等の必要を満たして
下さる神に感謝しなければならない。私達は皆、互いに助け合わなければならない。
偉人は小さい人を、小人は偉人を必要とする。私達の体は、足がないと頭も
役に立たず、足は頭なしでは無用になる。私達の体も最も小さい四肢は
全身にとって役に立ち、そして必要である。」 聖クレメンス