2004-3-29
三月二十八日の丸子便り。中島さんの若い友人みすずさんが、難関の大学に合格したという。咲きこぼれるサンシュウの花の写真から切り取って載せる。こちら上野の桜は、ほぼ満開の‥。

2004-3-23
三月二十二日の丸子だより。夕暮れの雪中梅。東京は雨。

2004-3-14
この良い子達は中島さんの小さい姻戚。

ビニール袋には蕗の董が‥。

2004-3-6
先の二枚と同日のもの。数日前から、デスクトップにしている。影は勿論私である。私を見失っていると思う時がしばしばだが、影なりと、私を省みる便となるかと‥。

2004-2-27
二枚とも筑波の病院で撮ったもの。遅まきながらこの日、デジカメというものを初めて持って出た。元のサイズは1600×1200。探したけれど、花はまだこれだけ。

これがなかなか綺麗。

2004-2-22
デスクトップの様子をそれらしく作った。絵は、机の前にながく張ってあった、古い展覧会のビラの、浜口陽三のカラーメゾチントを加工したもの。実物の質感はおろか、擦れて、画集の精細と色に遠く及ばない。先ず、赤い文字を入れて、弘一独白終端の挿絵として、先頭の猿曳図と対にした。次いで、弘一独白の目次にも使った。デスクトップに使うときの背景はこの文字の色、紺色・R52G61B85。赤い「芭蕉の俳諧について」が、絵を暗くして刺々しい。葉を私の顔に見立てると、二匹の天道虫が、右に寄ってしまった目玉に見えるのである。クサノオと時々入れ替える。

2004-2-15
山麓の薄明の中に、先行者の跡を見た。いくつもあったがそのうちの一つ。やがて空は天佑のごとき青になった。と、烏帽子岳を空想して‥。

2004-2-6
快晴の元旦。中島夫妻の、雪山行の二枚を戴いた。烏帽子岳2065.6Mへ。

山頂。これを見て羨望しない者があろうか。

2004-2-1
昨秋の荒川土手、日曜日の午後。遠くで見ている私と、孫と犬を、妻が写した。

これも妻が写した。コスモスと孫。

2004-1-31
暫らく前の、私のデスクトップにあった、2001年末の集合写真。毎日友人たち(私も入っている)が、揃って私を見た。稲見久雄君は、故人となって、此処にはいない。松本誠君は、病変がごく初期段階にあるのを知って、間もない頃だ。

2004-1-27
カウンターを外した。動かない数字を見るためにだけ、カウントされてゆくなんて、莫迦なことだ。それに、カウンターを機能させながら更新するのには、Wordだけでは無理のようで、気楽に表紙を弄れないのだ。大きな緑色に光る数字がなくなってみると、やはり、絵柄が寂しい。そこで大門出口の柳を、また二つに切って前後にわけてみた。さらに大方のHOME PAGEに倣って、400×300ほどの写真を一枚、二枚、表紙を飾ることにした。新しいものに取り替えたら、古いものは弘一独白に移すことにする。
2004-1-26
現在の私のデスクトップの絵。画面いっぱいに大きいと、隅々まで美しい。中島さんに戴いたもの。2003-5-25 の撮影。その翌日に戴いた。花の名をクサノオという。丸子のどこに咲いた花だろうか。

2004-1-19
これは、三年近く前に、尾形仂先生の朝日カルチャーセンターのご講義を聞きながら、思い付きを書いたもの。ご講義はどんどん進み、一文は、何の接ぎ穂もなくて取り残された。せめて発句の解釈だけなりと追加して体裁を作ろう、としながら日数が過ぎ、ようやく単に二つを並べる、ということになった。
〇
炭俵「梅が香に」歌仙の八句目の前後について ― 輪廻についてなど ―
‥
六 藪越はなすあきのさびしき 野坡
七 御頭へ菊もらはるゝめいわくさ 仝
八 娘を堅う人にあはせぬ 芭蕉
九 奈良がよひおなじつらなる細基手 野坡
十 ことしは雨のふらぬ六月 芭蕉
‥
この九句目について、「おなじつらなる」の語は、「山家集」日本古典全書・伊藤嘉夫校注(以下も同じ)の中に探すことができる。多分、次の(西行法師家集の)歌2107一首の語だ。八句目の解釈を、まず目に付いたこの歌から逆に尋ねていく。
撫子のませに瓜の蔓はひかかりたりけるに、小さき瓜どものなりたりけるを見て人の歌よめと申しければ
撫子のませにぞかかるあこだ瓜
おなじつらなる名をしたひつつ
伊藤嘉夫注には、「なでしこの咲いてゐる籬にあこだ瓜がなってゐるのを詠んだもので即妙の味があるはずだがわかりにくい。あこだ瓜はへうたん科の蔓性植物で実は赤い。なでしこの子とあこだのあこ(吾子)とが同じく、子の縁とでもいふのか。」とある。「即妙の味」というのは、この歌が俳諧歌に属すべきことを言うのか、と理解したいが、このまま恋の気分を汲むことまでは無理かもしれない。しかし多くの撫子の歌の助けを借りるならば、俳諧がこれを恋にもどき読むことはできるだろう。「奈良がよひ」の「かよひ」と相俟ってこの句は、「おなじつらなる」の語でも恋句なのだ。そして「細基手」は、詞書きの「小さき瓜(売り)」から導く。九句目はこのように、西行歌一首を明示したのだが、それは前句の芭蕉がかけた謎を解く、その答案の眼目であった。
八句目はまことに難しい句だ。例えば、「芭蕉七部集」新日本古典文学大系・白石悌三校注を見ても、「頑固一徹で愛娘を人前に出さないの意。前句の話者の堅気な性格を具象化した。娘は恋づく年頃で、折りあらば言い寄る男性も多いことを暗示して、恋。」と注釈される。しかし、「前句の話者の堅気な性格を具象化した。」とは奇妙だ。この説明では、輪廻であると言うのと少しも変わらない。それなら去来抄に、「蕉門の付句は前句の情を引来るを嫌ふ」というのより以上の禁忌であるはず。「菊」は平凡ながら多くの女の子の名前であり、それが「もらはるゝ」とあれば、丹精したこの花はすでに彼の愛娘同然である、と七句目は言っているだろう。この句は「菊」を貰われるのだが、常夏の花つまり撫子を所望されて断りを言う歌がある。古今和歌集夏歌167、
隣より常夏の花を乞ひにおこせたりければ、惜しみてこの歌をよみて遣わしける
躬恒
塵をだに据ゑじとぞ思ふ咲きしより
妹と我が寝るとこなつの花
また、同集雑躰旋頭歌1007と1008もこの類いか。
題知らず よみ人しらず
うちわたす遠方人にもの申す我
そのそこに白く咲けるはなにの花ぞも
返し
春されば野辺にまづ咲く見れど飽かぬ花
まひなしにただ名のるべき花の名なれや
古来名歌に、夏または春の花ならばこれら断りをいう例しもあるが、秋の花にはない(かのように見える)。だから、六句目の「あきのさびしき」に応じて、七句目の組下は、御頭の迷惑な風雅につき合わなければならなかった。さらに秋の花には「菊」ではなく女郎花だが、次の歌もある。後撰和歌集秋中348。
相撲の還饗の暮つ方、女郎花を折りて、敦慶親王のかざしにさすとて
三条右大臣
女郎花花の名ならぬ物ならば
何かは君がかざしにもせん
年ごろ、家のむすめに消息かよはし侍けるを、女のためにかるぐしなど言ひて、許さぬ間になん侍ける
組下にも花のような娘があって、親としての更なる迷惑があるのかもしれぬ、と想像される。さらに山家集1355の歌
おなじくはさきそめしよりしめおきて
人にをられぬ花と思はむ
を援用すれば、八句目、芭蕉句は前句をなぞって、何の働きもないかに見える。あたかも、これは付句になっていない、という深刻な謎が掛けられたことになる。
九句目の野坡が付けあぐんだというのではない。撰集の読者が、野坡の先に謎につまづいて苦しんでいるのだ。
「娘は恋づく年頃で、折りあらば言い寄る男性も多いことを暗示して、恋。」、恋句はいかなる恋か、解釈は、世に娘とさえあれば言い寄る男なるものが多いのについては詳しいようだが、この恋は堅く封じられて、箱にしまい込まれたような娘の顔は見えないはず。芭蕉の捌きを受けずに、連衆も知らない読者が、どうして躓かないでいられようか。謎を見ようともせず、なぜ諸注釈がその在処を跨ぐようにするのか、いまその事情には興味がないのだが‥。
八句目、芭蕉句の「娘」は、妾(わたし)と読み替えるのが良い。前句、めいわくなのは組下の娘だ。父親は、御頭に菊を召し上げられながら、「この菊が花の名でないものならば」くらいのことは言上しているだろう。なんて迷惑なこと。同じことならば、古今和歌集秋歌下268、伊勢物語第五十一段の歌
人の前裁に、菊に結びつけて植ゑける歌 在原業平朝臣
植ゑし植ゑば秋なき時や咲かざらむ
花こそ散らめ根さへ枯れめや
と言ってほしかった。解釈は、誰とも知れぬ男達を作り出すよりは、閉じこめられて恋に身を焼く娘を思いやるべきだった。古今和歌集雑体誹諧歌1030、
小野小町
人に逢はむつきのなきには思ひおきて
胸走り火に心焼けをり
「胸は尻火に」と書かれもするこの歌は娘のものだ。父親よりも物語の夢に育てられる少女にとって、娘を閉じこめる父親より迷惑なものがあろうか。読者の特権を使えば、前後の七、九句目の陰に何れも撫子が見えるので、八句目の娘も撫子である。源氏物語「常夏」の光源氏の歌。
なでしこのとこなつかしき色を見ば
もとの垣根を人やたづねむ
先に見た、躬恒の常夏の歌の効験などは、物ともしないこの歌に対して、憧れの玉鬘の歌は、
山がつの垣ほに生ひしなでしこの
もとの根ざしをたれかたづねん
組下の家のような、「山がつの垣ほ」である薄倖の生い立ちは、却って移し植えられた少女が、「はかなげに聞こえないたまへるさま、げになつかしく若やかなり」と描かれるための要件である。少女はどのように庇護されるのか、野分の風の機会をとらえて甘え、女郎花によって男を試してみる。「野分」の玉鬘の歌、
吹きみだる風のけしきに女郎花
しをれしぬべき心地こそすれ
すると、光源氏の答歌は、
した露になびかましかば女郎花
あらき風にはしをれざらまし
作者は、「聞きよくもあらずぞ」と韜晦の草子地をさしはさむのだが、七句目、野坡句が読んだに違いない後撰和歌集の女郎花には、幸いの物語の大樹の下では、この贈答のように世のあらき風も避けて吹く。
九句目の野坡は、一瞬怯んだかもしれない。確かに野坡の組下は、すでに女である娘の現在の心情に気づいていなかった。真実、娘のために軽々しい恋は決して許さぬつもりだったから。八句目に芭蕉が出すであろう恋を、なるべく困難なそして手の込んだものとして呼び出すために、七句目に封じておいた恋を、芭蕉は悠々とそっくりそのままで出してきた。裏返して見ると、そこには心焼けるような、「人に逢はむつきのなき」恋があった。
九句目、前句の物語の夢にも、打越の撫子があるのを見て、西行法師家集の撫子の歌を使った。輪廻の謎に答えたものだ。そして、伊勢物語第二十三段筒井筒の章に、「河内がよひ」というものがあるのなら、逆さまに「奈良がよひ」もあるだろう。河内の国、高安の郡から大和に通うので、西行法師家集の歌の、「小さき瓜」によく合い、この恋は商売がらみだ。身上も釣り合う。娘というものは、どれほど堅く禁じて人に逢わせぬようにしようとも、末はどうにかこうにか片づけなければならない。
西行法師も、「小さき瓜」を詞書きに用いるならば、ませに咲いた撫子を、「しめおきて人にをられぬ花と思はむ」というのは、次の贈答によってついに無理だ、というのを承知しているだろう。撫子の歌の「即妙の味」というのはこの歌を思い寄せるせいか。拾遺和歌集雑下557と558の贈答、
三位国章小さき瓜を扇に置きて、藤原かねのりに持たせて、大納言朝光が兵衛佐に侍ける時遣はしたりければ
音に聞くこまの渡の瓜作り
となりかくなりなる心哉
返し
定めなくなるなる瓜のつら見ても
立ちや寄りこむこまのすき者
「となりかくなりなる」というのは、藪越=隣の縁から、野坡が六句目で見付けておいたものらしい(詳しくは略す)。だから、芭蕉句に驚きはしても、野坡流の恋の準備はしてあった。
さて、十句目。前句、野坡がこの句に批判を待って、自らを「おなじつらなる細基手」と称して神妙なのを見て、去年の「奈良がよひ」は雨が多かったことを寄せる。伊勢物語第二十三段、高安の女は、雨の中を難所を越えて奈良に行く男を気遣って、
君があたり見つつををらむ生駒山
雲な隠しそ雨は降るとも
と詠んだ。他に、伊勢物語第百七段で、「雨の降りぬべきになむ。見わづらひべる。身さいはひあらば、この雨は降らじ」と優柔不断であった藤原敏行に、業平が雨の中の恋を指南する。
数々に思ひ思はず問ひがたみ
身を知る雨は降りぞまされる
敏行はこの歌を賞でて、「蓑も笠も取りあへで、しとどに濡れてまどひ来にけり。」というようであったけれども、さて、今年の六月は雨が降らないだろうという芭蕉の推測。梅雨明けの炎暑の中を、あつかましく変わり映えもしない俳諧の細基手は、恋の指南も不要となって、つまり、もう身の程を知る機会はないままに、良く稼ぐことだろう。八句目以来の二人の話柄の恋は、俳諧の別名であった。
2004-1-17
次の二句は、猿蓑前後の句とだいぶ趣きが違っているので、小論の置き場所をしばらく此処にする。炭俵「梅が香に」歌仙中の数句について思い付いたものがあって、それと併せて、一文とする積もりだった。他の論文と関連は少ない。今のところ、所謂寄り道である。