
猿蓑「鳶の羽も」歌仙私解 ― 発句 ―
発句 鳶の羽も刷ぬはつしぐれ 去来
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一、鳶
一、「詩経」大雅「旱麓」に、天子の徳化のよく及んでいるさまを言う一節。「詩によって、多く鳥獣草木の名を識る」という、見慣れたあの鳥の名を、あらためて詩によって識るのである。
鳶飛戻天 鳶飛んで天に至り
魚躍于淵 魚は楽しく淵に躍る
豈弟君子 安らけく楽しき君は
遐不作人 げに人を作興したもう
二、一方歌は、鳶について、去来が連衆に示すことができる歌は、枕草子が言うとおり、一つもない。徒然草が、「古今著聞集」の逸話から拾った鳶も、何の故とも知らず、徳大寺家の寝殿から追い払われた。
枕草子(春曙抄)三十九段「鳥は」で、鴬について言う部分に、夏秋の末まで未練がましく、老声に鳴く鴬の評判を惜しむそのついでに、「鳶、烏などの上は、見入れ聞き入れなどする人、世になしかし」、鳶・烏などの、評判が悪いに決まっているものにたいしては、いまさら誰も何も言わないのだが、として触れた。
そして徒然草第十段の後半、この本に一度だけ西行が登場する章段に、鳶と烏が出てくる。西行の、「鳶のゐたらんは、何かはくるしかるべき。」と、兼好の、「徳大寺にも、いかなる故か侍りけん。」という、二人の感想がある。
三、枕冊子(春曙抄)三十九段「鳥は」が、これに拠っただろう鳥尽くしの詩、白楽天新楽府「秦吉了 哀寃民也 秦吉了 寃民を哀むなり」(其四十八。鳥にたとえて無実の罪に泣く人民をあわれむ詩。)の中に、鳶と烏が対になって、乳燕と母鷄を襲う。
四、枕冊子は知らなかっただろう、李白詩「戰城南 城南に戦う」に、烏と鳶は、野垂死した兵士の腸を啄む、救われぬ生き物として出てくる。
五、そして、「文選」巻二十七楽府上・曹子建(曹植)楽府四首の内、「名都篇」。その前半を引く。洛陽の貴公子たちの優雅な生活を描いた楽府詩の飛鳶。これは史邦の時雨句に任せられたようである。
名都多妖女 名都 妖女多く、
京洛出少年 京洛 少年を出す。
寶劍直千金 宝剣は直 千金、
被服麗且鮮 被服は麗く且つ鮮かなり。
鬪鷄東郊道 鶏を闘わす 東郊の道、
走馬長楸間 馬を走らす 長楸の間。
馳騁未及半 馳騁 未だよく半ばせざるに、
雙兔過我前 双兎 我が前を過ぐ。
攬弓捷鳴鏑 弓を攬り鳴鏑を捷え、
長驅上南山 長駆 南山に上る。
左挽因右發 左に挽き因って右に発し、
一縦兩禽連 一たび縱って 両禽を連ぬ。
餘巧未及展 余巧 未だ展ぶるに及ばず、
仰手接飛鳶 手を仰げて飛鳶を接る。
観者咸稱善 観る者 咸な善しと称い、
衆工歸我妍 衆工 我に妍を帰す。
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二、枕草子と白楽天の鳶
鳶を、枕草子は、「春曙抄」三十九段「鳥は」の中に、一文字しか使わずに、確かに、「見入れ聞き入れ」しなかった。けれど、烏は、同一段「春は曙」に、
‥秋は夕暮。夕日花やかにさして、山ぎはいと近くなりたるに、烏のねどころへゆくとて、三つ四つ二つなど飛びゆくさへあはれなり。‥
と、出したのを始めとして、「にくきもの」、「騒がしきもの」と言いながら、幾つも書いた。夜烏、明け烏についても書いている。「烏夜啼」という、古い楽府題があるのが、その主な理由だろう。烏の、反哺の孝を、褒めるつもりもあるのだろう。凡兆が烏について、「烏憎之文」を作ったが、不出来なのを大いに叱られ、芭蕉に取り上げられて、「烏の賦」となったのは、〔六五〕芭蕉書簡で見た。凡兆は烏を選んで失敗し、去来はこれに対して、鳶の方を選んだかのように見える。
枕草子(春曙抄)三十九段は、
鳥は ことどころの物なれど、鸚鵡いとあはれなり。人のいふらむことを眞似ぶらむよ。‥
と始まる。大化三年に、始めて新羅から渡来したという、鸚鵡一雙の子孫を、または、その次々の機会に渡来した、生きた鸚鵡を、現実にその目で見た人から、こうと聞いたのではない。はるか後に、李白詩「襄陽歌」の、鸚鵡貝の杯に倣って、良經が手に入れた羽爵杯とは違って、鳥の鸚鵡は、「文選」巻十三の「鸚鵡賦」によって見るものだった。その姿形が珍奇で色合いが派手なことを、「いとあはれ」というのではなく、賢くてよくものを言うのを誉めたのだが、同じ能力ならば、白楽天詩・新楽府「秦吉了 哀寃民也 秦吉了 寃民を哀むなり」(其四十八。鳥にたとえて無実の罪に泣く人民をあわれむ詩。)の、秦吉了にもある。
秦吉了 秦吉了
出南中 南中に出づ
彩毛青黒花頸紅 彩毛青黒にして花頸 紅なり
耳聰心慧舌端巧 耳聡くして心慧しく 舌端巧みなり
鳥語人言無不通 鳥語と人言と通ぜざる無し
昨日長爪鳶 昨日 長爪の鳶
今朝大觜烏 今朝 大觜の烏
鳶捎乳燕一窠覆 鳶は乳燕を捎めて一窠覆えり
烏啄母鷄雙眼枯 烏は母鶏を啄みて双眼枯る
鷄號堕地燕驚去 鶏は号びて地に堕ち燕は驚き去る
然後拾卵攫其雛 然る後 卵を拾い其の雛を攫む
豈無G與鶚 豈にGと鶚と無からんや
嗉中肉飽不肯搏 嗉の中は肉に飽きて肯えて搏たず
亦有鸞鶴羣 亦た鸞鶴の群有れども
閑立颺高如不聞 閑に立ち颺がること高くして聞かざるが如し
秦吉了 秦吉了
人云爾是能言鳥 人は云う 爾は是れ能言の鳥なりと
豈不見鷄燕之寃苦 豈に鶏燕の寃苦を見ざらんや
吾聞鳳凰百鳥主 吾聞く 鳳凰は百 鳥の主なりと
爾竟不爲鳳凰之前致一言 爾 竟に鳳凰の前に一言を致すを為さずんば
安用噪噪閑言語 安くんぞ噪噪たる閑言語を用いんや
秦吉了は、九官鳥の類で、広東、雲南地方に産した。テキストは、「この詩、鶏燕を寃民、鳶烏を貪吏、G鶚・鸞鶴を高位の文武官、鳳凰を天子、秦吉了を諌官にたとえ、全編比喩でうたう」と注する。
諷諭詩―政治を批判し、社会を風刺する詩における、平安女流の教養の一端を、「紫式部日記」(「紫式部日記・紫式部集」山本利達校注・新潮日本古典集成)で見てみる。
宮の、御前にて文集のところどころ読ませたまひなどして、さるさまのこと知ろしめさまほしげにおぼいたりしかば、いとしのびて、人のさぶらはぬもののひまひまに、をととしの夏ごろより、楽府といふ書二巻をぞ、しどけなながら、教へたてきこえさせてはべる、隠しはべり。宮もしのびさせたまひしかど、殿もうちもけしきを知らせたまひて、御書どもをめでたう書かせたまひてぞ、殿はたてまつらせたまふ。まことにかう読ませたまひなどすること、はたかのものいひの内侍は、え聞かざるべし。知りたらば、いかにそしりはべらむものと、すべて世の中、ことわざしげく、憂きものにはべり。
「中宮(彰子)が、私に御前で白氏文集の所々をお読ませになったりして、そうした詩文の学問をお知りになりたそうに思っておいでであったので」、極く内々に、「白氏文集」巻三・四の、新楽府五十首を進講したのである。これが道長に見付かり、主上の知るところとなっても、中宮彰子が唐土の諷諭詩によって何を学んだのか、その徴は表に顯れることはないのだろう。こうして書くほどだから、中宮は熱心な生徒だった。読む本の標題を隠し、次にはその影響を隠す。女は詩を作らないが、一方、男は詩というものを作るのについて、手本に何を使ったのか、明らかにしてしまう虞れがあった。大江維時は、「千載佳句」(天慶九年(946)ごろ)一〇八三聯のうち、「白氏文集」からは四八七聯、その内で、巻三・四からは二聯だけを選んだ。諷諭詩こそは詩の本領にして、読んで面白く、最も教授しがいがあるものだろう。しかし、これに触れることが危険なのは、詩が一聯づつのばらばらな、手本の姿になり果てていても、かわりがない。その切れ端から、かって白楽天が自ら、「白氏文集」巻二十八「元九に与うる書」の中で、諷諭詩が発表されるごとに、
権豪貴近の者は、相見て色を変え、政柄を執る者は扼腕し、軍要を握る者は切齒す
と言った力を及ぼしたものとして、誰かがどこかで、復元するかもしれない。こんなに目立つ、危険な手本の真似をしたら、軽薄者の烙印を捺される。「紫式部日記」は、清少納言を評して、
清少納言こそ、したり顔にいみじう侍りける人。さばかりさかしだち眞名書きちらして侍るほども、よく見れば、まだいとたへぬこと多かり。かく、人にことならむと思ひこのめる人は、かならず見劣りし、行くすゑうたてのみ侍れば、艶になりぬる人は、いとすごうすずろなるをりも、もののあはれにすすみ、をかしきことも見すぐさぬほどに、おのづからさるまじくあだなるさまにもなるに侍るべし。そのあだになりぬる人のはて、いかでかはよく侍らむ。
と、書いた。女の場合は、真名を書く、つまり学問をするのさえ非難の対象となったようだが、その声に処する術の稚拙を指摘するのではない。それよりも、「風流を気取ることになった人は、ひどく殺風景で何でもない時でも、しんみりと感動しているように振舞い、興あることを見逃さないようにするうちに」、折角の学識を、「人にことならむ」がために動員し、援用して、ついには、「あだなるさま」を見せるのを惜しむのである。香鑪峰の雪の話(「春曙抄」二百六十一段)など、いろいろと雅気を見せたつもりの章段のほかにも、隠そうとしたのであろう詩や本説で、じつは隠れていないものが多い。この人の所為で、女の学問はこんな程度だと思われてしまう。詩想を借りて、「いとすごうすずろなるをり」にも、興趣をでっちあげようとする軽薄・軽率な態度を憎むのである。やがては女にも本当の危険が及ぶ。
「文選」巻十三の「鸚鵡賦」の解題を、「文選上」高橋忠彦訳・中国の古典23で見てみる。
曹操・劉表に容れられず、江夏大守黄祖の客となっていた禰衡が、その長子黄射の宴席上で作った賦という。黄祖の手で、二十六歳で殺される(一九八年)直前の作品。献上された鸚鵡に、才能がありながら流寓を続ける我が身の鬱悶を託しているが、全体として、現在の主人に忠誠を尽くそうという主題が前面に出ている。儀礼上、そうしたのと同時に、自分を厚遇する黄射への本心も含まれていよう。
この、鸚鵡である禰衡の、「其の辞に曰く」
惟れ西域の霊鳥なり、自然の奇姿を挺でたり。金精の妙質を体し、火徳の明Wを含めり。性辯慧にして能く言い、才聰明にして以て機を識る。
のと、白楽天その人の任務である左拾遺・皇帝の諌官に譬えた、秦吉了とを比べれば、「鳥語と人言と通ぜざる無」きところは同じながら、人の正しく行くべき道はどちらだろうか、少なくとも、二篇の詩と賦と、面白さに於いても、雲泥の相違があるのだ。
清少納言が、本当に鸚鵡の方が好きならば(確かに哀れな鸚鵡だから同情して)、それは、この国にも似たものが幾人もいるので、親しく感じるからである。秦吉了に似た凛々しいものは、一人もいないのだから仕方がない。あるいは、一般に区別がなされなかった。「性辯慧にして能く言い、才聰明にして以て機を識る」とあるのを直して、「人のいふらむことを真似ぶらむよ」と書いたが、まったくそのように、この国の鸚鵡たちの能力は、唐土の言語をよく真似ることで計られた。
何気ないように見せておいて、鳶と烏が一緒に現れるのだ。秦吉了に退治して貰いたかった者共を仄めかした。詩文の気配は、すっかり隠したつもりだが、万が一知られたって、作者もその効果を深く意識しない、「なぞ」を解くほどの者が、女に仇をなすはずがない。老声に鳴く鴬は、「白氏文集」巻二の、秦中吟十首のうち、「不致仕」に諷諭する、老いてなお官職に未練を持って退職しない士大夫の真似をする人なのである。枕草子(春曙抄)三十九段も、白楽天詩を真似て、鳥尽くしである。長いので、鴬について書く部分を写す。
鶯はふみなどにもめでたき物に作り、聲よりはじめて、様かたちも、さばかりあてに美しき程よりは、九重のうちに鳴かぬぞ、いとわるき。人の「さなむある」と云ひしを、さしもあらじと思ひしに、十年ばかりさぶらひて聞きしに、まことに更に音もせざりき。さるは竹も近く、紅梅もいとよく通ひぬべきたよりなりかし、まかでて聞けば、あやしき家の、見所もなき梅などには、花やかにぞ鳴く。夜鳴かぬも、いぎたなき心地すれども、今はいかがせむ。夏秋の末まで、老聲に鳴きて、蟲喰など、ようもあらぬ者は、名を附けかへていふぞ、口惜しくすごき心地する。それも雀など様に、常にある鳥ならば、さも覺ゆまじ。春鳴く故こそはあらめ。「年立ち返る」など、をかしきことに、歌にもふみにも作るなるは、猶春のうちならましかば、いかにをかしからまし。人をも人げなう、世の覺えあなづらはしうなり初めにたるをば、謗りやはする。鳶、烏などの上は、見入れ聞き入れなどする人、世になしかし。されば、いみじかるべきものと、なりたればと思ふに、心ゆかぬ心地するなり。
「人をも人げなう、世の覚えあなづらはしうなり初めにたるをば、謗りやはする」、人間だって、落ちぶれて、世間から見下げられるようになった人を、こと改めて、追い討ちをかけて、非難するといったことがあろうか。これはいったい反語なのだろうか。多分そうだ。これが、清少納言の、「不致仕」を理解することの要約である。しかし、詩を真に受けて致仕すれば忽ちに、「世の覚えあなづらはしうなり初め」て、かえって鳶・烏の攻撃を受けるのが世の習いなのは明らかで、この優しい願いも無力である。もしも枕冊子が、世の人でなしに向かって物を言おうとしたのなら、「紫式部日記」は、これを危ないと言っているのだ。災厄は彼女のみに留まらない。
諷諭詩「不致仕 致仕せず」も写しておこう。枕草子は、鶯は、宮中では鳴かないと言って、ごまかした。名前だけは聞く高官だが、出仕しないので見たことがないというのだろうか。
七十而致仕 七十にして致仕するは
禮法有明文 礼法に明文あり
何乃貪榮者 何ぞ乃わち栄を貪る者
斯言如不聞 斯の言を聞かざる如くする
可憐八九十 憐れむ可し 八九十
歯墮雙眸昏 歯は堕ち 双つの眸は昏めるに
朝露貪名利 朝露に名利を貪り
夕陽憂子孫 夕陽に子孫を憂う
挂冠顧翠綏 冠を挂けんとして翠綏を顧りみ
懸車惜朱輪 車を懸けんとして朱輪を惜しむ
金章腰不勝 金章に腰の勝えざるに
傴僂入君門 傴僂して君門に入る
誰不愛富貴 誰か富貴を愛せざる
誰不戀君恩 誰が君恩を恋わざる
年高須告老 年高けて須らく老を告ぐべし
名遂合退身 名遂げては合に身を退くべし
少時共嗤誚 少時は共な嗤誚するも
晩歳多因循 晩歳 多くは因循す
賢哉漢二疏 賢なる哉 漢の二疏
彼獨是何人 彼独り是れ何人ぞ
無人繼去塵 人の去塵を継ぐ無し
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三、徒然草と大雅「旱麓」の鳶
徒然草第十段の後半に、この本に一度だけ、西行が登場する。
後徳大寺大臣の、寝殿に、鳶ゐさせじとて縄を張られたりけるを、西行が見て、「鳶のゐたらんは、何かは苦しかるべき。この殿の御心さばかりにこそ」とて、その後は参らざりけると聞き侍るに、綾小路宮の、おはします小坂殿の棟に、いつぞや縄を引かれたりしかば、かの例思ひ出でられ侍りしに、「まことや、烏の群れゐて池の蛙をとりければ、御覧じかなしませ給ひてなん」と、人の語りしこそ、さてはいみじくこそと覚えしか。徳大寺にも、いかなる故か侍りけん。
枕草子では、燕子に対する鳶の所業は、新楽府「秦吉了」によって明らかとなったが、ここは、晴れた日の空に輪を描く鳥を景物にして、「詩経」大雅「旱麓」の、天子の徳化のよく及んでいるさまを言う一節、に拠っているだろう。
鳶飛戻天 鳶飛んで天に至り
魚躍于淵 魚は楽しく淵に躍る
豈弟君子 安らけく楽しき君は
遐不作人 げに人を作興したもう
西行は、実能−公能−実定という、徳大寺家の三代に親近した。そういう西行の、「この殿の御心さばかりにこそ。」という、たてだてしい断定は、後徳大寺大臣・実定が、「詩経」三百篇を知らない人だという愛想づかしをしたのだ。「與に詩を言う」事ができない人だ、と読んで、ようやく理解できそうだ。詩について多く引くまでもないが、「論語」陽貨第十七の九
子曰、小子、何莫學夫詩、詩可以興、可以觀、可以群、可以怨、邇之事父、遠之事君、多識於鳥獸草木之名、
子の曰わく、小子、何ぞ夫の詩を学ぶこと莫きや。詩は以て興こすべく、以て観るべく、以て群すべく、以て怨むべし。邇くは父に事え、遠くは君に事え、多く鳥獣草木の名を識る。
兼好法師は、おそらくそのように書いている。それにしても、後段の、鳶と烏の話が、次の、徒然草第十段の前半の、何による連想なのか、繋がりがはっきりしない。
家居のつきづきしく、あらまほしきこそ、仮の宿りとは思へど、興あるものなれ。
よき人の、のどやかに住みなしたる所は、さし入りたる月の色も一きはしみぐと見ゆるぞかし。今めかしく、きらゝかならねど、木立もの古りて、わざとならぬ庭の草も心あるさまに、簀子・透垣のたよりをかしく、うちある調度も昔覺えてやすらかなるこそ、心にくしと見ゆれ。
多くの工の、心を尽してみがきたて、唐の、大和の、めづらしく、えならぬ調度ども並べ置き、前栽の草木まで心のまゝならず作りなせるは、見る目も苦しく、いとわびし。さてもやは長らへ住むべき。また、時の間の烟ともなりなんとぞ、うち見るより思はるゝ。大方は、家居にこそ、ことざまはおしはからるれ。
旅の空ならぬ、つきづきしい家居もまた、仮の宿りであると、自然に口にされる。これは、特に釈教の思想によらず、詩によっても耳に馴染んでいる事だ。白楽天詩・新楽府「杏爲梁 刺居處奢也 杏を梁と為す 居処の奢を刺るなり」(其三十九、邸宅の豪奢さをそしった詩)。
杏爲梁 杏を梁と為し
桂爲柱 桂を柱と為す
何人堂室李開府 何人の堂室ぞ 李開府なり
碧砌紅軒色未乾 碧砌 紅軒 色未だ乾かざるに
去年身没今移主 去年身没して 今 主を移せり
高其牆 其の牆を高くし
大其門 其の門を大いにす
誰家第宅盧將軍 誰が家の第宅ぞ 盧将軍なり
素泥朱板光未滅 素泥 朱板 光未だ滅せざるに
今歳官收別賜人 今歳 官収めて別の人に賜う
開府之堂將軍宅 開府の堂 将軍の宅
造未成時頭已白 造りて未だ成らざる時 頭已に白し
逆旅重居逆旅中 逆旅 重ねて逆旅の中に居る
心是主人身是客 心は是れ主人 身は是れ客
更有愚夫念身後 更に愚夫の身後を念う有り
心雖甚長計非久 心甚だ長しと雖も計久しきに非ず
窮奢極麗越規模 奢を窮め麗を極めて規模に越え
付子傳孫令保守 子に付し孫に伝えて保守せしむ
莫教門外過客聞 門外の過客をして聞かしむる莫かれ
撫掌廻頭笑殺君 掌を撫し頭を廻らして君を笑殺せん
君不見馬家宅尚猶存 君見ずや 馬家の宅は尚お猶お存し
宅門題作奉誠園 宅門題して奉誠園と作すを
君不見魏家宅属他人 君見ずや 魏家の宅は他人に属せしも
詔贖賜還五代孫 詔し贖いて五代の孫に賜還せられしを
儉存奢失今目在 倹は存し奢は失う今目に在り
安用高牆圍大屋 安くんぞ高牆の大屋を囲むを用いんや
詩の中では、杏の梁、桂の柱の主人が交替する方法は、この国の万事に穏やかな政治とは行き方が違う。「心是主人身是客」、これを、「さてもやは長らへ住むべき」と翻訳する。この国にお上による、財産の没収の例がないことはないだろうが、過客たちの逆旅の滞在期間は、唐土よりやや長くて、この世に止まる身体の寿命と、ほぼ等しい。その家も人も、「時の間の烟ともなりなんとぞ、うち見るより思はるゝ」、火事と葬式の煙が、磨き立てた家居から立ちのぼるのが見えるようだ、と言うのは、明らかに釈教の言葉だ。
諷諭詩の精神が、この国の風土が洗練してきた釈教の思想と、そして歌の穏やかな文脈に、置き換えられて行く。徒然草第十段の、前半と後半を繋ぐ手法が、この国で詩文を受容する、その一例を示しているというべきではないか。前半と後半のどちらもが、「よき人」が、のどやかに住みなしたる家居の出来事について、言うのだった。詩には登場しない類型の、国風の徳目を体現した、「よき人」が、唐土の君子の代役をしている。綾小路宮は、かの古今和歌集仮名序の、「水にすむかはづ」が、烏に食われるのを悲しまれたと言うのだった。この本に、「よき人」を誉めて、ことさら君子を貶める意図はないようだが、発想の立場は、どちらかと言えば、「文選」「鸚鵡賦」の作者に近い。漢才から大和魂へ、唐風から国風へという、翻案劇の発明は、俳諧の作者が羨むべきものだった。この段の末尾が、「徳大寺にも、いかなる故か侍りけん」と、易しい「なぞ」を訊いているのを、一般に評釈は注意しない。徳大寺家の鳶は、これも古今和歌集仮名序の、「花に鳴く鴬」を襲うのだった。枕草子が惜しんだ、老声に鳴く鴬でもある。(郭公のためにという別解もある。後徳大寺左大臣実定の百人一首歌によって解くのである。)兼好法師が鳶の名を識るのは、詩によってばかりではなかった。この現実主義者である随筆家の知恵に学べば、秦吉了が働いて鳶を懲らしめるという、空想の余地もないのである。
「紫式部日記」が、清少納言を非難したのは尤もなことだ。徒然草は、枕草子(春曙抄)三十九段が、白楽天新楽府「秦吉了」を、そして、八九十となった老鶯によって言う、諷諭詩「不致仕」を隠した手つきを見つけ、それに範をとりながら、詩文の危険な効験そのものを封じ込めた。徒然草に限らない、枕冊子の雅趣は、このようにして、容易に去来にも見えている。あるいは、去来は枕冊子に、そして徒然草に、これら片々たる章段にも顕れた、詩文の受容の機微を学んだ。
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四、李白の鳶
鳶が、李白詩「戰城南 城南に戦う」の詩句に言う、救われぬ生き物でもあるとは、たぶん枕草子は、そして徒然草も知らない。そもそも、唐土の辺境で繰り返された悲劇は、この国の作家たちの視野に入らなかった。
去年戰桑乾源 去年は桑乾の源に戦い
今年戰葱河道 今年は葱河の道に戦う
洗兵條支海上波 兵を洗う 条支海上の波
放馬天山雪中草 馬を放つ 天山雪中の草
萬里長征戰 万里 長えに征戦
三軍盡衰老 三軍 尽く衰老
匈奴以殺戮爲耕作 匈奴 殺戮を以て 耕作と為す