橋姫(はしひめ)

 

 

  十、鳶の羽も

 

 

 

 芭蕉が、故郷に錦を着て帰る、と言う者がある。江戸の連衆は、とくに露沾が、「おくの細道」の餞別句で、早くもそう言っていた。加賀の連衆もそうであろう。「おくの細道」の、各地の連衆の態度は、古風になずんだ俳諧を、芭蕉の顔を見るやいなや、自ら競って捨ててかかるかのようだった。朝日将軍義仲のように、芭蕉の新風は、全国の俳諧を制覇して、伊賀に凱旋した、と。旅の後にも、「卯辰集」「ひさご」、そしてこの猿蓑と、撰集の計画が相次いで、芭蕉その人は、何か文学ではないもの、それ以外の勝利を、すなわち名利を手にしたという、この噂の悪質な部分は、項羽と義仲の運命にも、牽強付会されながら、牢固として、現代に持ち越されているのだ。

 故郷に錦を着て帰る、という物言いには、事がすでに成った、とする響きがある。古風は廃れ、すでに俳諧は新風に移った。新風は、あまねく人々に及ぶ、と。噂の最も素朴な部分であるが、とんでもない話だ。暑かりし夏、悲しかりし秋を旅して、芭蕉が、どれほど草臥れ、落胆したか知らないで言うのだ。「おくの細道」の出立に際して、「みちのく・三越路の風流佳人もあれかしとのみに候(芭蕉書簡元禄二年三月二十三日付落梧宛)」と告げた旅であった。陸奥の花々は、都近い井手の山吹と同じで、とうに盛りを過ぎて散り果てていた。大国加賀の早生稲の香も、嗅いで過ぎたばかりで、これからどうなるものか知らない。芭蕉その人の俳諧は、新しい展開を見せることになっても、繍衣を噂する、君たちの俳諧の旧態をどうするのか。旧態を捨てるだけでは、新しい俳諧に移れないのに。小蓑の句は、この噂の横行を踏まえている。繍衣のかわりに、「あやひねるささめのこみの」だと言って、いまは通じなくても、「卯辰集」が求め、猿蓑が、巻頭に置くのならば、いずれ、「此道のおもて起べき時」は、撰集にしばらく遅れてやってくるだろう。

 鳶の羽とは、脱ぎ着ができない、言う甲斐のない、生得の衣装を顧みて言うのだ。鳶は、「涙さへ時雨にそへて」ふる、故郷を捨てた者、もしくは放逐された生き物である。芭蕉が、繍衣を拒否して、故郷には、「あやひねるささめのこみの」もあれかし、と作った句の、この土地に来て、鳶が、「はつしぐれ」に遭った。

 繍衣の噂と、併せて、芭蕉が、繍衣を拒否したという噂が、聞こえたのだ。詩が、「鳶飛戻天 鳶飛んで天に至る」とうたった旱麓(漢中群南鄭県にある旱山の麓)。かの旱麓ならぬ、この土地・伊賀では、猿蓑の巻頭に置くべき、「初しぐれ」句の猿が、小蓑を着て、「たちまち斷腸のおもひを叫」んだという。「晋其角序」に説く、「あたに懼るべき幻術」の余光は、未だにこの土地を覆っていて、「はつしぐれ」は、この歌仙興行にも、不思議を顕すかと、聞こえた。それでは、小蓑を着ることを知らない鳶も、かって旱麓の天にいた鳶としてならば、この土地は許すのか。詩には現れるが、集歌には、「鳶、烏などの上は、見入れ聞き入れなどする人、世になしかし」と言う通りに、現れる事がない鳶、その鳶のごとき者の、鳶の羽も、刷うのかと。

 其角が、「あたに懼るべき幻術」と言った。「あた」は、「あだ」と読むべきだろう。ここを、接頭語「あた」・〈悪い意味の語に冠して〉嫌悪の気持ちを含めて程度の甚だしいことを表す語である、と読んで、其角が破格の語法を用いたとすることはできない。あだ・花が実をむすばないこと、である。婀娜・たおやかに美しいさま、ではない。幻を現出する術であるから、さらに幻が、名利の実を結ばない花であるから、あだ・徒(不実)、なのであり、その花が実在すると見せるから、懼るべきなのである。滑稽は、幻の、「あだ」なる不実と、「懼るべき」実在性の交渉によって喚起される。虚像が、魂の在処を教えて、声を発して、「たちまち斷腸のおもひを叫」ぶ。幻術は、曠野に捨ててあった骨のごとき、猿に、「小蓑を着せて、誹諧の神を入」れて、声を与えた。そのようにして、言う甲斐のない、鳶の羽も、五節の舞姫の装束を、磨き立てるかのように、そして幼児にするように手を掛けて、いかなる法か、「誹諧の神を入」れてもらう。俳諧の辺境である、詩文の世界を彷徨ってきた、かつ連衆の似姿である鳶が、新風の俳諧に転生すると、確信された。芭蕉が猿に施した、反魂の法は、必ずや鳶にも、行われると。反魂の法に欠かせない、「はつしぐれ」なのだろうか、この度も、伊賀に降る。

 其角は、俳言の生成の場について言うのである。「只誹諧に魂の入たらむにこそとて」と説明して、かの繍衣の噂などは、聞いたこともないという文章だが、そうではない。無効である噂の対極にある場所から、「是が序もその心をとり、魂を合せて」、事実の証言を祖述するのだ。そもそも、芭蕉を項羽・義仲の類いだとして、其角を伴わない凱旋はあり得ないではないか。「これを元として、此集をつくりたて、猿みのとは名付申されける」、これが、事実の在処だ。「これを元として」、設計図として、「つくりたて」、命じて建立したのである。内実は、つまり連衆が埋めるべき内実は、まだない。我翁の、行脚のころが、ここでも再現される、もしくは、ようやく名付け得るものが、この場所で実現するだろう、と言うのである。

 「去来・凡兆のほしげなるにまかせて書」、とも書いた。「ほしげなる」とは、巻頭「初しぐれ」の句の、「ほしげなり」のもじり、編者からの依頼をいう、のだが、「是が序もその心をとり、魂を合せて」、書くのである。去来・凡兆が、繍衣の噂と、併せて、芭蕉が、繍衣を拒否したという噂を、聞いたのだ。すなわち、芭蕉が、繍衣という濡衣を着ている。濡衣の避けがたいことは歌に言うとおりだ。拾遺和歌集雑戀に並んでいる二首(12151216)。

 

                             よみ人しらず

濡衣をいかできざらむ世の人は

          天の下にしすまむかぎりは

  ながされ侍りける時              贈太政大臣(菅原道真)

天の下のがるる人のなければや

         きてし濡衣ひるよしもなき

 

同じくは師とともに、濡衣を着よう。去来・凡兆も、旧態を捨てた後に着るもの、我翁が行脚のころに使った、初しぐれに濡れる小蓑を、「ほしげなる」という依頼を、褒めて書いた。彼らを、我翁の新風の、「その心をとり、魂を合せて」、俳言の生成の場に案内すると言うのである。

 しかしながら、去来が、其角の導きと斡旋によって、芭蕉の幻術の場に推参するとは、とうていできない。反って、「晋其角序」の評論は、去来・凡兆らが、応召して肉薄した、鳶が舞う俳諧の戦場の声に触発された、観戦記である。其角こそが、遅れて声を聞いた。其角もまた、高みの見物をする、鳶の一人だ。芭蕉の、「心をとり、魂を合せ」ると称して、袖の中に庇護されて、口移しに物を言うのである。「はつしぐれ」の降る、伊賀では、静かな分析の力よりも、熱い臂力が、なにより要求された。

 噂は力を持つ。噂は、去来に力を貸すだろう。蒙昧な者に対して、応酬するにせよ笑殺するにせよ、どちらでも同じことだが、噂は、契機である。去来が、大切な歌仙の、発句に臨む態度は、蒙昧な者にわざと立ち交じることであった。彼らが、噂を竊かに合理化しようとする、猥雑な力を借りるのである。俳諧の戦場に用いるのに、どんな種類の凶器も許可されているから、なるべくならば、芭蕉が驚くほどのものが良い。

 遠因は、芭蕉自身にある、とするのが、一つの方法だ。芭蕉の旧作に、言質を探す。芭蕉が、芭蕉自身の旧態を捨てた、もしくは、捨て続けてきたとして、その理由を聞くのであるが、その前に、何故、芭蕉がそこにいたのかと、聞く。去来は、かつて芭蕉のいた、同じ場所に立って、問う積もりなのである。

 年齢の差の事もあるのだ、と想像してみる。芭蕉は正保元年(1644)生まれ、去来は慶安四年(1651)、長崎の生まれで、七つ違う。七年程前といえば、天和三年(1683)、芭蕉は、前年十二月末の江戸大火罹災の後に移った、高山麋塒の甲斐谷村から、五月に戻って、この冬に、新築成った深川の芭蕉庵に入った。其角編「虚栗」(同年刊)には、跋文の末尾に、「芭蕉洞桃青鼓舞書」として与えているなど、芭蕉の旧作は、これ以前に求められる。いわゆる、天和調の一時期だ。翌貞享元年の秋八月、最初の紀行である、「野ざらし紀行(甲子吟行)」の旅に出たころから、芭蕉の作風は、大きく転換する。それから六年余りが過ぎた。

 新風は、いかなる旧態の人を、どこに導くものかと、去来は聞いている。もしや、新風は、鳶の羽も、脱ぎ換えさせるものであるのか。

 

 

 

  十一、鳶の評論

 

 

 

 天和二年、「鳶の評論」として、蕉門に周知の、芭蕉書簡〔三〕木因宛(天和二年二月上弦付)があった。はたして、芭蕉がまだ、これを覚えていただろうか。このとき以前に、思い出す事があったろうか。既に見た鳶について、ここでも参照すべきだが、芭蕉の鳶は、何を彼に啓示したというものではなかった。ある日の偶然の属目を、「なぞ」に作って、遊び仲間に送った。木因がこれを尊んで大事にしたことは、噂・伝説が、どのようにして作られて行くものであるかを教える。

 

当地或人附句あり。此句江戸中聞人無御座、予に聽評望來候へ共、予も此付味難弁候。依之爲御内議申進候。御聞定之旨趣ひそかに御知せ可被下候。東武へひろめて愚之手柄に仕度候。

     附句

   蒜の籬に鳶をながめて

  鳶のゐる花の賤屋とよみにけり

二月上弦

                       はせを

木因様

 

 前句、「蒜の籬に鳶をながめて」も、芭蕉の作だろう。打越はない。付合とはいえ、芭蕉の、独吟の連句はこの外にない。書簡のために作った、偽の付合だろうと思えば、解釈は苦役のようだ。二句を併せて訊く、「なぞ」句だ。籬、柴・竹などで間を広くあけて作った垣、その根方に蒜を植えてある。籬の菊などの鑑賞用ではなく、蒜は食用である。陶淵明詩「飲酒其五」の一節、「菊を東籬の下に採り 悠然として南山を見る」(「文選」雑詩下にある)に対比して、「蒜の籬」は、柴の垣根の役割よりも、根方の蒜の、食用・飲酒の肴であることを強調して、庶民の家の垣根である。鳶は、籬に止まっているのではない。大空の鳶を見ている。俚諺の鳶によって、明日の天気を眺めている。千載和歌集夏歌144

 

  卯花蔵 宅といへる心をよめる              藤原敦経朝臣

卯の花の垣根とのみや思はまし

          しづの伏屋にけぶり立たずは

 

この煙は、炊飯の煙ではなく、蚊遣火である。山家集の歌にも、

 

なつの夜の月みることやなかるらむ

           かやりびたつるしづがふせやは

 

歌は、庶民の暮らしを、一顧だにしないものだ。附句は、これを歌の詞書きとした。蒜の籬の家に住む人が、誹諧歌を詠む。彼女(女である。「ながめ」によって、前句の人を女に見替えた)も、自身である庶民を賎と言えば、歌語の人物になる。歌語「ながめ」は、「ながむという詞は、世間万物を観じたる心を含みていふ詞なり。物をただ見るとばかり詠みては誤りなるべしと、先達示し給へるにや〈桂林集注・雑〉」という。眺めていたのが、鳶、明日の天気であるにしろ、「ながめ」には違いない。千載和歌集夏歌161、百人一首歌、

 

  暁聞郭公といへる心をよみ侍りける     右大臣(後徳大寺左大臣)

ほとゝぎす鳴きつるかたをながむれば

            たゞ有明の月ぞ残れる

 

後徳大寺左大臣実定が、徒然草十段で、寝殿に、「鳶ゐさせじ」と縄を張ったので、鳶は、ここに来ている。その所為で、郭公は待っても来ない。「誰が里も鳶もや來ると」、郭公は、怖がって。新古今和歌集夏歌204 紫式部(紫式部集六三、五句「待ちぞわびにし」)

 

誰が里も訪ひもや來ると郭公

           こころのかぎり待つぞわびしき

 

蒜も、歌に使うと、後拾遺和歌集雑六誹諧歌1207

 

ひるくひて侍リける人、今は香もうせぬらんと思ひて人のもとにまかりたりけるに、名残の侍リけるにや七月七日につかはしける

皇大后宮陸奥

君がかすよるの衣をたなばたは

         返しやしつるひるくさしとて

 

蒜・昼によって、誹諧歌の便りとなる。千載和歌集恋歌四840 和泉式部

 

いかにして夜の心をなぐさめむ

         昼はながめにさても暮らしつ

 

賎屋の歌人は、蒜を食べてしまった。家に居る鳶は、蒜が好きで、蒜の匂いなど気にもとめないのだが。昼は、この鳶を眺めて暮らしもしよう。せっかく花の色が盛りの身なのに、郭公は来ない。もしも来たら、どんなにして、夜の心を慰めようか。「なぞ」句は、二句を併せて、「なぞ」を解いた句であった。徒然草十段の、「徳大寺にも、いかなる故か侍りけん」という、「なぞ」の別解は、郭公である。

 これに対する、木因の返事の内、「古筆一枚相求候」とある、架空の古筆切の部分を写して置く。これを、「何れの御世の撰集(の古筆切)にや」と、芭蕉に反問して、芭蕉の付合の、同字(ここは鳶の字)の禁について、前句を詞書きと見なして免れた、と解いた。

 

菜薗集 巻七

 春 誹諧歌

  蒜のまがきに鳶をながめ侍りて

鳶の居花の賎屋の朝もよひ

        まきたつ山の煙見ゆらん

 

「花の」とはあるが、単に、「誹諧歌」とせずに、「春」と断った訳はわからない。花は、卯の花ではなかった。朝もよひ・朝食の準備の煙と、まきたつ山の煙は、同じものらしいが、これを早朝に見るであろう人物を、花の賎屋の歌人が、思い遣る。意味ありげで、格別のこともない、腰折歌のようだが、枕詞「あさもよひ」(「あさもよし」の誤伝で「紀」にかかる)を使う歌が、「今昔物語集」巻三十の十四にある。

 

朝もよひきのかはゆすりゆく水の

         いつさやむさやいるさやむさや

と。この歌、近來の和歌には似ずかし。あさもよひとは、つとめて物食ふ時を云なり。いつさやむさやとは、狩する野を云ふなり。この歌は、聞く(に)、何とも心得まじければなむ。

 

 「聞くに、何とも心得まじ」き歌を作りたい時に、「朝もよひ」と使うとよいのだった。「此句江戸中聞人無御座、予も此付味難弁候」というのに合わせた。また、花の賎屋に立つ煙である、「まきたつ山の煙」は、剣呑なる火山の噴煙であるはずはないが、愚かにもそれと見誤る者があって、伊勢物語八段の歌で、新古今和歌集羈旅歌903

 

  東の方に罷りけるに、淺間の嶽に煙の立つを見てよめる  在原業平朝臣

信濃なる浅間の嶽に立つけぶり

         をちこち人の見やはとがめぬ

 

なるほど東の方には、同字の禁とか言って、見咎める人があるかもしれない、というのである。

 木因の返事を褒めて、芭蕉書簡〔四〕濁子(推定)宛(天和二年三月上中旬筆)の末尾に書いた、「自慢之詞」なるものがある。木因が、濁子(推定)宛書簡を含めた、以上の数篇を纏めたので、「鳶の評論」は人々の知るところとなった。木因の返事は、必ずしも付合の解釈に及ばず、また、解釈が目的ではないから、「鳶に鳶を付けて一物別意ヲ付分」、空を舞う俚諺の鳶と、亭主となって郭公を駆逐する鳶、を付分けたところは、明らかにしていない。前句の鳶を詞書きの鳶、付句の鳶を歌中の鳶として、二句別意の鳶とした、と指摘して足りた、とするのである。

 

 古往達人、花に櫻を付ルに同意去ルヲ本意と云リ。増テ鳶に鳶を付て一物別意ヲ付分、当時未來の作者に此句ヲ似させず、古往今來未來一句の格、何レノ時か秋風來テ芭蕉の露もろく破レン迄の一句、一生是のみに存 斗に候と書内、鼻高くをごめき、肩のあたり羽だゝきするやうに候。

 昔から、この道の達人は花の句に桜の句を付けるのに、前の花が桜の花を意味している場合には、同意であるから付けるべきでなく、少なくとも七句は去る(隔てる)のが本義だと言った。同物、同意の場合でさえ、この通りである。

 ましてや全く同字の鳶に鳶を付けて、それが同意にならず、一物にして別意となるように付け分けたのはわたしの手柄。この着想は現在、未来の作者に追随を許さず、過去、現在、未来を通じてただ一句の格である。

 いつか秋風が吹き来たって、この芭蕉の葉がもろくも破れ、その葉の露を散らす(わたしの死の)時までの手柄の一句であり、わたしの生涯において、これ以上の句はできぬことと存ずるばかりでございますと書いているうちに、天狗の鼻がぴくぴく動き、肩のあたりも(天狗の、そして鳶の)羽が生えたようで、羽ばたきするようでございます。(口語訳は、「芭蕉の手紙」村松友次)

 

 「肩のあたりも(天狗の、そして鳶の)羽が生えたようで」のところ、「そして鳶の」と注した意図は、不明だ。また、口語訳は丁寧すぎて、村松友次が言う、「なぞ」句を扱う、「稚気満々」な芭蕉を表現していない。木因が、これを纏めた態度も、人々の誤読の危険を、あらかじめ排除しようとするものではなかった。

 三冊子(わすれみづ)」【〔一二〕破格の句】が、後日の、芭蕉の説明を記録している。

 

 また、曰く「格は句よりはなるるなり。はなるるに習ひなし。鳶に鳶を付け、隠士の打越に隠士を出だす類、ここに至って詮議なし。一度はくるしからず。後の隠士は過ぎて誤りなり。かならずうらやむ所にあらず」となり。

 

 「格は句よりはなるるなり」。法式が、俳諧の要請によって存在するものならば、それを離れるのも、一事例たる、句の要請によるべきである。「はなるるに習ひなし」。先例をもって、法式を否定し去ったとすることはできない。連歌新式に繋がる、俳諧の法式という桎梏を外すのに、制約こそはないが、法式を離れるということをもってすなわち、俳諧の新しみとするのは、行うべき規矩を失うのに等しくて、人の羨むものとはならない。また、先例という、法式の外の法式を尊んで作った句を、新しみとする者もないのだ。詮議、犯罪の吟味・取調べの意、であるが、「ここに至って詮議なし」、すでに時効であるというのだ。どんな詮議か。新しみを求めてした、様々な実験を、俳諧の方法として昇華すべきものと、信じたのかどうか、というのである。「一度はくるしからず」。一度だけなら新しい。俳諧の、「なぞ」・言語遊戯としての側面を言うのに相応しい、この同義反復は、俳諧の新しさ〔そのものだ〕を定義できない。芭蕉と木因の遊びが、繰り返されないのを、羨むことはないのだった。去来句の鳶は、遅れて来た者として、もう一度、詮議を求めている。新風は、いかなる実験であるのか。

 

 

 

  十二、宗祇のやどり

 

 

 

 「鳶の評論」は、芭蕉の反古であるとして、これよりまして、見て置くべき句は、天和元年(推定)の、芭蕉自画賛「笠やどり」中の句である(「諸本対照・芭蕉俳文句文集」)。

 

   笠やどり

 坡翁雲天の笠の下には、江海の蓑を振。無為のちまたに雨やどりし給ふめる西行の侘笠哀に遣シ、鶯のぬふてふ梅の花笠は老をかくして、妹があたりのしのび笠。行過兼て笠やどり。ひぢ笠の雨に打そぼつ覽。ミかさと申せ蓮の葉の笠。いさぎよし此笠は、是艶ならず、美ならず。ひとへに山田守捨し案山子の、風に破られ雨にいためるがごとし。笠のあるじも、又、風雨を待て情尽る而巳。

  世にふるは更に宗祇のやどり哉

 

 句は、宗祇の句、

 

  あづまにくだりし時庵室にて

世にふるもさらに時雨のやどり哉

 

を、本歌(句)取りした句だ。初五は、程なく、「世にふるも」と改められて、「虚栗」に載せた句形が、定稿となったらしい。

 

  手づから雨のわび笠をはりて

世にふるもさらに宗祇のやどり哉  芭蕉

 

 この外に、前掲と内容を異にする句文があって、こちらは、元禄元年(1688)冬の執筆と考証されている。蘭更編「雪満呂気」、支考編「和漢文操」(渋笠ノ銘並序)等、一連の刊本に見ることができるが、杜撰なもの、改竄されたものがあるとされ、これも、「諸本対照・芭蕉俳文句文集」が底本にする、懐紙「笠はり」を写す。

 

   笠はり

 草の扉に独わびて、秋風のさびしきおりく、妙観が刀を借、竹取の巧を得て、竹をさき竹を枉て、自笠作の翁と名乗る。巧ミ拙ければ、日を尽して知成。心安からざれば、日をふるに懶し。朝に帋をもて張、夕にほしてまたはる。渋と云物にて色を染、いさゝかうるしをほどこして堅からん事をようす。廿日過る程にこそやゝいできにけれ。笠の端の斜に裏に巻入、外に吹返して、ひとへに荷葉の半開るに似たり。規矩の正しきより、中くにおかしき姿也。彼西行の侘笠か、坡翁雲天の笠か。いでや宮城野ゝ露見にゆかん。呉天の雪に杖をひかん。霰に急ぎ時雨を待て、そゞろにめでゝ殊に興ず。興中俄に感る≠り。ふたゝび宗祇の時雨にぬれて自ラ筆をとりて笠のうらに書付侍りけらし。

  よにふるも更に宗祇のやどり哉

桃青書

 

 「ひとへに山田守捨し案山子の、風に破られ雨にいためるがごとし」と言った侘笠は、更に作り替えたのであろうか、渋で染め、漆を施して堅くして、芭蕉がいつこれを捨てたという、形跡がない。あるとすれば、小蓑の句によって捨てたのだが、笠と小蓑を併せて、旅の支度を厳重にしたのかもしれない。確かに、芭蕉の、天和調の俳諧の、様々な実験の内から、本歌取りの法式を、本歌取りの方法によって離れるという、希有な新しみを表した句であった。俳諧における本歌取りとは何か、という難題の、一解答であった。一度はくるしからず。一たび使えば、「風に破られ雨にいためるがごと」く、後は捨てるばかりの笠であった筈なのに、これを傍らに掛けて置けば、笠の内に書いた十七字が、いつも笠の主を、新しい旅に誘った。初五「世にふるは」を、宗祇句の、「世にふるも」に戻した時、この句が成功したことを知ったのであろうか。「鳶の評論」と、この句の定稿の、前後は確認できない。しかし、笠の誘いに乗って、「野ざらし紀行」の旅に被ってみると、天和調の実験は、この笠を残して、すべてを纏めて捨てる事になった。

 貞享元年の、「狂句こがらしの」歌仙(「冬の日」)の前書と、野水の脇に、この笠が見える。

 

笠は長途の雨にほころび、帋衣はとまりくのあらしにもめたり。侘つくしたるわび人、我さへあはれにおぼへける。むかし狂哥の才士、此国にたどりし事を不図おもひ出て申侍る

狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉  芭蕉

 たそやとばしるかさの山茶花    野水

 

 

二ノ折にもある。

 

 

しばし宗祇の名を付し水      杜国

笠ぬぎて無理にもぬるゝ北時雨    荷兮

 

 

 「笈の小文」の旅にも、この笠を被って出ているのは、「旅人と」三吟半歌仙(貞享四年十二月一日)の、前書と如行の発句、

 

芭蕉老人京までのぼらんとして熱田にしばしとゞまり侍るを訪ひて、我名よばれんといひけん旅人の句をきゝ哥仙一折

旅人と我見はやさん笠の雪  如行子

 盃寒く諷ひ候へ      ばせを

 

 

次いで、「霰かと」表六句(貞享四年十二月三日・芭蕉は六句目)の、これも如行の発句によって見ることができる。

 

  その夜風月亭にまかりて

霰かとまたほどかれし笠やどり  如行

 夜の更るまゝ竹さゆる声    夕道

 

 

すなわち、幾人もが、既に芭蕉の噂・伝説となっている、「宗祇のやどり」を、目撃し確認しているのである。但し、これらの句の全てが、解釈の余裕がない。笠の字のある句を、幾つ並べても、何を言った事にもならないが、「おくの細道」後の、芭蕉句にも、笠の字はある。「鶯の」歌仙の、芭蕉の発句は、「笠落したる」という。

 

  元禄三年二月六日

   誹諧之連歌

鶯の笠落したる椿かな   桃青

 古井の蛙草に入声    乍木

 

 

猿蓑にも、「梅若菜」歌仙の、乙рフ脇がある。さらに探せば、元禄五・六年の句にも、それらしい笠の字を拾うことができるが、いつまでも、一つものを愛玩するのは、芭蕉の任にあわない。若い人に譲ったか、とも考えて置かなければならない。

 

  餞乙東武行

梅若菜まりこの宿のとろゝ汁  芭蕉

 かさあたらしき春の曙    乙

 

 

 芭蕉の句は、宗祇の句、

 

  あづまにくだりし時庵室にて

世にふるもさらに時雨のやどり哉

 

の、「時雨」の二字を、「宗祇」と取り替えた句である。そして宗祇の句は、新古今和歌集冬歌590

 

  千五百番歌合に、冬歌                  二條院讚岐

世にふるは苦しきものをまきの屋に

           やすくも過ぐる初時雨かな

 

に據っている。「まきの屋」は、真木の板で葺いた家、板葺きの屋根に、雨の当たる音がよく聞こえる。庶民の普通の家である。千載和歌集雑歌下1174

 

  ままきのやたて                     源俊頼朝臣

みくら山真木の屋立てて住む民は

           年をつむとも朽ちじとぞ思ふ

 

二條院讚岐(頼政女)が住む家ではない。テキスト頭注を写す。

 

世に経ることは、苦しいものであるのに、槇の屋に降る初時雨は、おなじくふるものでありながら、降り初めたかと思うと止み、やすやすと通り過ぎて行く、の意。「ふる」の使いわけに、歌の中心がある。

 

「世にふる」ものと、「まきの屋」にふるものとは、同じものながら、世に在り経る、困難さに於いて、やや違いがあると言うのである。歌才をもってする女房の宮仕と、庶民の女の生活とは、涙の見せ方に違いがある。初時雨の涙の時から、少しも耐える事なく、声さえも上げて、簡単に見せてしまう事ができる、庶民の女の生活よ。紫式部集二三

 

塩津山といふ道のいとしげきを、賎のおのあやしきさまどもして、「なを、からき道なりや」といふを聞きて

しりぬらむ往来に慣ならす塩津山

            世に経る道はからきものぞと

 

男も女も、庶民の、世に経る道に流す涙の、塩からき味を嘗めることは、かえって慰めともなるのだ。女房が流しても許される涙は、歌の中だけだ。しかも、袖の中に人目もなく降る、音のしない時雨である。いったい何の役に立つものだろうか。新古今和歌集冬歌584

 

  百首歌奉りしに                    二條院讚岐

折こそあれながめにかかる浮雲の

            袖も一つにうちしぐれつつ

 

 さて、宗祇の句。

 

  あづまにくだりし時庵室にて

世にふるもさらに時雨のやどり哉

 

「時雨のやどり」は、雨宿り。遥かな東国に来て、庵室に時雨を聞きつつ、雨宿りするような人生よ。詞華和歌集秋137

 

  雨中九月盡といふことをよめる            前大納言公任

いづ方へ秋のゆくらん我が宿に

          今宵ばかりは雨やどりせよ

 

頼政女の、そして公任の知らない人生が、東国の庵室にあった。公任は、都にいて、秋の行く日を惜しんで、「今宵ばかりは雨やどりせよ」と言った。また、都にいてこそ、「まきの屋」にやすくも過ぎると聞く、時雨の音も、東国の宗祇にあっては、「世にふる」苦しさを、音にして聞くかのようだ。「世にふる」日々が、明日は、「いづ方へ」行くのであろうか、ただ今宵ばかりは、雨宿りしつつ、この庵室にあることが確実なのである。そして、漂泊する連歌師宗祇の事業、「世にふる」在り様は、拾遺和歌集雑秋11411142

 

  天暦の御時、伊勢が家の集めしたりければまゐらすとて     中務

しぐれつつふりにし宿の言の葉は