「おくの細道」の那須野 ― 夏時鳥について

 

 

〇 水せきて早苗たばぬる柳哉

 

 

 野坡本「おくの細道」(芭蕉自筆・奥の細道)の「遊行柳」の章に、張り紙があって、その下に次の文面があった。句は新たにここで発見されたものだ。

 

芦野ゝ里に清水流るゝの柳有/田の畔に残る此所の郡守たひ/かたりきこえ給ふをいつくの程にや/とおもひ侍しにけふこの柳の/かけにこそ立寄侍つれ

  水せきて早稲(苗)たはぬる柳哉(初案は下五を「柳蔭」)

 

 郡守とは、実名は蘆野民部資俊といい、俳号は桃酔。芭蕉より七歳上。旗本で、那須芦野三千余石の城主。湯島に江戸屋敷があったという。元禄五年六月二十五日死亡、と知られている。野坡本は、先の文面に張り紙して、次のようだ。

 

又清水流るゝの柳は、芦野の里にありて、田の畔に残る。此所の郡守、故戸部某の、「此柳見せばや」など、折をりにの給ひきこえ給ふを、「いづくのほどにや」とおもひしを、けふ、この柳のかげにこそ、立寄侍つれ。

  田一枚植て立去ル柳かな

 

 桃酔死亡のため、張り紙して、回向の句を作って差し替えたものだろう。「故戸部某」とあるが、「故」は後に削除された。「元禄二とせにや」という紀行の現在時間を乱すことはやはりできない。時間の乱れは、ただ句の中にのみあるのであって、夢幻に踏み入って帰らぬ桃酔に付き合って、芦野の地の、「遊行柳」の見物は、夢幻能の世界に隣り合う。

 

 さて、「水せきて」の句。農事を題材とするのは、桃酔の領地経営の恙なきことをいう挨拶。当然、柳の周りに広がる初夏の水田の実景である。行けども行けども芭蕉らの道中の左右に広がる景色に同じ。「芦野ゝ里に清水流るゝの柳有」という桃酔の勧めに従った訪問は、要するに田植えの見物であった。新古今夏歌262、西行法師。(日本古典全書「山家集」2005、「山家集」は以下もこの本による)。

 

道の辺に清水流るる柳かげ

しばしとてこそ立ちとまりつれ

 

 柳は概ね春の景物だが珍しくこれは、清水流れる「夏川」のイメージに、「柳かげ」とあって夏歌。初案の下五「柳蔭」はこれによる。あるいは、この西行歌を主題として脚色する謡曲「遊行柳」を、または桃酔らが私に田の中に作った名物の、「清水流るゝの柳」を、「柳」一語が指示するならば、これは季語ではない。

 桃酔の「清水流るゝの柳」は、この西行歌の効験を信じて、旅人を「しばしとてこそ立ちとま」らせ、長居させようというものであり、芭蕉はこれを素通りできない。訪問の挨拶を受けた桃酔は、芭蕉が取り出した早苗とりの景色、すなわち西行法師も同じく眺めたに違いない北関東の風景を、この地方、那須黒羽グループ俳壇経営の直喩としてよいだろう。彼らの俳諧がまだ早苗であること。「たばぬる」とはそれを宰領すること。柳はその拠点。これから穂にいでて、田の実(頼み)になるまでに、どれほどの辛苦があることか。挨拶はこれを励ましている。

 桃酔らは、折角の名歌の「清水流るゝ」というものを、我田引水の策を巡らして、「水せきて」、かしこに「清水流るるの柳」を創作したのだった。名歌を物に換えて私有しようという行為だ。

 桃酔は、芭蕉にこの柳をどう説明したのだろうか。曽良の日記で、四月二十日の条りにこれを「遊行柳」とするのは、土地の伝承のごときものとして案内され、その名を聞いたのだろう。実は、謡曲「遊行柳」では、朽木の柳は、白河の関の向こう側にあるのだから、紀行には、「遊行柳」の文字がない。

 「遊行の利益を六十余州に弘め」ようとする諸国遊行の聖が、上総国から、「是より奥へと心ざし候」と、「次第」が語られ、次いで、「秋津州の、国々巡る法の道」をたどる「上歌」、そして秋の日も夕暮れとなって「急候程に、音に聞し白河の関をも過ぎぬ」と、「着キゼリフ」がある。

 方や謡曲「殺生石」の玄翁と能力の二人組は、奥州にあったが、「都に上り冬夏をも結ばばや」と白河の関を越えて那須野の原に着くのだったが。つまり「清水流るゝの柳」の在処は、謡曲の脚色に負うものではない。やや考証的に、西行法師の旅程の夏の一日を、知行地芦野のとある道の辺に定めたのらしい。能楽好きよりもむしろ殿様らしい俳諧者の仕業だ。これが更に誤りを重ねて、謡曲「遊行柳」に結ばれたのも、領主の責任とすべきだろう。紀行本文の「いつくの程にやとおもひ侍しに」には、右についての不審と諧謔を含む。

 これに対する芭蕉の態度は、「山家集」816817の歌によって知ることができる。西行法師ら一行が、吹上和歌の浦の見物にでるところ。道中に大雨風があって、

 

‥能因がなはしろ水にせきくだせ(金葉雑十、天の河苗代水にせき下せ天降ります神ならば神)とよみていひつたへられたるものをと思ひて社にかきつけける

あまくだる名をふきあげの神ならば

雲はれのきてひかりあらはせ

なはしろにせきくだされしあまの川

とむるもかみのこころなるべし

かくかきつけたりければ、やがてにしのかぜにふきかはりてたちまちにくもはれて、うらうらと日なりにけり。すゑの世なれどこころざしいたりぬる事にはしるしあらたなることを、人々申しつつ信おこして吹上和歌の浦おもふようにみてかへられにけり。

 

 芦野の苗代水にも、能因の雨乞い歌の、伊予国の出来事の効験を借りることがあっただろう。とすれば、このうらうらと光あふれて賑やかな田植え日よりは、右の西行歌の効験であるはず。「雲はれのきてひかりあらはせ」、彼らの我田引水をどこぞの神に叱って貰おうか(上方訛で「叱る」を「ひかる」と言う。これは芭蕉常套の冗談。)とも思うが、「とむるもかみのこころなるべし」、かの清水流れる「夏川」を堰き止めるのも、苗代水に使うなら仕方がない。桃酔の俳諧的事業の、「すゑの世なれどこころざしいたりぬる事」を愛でて、その「しるしあらたなることを」信じ、和歌の浦ならぬ一本の柳の周りの田植えを、心ゆくまで見物したのである。

 

 ただし、曽良の日記、四月二十日の項に、田植えの文字がない。この日、「芦野町ハツレ木戸ノ外」の辺りから、茶屋松本市兵衛の案内を受けているが、見物の暇が疑われて、もしやその事実はなかったのかもしれないという、興ざめな不安を抱く。それに、四月二十日に東国の田植えは、まだ早いのではないか。

 

 

 

 田一枚植て立去柳かな

 

 

 普通、「遊行柳」の部分は、前の「殺生石」の部分と一緒にして、「殺生石・遊行柳」として一章となっている。「芭蕉集・古典俳文学大系」(この本は行開けして二つに区切るが)から引用する。「殺生石」の部分は、野坡本と用字の違いを除けば同じ。

 

是より殺生石に行。館代より馬にて送らる。此口付のおのこ、短冊得させよと乞。やさしき事を望侍るものかなと、

  野を横に馬牽むけよほとゝぎす

殺生石は温泉の出る山陰にあり。石の毒気いまだにほろびず。蜂・蝶のたぐひ、真砂の色の見えぬほど、かさなり死す。

 

又、清水流るゝの柳は、蘆野の里にありて、田の畔に残る。此所の郡守、戸部某の、「此柳見せばや」など、折々にの給ひ聞え給ふを、いづくのほとにやと思ひしを、今日此柳の陰にこそ立ちより侍りつれ。

田一枚植て立去る柳かな

 

 一旦束ねられた早苗は解かれて、黒く光る水面に、緑の点描として施される。柳の枝よりいち早く、微風を知らせてそよぐ浅緑の田面が、この日の見所であった。植え終わって人々は立ち去る。となって知ったことには、実は田植え歌は後ジテの登場歌だったのであり、束ねた早苗は、綰ねた柳条の役割を果たしていたのだ。句は、早乙女らの登場から、早苗が束ねられて、僅か数刻の後の景色だ。このとき既に桃酔は此の世にない。ここに明らかな時間の混乱は、芭蕉が作ったものだが、脚色は交えていない。白河の関のこちら側でも、柳の周りに過ぎたおよそ三年の月日は、十七字の夢幻劇となった。桃酔に責任がある、「遊行柳」の名は、この句を得る為にあったかのようだ。

 芭蕉は、元禄四年十月の末にようやく江戸に戻っている。帰着の挨拶はあったのかどうか、それから翌年六月までの桃酔との交渉は分からないが、少なくとも彼の俳諧が芭蕉を驚かせるに至ったという形跡はついにない。とすれば、「此柳見せばや」と誘った桃酔は、領民が田一枚を植えて立去って、芭蕉のために見せるべきものを見せ終えたその時に、俳諧の舞台から、かの懐かしい顔のままで、柳の中に消え入るように退場したのである。僅かに、田一枚を植えて見せただけで。

 

 さて、張り紙の下には、「芦野ゝ里に清水流るゝの柳」とあったのを、「又清水流るゝの柳は、芦野の里にありて」と代えた。「又」と書き出したのは、これを前の「殺生石は‥」以下の対句として明示し、「清水流るゝの柳」を「殺生石」の石の毒気のように、いまだに滅びず、「田の畔に残る」とした。珍しくも殺風景な景色を並べて、失われた句にあった、桃酔の我田引水の滑稽をここに移したものだ。

 また、「たひたびかたりきこえ給ふを」とだけあったのを、「この柳見せばやなど、折々にの給ひきこえ給ふを」と改めて、僅かに桃酔の口跡を伝えた。「見せばや」とは、次の藤原家隆の歌の勧めを聞き取ったのを示したのだ。玉葉夏歌350

 

  早苗を詠み侍ける                    従二位家隆

さひしとはたれかいひけん山里を

            見せはや田子のさなへとる比

 

 桃酔の芭蕉勧請の田植えの見物を、家隆の歌に等しい彼の俳諧的事業の志として承知して、これも本文に移したということだ。それに加えて、枕草子二百十二段の、かの田植え歌が聞いてみたいという楽しみがあっただろうか。

 

賀茂へまゐる道に、田植うとて、女の新しき折敷のやうなる物を笠に着ていと多う立ちて歌を歌ふ。折れ伏すやうに、また何ごとするとも見えで後ざまに行く、いかなるにかあらむ、をかしと見ゆるほどに、郭公をいとなめう歌ふ聞くにぞ、心うき。「郭公、おれ、かやつよ、おれ鳴きてこそ、我は田植うれ」と歌ふを聞くも、いかなる人か、「いたくな鳴きそ」とは言ひけむ。仲忠が童生ひ言ひおとす人と、郭公、鶯に劣ると言ふ人こそ、いとつらう、にくけれ。

 

 楽しみには、西行にもこの田植歌をそのまま写した歌があるのを加えて。夫木和歌抄七(「山家集」1916)、の盛夏の歌。

 

  家集、取早苗聞郭公                    西行法師

ほととぎす声に植女のはやされて

          山田のさなへたゆまでぞとる

 

 しかしながら、次いで二百十三段「八月つごもり」の稲刈りは無論のこと、九十五段「五月の御精進のほど」の、脱穀の様子と、喧しく鳴きたてる郭公を聞きに行った田舎見物にも、もう招かれることはない。さて、芭蕉は、どんな田植え歌を聞いただろうか、そして郭公の鳴く声は聞いたのだろうか。

 

 

 

〇 野を横に馬牽むけよほとゝぎす

 

 

 桃酔の芦野の手前、黒羽は、謡曲「殺生石」の舞台だ。芭蕉らは、一日郊外を逍遙して、「犬追物の跡を一見し、那須の篠原をわけて、玉藻の前の古墳」を訪れたりしている。玉藻の前の正体である金毛九尾の狐は、三浦の介・上総の介に射殺されて、殺生石となった。その黒羽から殺生石に向かう。地図を見れば、芦野とほぼ二倍の距離にあって、左に逸れる寄り道である。

 馬は図書の持馬。図書とは、陣代家老浄坊寺図書高勝、当時二十九歳・俳号を秋鴉また桃雪といった。芭蕉らが道中に見慣れた馬ではない。比べれば、「那須野」の章で、遙かな野を行く途中の一村から黒羽までの道を、「草刈おのこ」から野飼の馬を借りているが、これはそのような馬ではない。

 短冊はともあれ、句は、「口付のおのこ」に与えたのではなく、浄坊寺図書に対する礼である。「宇治川先陣」の、生食・磨墨のようではないかもしれぬが、借りた馬を褒めた挨拶。短冊はあたかも、さきの野飼の馬を返す折に鞍壺に結びつけた、駄賃のようなものか。

 「横に」は、詩に言う横行・自由自在に行くの意。杜甫詩「房兵曹胡馬」の馬褒めの詩にある。「唐詩選」にもとられている詩の終連の一字を借りた。

 

胡馬大宛名  胡馬 大宛の名あり

鋒稜痩骨成  鋒稜 痩骨成る

竹批雙耳峻  竹批ぎて双耳峻ち

風入四蹄軽  風入りて四蹄軽し

所向無空濶  向う所 空濶無く

眞堪託死生  真に死生を託するに堪えたり

驍騰有如此  驍騰なること此くの如き有れば

萬里可横行  万里も横行す可し

 

 さて、那須野の入り口にあってはどのようだったか。東路の旅も、駒の心にまかせてぞ行く、とは凡ての歌人の羇旅の実感である。たとえばその歌。後拾遺羇旅508

 

  東へまかりける道にて                   増基法師

宮このみかへり見られて東路を

           こまの心にまかせてぞ行く

 

あたかも馬の気分次第で、止まるも行くもあなた任せの旅路。しかし、「野越にかゝりて、直道をゆかんと」二人が歩きに歩いた末に、「草刈おのこになげきよ」って借りた野飼の馬は、「口付のおのこ」さえ不要だった。実に、「こまの心にまかせてぞ行く」ばかり。ちいさき者ふたりが、馬の跡を慕って走る。この馬が勝手に「とゞまる所にて馬を返し給へ」というのが、「草刈おのこ」の注文であった。

 しかし黒羽を離れるにあたって、今や「万里も横行す可」き図書の馬に乗る私ならば、郭公よ、野を縦横に行くことができる。さあ、声を聞かせてくれ、その声のする方角に馬首を向けよう。このままでは例のように、こまの心にまかせてぞ行くばかり。

 

 蛇足ながら、芭蕉が「口付のおのこ」に「馬牽むけよ」と下知したのではない。乗せて貰った馬の上から、他家の奉公人に指図はしないものだ。実は、馬の善し悪しは、分かりはしても関心がない。この男が、わずかな風雅を望むからには、そのように手綱を牽いてくれるだろう、ということだ。男の「やさしき事」に感じて、聞こえぬ郭公をあらためて待つ契機とした。

 それに、「万里も横行す可」き馬の働きが本当に有効なのは、この馬をほんの暫く借りる旅人芭蕉においてではない。褒め方は、杜甫詩「房兵曹胡馬」に任せなければならないが、持主が、「真に死生を託するに堪えたり」とするだろうものを疎かにできない。一刻も早く、この挨拶を用立てるために、那須野と馬の持主の許へ返そう。殺生石への道の半ばで馬を遠慮したのはそのためだ。彼らの野を横行する馬上にあって、やがて盛夏の時鳥を聞くべきは彼らだから。

 

 

 

〇 再び 田一枚植て立去柳かな

 

 

 芦野の里に、郭公は鳴かなかった。田植え歌も、「郭公、おれ、かやつよ、おれ鳴きてこそ、我は田植うれ」と歌う、賀茂のようではなかったのだろう。都近きあたりの田植え歌をよく写しとった古歌に、古今誹諧歌1013、藤原敏行朝臣の歌がある。「しでのたをさ」・死出の田長は、郭公の異称、またその声の擬声表現。

 

いくばくの田を作ればか郭公

           しでのたをさを朝なあさなよぶ

 

 桃酔の、「見せばや」という芭蕉勧請のうちには、右の歌の趣向も入る筈だが、懸念すべきは、田長・桃酔は、遙か江戸の湯島にいるままということだった。やはり口惜しくも、聞こえない江戸の郭公の催促は、田一枚、少しばかりを、これで充分とばかりに植えて終わった。望むらくは、趣向が次の歌群に及ぶことであった。伊勢物語四十三段の歌。

 

むかし、賀陽の親王と申すみこおはしましけり。そのみこ、女をおぼしめして、いとかしこう恵みつかう給ひけるを、人なまめきてありけるを、我のみと思ひけるを、又人きゝつけて、文やる。ほとゝぎすのかたをかきて、

ほとゝぎす汝がなく里のあまたあれば

なほうとまれぬ思うふものから

といへり。この女、けしきをとりて、

名のみたつしでのたをさは今朝ぞなく

庵あまたとうとまれぬれば

時は五月になむありける。をとこ、返し、

庵おほきしでのたをさはなほたのむ

わが住む里に声したえずは

 

 この段の歌の「しでのたをさ」に、「死出」の文字を宛てることはできない。「幣垂」であろうか。初句「ほとゝぎす」の歌は、「古今夏歌147 題しらず よみ人しらず」だが、三首とも「在中将集」の歌でもある。元気でさえあれば、芦野や江戸に「庵あまた」な桃酔に対して、この段を預けることができた。すなわち、西行法師の説教のようではなく、伊勢物語の数段から、芭蕉が翁の渾名を貰ったのであろう、業平の遊びのように、桃酔と付き合いたかった。直ぐにとは言わず、いつかしら「わが住む里に声したえずは」頼みとしたのであったものを。

 六月二十五日の、桃酔死亡の報せは、いつ芦野に届いただろうか。七月初めになるだろうか。句は、次の歌の初句を直感させるべく作った。その直感は、先の初句「名のみたつ」の歌と組み合わされる。古今恋歌五776、よみ人しらず。

 

植ゑていにし秋田刈るまで見え来ねば

            今朝初雁の音にぞなきぬる

 

 知行地支配の評判について、芦野の「しでの田長」であり、かつ、江戸の俳諧の郭公である桃酔の述懐があるとすれば、おそらくは初句「名のみたつ」の歌のようになろうか。「秋田刈るまで見え来」ぬという不満は、この年ばかりの事ではなかっただろう。田植えにさえ姿を見せぬ。国元に、「庵あまたとうとまれ」ているのに恬淡としているわけではない。公務だってある。遙か江戸から朝なあさな声を上げているつもりだった。しかし、郭公死亡の報せは、図らずも初雁の音の雁信となって芦野に届いた。

 

 先に見た「山家集」の、吹上和歌の浦遊覧の次に、堀河と西行法師の贈答818819がある。

 

  待賢門院の女房堀河の局のもとよりいひ送られける

この世にてかたらひおかむほととぎす

            してのやまぢのしるべともなれ

  返し

ほととぎすなくなくこそはかたらはめ

            しでの山路に君しかからば

 

 堀河が郭公になぞらえ、「なくなくこそはかたらはめ」と約束した西行法師が、このたび死出の山路を越えたばかりの君に対しては、かの「清水ながるゝの柳」を結縁のたよりとして、きっとあの世「にてかたらひ」案内してくれる筈だ。

 

 

 

〇 秣おふ人を枝折の夏野哉

 

 

 黒羽と芦野に、郭公は鳴かなかった、と書いたが、この間、曽良書留に二句、紀行にない時鳥の句がある。一つは、秋鴉・桃雪すなわち図書に与えたとされるもの。(もう一つは、高久の宿にて。これは後に述べる。)「田一枚」の句から読み始めた小論は、心ならずも紀行の道中を逆さまに辿っている。

 

しら川の関やいづことおもふにも、先、秋風の心にうごきて、苗みどりにむぎあからみて、粒にからきめをする賤がしわざもめにちかく、すべて春秋のあはれ・月雪のながめより、この時はやゝ卯月のはじめになん侍れば、百景一ツをだに見ことあたはず。たゞ声をのみて、(「黙して」を見せ消ち)筆を捨るのみなりけらし

  田や麦や中にも夏時鳥

    元禄二年孟夏七日                 芭蕉桃青

 

 曽良書留の頁の、これより前に、「那須余瀬/翠桃を尋て」と前書する歌仙があって、黒羽はまず余瀬に着いた当日の、四月三日の興行と推定されている。発句は芭蕉、脇は翠桃。

 

秣おふ人を枝折の夏野哉   芭蕉

青き覆盆子こぼす椎の葉  翠桃

 

 翠桃は図書の弟で、鹿子畑善太夫豊明、当時二十八歳。紀行本文にはなぜか桃翠と誤る。図書・秋鴉は、挙句前の花の座に一句だけ参加している。日記に、「四日 浄法寺図書へ被招」とあるから、歌仙興行はこの両日か。または、十四日に満尾、十五日に改作・斧正があったという推定もある。さきに書いた、「那須野」の章で、遙かな野を行く途中の一村から黒羽まで、「草刈おのこ」から野飼の馬を借りた、紀行本文の脚色がこの句の句意を鮮やかに写し、展開している。「うゐ敷旅人の道ふみたがえんあやしう侍れば」と心配してくれる、「草刈おのこ」が「秣おふ人」だ。彼を枝折にして夏野をわけいる。そもそも江戸にあるとき、翠桃から、那須野の迷路については何も話がなかったではないか。

 「しをり」の語によって、西行法師は「思はずなる事思ひたつ」人をどのように励ましたか。東国の羇旅の人に向かってではないのだが。「山家集」1208

 

  思はずなる事思ひたつよし聞えける人の許へ高野よりいひ遣しける

しをりせでなほ山ふかくわけいらむ

           うき事きかぬ所ありやと

 

 この先、うき事を聞くのが必定である夏野の旅に、後を振り返ってはさっきの人を捜してしまうのは人情である。しかし、彼が枝折となっていつまでもじっとしている筈がない。やがては消えて、二人は夏野のまっただ中。「草刈おのこ」は拾遺旋頭歌567、柿本人麿の歌にでる。この歌は和漢朗詠集草440にもある。原歌は万葉集巻七旋頭歌 1291

 

かの岡に草刈る男しかな刈りそ

        ありつゝも君が来まさむみまくさにせむ

 

 黒羽が私を待ち焦がれているのなら、草刈を禁じて、「秣おふ人」はあの辺りにいなかっただろう。もしやかの人は、私が招かれざる客だと知れという謎なのであるか。

 紀行本文では、事実なのだろうが、芭蕉はこの夏野を、黒羽が用意すべき秣などは不用の馬に乗せて貰った。追って走る小姫の名を聞いて、曽良の句は次のようであった。「聞なれぬ名のやさしければ‥」

 

 

 

〇 かさねとは八重撫子の名成べし  曽良

 

 

 この句、曽良書留にはなくて、半ば芭蕉の作だと考える余地がある。八重撫子というものがあるのか、どうだろうか。少なくも集歌には見えない、安東次男注釈に、「江戸初ごろには八重咲もあったはずである」とするが本当だろうか。「聞なれぬ名」は、芭蕉も知らない花の名だろう。あっても元禄の近頃の園芸品種か。「かさね」と「八重」は縁語。素直に名を名告ったこの子が花ならば、梔色の散りやすい八重山吹ではない、いづこにも咲く愛すべき五弁の撫子の他にはあるまいものを。それでもなお、重なる花弁の一重でも散り残ってくれるようにと付けた名であろうか。優しきことに会ったとき、口にするところがそのまま句となることを教えて、師弟の俳諧も、「うゐうゐ敷旅人」のように夏野を行く。夏時鳥の句は、この歌仙の四日後の吟であった。

 

 

 

〇 田や麦や中にも夏時鳥

 

 

 さて「田や麦や」の句、前書は、形式は書簡を装い、前述の歌仙に重ねての俳諧について、「たゞ声をのみて、筆を捨るのみなりけらし」と断りを言う趣旨が、句を自注するかのようだ。図書によりも、むしろ翠桃に宛てたとすべきだろう。散文ではなく、歌仙の余興を継いだ俳文である。みどり濃い早苗はやがて田面に、そして熟した麦は刈り入れを待っている季節。到着以来、つまり歌仙興行のあいだ、田の代掻きなどに粒々辛苦する田園の人々の姿を目の当たりにして来て、翠桃らと雖もこれに無関係ではいられないのがよく分かる。そのように皆人がいそぐ日を、句の「田や麦や」と「花や蝶や」の類似によって、枕草子二百二十五段「三条の宮におはしますころ」の歌に比べて見る。これは端午の節句を支度する定子皇后周辺の記事。黒羽の田園はこれより一ト月前の季節ながら、まさに「百景一ツをだに見ことあたは」ざる生業の場であった。

 

‥いとをかしき薬玉ども、ほかよりまゐらせたるに、青ざしといふ物を持て来たるを、青き薄様を艶なる硯の蓋に敷きて、(清少)「これ、籬越しにさぶらふ」とて、まゐらせたれば

(宮)

皆人の花や蝶やといそぐ日も

わが心をば君ぞ知りける

この紙の端を破らせたまひて書かせたまへる、いとめでたし。

 

 「青ざし」なる麦菓子は、「青D子」と書き、「初熟の麦の青き者を取て舂いて食ふ。故に名づく。気味鹹く温にして毒無し。胃を平かにして気を益す。」というもの。あるいは「青麦を煎り、臼でひいて糸のようによった菓子」であり、これは甘い。このとき悪阻のあった定子皇后の食欲に適うものを、少量を勧めた。清少納言の言葉の、「籬越しに」というのは、古今和歌六帖二うま、にある歌による。

 

ませ越に麦はむ駒のはつはつに

         及ばぬ恋も我はする哉

 

 「これ、籬越しにさぶらふ」、この含意必ずしも明らかでないという。古今和歌六帖の歌の三句「はつはつ」を「はるばる」としてある注釈もある。また、「(枕草子)春曙抄」北村季吟には、「まぜこし・までこしといふに同じ、まゐりこし物なればと也」と注してある。芭蕉らの解釈はどのようなものだろうか。

 ともあれ、句を「皆人の」の歌に重ねれば、下句「わが心をば君ぞ知りける」が、翠桃の俳諧専心ぶりを「師よ、あなただけが知っていてくれる」と読める仕掛けだ。とすれば「この紙の端を破らせたまひて書かせたまへる」のも翠桃であるが、それが「いとめでたし」