「おくの細道」の越後路

 

 

 

 この本の中に、諸国の連衆が、どのような相貌で登場するのか、芭蕉が最も心胆を砕いたところだ。元禄十二年刊行という日付は、作者の与り知らぬところであっても、いつの日かその日に、かの邂逅の日々に〈あったこと〉を、第一の読者である彼らに教えるべき紀行なのである。

 急ぎ足で加賀に向かった芭蕉よ、かの一期一会のなんと儚かったことか。残してくれた懐紙、短冊に彼の面影がきっと宿るとはかぎらない。紀行の句はと見れば、二つの句を選んで並べるばかり。

 市振の章は、越後路の連衆の焦燥を鎮め、断念を繋ぐべく思案されただろう。かの日々の余興が未だ尽きないことを知らせて、新潟の遊女二人を出した。芭蕉が、直江津・高田で足踏みをしている間に追いついた女たちだ。男たちがするという伊勢参宮というものを女もしてみようと旅をするのだ。連衆が知っている囚われの女たち、しかし街道に出て別の顔を見せることになった女たちを主役にして、一夜の〈あはれ〉の物語を演出した。

 じつはまだ越後なのに、「越中の国一ぶりの関に至る」と定めて、物語を前章、越後路の章の入れ子としたのが暗示だ。曽良が証人だとしてあるが、物語の真偽を連衆は知らない。連衆の俳諧からあこがれ出た精でもあろう、女たちが体現する〈あはれ〉が、連衆が獲得した二つの句から導かれることを知らせた。

 とすれば市振の句は、俳諧についての俳諧である。連衆の俳諧の奥に、あるとも見えない花の在処を知らせた。

 

 

 

  その一

 

〇  文月や六日も常の夜には似ず

 

 

 曽良書留に、これを発句として、「直江津ニて」と前書する俳諧二十句がある。左栗ら直江津の連衆に対する、いかなる挨拶か。「常の夜には似ず」によって、伊勢物語二十九段(新古今春歌下105、業平)の歌、

 

花にあかぬ歎きはいつもせしかども

           今日のこよひに似る時はなし

 

を見れば、連衆の顔触れを、「花にあかぬ歎き」の対象としよう筈がないのは、どんな迂闊な人々にも明らかで、ここまでの諸国の人々も、花であったためしがないと知るべきだ。すなわち、座五「夜には似ず」は、芭蕉が業平の裔であると僭称するために作った。現在、曽良日記によっていろいろに推測される、この日の混乱を、発句は、七月六日の情を尽くした兼輔の歌によって斟酌してみせる。古今雑体誹諧歌1014

 

  七月六日、たなばたの心を、よみける           藤原兼輔朝臣

いつしかとまたぐ心を脛にあげて

          天の河原を今日やわたらむ

 

 兼輔のような人々、やや無理な願い事がある直江津の連衆は、六日の今日一日を静かに待てずにあせりに焦っている。常の夜には、こうした集歌と縁の薄い連衆も、今日は昼間から、俳諧的刺激を受けて明日を待てないのだ。その理由は言うまでもなく、このあたりを、業平の裔である翁と渾名された芭蕉が、越後路の天の河原であると見立てたからだ。七夕の当夜ならば、「人にはあはじ」という歌があって、願いは遠慮すべきか。古今秋歌上181、素性。

 

こよひ来む人にはあはじたなばたの

           久しきほどに待ちもこそすれ

 

けれど、今日は六日。俳諧が上手くなりたいという尤もな願い事だから聞いてやりたいが、俳席に押し掛けた君たちは、本当に私を待っていたのか。

 伊勢物語八十二段の、中段の二首(古今羇旅歌418419、業平の歌と惟喬親王に代わった有常の返歌)のうち、

 

狩り暮らしたなばつめに宿からむ

           天の河原に我は来にけり

 

業平のこの歌に随って、芭蕉は、越後路の天の河原に、「宿からむ」としたのだったが、曽良日記によれば、五日の柏崎では、

 

‥天や弥惣兵衛ヘ弥三郎状届、宿ナド云付ルトイヘドモ、不快シテ出ズ。‥

 

の記事があり、この六日にも、

 

‥聴信寺ヘ弥三郎状届。忌中ノ由ニテ強テ不止、出。石井善次郎聞テ人ヲ走ス。不帰。及再三。折節雨降出ル故、幸ト帰ル。宿、古川市左衛門方ヲ云付ル。夜ニ至テ、各来ル。発句有。

 

とあって、なにやら不穏な応接である。現代の注釈の一つは、「‥美濃の商人低耳(弥三郎)の紹介状をもって聴信寺をたずねたところ、寺では忌中だからといって体よくことわったのだろう。」(「奥の細道歌仙評釈」高藤武馬)としている。しかし有常の返歌、

 

一年にひとたび来ます君まてば

          宿かす人もあらじとぞ思ふ

 

に拠るならば、天の河原における、業平の裔に対する処遇としては、これで正しいのだろう、では越後路は、いったい誰をまっていたのか、というのが滑稽。こういう出来事を下敷きにして、六日の句を、「常の夜には似ず」と作って、業平の裔を僭称した。曽良日記の事実を知らない読者も、辛うじてこれを読みとるべきか。

 さて、直江津の二十句においては、左栗の脇、それと曽良の第三を、しばらく読む必要がある。

 

 

〇  露をのせたる桐の一葉  左栗

 

 

 左栗らは、音に聞く芭蕉の姿が、西行としか見えないとかねて聞いていたから、手帖に、「露、月」などと書いて、用意・研究があったか。「至宝抄」紹巴に、

 

‥一葉 いづれの木も葉の落るは初秋に候、梧桐一葉落知天下秋と作り候間、梧桐の事なりと申慣し候、

 

とする。衰亡の兆しである一葉の落ちるまで、しばらく露は、月の宿りを勤める。露に宿る月を、草の枕のなぐさめとするのであるが、西行を月に喩える歌(後出)を援用して、芭蕉を月に見立てるのだ。

 「桐の」一葉と念を押すのは、次の歌に注意を引くつもりか。夫木和歌抄三十四の西行の歌(聞書集の法花経廿八品のうち法師品。引用は、「山家集」1654による)。

 

  一念随喜者我亦與授阿耨多羅三貘三菩提記

夏ぐさの一葉にすがる白露も

          花のうへにはたまらざりけり

 

 「夏ぐさの」一葉は、蓮の葉のことだろう、連俳書に随うなら、歌の瑕にも見えよう。西行の歌は、月を宿すものが露とは限らない。ほかに波、池など、「よろづの水に月宿るらむ」とも云っている。その中に、「山家集」279がある。

 

  蓮満池といふ事を

おのづから月やどるべきひまもなく

           いけにはちすの花さきにけり

 

「山家集」伊藤嘉夫の注に、「案ずるに、この歌机上の作、蓮花は夜開いてはゐない。西行もうっかりして詠んだものであらう。」とするから、左栗ら連衆は、これも歌の瑕として気付いていたに違いない。この「うっかり」の発見が、脇の滑稽の種か。しかし、夕立の一騒ぎが過ぎれば、水面を覆う浮葉の一葉一葉に水玉が乗り、月が宿る。「山家集」280

 

  雨後夏月

ゆふだちのはるれば月ぞやどりける

           たまゆりすうるはすのうきはに

 

 聴信寺の騒ぎについては、西行が夜の蓮の花について「うっかり」することがあったように、芭蕉にも、「おのづから」の夏の歌による、「月やどるべきひまもなく」という、早合点があったかもしれない、とした。「山家集」1183に、伊勢物語八十二段の、「狩り暮らし」の歌に取材した歌がある。

 

天王寺へまゐりけるに、かた野など申す渡り過ぎて、みはるかされたる所の侍りけるを問ひければ、あまの川と申すをききて、宿からむといひけむことを思ひ出だされてよみける

あくがれしあまのかはらと聞くからに

            昔の波の袖にかかれる

 

 芭蕉が、業平の裔を僭称したとは誤りで、「宿からむ」とした芭蕉は、業平に憧れる西行その人と分かちがたい勘違いをして、今西行の評判を証拠だてた、とした。

 ほんとうの騒ぎは、芭蕉がこの俳席に吹かした、秋風ならぬ、稽古の風の騒ぎであった。「山家集」10021003の贈答による。

 

  秋ころ、風わづらひける人をとぶらひたりける返事に

きえぬべき露の命もきみがとふ

         ことのはにこそおきゐられけれ

  かへし

ふきすぐる風しやみなばたのもしみ

           あきののもせの露の白玉

 

 脇は、連衆の「わづらひける」俳諧の風が、「きえぬべき露の命」であると知ればこそ、「ふきすぐる」の歌の、「ことのは」を待っている。この俳諧の稽古の、真正の「ふきすぐる」風に耐え抜けば、もう安心、君たちの俳諧は頼もしいかぎりだ、と言ってくれるだろうか。しかし、西行が右の返歌に、五句「露の白玉」と使って、風は止んでも、「わづらひける人」がやはり消えやすい露であることを教えたように、連衆はこの俳諧の後に、伊勢物語六段の歌(新古今哀傷851、業平)、

 

白玉かなにぞと人の問ひし時

         露と答へて消えなましものを

 

によって、芭蕉の本心が明かされるのではないかと懼れている。もしや芭蕉は、露のことを、「白玉かなにぞ」と聞くような人が好みなのかと、脇は不安である。芭蕉は、「露と答へて消えなましものを」という絶唱に憧れているのかもしれない。やがて落ちる、桐の一葉にすがる消えやすい白露、これが連衆の、「風わづらひける」姿だとして提示した。直江津の俳諧の風が、どうすれば恢復するものか、連衆は教えてほしい。

 次ぎに、曽良の第三には、優しさが少ない。

 

 

〇  朝霧に食焼烟立分て  曽良

 

 

 この句、曽良を軽んじたものか、注釈が少ない。食焼は、メシタクであろうか。脇の露を、よく見ると、後撰秋中293の連歌があった。ただし、形は連歌ではない。

 

秋のころほひ、ある所に、女どものあまた簾の内に侍りけるに、男の歌のもとをいひ入れて侍りければ、末はうちより

よみ人しらず

白露のおくにあまたの声すなり

          花の色々ありとしらなん

 

この連歌を、発句が、花にあかぬ歎きを諦めながら、既に暗示していたとする。暗示だけでも過褒であるから、曽良は、「白露のおくの」あまたの花の声を聞かぬ振りをしながら、第三を別の勅撰集の連歌に取材した。拾遺雑賀1180の連歌。

 

築紫へまかりける時に、竈山のもとに宿りて侍けるに、道つらに侍ける木に古く書き付けて侍ける

春はもえ秋はこがるゝ竈山

                                  元輔

 霞も霧も煙とぞ見る

 

 というのは、元輔の別の歌、拾遺雑上502

 

神明寺の辺に無常所まうけて侍けるが、いとおもしろく侍ければ   元輔

惜しからぬ命やさらに延びぬらん

          をはりの煙しむる野辺にて

 

この二つを合わせて、聴信寺が忌中を理由とした断りを、ここでも話柄にしたのだ。本当のことなのか、聴信寺の辺に「無常所まうけて侍けるが、いとおもしろく侍ければ」、連衆は長生きすることだろう。視界不良の脇の朝霧の中に、「春はもえ秋はこがるゝ竈山」の、炊飯の煙も分明ならざるところへ、無常所・火葬場の煙さえ混然と立ちのぼり、あれはこうで、それはこうでと「‥烟立分て」、聴信寺の言い分けが著しい。

 また、第三は丈高く、という要諦がここにも及ぶとすれば、万葉集巻一2、舒明天皇御製、望国の歌の、「煙立ち立つ」に思い至るべきだ。

 

‥国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は かまめ立ちたつ うまし国ぞ あきづ島 大和の国は

 

 なお、「うまし国ぞ(怜建曾)」のところ、「万葉集拾穂抄」北村季吟では、「おもしろき国そ」となっている。とすれば、拾遺雑上502の詞書きに、「いとおもしろく侍ければ」とある、「をはりの煙しむる野辺」は、朝霧の中に国見をする、国原の景色の一端に相違ない。他に、新古今賀歌707

 

  貢物許されて国富めるを御覧じて             仁徳天皇御歌

高き屋にのぼりて見れば煙たつ

           民のかまどはにぎはひにけり

 

という御歌もある。餞別を呉れようとする連衆の旦那ぶりを言う、と読むべきか。この後、直江津の俳諧はやっと(と言って良いだろう)二十句まで進んだ。四句目以下は略す。

 

 

 

  もう一つの句

 

〇  荒海や佐渡に横たふ天河

 

 

 天と海の大景の間に、黒々と鎮まる大島嶼。荒海は、順徳院が渡った承久の、その翌日から荒海となったのであり、天河は、元禄の今夜に至るまで、佐渡の天に停滞し続けている。句は、帝王の歌柄かと疑わせて、後鳥羽院の御歌(「増鏡」新島守)、

 

われこそは新島もりよ隠岐の海の

          荒き波風心してふけ

 

この歌と対になろうとするかのようなのが滑稽。

 荒波を立てて船を出させないという、兼輔の歌がある。後撰秋哥上248

 

  七月八日のあしたに                   藤原兼輔朝臣

たなばたの帰るあしたの天の川

           船もかよはぬ浪も立たなむ

 

海は、牽牛を帰すまいとして天河に立つ、高波の余波で荒れている。これと先の古今雑躰誹諧歌1014と併せて、七夕の日を挟んだ六日と八日の、わがままな兼輔の歌の縁によって、この章に二つの句が並んだ。

 七日の歌については、古今秋歌上177

 

寛平御時、七日の夜、殿上に侍ふ男ども、歌奉れ、と仰せられける時に、人に代りて、よめる                           友則

あまの河浅瀬しら波たどりつゝ

         わたりはてねばあけぞしにける

 

この歌は、兼輔集では兼輔の歌になっている。寛平御時(九年)には、堤中納言兼輔は十代の少年であったはずだから、友則が、師匠として兼輔のために代作をしたのかもしれない。「八代集抄」北村季吟に、「そと逢たるが、あまりほどなさにあはぬ心ちして‥」と注釈してある歌だが、この年の七夕に限っては、まだ経験がない牽牛が、「浅瀬しら波」渡ることが出来ないうちに夜が明けた、と読めて奇妙だ。もしや、連衆の中には、佐渡を知る者がいなかったのではないか。

 紀行の予定に、佐渡渡海を検討した節がない。曽良日記にも、沿岸に至ってあらためて提案されたということがない。日記の行程は、七月六日の直江津着を目標にしてあったのだろうか。二日は新潟に宿。三日は弥彦に宿。四日は佐渡に連絡する港津・寺泊を過ぎて、出雲崎に宿。ここに至って佐渡に渡ることがないと決まった。五日は柏崎を過ぎて鉢崎に宿。六日に直江津に着く。

 「銀河ノ序」(「風俗文選」より)に、出雲崎からの眺望として、「‥みねの嶮難谷の隅ずみまで、さすがに手にとるばかり、あざやかに見わたさる。‥」と書いたが、越後路に至るまで知らなかったことには、右の強行日程の道中、佐渡の島影はずっとこのように見えていたのだ。そこに見えるのだから、佐渡に渡ろう、と誰が云わずとも、島影が誘っている。「‥日既に海に沈で、月ほのくらく、銀河半天にかゝりて、‥」夜毎の泊の佐渡の天に、横たわるかのごとき天河。渡らないのか、と問いかけてくる波の音。

 海上十八里を、「‥さすがに波も高からざれば、‥」と書いた真跡懐紙も残っているから、「荒海や」とは、文芸上の景色だ。「横たふ」と、漢文訓読の匂いのする一語が、詩文の読みに誘う。李白詩「横江詞」六首。其の一と其の五・六を引く。

 

 横江詞

     其の一

人道横江好    人は道う 横江の好きを

儂道横江悪    儂は道う 横江の悪しきを

一風三日吹倒山  一風三日 山を吹き倒し

白浪高於瓦官閣  白浪は瓦官閣よりも高し

‥        ‥

     其の五

横江館前津吏迎  横江館前 津吏迎う

向余東指海雲生  余に向って東に指さす 海雲の生ずるを

郎今欲渡縁何事  郎今渡らんと欲す 何事にか縁る

如此風波不可行  此の如き風波 行く可からず

     其の六

月暈天風霧不開  月暈り天風ふきて 霧開かず

海鯨東蹙百川廻  海鯨東に蹙まって 百川廻る

驚波一起三山動  驚波一たび起って 三山動く

公無渡河帰去来  公河を渡る無かれ 帰去来

 

 誰かが、「人は道う 横江の好きを」位のことは言ったかもしれない。簡単に渡れますよ、などと。しかし、李白詩が、「公河を渡る無かれ 帰去来」と渡河を制止する、横江館前の津吏の意見を受け入れたのにならった。押し渡っても、兼輔の八日の七夕歌(後撰、既出)のように、その後に海は荒海となって、戻る方途を失うかもしれない。句は、「文月や」句に同じく、直江津その他、越後路の連衆を兼輔に、貫之・躬恒らのパトロンであったという兼輔に、見立てる挨拶であった。それはまた、句が順徳院の物語の舞台に対する挨拶でもあることは、越後路の連衆には縁が薄いようだ、という表白ともなった。縁があるとすれば、兼輔の、最も良く知られた次の歌、後撰雑一1102

 

太政大臣の左大将にて相撲のかへりあるじゝ侍りける日、中将にてまかりてことをはりてこれかれまかりあがれけるに、やむごとなき人二三人ばかりとゞめて、まらうどあるじ酒あまたゝびの後、酔にのりて子どものうへなど申しけるついでに

兼輔朝臣

人の親の心はやみにあらねども

         子を思ふ道にまどひぬるかな

 

に係る心情である。これを話柄とすれば、かの承久の悲劇は、子を思道にまどう、後鳥羽院の暴虎馮河の例として、旦那衆たる連衆の耳目に入りやすいことだろうか。

 

 佐渡へ渡る港を尋ねようとするだけで、人々はたちまち、李白詩「横江詞」の津吏となって、芭蕉を李白扱いしたことだろう。果ては、論語微子第十八の六の、長沮・桀溺となって孔子扱いをしたかもしれない。中七「横たふ」の、詩文への誘いはおそらく此処まで及ぶ。地理の学者(つまりは論語読みの一人)であったという曽良までが、子路となってこの不愉快に加担したかもしれないのだ。

 

 長沮・桀溺、して耕す。孔子これを過ぐ。子路をして津を問わしむ。長沮が曰わく、夫の輿を執る者は誰と爲す。子路が曰わく、孔丘と爲す。曰わく、是れ魯の孔丘か。対えて曰わく、是れなり。曰わく、是れならば津を知らん。桀溺に問う。桀溺が曰わく、子は誰とか爲す。曰わく、仲由と爲す。曰わく、是れ魯の孔丘の徒か。対えて曰わく、然り。曰わく、滔滔たる者、天下皆な是れなり。而して誰と以にかこれを易えん。且つ而其の人を辟くるの士に從わんよりは、豈に世を辟くるの士に從うに若かんや。して輟まず。子路以て告す。夫子憮然として曰わく、鳥獸は与に群を同じくすべからず。吾れ斯の人の徒と与にするに非ずして誰と与にかせん。天下道あらば、丘は与に易えざるなり。

 

 曽良ならば、李白楽府詩「公無渡河」の一句から、論語述而第七の十の、暴虎馮河の語を思い付いただろう。ここでも曽良は顔淵ではなく子路となって、芭蕉のためには、「死して悔いなき者」であることを主張しているだろう。曽良は半ば本気で、子路という繍衣を着る滑稽を選びとるらしい。これは、芭蕉は少しも嬉しくない。

 

 子、顏淵に謂いて曰わく、これを用うれば則ち行ない、これを舍つれば則ち蔵る。唯だ我れと爾と是れ有るかな。子路が曰わく、子、三軍を行なわば、則ち誰と与にせん。子の曰わく、暴虎馮河して死して悔いなき者は、吾れ与にせざるなり、必ずや事に臨みて懼れ、謀を好みて成さん者なり。

 

 

 

  そして市振の句

 

〇  一家に遊女も寝たり萩と月

 

 

 何も知らぬ人が言う、一家に寝たのであれば、きっと「手折ったであろう」と、野辺のほそ道を歩いて着る、萩の露による濡衣がある。このあたり越後路は、手折るべき「萩の葉しげき、野辺のほそみち」の土地柄であることが知られている。「山家集」298

 

  行路草花

をらで行くそでにも露ぞこぼれける

           はぎのはしげきのべのほそみち

 

 寺泊には、次の歌がある。玉葉旅歌1241

 

為兼佐渡國へまかり侍りし時、越後の国てらどまりと申す所にて申し送り侍りし