「おくの細道」の旅立ち

 

 

 

一、雛の家

 

 

‥松嶋の月先心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、

草の戸も住替る代ぞひなの家

面八句を庵の柱に懸置。

 

二月末に芭蕉庵を出て、すなわち家を売って、杉風の下屋敷に移った。そのままにして置けば、「心に障」るだけになるものを旅費に替えて、人々の親切を袂に入れて行くのだ。旅費といえば、これより後であろうか、内藤露沾の餞別句による付合いがある(「いつを昔」其角編・元禄三年刊)。磐城平藩主の子である露沾の餞別ばかりは、芭蕉といえども辞退し難いだろう。

 

松嶋行脚の餞別

月花を両の袂の色香哉   露沾

蛙のからに身を入る声  翁

 

「面八句」は伝存不明。家の新しい主は、「笈日記」支考編の句の前書には、「‥俗なる人にゆずりて」とあって俳諧は無縁の人だったらしい。面八句と書いておきながら、実は面八句はなかったと想像させる手掛かりはない。むしろ、主が参加できない俳諧を、ひそかに芭蕉独吟の八句を興行したと思う。芭蕉独吟の俳諧は、あるだろう立机の折のものを含めて、一つも残っていないが、芭蕉のつよい意向によって、後に、座によらない芸としての独吟を否定して、すべて廃棄したのではないか。それに、庵の主は次々に代わって、「庵の柱に懸置」いた懐紙一枚は、芭蕉が何の工作を施さなくても、どこかに紛れてしまっただろう。

紀行の、引用の一節にほとんど重なる次の落梧宛芭蕉書簡には、句の初案が見られる。

 

御同境又三郎殿御下之砌、預芳翰、殊小紙一束被懸堅慮、忝奉存候。愈其元俳諧も隆盛之由、御手柄感心不斜候。野生とし明候へバ又々たびごゝちそゞろになりて、松島一見のおもひやまず、此廿六日江上を立出候。みちのく・三越路之風流佳人もあれかしとのみニ候。

はるけきたび寝の空をおもふにも、心に障んものいかゞと、まづ衣更着末草庵を人にゆづる。此人なん妻をぐしむすめをもたりけれバ、草庵のかハれるやうおかしくて、

草の戸も住かはる世や雛の家

三月廿三日              はせを

落梧雅丈

御連中可然頼存候。取込候故一紙申省候。

尚々、秋芳軒主預御状忝存候。

 

紀行の句(初案も)には、「(住)替る」とあり、「代」(または世)とあって、古今和歌集雑歌下990

 

家を売りてよめる                      伊勢

飛鳥川淵にもあらぬ我が宿も

せに変りゆくものにぞありける

 

この歌と、同933題知らずよみ人知らず。

 

世の中はなにか常なる飛鳥川

昨日の淵ぞ今日は瀬になる

 

これらに依存して、歌が世の中について言うことを鸚鵡がえしに言ったかのようだが、「住かはる世や」(初案)とあれば、世間一般の物言いではない。句は、家を売って銭に替えたのを、住替わったと言いなした。芭蕉といえども、「俗なる人」に向かって、彼に売った江戸市中の「家」と、「草の戸」の相違を説明するのは難しいだろう。これをなお、紀行の句では、「住替る代ぞ」と直したのは、どんな世の中についての説諭であるか。紀行の句は、俳諧を受け付けなかった彼を諦めて、節句に「ひなの家」となった「草の戸」の本当の主、彼の「むすめ」のためにあらためて作った。教示の意「ぞ」によって、「草の戸」を飾って「雛の家」とした親の情というものを教えながら。

「雛の家」とはどんなものか。源氏物語のあちこちに語られているのを、二三引用すれば、「若紫の巻」から。

 

‥雛など、わざと屋ども作りつづけて、もろともに遊びつつ、こよなきもの思ひのまぎらはしなり。

 

「紅葉賀の巻」から。

 

‥三尺の御厨子一よろひに、品々しつらひすゑて、また小さき屋ども作り集めて奉りたまへるを、ところせきまで遊びひろげたまへり。

 

そして「野分の巻」から。

 

(夕霧)‥雛の殿はいかがおはすらむ」と問ひたまへば、人々笑ひて、「扇の風だにまゐれば、いみじきことに思ひたるを、ほとほとしく吹き乱りはべりしか。この御殿あつかいにわびてはべり」など語る。

 

その「雛の家」の作り方が、不十分ながら「紫式部日記」に出ている。

 

このごろ、反古もみな破り焼き失ひ、ひひななどの屋づくりに、この春しはべりにしのち、人の文もはべらず、紙にはわざと書かじと思ひはべるぞ、いとやつれたる、ことわろきかたにははべらず。ことさらによ。

 

反古の紙を使うのだと分かる。芭蕉庵は、人に貰ったものだ、と言えばその通りだが、芭蕉が作った膨大な反古の束の、天和二年の大火の焼け残りで作った、ともいえる。この家は、「もろともに遊びつつ、こよなきもの思ひのまぎらはし」の家である上に、扇の風にさえ毀れそうな家であるから、少女が主催する「雛の家」となるのに相応しい。

さて、「草の戸」を、「草の庵」と言い直せば、その先蹤は、伊勢物語五十六段にある。

 

むかし、をとこ、臥して思ひ、起きて思ひ、思ひあまりて、

わが袖は草の庵にあらねども

暮るれば露のやどりなりけり

 

家を買うのに、「暮るれば露のやどりなりけり」という祝言を貰う人はないだろうが、この句は初案から、「柱に懸置」けば露を呼んで、火の用心の護符になるというナゾである。火の用心は、大火後、市中最大の関心事だ。西行ならば、晴天を請い願う歌を詠んで、和歌の浦で「社にかきつけける」、あるいは「関屋の柱にかきつけける」というところ。そのうち山家集1213(日本古典全書・伊藤嘉夫校注より。以下も同じ。)、白川の関で、能因を「思ひいでられて」詠んだ歌。

 

みちのくにへ修行してまかりけるに、白川の關にとまりて、ところがらにやつねよりも月おもしろくあはれにて、能因が秋かぜぞふくと申しけむをりいつなりけむと思ひいでられて、なごりおほくおぼえければ、關屋の柱にかきつけける

しらかはのせきやを月のもるかげは

人の心をとむるなりけり

 

芭蕉もこれから行く、みちのくの憧れと、能因・西行の系譜に続こうとする願いの真実であることによって、「面八句」を、柱に「かきつけ」はしないが、「懸置」けば、西行歌とは別種の、俳諧的効験(かれは晴天、こちらは露の)をあらわすと期待されたが、「草の戸」の新しい主は、どんな説明を聞いたことだろうか。

 

 

 

二、千住

 

 

以下は、先の「冒頭」の句に続く「旅立」の章。

 

弥生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月は在明にて光おさまれる物から、不二の峯幽にみえて、上野谷中の花の梢又いつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。千じゆと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝく。

行春や鳥啼魚の目は泪

是を矢立の初として行道なをすゝまず。人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと見送なるべし。

 

「又いつかは」は、山家集1181の歌による。この言葉は目立たないが、西行の回国修行の系譜に繋がろうとするのに、必然の言葉である。「心ぼそし」と謙虚に結んで、これは山家集に頻出することばを添えた。旅愁に「心ぼそし」と使うのは、古今和歌集羇旅歌415貫之の、「糸によるものならなくに別れ路の」という歌を先蹤とする。

 

そのかみまゐりつかうまつりけるならひに、世をのがれてのちも賀茂にまゐりけり。としたかくなりて四國のかたへ修行しけるに、またかへりまゐらぬこともやとて、仁安三年十月十日の夜まゐり、幣まゐらせけり。うちへもいらぬ事なれば、たなうのやしろにとりつきてまゐらせ給へとて、心ざしけるに、木の間の月ほのぼのに、つねよりも神さびあはれにおぼへてよみける

かしこまるしでになみだのかかるかな

又いつかはとおもふあはれに

 

帰京を期することもかなわぬ回国修行に出立する悲愴な決意と感傷(山家心中集・近藤潤一注より)の歌に対して、芭蕉の回国修業、じつは遠回りの伊勢参宮は、この春も美しかった上野谷中の花の梢のもとに、きっと帰ってくるという挨拶になっている。旅後に、京または湖南に住み着こうというのではなく、今は暫く無くなっているが、江戸の家に帰ってくる、と。

 

「月は在明にて光おさまれる物から」という一節は、源氏物語「帚木の巻」から裁ち入れたものである。鶏鳴に続く後朝の贈答の後、空蝉のもとから自邸に向かう道すがらの空のけしきだ。事はててのち、空蝉が源氏に懇願した。「‥よし、今は見きとなかけそこうなった上は、せめて、わたしとのことを決して人にお洩らしにならないで下さい。瀬戸内寂聴訳)と、古今和歌集恋歌五811の歌(略)によって。この約束は、事実を知る女房、側近の多い中に、ひとえに空蝉の幸せのために守られた。この一節の続きは、次のようだ。

 

月は在明にて光おさまれる物から、影さやかに見えて、なかなかをかしきあけぼのなり。何心なき空のけしきも、ただ見る人から、艶にもすごくも見ゆるなりけり。人知れぬ御心には、いと胸いたく、言つてやらんよすがだになきをと、かへりみがちにて出でたまひぬ。

 

紀行に裁ち入れた、何心なき空のけしきである一節は、「弥生も末の七日」以前に、決して余人に洩らすことのない事実があったことを暗示するものだ。出立の朝を美しくする文飾ではない。千住に居合わせた、共犯である人々にだけは、何心なき空のけしきが、「艶にもすごくも」見える、と言うのである。芭蕉の胸のうちも人知れず苦しくて、当の事実を記述すべき紀行さえ、人に伝える手段とできない‥、振り返り振り返りして、出立した、とも言うのである。ただし、源氏物語は、「夕顔の巻」の末尾にいたって、以下の結文を草子地に書く。

 

かやうのくだくだしきことは、あながちに隠ろへ忍びたまひしもいとほしくて、みなもらし止めたるを、「など帝の皇子ならんからに、見ん人さへかたほならず物ほめがちなる」と、作り事めきてとりなす人ものしたまひければなん。あまりもの言ひさがなき罪避り所なく。

 

源氏物語には、終生隠し果された秘密の物語というものは別にある(これも作者は現したものだが)。この件については、易々と秘密は守られたが、空蝉の夫・伊予介のほうが迂闊に過ぎるのだ。妻が着ていた、蝉の羽の小袿も見知らず、任国に下るに際して、「女房の下らんに」として源氏が贈った、餞別の品々が多すぎて美しいのも疑うべきだった。作者もわざわざ、「あまりもの言ひさがなき罪避り所なく」隠すどころか、饒舌の謗りは免れない、と書いているのだ。源氏物語の愛読者は、この紀行中に、寸分違わぬ〈裁ち入れ〉を発見すれば、弥生も末の七日、この朝以前に何かあった、と思わなければならない。

しかし、千住の芭蕉の身に、具体的に何があったかを知るのは不可能だ。千住の〈事実〉は、かの「面八句」と同様、他ならぬ芭蕉が廃棄したので、その穿鑿は無意味だ。今後も現れることがない。紀行の推敲の過程で、「くだくだしきこと」は刈り込まれた。なぜならこの紀行は、作り物語ではない、作者ならぬ物語の主人公が語る物語だ。何を書き、何を捨てるのか、細部を彼が裁量する。すなわち、都合の悪いことは書かない。虚構は彼が捨てた事実の空隙にあらわれて、辻褄合わせとなり、裁量を裏切ろうとする。

〈事実〉が答を求める。「「など〈大宗匠芭蕉〉ならんからに、見ん人さへかたほならず物ほめがちなる」と、作り事めきてとりなす人ものしたまひければ」、芭蕉だからと言って行い澄ました話ばかりで、作り事めいていると言う人もいるので、捨てた物事のつまりナゾの、せめて在処を、〈裁ち入れ〉にして暗示して置くのである。見るべき人は見よ、と。この〈裁ち入れ〉が、源氏が返した蝉の羽の小袿にあたる。紀行にはその他、伊予介に贈った餞別のように、「‥手向け心ことにせさせたまふ、また内々にもわざとしたまひて、こまやかにをかしきさまなる」暗示に満ちているから、伊予介である読者は、こんどこそ心当たりを探るべきだ。

 

以上は芭蕉の、〈事実〉隠蔽の態度とその暗示について述べたが、一転して、もう一つの結論に導かれた。この件について、源氏には、事が露顕する不利益はなく、伊予介が知るところとなっても、源氏に対して何の仇をなす事も出来ない。まったく同様に、「弥生も末の七日」以前の芭蕉にとって、くだくだしくて書くのも面倒なことはあっても、都合の悪い事が顕われて、彼に仇をなす〈事実〉があったはずがない。何か訳があるとすれば、若い人々が、何日も引きとめた大騒ぎを、「‥よし、今は見きとなかけそ」とばかりに、内緒にしてほしいと、芭蕉に懇願したのである。源氏における、空蝉の「あやしう人に似ぬ心強さ」の恋を捨てないのは、芭蕉における俳諧の魔心のようなものか。すなわち芭蕉の俳諧・俳文の工夫は、人々の懇願を幸便にそのまま仕掛けにして、ナゾに作った。芭蕉が書かなかった〈事実〉を明らかにしようとするのは、芭蕉が導く、俳諧・俳文の解読の手順に従うことになる。

当然のことに、紀行はナゾの解読のために、「曾良日記」などの参照を予定していない。だから「曾良日記」が無くても、紀行と句は読める筈だが、現代の読者が得た幸運な特権を、無い事にはできない。蛇足ながら、「曾良日記」に誤りがあると指摘し、もしくは予定の記事を含むとして二のつぎにするのは、芭蕉が、「曾良日記」などの参照を予定していない事情とは関係がない。

 

句の、「行春や」は、今日を入れて春もあと四日の感傷を言うのみではない。この章を、「弥生も末の七日」になってしまったと書き出して、さしもの前途三千里、実数でも約六百里の、およそ半年の日程が、すでに逼迫してきていることを言う。暦では、この年の立夏は三月十七日だった。愚図愚図しているとこのまま本当に夏になってしまう。四月になれば街道は混雑して、良い宿は無くなってしまうと聞く。この句にいたるまでに、芭蕉を引き止めていた者たちがあった。

「鳥啼」とは、千住の別れ路で聞いた鶏鳴と、それに続く朝の小鳥たちの声だろう。深川仙台堀川から、杉風の下屋敷・採荼庵を日の出とともに出発して、千住には、「曾良日記」では三月二十日の、「巳ノ下尅」十一時半頃に着いている。大川を遡上する時間は、日々の潮によって違うのだろうが、二十日も、すでに日は高い。句が、旅立ちは早朝という決まり事によって、鳥の声を出したのでなければ(芭蕉が、昼の句に鳥の声を出す筈がない)、書き出しの、「弥生も末の七日」の日付は、この句にまで及ばない。

「むつまじきかぎりは」から「船をあがれば」までが「曾良日記」の書き出しの二行に相当する。

 

巳三月廿日 同(日)出、深川出船。

巳ノ下尅 千住ニ揚ル。

 

「宵よりつどひて‥」、二十日、人々はみな寝不足である。これが二十七日まで続いたのだろう。「船をあがれば」の一語の中に、船をあがってから、二十七日の鶏鳴の時刻に街道に居並ぶまでの、千住における人々の動向が圧縮されて、見えない。二十日の記事が、出立の日の記事に入れ子になっている。紀行は、三月二十日の日付を隠した。この詐術にも拘らず、共犯である見送りの人々のために、書き落とした事はないのである。

 

転送された落梧の書簡を、際どく千住で受け取って、直ちに返事を書いたのだと思われる。芭蕉が二十三日、返事をどこで書いているのか、出立を何に手間取っているのか、このあたり、遠境岐阜の落梧に、詳しい説明は不要なのである。ともかく二十六日に江戸を出立する、と告げた。実際にはもう一日延期されたのだが‥。一行は二十日に、大橋のこちら側、江戸府内中村・小塚原側に船を上がったのではないか。通称大関横町、千住宿の入口辺りに、黒羽領主大関氏の下屋敷があったから、芭蕉はこれに挨拶に訪れたのではないか。

 

 大旅行を前にして、ここで精を出し尽くしてしまおうという、不届きな提案が若い人々からあったとしても不思議ではない。そうしないと、伊勢外宮遷宮式参拝の日、九月十四日まで到底精進の身がもたぬだろう、と。大人数(蕪村の「逸翁美術館所蔵・奥の細道画巻」千住の旅立では見送り五人、絵の外にもまだいる気配‥)で、街中の大路を二里余も歩く訳にいかないから、深川から大川をずっと遡上したのだが、舟で行っては大方の漂客と区別がつかない。

 

「魚の目に泪」は、直前に、「幻のちまたに離別の泪をそそく。」と書いた、同じ泪だ。宵の村雨を郭公が涙をそそくのであろうか、とした歌や、止め処ない老いの涙を、そそくと表現した歌はある。しかしここで、時に感じ、別れを恨んでは流す泪を、「そそく」とするのは、杜甫詩「春望」の用法ではないか。杜甫四十六歳の春、長安の賊中での作。偶々、元禄二年の芭蕉の年と同じだ。

 

春望

國破山河在  国破れて山河在り

城春草木深  城春にして草木深し

感時花濺涙  時に感じては花にも涙を濺ぎ

恨別鳥驚心  別れを恨んでは鳥にも心を驚かす

烽火連三月  烽火三月に連なり

家書抵萬金  家書 万金に抵る

白頭掻更短  白頭 掻けば更に短く

渾欲不勝簪  渾べて簪に勝えざらんと欲す

 

「幻のちまた」とは、天和元年の俳文「笠やどり」に見える、「無為のちまた」と同じ用法であろう。そこでは遊里・江口の里をそのように呼んでいた。

 

‥無為のちまたに雨やどりし給ふめる西行の侘笠、哀に貴シ。‥

 

江口の里に雨宿りして貴くも無事であった西行に比べて、千住の花街で大勢に捕まっている芭蕉が無事だったろうか。書簡中でも、「去年たびより魚類肴味口に拂捨」と、人々に触れている精進潔斎は、初めからどうなってしまうのだろうか。かの「雨やどり」を念頭におくので、千住を「幻のちまた」と言うのだ。足止めを余儀なくされていたから、こう言うのだが、かの雨宿りに同じく、芭蕉も辛うじて無事であったからこそ、千住は「幻のちまた」なのであろうか。

「幻のちまた」である千住は長安城に、そして芭蕉をなかなか離そうとしない見送り人大勢は、安禄山の賊軍に格上げされた。落梧の手紙も、ここでは家書同様、万金に抵る。しかし詩・斉風・敝笱「やぶれびく」の歌は、芭蕉と曾良の二人のものであった。魴と鰥(かん)の大魚二匹は千住宿の、大川に直行する陸の大川に設置された梁を、すり抜けるのである。大魚は自由だと言う詩。

 

敝笱

敝笱在梁  敝れたる笱の梁に在り

其魚魴鰥  其の魚は魴と鰥

齊子歸止  斉の子は帰ぎしとき

其従如雲  其の従は雲の如し

 

敝笱在梁  敝れたる笱の梁に在り

其魚魴鱮  其の魚は魴と鱮

齊子歸止  斉の子は帰ぎしとき

其従如雨  其の従は雨の如し

 

敝笱在梁  敝れたる笱の梁に在り

其魚唯唯  其の魚は唯唯

齊子歸止  斉の子は帰ぎしとき

其従如水  其の従は水の如し

 

大魚二匹のうち鰥は、「男やもめ」だと何時の間にか知っている文字であるが、現代の大きい辞書は、「魚目」を説明するのに、詩、周南・桃夭序の「国無鰥民也」を、孔頴達疏に注して、「無妻曰鰥者、愁悒不寐、目恒鰥鰥然、故其字従魚、魚目不閉也。」とあるのを引く。また別に「鰥」を説明して、これも詩、斉風・敝笱の「其魚魴鰥」について、毛亨傳に「鰥、大魚。」とし、鄭玄箋に「鰥、魚子也。」とするのも引く。芭蕉としては大魚でも魚子でも構わない。これら古注は、千住宿に集まった人々すべてに、馴染みがある。「魚の目」の泪とは、いつも水中にある魚の泪を見ることがないように、見送りの人々が、彼が泣くことがあるとは知らなかった泪を、見せてしまった。魚の目は、愁悒して寝に就いても、若しくは、語りつくさぬことが多くて、目を閉じて眠ることが出来なかった、不眠の目だ。離別の時に感じて、幻のそして無為のちまたに涙を濺ぐのを見せる。

 

右の、「矢立の初」とした紀行の句を、見送りの人々は誰も知らなかった。知っているのは、「続猿蓑」旅之部留別にもある句の方だ。

 

鮎の子のしら魚送る別哉

 

これは土芳の「蕉翁句集草稿」というものに、「此句、松島旅立の比、送りける人に云出侍れども、位あしく、仕かへ(「行春や」句に)侍ると、直に聞えし句也」とある句で、これにも別案があって、「知足筆書留切」というものに(ここだけにある句)、「行春や」句と並べて記して、

 

若鮎に白魚つるゝ別かな

 

「とすべきものをと口おしがり申候」と付記する。芭蕉が、二句を並べて紀行に採用すべきだったと、知足に語ったものだという。

時代はだいぶ下るが、「俳諧歳時記栞草」では、白魚(春魚・鱠残魚・王余魚・銀魚)は、正月の部に出して、「江海の交に生ず。立春の初に出、人これを賞す。二三月、腹に子あり、味稍劣れり。‥」とし、鮎の子(小鮎・汲鰷・若鮎)は、三月の部に出して、「‥二三月の初、江海の交に在て、大さ一二寸、いまだ鱗骨を生ぜず、潔白。たゞ黒眼をみるのみ。呼んで小鮎、若鰷と云。‥」とする。兼三夏物には、「‥たゞ鮎とばかりいへば夏なり。落鮎・渋鮎といひて秋季なり。」とある。芭蕉が食べ物について、知らないことはおそらくない。きっと芭蕉の方がこの本より詳しいだろう。

鮎の子と白魚と旬を交代する季節に、若い人々である鮎の子は止まり、白魚である旅人を送るのである。無論、大川の水中にいる魚に喩えて言うのではない。網に掛かって食べ物となり、市場に運ばれるものと、それを免れて自由なものについて言う。深川でも千住でも、料亭の食膳では、このころ鮎の子が白魚と主役を交代する。杜甫詩「白小」は、中国の魚のことでもありどの種類の魚か分からないが、白魚の方から鮎の子のために、詩に倣って、「尽とく取るは義何如」と言ってやる。しかし、白魚は、旬を外れて「味稍劣れり」として見逃され、一方、鮎の子を扇網というものに追い集めて小杓で汲むという大川のほとり、千住の集客装置は、杜甫詩「白小」の漁法よりも徹底的でないようだ。網目が粗いのは、「生成 猶お卵を捨く。尽とく取るは義何如。」に自ずから適うのである。

 

白小

白小羣分命  白小 群分の命

天然二寸魚  天然 二寸の魚

細微霑水族  細微なるも水族に霑い

風俗當園蔬  風俗として園蔬に当つ

入肆銀花亂  肆に入れば銀花乱れ

傾筺雪片虚  筺を傾くれば雪片虚し

生成猶捨卵  生成 猶お卵を捨く

盡取義何如  尽とく取るは義何如

 

しかし、食膳に乗ってしまっては、鮎の子が、「銀花乱れ」というほどに美しくない。「鮎の子は」句を、「位あしく」として退けたのは、句が生きた白小の、銀花の輝きと雪片の純潔を失い、あたかも千住の客あしらいを褒めて、この詩を千住に売り渡したかのようだからだ。詩を、客寄せに使われかねない(もう使っている店があるかもしれない)。そしてこの句もまた。

これを、「若鮎に」句に直せば、若鮎と白魚とは生きた白小として、食膳・旬の分類を経ずに、人々と芭蕉を直喩する。「つるゝ」・若鮎に白魚が伴われる、とは旬を離れた魚としての季節の交代について言う。もしも、次の歌のように、大空で春と夏を交代する、「雁」と「つばくらめ」ならば、「ちがふ」などとあるべき所を、大川の水中で交ざりながら別れるので、「つるゝ」と言うのだ。山家集1947

 

歸る雁にちがふ雲路のつばくらめ

こまかにこれや書ける玉づさ

 

確かに人々は芭蕉を伴って、ここ千住にあらわれ、あたかも拘束するかのようだったが、強く捉えた手を離すことが、そのまま行く者の背中を強く押してやることになった。その手に感謝して、若々しい銀花の輝きとともに、人々の姿を紀行の句に留めたかった。しかし、この句を、「行春や」句と並べるならば、紀行本文の改変に及んで、幾つものナゾが失われる。

 

 余計な事ながら、千住で大勢の長逗留があったとするならば、その費用はどうしたのだ、という心配はあるが、露沾など金持ちは多いから、施しではない金だから、どこからでも出てきたことだろう。

 また、以下も空想だが、この数日のある日に、露沾が現れて、芭蕉と冒頭に引いた送別の付合を作った後に、大金を置いて去ったなら、それが大勢の長逗留の誘因となるだろう。

 

 

 

三、草加

 

 

「旅立」に続く、「草加」の章も引用しておく。

 

ことし元禄二とせにや、奥羽長途の行脚只かりそめに思ひたちて、呉天に白髪の恨を重ぬといへ共、耳にふれていまだめに見ぬさかひ、若生て帰らばと定なき頼の末をかけ、其日漸早加と云宿にたどり着にけり。痩骨の肩にかゝれる物先くるしむ。只身すがらにと出立侍を、紙子一衣は夜の防ぎ、ゆかた・雨具・墨筆のたぐひ、あるはさりがたき餞などしたるは、さすがに打捨がたくて、路次の煩となれるこそわりなけれ。

 

早加と云宿に、「たどり着にけり」とあるだけで、泊まったとは書いてない。一息入れて、「痩骨の肩に‥」から、「‥わりなけれ」まで、旅支度を整え直したのだ。もてあます餞別の品々によって、芭蕉もまた、伊予介と同類かもしれぬと一応は疑って見せる。しかし、よく調べて、捨てられるものはここで捨てて行くのである。「漸」と書くのは、傍目には、いったい何時出立するのだと見えたからだ。童子も知っている地名であるから、草加に着けば、漸くこれで旅の空にいるということになる。「曾良日記」の三行目には、

 

一 廿七日夜 カスカベニ泊ル。江戸ヨリ九里余。

 

とある。特に「夜」と書いたのは、粕壁に日も暮れようとして着いたのだろう。旅の足の勢いを付けるかのように、初日からの強行軍だ。

 誰も、もう道の途中で後影をみるという人はいない。この後、芭蕉の足跡をたどる人々が、現代にいたるまで陸続と続いた。後を追っても、道に迷う人は誰もいないが、百代の過客となって歩き続ける二人の後影を、どこかで見た人はいるのか。声が聞こえるまでに近寄って、二人の哄笑を聞いた人はいるのか。人々は何時、二人を見失ったのか。千住を送り出した時か。それとも、深川で大勢が船に乗るのを見送ったままなのか。それとも‥。

2002-11-5

 

 

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