
「おくのほそ道」の平泉まで
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「おくのほそ道」で、芭蕉が参詣して廻った社寺を調べてみる、とお約束しましたが、なかなか生活上その他の障碍が多く、遅れておりました。直らなくなったいままでのものに換えて、ようやくノートパソコンを手に入れて調教もほぼ済み、病床に持ち込んだりしております。今風の他機種にすればよかったかと後悔しきりです。それはともかく、平泉まで、やゝ長いものになりましたが、お見捨てにならず、お付き合い下さい。この先、庄内地方から出羽三山に向うことになりますが、息切れを整えるべく、しばらくお休みを頂きます。
「調べてみる」とは言っても、ほとんどが同封の、角川文庫「新訂 おくのほそ道」頴原退蔵・尾形仂訳注の一冊から拾って写す、ということになりました。それほどこの小型の本は、便利かつ稠密です。尾形仂先生の「解説」の末尾に、「(連載中の新研究が)追って角川書店から「日本古典評釈全注解叢書」の一冊として刊行される予定である。本書に説き足らない点については、右を参照していただければさいわいである。」とあります。この詳しくて新しい「おくのほそ道評釈」の刊行は、昭和四十二年の右の「解説」の予告から遅れに遅れて、平成十三年になりました。新しい説は少ないようですが、「説き足らない点」に隈なく及んで、この上なく詳しい本です。ぜひご一読を‥。
以下に並べた、「発端」から始まる章段の名は、原文にはなくて、これと、赤の引用文のページ数は、角川文庫「新訂 おくのほそ道」のものです。新しい「おくのほそ道評釈」では章段の名は、やや異なっています。「第一夜」を「草加」と直し、「日光」を三つに分けて「仏五左衛門」「御山詣拝」「黒髪山・裏見の滝」とし、「末の松山・塩竈」を二つに分けて「末の松山・塩竈の浦」と「塩竈明神」とし、「瑞巌寺」と「石の巻」を一つに纏め、「平泉」を二つに分けて「高館」と「中尊寺」とし、「出羽三山」を二つに分けて「羽黒山」と「月山・湯殿山」とし、「酒田」を「鶴岡・酒田」と直し、「汐越の松」と「天龍寺・永平寺」を一つに纏めてあります。このように、章段の名と区切りは、同じ学者の本でも異なることがあり、その他のどの本でも、研究の態度・結果を反映しています。
角川文庫本は、教科書のために作られた不思議な表記に「準拠」しています。読みやすいといえばそうなのですが、「・印の文字を省き、行間の( )内の文字をたどれば、もとの底本の形に復元できる」仕組みになっていて、教室の真面目な生徒たちの、家にある本と違うよ、という不審にも答えてくれます。
さてはじめに、紀行本文に登場する社寺をひろってみます。社寺を「参詣して廻った」といえば間違いに近く、面倒なことが多くなりますが、それぞれの社寺参詣の経緯を細かに見るべきです、以下の社寺の名は、日光の東照宮、松島の瑞厳寺、平泉の中尊寺など、今で言えば観光名所に類するもの、土地(の物語)に対する挨拶として参詣したもの、人々とのお付き合いに類するもの、などですが、もれなく記録しようという意図は見られず、その役割(その記録が有用であることは確かなことでしょう)は同行の曾良の日記に任されています。
曾良の日記も、全く公表を予定しないというものではなく、事実の取捨は、芭蕉という読者のために書かれたもののようです。紀行本文の虚構を明らかにしてしまう部分と、かえって事実を隠蔽する部分があるように見えます。
一、紀行本文の社寺
発端
旅立ち
黒羽藩主大関氏の下屋敷は、千住にありました(藩邸は下谷広小路に。)。八千坪の屋敷の南・西の道を大関横丁と言ったそうです。今でも地点は少しずれていますが、日光街道と明治通りの交差点の名として残っているのがそれです。余瀬・黒羽には、四月三日から四月十五日まで滞在しています。黒羽の先の芦野を支配する大身旗本もそうですが、黒羽藩士にも俳諧の門人がいた様子ですから、折角、千住から出立して、やがて領国に厄介になるのにあたって、義理堅い芭蕉が、この下屋敷に挨拶に出向かないはずがない、と思われます。曾良の日記は、
巳三月廿日 同(日)出、深川出船。巳ノ下尅 千住二揚ル。
一 廿七日夜カスカベニ泊ル。江戸ヨリ九里餘。
と書きはじめられました。元禄二年(1689)三月二十日、日の出とともに深川を出船した芭蕉は、二十七日(今で言う五月十六日)の朝に千住を出た、として(昔、旅はほとんどの例が朝立ちです)、それまで千住で何をしていたのでしょうか、何も書いてありません。其角ら遊びのつわものも見送りに混じっていました。あるいは黒羽の藩士もこれに加担して、芭蕉をしばらく千住花街の囚人にしていたのかもしれません。空想の手順としては一般的なものだろうと思いますが、この説を採る本はありません。あるいは曾良日記の一行目は予定を書いたものだとか、あるいは旅行の大敵である雨に降り込められたから、などなど。千住の大名屋敷(千住には黒羽藩の他にも幾つかの大名の下屋敷がありました。伊勢亀山藩の石川屋敷、対馬藩の宗屋敷など‥。)のどれかに招かれて、俳諧興行があった、という説もあります。この説あたりが穏当かと思いますが、全く省みられる事がありません。
第一夜
室の八島
P14 室の八島に詣す。 「室の八島」は歌枕でもあります。今の栃木県惣社町の大神(オオミワ)神社。室八島明神ともいう。後に述べる「義経記」にも、何度かこの名が出てきます。
日光
P15 卯月朔日、御山に詣拝す。 ご存知東照宮の一群の社寺。
剃捨て黒髪山に衣更 曾良
この句によって同行曾良を紹介して、この先彼に筆を及ぼさない段にあっても、必ずその姿が芭蕉の後ろにあるものとして読むべきことを告げています。
那須野
黒羽
P18 それより八幡宮に詣づ。与市扇の的を射し時、「別してはわが国氏神正八幡」と誓ひしも、この神社にてはべると‥ 今の太田原市南金丸馬場にある那須総社金丸八幡宮那須野神社。
P19 修験光明寺といふあり。そこに招かれて行者堂を拝す。 余瀬の天台修験寺。先達源光法印の室は黒羽の館代(城代家老職)浄坊寺家の出だった。
元禄二年は西行の五百年忌にあたる年です。西行の没年は建久元年(1190)、その前年・文治五年には、若い義経が平泉・高館で惨殺されて(自害して)います。那須の与一と共に、八(屋)島・檀ノ浦あたりで義経の陣営のどこかに加わっていただろう武門の家だと思えば、那須七騎の一つである、黒羽の人々の衿りはこの日頃充分に刺激されていたことでしょう。芭蕉はこれを事々しく口に出しませんが、八幡宮に参詣して、「‥と誓いひしも、この神社にてはべる」と案内されれば、「感応殊にしきりにおぼえらる。」と、紀行本文は、人々の期待に良く応えたものになっています。武門の大切な道具といえば、第一に馬・戦闘用の馬ですが、黒羽を発って芦野に向かう芭蕉に、館代浄坊寺図書は馬を貸しました。これについての芭蕉の句は、馬丁の「短冊得させよ」という優雅な望みに応えた、
野を横に馬引き向けよほとゝぎす
です。野を縦に、ならば街道を指し、野を横にならば広大な那須野を指すことになるでしょう。この馬によって那須野を差配する図書をほととぎすと呼んだ。やがて盛夏となればやかましく鳴きたてて領民を督促し(ほととぎすには田植えの人々を督促する「しでの田長」の名があります)、さらには、馬丁までも芭蕉に短冊を所望するという、黒羽の俳諧好きをも督促する、俳諧のほととぎすとして、この句を与えたと思われます。今、黒羽にほととぎすはまだ鳴いていない。都人の季語は季節をずれて、東国の夏はゆっくりと江戸の人々にも判らないスケジュールで進んでいるようです。「滑稽」はこの場合、季語・ほととぎす出現の季節のずれ、きわどさにあると思っています。この先、芭蕉は須賀川の等躬の家の田植えに際して、
風流の初めや奥の田植歌
という句を作っていますから、芭蕉たちは白河の関を越えて数日後、初めて田植見物をはたしたのでしょう。ただし、黒羽でほととぎすは鳴かなかった、田植も、従って田植歌もまだだった、という説は、どの本にもありません。黒澤明「七人の侍」のラストシーンの田植えを先日再見しました。芭蕉たちは、あのシーンのような田植歌を、須賀川に到ってようやく聞いたはずです。
雲巌寺
P19 当国雲厳寺の奥に仏頂和尚山居の跡あり。 黒羽町大字雲巌寺にある。臨済宗。
殺生石・遊行柳
白河の関
須賀川
浅香山・信夫の里
飯塚の里
P25 またかたはらの古寺に一家の石碑を残す。 瑠璃光山吉祥院医王寺。佐藤一族の菩提寺。
このころの、「義経記」の読者は、義経に従って屋島と京で討たれた佐藤継信・忠信兄弟の本貫の地が信夫の里にあるのを良く知っていたのでしょう。その巻第五「忠信吉野に留まる事」に、
信夫の佐藤庄司(藤原秀衡の郎党・佐藤元冶)が二男、四郎兵衛藤原忠信と云ふ侍あり。‥「‥人も命有り、我も存命へたらば、明年の正月の末二月の初には陸奥へ下らんずれば、御辺も下りて秀衡をも見よかし、又信夫の里に留め置きし妻子をも、今一度見給へかし」
とあります。紀行本文に、
佐藤庄司が旧跡は 左の山際一里半ばかりにあり。飯塚の里鯖野と聞きて、尋ねたづね行くに、丸山といふに尋ねあたる。これ、庄司が旧館なり。
とあるところです。「飯塚の里鯖野と聞きて」というのは、信夫の里の段では、「しのぶもぢ摺の石を尋て忍ぶのさとに行。」のでしたが、もう一つ同時に、「(信夫の庄司である)佐藤庄司が旧跡」の在りかを尋ねたのでしょう。あらためて地図(文庫本付録の)を見ますと、奥州藤原氏の勢力圏・出羽、陸奥の広さを知る事になります。また、ここ信夫の里でも、歌枕と軍記物の死者の事跡・物語が重なることにも注意されます。
陸奥は岩手県平泉が突き当たり。それを左に折れて奥羽山脈の鞍部を越えて出羽・庄内地方に出る、と、日本地図帳で見ますと、こんな道を歩けるものかしらと不思議な感じがします。文治二年(1186)二月、京から逃避行を北陸道にとった義経には、平泉が終点でした。義経の一行(従う家来は十六人ということになっています。)は、「義経記」巻第七「判官北国落の事」で、平泉までの道を、敦賀から舟で出羽に渡る、と決しますが、目論見どおりには行かずに、苦難の道行き(安宅関の勧進帳は芝居だけ‥)はこの本の見せ場の一つとなります。たどり着いた平泉では、翌文治三年(1187)十月に秀衡が死んだ後も、しばらくの平穏があって、文治五年(1189)閏四月三十日、衣川・高館で襲われて惨殺されます。芭蕉たちの紀行の道筋は、あと十日ほどの後から、義経が来た道を逆にたどることになります。
笠島
武隈の松
宮城野
P29 薬師堂・天神の御社など拝みて、その日は暮れぬ。 薬師堂は、もとの国分寺。伊達政宗の再興。天神の御社は、伊達家四代綱村がつつじが岡の地に建立したもの。
壷の碑
末の松山・塩竈
P32 早朝、塩竈の明神に詣づ。 塩竈市の塩竈神社。陸奥一の宮。
飯塚の里(飯坂温泉)の、佐藤一族の菩提寺の見物もそうでしたが、塩竈神社で、和泉三郎寄進の宝塔を見たのも、旅の功徳の一つです。秀衡の子、和泉三郎忠衡は、義経の死後まもなく、鎌倉に帰順するのに反対して、兄の錦戸太郎国衡に殺害されています。ただしこの話は、「義経記」にはなくて謡曲「錦戸」にあります。
「義経記」は、判官贔屓という諺を生んだ物語ですが、忠義の対象たるべき頼朝の、さまざまな奇怪な言動を読み続けては、義経もかなり奇怪な人物ではありますが、芭蕉といえども、判官の贔屓とならざるを得ないでしょう。戦の前線に出ない頼朝、鎌倉に留まって上洛しようともしない頼朝が不快ですが、次の場面などが、最も奇怪な頼朝です。
巻第六「静鎌倉へ下る事」に、
鎌倉殿梶原を召して、「あら恐し、それ聞け景時。既にえせ者の種をつかぬ先に、静が胎内を開けさせて、子を取りて亡へ」とぞ仰せける。
巻第八「秀衡が子供御追討の事」に、
頼朝仰せけるは、「抑も是等は不思議の者共かな。頼みて下りつる義経を討つのみならず、是は現在頼朝が兄弟と知りながら、院宣なればとて、左右なく討ちぬるこそ奇怪なれ」とて、泰衡が添へて参らせたる宗徒の侍二人、其外雑色・下部に至るまで、一人も残さず首を斬りてぞ懸けられける。
芭蕉はこの「義経記」が好きだったのでしょうか。近江の義仲寺に、義仲と背中合わせに墓がある芭蕉は、義経よりも、義仲の贔屓だったと思われますが‥。義仲を追討し、ついで平家を壇ノ浦に滅亡させた義経が好きだったとは、どうも思えない。岩波文庫「義経記」解説・島津久基に、全編をうめる虚構に違いない細部が、「普通に漫然と想像せられてゐる程度以上、史実との接触が保たれてゐる。」という辺りが、俳諧に適うのかと考えております。
松島
端巌寺
P34 十一日、瑞厳寺に詣づ。 天台慈覚大師の開基。鎌倉時代臨済宗に改宗。
石の巻
次のように、紀行本文で、芭蕉たちは道に迷います。
十二日、平泉と志し、姉歯の松・緒絶えの橋など聞き伝へて、人跡まれに、雉兎蒭蕘の行きかふ道そことも分かず、つひに道踏みたがへて石の巻といふ港に出づ。
松島から石の巻までが、「人跡まれに、雉兎蒭蕘(猟師,草刈・木樵)の行きかふ道」とも思えず、石の巻の名が、曾良の歌枕予習の書、「名勝備忘録」にあるなど、各注釈書が、迷子は虚構であろうとしているところです。それぞれの説は略しますが、ここは、「義経記」の、義経一行の平泉到着直前の道筋が不分明なことに、符合していると思われます。近畿の地理なら間違える筈もない作者も、よく知らない陸奥の最深部の地図は、歌枕の数々を便りにして作ったのでしょうか。巻第七「直江の津にて笈探されし事」に、
かくてさし上らせ給ふ程に、みるたから、たけ比べの杉などと云ふ所を見給ひて、矢向の大明神を伏拝み奉り、會津〔相川〕の津に著き給ふ。判官、「寄道は二日なるが、湊にかかりては、宮城野の原・榴が岡・千賀の塩竈など申して、三日に廻る道にて候に、亀割山を越えて、へむらの里、姉歯の松へ出でては、直に候。何れをか御覧じて通らせ給ふべき」と仰せられければ、「名所々々を見たけれども、一日も近く候なれば、亀割山とやらんにかかりてこそ行かめ」とて、亀割山へぞかかり給ひける。
とあるところです。亀割山でお産となる、臨月の北の方を抱えて、松島の「湊にかかりて」という名所見物の寄り道を提案するとは、奇妙です。このあたりの地理を全く間違えている「義経記」もあります(小学館・古典文学全集が底本とする本)。歌枕が、軍記物の道行文でも、芭蕉の紀行文でも、同じように機能してしまう、正しく言えば、機能しないのを、「滑稽」として注意したという事でしょうか。姉歯の松・緒絶えの橋に立寄ることなく、袖の渡り・尾ぶちの牧・真野の萱原などもよそ目に見て通り過ぎます。この当て外れを、「道踏みたがへ」た、と言ったのでしょうか。
平泉
P37 かねて耳驚かしたる二堂開帳す。 中尊寺の経堂と光堂。
芭蕉たちは一ノ関に宿を取って、五月十三日午前十時ごろから、平泉まで二里の道を見物に出て、午後三時半ごろに帰宿しました。紀行本文には、
さても、義臣すぐつてこの城にこもり、功名一時の叢となる。「国破れて山河あり。城春にして草青みたり」と笠うち敷きて、時の移るまで涙を落としはべりぬ。
とあって、高館の城跡で作った句があります。
夏草や兵(つはもの)どもが夢の跡
よく知られた、杜甫詩「春望(春のながめ)」からの引用を、夏の句の直前に置いて、あたかも荒れ果てた長安の春の詩情をそのまま夏草しげる城跡に引き写したかのようです。
國破山河在 国破れて山河在り
城春草木深 城春にして草木深し
感時花濺涙 時に感じては花にも涙を濺ぎ
恨別鳥驚心 別れを恨んでは鳥にも心を驚かす
烽火連三月 烽火 三月に連らなり
家書抵萬金 家書 万金に抵る
白頭掻更短 白頭 掻けば更に短かく
渾欲不勝簪 渾べて簪に勝えざらんと欲す
本文に、「草青みたり」と、詩の、「草木深し」を小さく改変してあります。これは、ここで詩の受容については、ほんの一端を借りる、という断り書きと読むことが出来ます。つまり、遠慮しながら引用するのだ、と‥。詩は、安禄山の叛軍に捕えられ、長安に拘禁されていた時の作。杜甫はこの後、荒廃した長安から辛くも脱出して、粛宗皇帝の行在所のあった、鳳翔にたどりつきました。しかし、「義経記」の記事でも、幸若舞「高館」でも、惨劇が始まった後に、脱出した者は誰もいません。「義経記」は、「常陸坊を初として、残り十一人の者共、今朝より近き辺の山寺を拝みに出でけるが、其儘帰らずして失せにけり。」として、逃げ出した常陸坊海尊らからの伝聞も否定しているようです。島津久基の解説、「普通に漫然と想像せられてゐる程度以上、史実との接触が保たれてゐる。」にもかかわらず、最も肝心のこの場面になって、兵どもの声を、正しく聞くことが出来ないのです。匿名の作者が、皆死んでしまったのを良いことにして、見てきたような話をでっち上げた、と断定するのが、「草青みたり」の改変の役目です。脱出した者は、詩人ではなく、兵どもの証言を捨ててきた、ただの裏切り者であった、という暗い滑稽が、芭蕉の涙を誘います。
さて、文治二年八月十五日、六十九才の西行は、鎌倉で頼朝に会っています。義経一行が平泉に着く頃(「義経記」に日付は書いてありません。)だったでしょうか。「吾妻鏡」から、元は漢文ですが‥。
十五日、己丑、二品鶴岡宮に御參詣、而るに老僧一人鳥居の邊に徘徊す、之を恠しみ、景季を以て名字を問はしめ給ふの處、佐藤兵衛尉憲清法師なり、今は西行と號すと云々、仍つて奉幣以後、心靜に謁見を遂げ、和歌の事を談ず可きの由仰遣はさる、西行承るの由を申さしめ、宮寺を廻りて法施を奉る、二品彼の人を召さんが爲、早速に還御、則ち營中に招引して御芳談に及ぶ、此間、歌道並びに弓馬の事に就きて、條々尋ね仰せらるる事有り、西行申して云ふ、弓馬の事は、在俗の當初、憖に家風を傳ふと雖も、保延三年八月遁世の時、秀郷朝臣以來九代の嫡家相承の兵法は焼失す、罪業の因たるに依つて、其事曽て以て心底に殘し留めず、皆忘却し了んぬ、詠歌は、花月に對して動感するの折節は、僅に卅一字を作る許なり、全く奥旨を知らず、然れば是彼報じ申さんと欲するも所無しと云々、然れども恩問等閑ならざるの間、弓馬の事に於ては、具に以て之を申す、即ち俊兼をして其詞を記し置かしめ給ふ、縡終夜を専にせらると云々、
十六日、庚寅、午尅、西行上人退出す、頻りに抑留すと雖も、敢て之に拘らず、二品銀作の猫を以て贈物に充てらる、上人之を拝領し乍ら、門外に於て放遊の嬰兒に與ふと云々、是重源上人の約諾を請け、東大寺料として沙金を勸進せんが為、奥州に赴く、此便路を以て、鶴岡に巡礼すと云々、陸奥守秀衡入道は、上人の一族なり、
秀衡は西行の一族である、とあります。そういえば、西行、俗名を佐藤兵衛尉憲清(義清・のりきよ)は、かつては継信・忠信らの佐藤一族の棟梁であった筈です。西行は、この八月、このまま東大寺の沙金勸進のため、平泉に向ったのでしょう。家集「山家集」に、「みちのくにへ修行してまかりけるに‥」以下の詞書のある歌とそれに続く、一群の歌があります。歌枕である土地の名で言えば、白川の關、信夫(と申すわたり)、武隈の松、おもはくの橋、なとり(名取)河、そして平泉の衣河です。それらの歌は、記行本文に歌枕を拾ったところに引用しておきます。それらは考証の結果、西行の壮年の頃、三十七才以前の出羽・陸奥旅行時の作である、となっていますが、
十月十二日平泉にまかりつきたりけるに、ゆきふり、あらしはげしく、ことのほかにあれたりけり。いつしか衣河みまほしくてまかり向ひてみけり。河の岸につきて、衣河の城しまはしたることがらやうかはりて物を見る心ちしけり。汀凍りてとりわきさえければ
1218とりわきて心もしみて冴えぞわたる衣河みにきたるけふしも
とくにこの歌について、「この旅は鎌倉で八月十五日に頼朝に逢っているから、老脚に六十余日を歩き続けて平泉に着いたのであろう。」と注釈する本、古典全書「山家集」伊藤嘉夫校注(以下、西行歌はこの本から引用しています。歌番号も。)もあります。「西行」白洲正子もこの説に近い本です。芭蕉も、きっとこのように読んでいたのでしょう。また、石の巻のところで、「十二日、平泉と志し‥」と書き出しているのは、かの歌とは、季節が違い日にちも一日間に合わなかったが、として、「山家集」の歌1218に気付かせているのでしょう。とすれば、句の、夏草は、杜甫詩の、春の草木に対しているのではなく、西行の歌の、心もしみて冴えわたる衣河の冬景色に対応している、と読むことができます。西行は、冬の衣河で義経に会っていたのだなあ、というのが切れ字「や」の意味だと、今は読んでいます。
源平の、未曾有の大乱の時代にも、兵どもが歌に登場することはありません。若い定家が、「世上乱逆追討耳ニ満ツト雖モ、之ヲ注セズ。紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ。」と、その日記「明月記」に書いていますが、この態度は定家ひとりに限ったものではありません。西行についてはどうでしょうか。詞書きに武者の文字がある歌(2126)が、「西行法師家集」にあります。
八島内府鎌倉にむかへられて、京へまた送られ給ひけり。武者の母のことはさることにて、右衛門督のことを思ふにぞとて、嘆きたまひけると聞きて
2126夜の鶴の都の内を出でであれなこのおもひにはまどはざらまし
八島内府とは内大臣平宗盛三十九、右衛門督はその子清宗十七です。清盛の死後、平家一門を統率したが、文治元年(1185)、壇ノ浦の敗戦で共に捕えられて鎌倉に送られ、さらに京へ移送される途中の、近江篠原で斬られています。「武者」は、伝言の中の宗盛の自称でしょうか。移送中の伝言が「武者の母」にもたらされ、西行が母の訴えを聞いたということでしょうか。歌の解釈は、「山家集」久保田淳に従っても難しいところがあるようなので、触れることが出来ません。
西行は、頼朝に会った時、宗盛らの首が獄門に梟されたことは知っていただろうし、義経・行家(行家は五月に和泉で討たれている。)を召進させる院宣が下っていることも聞き、また義経は必ずや平泉に向うことも推測していただろう、と、芭蕉に代わって、いろいろに空想しています。おもえば西行はこの大乱の各場面において当事者、または同伴者なのでした。
西行は、「衣河の城しまはしたることがら」の、五百年後の夏の現状報告を、受けてくれるのではないか。夏草しげり、早くも秋風が予感される城跡の景色です。ただただひたすら季節の移ろいが繰り返されてきたこの場所。西行は、この城で死ぬべき者の声を、芭蕉がいま座り込んでいるこの場所で、聞いたのだ。西行は、世の「歌よみ」とは違う‥、兵どもが見た夢を、知っていただろう、きっと‥。
次の三首は、林泉壮美を極めたという徳大寺堂が、保元元年(1156)五月、放火によって焼亡した時の歌です。これも、「西行法師家集」にある歌です。焼けた寝殿の一隅に歌の間があったといいます。「歌よみ」たちが受けた衝撃・落胆のほどを詠んだ歌です。とくに三首目、秋になって、まるで広野のように浅茅しげる焼け跡に往時をしのぶ歌が、芭蕉句の手本でしょうか。句は、秋の浅茅を夏草に、「歌よみ」を「兵ども」の文字に入れ替えるようにして、作ったように見えます。
徳大寺左大臣の堂にたち入りて見侍りけるに、あらぬことになりて哀れなり。三條太政大臣歌よみもてなし給ひしことただ今の御事と覺えてしのばしき心地し侍り。堂のあとあらためられたりける、さることのありと見えて哀れなりければ
2088なき人のかたみにたてし寺に入りて跡ありけりと見て歸りぬる
三昧堂の方へわけまゐりけるに秋の草深かりけり。鈴蟲の音、かすかに聞えける。あはれにて
2089思ひおきしあさぢが露をわけ入ればただわづかなるすず蟲のこゑ
ふるさとの心を
2090野邊になりてしげき浅茅をわけ入れば君が住みける石ずゑの跡
芭蕉の夏草の句に並んで、曾良の卯の花の句があります。
卯の花に兼房見ゆる白毛かな 曾良
兼房は、義経の北の方の傅・お守り役だった人です。「義経記」巻第七「判官北國落の事」に登場します。
さる程に(文治二年)二月二日まだ夜深に、今出川を出でんとし給ふ〔に〕、西の妻戸に人の音しける、如何なる者なるらんと御覧ずれば、北の方の御伝、十郎権頭兼房、白〔き〕直垂に褐の袴著て、白髪交りの髻引乱し、頭巾打著、「年寄り候とも、是非とも御供申し候はん」とて参りたり。北の方、「妻子をば誰に預け置きて参るべき」と宣へば、「相伝の御主を、妻子に思ひ代へ参らすべきか」と申しも敢へず、涙に咽びけり。六十三になりけるままに、よき丈な山伏にてぞありける。
巻第八「判官御自害の事」と「兼房が最期の事」の兼房は、瀕死の義経に遅らせまいと、北の方を、ついで五つになった若君、そして生れて七日になったばかりの姫君を刺殺して、義経の側にならべた。「早々宿所に火をかけよ」という最後の言葉を吐いてこと切れた義経を見て、走り回って火をかけ、ひとり残った最期の戦を働いてから、猛火のなかに飛び入った。曾良は、ここの兼房が気に入っていたのでしょうか。卯の花といえば、「無名抄」鴨長明に学んで、白髪の連想から、俊頼・としよりと言い慣らして来たが、高館の卯の花を前にしては、歌よみの名・俊頼は観念によるものとして退いて、つはもの・兼房の実の姿を見るようだ、という句でしょう。芭蕉句の、兵どもに唱和する句です。ただし、「袋草紙」藤原清輔には、俊頼の物名歌を、「歌に吾が事を詠むこと有り。」として引いてあります。
卯の花の身のしらがとも見ゆるかな賎が垣ねもとしよりにけり
もしやこの句を、曾良は兼房を我が事にして作ったつもりかと疑われます。北の方の傳・お守り役兼房の、最期の役目が上に述べた事柄ですから、芭蕉のお守り役としての曾良の覚悟を述べた句とするならば、なんと有難迷惑なこと。
一方、杜甫詩「春望」の終聯に、「白頭」の文字があります。
白頭掻更短 白頭 掻けば更に短かく
渾欲不勝簪 渾べて簪に勝えざらんと欲す
芭蕉は、「春望」冒頭を引用するために、曾良の句を出したのでしょう。白髪、白髪とうるさい曾良に、もう一つの「白(髪)頭」を気付かせて、どうしても「吾が事」と出来ない名があることを教えながら‥。それに、芭蕉としては、「白頭」はともかく自分を年寄りだと思ったことはない‥。
先に、芭蕉の句がなかった、白河の関の曾良の句も、卯の花の句でした。
卯の花をかざしに関の晴れ着かな 曾良
諸注釈は、卯の花をかざしにさしたのは、曾良自身だと読んでいますが、師匠と弟子とがいれば、師匠を差し置いて、晴れ着に着替えようという句は、いかがなものか。そもそも出立にあたって剃り捨てた曾良の頭には、かざしは挿せない。「渾べて簪に勝えざらんと欲す」だ。すでに日光の段に、曾良の黒髪山の句があります。
歌よみに類する者ならば、「袋草紙」、「俊頼髄脳」源俊頼が伝える、竹田大夫国行の故事に倣って、この関を冠を正して過ぎるべきだ、というのですが、これは、芭蕉の姿を句に作ったのでしょう。旅の日数は、白河の関に至ってほぼ一ヶ月を経過しています、曾良の坊主頭は黒々と、芭蕉の頭は、卯の花をかざしにして載せたように白いのが目立つでしょう。
白河の関の本文は、形としては曾良の句の前書のように作ってあります。芭蕉としては、関の通行に何の用意もなく、わが身の白髪頭の効験にさえ気付かなかった。その姿を、五つしか違わないのに、失礼にも年寄り扱いして作った曾良の句を借り受けて、関の晴れ着としたものです。晴れ着は借り物ではあるが、中身は芭蕉です。前書としても読める本文は、この関における古人の歌の数々を敬うこと、竹田大夫国行に劣らないことを述べて、充分です。
さて、「山家集」、「西行法師家集」と重複しない歌による家集、「聞書集」にある、詞書きに武者の文字がある五首(1868〜1872)の歌は、芭蕉の思いについての空想から除かなければなりません。「聞書集」は、古典全書「山家集」(昭和二十二年刊)の解題を写せば、「伊達家蔵。国宝。‥定家手澤本。‥新古今集撰進の料に用ゐられ、ついで、夫木抄の資料に用ゐられてから、六百年以上学者の目にふれることもなく、埋もれて久しかった集で、最近発見せられた書である。」という事情のある家集だからです。
しかし、空想をたくましくすれば、「聞書集」解題に、「伊達家蔵・国宝。‥」とあるのが気になります。仙台で、芭蕉はこれを見せてもらったのではないか。古書収集のネットワークがあったとして、黒羽藩か、どこかの藩などの紹介状を、仙台まで、大事に懐にしてきたのではないか、という空想です。詞書きに武者の文字がある、五首の歌(これらに限りませんが)を見て、驚嘆する芭蕉を想像すると、まあ無駄なことかもしれませんが、ぞくぞくいたします。ただし、仮にこの空想が正しいものとしても、秘蔵された天下の孤本の歌、余人の見ることが出来ない歌を、句作の典拠には出来ません。芭蕉の句に、その俤が現れることもありえません。芭蕉自身が、西行受容の正しいことを確認するだろう、というに止まります。
次に、詞書に「武者」の文字があるその五首を引用しておきます。
世のなかに武者おこりて、西東北南いくさならぬところなし。うちつづき人の死ぬる數きくおびただし。まこととも覺えぬ程なり。こは何事のあらそひぞや。あはれなることのさまかなと覺えて
1868死出の山越ゆるたえまはあらじかしなくなる人のかずつづきつつ
武者のかぎり群れて死出の山こゆらむ。山だちと申すおそれあらじかしと、この世ならば頼もしくもや。宇治のいくさとかよ、うまいかだとかやにてわたりけりと聞こえしこと思ひいでられて
1869しづむなる死出の山がはみなぎりて馬筏もやかなはざるらむ
木曽と申す武者、死に侍りけりな
1870木曽人は海のいかりをしづめかね死出の山にも入りにけるかな
上西門院にて、わかき殿上の人々、兵衛の局にあひ申して、武者のことにまぎれて歌おもひいづる人なしとて、月のころ、歌よみ、連歌つづけなんどせられけるに、武者のこといで來たりけるつづきの連歌に
〔1871〕いくさを照らすゆみはりの月
伊勢に人まうで來て、「