
「おくの細道」の日光と松島
![]()
一、日光
当初の計画では、三月節句過ぎ早々に出立する予定だったらしく、旅前の、各地の弟子への手紙の中に、「彌生に至り、待侘候塩竈の桜、松島の朧月、あさかのぬまのかつみふくころより北の国にめぐり、秋の初、冬までには、みの・おはりへ出候。」(伊賀の猿雖宛)、あるいは、「拙者三月節句過早々、松島の朧月見にとおもひ立候。白川・塩竃の桜、御浦やましかるべく候。」(熱田の桐葉宛)などと書いてあります。今年もたっぷりと咲いた上野・谷中の花の梢を堪能した後、桜前線を追いかけて、松島のあたりの桜に出会うつもりだったのでしょうか。しかし、春の残りも幾日もない三月二十七日、今で云えば五月十六日の出立となれば、遅桜を諦めなければなりません。
ただし、この塩竈の桜というのがわからない。日本中、何所にも桜はありますが、歌枕である、塩竈・塩竈の浦は桜の名所ではありませんから、猿雖・桐葉らは不審に思わなかったでしょうか。別の、まだ千住宿にいる時に出した、岐阜の落梧宛の手紙には、「みちのく・三越路之風流佳人もあれかしとのみニ候。」とあるように、また、のちの許六宛の去来の手紙に、「‥古翁の日本をめぐりて、いかなる風雅人をかさがしもとめんと、日比月比御心にかけられしも尤なる哉と、今更及感涙候。‥」、と書いているように、この旅が観光旅行ではなくて、新しい俳諧人を捜し求めてする旅でしたから、桜はものの譬え、春遅く、そして人に知られぬところに咲いた、風流佳人・風雅人を指して言うものだったでしょうか。
もっとも、塩竈の桜を詠んだらしい歌が、まったくないというのではありません。「歌枕名寄」という本にあって、源家長という人が千五百番歌合に詠出した歌。「花の浪たつ」と言いたくて、塩竈の浦に立つ浪を出した、という歌でしょうか。私には読解不能で、よい注釈が見つかるまでは、このままにして置きます。
山風に花の浪たつ三吉野の吉野のはるや塩竈の浦
それでも、上野・谷中ほどの花を望むのではないけれど、もしやどこかに、実の遅桜が咲いているのではないか、と淡い期待があったのではないでしょうか。西行が東国の旅で詠んだ歌の中に、桜の歌が四首あります。
又のとし(文治三年)の三月に出羽國にこえて、たきの山と申す山寺に侍りけるに、さくらのつねよりもうすくれなゐの色こき花にてなみたてりけるを、てらの人々も見興じければ
1219たぐひなきおもひいでばのさくらかなうすくれなゐの花のにほひは
みちのくにに平泉にむかひて、束稲と申す山の侍るに、こと木は少きやうに、櫻のかぎりみえて花のさきたりけるを見てよめる
1533ききもせずたばしねやまのさくら花よしののほかにかかるべしとは
老人見花といふ事を(夫木抄の詞書き)
1702ながむ眺む散りなむことを君もおもへ黒髪山に花さきにけり
1965白河の關路の櫻さきにけりあづまより來る人のまれなる
西行が見た桜を見たい‥。無論、これは曾良も同じことです。1219のたきの山や、1533の束稲山、そして1965の白河の関の桜も無理として、中では日光の男体山・黒髪山の桜ならば、まだ四月一日のことでもあり、もしや間に合うのではないか。「四月に咲ける桜を見てよめる」歌、古今和歌集第三・夏、紀利貞、というのもあるのだから‥。
あはれてふことをあまたにやらじとや春に遅れてひとり咲くらむ
夏の初めの日、東照宮の拝観も済んで、明後日三日は那須の広野を通って、人々の待つ黒羽に向うという日に、同行の俳諧師・曾良を紹介することになります。曾良の句は、紀行に十一句出てきますが、その初めの句として、黒髪山の句はとても大事です。
卯月朔日、御山に詣拝す。往昔、此御山を「二荒山」と書しを空海大師開基の時「日光」と改給ふ。千歳未来をさとり給ふにや。今此御光一天にかゞやきて恩沢八荒にあふれ、四民安堵の栖穏なり。猶憚多くて筆をさし置ぬ。
あらたうと青葉若葉の日の光
黒髪山は霞かゝりて、雪いまだ白し。
剃捨て黒髪山に衣更 曾良
「黒髪山は霞かゝりて、雪いまだ白し。」、霞は春のもの、そして歌の通例として、霞の下には花が隠されているもの、まだ頂に雪があるならば、この麓のどこかに花がありはしないか、という未練の一行です。
曾良は河合氏にして、惣五郎と云へり。芭蕉の下葉に軒をならべて予が薪水の労をたすく。このたび松しま象潟の眺共にせん事を悦び、且は羈旅の難をいたはらんと旅立暁髪を剃て墨染にさまをかえ惣五を改て宗悟とす。仍て黒髪山の句有。「衣更」の二字力ありてきこゆ。
「旅立暁髪を剃て墨染にさまをかえ」とあるのは、旅立つ日、たぶん改めて剃り上げて、僧衣を新しくしたのを言う文飾であるらしく、曾良の剃髪、改名は、前年の暮のことのようです。煩悩の元である黒髪を剃捨て、衣更という季語の日付、四月一日よりも早く、桜の楽しみに染まった衣を脱ぎ換えて、しかも僧侶の形をして、前途の用意怠りないことを言っています。剃髪・僧形は、先に引用した、伊賀の猿雖宛の手紙の中にも、「去年たびより魚類肴味口に払捨」などと書いた、芭蕉の精進潔斎の覚悟を共にするためでした。いわば、旅装束です。後撰和歌集第十七・雑歌三に、僧正遍昭の、次の歌があります。
はじめてかしらおろし侍ける時、ものにかきつけ侍ける
たらちめはかゝれとてしもむば玉のわが黒髪をなでずやありけん
「剃捨て」は、「はじめてかしらおろし侍ける時」を言い換えたものです。平安の貴族も江戸の浪人も、はじめて頭を剃るとなれば同じことでしょうか。芭蕉が、「仍て黒髪山の句有。」と書いたのは、曾良がこの遍昭の歌によって発想したと言うものでした。
さて、「はじめてかしらおろし侍ける時」という詞書きがそうそう他にある筈はなく、この後、黒髪を詠んだ歌は、多くは恋の歌です(老いを詠むために黒髪を引き合いに出す歌もありますが‥)。曾良の母の心配は(きっと存命なのでしょうが)、遍昭の母とはまったく違います。この旅が終われば、また黒髪を生やし、僧衣を捨る積もりですから、恋を諦めるのは、芭蕉に付き合って、しばらくの辛抱ということになります。愛した男のついでにまづ母を恋い慕うらしき、和泉式部の歌があります。これは、遍昭の歌の、「たらちめ」・母恋しさに触発された歌のようにも読めます。後拾遺和歌集第十三・恋三の歌です。曾良は、「黒髪のみだれ」からしばらく無縁でいようというのでした。
黒髪のみだれもしらずうちふせばまづかきやりし人ぞ恋しき
同じく後拾遺和歌集第三・夏にも、和泉式部の歌、衣更の歌があります。
四月ついたちの日よめる
桜花に染めし衣をぬぎかへて山ほとゝぎす今日よりぞ待つ
また、この日になっても、「衣はかへじ」、または「ころもかへうき」と詠む、未練たっぷりな歌もあります。誰でも、さあ夏だ、と、さっぱりとはいかないものです。和泉式部集続集には、次の歌。
四月一日、思ふ様あり
交わしても衣はかへじ結びおきて露けげなりと人は見るとも
拾遺和歌集巻第二・夏には、源重之の歌。
冷泉院の東宮におはしましける時百首歌奉れとほせられければ
はなの色にそめしたもとのをしければころもかへうきけふにもあるかな
「衣更」については、西行が見た花、来てみれば、いまは散り果てた黒髪山の桜を慕うとすれば、山家集の、「かぎりあれば」、年中行事の衣更(人が用意してくれるので仕方なく着替える)の歌を思うことになります。
195かぎりあればころもばかりはぬぎかへてこころははなをしたふなりけり
芭蕉の評語、「「衣更」の二字力ありてきこゆ。」というのは、「衣更」の二字に、新しい季節を迎えさせる、年中行事としての強制力がある、というのでした。中でも、花を惜しむ、西行の歌よりも、和泉式部の、山ほとゝぎすの、新しい夏の恋を待つ歌の効験を選んで、曾良句が、世間並みながら積極的であるというのでしょう。あるいは、桜に未練な人に対する配慮には欠けながら‥。黒髪山の花も、いつまでも咲いてはいないぞ。さあ、花は散ってしまった、と。すなわち、この歌に習って、今日からは、山ほとゝぎすを待つ‥。山ほとゝぎすとは何か、といえば、曾良句は、三日に到着予定の、黒羽の人々の俳諧を期待して、こう言ったことになります
翌二日には、日光山七十二瀑布とも、日光四十八滝とも言われて、滝の見所の多い所を、中禅寺湖、華厳の滝に登山して見て回る暇はなく、この日の午前中を費やして、裏見の滝と、その帰りに含満ケ淵を見物しています。
廿餘丁山を登つて瀧有。岩洞の頂より飛流して百尺千岩の碧潭に落たり。岩窟に身をひそめて入て滝の裏よりみれば、うらみの瀧と申傳え侍る也。
暫時は瀧に篭るや夏の初
「暫時は」、「戯れに」と言っても良いところです。西行が那智にこもったときの歌の一端を体現しようという戯れです。西行は、那智の高根の花を尋ねて、果せませんでした。それでも花山院の御庵室の跡に案内されて、「このもとにすみけるあとをみつるかな」という感激に浸ることが出来ています。
那智にこもりて瀧に入堂し侍りけるに、このうへに一二の瀧おはします。それへまゐるなりと申す常住の僧の侍りけるに具してまゐりけり。花や咲きぬらむとたづねまほしかりけるをりふしにて、たよりあるここちして、わけまゐりたり。二の瀧のもとへまゐりつきたり。如意輪の瀧となむ申すと聞きてをがみければ、まことにすこしうちかたぶきたるやうにながれくだりてたふとくおぼへけり。花山院の御庵室のあとのはべりけるまへに、としふりたりける櫻の木の侍りけるをみて、すみかとすればとよませ給ひけむ事思ひいでられて
924このもとにすみけるあとをみつるかななちのたかねの花を尋ねて
那智と日光と、風景は似ているかもしれませんが、こちらは、花山院も、誰の縁もない東国で、観光客としての案内を受けて、「廿餘丁山を登つて瀧有。」、四月二日の午前中、珍しい滝の裏側に、形ばかり涼しい入堂の真似をしてみたというのです。「夏(ゲ)の初」とありますが、夏・夏安居(ゲアンゴ)は、通例四月十六日から七月十五日までの九十日(一夏九旬)の、仏家の学問修行を云い、四月二日では早すぎて、「夏の初」の真似にはなりません。夏(なつ)の初めを、「夏の初」と言ってみたまでです。修行というなら、俳諧の修行にはなったかもしれない‥。すなわち、芭蕉句は、曾良句に照応して、この旅が、二人の姿形にも拘らず、仏道修行とは何の関係もない旅である事を、言っています。これから社寺を多く参詣するのですが、無用の誤解を招かぬように‥。併せて、これで遅い桜については語り尽くされました。俳諧師本来の仕事である俳席を予定してある、その前日に、芭蕉も、桜を諦めて、新しい夏の楽しみを期待するというのです。桜は散り果てましたが、黒羽に限らず、ほとゝぎすはこれからどこでも鳴くことでしょう。
実は、この曾良句が、芭蕉の代作だとする説が「通説」とされています。岩波文庫「おくのほそ道」萩原恭男校注の脚注には、「この黒髪山の地で衣更を迎えたが、旅立の折俗世界を捨てた決意を改めて思いおこすことだの意。同伴者曾良を効果的に紹介するための芭蕉の代作。」とあります。角川書店「おくのほそ道評釈」尾形仂も、さまざまに説いたのちに、「‥そうした構成の巧妙さに併せて、両句(曾良の「剃捨て」の句と、芭蕉の「暫時は」の句)とも「書留」をはじめ、『おくのほそ道』以外の芭蕉生前の集に所見のない点から推して、あるいはともに『ほそ道』執筆に際して芭蕉の創作付加したものと想像しても、たぶん誤りではないであろう。」と結論しています。さらに新刊の岩波書店「奥の細道行脚『曾良日記』を読む」桜井武次郎も、「『奥の細道』執筆中に芭蕉が曾良の句として作ったもの」だとしています。
どうやら、根拠は、尾形仂評釈が言う、「「(曾良)書留」をはじめ、『おくのほそ道』以外の芭蕉生前の集に所見のない点から推して」ということのようですが、確たる証拠というものではありません。しかしこれでは、俳諧師・曾良は、芭蕉が作った人物になってしまう。さらに四月三日、那須野で作った曾良の句、
かさねとは八重撫子の名成べし 曾良
これをしも芭蕉の句とするに至っては、紀行そのものを、作り物語だとするに等しいと思われます。これは多分、句の考証、そして解釈の正誤の問題をこえて、俳諧・俳文と虚構に関する、諸家の、重大な誤解を含んだ問題だと思っています。
それはともかく、曾良句、
剃捨て黒髪山に衣更 曾良
この僧形は、芭蕉の姿でもあります。曾良と同じ頭をして、同じく僧衣に身をやつしているのですから、この句に、芭蕉の姿が写っている、のも確実です。曾良句には、彼我一体の感がある、師・芭蕉から分離を遂げていない、という節があります。この可笑しみを、そのまま滑稽と呼ぶことは出来ません。それは、すでに(拙論は)白河の関の曾良句で確認したことでもあります。
卯の花をかざしに関の晴着かな 曾良
芭蕉はこの句に、前書風の数行を費やして、彼の関路通過の、晴着として借り受けました。そのときようやく、「卯の花を」句が滑稽となったのでした。いま、「剃捨て」句では、芭蕉の、花を見たい未練の一行を加えて、滑稽となります。これが、紀行の、散文ではない俳文としての機能の一端です。あるいはこれらの句について、芭蕉の痛棒があったのかもしれません。「芭蕉生前の集に所見のない」というのは、曾良が、わが句となり切っていない句どもを、嚢中に暫くしまい込んだ、もしくは、師に預けたということでしょう。
後年、曾良の甥、周徳が編集した、「雪まろげ」という本に、紀行には採用しなかった、芭蕉の「時鳥」の句があります。
廿余町山を登りて滝有。岩洞の頂より飛流して百尺、千岩の碧潭に落たり。名を恨の滝とかや申伝へ侍るよし、
時鳥うらみの滝のうら表 翁
暫時は滝に籠るや夏のはじめ 仝
旅行中に出された、杉風宛曾良書簡に報じられた「ほとゝぎす」の句が、「時鳥」の句の初案であるらしい。また、曾良にも、「うら見の滝」の句があったのでした。
日光うら見の滝
ほとゝぎすへだつか滝の裏表 翁
うら見せて涼しき滝の心哉 曾良
曾良は、「うら見せて」、と滝を擬人化しましたが、「涼しき」というその心情の内実はともあれ、かくありたき人の態度を言ってみたものでしょうか。しかし、うらみの滝には、東照宮参詣の一般諸人が多く訪れるわけで、裏側に廻りこむ人の誰にも「うら見せて」、開けっぴろげで隠し事のないところは、曾良が、ここで何か、俳諧の覚悟らしきことを言ったことになるのでしょうか。心許ないことです。暦は夏だというので「涼しき」と言ったのですが、まだ肌寒い頃のはずで、それに、やがて秋ともなれば、滝裏の見物が受ける飛沫も、寒々しいものです。それは、古今和歌集巻第十五・恋歌五の平貞文の歌によって、容易に想像される事です。滝ではなく、葛の葉裏ですが‥。
秋風の吹きうらかへすくすのはのうらみても猶うらめしきかな
和泉式部がこの歌によって詠んでいます。新古今和歌集巻第十八・雑歌下。
秋風はすごく吹くとも葛のはのうらみ顔にはみえじとぞ思ふ
曾良句は「剃捨て」の句につづいて、和泉式部のこの歌に学んでいるでしょう。今は、優しい師・芭蕉も、これから諸国を経巡って、秋ともなれば、俳諧の稽古・叱責の風はいよいよすごく吹くことだろう。その時になっても、「うらみ顔にはみえじとぞ思ふ」というのが、「うら見せて」句の「涼しき」覚悟だったでしょうか。「雪まろげ」が、「名を恨の滝とかや申伝へ侍るよし」と、恨の滝の文字を使っている所以でしょう。
さて、元禄二年三月は小の月で、二十九日が晦日でした。紀行は、日光の章の冒頭を、「卅日」という架空の一日を作って(勘違いではないでしょう)、宿の主の紹介に費やしていたのでした。
卅日、日光山の梺に泊る。あるじの云けるやう、「我名を佛五左衛門と云。萬正直を旨とする故に人かくは申侍まゝ、一夜の草の枕も打解て休み給へ」と云。いかなる仏の濁世塵土に示現して、かゝる桑門の乞食順礼ごときの人をたすけ給ふにやとあるじのなす事に心をとゞめてみるに、唯無智無分別にして正直偏固の者也。剛毅木訥の仁に近きたぐひ気禀の清質尤尊ぶべし。
芭蕉が観察したところによれば(曾良はちゃんと見ていたのでしょうか)、仏五左衛門の、「うら見せて」、「涼しき」心は、まったく曾良が句に作った、「滝の心」そのものでした。日頃彼らが付き合う、俳諧の人々にはないタイプですが、宿の主としては、その「気禀の清質尤尊ぶべ」きものです。とすれば、句の、「うら見せて」とした擬人化が、たがわず仏五左衛門を言い当ててしまって、「涼しき」が予定する秋の思い、「うらみ顔にはみえじとぞ思ふ」という、これから、弟子・曾良だけが味わうだろう、特権的な苦痛と喜びへの期待が聞えてこない。この句は、いわゆる、聞えぬ句となったのではないでしょうか。「卅日」の記事が、曾良の聞えぬ句を預かり、それに関連して、芭蕉の「ほとゝぎす」の句をしまい込んだ、証文のように見えます。
旅の日程の都合によって、曾良の俳諧を紹介する一日は、「衣更」の日が選ばれました。そして翌日のうらみの滝の見物は、俳諧修行の一日となり、かれらの「夏の初」となったのでした。
「ほとゝぎす」は、うらみの滝で、たしかに芭蕉の傍らにいて、「うら見せて」の句が聞えずとも、裏側では鳴いているぞと、裏表の見所を分け隔てるかのようでした。しかし、滝の轟々たる音の所為でしょうか、芭蕉の耳には届かない。やがて、曾良の意向に近い「へだつか」を、「うらみの」に直しました。何の伝説もない「うらみの滝」ですが、「恨み」の文字を隠して、ほとゝぎすの歌に「恨み」と言えば、聞きたいのに聞えないという「恨み」ですから、つまりは裏であれ表であれ、君の声を聞きたい思いがあると、告げてやったのでした。「山ほとゝぎす今日よりぞ待つ」と言った「衣更」の日、曾良もまた、芭蕉が待つ、「ほとゝぎす」の一人でした。古今集和歌集巻第三・夏の伊勢は、「まだしきほどの声を聞かばや」と詠んでいます。
五月来ば鳴きもふりなむ時鳥まだしきほどの声を聞かばや
盛夏までにはやゝ間があります。いまの所は、声が聞えないとしても何の咎めもありません。しかし、西行の、黒髪山の歌の詞書きは、「老人見花といふ事を」(夫木抄の詞書き)というものでした。さらに隆源という人の、これも「歌枕名寄」にある歌には、
うばたまの黒髪山のいただきに雪もつもらば白髪とやみむ
という、直接的に老人に縁がある歌もありますから、五つ違いの芭蕉と曾良ですが、旅早々から、年を争うという気配が見えます。
二、松島
松島では、芭蕉の句はなくて、曾良の「ほとゝぎす」の句だけがあります。猿蓑に選ばれて、前書があります。
松島一見の時、千鳥もかるや鶴の毛衣とよめりければ
松島や鶴に身をかれほとゝぎす 曾良
紀行にほとゝぎすの句は、芭蕉の「ほととぎす」の句、
野を横に馬引き向けよほととぎす
と、一人一句ずつですが、曾良書留などによって、先に見た「うらみの滝」のほとゝぎすの二句のほかにも、黒羽と高久の二句、
田や麦や中にも夏時鳥
落くるやたかくの宿の時鳥
を見てきました(拙論・「おくの細道」の那須野)。ここで、旅行中のつごう六句目の「ほとゝぎす」・曾良句を暫らく見るために、日光から松島へ跳ぶことにいたしました。
この「鶴に身をかれ」と云った句は、おそらく五月九日の作、今で言えば六月二十五日、の句です。夜鳴く鳥である時鳥も、盛夏には真昼にかしましく鳴きます。山家集の、声ばかりではなく、姿を見せよと詠む歌は、
228ひるはいでてすがたの池にかげうつせ声をのみきくやま時鳥
があります。仙台では、曾良日記には、芭蕉が何事かの紹介状を手にして訪問して会えなかった橋本善衛門、俳書出版を手がけたという画工加右衛門(北野加之)と甚兵衛(不明)の名がありますが、俳諧の席は無かったようです。他に、姿を見せよほとゝぎす、と呼びかけるべき人の名や消息が見当たりません。これ以前、須賀川逗留中に、等躬宅から出した、四月二十六日付の杉風宛芭蕉書簡(先に引いた、「うら見せて」句のある杉風宛曾良書簡は、これに同封されたものでした。)には、そもそも、「仙台之風流、望絶申候。」とありました。
‥朔日二日之比、仙台へ付可申候。三千風、仙台へ帰、むさとしたるあれ俳諧はやり申候さた、有之候。仙台之風流、望絶申候。‥
「日本行脚文集」の長旅に出ていた仙台の指導者、大淀三千風は、上の書簡のとおり、いったん仙台へ帰っていましたが、貞享四年五月には郷里の伊勢に帰任、その後は仙台には戻らなかったらしい。それならば、三千風の去った「仙台之風流」にはまだ希望があるのか、とはなりません。「仙台之風流」