
「おくの細道」の尾花沢
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大山をのぼつて日既暮ければ、封人の家を見かけて舎を求む。三日風雨あれて、よしなき山中に逗留す。
蚤虱馬の尿する枕もと
平泉・一関から出羽方面に抜ける、五月十四日から十六日の隘路を、この「封人の家」の句にまとめて、後日紀行執筆中に作ったとされています。すでに紀行の、飯塚・飯坂温泉の件りで、「蚤・蚊にせせられて眠らず」とあった、旅宿おなじみの劣悪な環境に加えて、この地方独特の、屋敷内に厩を取り込んだ家屋の構造を興がっている句です。枕草子二十五段「にくきもの」から‥。蚤も「にくきもの」の数に入っています。
‥ねぶたしと思ひて臥したるに、蚊の細声にわびしげに名のりて、顔のほどに飛びありく。羽風さへ、その身のほどにあるこそ、いとにくけれ。‥蚤も、いとにくし。衣の下に躍りありきて、もたぐるやうにする。‥
そして良経の歌の、蚊の声も知っている、紀行の読者に宛てて、珍しい「馬の尿する」音を聞いたと報告したものです。恋にもあらず眠れない夜の枕もとの音について。秋篠月清集・夫木抄から。
なつのよはまくらをわたるかのこゑのわつかにたにもいこそねられね
雨と山坂の難所に加えて、睡眠不足と、さらには山刀伐峠に出没するという、追剥の心配までもやり過ごしたことを書いてから、庄内の穀倉地帯にたどり着いて、この地方の紅花を扱う、尾花沢の清風の家に向います。
尾花沢にて清風と云者を尋ぬ。かれは富るものなれども、志いやしからず。都にも折々かよひて、さすがに旅の情をも知たれば、日比とゞめて、長途のいたはり、さまざまにもてなし侍る。
涼しさを我宿にしてねまる也
這出よかひやが下のひきの声
まゆはきを俤にして紅粉の花
蠶飼する人は古代のすがた哉 曾良
○ 涼しさを我宿にしてねまる也
「ねまる」の語は、木下長嘯子「挙白集」のうち、「はじめてあづまにいきける道の記」に見えることが、其角「類柑子」に指摘されています。この地方で歓迎される者が聞く、はじめの言葉です。お家と思っておねまんなさい、お寛ぎください、でしょうか。清風の商用に慣れた訛りではなく、正しい方言で聞かなくてはつまりませんから、清風の妻、あるいは母の言葉かもしれません。曾良日記十七日に、「‥正ゴン(厳)ノ前ニ大夕立ニ逢。昼過、清風ニ着。一宿ス。」とあります。夏の一日の「涼しさ」は、夕立の直前の風とともにやってきます。新古今和歌集巻第三夏歌の、西行の歌のように。
2007よられつる野もせの草のかげろひてすずしく曇るゆふだちの空
ずぶぬれの衣服を換えて貰うなどの、単に言葉によらない、行き届いたもてなしを感謝して、挨拶としたものです。尾花沢では、この句を発句として、清風が脇の、五吟(途中、新庄の風流が二句参加する)の、「涼しさを」歌仙がありました。
涼しさを我宿にしてねまる也 芭蕉
つねの蚊遣りに草の葉を焼 清風
そして答礼のようにして、清風が発句、芭蕉の脇で、四吟の「起臥しの」歌仙もあります。
起臥しの麻にあらはす小家かな 清風
狗ほえかゝる夕立の蓑 芭蕉
「涼しさ」は、この四年前、貞享二年六月に、江戸小石川で清風の発句、芭蕉の脇で、七吟の百韻「賦花何俳諧之連歌」を興行していますから、
涼しさの凝り砕くるか水車 清風
青鷺草を見越す朝月 芭蕉
その余興を、はるか清風の地元で継いだことになるのでしょう。翌貞享三年三月にも、芭蕉の発句、清風の脇で、「三月廿日即興」と題して、五吟の「花咲きて」歌仙がありました。これには曾良も参加しています。
花咲きて七日鶴見る麓哉 芭蕉
懼じて蛙のわたる細橋 清風
以上、四つの俳諧の発句と脇を書き並べたにすぎませんが、清風との再会を楽しみにしたらしい関係を推測する便りになれば、ということです。
○ 這出よかひやが下のひきの声
「かひや」の語を知るのは、俊成「古来風体抄」の、万葉集巻十の歌、
あさがすみかひやのしたになくかはづ聲だにきかばわがこひしやは
の注釈によるでしょうか。この歌は恋に寄せた歌で、「かひや」に諸説があるけれど、
また、かの同じ御百首の歌合(六百番歌合)に、顯昭法師が、「かひこの蠶室に、蛙の集まり来るなり」(顯昭の陳弁に、「田舎に蚕飼ふ屋をばかひやと云。その下に蛙蚕を食はんために多く集るなり。」とある)とさへ申したりき。無下に見苦しかるべき義なり。
などと紹介しながら、疑いなく「かひや」は「山田守る庵」のことであるとしています。注釈を見るかぎりでは、俊成の説得力に随うべきですが、おそらく芭蕉は、「田舎に蚕飼ふ屋をばかひやと云。」が正しいことも、尾花沢の田舎言葉で確認したということでしょう。ならばここは顯昭の説を採って、尾花沢では、「かはづ」は蚕を食う、ならば蟇蛙だろう‥。次の歌は、蟇蛙ではなく、郭公が隠れている歌ですが、後撰和歌集巻第十八雑四よみ人しらず、があります。詞書きは、「常に来とて、うるさがりて、隠れければ、つかはしける」。
有りと聞く音羽の山の郭公何隠るらん鳴く声はして
この詞書きによって、もしや、私の訪問をうるさがって隠れようとするのか、せっかくだから俳諧をしに出ておいで、悪いようにはしないから、という句です。郭公はともあれ、そもそも花に鳴く鶯、水に住む蛙が、声ではなく姿を求められることはないのだが、河鹿の類縁の者であるにしては奇怪な君の声・田舎言葉に興味があって、俳諧をしに出ておいでと言うのだ。もしや君は、尾花沢に清風有りと聞く、音羽の山の郭公の評判があると、思い違いをしているのではあるまいね。
さらに、「這出よ」によって、源氏物語「總角の巻」の一節を検索すれば、これはきりぎりすですが、
明けにける光につきてぞ、壁の中のきりぎりす這ひ出でたまへる。思すらむことのいといとほしければ、かたみにものも言はれたまはず。
薫の相手に、中の君を残して逃げた大君が、朝になってようやく、壁の中のきりぎりすのようにして、這ひ出でたまへるところです。薫は中の君に手を出さなかったように、逃げた大君にも仇をなすことはしない。清風よ、安心して這出よ、という、俳諧の催促です。
○ まゆはきを俤にして紅粉の花
曾良書留に、「立石の道にて」と前書してこの句があります。曾良日記、五月二十七日の件りは、「天氣能。辰ノ中尅、尾花沢ヲ立テ、立石寺ヘ趣。清風ヨリ馬ニテ舘岡迄被送ル。‥」とあって、翌二十八日に立石寺から大石田に向います。道中一帯の紅花の作付けを見れば、清風の威勢が実感されたことでしょう。二十七日は、今でいえば七月十三日、折から紅花収穫の季節です。
「まゆはき」は、辞書を写せば、「長さ二寸くらいの竹管の頭に白兎の毛を植え付けた小さい刷毛。白粉や眉墨をつけるのに用いる。」ものです。この、小さな化粧道具を俤にして、とは、これを使う白い手を俤にして、ということでしよう。ワタスゲ、ヒトリシズカなど、幾つかの小さな花が、その形状によって眉掃草の異名を持っていますが、これらは童女の遊び道具となるのが、その由来です。紅粉の花の花弁が、洗った筆の開いた穂先のようであるから、竹管の小さい刷毛にも似ているというわけですが、眉掃草とは言いません。旅人芭蕉にこれを問えば、腰にある矢立の筆、と答えるところでしょう。山家集に次の歌があります。
1585くれなゐのよそなる色はしられねばふでにこそまづそめはじめつれ
「くれないの」は、色に掛かる枕詞、「紅の・筆にこそ」で恋文のこと。大意は、「相手の人の知らぬ顔の心のうちは推察出来ないから、まづ筆を執って恋文を書きはじめたことである。(風巻景次郎注・大系)」。紅粉の花を見て、ただちに「まゆはき」がありありと思い浮かぶならば、この歌で言えば、恋文で想いを訴える、筆が無用だからです。京・大阪そして江戸の花街の、「よそなる色」を知らないということがない、清風の艶福を思いやったものです。「都にも折々かよひて、さすがに旅の情をも知たれば、‥」とありますが、旅の情けの内訳は、おのずから人それぞれです。富るものが、恋文のためでないとしたら、矢立の筆を何のために持ち歩くのか。旅こそが俳諧修行の場です。「都にも折々かよひて」、その道中何をしていたのか、一瞥以来三年の間に、何の進歩もない、と告げたのではなかったでしょうか。ここで、「紅の・筆にこそ」で恋文を、そのまま「俳諧」と読み替えるべきです。尾花沢を去る美しい花の盛りの道すがら、旦那芸の限界を教えた句でしょう。清風がこれに反駁する機会はありません。
さて、紅粉の花を、万葉集以来の歌語に、末摘花といいます。清風は、源氏物語「末摘花の巻」の、常陸宮の姫君・末摘花にされたくなかったもしれません。いつか源氏の興味を引くこととなって、数々の欠点にも拘らず、例の手厚い庇護をうけることになるのですが、物語の格好の粗筋に反して、姫君の才能はもとより、その容姿の細部にいたるまで、作者の筆は、従来の滑稽譚の域を超えて、残酷なほど執拗(全集頭注より)です。
まづ、居丈の高く、を背長に見えたまふに、さればよと、胸つぶれぬ。うちつぎて、あなかたはと見ゆるものは鼻なりけり。ふと目ぞとまる。普賢菩薩の乗物とおぼゆ。あさましう高うのびらかに、先の方すこし垂りて色づきたること、ことのほかにうたてあり。色は雪はづかしく白うて、さ青に、額つきこよなうはれたるに、なほ下がちなる面やうは、おほかたおどろおどろしう長きなるべし。痩せたまへること、いとほしげにさらぼひて、肩のほどなどは、いたげなるまで衣の上まで見ゆ。‥
清風の姿は、これに似たところがあるでしょうか。芭蕉もこの酷薄を回避して、末摘花の純情よりも、旅に出ては源氏の振舞いに倣う、という清風のもう一つの欠点を、物語の外に求めて、滑稽としたものです。
○ 蠶飼する人は古代のすがた哉 曾良
この句は、曾良書留に、須賀川の等躬の家での歌仙の前に、
蠶する姿に残る古代哉 曾良
とあるのを直したものです。したがって、「蠶飼する人」が、尾花沢の人々に特定されるとすれば、「残る」を除いて、「蠶飼する人」の動きを出したように見える、芭蕉の斧正によります。紀行の須賀川では、
‥すが川の駅に等窮といふものを尋て、四五日とゞめらる。
と、俳諧ばかりの四、五日(実は七日)を過したかのようですが、その間に、黒羽の武家の家風とはまったく異なる、農家である、等躬の家の内証を体験したことでしょう。
風流の初やおくの田植うた
等躬の家の田植え(四月二十四日)を前にした、四月二十一日の作とされています(「おくのほそ道」安東次男の説、田植え歌はまだ聞いてない。)。芭蕉句の「田植うた」も、曾良句の「蠶する姿」とともに、等躬の家の、堅実な家業から摘み取った「風流」だ、と思われます。すなわち芸能、産業の伝統を継承する姿に感じるところがあったと言うことでしょう。曾良句は、古代を、古人・古歌が生きた時代、風流の源としたようですが、また、物語・随筆の用例に違反することは許されませんから、古めかしいこと・昔風とも読みます。
一方、「かれは富るものなれども、志いやしからず」と、「志」に言い及ぶほどの富豪である清風の家にも、必ずしも収益を目的としない、古代からの家業があって、家人がかいがいしく指揮して、「かひや」に働く女達の姿があったでしょう。須賀川で、「風流の」句に並ぶはずだった句が、ここに移されて、「這出よ」句にも不足する、尾花沢の生活に残る古代、すなわち風流と、古めかしいこと・昔風を補完することになったものです。
「古代」の語は、源氏物語に多数あり、この句も、その用例に従うべきですが、枕草子二五七段「古代の人の指貫着たるこそ」、にも一例があります。
古代の人の指貫着たるこそ、いとたいだいしけれ。前にひきあてて、まづ裾を皆籠め入れて、腰はうち捨てて、衣の前を整へ果てて、腰をおよびて取るほどに、後ざまに手をさしやりて、猿の手結はれたるやうに、ほとき立てるは、とみのことに出で立つべくも見えざめり。
この、男物の指貫に似ているらしい着物、須賀川では何と言ったでしょうか、この地方に言う「ふぐみ」(もんぺ)を着る姿を見て、「古代哉」と作ったようです。一方、徒然草第二十二段「何事も、古き世のみぞ」の用例は、「古代の姿」とあって、
何事も、古き世のみぞ慕はしき。今様は、無下にいやしくこそなりゆくめれ。かの木の道の匠の造れる、うつくしき器物も、古代の姿こそをかしと見ゆれ。
ここの用例は器物についてでしたが、「古き世のみぞ慕はしき」、「をかしと見ゆれ」と褒めて、「たいだいしけれ」困ったものだ、などと言わない。同第六十五段には、
この比の冠は、昔よりははるかに高くなりたるなり。古代の冠桶を持ちたる人は、はたを継ぎて、今用ゐるなり。
と、古代の物を捨てない方法も示されました。「古代」は、源氏物語の用例にあっても、すべてが爪弾きするための言葉ではないのですが、須賀川に、ついで尾花沢にも曾良が見つけた、蠶飼に従事する女達の、「古代」の姿を、慕はしき、おかしと見て、清風の志の一端を確認したと告げたもののようです。
ならばこれで、曾良が清風の肩を持ったことになるのか、と言えば、家業や器物の古代は尊ぶべきですが、俳諧の古代については、論を俟ちません。「古代の冠桶を持ちたる人は、はたを継ぎて、今用ゐるなり。」といった処方箋が示されずに終わった、と見るべきでしょう。
2007-01-07