
「おくの細道」の大石田まで
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一、立石寺
山形領に立石寺と云山寺あり。慈覚大師の開基にて、殊清閑の地也。一見すべきよし、人々のすゝむるに依て、尾花沢よりとつて返し、其間七里ばかり也。日いまだ暮ず。梺の坊に宿かり置て、山上の堂にのぼる。岩に巖を重て山とし、松柏年旧、土石老て苔滑に、岩上の院々扉を閉て、物の音きこえず。岸をめぐり、岩を這て、仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行のみおぼゆ。
閑さや岩にしみ入蝉の声
曾良日記の、五月二十七日の記事によると、立石寺の先の行程に、一度、山形が予定されたようです。
‥一リ、六田(山形ヘ三リ半、馬次間ニ内蔵ニ逢)。二リよ、天童。一リ半ニ近シ、山寺(宿預リ坊。其日、山上・山下巡礼終ル)。未ノ下尅ニ着。是より山形ヘ三リ。
と、山形への里程を二度も書いて、何事があったのか、残念そうに「山形へ趣カンシテ止ム。‥」と続けています。西行が訪れた「たきの山」・山形の東南にあった霊山寺(山家集1219、うすくれないの桜の歌の詞書きにあります。日光の項で引用しました。)に行こうとしたという説もあって、山形訪問を目的としながら、尾花沢の勧めがあるので、立石寺に立寄ったのか、とも見えます。佳景はともかく、清閑の地を求めてする旅ではないのですが、あたかもこの句のために、蝉の声を聞こうと、参詣したようになりました。
人々は、寒山・拾得が住んだという天台山もかくや、と教えたのでしょう。「おくのほそ道評釈」尾形仂が、「清閑」「岩に巖を重て山とし」「苔滑に」「佳景寂寞として」などの〔語釈〕を詳しくし、さらに敷衍して、句が、「『寒山詩』的世界との交響の上に成り立っている。」と説いていますが、清風もそのように、寒山詩の詩句によって案内したのでしょうか。しかし、山寺は、「岩上の院々扉を閉て」、禅画の好題材である、寒山・拾得に似た人々は、現れません。寒山詩にある、一連の三字の詩の一つに‥。
寒山道 寒山の道
無人到 人の到る無し。
若能行 若し能く行かば
称十号 十号を称せん。
有蝉鳴 蝉の鳴く有りて
無鴉噪 鴉の噪ぐ無し。
黄葉落 黄葉落ちて
白雲掃 白雲掃ふ。
石磊磊 石磊磊として
山隩隩 山隩隩。
我独居 我独居し
名善導 善導と名づく。
子細看 子細に看よ、
何相好 何の相好ぞ。
曾良書留には、大石田の歌仙と、新庄の歌仙の間に、次の二句を並べています。これらが、おそらく大石田から清風に報じられた句形です。紀行の句形は、「おくの細道」出版に至って知った、のかも知れません。
立石の道にて
まゆはきを俤にして紅ノ花
立石寺
○ 山寺や石にしみつく蝉の声
寒山詩に、「蝉」の語は、右の一篇にあるだけらしく、「寒山道」の「無人到」ならぬ、「立石の道」の紅花の花盛りが比較されました。立石寺の佳景を教えた清風に、芭蕉は、山寺の「石にしみつく蝉の声」を聞かせたのでした。見も知らぬ古代中国の風光と、「十号」「善導」「相好」など、この詩に限りませんが、仏教用語を尋ねてもなお難解な詩を弄ぶ、というのが曾良句にいう、「古代」の俳諧の一例でしょうか。これと同じく三字の詩で、
重巌中 重巌の中
足清風 清風足る。
扇不揺 扇揺がずして
涼気通 涼気通ず。
明月照 明月照して
白雲籠 白雲籠む。
独自坐 独自ら坐す
一老翁 一老翁。
がありますが、清風の俳号をここから取ったとでも話があったのでしょうか。
蝉の声は、わざわざ山寺に聞きに行かなくても、尾花沢の森にも林にも、噪がしかったのです。と知れば、清風は、枕草子二十二段「すさまじきもの」の、験者のせみの声に思い至った筈です。験者・芭蕉は、まさしく清風が招聘して、はるばる陸奥の果て尾花沢に、俳諧の「物の怪調ず」として訪れた者だからです。
験者の、物の怪調ずとて、いみじうしたり顔に独鈷や数珠など持たせ、せみの声しぼり出だして誦みゐたれど、いささかさりげもなく、護法もつかねば、集まり居、念じたるに、男も女もあやしと思ふに、時のかはるまで誦み極じて、「さらにつかず。立ちね。」とて、数珠取り返して、「あな、いと験なしや。」とうち言ひて、額より上ざまにさくりあげ、欠伸おのれうちして、寄り臥しぬる。
いみじうねぶたしと思ふに、いとしもおぼえぬ人の、押し起こして、せめてもの言ふこそ、いみじうすさまじけれ。
験者の声を、遠慮なく「せみの声」と言ったのはこの章段だけです。さらに同二十五段「にくきもの」を見れば、待ち望んだ験者の待遇が、先の「蚤虱」の句に予告されていた、と知ることになります。すでに尾花沢の項には、「蚤虱」の句について、この段の、「‥ねぶたしと思ひて臥したるに、蚊の細声に‥」以下を引用しました。
にはかにわづらふ人のあるに、験者もとむるに、例ある所になくて、外に尋ねありくほど、いと待ち遠に久しきに、からうして待ちつけて、よろこびながら加持せさするに、このころ物怪にあづかりて、極じにけるにや、居るままにすなはち、ねぶり声なる、いとにくし。
同四段「思はむ子を法師に」には、
‥まいて験者などは、いと苦しげなめり。極じてうちねぶれば、「ねぶりをのみして」など、もどかる。いと所狭く、いかにおぼゆらむ。
これは昔のことなめり。今は、いと安げなめり。
同百五十二段「苦しげなるもの」には
こはき物怪にあづかりたる験者。験だにいちはやからば、よかるべきを、さしもあらず、さすがに人笑はれならじと念ずる、いと苦しげなリ。
と、枕草子は同情してもいます。
尾花沢を訪れた験者は、どうやら「ねぶり声なる、いとにくし。」「ねぶりをのみしてなど、もどかる。」「さすがに人笑はれならじと念ずる、いと苦しげなリ。」などと苦情を言われながら、寝かせてもらえないという歓待を受けたようです。曾良日記の、五月二十三日と二十五日の記事に、それぞれ「日待(正・五・九・十・の十五日または吉日の夜、潔斎して夜を明かし、日の出を拝み、供物を献じて祈願する行事。眠らないために、親類・友人・座頭・山伏などを集めて終夜酒宴歌舞し、後には単に遊興の会合となった。)」「庚申待(庚申の日に青面金剛などを祭り、徹夜で遊びなどして寝ずに過すこと。この夜に寝ると、人の体内に住む三尸虫が天にのぼり、その人の悪事を天帝に告げるという道教の説による。‥「腰折れたる歌合はせ、物語り、庚申をし」<源氏東屋>」の語があります。日記には、北陸に至ってもう一度だけ、七月二十六日の小松滞在の記事に、「庚申」の語が出てきます。
‥(五月)廿三日ノ夜、秋調ヘ被招。日待也。ソノ夜清風ニ宿ス。‥〇廿五日 折々小雨ス。大石田ヨリ川水入來、連衆故障有テ俳ナシ。夜ニ入、秋調ニテ庚申待ニテ被招。
一 (七月)廿六日 朝止テ巳ノ刻ヨリ風雨甚シ。今日ハ歡生ヘ方ヘ被招。申ノ刻ヨリ晴。夜ニ入テ、俳、五十句。終而歸ル。庚申也。
一方、源氏物語にも多く出てくる験者は、「いみじき験者ども(葵の巻・若菜上の巻)」「すぐれたる験者ども(若菜下の巻)」「さまざま聖だつ験者など(柏木の巻)」「かばかりの天の下の験者(手習の巻)」と、どれも作り物語の人物らしく有り難くて、芭蕉らに似た所がありませんが、それだけ尾花沢は、験者に、源氏物語の流儀を要求していたと言えるでしょうか。験者の声を言うのにも、「不動尊の生きたまへるかたちをも呼び出で現はしつべう、頼みみ恨みみ、声みな涸れわたりにたる、いといみじう聞こゆ。(紫式部日記から‥)」と、こちらはかろうじて効験の程が見えるようです。
「蝉の声」については、源氏物語にも一例だけ、「常夏の巻」の冒頭、六条院釣殿の納涼の場面に出てきます。
いと暑き日、東の釣殿に出でたまひて涼みたまふ。中将の君もさぶらひたまふ。親しき殿上人あまたさぶらひて、西川よりたてまつれる鮎、近き川のいしぶしやうのもの、御前にて調じて参らす。例の大殿の君達、中将の御あたり尋ねて参りたまへり。
「さうざうしくねぶたかりつる、折よくものしたまへるかな」とて、大御酒参り、氷水召して、水飯など、とりどりにさうどきつつ食ふ。風はいとよく吹けども、日のどかに曇りなき空の、西日になるほど、蝉の声などもいと苦しげに聞こゆれば、
「水の上無徳なる今日の暑かはしさかな。無礼の罪は許されなむや」
とて、寄り臥したまへり。
験者の声のように「いと苦しげに聞こ」えて、水の上でさえ「暑かはしさ」と眠気を増す景物です。尾花沢にも、こうした場面があったのでしょうか。旅を先に進んで、曾良書留に、新庄の、「風流亭」と題した三ツ物の、芭蕉の発句に、
水の奥氷室尋る柳哉
がありますが、「大御酒参り、氷水召して、水飯など、とりどりにさうどきつつ食ふ。」のところで、尾花沢の納涼に、新庄の氷室の氷が運ばれたのか、と空想しております。とすれば、清風の源氏気取りは紛れもないことになりますが‥。
紀行本文は、「山寺や」句を改案して、
○ 閑さや岩にしみ入蝉の声
と、「山寺や」を「閑さや」とし、「石にしみつく」を「岩にしみ入」と直したのですが、猿蓑編集の過程のことかもしれません。
石に「しみつく」としたのは、「まゆはきを」の句に使わなかった、「末摘花の巻」の第二章、源氏が若紫と鼻を赤く塗って戯れる、「染みつかむ」をここで使ったのでしょう。
「まろが、かくかたはになりなむ時、いかならむ」とのたまへば、「うたてこそあらめ」とて、さもや染みつかむと、あやふく思ひたまへり。そら拭ごひをして、「さらにこそ、白まね。用なきすさびわざなりや。内裏にいかにのたまはむとすらむ」と、いとまめやかにのたまふを、いといとほしと思して、寄りて、拭ごひたまへば、「平中がやうに色どり添へたまふな。赤からむはあへなむ」と、戯れたまふさま、いとをかしき妹背と見えたまへり。
清風の艶福、木石ならぬことは、既に「まゆはきを」の句に言ってありましたが、ここで念を押して、尾花沢に招聘された、験者の「蝉の声」は、紅花の色の戯れのように、一時は、清風の鼻に「しみつく」ことがあっても、たちまち拭われて消えるのだろう、と言うのでした。
「山寺」の蝉の声は、「石にしみつく」では、日ごとに褪せて、やがて雨に流されるかのようですが、「しみ入」とあれば拭うことができません。「松柏年旧、土石老て苔滑に」なる間にも、夏ごとの「蝉の声」は、岩に「しみ入」り続けて、いまや「閑さ」となっています。「石」を「岩」に用字を替えましたが、これで清風の木石ならぬことを不問に付したのではありません。清風の艶福は、罪ではありませんが、見過ごすことの出来ない滑稽の種です。
さて、次に引用するように、梁の王籍の詩に、「蝉噪ぎて林逾静なり」とありますから、句の、「蝉の声」に「閑さや」を取り合わせるのが、芭蕉の独創だとは言えません。「しみ入」のも、「末摘花の巻」の「染みつかむ」に対称して、目には見えないものが、時あってようやく効験をあらわす、その経過を教えたかのようです。
「おくのほそ道評釈」尾形仂は、先に引用の「寒山詩」と、幾つかの詩を挙げて、「山寺に蝉を取り合わせた詩句は一、二にとどまらない。」とし、「閑」の字についても、「寒山詩」に頻出することを指摘しています。ただし、詩の一つの句に、また一篇の詩にも、噪蝉と「静」または「閑」の文字が一緒にあるものは少ないようで、王籍の詩「入若耶渓」の五・六連が、詩論「詩人玉屑」によって知られていますが、あるいはこの一篇だけかもしれません。
艅艎何汎汎 艅艎 何ぞ汎汎たる
空水共悠悠 空水 共に悠悠たり
陰霞生遠岫 陰霞 遠岫に生じ
陽景逐迴流 陽景 迴流を逐ふ
蝉噪林逾静 蝉噪ぎて林逾静なり
鳥鳴山更幽 鳥鳴いて山更に幽なり
此地動歸念 此地 歸念を動かし
長年悲倦遊 長年 倦遊を悲しむ
この二句は、「詩人玉屑」巻之三の「句法」に、「両句不可一意」として、とかく対句が同じ意味になり易いことを不可として挙げるものです。
晋宋間詩人造語雖秀抜、然大抵上下句多出一意。如「魚戯新荷動、鳥散余花落」、「蝉噪林逾静、鳥鳴山更幽」之類、非不工矣、終不免此病。
「句法」は、これについて王安石が「蝉噪林逾静」を、晋の謝元正の句「風定花猶落」と取替えた記事を続けます。
王荊公(王安石)以「風定花猶落」対「鳥鳴山更幽」、則上句静中有動、下句動中有静。
更に王安石は、「鳥鳴山更幽」に二字の蛇足を加えて、七言絶句「鐘山即事」を作っています。
澗水無声繞竹流 澗水声無く竹を繞って流る
竹西花草弄春柔 竹西に花草 春柔を弄ぶ
茅薝相対坐終日 茅薝 相い対して坐すること終日
一鳥不鳴山更幽 一鳥鳴かずして山更に幽なり
これらのことは、「おくのほそ道」安東次男が、「‥宋の王安石が、右の王籍の対の上句を晋の謝元正の句に取替えて、集句を楽んだ話は遍く知られる。」と注してあるところです。さらに、「とかく同じ意味になり易い対句法の弊害を、連句を日常とする俳諧師が知らぬはずはない。噪蝉を以て閑情を深めたければ、漢詩よりは発句の方がまさる、というところに芭蕉の云いたいこと、挨拶がある。」と説いています。
すでに、山刀伐峠の険路を越えて尾花沢にむかう場面に、王安石「鐘山即事」の「一鳥不鳴山更幽」をとって、
‥あるじの云にたがはず、高山森々として一鳥声きかず、木の下闇茂りあひて夜る行がごとし。
としてありますから、句は、「噪蝉を以て閑情を深め」る、稀な一句を借りたばかりではなく、「山寺や」を「閑さや」と直したのは、「静」ではなく、用字を「閑」としましたが、「詩人玉屑」の「句法」の、「両句不可一意」に注意させたものでした。
紀行に、「閑さや」の句と併せて「両句」というべき句があるとすれば、「まゆはきを」の句ではなくて、四月十六日、黒羽を去る時に、「口付のおのこ」に書き与えた、那須野の句です。
野を横に馬牽むけよほとゝぎす
黒羽の十三日の滞在、そして尾花沢の十日の滞在(これに大石田、新庄の日数を加えれば黒羽より長い。)と、それぞれ武家と農家の違いはありますが、二句はともに、渾身の指導のしるしを残した置き土産です。詩論の「両句不可一意」が、歌論そして俳論にも禁じる、等類もしくは同巣かどうかの議論と同じではないのですが、訪問以前から予想された不首尾は、同様の草臥れを繰り返しながら、落胆したであろう黒羽と尾花沢の人々を、それぞれ滑稽によって慰撫し励ます句となったのでした。
黒羽の句は、図書・桃翠こそが、やがて盛夏となれば、喧しく鳴き交わすだろう、ほとゝぎすであることを教えた句でした。田植えせよと、領民を督促するほとゝぎすであるにしても。清少納言が、枕草子九十五段「五月の御精進のほど」に、「かしましと思ふばかりに鳴きあひたる」ほとゝぎすを詠もうとして詠めなかったのですが、盛夏のほとゝぎすは、歌にはならなくても俳諧にはなると言うことです。歌語としては、とうに鳴いている筈なのに、夏の遅い北関東の、「一鳥声きか」ぬほとゝぎす、その聞えないほとゝぎすの句を作れという、黒羽の注文に対応した句なのでした。
このほとゝぎすが、王安石の、「一鳥声きかず」という小細工に似ているのを幸便に、噪蝉の句を、「両句一意」でありながら「両句不可一意」を免れるもの、として作った事になります。尾花沢の失点は、俳諧を庚申・日待ちの眠気覚ましの技と心得る、あるいは人も羨む、贅沢な遊興と信じたことでしょうか。これを芭蕉は、田舎大尽の好みと断じた事は間違いないところです。慰撫するにも、励ますにも難しい人々ですが、辛うじて許せることがあるとすれば、清風の艶福の評判です。人は皆(芭蕉さえも)木石ならぬ事は、白楽天詩、新楽府「李夫人」の終聯が教えたところです。
人非木石皆有情 人は木石に非ず皆な情有り
不如不遇傾城色 如かず傾城の色に遇はざらんには
これに学んで、源氏物語「蜻蛉の巻」には、
‥と思ひ忍ぶれど、さまざまに思ひ乱れて、「人木石に非ざれば皆情けあり」と、うち誦じて臥したまへり。
とあり、徒然草第四十一段にも確認されています。
人、木石にあらねば、時にとりて、物に感ずる事なきにあらず。
これら古典の後ろ盾に配慮して、鼻持ちならぬところを、「石」を「岩」に直し、「染みつく」を「しみいる」に取替えて、穏やかに許したものだと思われます。
さて、猿蓑・秋に凡兆の句があります。
一鳥不鳴山更幽
○ 物の音ひとりたふるゝ案山子哉 凡兆
猿蓑編集の過程で、「山寺や」または「閑さや」の句を採らなかった(野を横に馬牽むけよほとゝぎすは採用している。)のについて、等類・同巣など、さまざまに議論があったのでしょう。前書の、「一鳥不鳴山更幽」によって、芭蕉の、清風に対する処分が手緩かったと、同門の弟子として異議を述べたのでしょうか。松島の項で、「松島や」の句によって、曾良が芭蕉に代わって引き受けた、仙台に与える決別の辞、その過剰とも見える憤りは、芭蕉が許可したものでした。猿蓑・夏にある、曾良の句は、
松島一見の時、千鳥もかるや鶴の毛衣とよめりければ
松島や鶴に身をかれほとゝぎす 曾良
と、前書を「無名抄」鴨長明の一節に借りたのでした。事態が変わって、尾花沢の案山子が倒れた、俳諧を止めたという風聞があったのは、猿蓑編集の最中だったのではないでしょうか。凡兆は、王安石の話柄の一句を借りて、曾良の句と「二句一意」とする積りがあったようです。
「物の音」は、源氏物語に頻出して(三十一件あります。枕草子にも一件‥。)、すべての場面で「楽の音」を意味しますから、凡兆がこれを無視して、単なる物音、「突然ばさっと物音がした。」の意として使うことは許されていません。音曲に乗って、案山子が倒れたのですが、歌に、案山子(そほづ)は、恋の虜として現れます。古今和歌集誹諧歌1027。
あしひきの山田の案山子おのれさへ我を欲しといふうれはしきこと
他に、後撰和歌集巻第十二恋歌四806。
おとこの、物なといひつかはしける女のゐなかの家にまかりて、たゝきけれともきゝつけすやありけん、かともあけすなりにけれは、田のほとりにかへるのなきけるをきゝて
足引の山田のそほつ打わひて独かへるの音をそ鳴ぬる
源氏物語「胡蝶の巻」に、人が木石ならぬことを諺に、「恋の山には孔子の倒ふれ」とも言いました。凡兆の句では、恋・俳諧に身動きのならない案山子が「たふるゝ」。右の歌を、俳諧の特殊事情によって読み換えてみます。
おとこ・芭蕉の、物なといひつかはしける清風のゐなか・尾花沢の家にまかりて、験者となって物の怪をたゝきけれともしぼり出す蝉の声をきゝつけすやありけん、かとも埒があけすなりにけれは、田のほとりにかへるのなきける・「かひやが下のひきの声」をきゝて(よみ人しらず)
足引の山田のそほつ・清風(新しい俳諧に)打わひて独(勝手に)かへるの音(古い俳諧)をそ鳴ぬる
世間にも知られた、鳴り物入りの招聘に拘らず、芭蕉の、「這出よ」の句(この句は猿蓑にあります。)の、世に出よという励ましに背いて、勝手に俳諧を止めたという風聞‥。秋になって、ほとゝぎすは鳴き仕舞い「一鳥不鳴」、「山更幽」尾花沢からは、もう何の物の音も聞えてきません。
二、大石田