「おくの細道」の全昌寺の前後について

 

 

 

  一家に遊女もねたり萩と月

曾良にかたれば、書とゞめ侍る。

 

 市振のこのところ、曾良に語るまでもない、作り物語めいた話、後に出来上がるべき紀行本文を、旅の現実時間に曾良に語ったというのではなく、ただ、「一家に」句を、「曾良にかたれば、書とゞめ」たというのである。

 一間を隔てた一夜の邂逅にすぎないが、遊女たちに与えるべき離別の句を、曾良に宛てて作ったと言うのだ。しかし、この句が、曾良書留にはない。ならば俳文としては、紀行のどこかに、それも必ずや曾良の句に、「書とゞめ」た痕跡があるはずである。

 

 後日、曾良は山中温泉で芭蕉に別れて、先行する。遊女たちも、市振からそのまま、あるいは北陸道のどこかで、芭蕉たちに先行して伊勢に向った。次の曾良句には、芭蕉に別れて遊女たちと同類となった、寄る辺ない者の覚悟がある。

 

曾良は腹を病て、伊勢の国長島と云所にゆかりあれば、先立ちて行に、

  行き行きてたふれ伏とも萩の原  曾良

と書置たり。

 

 これは、別の句形で曾良書留にある。

 

前書

いづくにかたふれ伏共萩の原

 

猿蓑・秋にも、この句形で出ていて、「前書」とは、猿蓑にある前書を指すだろう。

 

元禄二年翁に供せられて、みちのくより三越路にかゝり行脚しけるに、かゞの国にていたはり侍りて、いせまで先達けるとて

  いづくにかたふれ伏とも萩の原

 

 したがって、曾良句の、「行き行きて」については、直ちに次の山家集の歌が浮かぶ。しかし、後しばらくの行程のうちに、この歌に言うところを現実としたくないのは、芭蕉も同じだ。

 

     無常の歌あまたよみける中に

916いづくにかねぶりねぶりて倒れふさむとおもふかなしきみちしばのつゆ

 

そして詩には、和漢朗詠集「行旅」、源順の「山河千里別序」、

 

かうかうとしてかさねてかうかうたり、めいげつかふのあかつきのいろつきず、

べうべうとしてまたべうべうたり、ちやうふほのくれのこゑなほふかし、

行々行々。明月峡之暁色不尽。

眇々復眇々。長風浦之暮声猶深。

 

の「行々」など、多く使う。それらしき例を挙げれば、故郷に帰ろうという、陶淵明詩か。

 

庚子の歳、五月中、都より還るに、風に規林に阻まる二首

其一

行行循帰路  行く行く帰路に循い

計日望旧居  日を計えて旧居を望む

一欣侍温顔  一つには温顔に侍するを欣び

再喜見友于  再つには友于に見うを喜ぶ

鼓棹路崎曲  棹を鼓せば路は崎曲し

指景限西隅  景を指せば西隅に限らる

江山豈不險  江山 豈に險しからざらんや

歸子念前途  歸子 前途を念う

凱風負我心  凱風 我が心に負き

戢竡迢湖  竄戢めて窮湖を守る

高莽眇無界  高莽 眇として界しなく

夏木獨森疎  夏木 独リ森疎たり

誰言客舟遠  誰か言う 客舟遠しと

近瞻百里餘  近く瞻る百里余

延目識南嶺  延べて目を識り南嶺を

空歎將焉如  空しく歎ず 將た焉くに如かんと

 

その他、多すぎてこれといった詩句を特定して効験を受けることができない。ともあれ「道程のすすむさまをあらわす」意である。ただし曾良句の例によって、この句に言うところは、曾良の道程に限らない。芭蕉もおなじ道を、紀行によれば

 

大聖持の城外、全昌寺といふ寺にとまる。猶加賀の地也。曾良も前の夜此寺に泊て、

  終宵秋風聞やうらの山

と残す。一夜の隔千里に同じ。

 

と一日遅れで通っているのだ。曾良は「腹を病」んで「先立ちて行」のだったが、芭蕉とて、いつ「たふれ伏」とも知れない旅だ。句は、それを見込んで作った。諺に、「恋の山には孔子の倒れ」と言うと、源氏物語「胡蝶の巻」にある。木石ならぬ身の曾良が、「腹を病」んだのを契機に里心がついて、精進の辛抱も限界となったのだろうか。露繁き、萩の原に倒れるならば安心だというのである。日が高くなれば、市振の遊女たちと同じく、萩の枝の、「露の落つるに、枝うち動きて、人も手触れぬにふと上様へあがりたる」(枕草子一二六段「九月ばかり」より)。これに励まされながら、「行き行きて」、故郷・伊勢に向おう。そもそも、芭蕉の「倒れ」をこそ阻止すべき曾良の任務であったが、実は幾たびも、「倒れ」から救って貰っていたのだ。

 これに対して芭蕉の句は、

 

行ものゝ悲しみ残ものゝうらみ隻鳧のわかれて雲にまよふがごとし。予も又

  今日よりや書付消さん笠の露

 

だった。曾良は、萩の露に濡れようと言うのだったが、「笠の露」とあるのは、「笠打敷て」(高館に使った。)、座ったその笠についた露、道柴の露に濡れぬようにという工夫である。

 笠の内に、「乾坤無住同行二人」と書いたのは、誰でも書くからというまじないだが、此処までの無事は、精進を嘉する、御仏の加護というほかはない。この旅の目的を、「みちのく三越路之風流佳人もあれかしとのみに候」と、千住から、岐阜の落梧に宛てて書いた。これは多くの人々に話した事のはずである。二人は、「古人も多く旅に死せる」中に、ひとえに新しい風流佳人と、芭蕉自身の、新しい俳諧を探ろうとして草臥れはて、しかし今日までの無事を得た。一人は日常に戻ろうとし、もう一人も別の日常・俳諧師の日程に戻る。この句によって、旅の実質は終り、「みちのく三越路之風流佳人」は居ないと、二人によって確認された、としたのだ。消そうとして消えない書付ではあるが、ここに至って猶、御仏の加護を求めるのは、勿体ないということだ。山家集に、「同行」とは、西住上人を指して言う。書付の「同行」を、曾良に直して言ってみるのを、御仏は赦して下さるだろうか。

 

同行に侍りける上人、例ならぬ事大事に侍りけるに、月のあかくてあはれなりければよみける

849もろともにながめながめてあきの月ひとりにならむことぞかなしき

 

 曾良は、「例ならぬ事大事」と言うほどではないが、あと十日すれば名月となるのに、腹を病みながら先行した。黒羽のほとゝぎすは、四月十六日に、聞えぬほとゝぎすの句を作り、花は、それからはるかに遅れて六月七日、湯殿山の残雪と共に、思いがけない、「三尺ばかりなる桜のつぼみ半ばひらける」遅桜、タカネザクラを見た。名月をながめるその日も、こうして「ひとりにならむ」と言うことになったのだ。俳諧師の日程は、いつもあなた任せで故障がちで、およそこう云ったものだろう。

2007 -06- 24

 

 

 さて、全昌寺に残した曾良句。

 

  終宵秋風聞やうらの山

 

これも猿蓑・秋に採られている。

 

加賀の全昌寺に宿す

終夜秋風きくや裏の山

 

 名月に数日あるが、雲は秋風に掃われて、一人、細い月を見る。師はなんと思っていることやら。確かに山家集の歌によれば、

 

703よもすがら月をみがほにもてなして心のやみにまよふころかな

 

そして、

 

    八月、月のころよふけて北白河へまかりけり。よしあるやうなる家の侍りけるに、ものおとのしければ、たちどまりてききけり。をりあはれに秋風樂と申すがくなりけり。庭を見いれければ、浅茅の露に月のやどれるけしきあはれなり。垣にそひたる荻の風身にしむらむとおぼえて、申しいれてとほりける

1128秋風のことに身にしむこよひかな月さえすめる庭のけしきに

 

月をみがほにもてなして」、月見るふりをよそおって、「終宵」恋の物思いにふけるとお思いだろうか。しかし今日のところは、「恋の山」ならぬ「うらの山」に鳴る、「秋風樂」の「ものおと」ではない、実の秋風の音は、「垣にそひたる荻」の内側に寝ていても、「ことに身にしむこよひ」なのだった。発句には困難な、名月ならぬ月の句を、秋風に換えて作った。

 これに添えるべき芭蕉の句は、

 

吾も秋風を聞て衆寮に臥ば、明ぼのゝ空近う、読経声すむまゝに、鐘板鳴て食堂に入。けふは越前の国へと、心早卒にして、堂下に下るを、若き僧ども紙硯をかゝえ、階のもとまで追来る。折節庭中の柳散れば、

  庭掃て出ばや寺に散柳

とりあへぬさまして、草鞋ながら書捨つ。

 

一夜へだてて、曾良とおなじく「秋風を聞て衆寮に臥」して、「終宵」句を見れば、

山家集に、「よもすがら」と詠む歌は、先の歌ばかりではない。源雅定の歌ではあるが、西行との贈答に、「そのむつごとに闇ははれにき」と詠んでいる。

 

     中院右大臣(源雅定)、出家おもひたつよしの事かたり給ひけるに、月いとあかくて、よもすがらあはれにてあけにければかへりにけり。そののち、その夜のなごりおほかりしよしいひおくりたまふとて

800よもすがら月をながめてちぎりおきしそのむつごとに闇ははれにき

     返し

801すむといひし心の月しあらはればこの世もやみのはれざらめやは

 

名月ならずとも、それで「心のやみ」が晴れるとは言わずとも、「よもすがら」芭蕉とともに月を見て語れば、とは思わなかったのだろうか。出立の時に、寺院の定法たる庭を掃いて出るという余裕もなかったらしいのは君らしくない。さらに、「よもすがら」と詠む歌は、他にもある。冬の歌だが、

 

     長楽寺にて、よるもみぢを思ふと云ふ事を人々よみけるに

536夜もすがらをしげなくふくあらしかなわざとしぐれのそむるこずゑを

 

眼前の「にはのおち葉」が、紅葉ばかりではないことを見もせず、

 

     落葉

544あらし掃くにはのおち葉のをしきかなまことのちりになりぬとおもへば

 

君が、折角のこの歌の示唆にも思い至らなかったのは、残念なことだ‥。庭の洒掃を事改めて句に言うのは、終宵」句と寺院の定法に犯した、曾良の、上の空である失点の後始末のつもりだろう。

 

 さて、紀行は次に、伝西行の歌、実は蓮如上人の歌を挙げた。

 

越前の境、吉崎の入江を舟に棹して、汐越の松を尋ぬ。

  終宵嵐に波をはこばせて月をたれたる汐越の松  西行

此一首にて数景尽たり。もし一辧を加るものは、無用の指を立るがごとし。

 

 「終宵」を初句とする縁によって、曾良句がこの歌を案内するのだろう。とすれば曾良句に失点は少なく、消そうとしても消えない「書付」の、「乾坤無住同行二人」の文字は、西行と芭蕉の二人のことだろう、と言ったのかもしれない。三越路の始点である、象潟の、これも伝西行の歌である、

 

2233象潟や櫻の波にうづもれてはなの上こぐ海士のつり舟

 

この西行桜の歌から、終端の汐越の松までの、幻の足跡をたどって、紀行本文はついに、西行的なるものすべてを受容する態度を示して、西行賛仰の真実を明らかにしたのである。

2007-07-16

 

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