出せなかった手紙 ― 夏時鳥についての弁明

 

 以下は、タイトルどおり、S氏宛の、「出せなかった手紙」だ。ささやかで極私的な、しかし長らく確実に存在し続けた責めを、ここで果たしたことにする。無論これは、極私的な遣り方でしかない。これを弁明だともいい難い。亀の子であるアマチュアがプロに立ち混じろうとする時に、思い知るべき彼我の間にある深淵、それに渡そうとして投げる細いロープだ。

 

 

 仰るとおり、元禄二年は、閏一月のあった年ですから、(たぶん)いつもの年の日付よりも早く、前年、元禄元年に比べれば二十日ほど早い日付で、北関東、そして東北の地でも、四月のうちに田植えが始まった、ということなのでしょうか。

 「芭蕉 奥の細道事典」山本(講談社文庫)の、「付録A 芭蕉と曽良の『奥の細道』行程表」に、旧暦から太陽暦への換算表が出ていて、黒羽到着(行程六日目)の四月三日は五月二十一日、黒羽から高久に向かう四月十六日は六月三日(「野を横に」句の日)、そして芦野、遊行柳周辺の田植え見物の、四月二十日は六月七日(「田一枚」句の日)とあります。

 この表の元の表について、いつか聞いたことがあるのを、思い出せないまま、この本さえもすっかり忘れていたのでした。次いで師弟二人は白川の関を越える。須賀川は等躬宅の三吟歌仙の発句、

 

風流の初やおくの田植歌

 

は四月二十二日つまり六月九日の句、そして等躬の家の田植えが四月二十四日で六月十一日、です。

 私は、ごく最近になって、『三正綜覧』、『日本暦日原典』の名を知ることが出来ました。迂闊なことでした。これらによれば、日付の換算、中気・節気の日も容易に知ることが出来るわけで、私にも多少の手がかりを与えられたのかもしれない。たとえば、元禄二年の立夏は、三月十七日ですから、「これを矢立の初として」という出立の日、三月二十七日の句

 

行く春や鳥啼き魚の目は涙

 

は、立夏が何時であろうとも、夏は四月一日に始まるという一般的態度による、と知られる。季節と節気のずれによって作る、小児的滑稽は、芭蕉においては、はるか寛文二年の句、に尽くされているのでしょう。

 

春や来し年や行きけん小晦日

 

 私は、俳諧同様、農事にも全く暗い者ですが、それでも田植えの日程は動かせないものだ、と想像できます。それは動かせず、そして動く。田の代掻き、苗代のこと、いわゆる粒々辛苦の頂点に向かって、旅行者のあずかり知らぬスケジュールが動いているのでしょう。これは、白川の関の向こうの須賀川にも、こちら側の芦野の遊行柳の周辺にも、それぞれの精妙なお天道様との相談というものがあるのだろう‥。

 江戸から、芦野の領主との間に、田植えを「見せばや」の約束があっても、田植えのその日を目指して行けるはずもないから、情報が届くのを待って、黒羽と殺生石の長逗留は、(このさき何処でも出来る田植えの見物なのに)日数あわせをしたのだと想像しています。

 

田一枚植て立去る柳かな

 

 「田一枚」というのには、ムリヤリまたはシブシブという響きがある。江戸住まいの殿様からは、「私の大事な客に田植えをキット見せてやれよ」と、かねて通達があった筈だ。先を急ぐ、という胡乱な〈客〉のために、たとえたった一日でも、日をずらすとなれば、駄目にするかも知れない田一枚について、植え手の気合いは入らない。しかし句は、田一枚ながら、あなたの芦野の田植えを確かに見届けたぞ、という冥府に向かっての報告だった。ふと思うに、芭蕉は江戸に帰ってから桃酔と会っていないのではないか。もしや桃酔の長患いのために。約束と言えば、紀行が仏頂和尚山居跡訪問についても詳しいのは、白川の関の手前は、浮世の義理においてまだ江戸の勢力圏にあるということでしょうか。(この紀行が、雲巌寺の章を見やすい端緒として、約束実現の物語を含む、と私は考えています。)

 以上が、遊行柳の周りについての想像ですが、この芦野の田植え見物(曽良の日記には書いていない)については、たとえ本当は無かったとしても、「あったこと」として疑うつもりはないのです。しかし、田植歌については、須賀川では、「風流の初やおくの‥」と言っています。この「初」には、とくに陸奥の須賀川の田植歌ばかりを、風流の初・源流だと褒めて、一方、那須野にもあるはずの田植歌の方をないがしろにする、という意図はない、この旅で田植歌を(予定では、もっと早く聞く筈だったのに)白川の関を越えてからやっと(初めて)聞いたとも言っている、と読みたい。田植え歌があってこその田植え。すなわち、遊行柳の周りには、田植えはあったとしても、囃し手も歌い手も集まらなかった、と。

 田植え、時鳥に限らず、季語・物の名・習俗など、俳諧評釈の周辺について、アマチュアが容喙すべき余地は少ない、と承知しております。これら百科全書的知識は充分にどこかしらに蓄積されています。しかし、四月二十日(「田一枚」句の日)の日付に限ってはキワドイ。このキワドサが、遊行柳の周りの滑稽の主体ではないでしょうか。

 

 「野を横に馬牽向けよほととぎす」については、以上の田植えのことと、やはりキワドイながら少し事情が違う、と考えています。

 黒羽に、到着早々から、まだ聞こえない、〈ほととぎす〉を待つ句を所望されていたから、と想像されます。田植えの知らせを、しかも隣の芦野の田植えを待つという滞在(黒羽が引き留めたのだろうけれど)は、同時に、黒羽の〈ほととぎす〉を待つ滞在となった。この大宗匠が、次の、古今集夏歌161 躬恒の歌に並べて、いったいどんな、「時鳥待つ」句を見せてくれるだろうか、期待すべきだとして。

 

さぶらひにて、男どもの酒たうべけるに、召して、「時鳥待つ歌よめ」とありければよめる                           躬恒

時鳥声も聞えず山彦は

ほかに鳴く音をこたえやはせぬ

 

その答としての、「田や麦や」句には、句を望んだ人の動きがなかった。紀行本文には、答として不足がない「野を横に」句の方を選んだ。

 口付きの男が、ようやくこの句を引き出したと言っても良いのだろう。この男の「優しきこと」は、黒羽の俳諧好きの風の反映だが、黒羽の俳諧に、まだわずかに希望があるという表徴として、紀行本文に使った。その男に、一枚の短冊を託して、勝手に絶望していたかも知れない図書に、希望の在処を教えた。

 図書の馬は、「真に死生を託するのに堪えたり」という、名目は戦闘用の馬だ。万里も横行す可き馬と広野の関係を褒めた。街道を〈縦〉とすれば、〈横〉とは、漂泊者・芭蕉が決して我がものとすることがない那須野そのものを指していて、その広野を、この馬によって図書が宰領することを言う。句は、杜甫が房兵曹のために作ってやった詩「房兵曹胡馬」と同工である。異曲である部分の〈ほととぎす〉は、この那須野で、やがて図書が聞くべき盛夏の、毎年かわらずに喧しい〈ほととぎす〉だ。田植え前の今は、馬を遠慮すべき、領民の目がある。夜鳴く鳥である、歌語〈ほととぎす〉と、現実の那須野の〈ほととぎす〉との、圧倒的な相違を滑稽とした。図書には不満であろうが、芭蕉は、図書がこの馬を得て、引き替えに、歌語〈ほととぎす〉を捨てたのである事を指摘した。実は、それは認めたくないが、図書の方が、身に染みて知っている事だ。さらに、俳諧の〈ほととぎす〉は、盛夏にこそ良く鳴くことも教えた。たとえば、枕草子九十五段「五月の御精進のほど」の〈ほととぎす〉を聞こう、と。歌を詠み損なった清少納言のかわりに、一行を供応した明信の朝臣の役目として、俳諧が引き受けるべき事があるだろう事など‥。

 拙論から、「‥しかし黒羽を離れるにあたって、今や、「万里も横行す可」き図書の馬に乗る私ならば、郭公よ、野を縦横に行くことができる。さあ、声を聞かせてくれ、その声のする方角に馬首を向けよう。このままでは例のように、こまの心にまかせてぞ行くばかり。」とは、借りた馬の礼、つまり、このように気分良くさせた貰ったという一応の挨拶である。

 さて、乗せて貰った馬の上から、他家の奉公人に指図する者はいない。と思えば、馬が借り物ならば、そのために借景となった広野は、脇道の曲り目の向こうは知らず、目に入る限りのことだけを知る迷路だ。すなわち句の、気分良く乗っているという、「馬牽むけよ」の動詞さえ、図書からの一時の借り物であるという滑稽。口付きの男に持たせた短冊は、すべての借り物を持ち主に、君のものを君に返した、という挨拶だ。これによって図書の俳諧が、迷路のように出口無し、と知ればそれまでであるが、広野を平らに駆ける者のように希望があると信ずれば、この短冊は役に立つ。

 尋常に、駄賃馬の手配をしてくれたのだったら、高久までの途中タッタ二里余で、「馬ハ野間ト云所ヨリ戻ス」(曽良の日記)と書いて、その日の後の不便を我慢しなくても済んだのに。黒羽が無理に名馬を提供したのも、気が利かないのを承知の、俳諧的計画の一つであるらしい。というのは、「論語」衛靈公第十五の二六、

 

子曰、吾猶及史之闕文也、有馬者借人乘之、今則亡矣夫、

子の曰わく、吾れは猶お史の文を闕き、馬ある者は人に借してこれに乘らしむるに及べり。今は則ち亡きかな。

 

という一章がある。この、「今は則ち亡きかな」という珍しさを餞別にしたのだ。この章は朱子の新注に、「此の章の義は疑わし、強いて解すべからず」と書いてある一章なので、黒羽は「吾れは猶お史の文を闕き」の難解を全く気にしないのである。誰も、強いて解すべからず、と俳諧に読み直す事を禁じられているのだから。

 

あなたは、

 

‥手綱を取る馬方に短冊を望まれ、上機嫌となった芭蕉が「馬をそっちの方に引き向けてくれ、一緒に鳴き声を聞こうじゃないか」と詠んだ句だ。‥

 

とお書きになりました。「一緒に鳴き声を聞こうじゃないか」とは、出立の日になってもまだ聞こえない、〈ほととぎす〉を聞こうの意か、と一瞬は見えたのでしたが‥。以下に、二つの有力な評釈を引用しますが、あなたの評釈を含めて、私の管見(実に文字通り!)のすべてが、拙論の趣旨と異なる。私の方が正しいと確信していますが、確信の度毎に足元が開いて、暗い穴の中を落ちていく感覚を、振り払うことが出来ません。

 新日本古典文学大系「芭蕉七部集」白石悌三校注は、スペースの関係もあって短い。

 

「広漠たる野を筋かいに時鳥が飛び去った。それ馬子よ、あの声の消えゆく方へ馬首を引き向けよ。‥」。

 

 一方、同様の解釈ながら、新刊の、日本古典評釈全注釈叢書「おくのほそ道評釈」尾形仂の美文にはスペース上の制約がない。この注釈に異を唱える注釈書は、当分出ないでしょう。

 

「‥『師走嚢』に那須野の狐狩の故事を面影にして、「軍出立のごとくことごとしく云立」てたものと説くように、「野を横に」の大きさを承けた勇ましく凛々しい感じがある。‥ ‥この下五を、もしほととぎすが鳴いたならばとか、野の横手でほととぎすが鳴いているからなどと釈する説があるのは、そうした句のひびきを無視したものといわなければならぬ。紹巴の『至宝抄』には、ほととぎすの本意について、「時鳥はかしましき程鳴き候へども、希にきき、珍しく鳴、待ちかぬるやうに詠みならはし候」と説いているが、那須野の広袤を横切って鳴き過ぎたほととぎすの声を屹と聞きつけて、那須野を分けゆく馬首をその声の消えゆく方へ転ぜよと勇ましく下知した一句の仕立ては、一面ではまた、伝統的本意の上に立脚した俳諧でもあった。‥」(‥、‥ ‥は省略部分)

 

 先の拙論の、一見して曖昧な部分は、まずは怯懦によるのでしょう。アマチュアの権利である自由を捨てるように、論に、できるだけ角を立てたくなくて、プロの諸評釈のどれかに似て見えるように書いた。しかし論の本体は、ここではなく、「蛇足ながら」以下に隠れるようにしてある。上に続く、「芭蕉が「口付のおのこ」に「馬牽むけよ」と下知したのではない。乗せて貰った馬の上から、他家の奉公人に指図はしないものだ。」とは、もしも誰かの目に触れれば、不快な意見となるのでしょうか。

 拙論の、「男の「やさしき事」に感じて、聞こえぬ郭公をあらためて待つ契機とした」とは、黒羽を離れる時、図書のために、図書と聞くべき〈ほととぎす〉を、あらためて待つ」契機はもうない、〈ほととぎす〉を待つとは、図書とともにこの黒羽で待つことだ、とするならば、この語は、誤謬として削除すべきだが、実は、図書・翠桃らこそが、俳諧の〈ほととぎす〉であるのを教えて、芭蕉がいまはここを去っても、やがて盛夏の〈ほととぎす〉のような君たちの声を他所で待つ、その契機、またその約束とした、と拙論は書いたつもりなのでした。俳諧を歌う〈ほととぎす〉なのか、それとも領民に農事ばかりか俳諧も督促する〈ほととぎす〉なのか、わざと曖昧であるが。「山家集」1557の歌。

 

ところがらききがたきかとほととぎす

里をかへても待たむとぞ思ふ

 

この歌を、〈ほととぎす〉がいる里と、いない里があるから、いる里に移って待とうとは読まずに、あくまでも「此処の〈ほととぎす〉」を、別の里にあっても、鳴いたという知らせによって待とう、とも読めることを教えた。芭蕉は黒羽を諦めない。

 彼らが俳諧の〈ほととぎす〉であるのを教えた、と書くことは、拙論「‥夏時鳥‥」の主題の一つですが、主に、「夏時鳥(田や麦や)」句に、そして芦野の桃酔のために作った、「田一枚」句の評釈にもそれを受け持たせていて、「野を横に」句から直接に導くことには無理があると考えて、筆を行きつ戻りつさせながら、「聞こえぬ郭公をあらためて待つ契機とした」と書いて補足がなかったのは、不注意でした。ここは、「こまの心にまかせてぞ行くばかり」と書く方がバランスがよい(これについても触れたかったので)と、論の焦点を定めずに、先送りにしたのでした。

 「他家の奉公人に指図はしないものだ」。このマナーを、「蛇足ながら」として書きました。これが受け入れられないならば、それではもっと踏み込んで、借りた馬の上で見得を切る、という、幇間的滑稽(しかも誰も頼んでいない)を芭蕉はけっして引き受けない、とも、書くべきだったのでしょうか。書けばこれは、足以上の物、棘を拙論に生やしたことになる。拙論の読みにくさは、怯懦によるものばかりではない。がさつな文にしたくないという遠慮のつもりもあります。

 名馬を貸すという折角の俳諧的計画を無にしたくないのと、世話になった者にするお世辞、つまり名馬に乗せてやれば気分がよいだろうという勘違いの、ありがた迷惑に対する礼との、二つながらを充たし、かつそうと知らしめる挨拶です。「史の文を欠」とは何か解らないが、かりに、過度に自己主張をしない、と言うことならば、ありがた迷惑にもそれなりの礼をすると言う事だろう。句はただちに、この迷惑を馬ともども返すという滑稽として届けられた。あるいは現代の諸家と同様に、この滑稽はずいぶん遅れて黒羽に理解されたかも知れない。喧しい盛夏の時鳥を馬上に聞く時になってからやっと、図書は口惜しくて笑ったかもしれない。まさか芭蕉は、「よろこぼひて、思ひけらしとぞいひ居りける」とは言わないだろうと少しだけ疑いながら。

 句は、口付きの男に与えたものではない。これについては、どう説明すれば解って貰えるでしょうか。短冊は与えたが、サインした著書のようなものだ。私だって誰かのサイン本くらいは持っている。今朝会ったばかりのこの男は、短冊は欲しがったが俳諧は出来ないのだ。そういう男のために句を作るということがあるのか。諸家注釈の連衆心の論は、此処で行方不明になっていはしないか。

2001-5 2003-1-102003-1-11の弘一独白から転記

 

 

 

目次へ 表紙へ