芭蕉の歳旦句 ― 二つの花の春

 

 

 

 「花の春」とある句も、必ずしも正月の作例ではない。その為だろうか、これを「毛吹草」・「増山井」は、俳諧・連歌四季之詞の正月≠ノ出していないが、「歳旦発句集」(寛永十六年から延宝二年までの、貞門のほぼ全期にわたる歳旦句を整理したもの)は、百句以上を集めている。この句群が増殖して行き、正月の季語であると、登録されたものか。

 「花の春」は、歌においては、歳旦・正月の詞ではない。ただ言葉の目出度さに、これを奪った俳諧が、無理にも新年の歌と読もうかという歌に、四時の景物、花・時鳥・月・雪、中にも花の春を称える勅撰集の歌、玉葉春歌下174

 

  春の歌の中に                     前大納言為兼

思ひそめき四つの時には花の春

           はるのうちにも曙の空

 

この歌があるせいだろうか、おそらく当時、最もポピュラーな新年の季語だ。

 

 

 

〇 二日にもぬかりハせじな花の春

 

 

 貞享五(元禄元)年に伊賀で作られた歳旦句。翌元禄二年三月刊の「あら野」では、巻之二に「歳旦」と前書する一括りの先頭に置く。「笈の小文」(ほぼ同文の真蹟懐紙もある)には、

 

  旧里や臍の緒に泣く年の暮

宵の年、空の名残惜しまむと、酒飲ミ夜ふかして、元日寐忘れたれバ、

  二日にもぬかりハせじな花の春

 

とあり、歳暮と歳旦の二句が、句解の上で、互いを補完するものではないが、二句を一対にして、故郷に迎えとられた情を過誤なく読ませる、という効果を期待したものか。

 

 解釈に、最も資すべきものとしては、「三冊子」(あかそうし)に、芭蕉の自注に近い言葉があり、片言も全て閑却してはならない。

 

この句は「元日ひるまでいねて餅食はづしたり」と前書有り。此句の時、師のいはく「等類の気遣ひなき趣向を得たり。このてに葉は、「二日には」といふを、「にも」とは仕たる也。「には」といひては余りひら目に当りて、聞なくいやし」と也。其角が「たびうりにあふうつの山」といふも逢んといふ所を、逢ふとはいふ句也。喜撰が「人はいふなり」の類成るべし。

 

 別に、「土芳本全伝」には、「元日昼迄いねて曙見はづしぬ」という前書(「雑煮食ひはづし、ともありと注記する)があり、芭蕉は、先に引いた為兼の、「花の春」の歌を珍重して、「餅食はづしたり」と言うかわりに同じ事を、「曙見はづしぬ」とも、言い換えたのだった。春と言えば、孟浩然詩「春暁」の起句、「春眠不覚暁」の詩情があって、早寝早起きが苦手な男たちは、こちらの方に共感するのだが、家内には、そんなのは知りません、と言う人々がいる。

 元日に、「餅食はづし」ては叱られるのも尤もである。暮れのわたし達の働きは、いったい何のためだったのか、とまでは、誰も言わないけれど。この境涯となっては、伊賀の女たちの外に芭蕉を叱る者はいない。どうせのことに、明日は、召し上がってからお寝みになっては、という提案くらいはあっただろうか。そうすれば、久しく見ない曙の、「やうやう白くなりゆく山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる雲の、細くたなびきたる」のを、見ることになるばかりか、やや見違えるような人々を相手にして、今度は、無事に二日の餅を食うこともできる。しかもこれは、歌にある後朝の風情に似て、その中でも、源氏物語「初音の巻」に描かれた、二日の源氏の朝帰りの様子に倣うようだから、その威光を借りて、「等類の気遣ひなき趣向」だと主張することもできるのである。明石の君は、源氏が出て行くのを、「かくしもあるまじき夜深さぞかし」と不満であるが、物語は、「まだ曙のほどに渡りたまひぬ」とあって、既に夜は白々と明けている。これを待ちうける紫の上の南の御殿では、朝の支度が整う時刻だ。

 元日に「餅食はづ」すことがなければ、嬉しい小言もないうえに、この趣向もなかった。上五のてに葉を、「二日には」とするならば、一読、直ちに二日の朝を、「初音の巻」の雛形に導くかのようで、これを、「聞なくいやし」としている。それでは、「去来抄」で丈草が言った、「さかしくかけ廻」る「今の作者」に、故郷の優しい小言があったと気付かせることが少ない。

 「「二日には」といふを、「にも」とは仕たる也。」とは、きっと韜晦の言葉だろう。「二日には」とした初案も、取捨さえもなかったのだろう。為兼の歌では、一首の中に、「には」と「にも」の二つを使っている。四時から春の一日の細部へ進んで、「春は曙」と言っただけの歌だが、芭蕉はこれを珍重して、歌よりも俳諧の方が得意な、「にも」の働きを示した。句は、「二日にも」として、「初音の巻」では描写を省略され、伊賀では無念なことになった、元日の曙と餅の用意に、しばらくの思いを留める。六条院から歳旦の伊賀へ、物語から日常の些事へと二つを結んで、読者を往来させた。歳旦句は、前書に芭蕉らの行動があるところから見て、間に合わない筈の(前書がフィクションの元日ではないとして)、歳旦帖なる刷り物に載ったとは見えない。翌年刊の、「あら野」に載せて、大切な女たちに対する礼とした。より親密な雰囲気である歳暮句は、敢えて世に広めずに、女達に手渡して、目的を果たしたのであろう。その後は、「笈の小文」の筺中にしまい込まれたようだ。

 「三冊子」後段は、前段の話の序でに出たものか、ともあれ、芭蕉の知らない土芳一人の論を、師の説との境界を明らかにせずに、紛れこませることはない。其角の句によって、未来の推量にいうべきところを、「‥と決まっている」と断定のことばを使った例を出した。けっして文法についての論ではない。宇津の山の足袋売りというのがどんな者か分からないが、この峠を越える旅人で、彼に逢わない人はいないと決まっている。そのように、二日の朝を確実に迎える方法も、わずか数時間後のことでもあるから(寝ないのだから寝忘れない)、ぬかる気遣いはないと決まっているのだ。これらは、喜撰の歌に、世の中の人が全て、都の巽にある山を宇治山と呼ぶのに(憂しか宇治か、すべての人に確かめずとも)決まっている、と言うのと同様である。芭蕉句の、謎句でもある部分を絵解きするのに、土芳は、もう一つの謎を重ねて、ヒントにしたのである。

 そして、二年後の元禄三年に、もう一つ、「花の春」の歳旦句があって、嵐雪編「其袋」元禄三年刊に出ている。前書は「都近き所に年をとりて」。

 

 

 

 薦を着て誰人います花の春

 

 

 外に其角著「花摘」(「翁当歳旦に」として)、北枝編「卯辰集」(前書は「湖水のほとりに春を迎へて」)などに出ている。書簡にも見えて、元禄三年一月二日付の膳所発、名古屋の荷兮宛書簡から引用する。

 

‥おましの浦に波枕してめづらしき年を迎へ候。

    歳暮

  何に此師走の市に行烏

    都の方をながめて

  菰を着て誰人います花の春

撰集抄の昔をおもひ出候まゝ如此申候。‥

 

 この書中で、「‥拙者わりなき事出来候間、又伊賀へ立帰候。気遣なる事にては無御坐候。‥」と告げて、伊賀へは翌三日に出発したと推定されている。五日付の式之・槐市宛書簡は、二人を通じての、旧主藤堂新七郎家への、伊賀帰着の挨拶を兼ねる。その末尾には、

 

‥愚句(「薦を着て」句)之事、随分当年ハ晴がましく、京・大津の者共、耳をそろへ目をそば立申候。笑はぬ程の事申候。明日申上べく候。

 

とある。この不思議な高い調子は、芭蕉が、つねに伊賀の俳諧の名に於いて行い、この度もやるべき程のことはやった、という報告であったろうか。十七日には伊賀から、当時三河保美にいた杜国(万菊丸)に、この歳暮・歳旦句を含めて、「おくのほそ道」の旅後の秀作六句を報じた。

 

‥拙者も、霜月末、南都祭礼見物して、膳所へ出、越年。歳旦、京近き心、

  菰を着て誰人ゐます花の春

    冬

  初時雨猿も小蓑をほしげ也

    山中の子供と遊ぶ

  初雪に兎の皮の髭つくれ

    南都

  雪悲しいつ大仏の瓦ふき

    京にて鉢たゝき聞て

  長嘯の墓もめぐるか鉢たゝき

    歳暮

  何に此師走の市に行く鴉

急便早々に候。正・二月之間、伊賀へ御越待存候。‥

 

 さて辛うじて、「花の春」を歳旦の詞に使うと読める歌は、先の、為兼の歌の外には、拾玉集6350、慈円の一首だろう。

 

  我が待たぬ年は来ぬれど冬草の

冬草の枯ぬと何か思べき

        花の春には人も訪ひ(とふ)てむ

 

「詠百首和歌 以古今為其題目」と題する百首歌の一首で、詞書きと見えるものは古今冬歌338の上句である。

 

  ものへまかりける人を待ちて、師走の晦日に、よめる       躬恒

わが待たぬ年はきぬれど冬草の

           かれにし人はお(を)とづれもせず

 

 幾種かある前書の中に、「其袋」の外にも、「泊船集」に「京ちかき所に年をとりて」、「蕉翁句集」に「都ちかき所にとしを取て」とするのは、躬恒の、「わが待たぬ年はきぬれど」という、師走の晦日に嘆いた、一日分だけ早い諦めを、「かれにし人のおとづれ(音信)」にも及ぼしているのに、芭蕉は、苦笑しながら共感しているのだ。人は皆、来ぬ人を待ちながら、年を取って行く‥。慈円の方は、躬恒の待ち人が、年が明ければ年始の人のようにやって来ると言ったのではなく、つまり、師走の晦日に「年はきぬれど」という時制の奇妙に注目しながら、名歌に唱和して、花咲く春の楽しみがこれからであることを述べた。訪う人は別の人でも構わない。

 前書の中の、「京近き」(杜国宛書簡に書いた、「歳旦、京近き心」にもある)とは、後撰離別・羇旅1363の、(句の場合は湖南に人を待って)「今日(京)けふとのみ恋ひらるゝ」という地口による。

 

法皇、遠き所に山踏みしたまうて、京に帰りたまふに、旅宿りしたまうて、御供さぶらふ道俗、歌よませ給けるに

         僧正聖宝

人毎に今日けふとのみ恋ひらるゝ

          宮こ近くも成りにける哉

 

 また「卯辰集」の前書、「湖水のほとりに春を迎えて」は、その集の主な読者のために、以上を朧化したもの。(湖南の人をではなく)京の人で「ものへまかりける人」を、待って揺れる心を、前書の裏に隠した。

 一方、荷兮宛書簡に、「都の方をながめて」と書いたのは、荷兮を、右に見た各前書よりも直接に、「山家集」1222の、「人をまちて」詠んだ歌に導くためだ。

 

津の国にやまもとと申す所にて、人をまちて日かずへにければ(板本の詞書きは「明石に人をまちて‥」)

なにとなくみやこのかたをきく空は

            むつまじくてぞながめられける

 

別に、「山家集」1069 に、

 

はるになるさくらのえだはなにとなく

            はななけれどもむつまじきかな

 

この歌も参照したい。

 

 歳旦句は、古今和歌集の百首に対した、慈円の百首の唱和に注目する。慈円の歌が名歌に並ぶものであるかどうかは暫く措き、「かれにしひとはお(を)とづれもせず」と言う躬恒の落胆を救うのに、花咲く春の提案は有効であった。ほかにどんな慰めようがあろうか‥。躬恒の歌の、その翌日の日付を持つ、「薦を着て」句は、多分口先ばっかりの、この提案を採用した。すなわち、俳諧が歳旦の季語に奪った、「花の春」を、この歌に返した。

 この句の各前書は、もとより句の一部ではないが、これらによって容易に、句の言葉の一々を見る以前に(座五「花の春」については大略を見たが)、「人をまちて」作られた句であることが明らかにされている。芭蕉は、この句が、いわゆる難句であることを望まない。歳旦の芭蕉にも、躬恒の歌が言うところは正しくて、「かれにし人」の訪れ(音信)がないことが明らかになってからは、なお、「花の春」には、(「かれにし人」ではなく)新しい「人をまちて、日かず」を経るつもりである。まだ花がない、未来の連衆を「むつまじ」く思って、前書に自注の役割を与えたのだ。彼らにこそ、これを手掛かりとして、芭蕉を発見させようとした。

 「二日にも」句の場合は、二句一対のようにして添えた歳暮の句を、一見して、故郷の厚情に包まれる句である、とばかり見て、小論は、読解の(決して不要ではない)困難を避けたのだった。しかし、「薦を着て」句の場合には、後に、此筋・千川宛の書簡に見るように、おそらくは歳暮の句と二句ともに、京の去来(膳所の珍碩かとも)の歳旦帖の引付に載せたと見られている(「松尾芭蕉」尾形仂より)。とすれば、二句を一対と見る、歳暮の句の解釈が、前書がそうであったように、歳旦の事情を明らかにするところがあるだろう。

 

 

 

 何に此師走の市に行く烏

 

 

 「三冊子」(あかさうし)に、

 

此句、師のいはく、五文字の意気込に有、と也。

 

という一行がある。「何に此」は、日常の口癖の言葉のようだが、芭蕉が使ったのはこの一句だけだ。歌ではおそらく、源氏物語「末摘花の巻」の、源氏の独詠(これを覗き見て応じた大輔命婦の歌がある)の一首にあるだけだろう。

 

なつかしき色ともなしに何にこの

           すゑつむ花を袖にふれけむ

 

 「五文字の意気込」とは、いったい何だってと、悔しくて息巻く事ではない。花の色を咎めても、後の巻々に示される、類いなき源氏の心長さを言うのだ。「何に此」は、鼻が赤い常陸の宮の姫君の行く末を、このとき約束した、意気込の言葉だ。一方、二条院に養育する若紫は、日ごとに美しさを増している。芭蕉の用法は、これと全く等しい。俳諧も、源氏物語の用法を違えることは出来ない。

 誰か、師走の市に隠れている者が、どこかの姫君であるはずもないが、彼に向かって、烏羽に書くと見えるかと危惧しながら、ゆかり尋ねて付ける玉章がある。雁信の季節に外れて、向こうの商売も忙しいときに。彼が、俳諧を暇つぶしの業と思うのなら、こちらにも用はないのだけれど。「からすは」は、「山家集」463に使う。烏羽の故事は、「日本書紀敏達紀」にある。

 

  入夜聞雁

からすはにかくたまづさの心ちして

            鴈なきわたる夕やみの空

 

 「師走の市」は、「山家集」664によるだろう。詠歌の事情は分からない。

 

  商人に付文恋と云ふ事を

おもひかねいちのなかには人おほみ

            ゆかりたづねてつくるたまづさ

 

 誰が、芭蕉の前に現れても(しかも男だ、源氏より辛い)、彼の俳諧の行く末を約束しようという意気込に対して、師走の市から応える者はなかった。伊賀では十一月中に、「いざ子ども」歌仙など数度の俳諧を興行して、大切に養育する者たちは(新年にも掛かり切りになる)、ただ美しく幼いばかりだ。

 さて、烏とは何か。京に送った歳暮の句そのものを言うのだろう。これに先だって去来に託された何かがあったとは見えない。人を待った、十二月中の、芭蕉の年譜に記すところは少ない。杜国宛書簡にある、「霜月末、南都祭礼見物して、膳所へ出、越年。」という箇所と、「京にて鉢たゝき聞て」という前書、そして去来の「鉢扣ノ辞」に拠るべきか。その冒頭、

 

師走も二十四日。冬もかぎりなれば。鉢たゝき聞むと。例の翁のわたりましける。

 

鉢たゝきが鳴らす音は、もう今年は誰も来ないぞと、互いに全く用のない者が触れて廻る音だ。師走も二十四日、この日に歳旦句が去来に渡されたか(板行に間に合うとすれば)、と空想するのだが、「鉢扣ノ辞」は何も語らない。

 翌年(元禄三年)九月十三日付の、凡兆(加生)宛書簡で、「烏憎之文」の不出来を大いに叱って、芭蕉が奪い、「烏之賦」としたのは、アイディアを取り戻したのだ。

 

 

 

 再び 薦を着て誰人います花の春

 

 

 初夏になってから、この句に詳しく触れた書簡がある。入庵(四月六日)間もない幻住庵から、大垣の此筋・千川兄弟に宛てて書いたもの(元禄三年四月十日付)。芭蕉周辺の者は、等しく同様の説明を聞いていた、と思われる。

 

‥愚句御覧被成候よし、させる事も無御座候ヘ共、出申候ハ、遠境書状の通じ知れ兼ね候故、無事と有所ヲ知らせん為ニ板木ニ顕し、又一ツハ京の門人去来など云ものに唆されて申出候。五百年来昔、西行の撰集抄に多クの乞食をあげられ候。愚眼故能人見付ざる悲しさに二たび西上人を想ひかへしたるIニ御座候。京の者共ハ菰冠りを引付の巻頭ニ何事ニやと申候由、あさましく候。例之通京之作者尽くしたると沙汰人々申事ニ御座候。‥

 

 花の春は暮れて、とうとう夏になった。「例之通京之作者尽くしたる」とは、人々の予想どうりだが、芭蕉においては少し違う。この句は言い捨ての句ではなかった。京の作者を酷評する人々に増して、「能人見付ざる悲しさ」の体験は、うち払い難いものがあった。「おくの細道」の旅の、「あつかりし夏も過、悲しかりし秋もくれ」た草臥れを、歳暮の京においても重ねた。だから、句は、人を待つ句を進めて、人を捜す句となった。薦を着ている人の、薦を引き剥がしてでも、「誰人います」誰かいるかと(しかも丁寧に)、捜そうというのだった。しかし遂に、「花の春」の、締め切りを過ぎた。

  撰集抄では、薦は、いかなる名利も捨てて、逃げ果せようという人々の表徴であった。荷兮宛書簡には、「撰集抄の昔をおもひ出候まゝ如此申候」とあった。ここには、「五百年来昔、西行の撰集抄に多クの乞食をあげられ候」、多クの、とあって、撰集抄のどれと特定できる話ではない。これらの話の、断固として名利を捨てる人々の全てが、開巻の増賀上人を除いて、虚構の人だ。

 書簡に云う、「西行の撰集抄」とは、源氏物語を「光源氏の物語」と言うのに同じ。幾つもの、西行を主人公とする(一人称の)章段を捉えて、これに、「西行記」や、「西行撰集抄」の題簽を張った本が通行したから、「西行の撰集抄」とは、一般的呼称に従ってそう言うのである。

 「撰集抄の昔」、そして「五百年来昔」と書くのも、主として跋文の日付に従ったまでだ。源氏物語が、延喜・天暦の間の史実と言われるものを物語の中に鏤めたのであるように、韜晦の跋文に、

 

時に寿永二年(1183)むつきの下のゆみはりに‥しるし終わりぬ。

 

と「五百年来昔」の日付を書いて、西行の史実に依存してから、「いみじき人々を書き載せて、且はかの人々のごとくならんと欣求」する為に、「新羅の元暁法師の言葉に、他作自受の理なしといへども、縁起難思の力あり」とあるのを信じると主張している。「かの人々」は、もと、作者の頭蓋の内部にだけ存在したのだが、これを世に広める為に、「縁起難思の力」を、誰に借りたのでも良かった。

 西行を作為した口跡によって、「かの人々」を、読者に案内したのだ。西行の実像は、ほぼ無視して、歌にも深くは立ち入らず、「ものまね」は、読者の中なる西行を傷つける事がなかった。あるいは、諸人の心に分け持たれる西行は、こんなものには傷つかない。作者の目論見は、「西行作」の宣伝句となって、版を重ねていった。

 俳諧師でなくとも、古今集の作者を間違える者はいない。小野美材の歌を遍昭の歌にしたり、藤原忠房の歌を素性法師の歌にする事があれば、何か訳があるとしなければならない。また、新古今集の作者の場合もそれは同じ事だが、良経の歌を二つにして、西行と漁夫の翁の連歌にしたり、これも良経の歌を二つにして、俊頼とある僧の連歌にしたり、秀能の歌をこれも二つにして、西行と近衛院三位入道なる若者の連歌にしたり‥。(右は、「撰集抄」西尾光一・解説の〈調査〉の一部による)知られた歌の、上句を言いかけて即座に下句を応えるという遊びを、話に作ったと見える。西行が、高野の奥で怪異を行う話もある。人骨を編んで造人の術を施したが、失敗したという話だが、「撰集抄」西尾光一の〈調査〉も、「ここまでくると、誤認や錯誤の問題ではなくなり、説話的虚構として処理するほかない」と言った。芭蕉が、この本を西行自著と信じた、と言う、〈調査〉の前提に添えば、以下のようになるだろうか。

 芭蕉は、西行が、古今集の作者を何か訳があって取り換えたのだと思案し、また、没後の撰集、新古今集の入集歌を予想したかのように歌を選んでは、歌人ではない人々との遊びに使った、と交友を推量し、そして、「西行於高野奥造人事」を説話的虚構として処理した、つまり、作り物語の主人公に、既に著名人である自らを配して、怪異・説話的虚構の中の人物であると名乗った、これについて芭蕉が、何らかの合理的な解釈を施した、と〈調査〉が推量する、と云うことだ。〈調査〉がこのように推量する、その根拠は必ずしも明らかではないが、おそらく、此筋・千川宛芭蕉書簡(元禄三年四月十日付)の、「五百年来昔、西行の撰集抄に多クの乞食をあげられ候」という、この一行の解釈にあるので、小論も、これについて多少を述べた。

 すなわち、作者には、読者を本当の混乱に導くつもりがないのだ。「西行於高野奥造人事」に於いて、造人の術を失敗した西行は、その後「伏見の前の中納言師仲の卿(実在の人物)」から正しい方法を得たが、「しかれども、よしなしと思ひかへして、其後はつくらずなりぬ」と言う。寓意は、撰集抄は、造人の術を正しく施した先行作品、「西行物語」の方法を採用しない、と云うことであろう。世間にはあの作り物が西行だと通用しているが、もう一つの西行を作って何としよう、と。芭蕉(芭蕉だけではなく)の合理的解釈は、およそ右のようであろうか。錯誤と荒唐無稽の仕掛けは、狂言綺語観の遅れた実践にも似て、俳諧の先達の方法と見ることができる。俳諧が、この本を愛した所以だ。

 芭蕉は、名利の巷に、この句を届けた。もはや開巻の、「五百年来昔」の人に逢う手段はなく、俳諧にまで、名利が及ぶ時代になった。名利を捨てて逃げ切るための、薦の効験は、遙か「撰集抄の昔」に存在したのだったが、もしや、元禄の現代に至って、「西行の」撰集抄の名によって、誤って薦の効験が引き継がれた事はないだろうか、という滑稽。実は、見も知らぬ人を待っているのではない。君は、逃げ隠れして、私に捜させる程のお人か。

 

 此筋・千川宛書簡の後段に、

 

愚眼故能人見付ざる悲しさに二たび西上人を想ひかへしたるIニ御座候。

 

とあった。これは、荷兮宛書簡の、文型が似ている「撰集抄の昔をおもひ出候まゝ如此申候」と、同じ事を言っているのか。

 「愚眼故能人見付ざる悲し」みの深さにおいて、句は、言い捨ての句ではなかった。一月二日の、荷兮宛書簡には、まだ句の中にある悲しみに気付かせない工夫がある。前書は、「都の方をながめて」とあって、「むつまじく」という灯りのような言葉が、「山家集」1222の人をまちて♂rんだ歌から教えられていた。さらに荷兮が気付けば(きっと気付く)、「花の春」は、「山家集」1069の、「はるになるさくらのえだ」の花盛りを、「むつまじ」くて待つ季語なのである。そして一方には、「撰集抄の昔」の語によって、俳諧の名利に関わる乾いた滑稽が、約束された。悲しみを慰撫されるべきは、荷兮ではなかった。

 春は暮れて、「撰集抄の昔」よりも、「二たび西上人を想ひかへし」て作ったと、事々しく言わなければならない時になった。逃げて行き方知れずの人々に関する、ヒリヒリと乾いた滑稽をこれっきりにして、つまり謎句の難解を終わりにして、「能人見付ざる悲し」みを西行に預けるように、種明かしをする。

 「二たび」と書けば、大垣の此筋・千川兄弟も理解するところがあった。漠然と、また(いつものように)「西上人を想ひかへし」たと言うのではない。能人が見付からない悲しみを、具体的に言えば、去来など(に唆された、と書いている)の撰集の企画(後に「猿蓑」になる)に於いて、京の連衆を指導するのに、能人が見付からない悲しみを、やや難解な句の刷り物にして、歳旦の世に披露した。「薦を着て」句は、蕉風宣伝の句であった。

 この句が二度目ならば、先のもう一つは(京・大阪と一括りにすれば)、貞享三年刊水田西吟撰「庵桜」に出句した、古池の句だ。「蛙合」の巻頭にも置かれて、蕉風宣伝の句として、人口に膾炙することになった。古池の句の蛙は、「山家集」189の歌などによる(拙稿、「二、古池の句について―S氏宛メールによる―」を参照)。

 

  かはづ

みさびゐて月もやどらぬにごりえに

           われすまむとてかはづなくなり

 

 西行の観察に導かれて、芭蕉は、「みさびゐて月もやどらぬにごりえ」のような沈滞を破ろうという談林の勧請に応じた。西吟に力を貸して水銹を払うつもりであったが、句がどんな目に遭うかも、既に予想されたところだ。

 

古池や蛙飛ンだる水の音

 

これを「蛙合」で、

 

古池や蛙飛びこむ水の音

 

と、直した。先の拙稿では気付かず、「庵桜」のために、「飛びこむ」を「飛ンだる」と江戸談林の衣装に着替えた、とばかり考えたが、「飛びこむ」は「訪ひこむ」に通じることによる推敲だろう。行尊、次いで西行が唱和した花山院の歌がある。詞花雑上274

 

修行しありかせ給ひけるに、桜の花の咲きたる下にやすませ給ひてよませ給ひける

花山院御製

木のもとを栖とすればおのずから

          花見る人になりぬべきかな

 

これに行尊が唱和して、春し暮れなば「誰か訪ひこむ」、誰も訪れる者はない、と遙か遠い那智の庵室を思いやる歌があり、新古今春歌下168

 

修行し侍りけるころ、春の暮によみける          大僧正行尊

木の下のすみかも今は荒れぬべし

          春し暮れなば誰か訪ひこむ

 

それに対して、西行が、花の咲きがけに(花や咲きぬらむとたづねまほしかりけるをりふし)その地を訪れた歌がある。「山家集」924(夫木四・風雅雑歌上1463

 

那智にこもりて滝に入堂し侍りけるに、このうへに一二の滝おはします。それへまゐるなりと申す常住の僧の侍りけるに具してまゐりけり。花や咲きぬらむとたづねまほしかりけるをりふしにて、たよりあるここちして、わけまゐりたり。二の滝のもとへまゐりつきたり。如意輪の滝となむ申すと聞きてをがみければ、まことにすこしうちかたぶきたるやうにながれくだりてたふとくおぼへけり。花山院の御庵室のあとのはべりけるまへに、としふりたりける桜の木の侍りけるをみて、すみかとすればとよませ給ひけむ事思ひいでられて

このもとにすみけるあとをみつるかな

            なちのたかねの花を尋ねて

 

このように遙かな地の、高嶺の花も、「花や咲きぬらむとたづねまほしかりけるをりふし」に、西行は訪れた。芭蕉は、新しい俳諧撰集「庵桜」の名を聞いて、もしやその桜は、花山院の庵室の桜に因むものか、として、出句したのだ。春浅いこの頃、「誰か訪ひこむ」という諦念を留保して、西行の蛙になって「飛びこむ」。ただし庵室も、「すみけるあと」で、誰もいないのだろうと承知しながら。つまり、「飛びこむ」と直した(または戻した)のは、「蛙合」の連衆のために、句解を兼ねたのだ。

 さて、この度は、「二たび西上人を想ひかへし」て作った、と明かした。芭蕉は、那智の高嶺より、もっと手近なところに、どこか京の桜の名所に、「木の下のすみか」を訪ねた。歳旦から(じつは歳暮から)、いち早く花見る人になろうとして、木の下の先住権を争うかのように、薦を着た人々がある。これは、西行が屏風絵に見た人の群ではない。「山家集」106

 

屏風の繪を人々よみけるに、春の宮人の群れて花みける所に、よそなる人の見やりてたてりけるを

木のもとは見る人しげしさくらばな

           よそにながめてわれはをしまむ