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次の二句は、猿蓑前後の句とだいぶ趣きが違っているので、小論の置き場所をしばらく此処にする。炭俵「梅が香に」歌仙中の数句について思い付いたものがあって、それと併せて、一文とする積もりだった。他の論文と関連は少ない。今のところ、所謂寄り道である。
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三冊子(赤雙紙)の二句、梅と鮠の腸について
梅が香にのっと日の出る山路かな
生ぐさし小葱が上の鮠の腸
この二句、ある俳書に「梅は余寒、鮠の腸は残暑なり。是を一体の趣意といはん、と門人のいへば、師、尤も、と答へられ侍るなり」。
先に、残暑の句について。
なまぐさし小なぎが上の鮠の腸
土芳の「蕉翁句集」が、元禄六年の句としているから、年表に、「芭蕉の病気保養のための、盆過ぎから約一ヵ月の間」とする、深川に「閉関之説」があった時の作である。鮠(ハヤ)は、江戸市中ではなかなか口にする機会がない。残暑に食欲がない人のために、川魚の到来物があったのだろうか。鮠が小なぎの葉に盛って料理された。たぶん塩焼き。一皿は、作者を旅の思いに誘ったことだろう。鮠の腸はその残骸で、葉も食用である。食後の光景。左に引用中の語、「費杯盤」は、高木正一注に「飲み物食い物をすっかりたいらげるの意か。今ひとつはっきりしない。」とするが、その景色だ。
草枕旅にしあれば椎の葉に盛る、というから、旅路の句かとも見えるが、有間皇子の挽歌の絶唱に並べて、なまぐさい供え物を置くようであるのは、療養中の人の句ならではの冗句である。珍しいものを貰った礼の気持ちは、これではなく、枕草子二二五段の、菖蒲の節句の頃、おそらく悪阻があったという皇后定子に差し上げた麦菓子、目先の変わった、胃に受けつけやすい食物である「青ざし」に、小なぎの上の鮠を並べれば顕われてくる。
なまぐさしに草枕の連想が直ちに浮かぶ。「夜の宿なまぐさし」と熟して引用される、白楽天新楽府詩「縛戎人」の一句の旅愁だ。これはすでに、芭蕉自身が「鹿島紀行」に使った。
朝飡飢渇費杯盤 朝飡 飢渇 杯盤を費し
夜臥腥臊汚牀席 夜臥 腥臊 牀席を汚す
また、万葉集巻十四譬喩歌3576(古今和歌六帖第五:錦綾36218、夫木和歌抄巻五:春五01888(五句あせるかなしさ))によって、小なぎの花は夜の衣の木綿地をあっさりと染めて、閉関中の人の腥臊に馴れる。
苗代の子水葱が花を衣に摺り
馴るるまにまに何か愛しけ
残暑の気配は、中秋に至ってなお夜着が夏衣であることによっても知られる。饗応に着せてもらう夜の衣の歌がある。古今和歌集雑歌上876
方たかゝへに人の家にまかれりける時にあるしのきぬをきせたりけるをあしたにかへすとてよみける
きのとものり
蝉のはのよるの衣はうすけれと
うつりかこくもにほひぬる哉
すなわち、芭蕉に着せた、心尽くしの清潔な夜着に、移り香などはない。あるといえば、微かに残る秋の日差しの匂いだろう。句は、もと放擲されるべき身を、よく親切にしてくれたという挨拶だが、自ら引き籠るとは云え、なまぐさきこと縛戎人もかくやとなった閉関の芭蕉を捉えて、暫くも目を離してくれない親切は、この上なくありがたいことだが、この日ごろ続いた残暑にも比すべきである‥。
そもそも、「笈日記」雲水部・支考(元禄八年刊)の、それを三冊子(赤雙紙)が引用した、元禄七年の去来宅の話柄は、この句ばかりを主題としたものではない。むしろこの年の春の、芭蕉と野坡の両吟「梅が香に」歌仙の発句の解釈に多く資するものだ。以下は、「笈日記」から。
されば人の句をきかむ事、たやすからじ。去年の夏、阿叟の桃花坊におハす時、人々よりゐて物語し侍るに、支考が集つくらば、なにがしの桐火桶に似せて侍らん。たとへば、
梅が香にのっと日の出る山路かな
なまぐさし小なぎが上の鮠の腸
梅が香の朝日は余寒なるべし。小なぎの鮠のわたは残暑なるべし。是を一体の趣意と注し候半と申たれバ、阿叟もいとよしとは申されし也。
梅が香にのつと日の出る山路かな
山路の梅が香を詠む歌には、探すまでもなく、古今和歌集春歌上39の歌がある。前年の「閉関之説」には、「人しれぬくらぶ山の梅の下臥しに、おもひの外の匂ひにしみて‥」と使った。このために、身がどうなろうとも、「‥米銭の中に魂を苦しめて、ものの情をわきまへざるには、はるかに増して罪ゆるしぬべく‥」恋が大事であることも、書いた。
くらふ山にてよめる つらゆき
梅花にほふ春へはくらふ山
やみにこゆれとしるくそ有ける
一方に、現実の早立ちする旅人がある。山家集53
たびのとまりのうめ
ひとりぬるくさのまくらのうつりがは
垣ねのうめのにほひなりけり
山路に掛かろうというところで、日の出を迎える。春は名のみの寒さ。あたりに漂う梅が香は、縛戎人ではない旅人に染みた、暖かい宿の垣根の梅のうつり香か。のっと日が出るころ、その暖かさの勢いを借りて、山路を越える。
句が、貫之の歌のくらぶ山より早く、山路で日の出を迎えたというのは、出立の時刻が遅いのであろうか。寒気と垣根の梅の匂いが袖を引き止めていた、宿の持成しの所為で‥。しかし、七ツ立ちの旅人が山路で六ツ・日の出を迎えても普通のことだ。古今和歌六帖二山:31789。
倉部山暗しと名にはたてれ共
妹許といはゞ夜も越なむ
「閉関之説」におけるくらぶ山もこれに類していたが、右の歌は、貫之の歌の旅人が、何用あって倉部山をやみに越えるのかを言ったものか。さらに妹許といはゞ、やみの中ばかりではない。貫之の歌では、寒さの中にも行くのである。拾遺和歌集冬224。
題知らず 貫之
思ひかね妹がり行けば冬の夜の
河風寒み千鳥鳴くなり
また立田山を夜半に越えようという男の目的も同じだった。伊勢物語二十三段の歌。
風吹けば沖つ白浪たつた山
夜半にや君がひとりこゆらむ
すなわち、山路で日の出を迎えた、句の旅人は、「炭俵」の野坡たち(芭蕉も同行するのである。)であるらしく、恋ではなく商用である。彼らの「妹許」・「くらぶ山の梅の下臥し」の虚構を廃し、そして拾遺和歌集の歌の、「六月廿六日寛算が日も、是を詠ずれば寒くなる」という効験も用いずに、「春秋につけて花の色いろを現すごとく、自ずから寄り来ることを安らかにいへる(「無名抄」鴨長明)」句を、誠の俳諧と信じて、眼前の朝日を、「のつと日の出る」と安らかに言ったのである。左の引用は、桐花の香も軽い、夏の夜だが、白楽天白氏文集二「答桐花」の一節。野坡たちは、これに書き捨てられた、商賈・いつも早起きの人々の仲間だ。
夜色向月淺 夜色月に向って淺く
暗香隨風輕 暗香風に隨って輕し
行者多商賈 行く者多くは商賈
居者悉黎氓 居る者悉く黎氓
梅が香、そして花の色は慰めであり、朝日は励ましであるが、寒さの中に、野坡たちの難路はこれから始まる。「米銭の中に魂を苦しめ」ながら実現すべき俳諧、彼らの「炭俵」に対して、芭蕉は、自ずから寄り来ることを安らかにいへる、「のつと日の出る」を造語して、餞とすることができた。「旅寝論」去来が、其角の言葉として引用した。
「又其角一日語て曰、今同門の輩先師の変風をしたふものを見れば、
梅が香にのつと日の出る山路哉 先師
と吟じ給へば、或はすつと、きつとゝなどといへり。師ののつとは誠ののつとにて、一句の主也。門人のきつと、すつとは、きつともすつ共せず、尤も見ぐるしゝ。晋子是を学ぶ事なし。」
「誠の俳諧」について、土芳が「余念なき俳諧の事なるべし」と説明した。右の「誠ののつと」もこれに同じく、余念なき俳諧の末に生まれた、僥倖の造語であることを説明したのだろう。
支考が、芭蕉の「いとよし」という後ろ盾をもらって、「支考が集つくらば、なにがしの桐火桶に似せて侍らん」と、定家に並ぼうとするのは、「桐火桶」が仮託の書であるから言う、としても過ぎた宣言だろう。しかし、「されば人の句をきかむ事、たやすからじ」という嘆息は、支考ばかりのものではない。もとより芭蕉の句を、他「人の句」と言ったのではなく、句が、もしも閉関の時の句であるのを知らず、また、「炭俵」がどんな連衆が作る集であるかを知らずには、「句をきかむ事」は易しくないというのだ。易しくはないが、十七字が既に、何も知らなかった人の境涯、人々の関係を明らかにしていたのを、片言の注解に導かれて、「句をきかむ事」もあるだろう。残暑と余寒の、過剰と不足と。あるいは、二句「一体の趣意」などを、支考の手柄としよう。「米銭の中に魂を苦しめ」る人が、自ずから寄り来ることを安らかにいへる二句が、新風の句である、として、支考の注解を理解すればどうか。
2004-1-17