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「心太俳諧通信」というホームページの掲示板に、投稿者 yayoi 氏が立てた、「去来抄」についてのスレッド(2004-4-10)がある。最近まで、幾人かの熱心な書き込みが続いて、興味深い。
http://sasa.org/modules/newbb/viewtopic.php?topic_id=520&forum=1
「去来抄」の二つの記事、先師評〔四五〕長高き句、そして修行〔二〇〕付句の三変(いづれも栗山理一校注の小見出し、を左に引用する)についての注解、つまり、史邦の発句「赤人の名はつかれたりはつ霞」と、去来の脇「鳥も囀る合点なるべし」、そしてこの付合に加えた芭蕉の評語、についての注解の試みである。既に、投稿者 yayoi 氏は、そのホームページ上に、「去来抄」本文と口語訳のテキストも、執筆・弥生、監修・笹心太として載せていて、一般の便宜に供している。スレッドは、この再論もしくは追加であった。
http://sasa.etowns.org/library/kyorai/index.html(現在は所在不明)
以下に、この労力に感謝しながら、弘一も、二つの句の解釈を試みたい。
先師評〔四五〕長高き句
赤人の名はつかれたりはつ霞 史邦
先師文に曰く「中の七文字よく置かれたり。発句長高く、意味すくなからず」となり。
修行〔二〇〕付句の三変(の中)
赤人の名はつかれたり初霞 史邦
鳥も囀る合点なるべし 去來
先師曰く、移りといひ、匂ひといひ、まことに去年中、三十棒を受けられたるしるし、と也。
以下を底本は、本文より二字下げて記す。「去来釈して曰く」に続けて、「つかれたり、といひ、なるべし、といへるあたり、そのいひ分の匂ひ、相うつりゆく所、見らるべし。もし、発句、名は面白や、とあらば、脇は、囀る気色なりけり、といふべし。」とある。
また別の本には、「爰におもへば、匂ひといふも移といふも、わづかに句作のあやにして、のると乗らぬとの境なれば、冷暖自知の時ならでは、悟し明らむる事あるまじ。此句もし、赤人の名もおもしろやとあらば、鳥も囀るけしきなりけりとも作るべきを、名はつかれたりといへるより、合点なるべしと相うつり行くところ、味ひ見らるべし」とある(新編芭蕉大成より)。
付合いの年次は、元禄四年とすべきだ。巴水編「薦獅子集」元禄六年刊に、「桃花坊(京都の町名、去来の家があった)に春をむかへて」と前書する、という。年始の二人の顔合わせと、芭蕉の評語、「まことに去年中、三十棒を受けられたるしるし」を見れば、三十棒のしるしとは、猿蓑三歌仙の興行があった、元禄三年中の進境に与えた褒美の言葉とすべきで、史邦の発句も、去来らの編集の尽力を誉めて、猿蓑版行を予祝するものである。
「赤人の名はつかれたり初霞 史邦」について
「野ざらし紀行」に貞享二年の、「薄霞」の句がある。解釈は、尾形仂「野ざらし紀行評釈」に最も詳しいが、敢えてこれに贅言・蛇足を加える。史邦が、かの初時雨句・小蓑の句と並べるために、しばらく前の芭蕉句を択んだ。前年の冬の伊賀で、「鳶の羽も」歌仙に小蓑の句を択んで、等類の発句を作った、今日の亭主・去来に挨拶するのだ。その史邦の用い様を言うために、「野ざらし紀行」をやや離れて解釈したい。
奈良に出る道のほど、
春なれや名もなき山の薄霞
奈良に出る道・京に至る伊賀越えの道をこのまま進めば、万葉の歌枕の山々である。たとえば貫之の歌のみわ山。古今和歌集春歌下94
はるのうたとてよめる つらゆき
みわ山をしかもかくすか春霞
人にしられぬ花やさくらん
振り返れば、幾度も越えてきた、名もなき山である伊賀の山々、その山々を薄化粧する薄霞よ。諸注釈がここで、来し方の山、伊賀を振り返らないのは不思議だ。薄霞に隠された下に、さすがに春ともなれば、人にしられぬ花が咲いていはしないだろうか。そして乙の歌。同じ道筋ではないかもしれないが‥。古今和歌集羇旅歌413
あつまのかたより京へまうてくとて、道にてよめる おと
山かくす春の霞そうらめしき
いつれ都のさかひなるらん
道中不案内なものには、四方、遍く春霞に隠されて、どこが奈良と伊賀の境であるかさえ分からないのであるが、芭蕉には、よく見知った山々である。むろん、薄霞に隠れて咲いているのかどうか、伊賀の俳諧の花のあるなしについても。本当のところ、京でも伊賀でも、大した違いはないのだが‥。座五「薄霞」は、はじめ、「朝霞」とあった。「宇陀法師」のほか、史邦の「芭蕉庵小文庫」にも見える。史邦は、初案の形で知っていたのであり、おそらくこの時、「薄霞」句は知らない。引用は、元禄名家句集本より。
南良こえ
春なれや名もなき山の朝かすみ はせを
「南良こえ」は、街道の通行の名ではないが、京に至って、短冊が京の誰かに渡されたとき、こう前書したのである。「伊賀越え」とは態と書かない。これを見た史邦も、伊賀の俳諧の土産話を、終点の京の連衆に与えた、その途中を「南良こえ」と言ったと、読んだはずだ。史邦そして去来らが、つい先頃越えたばかりの道である。朝かすみに隠れたものは花ではなかった。奈良・万葉集の世界では、鹿火屋が下に鳴くという、蛙の声である。そもそも、伊賀・名もなき山に、正体が何とも知れぬ、鹿火屋なるものはないのであるが、僅かでも、俳諧の蛙の声を聞いたのならば、伊賀の人々を恋しく思わないことがあろうか‥。万葉集巻十2265にある不思議な「朝霞」の歌、これを俊成「古来風体抄」上巻から左に引用する。この歌には、「朝霞」には触れないが、鹿火屋についてのやや詳しい論考がある。史邦もこれを見ただろう。見なければ、「春なれや」句の芭蕉が、その日早立ちをしたか、とだけしか読めない。
蝦(かはづ)に寄する
朝霞鹿火屋が下に鳴く蝦
声だに聞かば我が恋ひんやは
座五を「薄霞」と直したのは、花をというより、花のある無しを隠し果せない、薄い春霞があることを言うのだ。「朝霞」のままでは、せっかくの貫之の春の歌が霞んでしまう。それに、山に蛙の声は、なんと言っても合わない。
さて、歳旦句の常として史邦の発句も、俄かに作った句ではない。「初霞」は、いつからか、「南良こえ」の「朝霞」の句を、「古来風体抄」の助けを借りて、読むうちにいつか、胚胎していた季語であった。検索によれば、「初霞」は万葉集にも、勅撰集にもなく、延宝二年までの句を集めたという貞門俳諧の、「歳旦発句集」にもない。史邦がこれらを隈なく見たとまでは出来ないが、新規のものであるとして作った季語だ。去年中、三十棒を受けたのは、去来ばかりではない。その「しるし」は、史邦にも顕れるはずだ。拾遺和歌集春3
霞を詠み侍りける 山辺赤人
昨日こそ年はくれしか春がすみ
かすがの山にはや立ちにけり
昨日が大歳ならば、今朝は元旦である理屈で、歌の趣旨によって、春日の山に立つ春霞を歳旦の季語とする時、鶯の初音に同じく、新年を寿ぐ初の字を加えて「初霞」とするのを提案できるだろう、作者赤人の名を後ろ盾・証歌として‥。
この歌、右のように拾遺和歌集では赤人の作であり、「古今和歌六帖」一・「ついたちの日」でも赤人作、そして赤人集にもあるが、原歌である万葉集巻十1843の歌としては(二句を「年者極之賀・年は極てしか」)、作者不詳の歌だ。しかし一方、公任撰という「和漢朗詠集」霞にもあって、こちらは「立春日・人丸」となっており、柿本集にもある。
元禄のこの頃、「古今和歌六帖」「和漢朗詠集」の参看は比較的容易だろうが、万葉集はできないとする説がある。万葉集を見なければ、赤人か人丸か、この歌にどちらの名を採用すべきか、判断の材料はない。これら以外の本、歌論書などに拠れば決することが出来るものか。あるいは勅撰の名目をもって拾遺和歌集に従うべきか。いずれにしても、史邦の恣意に任せてよい選択ではない。
さて、北村季吟「万葉拾穂抄」の版行の経緯は、新典社刊の解説・桜井満によれば次のようだ。
‥(二十巻本と三十巻本があり、三十巻本の)鳳岡の序文中に(‥略‥)とあり、既に梓行されて英覧されたことが見え、二十冊本は元禄三年以前に徳川五代将軍綱吉に献上されたものとみられる。後に林鳳岡の序を付して元禄三年の末か四年の始めに公刊されたのが三十冊本だったようだ。‥
季吟に近い蕉門の人びとが、右の出版の事情にある本を、一般に先駆けて見たか、さらには研究に参加したこともあったか、と空想する。しかし、もし史邦が全巻を見たとしても、たった一首のことであっても、万葉集の歌の海の中から、自ら問題を立てながら、この答を拾い出した、とは出来ない。この問題が既に、俊成「古来風体抄」によって、一般に見やすい形で提出されているものであるのが、知られているのだから。
「古来風体抄」上巻は、万葉集の巻を追って抄出し、時に短くまたは詳しく注解を加えている。例えば先の、「朝霞」の歌の「鹿火屋」についての例を見よ。長歌を省略したと断わって選んだ二百首足らずの歌数だが、詞書き・左注・作者名などにも省略加筆が少ない。すなわち読者はこれによって、万葉集の秀歌と雰囲気のおよそを知ることが出来る。巻十に至って二首目に注解はなくて1843の歌を出す。ただし、二句を「年は暮れしか」と、拾遺和歌集と同じくする。作者名は勿論ない。
この歌が、下巻に拾遺和歌集を抄出した三首目にも、赤人作として出てくる。二つの集に亘って重出させたのだ。一方、拾遺和歌集に百余首ある人丸作とした歌群の中から選んだ四首については、こういう事はない。この歌の名がかねて問題だったのだ。赤人作か人丸作か。「古来風体抄」は、あえて万葉集の歌を重出させて(あるいは拾遺和歌集の歌を重出させて)、これが赤人の歌ではなく、人丸の歌でもない、作者不詳の歌だと教えたのだ。
「古来風体抄」には、元禄三年の版本があるという(辞典より)。史邦が新刊の本の評判によって、元禄四年の歳旦句を新しい季語によって作ったか、あるいは、季吟の新しい(出版予定の、かも知れない)本の評判にも重ねて‥。ともあれ、史邦は、古来風体抄によって、かの歌の作者が実は不詳であることを知った。これは昨年、元禄三年中の勉強によるものだったかも知れず、あるいは、既に早く知っていて、新刊の本によって一般にも容易に知られることとなった、という事を言った、とすべきか。
作者赤人の名は、名もなき歌に貼り付けられたものであった。人丸作だとした「和漢朗詠集」との比較による本というものはなく、誰でも、「古来風体抄」が選んだ、拾遺和歌集の例によって知るので、史邦も赤人の名によって言うのである。史邦がこの証歌に拠って作った季語「初霞」、新規の季語には、偽りの作者である赤人の名が付いているのだが、去来よ、あなたはこれを通行の季語に加えるのを許してくれるか。初霞句は、名もなき山ではない、京の市中に立つ霞の下に、出版を待つ猿蓑の予祝である。人に知られぬ花である我らを隠す、めでたい初霞よ。この度の名もなき我らを、何の名によって隠すのか。再び赤人か、それともどんな無き名が付けられるのだろうか。
次いで、「鳥も囀る合點なるべし 去來」について
そもそも、春の景物に初の字を付ければ、歳旦の季語となるという例がないのだ。(「初春」は、「春」が正月の意だ。これは例か。)あるとすれば、かろうじて「鶯の初音」だろうか。これも、「毛吹草」に、「鶯の初音やけふのいはひ哥」、「歳旦発句集」には年代不知の、「鶯も初音に口やあきの方 慶友」があるが、俳諧の四季の詞として登録されたとは言いがたい。「増山井」などの鶯の項目にも、「初音」の文字がない。「初音」はついに歌語のままであるらしい。去来句の、「合点なるべし」は、歳旦の季語「初霞」の是非について言ったのではなく、「赤人の名」について、言ったとすべきだ。季語の是非は、当代においては、学者が作る、俳論・季寄せ類の中心課題であるが、一般に、後世の専権事項である。いま、去来そして史邦らが容喙、議論してどうなる問題ではない。「初霞」が、「鶯の初音」よりさらに儚く、後世の支持を獲ることが無かったのは、猿蓑が天佑のごとき俳諧撰集であるのに符合していて、「初霞」が覆う、猿蓑の連衆の仕合せは、去来そして史邦らもまだ知らない事ながら、後世の俳諧の仕合せ全てを、先に奪ったものだったからだ。
「合点なるべし」とは、例えば、「筑波問答」の、序の部分の結びに、「‥心ざしあらん人は御覧じて、さもと思はれんことには、点を合ひ給ふべしとなり。」とあるのに答える、そういう言葉だ。かの歌に、赤人の名が付いていることに、私・去来ではなくても、「心ざしあらん人」は「さも」と、きっと合点を付けるだろう、というのだ。人丸の名であっても構わないのであろうが、赤人のほうが都合が良い。史邦の設問が、良質の歌論の課題であるのを言うようにして、去来が答えた。歌論・歌学は、名もなきものにめでたき名を与えてきた。たとえば、いま史邦が事新しく言った、万葉集巻十1843の歌についての処遇、さらには、読み人の名ではないが、何鳥と名もなき、百千鳥を、鶯だとした古今伝授の三鳥口伝の一説がある。「ものごとにあらたまれども」という三・四句など、これも歳旦の歌と読むことが出来る。古今和歌集春歌上28
題知らず よみ人知らず
百千鳥さへづる春はものごとに
あらたまれども我ぞふりゆく
猿蓑に蝟集して、盛んに囀る、百千鳥のような人々には、古今伝授の約束によって、等しく鶯の名が付けられるのだろうか。この歌の使い方が、源氏物語「末摘花」の巻にある。「〔一七〕正月七日の夜、源氏、末摘花を訪れる」から引用する。
女の御装束、今日は世づきたりと見ゆるは、ありし箱の心ばへをさながらなりけり。さも思しよらず、興ある紋つきてしるき表着ばかりぞ、あやしと思しける。
(源氏)「今年だに、声すこし聞かせたまへかし。待たるるものはさしおかれて、御気色のあらたまらむなむゆかしき」とのたまへば、(末摘花)「さへづる春は」と、からうじてわななかしいでたり。
(源氏)「さりや。年経ぬるしるしよ」と、うち笑ひたまひて、「夢かとぞ見る」と、うち誦じて出でたまふを、見送りて、添ひ臥したまへり。口おほひの側目より、なほ、かの末摘花、いとにほひやかにさし出でたり。見苦しのわざやと思さる。
この一節を、去来の脇・俳諧の文脈に置いて読むべきだが、今は煩雑になるばかりなので、少しばかりを‥。「女の御装束、今日は世づきたりと見ゆるは、ありし箱の心ばへをさながらなりけり。」のところ、「脇で末摘花となった去来の御装束・俳諧が、今日は世間並みであるよと見えるのは、ありし箱の心ばへ、先頃の「鳶の羽も」歌仙で受けた芭蕉(ここでは源氏)の指導を、さながら実行しているからなのであった。」と読む。
脇は、史邦が作った季語、「初霞」に異を唱えることはしない。むしろその一回性・珍しさに合点する。「初霞」なる季語を採用すれば、かつて春霞に隠れた名もなき歌に、赤人の名を付けた仕合せを、いま、名もなき猿蓑の連衆の仕合せとして再現できる、という発見に合点する。「初霞」の下、ものごとにあらたまる頃に、訳もなく囀る我らを、百千鳥と呼ぶように‥。
物語の先行の万葉集、三代集に限れば、鳥類が「囀る」歌は、右の古今和歌集春歌上28の、百千鳥の歌があり、その後の、物語の作者が知っていたかもしれない歌には、後拾遺和歌集春下160の、藤原長能の屏風歌がある。
題知らず 藤原長能
声たえすさへつれのへの百千鳥
残りすくなき春にやはあらぬ
この外の鳥類は、みな「なく」のである。鶯についてならば、三代集にある六十五首のうち、四十首が「なく」のであった。「囀る」のはない。ところが、源氏物語の鶯は「囀る」。「なく」鶯はない。源氏物語「少女」の巻「〔二九〕朱雀院に行幸 放鳥の試み 歌と音楽の遊宴」は、舞楽「春鴬囀」の名さえ持ち出して、三首、鶯・鳥が「さへづる」歌を作った。
春鴬囀舞ふほどに、昔の花の宴のほど思し出でて、院の帝も、「またさばかりのこと見てんや」とのたまはするにつけて、その世のことあはれに思しつづけらる。舞ひはつるほどに、大臣、院に御土器まゐりたまふ。
(源氏)鴬のさへづる声はむかしにて
むつれし花のかげぞかはれる
院の上、
(院)九重をかすみ隔つるすみかにも
春とつげくるうぐひすの声
帥宮と聞こえし、今は兵部卿にて、今の上に御土器まゐりたまふ。
(蛍宮)いにしへを吹き伝へたる笛竹に
さへづる鳥の音さへ変らぬ
あざやかに奏しなしたまへる、用意ことにめでたし。取らせたまひて、
(帝)鴬の昔を恋ひてさへづるは
木伝ふ花の色やあせたる
とのたまはする御ありさま、こよなくゆゑゆゑしくおはします。これは御私ざまに、内々のことなれば、あまたにも流れずやなりにけん、また書き落してけるにやあらん。
歌ではないが、「御法」の巻「紫の上、法華経千部供養を二条院で行う」では、百千鳥もやはり、囀る。「若菜上」の巻では、「百千鳥の声もいとうららかなり。」とある。
‥ほのぼのと明けゆく朝ぼらけ、霞の間より見えたる花のいろいろ、なほ春に心とまりぬべくにほひわたりて、百千鳥の囀りも笛の音に劣らぬ心地して、もののあはれもおもしろさも残らぬほどに‥
さらに、「囀る」のは、百千鳥、鶯ら鳥類に限らない。あやしき海人ども、近江の君ら、様々な人々が「囀る」。むしろこちらが、「囀る」の主たる使い方なのであろうか。「明石」の巻「〔三〕風雨静まる 源氏、夢に父桐壷院を見る」からは‥。
‥あやしき海人どもなどの、貴き人おはする所とて、集まり参りて、聞きも知りたまはぬことどもをさへづりあへるも、いとめづらかなれど、え追ひも払はず。‥
「常夏」の巻「〔七〕内大臣、近江の君を訪れる 滑稽な問答」からは‥。
‥「いとうれしきことにこそはべるなれ。ただいかでもいかでも、御方々に数まへ知ろしめされんことをなん、寝ても覚めても、年ごろ何ごとを思ひたまへつるにもあらず。御ゆるしだにはべらば、水を汲み、戴きても仕うまつりなん」と、いとよげにいますこしさへづれば、‥
辞書を見れば、「鳥が歌う」の外に、「外国人や田舎者が、訳のわからぬ言葉でしゃべる。」、「早口でしゃべる。」と出ている。「少女」の巻に作った歌の「囀る」が、これら刺々しき意味を和らげて、物語の中で「囀る」人々を、百千鳥、鶯の類縁の者とするかのようだ。鳥さえも「囀る」。そして人々は、鳥のように「囀る」。
ここには源氏物語の、歌論に対する態度の一つがあるというべきで、もし物語に散在する、寧ろ遍在する作者の先鋭な歌論を知らず、閑却すれば、どんなに多くの歌学書を渉猟しようとも、勉強にならない。歌学書の中でも、すでに歌は、題詠の小さな物語に現れる、虚構の人が歌うものだった。たとえば、「寄雲恋」「年を経たる恋」「忍恋」「見れど逢はぬ恋」「依忍増恋」「夏恋」「欲言出恋」「不遇恋」「海辺恋」等など(新古今和歌集より)。桐火桶の周囲の闇が、物語を冷え込ませて、やがては歌を貧しくする。なお時代は下って‥。
そもそも、作り物語の歌のあるものは、古今和歌集の誹諧歌の系譜に属する。例えば、「和歌は、成り行きとしての死は本意としてよむが、身投げは、つきつめ過ぎのこととして本意に外れる。」(古今和歌集雑体誹諧歌1061の、小島憲之・新井栄蔵校注から)のであるが、「手習」の巻「〔一一〕浮舟、小野の僧庵に不幸な半生を回想す」の、浮舟の歌もまた、女の死に方もしくは生き方が、つきつめ過ぎのことであった。
身を投げし涙の川のはやき瀬を
しがらみかけてたれかとどめし
「本意」とは、虚構の人の桎梏なのか、それとも題詠の人形に与えられる生命なのだろうか。歌論と歌詠みは、この世に唯一の、豊穣の世界の作り物語である、源氏物語から学ぶべきだ。「去年中、三十棒を受けられたるしるし」とはこれを言うか。まして俳諧は、古今和歌集の誹諧歌の嫡出の子である。百千鳥の歌を奪って「さへづる」末摘花、いつもは「むむ」としか言わない、常陸宮の姫君を見逃してなろうか。唱和して、「からうじてわななかし」ながら、急いで「合点なるべし」と言う。姫君なので、紅花の名で呼ぶのだが、去来には、赤鼻を、赤人の名で呼ぶのも良いかもしれない。
さて、修行〔二〇〕付句の三変(の中)、「去来釈して曰く」以下は、全く、去来が書いたもののような感じがしない。史邦の句に与えられた、「中の七文字よく置かれたり。発句長高く、意味すくなからず。」という評語は、「名は面白や」とあっても変わらないのだと、去来が言ったのか。「囀る気色なりけり」とすればどうだというのか、三十棒を受けた議論とも見えない。不審である。
2004-6-13