六月二十四日、七月一日の二回に分けて、「心太俳諧通信」の掲示板に書いたものだ。六月十六日の弘一独白の小論を、六月二十、二十一日の両日に分けて、右の掲示板に載せたものに対して、弥生さんから、分かりやすく普通に書け、とご指摘をいただき、「‥弁明」として補足し、書き直した(私としては‥)ものである。芭蕉の評語「三十棒うけられたるしるし」が、源氏の、「年経ぬるしるしよ」に拠るのに気づいたのは収穫だった。見れば分かるほどのことなのに‥。良い機会であったと、弥生さんに感謝いたします。以下は、掲示板とほぼ同一‥。

 

六月二十四日の掲示板

 

 いきなりで申し訳ありませんが、弥生様はやめて、弥生さんとお呼びします。いろいろと考えましたが、書き直しは無理ですね。それでも、トレースすると仰るのを見て、二三、書いておきます。題して、「赤人についての弁明」。

 

一、「野ざらし紀行」の句、「春なれや名もなき山の薄霞」の諸注釈について。

 

 「諸注釈がここで、来し方の山、伊賀を振り返らないのは不思議だ。」と書いたのは実感です。私は、尾形仂「‥評釈」によって、「野ざらし紀行」を読むのですが、こういう場所に差し掛かるとき、「増殖する俳句歳時記」で知った、櫂未知子の句、「素人が吹雪の芯へ出てゆくと」をいつも思い出します。そしてカッとくる。ナンダこの句は、素人をなめてるのか。櫂未知子は吹雪の芯へ出てゆくことがあるのか。

 諸注釈といっても、私が見たのは数で言えば寥々たるもので、トレースは簡単です。その一、「野ざらし紀行」では、尾形仂注の外には、小学館「新編全集」松尾芭蕉集Aの久富哲雄注、新潮社「集成」の富山奏注。その二、芭蕉発句注釈の本では、岩田九郎「諸注評釈・芭蕉俳句大成」、安東次男注、加藤楸邨注、山本健吉注(並べるだけではあまり意味がない)。諸注釈すべて、次のお水取りの句に目を奪われたか、四方の「さかひ」も知らずに「名もなき山」としているが、注釈しながら「奈良に出づる道のほど」にある人、つまり右の諸家を、来し方に振り返らせるには、貫之の歌に加えて、乙(おと)の歌、古今和歌集羇旅歌413

 

  あつまのかたより京へまうてくとて、道にてよめる  おと(乙)

山かくす春の霞そうらめしき

        いつれ都のさかひなるらん

 

が大事だというのは、本文に書いた。乙(おと)の歌を見なければ、無理かな。と、このように書くこの場所が、吹雪の芯のあたりです。諸家の、暖かき執務室を遠く離れて‥。乙(おと)の歌を見つけて、私も書けるカナ、と考えたのでした。

 

二、「古来風体抄」について。

 

 「去来抄」を書いた者が(むろん「三冊子」の土芳なども同じく)、俳論の類はともかく、歌論、連歌論の数々を見なかったとは考えられない。俳諧は、さすがに歌学に遠慮するのであろうか、歌論、連歌論の名は出てこないのである。「桐火桶」の名だけが、「炭俵」の序(ここでは本の名ではないが)、「笈日記」にあるが、定家仮託の書としての、相応の扱いなのだろうか。「名は出てこない」ことの調べは、校本芭蕉全集の索引に拠ります。多分、見落としがあることでしょう。

 俳論によらず、様々なところで、名は出てこないが、見たに違いないという例を散見いたします。「古池や」句については「筑波問答」の冒頭。「おくの細道」の「尾花沢」の句「這出よ飼屋が下の蟾の声」、これは本文に書きましたが、「古来風体抄」の鹿火屋についての注。「松島」の曾良の句「松島やに身をかれほとゝぎす」の場合は、「無名抄」〔千鳥鶴毛衣事〕かと考えております。三冊子の、〔一六〕等類の事も、「無名抄」〔頼政并俊恵撰事〕に拠るのでしょう。「無名抄」は外にも、〔俊恵歌体定事〕〔五月かつみ葺事〕〔頼実数寄〕〔小野とはいはじの事〕などが、面白くて為になるというところでしょうか。

 「古来風体抄」については、体裁を知っていただけでしたが、弥生さんの結論に導かれて、かの体裁から推して、万葉集の秀歌案内はこれこそと見当をつけて、問題の歌の重出を確認いたしました。小学館「全集」の有吉保校注・訳がすばらしいと思います。インターネット上では、「digital西行庵」が、「古来風体抄」の外にも、九つの歌論を出してくれていて、まことにありがたい事です。インターネット上と言えばこの、「心太俳諧通信」に集まる人々の努力にも感謝いたします。弥生さんの、「去来抄」に拍手です。そして「埋木」注釈に期待しています。

 

 ところで、と序でのようにいうべき事柄ではありません。今回はお名を挙げることはありませんでしたが、ホームページ「平安時代私家集」が、その表紙に、六月三十日をもって終了するというメッセージを出しておられます(予定通り、終了されました。)。

 弥生さんもご存知だろうこの事態を、ちからなき身としては、ただ呆然と、その日が間もないことを悲しむばかりです。「‥物事には初めがあれば終わりがある‥」と仰っていますが、かの百ほどもの歌人の論考が、この至宝が、消滅してしまうのか、と思えば、悲しい。消滅してしまうと騒ぐのは、私の早とちりだったならば、どんなに有難いことか。ホームページ「平安時代私家集」を見るべきは、凡庸な我らではない。後世である。いま字を習い始めたこどもたちだ。でも彼らは間に合わない。

 

七月一日の掲示板

 

 六月二十四日の「続き」、がとても遅れてしまいました。先に、「素人なので、反応が鈍く、皆様のようなすばやい応答が出来ません事を、あらかじめご承知おき下さい。」と書きましたのは、実にこのことで、怠けた積もりはなく、思いがけない調べ直しもありました。前半分を出すのなら、後半分を書いてからだ、と今は後悔しきりです。氷心さんには、路傍の石である私のホームページを見つけていただき、かつ紹介していただくとは、思いもよらないことで、感謝いたします。うれしさと、汗顔のいたりで‥。しかし、「続き」が書けないうちはと、お礼もままならず、今、見直しも早々に、出来立てを書き込みいたします。数日置いてから出せば、とこれも後悔すること必定です。でも‥。

 しかも、出来ないと書きはしましたが、弥生さんのご指摘になんとか沿うように、という積もりでおりましたのに、心ならずも却って遠ざかったかのようなものになりました。残念。これをどこに書き込めばよいのか、またまた勝手が分からず、最新の、氷心さんの論説の、「返信」をクリックいたします。どうか、「最新の、氷心さんの論説」と錯綜しないように、と願い、危ぶみながら‥。

 

先の続き‥

 

三、万葉集について。

 

 新典社刊・北村季吟「万葉拾穂抄」のコピーが本棚にありますが、どうせ読めはしません。その別巻の解説・索引は役に立ちます。やはり、岩波「新大系」の四冊と「万葉集索引」によって読むことになります。元禄の万葉集を体感するためには、比較を、丁寧にすべきでしょうけれど。史邦も、「古来風体抄」をたよりに、「万葉拾穂抄」巻十を探して、かの作者不詳の赤人歌を、確認したかもしれない、というのは私の空想ですが、思えば、史邦には、確認の必要はないのでした。「朝霞」「薄霞」「囀」の字その他の検索は、「吉村誠氏の万葉集ファイル」というものを、メモ帳形式のままで使いました。随分以前に、闇雲にダウンロードしましたので、ホームページがどこか分かりません。これを機会に、あちこちのページを探索し直すことにいたします。

 

四、三代集その他について。

 

 これも、岩波「新大系」の幾冊かと「八代集索引」によって読むことになります。中でも「古今和歌集」小島憲之・新井栄蔵校注は、調べ物でなくても読んで楽しい。素人の感想です。「八代集索引」はとても役に立ちますが、なんといってもホームページ「国文学研究資料室」の「二十一代集検索」が簡単便利です。「うくひす」「はつかすみ」「うすかすみ」「ももちとり」「さへつる」「さへつれ」などなどを検索して、ノートに書いた番号を指折り数えます(簡単に言えば‥)。岩波のCD-ROMは、なにやら面倒なので、使いません。だんだん旧「国歌大観」の出番が少なくなります。それから、東洋文庫「八代集」奥村恒哉校注は、その注に、各和歌の他書(歌論など)への重載を示してあって、大変に便利だ。ただし、源氏物語の引き歌には対応していない。

 新編「国歌大観」は買い損なったままです。とても高いし、置くとこもナイ。しかし、「夫木和歌抄」「歌枕名寄」など、日文研のデータベースの検索は、仮名ばかりだから、新編「‥」が必要かなァ、と仕方のない思案中で‥。

 「二十一代集検索」によって、三代集に鶯の歌は、古今和歌集に二十八首、後撰和歌集に十七首、拾遺和歌集に二十首などと指折り数えたのですが、その中に囀る鶯がない。なにやらこれで、仕事をしている様な気分になります。後拾遺和歌集雑五1151、相模の、鶯がさへづる歌は、源氏物語以降と見て外しました。はるか後の、新拾遺和歌集春歌上4の後嵯峨院御製も。

 

五、源氏物語について。

 

 小学館「全集」の六冊本以外では、読みにくい。付き合いも長く、現代語訳が、なじみとなって‥。六冊本そのものである、eテキストがあります。万葉集同様、これも闇雲にダウンロードしたもので、どこのホームページにあったものか、分からない。外には、岩波「新大系」の五冊と索引が便利ですが、読みやすい「全集」六冊本と、ページを合せるのに苦労します。これらの箱と中身が机辺にゴロゴロとします。北山谿太「源氏物語辞典」と有朋堂の四冊の組み合わせも同様で、ようやく有朋堂の四冊はお役ごめんというところ。渋谷栄一氏のeテキスト源氏物語は、検索の便利よりも、「全集」六冊本と役目を交代すべきもので、注釈がまことに丁寧です。岩波のCD-ROMは、これは使いにくい。現代語訳もいくつか、頼りにしています。この巻はこの句と関係がないのか、と寒い風が吹くときに、瀬戸内寂聴訳の調子によって回復しようとしますが、大体は無駄ですね。

 

 「合点なるべし」によって、これは歌論に係わるものと見当をつけました。万葉集巻十1843の歌に与えられた赤人の名、これに対するに、去来は、古今和歌集の百千鳥に与えた鶯の名、二つの良く知られた歌論の問題を対比したと見て、東洋文庫「八代集」の注によって、百千鳥について、幾つかの歌論を見ました(「歌学大系別巻」の数冊は、図書館のお世話に‥)。古今和歌集春歌上28を再掲します。(「八代集全註」山岸徳平編より)

 

  題しらず             よみ人しらず

もゝちどりさへづる春は物ごとに

           あらたまれどもわれぞふりゆく

 

 歌論からは、さしたる収穫を予想せずに、というのは、事々しく古今三鳥とは言いながら、これが奇矯の説を強いるものでないことも知られているからです。古今和歌集の一首だけのことなら、百千鳥が鶯でも構わない。「俊頼髄脳」には、「よろずの物の名に、みな異名あり」として、列挙する中に「鶯 ももちどり といふ」とあり、古今和歌集の歌を注して、「‥さへづる春は、と詠めるは、うぐひすなり。次の歌(万葉集巻十六3872の、榎のみもりはむ といへるは、もろもろの鳥 といへるなり。‥」とあるなど、諸論みな、穏やかで一般的です。ただし、顕昭「袖中抄」の古今和歌集春歌上28は、二句「さへづる春は」なのに、「古今集注」「顕注密勘抄」では、「鳴くなる春は」となっていて、こういう古今和歌集もあるのか、と素人としては新鮮なことでした。

 いま書き継いでいるのは、いかにも素人くさい、私の机辺の景色についてであって、その限りにおいての、私だけの方法です。それでもこれが、去来・史邦らの書斎に近しいことを願っています。碁打ち並みの(と想像いたします)彼らの頭脳・記憶の代わりに、元禄にはない簡便な本と注釈に加えて、各種索引類とeテキストの検索を援用して‥。総動員して‥。どうかして、彼らの「三十棒うけられたるしるし」を私の机辺にも招来したい。そして解釈は、この途中に生まれることがあります。スタンダードな資料が(かつ周知の資料が、でなければいけません)、熱を帯びて、不意に立ち上がることがあります。私が、吹雪の芯に出てゆく頃なのでしょう。

 

 次いで、「源氏物語索引」によって、「鶯」「囀る」そして「鳴く」について検索しました。そして、本文には、「ところが、源氏物語の鶯は「囀る」。「なく」鶯はない。」と調子よく書きましたが、これは間違い。「源氏物語の歌の鶯は」と書くべきだった。再度調査すれば、十例ある歌の鶯については右のとおりだが、その外地の文の十二例の中、三例の鶯が「うち鳴く」「鳴き出で」るのであって、「囀る」のはない(索引に、「うち鳴く」「鳴き出づ」は、「鳴く」とは別に登録されている)。「鳴く」については、十四例の歌の中、友千鳥・千鳥が鳴くのが四例、牡鹿・鹿が三例、松虫・虫が二例、雁、ほととぎす、鶴、日ぐらし、猫がそれぞれ一例づつであった。その外地の文の二十四例もほぼこのようなもの達が「鳴く」。作者は「鳴く」を軽視せず、「囀る」にも拘泥しませんでした。

 

 さあ、先に確実に調査していれば、私の結論は違ったか、といえばそうではない。去来・史邦らが、右のような調査を、するはずもなく、おもしろい結果が出て、私の解釈の飾りになれば、というさもしい行為なのでした。

 「囀る」の検索によって、十七例の中、「少女」の巻の二つの歌の鶯が「囀り」、もう一つの歌の鳥も(これも鶯)「囀る」。地の文の十四例の中には、あさぼらけの鳥、百千鳥、池の水鳥、山の鳥ども、琴の音などの外に、人間が「囀る」のが五例あって、その中に近江の君の例がある。そして、さへづる春は」とからうじてわななかしいでたる末摘花の引き歌があった。

 引き歌の中の百千鳥は、鳥ではない。擬人化されて、源氏が集める美しい人々のことだ。仮にこの頃、百千鳥が鶯であるという説がどこかにあっても、このとき若紫もまだ幼くて、一人の鶯のような人ではない。末摘花は、ここで百千鳥の向こうを張って、実は何のことかご存じない「ふりゆく」ものを嘆いて見せたが、もっと気の毒なことが多い人なのだった。可笑しくても嘲笑わずに、さへづる春は」と口をきいただけでも「さも」と、誉めなければならない。

 芭蕉の評語の中、「しるし」とは、この末摘花に現れた「しるし」、源氏が言う「年経ぬるしるし」でもある。去来の、俳諧の重々しさ、勘違いは変わりようがないものの、ここで引き歌、「さへづる春は」を択んだ末摘花を出したのは、「去年中、三十棒を受けられたるしるし」と誉めてやるのだ。

 末摘花がこれを引き歌としたのは、作者による、古今和歌集春歌上28の解釈を見せたもので、「后のくらひもなににかはせむ」という物語の本当の読者はこれによって、あらためてこの歌を学んだはずだ。作者は、末摘花に歌の解釈を少しだけ誤らせておいて(もしくは姫君におおいに勘違いをさせて)、しかる後に源氏が、「年経ぬるしるしよ」と「うち笑ひたまひて」、解釈し直してやる。こういう明瞭な教材は少ないだろうが、数々の引き歌には、同様の機能があるだろう、と素人・私は想像する。去来・史邦らの想像に近いはずだ、とも考える。

 

 私のような迂闊な読者が、検索の色々を経て、ようやく出会うこの引き歌に、去来・史邦らは(俳諧は‥)常に接していた、と感じる。そのように感じて、ようやくこの脇の解釈を書けると信じた。ただ「むむ」とうち笑うことしかしなかった姫君が、初めて口をきいた言葉が、「さへづる春は」であった。物語は進んで、「常夏」の巻、いと舌疾き近江の君が、いとよげにいますこし「さへづれ」ば、二人は囀る一組となる。「末摘花」と「常夏」と、いかに巻数を遠く隔てても、近江の君の「囀る」が、どんなに自然で、末摘花の「さへづる」と同じ「囀る」である事を、意識させない使い方であっても、去来・史邦らは、これを一組の人々として、既に、何時からか、拾い出していたのだ、と想像する。ここでは、近江の君は、末摘花の添え物ではある。しかし、引き歌「さへづる春は」の効験のすべてを顕し、末摘花も「囀る」人として、この俳諧の連衆の一組に、この二人を配役するのに、添え物が必要なのだ。

 

六、その他の弁明

 

 さて、ほぼこれで私の机辺の報告は終わりだが(ほんとうに終わりなのか、まだ言い足りない気がいたしますが‥。)、ついでに一つの弁明をする。本文に二箇所、

 

「前年の冬の伊賀で、「鳶の羽も」歌仙に小蓑の句を択んで、等類の発句を作った、今日の亭主・去来に挨拶するのだ。」

 

そして

 

「史邦そして去来らが、つい先頃越えたばかりの道である。」

 

と書いた。通説に違反して、猿蓑の冬の歌仙、「鳶の羽も」歌仙が、伊賀で興行されたと考えるからだが、小論を書きなずむうちに、これが「鳶の羽も」歌仙の解釈に付属すべきだと気付いて、右の二箇所に、贅言を加えた。桃花坊の去来と史邦には、「鳶の羽も」歌仙の余興が、まだ湯気を立てているようなのだった。

 「鳶の羽も」歌仙については、拙論は、いまだにその入口付近にある。序論のようにして、伊賀で興行された説というものを書いてあるのだが(まことに古い!)、やや長文で、ここに提出しようにも、縮める事が出来ない。

2004-7-3

 

 

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