2004-7-4

 これは七月三日に、「心太俳諧通信」の掲示板に載せたもの。乗りかかった舟か。以下、掲示板とほぼ同一。

 

弥生さん

 

 ご要望と合わないかもしれませんが、私がこの付合いを解釈しようと思い立った、発端から書きます。繰り返しが多くなりますが(書いたつもりのことばかりで‥)。

 

 弥生さんがお調べになったように、「去来抄」注釈の全てが、拾遺和歌集春3の赤人の歌に触れていません。つい、「全てが」と書くのですが、弥生さんには、ここらで素早くツッコミを入れて欲しい。「全てを見たのか?」と。「去来抄」注釈の全てを、退屈もせずに、図書館をうろついて、この私・素人が見ることが出来るものか、とご返事。実を言えば、この肝心のところが弱い。栗山理一注、宮本三郎注、井本農一注、岩田九郎注、と古いものしか見ていない。ご存知、栗山理一注では、「東山の辺に朝霞がたなびき、空はほんのりと紅に染まっている。山辺赤人とはよくも名づけられたものだ、の意」。これが「修行」に再掲された付合いでは、去来の脇を、「鳥もそれに応じて囀り出すようだ、の意。」。その他、書き写すのは遠慮いたしますが、新しくコレハとお思いの注釈はありますか。あれば教えてください。「去来抄」の注釈ですから、句よりも、地の部分の注が主要なのでしょう。それに、芭蕉句でないと、力の入れようが違う、のかもしれない。それにしても、私・素人に、俳諧が面白いと思わせる力がない。

 

 拾遺和歌集春3の赤人の歌に、気付かない注釈家はない、と思うのですが、これが分からないところ。この私・素人の、「分からない」に対して(仮に、「気付かない注釈家はない」のだとして‥)、「これこれだから、諸家は、拾遺和歌集春3の赤人の歌に気づいても横目で見るようなのか。」と、知るべき方法がありますか。と、弥生さんにお尋ねいたします。私は、ないのだと思う。あるいは諸家は、例によって、「必要がない」と言うかもしれない。霞は赤いものだ(詩文から推して‥、辞書にあるから‥)として、元旦の朝焼けの実景を、めでたき赤人の名によって招来したのだ、など‥。この紋切りの言葉、「必要がない」に、我々は、いろいろな場所で、幾度出会ったことでしょうか。しかし、ここでは、霞が赤かろうが白かろうが、「赤人」と「霞」を並べれば、拾遺和歌集春3の赤人の歌を思わない者はないのだ。これは乱暴な説ではない。赤人と聞いて通行の霞の名だと思う者はなく、赤人霞なんて聞いた事がない。史邦が無理に名付けても、これも無理に作った季語、初霞よりもなお、流行らないだろう。(史邦が、無理に赤人霞などと、名付けたと言っているのではありませんよ。蛇足。初霞は無理に作った。)そもそも、漢和辞典の類に、また和名抄に霞は赤いとあっても(広辞苑より)、実に霞が赤いと思っている人がどこにいるのだ。朝焼けは朝焼け、霞は霞。岩波古語辞典には「かすみ」の項に、赤い霞の文字は出てこない。こちらが実感です。弥生さんはいかがですか。歌語「霞」には、二種類の霞がある、としたら、論証が必要でしょう。二種類の霞があれば、俳諧もそれに倣うことでしょう。おそらく諸注は、広辞苑が出所の、和名抄を確認して、赤い霞の説を出すのでしょうが‥。いったい、朝焼け・夕焼けの霞の歌があるものでしょうか。お調べになりましたか。私は、二十一代集検索で出た、「791件にヒットしました」の字をしばらく眺めて、終わりにしました。冗談。もう少し眺めていても良いのですが。

 諸家の本音は、拾遺和歌集春3の赤人の歌などを持ち出したら、注釈が厄介になる、スペースもないことだし‥、というところでしょうか。注釈家こそは厄介なもので、なかなか素人にはツッコミ難い。普通の霞と朝焼けの折衷で、「ほんのりと紅」の霞というものを作ります。初霞なら、すぐに「作った!」と分かりますが、これは、霞とはそういうものか、と思わせます。しかし、これだと、漢和辞典の類や和名抄との関係を失うことになります。おそらくはそれも承知で、ほんのりとでも赤い霞があることにしたいと‥。

 

 弥生さんが、拾遺和歌集春3の赤人の歌を見つけた、これが、私がこの付合いを解釈しようと思い立った、発端です。別の様々な句で、「必要ない」の嵐に見舞われ続けて、ようやく新らしいタイプの注釈家、と言ってはナンですが、少なくとも、「必要ない」とは言わないだろう注釈家に出会ったと感じたのです。嬉しくて、私も書こうと‥。ともあれ、いつもの事ながら、諸注釈とは離れて書こう、論点を諸注釈に求めないことにして‥。長くなりました。今日は此処までにいたします。

 

 

これも、日付は七月三日。

弥生さんへ。書き足りないかな、と思いましたので追加です。

 

 諸注釈は、さらに万葉集、古来風体抄を見たとしても(見ているでしょう)、先に拾遺和歌集春3の歌を見てみぬ振りをしていますから、弥生さんの、赤人歌の作者探索結果には、さらに反応することはありえません。したがって、仕方なく、諸注釈とは離れて書こう、論点を諸注釈に求めない、と決心せざるをえない。たとえ、赤い霞についての論難が、七月三日、掲示板の拙論によって終わったとしても、私・素人としては、話の接ぎ穂がなく、この先は独白のように、私・素人の方法によって、論を進めなければならない。

 「かすみ」について、二十一代集検索の結果をいま少し眺めていますと、すこし色が付いたと思われる霞の歌がある。八代集の中に、三首を見つけた。弥生さんも調べてください。その一、古今和歌集春歌下102は、霞が隠す花の色だ。

 

春霞色のちくさに見えつるは

        たなひく山の花のかけかも

 

 

その二、後拾遺和歌集哀傷541のむらさきは、法悦の色で、歌枕・むらさき野からとった。目に見える色ではない。

 

円融院の法皇うせ給てむらさき野に御さうそう侍けるに、ひとゝせこの所にて子日せさせ給しことなとおもひいてゝよみ侍ける   左大将朝光

むらさきの雲のかけても思ひきや

           春の霞になしてみんとは

 

その三、新古今和歌集春歌下103は、霞を染めるほどの花の色そのもの。

 

  祐子内親王家にて人々、花の歌よみ侍けるに   権大納言長家

花の色にあまきる霞立まよひ

         空さへ匂ふ山さくらかな

 

 八代集に、朝焼けの霞どころか、折衷の説、「ほんのりと紅」の色をした霞の歌もなかった。諸注釈の霞の色は、霞それ自体に色が付いている、という注釈だ。霞の歌に色があれば、それは必ず、霞が隠して隠し切れない花の色なのだったが、諸注釈をこのように読み直すことは出来ない。正月に、花は咲いていないよね。

 

弥生さん。発端は、これでよければ、話を先に進めます。次は遅くなるかなぁ。

 

 

2004-7-4 

 さてさて、掲示板を読み返したら、「それにしても、私・素人に、俳諧が面白いと思わせる力がない。」と書いてあった(私が書いたのだ)。「力がない」?。これでは誤読されそうだ。諸注釈に、力がない、と言ったのだ。諸注釈に、この私を面白がらせる力がない、と言ったのだ。それにしても、諸注釈はこの私に、俳諧というものは、こんなに面白いものだったのか、と思わせることが出来ない、と書いたのだ。と、これだけ書けば、もう誤読されないでしょう、か?。蛇足ながら。

 

 

 

 

氷心さん、

 今度ばかりは、鈴木弘一も、一遍に纏めることが出来ません。氷心さんが、お書きになった、節々について、個別に順次、ご返事を頂きながら、書かせていただきます。

 

 まず、中ほどに、「矛盾しているとはおもえません。」とお書きになりましたが、この「矛盾」とは、鈴木が、

 

ならば、「先師評」p447では、「先師に曰く」であって、「修行」p503では、「先師曰く」とあるのは、一つの付合いについて、去来が、芭蕉の評語を二重に求めた筈はありませんから、この「二つの出所」を、ともに去来のものとすれば生じる、明らかな矛盾点を説明しなければならない。

 

と書き、

 

「二つの出所」の矛盾点は、「史邦宛の手紙」と、「去来に対する直接の評語」として、これで説明が出来るかな、

 

と書いた「矛盾」と、はたして同じものでしょうか、と、しばし悩みました。

 

 氷心さんは、「先師評」p447では、「先師に曰く」であって、「修行」p503では、「先師曰く」とあるのによって、直ちに「二つの出所」があるとすることは出来ない、とお書きになったのですね。「先師評」と「修行」では、「先師の評」を書く目的が、あるいは軽重が異なる、ということのようですが、氷心さんが、「例として挙げたまでのこと。」と、お済ませになった、問題とは思えません。どうやら、「去来抄」にたいする見方というべきものが、鈴木とまったく違うらしい。鈴木は、「先師評」でも「修行」でも、去来が、「先師の評」を書くとき・祖述するときの態度に変わりがない、と考えております。牡年に向かって、書くと見えるものでさえ、去来が予想する読者の第一は、泉下の芭蕉であり、次いでは、筆者去来と一緒に、「先師の評」によって教育されてきた連衆です。モデルとしては、恐れ多いことながら、論語に拠ったに違いなかろうと空想いたしますが、三百年を少し過ぎたばかりで、まだ、有り難味を生じるには、しばらく時が必要なのでしょうか。

 

 鈴木の、余分な付けたりは別にして、「矛盾」について、氷心さんは、「先師評」p447では、「先師に曰く」であって、「修行」p503では、「先師曰く」とあるのによって、直ちに「二つの出所」があるとすることは出来ない、とお書きになったのですね。】と書いた、この読み方でよいでしょうか。

 

 

 

 

 

早速、ご返事をいただきましたので、安心しながら、次に移らせていただきます。7-20のお話の中に、

 

【「史邦宛の手紙」での発句の誉め方

「去来に対する直接の評語」での発句の誉め方

これに違いがある…

以上のようなことが有り得るでしょうか。(以下、手紙、直接)

または、

手紙で発句を誉め

直接付け句を誉める

あるいは

手紙では発句、付け句共に誉め

直接付け句のみを誉める

このようなことが有り得るでしょうか。】

 

とお書きになりました。(枠に入れる、「引用」の使い方がわからないので、このように書きます。)「このようなことが有る」訳がないでしょう!、鈴木が、「このようなことが有る」と、どこかに書いたと、お読みになったのか?、とまことに訝しく、まったく、上に引用させていただいた部分の意図を図りかねておりましたが、ア、これは氷心さんの文章のスタイルと言うべきものか、と、不十分ながら、理解できたような気がいたしますけれど‥。これが、

 

【仮に去来が直接芭蕉にあって披露したとすれば、

付け句のみ示すはずもなく、

ここに発句と付け句があって共に優れておれば

共に評し誉めるというのが自然だと思うのです。】

 

と続きましたが、これも、その通りでしょう!。しかし、これがさらに、

 

【去来抄に「先師文に曰く」と書く必要は生じなかったでありましょう。】

 

と、俄かに、結論らしき一行に至るのがわからない。この先を読めば判るのか、と目を凝らしても、どうしても、判らない。

 

 鈴木は、「去来抄に「先師文に曰く」と書く必要」(「先師評」p447において)が有ったと思っております。繰り返しになりますが、書いておきます。「去来が予想する読者の第一は、泉下の芭蕉であり、次いでは、筆者去来と一緒に、「先師の評」によって教育されてきた連衆です。」と書きましたが、この場合、泉下の芭蕉に次ぐ読者は、特に、史邦ですから、祖述者、かつ記録者である去来は、史邦の論功を記録する必要がありました。芭蕉の褒美が、いかなるものであり、いかなる状況・経緯で、史邦に与えられたかを書いた。この場合は、“文”のたった一文字の追加でしたが、褒美が入っていた器を示したものです。“文”とあって判る者は、あるいは史邦一人かもしれないが、ここは、これで十分なのです。現代の読者に、史邦の「論功」などは、何の意味もないようですが、鈴木の推論上では、そうでもない。

 

 先にも引用しましたが、「旅寝論」の、「一とせ人々集りて、木曾塚の句を吟じけるに、先師一句も取給はず。」のところ、「先師一句も取給はず」というのは、この日の句を一句も「猿蓑」に取らなかった、ということでしょうが、この発句を含めてのことか、とも空想しております。芭蕉は、「赤人の」句と、去来の脇も褒めた。去来にこの付合いの評を語り、さらには欠席した史邦のためには、その場で手紙を書いて去来に託した。しかし、「猿蓑」入集においては、この句が「猿蓑」出版の予祝、仲間褒めの句、いわば楽屋落ちであることによって、除かれたということでしょうか。それはともかく‥。

 

 もし、元禄の人々のように俳諧を作りたい(俳句ではなく)という、現代の読者があるとすれば、史邦その他連衆の「論功」には、何の意味もないことでしょう。性急な現代の読者は、芭蕉の俳諧そのものを、正しく知りたい。“文”の一字は、去来の祖述を、幾らかなりとも補強することさえない、何やら不審な文字、無視して読んでもよい一字、ということになるでしょう。去来といえども、論語をモデルとすれば、モデルに似ると信じる、プリミティブな著述家ではありえない。まして祖述者その人がこの本に登場するにおいては‥。去来がこういう未来の読者を(性急な、親密でない普通の読者を)、想定しなかった、とは言えないでしょう。この本に集めた、「先師の評」の一字一句が正しい、として読んでほしい、この時、去来の後ろ楯となるべき、泉下の芭蕉とその連衆を、この本に招来すべく、“文”の一字を置いた、と言うわけです。事は、去来の著述の能力にかかっている。去来の、未来の読者たる我々は、去来の方法を、去来の著述の能力の一部として、去来がこの構造を意図しているとして、受け入れるべきだ。

 

 氷心さん、残念ながら、あなたの、「さて、誤解を避けるために一言。」以下が、何について書いてあるのか、まったく判らない。おそらく、「氷心さんの文章のスタイル」を理解出来ていないためであろう、と思いますが。これについては、鈴木の力不足を嘆くばかり‥。

 

 さて、空想の細道は、いよいよ鈴木一人が通るほどの隘路となり、さしたる見ものも無くなりました。それに、ふと気付きますと、「受信箱」なるものに、苦言らしきお指図もあり、これで、退場することにいたします。氷心さん、そして弥生さん。お相手を、ありがとうございました。

 

 

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