
様々な時雨 ― 猿蓑の時雨の句について ―
猿蓑巻之一「冬」冒頭に、時雨の句が、十三句並んでいる。「去来抄」に、「猿蓑は新風の始め、時雨はこの集の眉目(美目)」と言った、競作である。去来が、眉目と言う意味は、巻頭の芭蕉の句、
初しぐれ猿も小蓑をほしげ也
に、呼応した諸家が、力を尽くして、猿蓑の新風を見せたという、人に顔があるように、秀麗かどうか、猿蓑の眉目はここにある、と言うのだ。諸家の力量は、どの巻の俳諧に表れても良いのだが、それぞれが力を尽くした面目の程は、まず開巻に、おのずから競作となったのである。
かつは、相い補う、共作である。芭蕉の唱導を、受けるべき個性は様々であって、眉目を整える、共同の意思が、要求された。十三句の集合に見られる、若干の形式美は、新風の内実を収める、容器となった。
初しぐれ猿も小簑をほしげ也 芭蕉
あれ聞けと時雨來る夜の鐘の聲 其角
時雨きや並びかねたるJぶね 千那
幾人かしぐれかけぬく勢田の橋 僧 丈艸
鑓持の猶振たつるしぐれ哉 膳所 正秀
廣澤やひとり時雨るゝ沼太良 史邦
舟人にぬかれて乘し時雨かな 尚白
伊賀の境に入て
なつかしや奈良の隣の一時雨 曾良
時雨るゝや黒木つむ屋の窓あかり 凡兆
馬かりて竹田の里や行しぐれ 大津 乙
だまされし星の光や小夜時雨 羽紅
新田に稗殼煙るしぐれ哉 膳所 昌房
他に、
いそがしや沖の時雨の眞帆片帆 去来
このうちから、本稿に選んだ句の作者は、小論、猿蓑「鳶の羽も」歌仙私解に登場する人々である。〔芭蕉については、別に小論の中に章を立てたので、省略した。〕其角は、猿蓑の序・「晋其角序」の筆者として、史邦・凡兆・去来は、「鳶の羽も」歌仙の連衆として、曾良は、「おくのほそ道」の芭蕉の同行として、羽紅は、凡兆の妻・芭蕉書簡の相手として、さらに、凡兆・去来は、猿蓑の選者として、また、千那は、去来の句に対照して、諸家の作風を探ることになった。残る作者を、蔑ろにするのではない。労力を惜しんで、小論の本筋に早く立ち戻るための、措置である。本稿は、小論、猿蓑「鳶の羽も」歌仙私解の一章となる予定である。
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一、「あれ聞けと時雨來る夜の鐘の聲 其角」について
「芭蕉七部集」白石悌三・上野洋三校注・新日本古典文学大系(以下「七部集・新大系」と呼ぶ)の注釈が、最も簡潔である。その全文。
夜半の寝ざめに時雨がぱらぱらとやって来た。折から聞える遠寺の鐘を「あれ聞け」とうながして、しみじみ聞き入る添い寝の二人。類船集「鐘−ねざめ・泊舟・三井寺」。季語は時雨。以下に続けて読むと「鐘の聲」は三井寺の鐘の響きを帯び、謡曲・三井寺「半夜の鐘の響は、客の船にや、通ふらん蓬窓雨したゝたりて馴れし汐路の楫枕」を想起する。
注釈が、「あれ聞け」に、添い寝する二人の言葉の響きを聞いて、謡曲の詞章、「客の船にや通ふらん、蓬窓雨したゝりて馴れし汐路の楫枕」を、そのまま遊里の趣味世界に転用できることを示し得た。其角の句が、「類船集」等の常套の付合いによって仕掛けておいた、注釈の小発見である。「あれ聞け」の響きの出典を、小唄俗曲の類に求めても、おそらく無駄なのだろう。客の船に届いた、「半夜の鐘の響」が伝えるものを、さらに聞いてみよう。
詞章は、謡曲「三井寺」に、「鐘之段」と通称されるくだりの一部分である。諸国・古今の寺の鐘尽くしである。引用の続きは、「浮き寝ぞ変はるこの海は、波風も静かにて、秋の夜すがら月澄む、三井寺の鐘ぞさやけき。」と、「唐詩選」の七言絶句、張継詩「楓橋夜泊」の景色を、近江八景とつき混ぜてしまう。
月落烏啼霜滿天 月落ち烏啼いて霜天に満つ
江楓漁火對愁眠 江楓 漁火 愁眠に対す
姑蘇城外寒山寺 姑蘇城外 寒山寺
夜半鐘聲到客船 夜半の鐘声 客船に到る
鐘尽くしは、この外にも、
暁の、妹背を惜しむきぬぎぬの、恨みを添ふる行くへにも、枕の鐘や響くらんまた待つ宵に、更け行く鐘の聲聞けば、飽かぬ別れの鳥は、物かはと詠ぜしも、恋路の便りの、音づれの聲と聞くものを。
注釈の目的に適いそうな鐘の音を並べている。しかし、寺の鐘の音が、初夜の鐘は、諸行無常と響いて、後夜の鐘は、是生滅法と響き、晨朝の響きは、生滅滅已、入相の鐘は、寂滅為楽と響いて、百八煩悩の眠りの中にある人を驚かすものであるから、女がせっかく寝いっている男を、「あれ聞け」と揺り起こしたりするかどうか。里心をつかせるだけだろう。もしこれが、時鐘ではなく、男を起こしてやるべき理由がある特別な鐘の音だとすれば、「鐘の段」は、以下の、狂女であるシテの「語り」に導かれて歌われるのだが、そこに語られた詩狂、苦吟の末に句を得て、嬉しさのあまりに、高楼に登って鐘を撞いたという詩人が、寝ている其角の知人であるのを、女が知っているのである。
今宵の月に鐘を撞くこと、狂人とてな厭ひ給ひそある詩に曰はく、「團々として海嶠を離れ、冉々として雲衢を出づ」、この後句なかりしかば、明月に向かって、心を澄まいて、「此夜一輪満てり、清光何れの処にか無からん」と、この句を設けて、あまりの嬉しさに心乱れ、高楼に登って鐘を撞く、人びといかにと咎めしかば、これは詩狂と答ふ、かほどの聖人なりしだに、月には乱るる心あり、ましてや拙き狂女なれば
「注解・謡曲全集」野上豊一郎編の脚注は、「團々として海嶠を離れ」という詩について、苦吟の詩人、推敲の賈島の詩だというが、テキストは、この詩及び逸話の正確な典拠は不明、とすべきだという。つまり、其角らも、鐘を撞いて自ら詩狂と名乗ったという詩人の逸話を、この、謡曲「三井寺」の語りだけから聞き知っている。今夜、添い寝の枕頭に届く鐘の音は、遥か三井寺の方角からとおぼしく、俳狂が秀句を得て嬉しくて撞き鳴らす鐘の音か。
それでも、女が、鐘の音を聞かせるのに男を起こすだろうか、となお疑わなくてはならない。謡曲の末尾近くにも、女物狂いが子供にめぐり逢えた嬉しさを語って、
常の契りには、別れの鐘と厭ひしに、親子のための契りには、鐘ゆゑに逢ふ夜なり、嬉しき鐘の聲かな。
とある。其角の色里の経験の深さを、測り損ねてはいけない。読者の遊びの初心ぶりを表明することになっては、作者の嘲笑を受けるばかりであろう。
「あれ聞け」という甲高い声は、女の声ではない。鐘の音に交じって、微かに聞こえたものだ。草臥れている女は、隣でぐっすり寝ていて、何をしても起きる気配がないというところか。若しくは、作者をいい気にさせることになろうが、後拾遺和歌集雑六誹諧歌1213 和泉式部
さなくてもねられぬ物をいとゞしく
つき驚かす鐘の音かな
と、女は、其角の精が強いのに辟易していたから、この鐘を合図にもう寝かせて欲しいところだ。
「あれ聞け」という声の調子を、読者はどこかで聞いている筈だ。家庭でも聞くが、平安の古典の中だ。枕草子(春曙抄)百三十七段「人ばへする物」の中の、珍しく父親がそばに居るので図に乗っている、子供の声に。
人ばへする物異なる事なき人の子の、かなしくしならはされたる。しはぶき。はづかしき人に物言はんとするにも、まづ先に立つ。あなたこなたに住む人の子どもの、四つ五つなるはあやにくだちて、物など取散らして損ふを、常は引きはられなど制せられて、心のまゝにもえならぬが、親の來たる所えて、ゆかしがりける物を、「あれ見せよや、母」など引き揺がすに、大人など物言ふとて、ふとも聞き入れねば、手づから引き探してい出でて見るこそいと憎けれ。それを「まさな」とばかり打ち言ひて、取りかく隠さで、「さなせそ。そこなふな」とばかり笑みて言ふ親も憎し。我えはしたなくも言はで見るこそ心もとなけれ。
「あれ聞け」と、江戸にまで響かせるのは、小蓑の句など、外ならぬ猿蓑の秀句の数々を聞けというのである。「常は引きはられなど制せられて、心のまゝにもえならぬが、親の來たる所えて」、普段は何ということもない俳諧師たちが、芭蕉が来て居るというので、図に乗っているのである。鐘を撞いているのは、どうやら芭蕉なのらしい。これは其角も、寝ては居られない。念のために、「三井寺」の梗概を、「日本古典文学大辞典」から写しておこう。
わが子を尋ねて駿河国から都に上った母(シテ)は清水寺に参籠して霊夢を受け、門前の男(アイ)の夢合せで三井寺へ急ぐ(前場)。頃しも中秋明月、三井寺では少年(子方)が寺僧たち(ワキ・ワキツレ)と共に月見をしている。月に誘われ、母は狂乱の姿で登場、琵琶湖上に響く鐘の音にひかれ、鐘を撞こうとするが咎められると、鐘の故事を数々語る。少年が名乗り出て親子は再会する(後場)。
「時雨」の語は、湖畔の情景を歌って、「筑波集」の二條良基の発句を引きながら、この謡曲に一ケ所出てくる。しかし、風の音が時雨の音に似ていると言うばかりだ。月はあくまでも澄んで、雨が来る気配は、一曲のどこにもない。鳰は「似」の掛言葉。
月は山、風ぞ時雨に鳰の海、風ぞ時雨に鳰の海、波も粟津の森見えて、海越しの、幽かに向かふ影なれど、月は真澄みの鏡山。
それでは、季語が、明月ではなく時雨、であるのは何故か。と尋ねるより、時雨の句を求められて、何故、謡曲「三井寺」と、枕草子「人ばへする物」に、取材したのか。親子の情愛を主題にした二編を出して、時雨れて来て、日も暮れようとするのに、なかなか帰って来ない親を待って詠んだ、子供の歌があるのを、思い出せという、「なぞ」である。京と湖南の人々が芭蕉の、仮の子供であるとしても、江戸の其角こそが、芭蕉の本当の子供なのである。後撰和歌集冬462
親のほかにまかりておそく歸りければいひつかはしける
人の女の八つになりける
神無月時雨ふるにも暮るゝ日を
きみ待つほどはながしとぞ思ふ
「時雨・来る」という使い方は少ないが、証歌は、「拾玉集(慈円)」「基俊集」などにある。必ずしも散文の用法と限らない。親は来ず、時雨の句の便りと、時雨の雨ばかりが来るのである。次の、「拾玉集」の歌が、其角がこっそりと隠している本歌だろう。
人はこず月をだにもと待つ空は
なほ時雨るるぞかぎりなりける
人は来ず、それでは月の出を待って、同じ月をそれぞれに見ようとしたが、時雨は、ひとりひとりに降って来る、それぞれの時雨なのである。
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二、「廣澤やひとり時雨るゝ沼太良 史邦」について
これも、「七部集・新大系」の注釈を写す。
○広沢 歌枕。洛西嵯峨、遍照寺山の南麓の池。参考、類船集「広沢−月見・春雨」。○沼太良 ヒシクイの一種。俚言集覧「近江・美濃のあたり雁の大いなるを沼太郎と云ふといへり」。▽その名も広沢の池の面に、群れをはずれたのか沼太郎が一羽、しょんぼりとして時雨にぬれている。沼太郎の擬人名に合わせて「ひとり」といった。季語は時雨。
月の名所、広沢池を、「都名所図会」竹村俊則校注が、衒学的な文章で紹介している。元禄の頃にも、名月に清遊する人々が盛んなことを、これによって推察しよう。
廣澤池は大沢(池)の巽なり。寛朝僧正この池をつくり給ふとなん。
「風雅」
春の歌の中に 前大納言爲家
廣澤の池の堤の柳かげ
みどりもふかく春雨ぞ降る
「後拾」
侍從の尼、廣澤にこもるときゝてつかはしける 藤原範永朝臣
山のはにかくれな果テそ秋の月
このよをだにも闇にまどはじ
「新千」
遍照寺にて月を見てよめる 從三位頼政
いにしへの人は汀に影たえて
月のみ澄める廣澤の池
中秋の月見んと都下の貴賤池の汀に臨んで夜もすがら盃をめぐらし、千里を共にしてくまなき空のけしきに、月も宿かす廣澤の池と詠みしも、今さらに千々に物悲しく、風は繊雲を掃って淨く、露は月明に降りて寒し。謝荘は月賦を作り、L亮は南樓に登る。和漢中秋の月を賞すること古今に變らず。
山家集にも広沢池の歌を詠む。
同心(池上月)を遍照寺にて人々よみけるに
宿しもつ月のひかりのをかしさは
いかにいへどもひろさはのいけ
廣澤にて人々月を翫ぶこと侍りしに(「西行法師家集」の詞書き)
いけにすむ月にかかれるうきぐもは
はらひのこせるみさびなりけり
広沢池にすむものは月、頼政の歌によれば、「月のみ澄める廣澤の池」、月だけが、池にすむ。しかし、鴛鴦、にほどりなど水鳥の類いも、池に住むものだった。古今和歌集恋歌三672 よみ人しらず
池にすむ名ををし鳥の水をあさみ
隠るとすれどあらはれにけり
そして、古今和歌集恋歌三662 みつね
冬の池にすむにほどりのつれもなく
そこにかよふと人にしらすな
沼太郎・菱食も、冬の池に住む水鳥の類いであると、句は言う。これがひとり、「つれもなく」、時雨に逢う。それと、辞書によって、「沼太郎」を検索すれば、「鼈(すっぽん)の異称。菱食(ひしくい・ガンの一種)の異称。」と出ている。鼈もまた、池の住人である。月を、「二つなきもの」、「似たる物なき」とも詠む。古今和歌集雑歌上881
池に月の見えけるをよめる きのつらゆき
ふたつなきものと思ひしをみなそこに
山のはならでいづる月影
そして、拾遺和歌集戀三791 貫之
照る月も影みなそこにうつりけり
似たる物なき戀もするかな
スッポンを、水底に写る月影に見立てるべくもないが、月と鼈は二つとも丸いということだけながら、水にスム、(住むと澄む)ので、「月とすっぽん」の間柄なのである。鼈を、鴛鴦と比較すると、名を惜しまず、つがいにはならず、底に隠れて、顕れることがない。「月とすっぽん」の俚諺に似せて、「鴛鴦と鼈」も、同じ池に住みながら、色気のあるのと無いの、の譬えにできるだろうか。沼太郎が、すなわち水面を遊泳する菱食とばかり見るのは、時雨の雨足の所為で水底が見えないのだ。もし、広沢池に照る月の明察があれば、この句の浅い底にうごめく、黒くて丸い鼈が、見透しとなるだろう。
鼈を、歌に捜すことはできないが、詩にならばある。これの味噌漬が、とても美味な酒の肴である。詩によって、これを自称するのは、作者が名都の俳諧の蕩児たちのために、酒の肴になったと言うのである。「文選」巻二十七楽府上・曹子建(曹植)楽府四首の内、「名都篇」、洛陽の貴公子たちの優雅な生活を描いた楽府詩。「中国名詩選」松枝茂夫編より。
名都多妖女 名都 妖女多く、
京洛出少年 京洛 少年を出す。
寶劍直千金 宝剣は直 千金、
被服麗且鮮 被服は麗く且つ鮮かなり。
鬪鷄東郊道 鶏を闘わす 東郊の道、
走馬長楸間 馬を走らす 長楸の間。
馳騁未及半 馳騁 未だよく半ばせざるに、
雙兔過我前 双兎 我が前を過ぐ。
攬弓捷鳴鏑 弓を攬り鳴鏑を捷え、
長驅上南山 長駆 南山に上る。
左挽因右發 左に挽き因って右に発し、
一縦兩禽連 一たび縱って 両禽を連ぬ。
餘巧未及展 余巧 未だ展ぶるに及ばず、
仰手接飛鳶 手を仰げて飛鳶を接る。
観者咸稱善 観る者 咸な善しと称い、
衆工歸我妍 衆工 我に妍を帰す。
歸來宴平樂 帰来して平楽に宴す、
美酒斗十千 美酒は斗 十千なり。
膾鯉M胎鰕 鯉を膾にし、胎鰕をMにし、
寒鼈炙熊蹯 鼈を寒にし、熊蹯を炙る。
鳴儔嘯匹侶 儔に鳴き 匹侶と嘯き、
列坐竟長莚 坐に列して長莚を竟む。
連翩撃鞠壌 連翩 鞠と壌を撃ち、
巧捷惟萬端 巧捷 惟れ万端なり。
白日西南馳 白日 西南に馳せ、
光景不可攀 光景 攀む可からず。
雲散還城邑 雲散して城邑に還り、
清晨復來還 清晨 復た来り還らん。
全て、この詩のように、京洛の俳諧の日々が過ぎて行くのでないことは、言うまでもないが、せめて、こんなに楽しい詩を捜してみせた。それに、「鳶の羽も」歌仙で、芭蕉が甘やかした鳶を、「余巧 未だ展ぶるに及ばず、手を仰げて飛鳶を接る。観る者 咸な善しと称い、衆工 我に妍を帰す。」と、この詩が退治しているのは、半ば、史邦の功績である。
「ひとり時雨るゝ」には、本歌がある。以下の詞書きは、外して使う。新古今和歌集哀傷歌764
年頃住み侍りける女の、身まかりにける四十九日はてて、猶山里に籠り居てよ侍りける 左京大夫顯輔
誰もみな花のみやこに散りはてて
ひとりしぐるる秋の山里
「広沢や」、月の宴はてて、人々は雲散した。時雨さえ降る池の辺りに、食いついたら離れない、スッポンのような自分一人は、猿蓑の、尽きてしまった興趣を懐かしんで、涙に暮れるのである。楽府詩「名都篇」の享楽の日々も、絵空事に違いないが、どうにでも料理されようという、史邦一人を食わずに残したままでは、俳名高い連衆も、広沢池のように、名のみであろうか。
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三、「 伊賀の境に入りて
なつかしや奈良の隣の一時雨 曾良」について
これも始めに、「七部集・新大系」の注釈を写す。
○伊賀の境に入りて 奈良街道の加太越(かぶとごえ)。曾良は元禄二年(1689)十月六日伊勢長島を立ち、七日伊賀上野に芭蕉を訪ねた。その日記に六日「時雨ス、頓テ止ム、風烈シ。」、七日「風烈シ」。○一時雨 曾良書留「時雨哉」。▽奈良街道の国境の峠を越えて師の故郷に入る。ここはもう山ひとつ隔てて古都奈良と隣合わせの隠れ里。そう思うとはじめての土地ながらなつかしい。折しもその山の方から時雨の雲がやって来て、盆地に一降りして過ぎた。「な」の韻を踏む。季語は時雨。
曾良「俳諧書留」には、異なる句形で、
なつかしや奈良の隣の時雨哉
として出ている。「同」と(直前の句には「前書」とだけ)傍書してあり、前書の省略を示したのか、もしくは、後に付加すべきことを覚書きしたものか。「芭蕉翁全伝」には、
(芭蕉は)李下を伴て伊賀に帰り霜月迄逗留。李下は一宿、路通は暫くあり。曾良も來り、東に別日、ならの隣のしぐれかなといふ句あり。
とあり、注釈は、師の故郷に入る日の感慨としているが、「東に別日」曾良が東都に旅立つ日の作と伝えるのと、なぜか異なる。作句の日付について、前書について、「時雨哉」と猿蓑の「一時雨」の、句形の相違(芭蕉が改作したとする注釈がある)について、改作の時期について等々、解らないことが多い。
「奈良の隣」は、前書によって、伊賀のことである。古今和歌集春歌下90
ならのみかどの御歌
ふるさととなりにしならのみやこにも
色はかはらず花はさきけり
と、詠んで以来、奈良の旧都は、「ふるさと」と呼ばれる。そして、地理的には、「奈良の隣」である京も、吉野の山も、「ふるさと」と呼ばれることがある。すなわち、奈良ばかりか、奈良の隣も、歌では、「ふるさと」なのだ。句は、「奈良」、または「ふるさと」の用法について、およその分析を要求しているので、以下に、「歌枕歌ことば辞典」片桐洋一などによって、簡単に見て置く。
詞書きに、「奈良の京」とあるので、しらゆきが(降り)つもる・「ふる里」が奈良だと知られる歌がある。古今和歌集冬歌325
ならの京にまかれりける時に、やどれりける所にてよめる 坂上これのり
みよしのの山のしらゆきつもるらし