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五、「だまされし星の光や小夜時雨  羽紅」について

 

 

 

 「七部集・新大系」の注は短い。

 

▽夜ふけて軒をうつ時雨にまさかと耳を疑った、あんなにきれいな星空だったのに。季語は小夜時雨。

 

 羽紅の略歴を、これも「七部集・新大系」の「人名索引」から写しておく。「京の人。名は、とめ。元禄四年(1691)剃髪して、羽紅尼と号す。凡兆の妻。初出は「あら野」。「荒小田」「嵯峨日記」等に入る。元禄三・四年、在京中の芭蕉と親しく交わる。」

 「あら野」での作者名は、〈京とめ〉。この「小夜時雨」の句も、在俗時の、元禄三年冬、〈とめ〉の時の句である。剃髪の事情は、猿蓑の句、

 

  わがみかよはくやまひがちなりければ、髪けづらんも物むつかしと、

笄もくしも昔やちり椿  羽紅

 

の前書に、病弱なためとあるだけで、これ以上は分からない。したがって、以下に、「小夜時雨」の句から、夫婦仲について芳しからぬ空想をあれこれとしても、いかなる事実に近付こうとするものではない。まだ、黒髪を櫛けずるべき年齡なのに、椿のように咲いたままで散って、そして散ったままの形で咲いている、と、羽紅が言うことをのみ信じて味方し、滑稽の責任を全て凡兆に負わせてみようとするのだ

 「だまされし」とは、誰が羽紅を騙したのか。外ならぬ凡兆が、妻を騙したのだ。帰ってくると約束した筈の夫が、帰って来ない。遊びの中身が、言うこととしている事が違う。俳諧だ、清遊だと言いながら友達が違う。在原業平になれなくても、嘘はつかないで。

 以下に、伊勢物語八十七段を写す。この中の、「かのあるじのをとこ」が、「その家の前の海のほとり」と「布引の瀧」で、歌を詠み、「遊びありきて」、帰ろうとして日が暮れてしまった。家の方を見やると、海人のたく漁火がたくさん見えるので、「わが住むかた」にも灯るだろう明かりを思って詠んだ、

 

晴るゝ夜の星か河邊の螢かも

          わが住むかたの海人のたく火か

 

を一首、提示すれば目的は達するのだが、この歌と、この歌を詠んだ男に憧れる女の気持ちを推し量るには、全文を味わうべきだ。

 

むかし、をとこ、津の國、うばらの郡、蘆屋の里にしるよしして、いきて住みけり。むかしの歌に、

  蘆の屋のなだの鹽燒いとまなみ

           黄楊の小櫛もさゝず來にけり

とよみけるぞ、この里をよみける。こゝをなむ蘆屋の灘とはいひける。このをとこなま宮づかへしければ、それをたよりにて、衛府の佐どもあつまり來にけり。このをとこのこのかみも衛府の督なりけり。その家の前の海のほとりに遊びありきて、「いざ、この山のかみにありといふ布引の瀧見にのぼらむ」といひて、のぼりて見るに、その瀧、物よりことなり。長さ二十丈、廣さ五丈ばかりなる石のおもて、白絹に岩をつゝめらむやうになむありける。さる瀧のかみに、わらふだの大きさして、さし出でたる石あり。その石のうへに走りかゝる水は、小柑子、栗の大きさにてこぼれ落つ。そこなる人みな瀧の歌よます。かの衛府の督まづよむ。

  わが世をばけふかあすかと待つかひの

              涙の瀧といづれ高けむ

あるじ、次によむ。

  ぬき亂る人こそあるらし白玉の

             まなくも散るか袖のせばきに

とよめりければ、かたへの人、笑うことにやありけむ、この歌にめでてやみにけり。

歸りくる道とほくて、うせにし宮内卿もちよしが家の前來るに、日暮れぬ。やどりの方を見やれば、海人の漁火多く見ゆるに、かのあるじのをとこよむ。

  晴るゝ夜の星か河邊の螢かも

            わが住むかたの海人のたく火か

とよみて、家にかへりきぬ。その夜、南の風吹きて、浪いと高し。つとめて、その家の女の子ども出でて、浮海松の浪によせられたる拾ひて、家の内に持て來ぬ。女がたより、その海松を高杯にもりて、柏をおほひて出したる、柏に書けり。

  渡つ海のかざしにさすといはふ藻も

             君がためにはをしまざりけり

田舎人の歌にては、あまれりや、足らずや。

 

 文字どおり海人の子である、蘆屋の女は、業平の幾人かいるだろう妻妾の一人であるが、その海辺の家に、彼の友人達がいつも集まって遊ぶことがあり、この度は、彼の兄・行平の訪問があったのである。男たちが、鬱屈した思いを捨てに来た、逍遙の幾日かが、女を公的に(限定的にだが)妻として処遇し、女が妻としての器量を見せるべき好機となった。

 しかし、「女方から出した歌(「渡つ海の」の歌)も実は男の作であろう」という説があるのだ(阿部俊子・講談社学術文庫)。男が代作した歌を、まんまと妻の歌だと、兄にも、友人らにも誤認させたと言うのだろうか。もしくは、誤認するはずはないので、騙すはずもないのだとすれば、それならば、末尾の、「田舎人の歌にては、あまれりや、足らずや」を、「この言葉自体が矛盾を含む〈田舎人の歌〉で、かつ〈私の妻の歌〉なるものを作って、君を歓迎するという、戯れの歌は、凝り過ぎでしょうか、それとも駄作でしょうか」とでも、読むのだろうか。「実は男の作であろう」という説は、この小さな物語の女から、言葉をすっかり削り取る。とすれば、男が、夕べの灯を見て、家に帰ろうとして詠んだ歌、

 

晴るゝ夜の星か河邊の螢かも

          わが住むかたの海人のたく火か

 

の、「わが住むかた」は、男が遊ぶ美しい人形の家となる。阿部俊子の説には、どんな論拠があるのだろうか。またその説には、この段の正しい受容についてどんな効験があるのだろうか、知らない。論拠らしいものを、注釈の〈補説〉に捜せば、「晴るゝ夜の」歌と、「渡つ海の」の歌のみたて・比喩が巧みで、かつ同工の技巧であるという指摘があるが、不充分だろう。

 蘆屋の女の歌は、伊勢物語三十三段にもある。ここでも、「ゐなか人の事にては、よしやあしや」と、蘆屋の女に味方して、もしくは女の歌を褒めてやりたい男にかわって、物語が、読者に問うのだ。よみ人しらずの古歌を巧みに使った作者が、虚構の成否を尋ねている、ということではない。ここで歌を詠んだ女が、八十七段では、男に歌を奪われたと考える、どんな必然性も思いよらない。三十三段の歌の場合にも、技巧として、男の歌が〈まし−ます〉と使うと、女の歌が〈さす−さし〉と同工で和するのは、贈答の常態であって、八十七段の二首が、贈答の性格を帯びているとすれば、二首の歌柄の釣り合いを保持しようとして、作風と趣向が似て見えるのは自然なことだろう。

 

むかし、をとこ、津の國、うばらの郡にかよひける女、このたびいきては、又は來じと思へるけしきなれば、をとこ

  葦邊より滿ちくる潮のいやましに

            君に心を思ひますかな

返し

  こもり江に思ふ心をいかでかは

           舟さす棹のさして知るべき

ゐなか人の事にては、よしやあしや。

 

 「渡つ海の」の歌は、夫たちの行楽の日に、いわば褻の日の人々の交友に、隠り江に思う妻が、神誉めの、晴れの歌によって、参加したのだ。男の兄と友人たちが、すでに三十三段で評判の女の歌を所望し、かつ男が、妻に歌を薦めたのである。「渡つ海の」の歌は、このように読まれなければならない。類歌としては、後撰和歌集離別羈旅1361

 

  海のほとりにて、これかれ逍遥し侍りけるついでに        小町

花さきて實ならぬものはわたつうみの

           かざしにさせる沖つ白波

 

がある。これに比べて女の歌は、わたつうみの藻の、花も咲かず実を結ばなくても良いという歌だ。

 騙されたのは、一度や二度ではないが、そもそもの始めに、元禄三年夏の〈とめ〉には、この物語の中に私がいると、思うことがあったのである。先に示した「略歴」の中に、「元禄三・四年、在京中の芭蕉と親しく交わる」とあるところを、芭蕉の書簡に捜せば、その〔五五〕曲水宛(元禄三年六月三十日付)が詳しい。

 

(略)甚暑京へおもひかけず奉存候處に、去来・加生(凡兆の前号)数々状さし越候故、六月始メ出京、三五日と存候處におもひの外長滯留、十八日迄罷過申候。(略)今夏は去来へも不参、加生方に休ひ、去来与昼夜申談候。加生、理屈は破りかね、是には困じ候得ども、志は真実を誉申候。夫婦ながらの厚情不淺候段々云て、慰之爲見物にも折々出申候。(略)

 

 凡兆に連れ出されて、「慰之爲見物にも折々出申候」のところは、芭蕉の、八月の加生(凡兆)宛の書簡や、「四条の河原涼み」の句文にあり、「去来与昼夜申談候」のところは、「嵯峨日記」(元禄四年五月二十日のくだり)に書いている。次の、「四国の人」の、芭蕉・去来・凡兆の外のもう一人は、羽紅だと読みたいが、「風俗文選」にある、去来の「丈草誄」によれば、丈草であるらしい。

 

(略)去年の夏凡兆が宅に伏したるに、二畳の蚊帳に、四国の人伏たり。おもふ事よつにして夢もまた四種と書捨たる事共など、云出してわらひぬ。(略)

 

 芭蕉と凡兆の、勢田の蛍見の句も、猿蓑に並んでいる。芭蕉が幻住庵にいた時の遊びである。

 

  勢田の蛍見二句

闇の夜や子共泣出す蛍ぶね    凡兆

ほたる見や船頭酔ておぼつかな  芭蕉

 

 羽紅の句が、元禄三年の夏について、なにも語らなくても、現代の読者のために、これらの芭蕉の書簡や句文が、それに代用される。もしくは、猿蓑に集まった俳諧師らが、伊勢物語の人々に相当するとすれば、蘆屋の女の、「渡つ海の」の歌にあたる句が、羽紅のこの句と、「梅若菜」歌仙の揚句だと言えるだろうか。または、愛すべき女性一般の騙されやすい心情を想像するならば、それでも、句を味わうのに十分なのである。「小夜時雨」は、今夜も帰って来ないことに決まった時刻になって降る時雨だ。家にいる女は泣かないと思ったら間違いである。後拾遺和歌集恋四816 相模

 

神な月夜はの時雨にことよせて

         片しく袖をほしぞわづらふ

 

 しかし、蘆屋の女にとって、伊勢物語八十七段の物語が、生涯に一度の晴れのことだと思えば、業平については知らず、普段の凡兆が、晴るゝ夜の星の光を欺いて、帰らないことがあっても、大目に見てやりたい。

 

 

 

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六、「いそがしや沖の時雨の真帆片帆  去来」について

 

 

 

 これも「七部集・新大系」の注を写す。

 

▽沖がしぐれてきたらしく、出漁の舟が、真帆にしたり片帆にしたりあわただしく動いている。これも湖畔からの遠望か。去来抄「去来曰、猿蓑は新風の始め、時雨は此集の美目なるに、此句し損ひ侍る。たゞ、有明や片帆にうけて一時雨といはば、いそがしやも真帆もその内にこもりて、句の走りよく心の粘り少なからん。先師曰、沖の時雨といふも又一ふしにてよし。されど句ははるかに劣り侍ると也」。季語は時雨。

 

 時雨に伴う風を、ある舟は真帆に受けて左に、ある舟は片帆に受けて右に走る、湖畔の眺望であろう。海浜の眺めかもしれない。新古今和歌集羈旅歌918(紫式部集二二、詞書きは「夕立しぬべしとて、空の曇りて、ひらめくに」

 

湖の舟にて、夕立のしぬべきよし申しけるを聞きてよみ侍りけ  紫式部

かき曇り夕立つなみの荒ければ

          浮きたる舟ぞしづごころなき

 

 紫式部の歌は、湖の高波に弄ばれる舟旅の人の、稲妻さえ光って、「しづごころなき」落ち着かない心を詠んだ。恐ろしさに、舟旅の人には見る余裕もないが、夕立に対応して、「浮きたる舟」をいそがしく操る、舟人の姿があるはずなのである。枕草子(春曙抄)二百七十段「舟の路」の描写も楽しい。岸辺にいる人に、それが良く見える。舟人・海人の忙しい生業を想像して、世の中の人の「しわざ」に敷延して詠んだ歌がある。新古今和歌集雑歌下1702

 

  千五百番歌合に              攝政太政大臣(藤原良經)

舟のうち波の下にぞ老いにける

         あまのしわざも暇なの世や

 

海人の生活を見て、少しながらも理解した人の歌ではない。多くの古歌に詠む海人の姿が、理解の代わりをを果しているのである。去来が見る景色も、良經の方法を借りて作った。「いとまなみ」の歌は、先に伊勢物語八十七段の冒頭で見た。鹽焼も、「あまのしわざ」であった。

 

蘆の屋のなだの鹽焼いとまなみ

          黄楊の小櫛もさゝず來にけり

 

万葉集巻三278 石川少郎の歌一首、もある(季吟「万葉拾穂抄」を参考)。

 

志可の海人は藻刈り鹽焼き暇なみ

            髪梳の小櫛取りも見なくに

 

「舟のうち」は海士の、「波の下」は、彼に命綱を預けて潜る海女の生業を、併せて「あまのしわざ」という。一方、「舟のうち波の上」に世を過ごす、「海人の子」の虚業がある。和漢朗詠集下遊女720

 

翆帳紅閨 萬事の禮法異なりといへども

舟の中浪の上 一生の歡會これ同じ   以言

翠帳紅閨 万事之礼法雖異 舟中浪上 一生之歡會是同   以言

 

 「本朝文粋」巻第九人倫の詩序、「見遊女 遊女を見る」江(大江)以言(引用を省く)の一節である。和漢朗詠集下にこれとともに、遊女722海人詠がある。

 

白浪のよするなぎさによをすぐす

          海人の子なればやどもさだめず

 

この歌は、新古今和歌集雑歌下1701として載って、先の良經の歌の直前の歌である。ともに海人の舟の中に、世を過ごす、虚業と生業とが並んでいる。

 また、新古今和歌集切出歌(御室本等所掲切出歌904)に、

 

  延喜御時、屏風歌                       躬恆

浪の上にほのに見えつつ行く舟は

           うら吹く風のしるべなりけり

 

がある。音のみして大空を吹く風も、湖上に(もしくは海上に)目を転ずれば、波の上を、忙しく左右する舟が、ほのかに帆を見せて行くので、目にも見える。浦に吹く風は、いつもは見えない、世の裏側にも吹く風であることを教えている。

 「あまのしわざ」は、「曾丹集(曾禰好忠集)」の、「毎月集」の序の歌にもある。

 

新玉の年の日數を算ふとてすがの根の長しと思ふ春の日の日すがら眼をば霞む山べに極め盡し心をばすぐす月日にたぐへつゝ風に片よる青柳の暇のひまもなきまでに鳥の鳴くねを聞けば我も哀とよそに聞き花の笑めるを見れば誰もをかしと見るらめど人は賢き顔をつくり我ははかなきことを残しおきて花の散る春のあした木のはのおつる秋の夕べ月の明けき夏のよ風の寂しき冬の暁までをこなれど親のつけてし名にしおはゞなほ好忠と人も見るがに

  よさの浦に老の波數算つる

           蜑のし業と人もみよとぞ

 

「蜑のし業」を、「毎月集」三百六十首の、「暇のひまもなきまでに│はかなきことを残しおきて」という、歌人のしわざ、そのことに準えた。和泉式部も詠んだ。和泉式部集下679

 

  風にさはりて、舟とどめたる所に、貝ひろひてもてきたるをみて

みる人もなぎさにをればかひなしと

           おもはぬ海人のしわざなるべし

 

拾う貝は、蛤だろうか。そのしわざを、見る人もない渚にいるので甲斐がないと、思わない、誰に見せようとするのではない、海人のしわざよ。日常は、人に見せようとしてするのではない、海人のしわざなのだ。見る人が、「風にさはりて、舟とどめたる」渚にいれば、見せる。歌人のしわざも、このように、「はかなきことを残」すのみである。沖を走る、真帆・片帆も、渚にいる人に見せる、「海人のしわざ」なのであった。そして、和泉式部集下572(新拾遺和歌集戀歌二1026

 

よさの海のあまのしわざとみし物を

            さもわが焼くとしほたるるかな

 

去来が、沖の「あまのしわざ」を眺めつつ、涙に暮れて貝を拾う。このような、「あまのしわざ」を、遥かな他所事にして見てきたが、猿蓑の渚にいて、我が焼く藻・役目と課すことになっては、意気阻喪するばかりなのである。貝が、貝合わせに使う蛤ならば、山家集の、周知の歌がある。あちこちの浦の渚に、伊勢の二見浦の浜辺でも、

 

伊勢のふたみのうらに、さるやうなる女の童どものあつまりて、わざとのこととおぼしく、蛤をとりあつめけるを、いふかひなき蜑人こそあらめ、うたてきことなりと申しければ、貝合に京より人の申させ給ひたれば、えりつつとるなりと申しけるに

いまぞしるふた見の浦のはまぐりを

           かひあはせとておほふなりけり

 

西行には、「さるやうなる女の童ども」と見える、俳諧者どもが、蜑人でもないのに、「貝合に京より人の申させ給ひたれば、選りつつ採る」、うたてき姿があった。

 沖の時雨は、芭蕉が、「又一ふしにてよし」という工夫であった。枕草子(春曙抄)二百二十四段は、

 

ただ過ぎに過ぐる物。帆あげた舟。人の齡。春夏秋冬。

 

という。沖の時雨は、真帆片帆の景色として、新古今和歌集冬歌590

 

  千五百番歌合に、冬歌                  二條院讃岐

世にふれば苦しきものをまきの屋に

           やすくも過ぐる初時雨かな

 

の、平安女流の感慨にも拘わらず、良經の歌の、やすくは過ぎぬ、「暇なの世や」という断定をそのまま目に見るようだ。

 

 

 

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七、「時雨きや並びかねたる魦ぶね  千那」について

 

 

 「七部集・新大系」が、去来句の真帆片帆について、「これも湖畔からの遠望か」といったのは、千那の句、

 

時雨きや並びかねたるぶね

 

に注して、「大景の俯瞰図」とするのに比べるのであろう。その通りなら二つの句は、等類ではないかという疑いが兆すが、はたしてどうであろうか。「広辞苑」から、「近江八景」を引くと、

 

近江国琵琶湖の南西海岸にある八勝景。中国の瀟湘八景に擬して定めたもの。比良の暮雪、矢橋の帰帆、石山の秋月、瀬田の夕照、三井の晩鐘、堅田の落雁、粟津の晴嵐、唐崎の夜雨。(洞庭湖の南、瀟湘八景は、平沙落雁、遠浦帰帆、山市晴嵐、江天暮雪、洞庭秋月、瀟湘夜雨、煙寺晩鐘、漁村夕照の総称)

 

である。時雨の句の競作は、暮雪・帰帆・秋月・夕照・晩鐘・落雁・晴嵐・夜雨を取りやめて、近江の勝景の地を、京も取り混ぜ、芭蕉と曾良の伊賀も入れて、時雨の景一色に見替えたものといえよう。芭蕉が、「おくの細道」の旅で、金沢から越路の名所を、全て明月の名どころとして歩いた、「芭蕉翁月一夜十五句(荊口句帳)」の例を見るべきだ。競作を解釈するのに、史邦の句、北嵯峨にある広沢池の沼太郎を、「堅田の落雁」に見立てるなどの無理をせずとも、作者それぞれの思い入れのある土地が、時雨の景のために選ばれているのである。去来の句は、琵琶湖だろうと想像されるだけだが、千那の句は、とあるのによって堅田の景色である。これもやはり、「七部集・新大系」の注を写す。

 

○きや 過去の助動詞キと詠嘆の助詞ヤ。肖柏伝書「時雨きや雲に露けき山路哉 此きやと申すは、けりと申すてにはにて候間、哉とも留り候」。○ 篗纑輪「 イサヾ〈江湖ノ産魚ナリ。…冬月、和邇・堅田ノ漁人多クコレヲ取ル〉」。作者は堅田の人。▽沖合はるかに網を曳く船団がにわかに列を乱してあわただしく動いている。時雨が来たな。大景の俯瞰図。参考、夫木和歌抄「雲のゆく堅田の沖やしぐるらんやゝ影しめる蜑のいさり火」。季語は時雨・

 

 千那は、近江堅田の真宗本福寺十一世住職である。殺生に拘わる魚漁に取材したのには、些かの意味があるだろう。句に作る景色は、去来の句と異なり、千那が日ごろ親しい実景だから、注釈が、の知識について、「篗纑輪」なる本を捜索する労は有効である。漁の方法についても、千那が見た程のことは、調査すべきだ。しかし、「並びかねたる」舟に目を留めたのは、「網を曳く船団」の人々に詳しくて、親しみがあるからではない。句を、次の山家集の歌に、また西行の海濱の旅の歌群に並べて、読んで貰うつもりがあるのだ。

 

沖のかたより風のあしきとて、かつをと申す魚つりけるふねどものかへりけるに

いらござきかつをつりふねならびうきて

            はがちの波にうかびてぞよる

 

 伊良湖崎の、鰹釣り舟の群れは、並び浮かんで、西北の風(はがち)の高波に浮かんで、岸に寄る。また、備前国兒島に渡ったとき、海糠(あみ)漁を見て詠んだ歌。

 

備前国に小島と申す島にわたりたりけるに、あみと申す物とる所はおのおのわれわれしめて長き竿に袋をつけてたてわたすなり。その竿のたてはじめをば一の竿とぞなづけたる。なかにとしたかきあま人のたてそむるなり。たつると申すなることばきき侍りしこそ、涙こぼれて申すばかりなくおぼえてよめる

たてそむるあみとる浦のはつさほは

           つみのなかにもすぐれたるらむ

 

テキスト頭注から、西行の涙の故をそのまま写せば、「たつるという言葉は誓ひをたてる、願ひをたてるなど、神佛に誓願を發する語であるのに、心ない漁夫が罪業深い殺生のしわざに用ゐることの心外さに涙がこぼれるといふのである」。いくら僧侶ではあっても、俳諧師である千那が、「長き竿に袋をつけてたてわたす」、海糠漁の装置に涙するという詞書きが照らす、滑稽の明かりを見逃す筈があろうか。そして、この詞書きの希有な勿体なさを見るにつけては微笑してしまう罪深さを、恥じることだろう。千那は、かくも純粋な道心に並びかねるのである。伊良湖崎の鰹釣り舟と句のぶね、琵琶湖の漁舟は、微小な魚に併せて頼りない小舟である。

 夕暮れが迫り、日ごろは湖上に、陸続として帰帆を連ねるぶねが、並びかねている。時雨が来たな。帆が、時雨の雨に濡れて、操船が不自由になるのだと思われる。時雨が、事の脆弱さをあらわにする。猿蓑に並ぶべき、時雨の課題句が露呈させる、作者の器量を、景色とした。

 時雨の歌で、「 かねて」の語を使って、 しようとしても力及ばずに、と詠む歌は、新古今和歌集に、四首ある。「染めかねて」が二首と、「あらそひかねて」が二首。冬歌577

 

  十月ばかり、ときはの森を過ぐとて             能因法師

時雨の雨染めかねてけり山城の

           ときはの杜のまきの下葉は

 

戀歌1030

 

  百首歌奉りし時よめる                 前大僧正慈圓