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九(追加)、「馬かりて竹田の里や行しぐれ 大津 乙пvについて
始めに、「七部集・新体系」の注釈を写す。
○竹田 山城の歌枕。今の京都市伏見区内。拾遺都名所絵図の挿絵に「竹田街道を通ふ車牛は日毎に伏見より都へ貨物を積みゆくなり」。類船集「竹田―車借(クルマカシ)」。作者は大津の荷問屋。▽駄賃馬を借りて竹田街道を行く折から時雨が通り過ぎてゆく。季語はしぐれ。
竹田の原の歌枕は、繁華な街道脇一帯の地名が名所でもあるという、京ならではのことだ。玉葉恋歌一1329 坂上郎女(万葉四巻760の歌、詞書きは「大伴坂上郎女従竹
田庄贈女子大嬢歌二首」、四句「間なく時なし」)。
うちわたすたけたのはらに鳴たつの
まなし時なしわかこふらくは
ほかにこの歌による、後宇多院の歌もある。続千載賀歌2145 詞書きは「百首歌めされしついてに」。
契りをかむわか万代の友なれや
竹田の原の鶴のもろ声
めでたき時雨の句を、「めされしついてに」、大津の荷問屋のテリトリーにある歌枕を、かねて用意して使ったものか。そのテリトリー周辺を想像すれば、大津街道(東海道の一部)は、三条大橋に至る洛中を避けて、大津から伏見へ抜ける道である。逢坂山を越えたところ、追分で洛中への道から南に分かれ、さらに山科の小野から西進して、深草を経て伏見に達する。次いで、東海道は、淀、枚方、守口を経て大阪に至る。また竹田街道は、宇治川傍の、今の伏見港公園から北上し、鴨川の勧進橋を過ぎて、京都駅に至る道。東海道筋の貨物を洛中に運んだ。京阪の人々には自明の地理を述べたが、もしや不正確かもしれない。
右記のように「竹田の原」・「竹田庄」(詞書きに)は歌にあるが、「竹田の里」は見えない。句は、その馬とともに、近隣の「木幡の里」に対比させて言う。拾遺雑恋1243(万葉十一巻2425 山科の木幡の山を馬はあれど徒歩より我が来し汝を思ひかねて 人麿)
山科の木幡の里に馬はあれど
歩行よりぞ来る君を思へば
これを俊頼随脳が「心ざしを見せむと詠める歌」の中に揚げる。その俊頼の歌。千載雑歌下物名1173 かるかや 源俊頼朝臣。
我が駒をしばしとかるか山城の
木幡の里にありと答えよ
五句「答えよ」は、馬に乗らずに歩けの語気を強めた取り次ぎへの表現(千載・新大系、松野陽一注より)。つまりこの「かるかや」の物名歌は、人麿歌を下敷きにして、「馬は貸せぬ」が趣意のなぞ歌であった。一方、乙рェ竹田の里に置いてある馬は、求めがあれば誰にでも用立てるものだ。乙щ蛯フ方こそが「心ざしを見せむと詠める」句なのかもしれない。竹田街道が、東海道を市中に連絡する。それはあたかも、竹田という歌枕が、俳諧・風雅の通路となって、乙рフテリトリーを、その中心に連絡する、かのようだ。時雨句を作れという京の連衆の誘いは、この通路を往来する駄賃馬のように私を利用して(自由に使ってくれ)、降り過ぎて行くしぐれなのか。もしや時雨の、しばしの程のものなのであろうか、京の連衆の猿蓑の企画は。
上五「馬かりて」には、この句にしばらく先立つ類句がある。「卯辰集」(元禄四年卯月刊)のいわゆる「山中三両吟」の北枝の発句。これと等類ならば、直ちに除かれていた句だった。
元禄二の秋、翁をおくりて山中
温泉に遊ぶ。三両吟
馬かりて燕追行わかれかな 北枝
花野みだるゝ山の曲め 曽良
月よしと相撲に袴踏みぬぎて 翁
‥
「曽良は腹を病て、伊勢の国長島といふ所にゆかりあれば、先立て行に」と、「おくの細道」にある。北枝の持ち馬ではないから、先の俊頼の歌によって、馬は木幡にあるとして曾良の先行を阻止することが出来ない。そもそも「腹を病て」という事態にならなければ、曾良が馬に乗るということはなかった。馬は、那須野でもそうだったが、旅のあいだ常に芭蕉だけのものであった。このたび曾良は、おそらくは芭蕉の指図によって、ようやく馬に乗るのを承知したのだ。これを北枝が、芭蕉から馬を借りた、と言ったのである。黒羽の、図書の名馬の話も出ただろう。論語好きの曾良のために、次の一章が、曾良のためにもようやく現実となったと言い囃した。「論語」衛霊公第一五の二六。
子曰、吾猶及史之闕文也、有馬者借人乘之、今則亡矣夫、
子の曰わく、吾れは猶お史の文を欠き、馬ある者は人に借してこれに乗らしむるに及べり。今は則ち亡きかな。
また、山家集1947によれば燕は、雁信をなお細かに書いたもの、だ。
燕
歸る雁にちがふ雲路のつばくらめ
こまかにこれや書ける玉づさ
南に向かう燕らごときの身の上にも、様々なことがあろう。杜甫詩「雙燕」の、子らの養育を終わったもの、あるいは李白詩楽府「雙燕離」の火宅を潜ったものであるかも知れない。曾良は図らずもこれらを追って、芭蕉が放った、「こまかにこれや書ける玉づさ」となって、「先立て行」のである。
乙рフ、竹田の里においては、「馬かりて」とは、日常かつ卑近な光景である。かの春秋の時代に限って、「今は則ち亡きかな」ということになる。恋も、木幡の里を行く恋に限って、馬を禁じたのであって、「鳴たつのまなし時なしわかこふらくは」というこの辺りは、誰でもしばしの恋に、馬を使うのである。恋とは、例によって俳諧の別名である。
