
猿蓑「鳶の羽も」歌仙私解 ― 序として ―
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一、猿蓑
「鳶の羽も」歌仙は、猿蓑巻之五所収の、四つの連句の一つめである。猿蓑は、元禄四年(1691)七月三日に刊行されて、六巻を乾・坤の上下二冊に分ける。
乾冊には、「晋其角序」の後に、巻之一から巻之四まで、四季の発句を冬夏秋春の順に部立てする。坤冊の巻之五には、発句の部立てと同じく、四つの歌仙をやはり、冬夏秋春の順に並べている。それぞれの初一順を示す。
冬、去来・芭蕉・凡兆・史邦の四吟。「刷」のフリガナは刊本による。他に合わせて十例あるが、多くは、難訓を考慮したものではなく、用字の一部分であるらしい。
夏、凡兆・芭蕉・去来の三吟。
秋、凡兆・芭蕉・野水・去来の四吟。
春、「餞乙東武行」と題して十六人の連衆によって巻継がれた歌仙。元禄四年正月初旬の興行。
猿蓑で芭蕉が主催する、四季の歌仙の企画は、元禄三年の幻住庵の夏、「市中は」歌仙に始まり、木曾塚の秋の「灰汁桶の」歌仙、伊賀上野に冬を迎えた「鳶の羽も」歌仙、そして翌元禄四年正月の大津から巻き継がれた、「梅若菜」歌仙に整った。乾冊の芭蕉句は、「おくの細道」の句を多く集めて、元禄三年春までの句から半数を撰ばれた。その中でも、「晋其角序」が、「これを元として此集をつくりたて」と言う、先行の「卯辰集」の前書によると、元禄二年初冬に、伊賀へ帰る山中の芭蕉句、
初しぐれ猿も小蓑をほしげ也
を新風の礎として、去来と凡兆が猿蓑を編集した。この句を猿蓑の巻頭に置くべき理由があり、集の序を其角に書かせてその前書に準ずるものとしたのである。発句の部立ては、四季の歌仙の興行の順番に合わせるならば、夏秋冬春となるところを、冬の部を巻頭に引き上げて、やや異例な冬夏秋春となった。連句の部も、やはり冬の歌仙から並べるために、伊賀上野の歌仙は、巻頭の芭蕉句の季語と同じ「はつしぐれ」の、去来句を発句として興行された。
巻之六には、芭蕉の俳文「幻住庵記」、去来の兄、向井震軒の詩文「題芭蕉翁国分山幻住庵記之後」、次いで「几右日記」には、夏の幻住庵を訪れた人々と、それに遅れて、住み捨てた庵を訪ずれた人の、贈物に添えた句など、蕉門の一人一句、三十五句を記録して、これに芭蕉の「幻住庵記」の句を併せて、歌仙の数の句としている。末尾には、丈草の漢文による跋を収める。
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二、「鳶の羽も」歌仙の興行の日付と場所
「鳶の羽も」歌仙の発句の、季語は「はつしぐれ」、冬の到来を告げ知らせて降る時雨で、陰暦十月の季語である。「はつ」の字が冬の魁の新しさ珍しさを賞美していう。しかし、寒い冬が始まるのだから、その到来は必ずしも嬉しくない。猿蓑に「はつしぐれ」の季語をもつ句はこの句と巻頭の芭蕉句の二つである。脇の芭蕉は、前年元禄二年の冬と同様に、この冬を故郷伊賀上野で過ごしている。この年、元禄三年の立冬は十月五日であったから、発句はその座の風景、時節に相応するという約束に従えば、「鳶の羽も」歌仙の興行は十月初、それも立冬の頃、五日前後の吟会であるらしい。吟会の場所については、発句は客挨拶の位、脇は亭主挨拶の位という決まりに従えば、脇を勤める芭蕉の冬ごもりの家、伊賀上野の生家の吟会のはずである。亭主とは極めて具体的に言えば、俳諧興行の主催者(宗匠ではなく)、または興行の行われる家の主人をいう。
土芳の「三冊子(白雙紙)」(「連歌論集・能楽論集・俳論集(栗山理一校注)」日本古典文学全集)は、脇の事を述べて、
脇は亭主のなす事、昔よりいふ。しかれども首尾にもよるべし。客発句とて、昔は必ず客より挨拶第一に発句をなす。脇も答ふるごとくにうけて 挨拶を付け侍るなり。師の曰く「脇、亭主の句をいへる所、則ち挨拶なり」。雪月花の事のみいひたる句にても挨拶の心なり、との教なり。(略)
という(〔二三〕脇の事・テキストの小見出し)。「しかれども首尾にもよるべし」と、初心の自ら遠慮すべきことを言うようだが、いわゆる時宜に適うべく、宗匠の事の計画に従うべき場合があることをいう。「昔よりいふ」は、連・俳書にある、ということだ。「昔は必ず」というのも古い撰集の俳諧は必ずというのである。引用の少し前(〔二二〕発句の事)に発句について述べて、
発句の事は一座の巻頭なれば、初心の遠慮すべし。八雲御抄にもその沙汰あり。「句姿もたかく、位よろしきをすべし」と、昔よりいひ侍る。先師は懐紙の発句かろきを好まれしなり。時代にもよるべき事にや侍らん。
とあるのと同様である。昔の字を使うのは、今はの字を略して、俳諧の式目は芭蕉の実践を瀘過してのみ再生されることを言い、これを祖述すると主張している。「三冊子」は、連・俳書が言わない「(先師は)懐紙の発句かろきを好まれし」ことを強調する。懐紙の発句は、先行の連・俳書の呪縛を去って、人の掌に乗せて渡すほどに、軽くあるべきなのである。これを受け取る脇の役割は相対的に大きくなる。これをやや具体的には次のようだ(〔二三〕脇の事)。
師の曰く「第一、発句をうけて釣合ひ専らに、うち添へて付くる、よし。句中に作を好む事あるべし。留り字は韻字すわり宜しくすべし。かな留め、自然にあり。心得口訣あり。第一、応対合体の心と思ふべし。作者心得べきは、まづ発句出づるとよく聞きしめ、させる事みえずとも、作者より句意をあらはすやうに挨拶して、よく聞きふせて脇をすべし。心とどかざれば無礼にして無下なる事なり」。
発句と脇に交わされる挨拶は、歌においての贈答と同じ性質を持つ。贈答の極度に緊張した姿が、あるいはその剰余である遊戯が単連歌である。俳諧の挨拶はこの出自に負うものである。歌においては私的な意思の交換、契約を、日常の小共同体である連衆の間で行うのが、俳諧における挨拶である。俳席における座を成立させる様々な与件、すなわち連衆の構成、季節、場所は、すぐれて計画的なものであれ、偶発的なものであれ、動かしがたい日常と同質のものである。日常から五・七・五音と七・七音となった風雅が生まれ、風雅は直ちに日常に投げ返されて滑稽となる。座に日常が息づいていなければ、すでに座の日常が劇に置換されて、風雅を紡ぐ自動装置と化していれば、風雅は風雅のままで漂い続けて、滑稽となることができない。挨拶こそは、連衆がこれらの与件を互いに承認しつつ、これら与件を媒介として、座に息づく日常、連衆の顔を、これを侵食しようとする匿名性の劇から保護し保証する、契約の技術である。
発句と脇と、挨拶は、日常のそれと同じく等価であるべきだが、発句のうちにあって微かなもの、「させる事みえずとも」、隠蔽されているものを摘出して示してこそ等価となる。「心とどかざれば無礼にして無下なる事なり」。それは日常の規律そのものである。
「しかれども首尾にもよるべし」という首尾・計画の中には、「無下なる」ことの出来を防ぐ、日常的、経験的な、約束が含まれているにすぎない。連・俳書にもないことであるが、「三冊子」には、発句と脇の役割をどういう人物が演じるものであるか、時にはどのように交換することがあるか、という問題はこれと別個には存在しない。ただ、「脇、亭主の句をいへる所、則ち挨拶なり」とあるだけである。挨拶が、非日常の劇として演じられることは語られなかった。
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三、中村俊定「芭蕉の連句を読む」に於ける「鳶の羽も」歌仙の興行の日付と場所
「鳶の羽も」歌仙の興行の日付と場所は、どこにも明記されていない。これを特定するに足る資料も乏しいから、諸注釈はそれぞれの評釈の要求するところに応じてこれを推定し、あるいはこれに全く触れていない。中村俊定「芭蕉の連句を読む」岩波セミナーブックスでは次のようだ。
さて、この「はつしぐれ」の歌仙のおこなわれた場所ですが、はっきりしていません。ただ、去来が発句を出しておりますから、おそらくこの三句目をついでいる凡兆の、京椹木町にあった家で行なったものではないかと思います。ほんとうは、芭蕉が発句を出すべきですけれども、これには芭蕉の意図があって、わざと脇にまわっているようです。芭蕉は、猿蓑の三巻において脇の仕方を三様に示そうとしたわけです(「三冊子」わすれみづ)。ですから次の「夏の月の巻」も、そのあとの「きりぎりすの巻」も、芭蕉の脇になっています。
ただ、四番目の「梅若菜の巻」(元禄四年一月興行)では芭蕉が発句をしております。これには特別な事情があって、大津の門人乙州が東武へ旅立った時に餞別の辞として送ったもので、それを発句にして続けたものです。
興行の場所が、伊賀ではなくて京だと説明した、その理由は、中村俊定の数度の注釈でも、そしてこの「芭蕉の連句を読む」の講義でも、ついに語られなかったようだ。ここで、「去来が発句を出しておりますから、おそらくこの三句目をついでいる凡兆の、京椹木町にあった家で行なったものではないか」とあるのは、それが京だと、すでに吟味が尽くされたかのような前提で、去来の落柿舎か、凡兆の京椹木町の家かとすれば、というのだ。少しも、「はっきりしていない」とは言っていない。この二箇所の内どちらかと、はっきりしているというのだ。また、「猿蓑の三巻において脇の仕方を三様に示そうとした」ことを指して、芭蕉の意図、ということができたのは、「ほんとうは、芭蕉が発句を出すべきですけれども」、「わざと脇にまわっている」そのわざとの意図を、これと同一のものであるとして済ませたことを意味する。芭蕉が、正客として発句を出すべきところを、これを交換して、「わざと」脇にまわっているのならば、この歌仙の興行の場所は、確かに京であろう。しかし、興行の場所が伊賀ならば、芭蕉が、「わざと脇にまわっている」のではないことになって、簡単に、「わざと」の理由を探らせる問題が消えてしまう。芭蕉が、「わざと」脇にまわったと言った途端に、歌仙が伊賀の興行であることを否定したのである。芭蕉が、「わざと」興行の場所に伊賀を選んでまで、「猿蓑の三巻において脇の仕方を三様に示そうとした」、さらに、夏・秋の歌仙との構成上の理由からも、冬の「鳶の羽も」歌仙の興行の場所を、伊賀にする必要があったとも、仮説できるのだ。とすれば、この歌仙にあったとしている不明瞭な主客の交換の説明に、「三冊子(わすれみづ)」の記事が使われているのも、不当な扱いであろう。「芭蕉の連句を読む」は、芭蕉の意図、の説明がこれで済んだとしているのではないが、そのために、「三冊子」の記事が意図したところの大部分は先送りにされて、どこかに紛れてしまった。
猿蓑の企画は、芭蕉の、近畿滞在を前提としている。近江、京の俳諧はこの間、芭蕉の行動日程と共にあった。京の連衆が芭蕉を、猿蓑の企画を自己の名聞とするために、利用し使役することを望んだはずはなく、芭蕉の全力がここに投入されるために、僅かの行動の障碍となることをさえ虞れただろう。名聞こそは、芭蕉と彼らに無縁のものだ。芭蕉の、春の湖南の成果が、「ひさご」に与えられ、夏から次の春までの結実が、京の連衆、去来・凡兆共撰の名によって猿蓑に譲られたのである。そして伊賀は、独自の集がなく、元禄四年の春の「梅若菜」歌仙に伊賀の連衆が参加して、閑却されてはいないが、外縁に置かれたかに見える。しかし、猿蓑の巻頭の芭蕉句と、「鳶の羽も」歌仙の去来の発句との、二つの初しぐれの句が、猿蓑が、伊賀から発信された芭蕉の集である徴だ、と読まれるのならば、伊賀の連衆が満足するばかりではなく、去来・凡兆の苦労の大方は報われたことになろう。
元禄三年の冬と、四年の春の年譜の芭蕉は(年譜の性格からも)、伊賀で俳諧に関係のない大事な用を過ごした形跡がない。あったとしても知ることはできない。このことは、彼の行動に未知の、そして説明が不要でかつ不可能な制約を作りださせて、芭蕉の京と伊賀の往復の時期を恣いままに推定する作業を許している。元禄三年の冬に、芭蕉が京にいたという前提はここから現れて、ここに止どまる。
もしこの歌仙の興行の場所が凡兆宅だとすれば、相伴のはずの去来が正客となり、正客であるべき芭蕉が亭主となり、亭主である凡兆が相伴となった。すなわち主・客の交換があって、正客と相伴の交換がそれと同時にあったのである。これを日常的経験として説明する方法はない。非日常的経験、すなわち協同制作による虚構として、これを説明できるならば、芭蕉が凡兆の家に連衆を召集したのである。夏と秋の歌仙には、どちらも凡兆を正客としたから、今度は去来を正客として招くことにする。芭蕉の家としたばかりの、京椹木町の凡兆の部屋に文台が整うと、雨音が颯然と聞こえてきて、劇が始まる。これを、中村俊定「連歌俳諧集」日本古典文学全集の評釈は、どう説明しているのか。
初冬野外の寒々とした情景である。あわただしく、さあっと降りすぎていった時雨のあと、梢の鳶もその一雨にぬれて、羽をかいつくろったように見えるという意である。野も山もからびゆく晩秋の景に、初時雨がおとずれて、いかにも初冬らしい寒々とした景趣が感ぜられる。その閑寂の風情への賞美が一句の中心であり、鳶の羽は、初しぐれの情景の中の一点景として描出されているのである。鳶の羽はけば立った感じのものであるが、今はそれが時雨にぬれ、しっとりと落ち着いて、寒々とした姿である。そうした寒雨初めてきたる日の情趣が、まさに一幅の絵のようにとらえられている。これはほとんど、「かれ枝に烏のとまりけり秋の暮」の構図に等しい、純然たる景の句といってもさしつかえないのである。「はつしぐれ」が一句の題で、「鳶」は趣向、この題と趣向が取合せになっており、これを「刷ぬ」としたところが句作であると評した「付合てびき蔓」の説(「初しぐれは題にて鳶は趣向の取あはせ也。扨かいつくろうとせしが句作也」)が、簡にして要を尽くしている。
去来が提出した、寒雨初めてきたる日の、野外の情趣は、明らかに京の景色ではない。これが、「かれ枝」の句の構図に等しい、というのは、中村俊定「芭蕉句集」日本古典文学大系の、「かれ枝」の句の頭注、
水墨画の画題にある「寒鴉枯木」を句に言いかえた句。初案当時、こういう「ひねった」素材を句にする趣向の斬新さに作者のねらいがあったが、次第に句境そのものの中の高雅閑寂枯淡なさびた情趣を認め、これをねらうようになった。
を見れば、この「曠野」(元禄二年刊)の句(初案は延宝八年・1680)に使われたのに似た画題を、去来がどこからか選んできた、想像の絵である、と言うのらしい。京の室内は、約束されたかのように一瞬にして何ともしれぬ画題と置換される。これ以外に、去来が鳶の趣向をとりだした契機には言及されない。依然として興行の場所の名は、すなわち、歌仙を生む母胎であり、迷路でもある日常の雛型は、等閑視されたままで、連衆は、閑寂の風情への賞美を囲んで、どこかへ、どこでもないところへ出掛けようとしている。
「僻連抄」が、発句の景物について言う、次の言葉をこの場合に、どのようにあてはめているのだろうか。
都にて野山の発句、ゆめゆめすべからず。大方、あるまじきことを制するなり。
都の空にも鳶は舞うだろう。しかし、それは郊外、もしくは野山同様の広大な庭園の上空で、椹木町の真上ではない。
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四、「鹿島詣」の連句に見る主・客の交換
芭蕉の連句に、主・客の交換が、「鹿島詣」、「おくの細道」の旅の連句に、幾つかある。旅の邂逅を慈しんで、怱ちやってくる別離を暫く、一夜だけ停滞させるために、餞別の俳席が提案される。旅の途中に一夜の宿を借りて、俳席の楽しみとその余韻の尽き果てるまで、主人の家を芭蕉の家とする、そういう連句が幾つかある。たとえば、ご自分の家と思って、という謙退の挨拶を言質にとり、賓客の扱いを免れながら、主人の方を君、客位に仕立てて、逗留の世話に対する答礼の連句とする。一夜の宿ではなくて、比較的長期間に及ぶ滞在であれば、芭蕉の発句を求める歓迎の俳席と、これと対になるべき答礼の連句を興行することもある。
賓客はすでに幾つもの手向けの幣を携えてきて、旅の遥かなことと、もしあれば苦難の一端は実現し、半ば克服されたのであり、賓客の語るべきこととして任せて、事々しい餞別の句を憚る意味があろう。発句の挨拶は、「脇は亭主のなす事、昔よりいふ」という形式の転倒を滑稽として、明示するかのようだ。主人の方では、事実を枉げてまで、立派な邸宅を陋屋だと言いなして接待の不備を詫びる。これが、餞別の句が餞別の句らしさを略する、もう一つの形式であるかのように。
「芭蕉の連句を読む」が、「鳶の羽も」歌仙の興行の場所を凡兆の家であろうとして、去来の家だとしなかったのは、先の評釈に見たように、「わざと脇にまわっ」た、芭蕉の意図が、次に見る「鹿島詣」の末尾にある三ツ物の場合に準じて、説明ができないからだ。後に、芭蕉の書簡などで、「芭蕉の連句を読む」が前提する、芭蕉は冬ごもりの伊賀から京に出て、この歌仙を興行したとする日付を検討するが、この日付で、京の連衆から芭蕉が餞別の句を貰う名目はない。評釈は、餞別の句と読まなかった。まして芭蕉が、去来の家で、旅の愁いを癒そうという歌仙ではない。
「鹿島詣」の連句。発句は自準、脇は芭蕉。
帰路自準に宿ス
塒せよわらほす宿の友すずめ 主人
あきをこめたるくねの指杉 客
月見んと汐引きのぼる船とめて ソラ
鹿島の月見の小旅行の締めくくりに、芭蕉は自準の家をこの一夜譲られた。この俳席が芭蕉の計らいであるのは、句の作者名記載を特別にしたことから推測される。
発句は、「山家集」(「山家集」日本古典全書)の二つの歌による。芭蕉を西行にして、付句を楽しむのが常套の挨拶であるらしい。
雪埋竹と云ふ事を
雪うづむそののくれ竹折れふして
ねぐらもとむるむらすずめかな
ことりどものうたよみける中に
ならびゐてともをはなれぬこがらめの
ねぐらに頼むしひの下枝
藁塚の見える自準の家は、古今和歌集秋歌下306(「古今和歌集」窪田章一郎校注・角川文庫)、
是貞のみこの家の歌合の歌 ただみね
山田もる秋のかりいほにおく露は
いなおほせ鳥の涙なりけり
の、山田もる秋のかりいほ、であるらしい。古今伝授の三鳥の一つ、稲負背鳥が濡らした藁を干している家に、友雀よ、この家に塒を求めよ。稲負背鳥の歌は外に、同集秋上208 よみ人しらず
わが門にいなおほせ鳥のなくなべに
けさ吹く風に雁はきにけり
がある。稲の実るころに飛来する雁を背景にした語で、古注釈(「両度聞書」・以下古注釈について「古今和歌集」小島憲之、新井栄蔵校注・新日本古典文学大系から写すことがある)に、「この稲負背鳥を、何鳥ぞなど言ふべからず。稲と言へばなり。心は時の景なり」という鳥だが、雀だろうともいい、鶺鴒の説もある。日本書紀で、男女の交りの道を教えた鳥だ。
脇の「あきをこめたる」は、勅撰集には見えず、「拾玉集」(慈鎮)、「壬二集」(家隆)などにあるが、「山家集」の歌、
山家初秋
さまざまのあはれをこめてこずゑふく
風に秋知るみやまべのさと
によるだろう。藁干すとあるので、垣根といわずに、くね、という。発句の、さまざまのあはれをもたらす秋は、くねの指杉の、梢に吹く風によって知られる。垣根に植え廻した杉は、古今和歌集雑歌下982 よみ人しらず
わが庵はみわの山もと恋しくは
とぶらひ来ませ杉たてる門
と、同集雑躰旋頭歌1009 よみ人しらず
初瀬川ふる川のべに二本ある杉
年をへてまたもあひ見む二本ある杉
の杉であろう。この家は、鶺鴒の涙で濡れた藁を干す、といい、男女の仲を比喩する景物の連理樹とされる二本の杉より数多く、杉たてる門よりもめじるしになる、指杉の垣根といい、西行の友である小鳥どもを招待するには過剰な、さまざまなあはれが、こめてあるらしい。そして、椎の下枝に塒させてやるという、自準の親切の押し売りが差し過ぎ・出過ぎている。脇は、源氏物語「手習の巻」(「源氏物語」阿部秋生、秋山虔、今井源衛校注・訳・日本古典文学全集)で、
ふる川の杉のもとだち知らねども
過ぎにし人によそへてぞ見る
と、浮舟に答えて詠んだ、ものめでの差し過ぎ人なる、小野の妹尼の歌によそえる。
さすがに、かかる古代の心どもにはありつかず、いまめきつつ、腰折れ歌好ましげに、若やぐ気色どもは、いとうしろめたうおぼゆ。
と書かれた、この人の態度を見れば、僅な滞在の間にも、この人の亡き娘の婿であった中将のような人で、自準の知己の誰彼を、ここに手引きしかねない。
曽良の第三は、「山家集」の次の贈答によるだろう。
ゆかりありける人の、新院のかんだうなりけるを、ゆるしたぶべきよし申しいれたりける御返事に
もがみ川つなでひくらむいなぶねの
しばしがほどはいかりおろさむ
御返ごとたてまつりける
つよくひくつなでとみせよもがみ川
そのいなぶねのいかりをさめて
かく申したりければゆるしたびてけり
新院・崇徳上皇の御歌は、古今和歌集東歌みちのくうた1092
最上川のぼればくだるいな舟の
いなにはあらずこの月ばかり
によって詠まれたものである。曽良は、さっそく自準の執り成しを図る。脇は、清少納言の百人一首歌(後拾遺和歌集雑二940 詞書きは略す)(「百人一首」島津忠夫訳注・角川文庫)
よをこめて鳥の空音ははかる共
よにあふさかの関はゆるさじ
に似せて、わらほす宿の鳥の空音を許さない、と言うかのようだが、自準が西行の歌を使ったことの効験がなくはない。新院の御不興の御咎を蒙っていた俊成のために、力を尽くした西行は、やはり芭蕉に似ているのであり、平安の女流の狭隘は、彼の採るところではない。
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五、「三冊子」
「芭蕉の連句を読む」が、「ほんとうは、芭蕉が発句を出すべき」であるのに芭蕉は、「わざと脇にまわ」ったと言うのは、「三冊子(わすれみづ)」の芭蕉の言葉に依拠している。
〔二〇〕脇三体
また、「猿蓑に脇三つを三体に仕わけてなし置きたり。心付けて見るべし」となり。
〔二一〕新しい一体
「身は濡紙のとり所なき」といふ句をいひ出で侍れば、師の曰く「是、一体新たにみえ侍るなり。体格は定めがたし。心がけて勤むるに猶あるべし」となり。
段落に切られて、二つはそれぞれの時のそれぞれの言葉として評釈され小見出しも付けられた。〔二〇〕脇三体の芭蕉の言葉、「猿蓑に脇三つを三体に仕わけてなし置きたり。」だけを取り出させる便宜上の工夫である。〔二〇〕と〔二一〕の間にあるらしい転調・捩れは問われずに済んだのか、というとそうでもない。テキストの頭注には、
付け句の中でも脇の付け方について自作を示して教えたものである。
とあり、「付け句の中でも」が〔二〇〕と〔二一〕を、繋ぐでもなく切るでもない、いつでも修復され再論される形にしてある。
「芭蕉の連句を読む」が提出する〔二〇〕の芭蕉の言葉にも、「脇三つ」の少なくとも一つは、「猿蓑に脇三つを三体に仕わけてなし置」くために、「ほんとうは、芭蕉が発句を出すべき」でも、「わざと脇にまわ」ったのがある、という注が用意されよう。土芳はこれについても心付けて見なければならなかった。しかし、空想の注をどれほど詳しく尋ねても、いつか興行の場所は伊賀ではなくて京だという理由に辿り着いて、土芳が関知しない、はるか後代の注釈が指摘する、〔二〇〕の課題を明らかにするという訳ではない。
「去来抄・三冊子・旅寝論」潁原退蔵校訂・岩波文庫の、「三冊子(くろさうし)」(安永五年・1776 闌更の翻刻した刊本を底本とする)には、「是、一体に見へ侍るなり」と「新た」がなく、段落もない。
又、猿蓑に脇三を三体に仕わけてなし置たり。心付て見るべしと也。身はぬれ紙のとり所なき、といふ句を云出侍れば、師の曰、是一軆に見へ侍る也、体格は定がたし。心がけて勤るに猶あるべし。
濡紙の句に新しい一体という程の印象を否定するために、これを「三体」の手本に良く学んでいるという芭蕉の評言として、闌更は底本の「新た」を省いたのだったろう。改変によって生じる、濡紙の句が「三体」を手本になぞったことを叱って、「体格の定めがた」いことを改めて教えたという読みかた、つまり、「心付けて見るべし」が土芳による熟さない反語表現である、という解釈の検討は放置したまま、闌更はこれを二つに切ることがなかった。闌更の本は「新た」を消して、この一節が「三冊子」に置かれる整合性をも消してしまった。闌更のこの悪癖については、いま、多くの例によって指摘されている。
付句の体については、すでに「三冊子(赤雙紙)」(〔四三〕付句の体)に、
また、或時、師の言葉に「体はさまざまありといへども、世上二、三体に過ぎず。今思ふ所十二、三体にはみえ侍るなり。ものにも書き留めんや。この後、ここに究り侍るやうに人ここに留らんか。しかれば書き留むるにもいたらず。」とて事止み侍るなり。
と詳述されているのに照らして、闌更の濡紙の句の評価がどうであれ、あたかも猿蓑の「三体」にはない新しい一体が、芭蕉をして「体格は定めがたし」と嘆息させたかのように、または右の芭蕉の言葉そのものの契機となったとはなおさら、土芳が書く筈はない。このことを闌更が「新た」を消すことで念を押す必要はないのである。「一体新たに」という師の褒美は、「ここに究り侍るやうに人ここに留ら」なかった「梅若菜」歌仙で見せた土芳の進境に与えられたのだ、と読む外はないのだ。