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八、「おくの細道」の旅の連句に見る主・客の交換
元禄二年の「おくの細道」の旅で、芭蕉が一座した多くの連句の中に六つ、旅にある芭蕉が、脇を勤めている連句がある。亭主が発句を出し、旅人が脇を勤めている。「鳶の羽も」歌仙の場合とは異なり、これらの俳席は、「おくの細道」と、曽良の「日記」、「俳諧書留」など、潤沢な資料によって、「鹿島詣」の三ツ物の場合と、全く同じではないがよく似ている、経緯の概略を知ることができる。主・客の交換が、餞別、若しくは答礼の意図によることが、俳席の経緯に照らして、連句の解釈を俟たずとも明らかなのである。このうちの幾つかを読んで、これを確認しておく。
安東次男「風狂始末・芭蕉連句新釈」は、「鳶の羽も」歌仙の興行の日付に、元禄三年九月二十七―八日を仮説して、去来の発句を、京の連衆が芭蕉を、晩秋の伊賀に送る、送別の句だと評釈していた。そして、興行の場所については、「風狂始末」は、「芭蕉の連句を読む」とは違って、京の何処だとも言っていない。
仮に、俳席の経緯を知る資料が乏しくとも、評釈は、これを明らかにしなければならないが、幸便に、資料がある「おくの細道」の連句によって、句が具体的に、どのように俳席の名目を表現したかを、確認しておく。後に、「風狂始末」が、送別の句だといっている、「鳶の羽も」歌仙の発句の読みに、既に明らかな送別の句(脇の読みによってこそ、発句の送別の意図は明らかになるのだが)の読みを幾つか並べて、「風狂始末」の仮説の不備を探す準備とするために、併せて、小論の方法を具体的に例示することになるだろう。
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八の一、須賀川滞在中四月二十四日の三句(曽良の「俳諧書留」(「おくの細道」杉浦正一郎注・岩波文庫)による)
旅衣早苗に包食乞ん (ソラ)
わ(い)たかの皷あやめ折らすな 芭蕉
夏引の手引の青草くりかけて 等躬
旅の同行は、はじめ路通を予定したのが、代わって曽良になった。白河の関を越えて、須賀川の等躬宅到着は四月二十二日。その日と翌二十三日には芭蕉の発句、等躬の脇
風流の初やおくの田植歌 芭蕉
覆盆子を折て我まうけ草 等躬
の、歌仙の興行があった。曽良は芭蕉の従者のような顔をしているのであるが、芭蕉と曽良とは、師と弟子ではあっても主従ではない。「おくの細道」の発端に、
やゝ年も暮春立る霞の空に白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ
と書いた白河の関の条りには、芭蕉の句はなくて曽良の句、
卯の花をかざしに関の晴着かな
だけがある。曽良の発句の、旅衣は、この、関の晴着であろう。四月二十四日の午後に、可伸庵(栗斎宅)に予定されている吟会を前にして、等躬の家の田植えの祝宴を機会に、曽良は、芭蕉がこの旅に招いた客としての持て成しを受けているのである。同日のらしいもうひとつの三ツ物、発句を等躬、脇を曽良、第三が芭蕉の三句では、芭蕉は、等躬に対する答礼の役を曽良に譲っている。前日の歌仙と合わせて三人が、発句、脇、第三を、一回づつ受け持ったことになる。
同じ須賀川に、白河の関の向こう側、黒羽から贈られてきた、桃雪(黒羽の館代浄法寺図書。黒羽では秋鴉の名で歌仙の揚句前の花の座に一句だけ参加している)の句、
雨晴て栗の花咲跡見哉
を立句とする四句では、脇は等躬、芭蕉は第三に回っている(四句目は曽良)。この餞別句は桃雪の跡見の所望であった。跡見(朝・昼、茶の湯の後にまた行う茶事。参集できなかった客方の所望で前会のままでするもの。)を所望する桃雪のための吟会の亭主は、跡見とあれば、「風流の」歌仙と同じくもう一度、等躬に勤めさせたのである。
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八の二、尾花沢における五月下旬の四吟の歌仙(「繋橋」所収)
おきふしの麻にあらはす小家かな 清風
狗ほえかゝるゆふだちの簔 芭蕉
(以下略。第三は素英、四句目は曽良。)
尾花沢では芭蕉と曽良は清風宅などに五月十七日から二十六日まで滞在している。須賀川から尾花沢までの間、二十日ほども俳席はなかったらしい。
清風は紅花を扱う豪商で、信徳門の宗匠としてすでに、俳諧撰集「おくれ双六」(延宝九年・1681)、「稲莚」(貞亨二年・1685)、「ひとつ橋」(貞亨三年)を公刊している。芭蕉との関係としては、江戸小石川において、貞亨二年六月興行の清風が発句、芭蕉が脇の七吟の百韻(享和三年・1803刊「芭蕉翁古式之俳諧」所収)がある。それと、貞亨三年三月興行の、芭蕉が発句、清風が脇の六吟の「花咲きて」歌仙(「ひとつ橋」所収)には、曽良も参加している。
尾花沢での連句は、文政二年(1819)頃の「繋橋」にある二巻で、この「おきふしの」歌仙と、もう一つは、芭蕉の発句、清風が脇を勤める、
すゞしさを我やどにしてねまる也 芭蕉
つねのかやりに草の葉を焼 清風
五吟の歌仙である。第三は曽良、四句目は素英、新庄の風流が六句目と九句目に二句だけ参加している。素英は清風の弟子のような人であるらしい。曽良の「俳諧書留」にはこの二巻とも、またこれ以外も、尾花沢の連句の記録がない。貞亨二年の百韻の、清風の発句は、
涼しさの凝くだくるか水車
である。「賦花何俳諧之連歌」と題して、「水車」の「車」を選んで「花何」という賦物をとっている、肩の凝る会席であった。「すゞしさの」歌仙の発句は、これの興を、時を隔てて再開しようというものだ。清風は「凝くだくるか」と水を涼しさの凝ったものに見立てて、江戸の連衆の客扱いが古風だと、驚いて見せたのである。水車は、三の車の書き誤り、それに似たものである。「山家集」の歌
譬喩品
のりしらぬ人をぞけふはうしと見る
みつのくるまに心かけねば
の、法しらぬ人は、清風である。三の車とかいう御仏に受ける教えにも似た、俳諧会法も知らず、懲りもせずに砕かれて、浮世の闇に迷いながら、暑い夏の慰み物となることよ。それに対して、尾花沢の芭蕉は予想どうりに、おねまんなさい、どうぞお楽になさって下さいまし、という清風の家人の優しい歓待を受けている。「ねまる」は木下長嘯子の「挙白集」に見えることが、其角の「類柑子」に指摘されているように、伊賀生まれの芭蕉にも既知の語であった。
「おきふしの」歌仙は、清風の招待に対する芭蕉の答礼の歌仙である。二つの歌仙は、清風と芭蕉の邂逅と別離に相当する。ねまるに対して、これを雅語らしく言ったのが、おきふしである。先の、「すゞしさの」歌仙の興がまだ尽くされないのをいう。
発句の、おきふしは、古今和歌集恋歌二605 つらゆき
手もふれで月日へにける白真弓
おきふしよるはいこそねられね
による。麻は、同集雑躰誹諧歌1068 よみ人しらず
世をいとひ木のもとごとにたちよりて
うつぶしぞめのあさのきぬなり
の、あらはし衣・喪服である。芭蕉の五倍子染の風体が、小家の起き伏しで、ようやくその実を顕わし、いわば、俳諧の肝胆を見せる。清風は自らを白真弓に擬していうが、また、芭蕉にもそのうちに、小家の主の素姓も徐々に明らかになる。すっかり田舎宗匠の内證が露見してしまった、とも読める。小家とは、女房言葉に言い慣わしている、庶民の住む得難い家、源氏物語「夕顔の巻」の五条に住む大弐の乳母の家の、隣家のことだ。
切懸だつ物に、いと青やかなる葛の心地よげに這ひかかれるに、白き花ぞ、おのれひとり笑みの眉ひらけたる。「をちかた人にもの申す」と、ひとりごちたまふを、御随身ついゐて、「かの白く咲けるをなむ、夕顔と申しはべる。花の名は人めきて、かうあやしき垣根になん咲きはべりける。」と、申す。
げにいと小家がちに、むつかしげなるわたりの、この面かの面あやしくうちよろぼいて、むねむねしからぬ軒のつまなどに這ひまつはれたるを、「口惜しの花の契りや、一房折りてまゐれ」と、のたまへば、この押し上げたる門に入りて折る。
源氏が、夕顔の女を廃院に伴い、それまで隠していた顔を、あらはして見せる場面。
顔はなほ隠したまへれど、女のいとつらしと思へれば、げにかばかりにて隔てあらむも事のさまに違ひたりと思して、
(源氏)
「夕霧に紐とく花は玉ぼこの
たよりに見えしえにこそありけれ
露の光やいかに」と、のたまへば、後目に見おこせて、
(女)
光ありと見し夕顔の上露は
たそかれ時の空目なりけり
と、ほのかに言ふ。をかしと思しなす。げに、うちとけたまへるさま、世になく、所がらまいてゆゆしきまで見えたまふ。「尽きせず隔てたまへるつらさに、あらはさじと思ひつるものを。今だに名のりしたまへ。いとむくつけし」と、のたまへど、「海人の子なれば」とて、さすがにうちとけぬさま、いとあいだれたり。「よし、これもわれからなめり」と、恨み、かつは語らひ暮らしまふ。
叱るを上方訛りに、ひかるという。夕顔の女は、この廃院であっけなく息絶えるのだが、清風がそれを承知で、小家といい、「夕顔の巻」を使ったのだろうか。その効果を十分に計ったか。
清風の邸宅を小家というのは、紫式部の物言いの真似だが、清少納言もこの言葉を使う。枕草子(春曙抄)二四一段「関白殿、二月十日のほどに」
(略)小家などいふ物の多かりける所を今造らせ給へれば(中宮定子は、正暦五年(994)二月、一般の住宅を除去して新しく造営した、二条北宮に行啓した)、木立などの見所あるはいまだなし。ただ宮の様ぞけぢかくをかしげなり。殿渡らせ給へり。(略)
狗は、同七段「うへに侍ふ御猫は」の、翁丸だろう。
(略)暗うなりて、物食はせたれど、食はねば、あらぬものにいひなして止みぬる。つとめて、御梳櫛にまゐり、御手水まゐりて、御鏡もたせて御覧ずれば、さぶらふに、犬の柱のもとについ居たるを、「あはれ昨日、翁丸をいみじう打ちしかな。死にけむこそ悲しけれ。何の身にか此のたびはなりぬらむ。いかにわびしき心地しけむ」とうち云ふ程に、此のねたる犬、ふるひわなゝきて、涙をただ落しに落す。いとあさまし。さはこれ、翁丸にこそありけれ。よべは隠れ忍びてあるなりけりと、あはれにて、をかしきこと限なし。御鏡をも、うちおきて、「さは翁丸」と云ふに、ひれ伏していみじく啼く。御前にも、うち笑はせ給ふ。(略)
来世のことまでも思い遣ってくれる優しい言葉を聞いて、翁丸が涙を落として啼く。この、人のような犬が、客の渾名と同じ名である。夕立に、蓑を着た怪しい姿にほえているのではない。尾花沢の心尽くしの優しいことに、犬も感応しているというのだ。とすれば、芭蕉は、「夕顔」の巻の俤を、できれば幻のままにして置きたかったのだろう。
夕顔には、誰でも知っているが、干瓢の実が成る。同五十八段「草の花は」にも書いている。
(略)夕顔は朝顔に似て、いひ続けたるもをかしかりぬべき花の姿にて、にくき実の有様こそ、いと口をしけれ。などてさはた生ひ出でけむ。あかづきなどいふ物のやうだにあれかし。されど猶、夕顔といふ名ばかりはをかし。(略)
清風は、先の、「すゞしさを」歌仙の芭蕉の発句を、新古今和歌集夏歌263 西行法師(「新古今和歌集」佐佐木信綱校訂・岩波文庫)
よられつる野もせの草のかげろひて
すずしく曇る夕立の空
による、と読んでいる。麻は、撚られつる野もせの草である。涼しくかき曇り、夕立がやってこようとする野に宿を借りて、夕立には濡れずに、旅人は涼しさの持て成しを受ける。山家集の歌
夏月歌よみけるに
なつの夜の月みることのなかるらむ
かやりびたつるしづのふせやは
をみれば、夏の月を雨雲に遮られて、涼しさの景物はやや不足だったかもしれないが、清風の脇の、蚊遣火の煙は、古今和歌集恋歌一500 よみ人しらず
夏なればやどにふすぶるかやり火の
いつまでわが身したもえをせむ
以来、抑えた胸の思いを知ってもらう徴だった。
清風は芭蕉に、尾花沢の滞在の印象を聞いているのだが、夏の夜の月よりも、明日の夕立を、やはり旅人は憂慮するのである。旅人は、どうやら山吹の枝ならぬ、夕顔の花を貰ったのらしい。
「ゆふだち」の蓑は、後拾遺和歌集雑五 1155(「後拾遺和歌集」西下経一校訂・岩波文庫)
小倉の家にすみ侍りける頃、雨のふりける日蓑かる人の侍りければ山吹の枝ををりてとらせて侍りけり。心も得でまかりすぎて又の日山吹のこゝろもえざりし由、いひにおこせて侍りける返事にいひつかはしける 中務卿兼明親王
七重八重花はさけども山吹の
みの一つだになきぞかなしき
の、蓑だ。優しい心尽くしには感謝しているが、花の名ばかりで、にくき実の有様こそ、いと口をしけれ、こういう蓑はかえって迷惑だ。夕顔の花に宿る露の光は、決して、たそかれ時の空目ではなかった。
小家の辺りは、実は、桃花源・仙家のようでもある。和漢朗詠集巻下仙家・付道士隠倫 544(「和漢朗詠集(川口久雄校注)・梁塵秘抄」日本古典文学大系)
危犬花に吠ゆ 聲紅桃の浦に流る
驚風葉を振ふ 香紫桂の林に分てり 都
危犬吠花 聲流於紅桃之浦 驚風振葉 香分紫桂之林 都
犬は、芭蕉が着た、怪しい花に向かって吠えている。枕草子(春曙抄)二十一段は、
すさまじきもの、晝ほゆる犬。
と、書き出している。桃花源のようであってほしいと期待したのだが、当て外れな、興ざめなものと言えば直ちに思い付くのも、晝ほゆる犬であった。いつ芭蕉が、尾花沢の連衆にがっかりしたというのか判らないが、桃花源が実在すると考える方が、おかしいのだ。すなわち、芭蕉の期待の大きさは、旅の途中にそれほどに膨らんでいたという表明は、尾花沢が安堵しながら受け止めるべき滑稽であった。
結びの四句は次のとおり。
繋ばし導く猿にまかすらん 芭蕉
けぶりとぼしき夜の詩のいへ 清風
花とちる身は遺愛寺の鐘撞て 曽良
鳥の餌わたす春の山守 芭蕉(揚句)
曽良が揚句の順番であったが、花の座の順番の素英を外して、そこへ曽良を繰り上げて、芭蕉が揚句を受け持ったのである。三十四句目の清風の句を見て、このように変更したのらしい。「三冊子(白雙紙)」に、
裏一順の事も「初のごとくかろがろとあるべし。句なみを追ふにも及ばず」となり。「揚句は付かざるよし」と古説あり。今一句になりて、一座興さむるゆゑなり。また「かねて案じ置く」ともいへり。発句主ならびに亭主のする所にあらず。初の一順に執筆の句なくば、揚句を筆にすべし。発句にある文字をつつしむ」となり。
とあるにも拘わらず。歌仙の初めから、密に案じ置かれたものだろうか。
けぶりとぼしき夜の詩のいへ、詩人はどこかにさまよい出て留守である。詩人が帰ってきても、詩がこういう衰弱した非現実の家から生まれないのは自明のことだ。敢えて、このように詩人が生きているかのごとくに言うのは、清風が詩と現実の係わり方を直視出来ていないせいだ。曽良は、詩を捨てていながら詩人を自称する人の、夜の詩のいへにも、空しく届く鐘の音を付けた。清風の句に言うようでは、遺愛寺の鐘撞男も浮かばれまい、と。もしも、清風が商売の富貴を取って、廃院で死ぬ夕顔の女のような、俳諧の方を捨てるというのであれば、仮にその餞とするものが、曽良と芭蕉による結びの付合である。春の山守も、打越の空想の夜の詩人と同じく、芭蕉による、陽光の中に別の詩の捨てかたをした、空想の人である。しかし、つぎの二首を、春の山守によって、読むとき、その餞が哄笑のうちに行われた事が知られる。源氏物語「椎本の巻」の、匂宮との中君の贈答
かざしをる花のたよりに山がつの
垣根を過ぎぬ春の旅人
と、後撰和歌集春中50(「後撰和歌集」松田武夫校訂・岩波文庫)。
花山にて、道俗酒たうべける時に 素性法師
山守はいはばいはなん高砂の
尾上の桜折りてかざさん
旅人が人の気も知らぬ気に勝手なことをいいちらしながら、山がつの垣根あたりを通り過ぎてゆくよ、と清風は言うであろう。しかし、山守がなんといおうとも山桜のにおうあたりに、風流佳人を尋ねて回る、俳諧の風狂の旅はまだ続くのである。山守は、山盛りに、掛けてある。春の山守が、旅人に鳥の餌の餞別を、けぶりとぼしき夜の詩のいへに待つ鳥共の為に、山盛りに渡すのである。ただし、春の山守は、芭蕉の造語ではない。続古今和歌集春歌下116(「(旧)国歌大観」)
建保元年内裏の詩歌合に山中花夕 前中納言定家
さくらがり霞のしたに今日暮れぬ
ひと夜宿かせ春の山もり
というのがある。十一番目の勅撰集の歌ではあるが、定家も、ひと夜宿かせと、言うのであるから、春の山もりも、気を悪くすることはない。かえって、この芭蕉から尾花沢に渡す餞が、彼ら田舎俳諧に巣食う、魑魅魍魎を退散させるべき護符となるはずなのであった。
二つの歌仙で清風は芭蕉たちを独占した形である。尾花沢の他の俳諧者は曽良の「日記」にその名前だけが出てくる。
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八の三、新庄の六月二日の七吟の歌仙(曽良の「俳諧書留」より)
新庄
御尋に我宿せばし破れ蚊や 風流
はじめてかほる風の薫物 芭蕉
(以下略。第三は孤松、四句目は曽良。)
新庄の滞在は、六月一日と二日の二泊である。翌三日には、最上川を下って羽黒に向かう。「御尋に」歌仙で、新庄の俳諧者の全員が一座しているのは、曽良が「俳諧書留」でこれに、「新庄」と前書するのに足りる。曽良の「俳諧書留」はこの歌仙と、芭蕉の発句による、それぞれ「風流亭」、「盛信亭」と前書する、二つの三ツ物を併せて記録している。風流が、尾花沢まで芭蕉を出迎えているなど、新庄の人々が芭蕉を歓迎するのに、用意周到を期したらしいことが窺われる。風流らは強く懇願して、新庄の俳諧を芭蕉の主催に委ねるという形式を、この歌仙に要求したのだったろう。尾花沢に倣って新庄も、芭蕉が発句の連句と、芭蕉が脇の連句の両方を得る為に。しかし、「おくの細道」本文では、最上川の句と、出羽三山巡礼を前にして新庄はすっかり割愛されてしまった。
破れ蚊やは、風流らが見たことがない、玉簾のようなものである。伊勢物語六十四段
昔、をとこ、みそかに語らふわざもせざりければ、いづくなりけむあやしさによめる
吹く風にわが身をなさば玉簾
ひま求めつゝ入るべきものを
返し、
とりとめぬ風にはありとも玉簾
たがゆるさばかひま求むべき
ひま求めつゝ入るべきなのを、芭蕉とするのは誤りだ。御尋は、尋問か詮議に近く、我宿の寝所の狭い隙にも、風流らは、許可なくして立ち入ることができない。玉簾とはこれに似たものかというほどの、新しい蚊帳の中にいるのは芭蕉である。せばしは、古今和歌集雑歌上923(伊勢物語八十七段の歌)
布引の滝のもとにて、人々あつまりて歌よみける時によめる
なりひらの朝臣
ぬきみだる人こそあるらし白玉の
まなくもちるか袖のせばきに
の連想から、伊勢物語の玉簾の贈答に導いて、読ませようとするものだ。蚊帳は、布引の滝のようなものでもある。ぬきみだる人・政治の序列を抜き乱す人は、この夜の風流らである。とりとめぬ風である風流らが、芭蕉の袖に、門人共が犇めいて狭い中に、序列を乱しても受け入れて貰えるかと、訊いているのだ。白玉は、伊勢物語六段の歌によれば、露のことだ。
白玉かなにぞと人の問ひし時
露と答へて消えなましものを
彼らの入門を許可すれば、芭蕉が、あまりにも儚くて、手の掛かる者たちの応接に悩むことは、昔、業平が、伊勢物語五十六段に詠んだ歌に見るのと同じだろうと、風流は言っている。芭蕉に、止せばよかったと、後悔させることになりはしないか。
むかし、をとこ、伏して思ひ、起きて思ひ、思ひあまりて、
わが袖は草の庵にあらねども
暮るれば露のやどりなりけり
脇の、薫物は、賓客のために盛んに焚いている蚊遣火のことだ。蚊を撃退するためか、客を燻すためかわからない。玉簾のような蚊帳を、破れ蚊やとした発句の謙退の方法を正し、蚊遣火の煙を、かほるとして、その燻ぶる思いを受け入れることを約束する。古今和歌集恋歌一500 よみ人しらず
夏なればやどにふすぶるかやり火の
いつまでわが身したもえをせむ
薫物は、火取香炉の中で燻ゆるものだ。いつまで、我が身は一人で燻ぶり悔ゆることかという、蚊遣火の煙を吹きあげる、とりとめぬ風が、はじめて、風の薫物と、賞された。はじめてには、祝言らしい詩文の響きがある。長恨歌の一句
始是新承恩澤時 始めて是れ新たに恩沢を承けなん時
など。「山家集」には、