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十、猿蓑巻頭の芭蕉句
小蓑の句は、初冬の伊賀で披露された。幾つか伝わっている真蹟懐紙、色紙の染筆が、全て伊賀の人々のための、この時のものかどうかは分からない。前書と句の文字使いは皆同じである。
あつかりし夏も過、悲しかりし秋もくれて、山家に初冬をむかへて
はつしぐれさるもこみのをほしげ也 ばせを(芭蕉 桃青)
土芳の「蕉翁全伝」で見るこの句の前書は、真蹟よりも詳しくて、
五百里ノ旅路ヲヘテ、アツカリシ夏モ過、かナシカリシ秋モクレテ、古里ニ冬ヲ迎ヘ、山家ノ時雨ニアヘバ
というのである。およそ五百里の旅路の、夏と秋を過ごした人を迎えた古里の人々に、安堵の挨拶がされた。深川から舟出した「おくの細道」の旅は、大垣で終わる。
露通も此みなとまで出むかひて、みのゝ国へと伴ふ。駒にたすけられて大垣の庄に入ば、曽良も伊勢より來り合、越人も馬をとばせて、如行が家に入集る。前川子・荊口父子、其外したしき人々、日夜とぶらひて、蘇生のものにあふがごとく、且悦び且いたはる。旅の物うさもいまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮おがまんと、又舟にのりて、
蛤のふたみにわかれ行秋ぞ
ここから伊勢に、式年遷宮は内宮が元禄二年九月十日で、これには間に合わないが、外宮が同十三日と定められた期日に合わせて、長途の行脚を生きて帰った報告をしに行くのである。伊勢遷宮奉拝を済ませた時、漂泊の聖性が追認され、かつ解かれて、芭蕉は憧れたものを手にして、帰ってきたのである。もしも生きて帰るならば、それが、この旅が神の嘉し給う旅であった証明であった。漂泊の聖性がそのとき、「おくの細道」の旅に対して付与され、紀行の構想が約束されたのである。したしき人々はいつも貝合わせの貝のように、ようやく巡り逢い、またいつか逢おうとして別れる。この漂泊の日常を、旅立ちの行春の句
行く春や鳥啼魚の目は泪
と、行秋との、二つの句の間に区切る。小蓑の句は、聖別された旅の外側で、この旅を鳥瞰する場所で作られた。
五百里の旅路を経めぐって、旅人は故郷に帰ってきた。山ふかい生家のあたりに現れた猿は、伊勢遷宮奉拝から旅人と同じ道をたどって、道案内をするようだったろう。狙公が握って決して手放すことのない細引きの先に緊がれて、装束は子供の姿に似せてあるが、それは彼が実は獰猛な生き物である表徴である。見物の正客は喝采する子供達である。その芸は太鼓ばかりのささやかな音曲に乗って子供を遊ばせ、自らは楽しむことを知らない生き物である。来る年も来る年も狙公に随って銭を拾う。小さな公演は時雨に遭ってたちまち散会となり、後片付けはそのまま旅支度になる。「初しぐれ」は、「山家集」の歌、
初時雨あはれ知らせてすぎぬなり
おとに心のいろをそめつつ
に倣い、初五に置かれたのだろう。再び旅にゆく猿のために、旅装束に小蓑を、「ほしげ也」と見るのは、猿が子供の姿をしているからである。「夫木抄」三二にある西行法師の歌、
たはぶれ歌とてよみ侍りける
篠撓めて雀弓はる男のわらは
ひたひ烏帽子のほしげなるかな
故郷に安堵することは言うまでもない。旅の物うさは恢復して、やがて蓑を借りる、新しい旅が用意されるだろう。前書は、かって父母の地に育まれた子には許されている筈の、旅立ちの予告をそのまま、安堵の挨拶に重ねてする戯れの、許可を求めている。猿引きが連れた猿の、かって初めての旅立ちは、何者かが子を奪い去る、母の断腸の思いの旅立ちであったが、それは誰も知らず、彼も知らない。あれが、私が街道の仲間とした者だ。心なき身である彼さえもが、この地の初時雨のあはれに感応して、小蓑を欲しそうにしている。この易しいなぞを解いてみないか。
蓑といえば、太田道灌のよく知られた話がある。その話柄の歌。後拾遺和歌集雑五1154
小倉の家にすみ侍りける頃、雨のふりける日蓑かる人の侍りければ山吹の枝ををりてとらせて侍りけり。心も得でまかりすぎて又の日山吹のこゝろもえざりし由、いひにおこせて侍りける返事にいひつかはしける 中務卿兼明親王
七重八重花はさけども山吹の
みの一つだになきぞかなしき
この伊賀に、まだ一つの集もない。伊賀の連衆は、果実をつけない山吹の花のように、悲しい花なのだろうか。私が滞在している間に、この初時雨の効験に預かることにしようよ。
小蓑の句は、猿蓑に先立って、元禄四年五月に板行された「卯辰集」のために、元禄三年中に金沢に送られたらしい。前書は、
伊賀へ帰る山中にて
無事に金沢を送り出してもらって、芭蕉は生きて故郷へ帰った、これが金沢に向かってする芭蕉の挨拶である。都へ、越路を行く古人の旅の歌に替えて、「おくの細道」から伊賀へ帰る山中の句を送った。福井から敦賀まで、越路の道中は「おくの細道」は、次のようだ。
漸白根が嶽かくれて、比那が嵩あらはる。あさむづの橋をわたりて、玉江の蘆は穂に出にけり。鶯の關を過て、湯尾峠を越れば、燧が城、かへるやまに初鴈を聞て、十四日の夕ぐれ、つるがの津に宿をもとむ。その夜、月殊晴たり。‥
これらの歌枕の月見の句が、
福井洞栽子をさそふ
名月の見所問ん旅寢せむ
など、「芭蕉翁月一夜十五句(荊口句帳)」に残っている。都から越へ、越から都への旅路の、多くは羈旅歌・離別歌に詠まれた歌枕を、芭蕉は名月の見所を捜して通過する。芭蕉はこの中の句を、金沢を発って越路も過ぎたと知らせるのならば、適当だろう句のどれも、「卯辰集」のために選ばなかった。芭蕉の越路の旅が、故郷である都を恋しくてめざす、古人の旅に似ていないからだ。「紫式部集」二七(「紫式部集」南波浩校注・岩波文庫)、
降り積みて、いとむつかしき雪を、掻き捨てて、山のやうにしなしたるに、人々登りて、「なを(ほ)、これ出でて見たまへ」といへば
ふるさとに帰る山路のそれならば
心やゆくとゆきも見てまし
越路は都に行く道ではなく、このまま故郷に帰るのでもない。人の作った雪の山のような、名月の見所を作っては通過する。「かへる山」は、都から遥かな越に旅立つ人との離別の際に、再び都へ帰ることを願って多く詠まれた歌枕だが、越から都への道中の歌もある。「紫式部集」八一、
都の方へとて、かへる山越えけるに、呼坂といふなるところの、わりなき懸け路に、輿も舁きわづらふを、恐ろしと思ふに、猿の、木の葉の中よりいと多く出で来たれば
猿もなを(ほ)遠方人の声交はせ
われ越しわぶるたごの呼坂
紫式部が、かへる山の呼坂で見た猿を、遥かな時と空間とを越えて、越路ではなく、伊賀へ帰る山中にきて、芭蕉も見た、と金沢に報じたのである。それがいま、どんな姿をして、この世を漂泊しているものであるかは、金沢の連衆が解くべき、句のなぞに属する。
九月、晩秋に想を得た句が、初冬の伊賀で披露されても、歳旦帳の句の場合を見るまでもなく、この季語に何の不審もない。仮に山中で手帖に控えられたとしても、句の瑕とはならない。仮に伊賀に雨が降らなければ、この句はないことになるのだ。しかし、「伊賀へ帰る山中にて」と前書して金沢に送れば、「卯辰集」を見る人は(編者の北枝らはともかく)、句が、伊賀へ帰る山中から、金沢に報じられたものと読むだろう。芭蕉が伊賀に到着したのが、九月中であるのは、多くの人々が知っている事実だ。九月に使った冬の季語・初時雨の不審は、容易に解けない。「卯辰集」の読者がいつまでも芭蕉の旅程を知らずにいて、この句を、初冬の山路の句として芭蕉が金沢に報じたと読んだ、とすることはできない。
金沢の読者が、晩秋の景を強いて初冬の景に言いなすことは、有り得ないことを知り、この句が、すでに伊賀で披露された句であることに気付けば、解は一つだけある。前書は、「伊賀へ帰る山中にて、想を得た作」、と読まなければならない。すなわち、伊賀の連衆は知らないことであるが、小蓑の句は、かへる山の句がなかった越路の道中で、すでに伊賀のために、胚胎していたといえる。「伊賀へ帰る」とはそういうことだ。小蓑の句は金沢に、こういうなぞも訊いていた。
小蓑の句は、真蹟懐紙と「卯辰集」と、どちらの前書も外して、京の連衆の撰集に与えられた。「晋其角序」は、
只誹諧に魂の入たらむにこそとて、我翁行脚のころ、伊賀越しける山中にて、猿に小蓑を着せて、誹諧の神を入たまひければ、たちまち断腸のおもひを叫びけむ。あたに懼るべき幻術なり。
と、「卯辰集」の前書を踏襲するようだが、「伊賀へ帰る山中にて」と「伊賀越しける山中にて」とは同じではない。其角には、「卯辰集」の芭蕉の工夫は要らない。伊賀越は、「奈良時代の官道。大和から山城の笠置を経、伊賀の柘植に出て、鈴鹿関に通じた街道の称。(「広辞苑」)」である。江戸からみれば、関から水口・草津を経て京に至る東海道の、裏街道をいう。伊賀を通過して、去来・凡兆らの京に出て、猿蓑を板行することになった、それ以前にも湖南の連衆と「ひさご」を出した、その行脚のころの、京・湖南に至った道程の小部分を言うのである。「晋其角序」は、「去来・凡兆のほしげなるにまかせて書」かれた、京の撰集の序である。伊賀越なる語は、伊賀と金沢から小蓑の句を奪い取った、京の連衆の仕業を韜晦するために、選んだのだろう。伊賀と金沢は、この前書で披露されたこの句を、奪われて手放さなければならなかった。その名目は、猿蓑の板行が、「晋其角序」の冒頭に、
俳諧の集つくる事、古今にわたりて此道のおもて起べき時なれや。
と主張するのによって充分である。
「晋其角序」は言うまでもなく、小蓑の句の前書ではないが、ここにある其角の句解は、「あたに懼べき幻術なり」という措辞を含めて、芭蕉が裁可したものだ。またこの読みは、これを書かせた去来・凡兆のものでもある。
断腸の故事は、「世説新語」黜免(「世説新語」竹田晃訳・中国の古典21)によるという。
桓公蜀に入り、三峽中に至るに、部伍の中にW子を得る者有り。其の母岸に縁りて哀號し、行くこと百餘里にして去らず。遂に跳りて船に上り、至れば便即ち絶ゆ。其の腹中を破り視れば、腸皆寸寸に断えたり。公之を聞きて、怒りて、命じて其の人を黜けしむ。
子猿はこのまま人に飼われることになる。其角が断腸の語を持ち出したのは、いずこからか奪われて猿引きの猿となったものを、更に去来・凡兆が奪って、この猿蓑の巻頭に置いたことによる。句を奪われた者の悲しみはさることながら、去来・凡兆に、「公之を聞きて、怒りて、命じて其の人を黜けしむ」という罰が、桓温ならぬ、賢明なる集の読者から与えられるかもしれない。一見しては陳腐な断腸の語を使って、集の序らしい挨拶の韜悔の修辞と、句解を兼ねたのだ。
幻術については、「撰集抄」の不思議の中でも、西行が自ら手を下した怪奇によって説明した。巻五第一五話「西行於高野奥造人事」で、西行は、高野の奥に住んで、孤独になり人恋しさのあまり、「信ずべき人のおろおろ語り侍りし」ことをそのままに、野に捨てられた人骨を集めて編み、造人の術を施したところ、未熟のため、色も悪く吹き損じた笛のような声を出す、人間に似て非なるものができてしまった。不審をただすために、教えてくれた徳大寺を訪ねたが留守だったので、「伏見の前の中納言師仲の卿」のところへいって、いろいろ教えられた。(「撰集抄」西尾光一校注・岩波文庫の「解説」より。この項は「解説」の調査に多く負う。)
「その事に侍り。廣野に出て、人も見ぬ所にて、死人の骨をとり集めて、頭より足手の骨をたがへでつゞけ置きて、砒霜と云藥を骨に塗り、いちごとはこべとの葉を揉みあはせて後、藤もしは絲なんどにて骨をかゝげて、水にてたびたび洗ひ侍りて、頭とて髪の生ゆべき所にはさいかいの葉とむくげの葉を灰に焼きてつけ侍り。土のうへに疊をしきて、かの骨を伏せて、おもく風もすかぬやうにしたゝめて、二七日置いて後、その所に行きて、沈と香とを焚きて、反魂の秘術を行ひ侍りき」と申し侍りしかば、「おほかたはしかなん。反魂の術猶日あさく侍るにこそ。我は、思はざるに四條の大納言の流をうけて、人をつくり侍りき。いま卿相にて侍れど、それとあかしぬれば、つくりたる人もつくられたる物もとけ失せぬれば、口より外には出ださぬ也。それ程まで知られたらんには教へ申さむ。香をばたかぬなり。その故は、香は魔縁をさけて聖衆をあつむる徳侍り。しかるに、聖衆生死を深くいみ給ふほどに、心の出くる事難き也。沈と乳とを焚くべきにや侍らん。又、反魂の秘術をおこなふ人も、七日物をば食ふまじき也。しかうしてつくり給へ。すこしもあひたがはじ」とぞ仰せられ侍り。しかれども、よしなしと思ひかへして、其後はつくらずなりぬ。
西行は、あともうすこしで、西行的人間ではない人になるところから引き返した。七日物を食わずにいて、香を焚いた替わりに乳を焚いて、反魂の秘術をもういちど行えば、もはや、西行は本の作者の手に余る人物に変貌したことだろう。しかし、人跡も希な高野の奥に放置した、化け物のごときものの始末はどうなるのか。
この本が、慶安四年本(1651)の識語に、
撰集抄者西行上人之所作也。或謂不也。盖人物時代和歌作者齟齬者夥矣。豈彼上人之作哉。雖然難波春夢江口秋雨殆非他人之詞矣。余嘗見此書之序曰巻擬九品淨土事比八十随好。就而考之凡属事蹟者百十余段。想是其三十余事則後人之所添而非上人之所記歟。読者不取其疑只翫其余焉耳。
と、言うことは折衷案のようだが、西行自著にはっきり疑問を提出して、と言うよりそれを否定しながら板行されているのを、其角も見ているだろう。作者について、この本に添えられた伝承もないことも知られる。見ずとも、古今和歌集や拾遺和歌集の作者についてさえ、齟齬する所があるのでは(巻八第一六話、同第三〇話、同第一〇話)、この識語も不要なのである。この本の目的が、識語の、「読者不取其疑只翫其余焉耳。」にないことが確かだ。読者が、「撰集抄」でも、山家集の西行に出会おうとして、疑わしいところを取り去っていけば、ここには何も残らない。
「撰集抄」全篇一二一話の中で、西行没後に詠まれた歌が出てくる話が、三つある。「西行物語」では、建久九年(1198)二月十五日となつている西行の没年は、史実は文治六年(1190)二月十六日であるが、元禄二年は西行五百年忌と喧伝されて、どちらかの年は、誰もが知るところだ。
巻六第八話では、西行に仮託された主人公が、信濃国さののわたりを通った折に、秋草を手折って結んだ庵に閑居する不思議な僧をみかける。六種の秋草に紙で札を作りつけ、
夕さればまがきの荻に吹く風の
目にみぬ秋をしる涙かな
など、六首の歌を書いてあった。これは、西行没後二六年に当る、建保四年(1216)成立の「土御門院御百首」の中の六首である。その内の二首は、続古今和歌集秋歌上353(二句は「まがきの荻を」)と304であり、一首は続拾遺和歌集秋歌上248である。土御門天皇は、建久九年正月十一日、四歳で受禅した。承元四年(1210)に、順徳天皇に位を譲る。「承久記」、「増鏡(第一おどろの下)」に詳しい。
巻九第一一話では、主人公が、陸奥の国に行った折、信夫の郡くづの松原で、覚英僧都の閑居往生の跡なるものを発見する。この覚英は、
花をのみ惜しみなれたるみ吉野の
木の間におつる有明の月
という名歌をよみ、若くして出家、名利をすてて諸国を流浪した人だ、としている。この歌は、続後拾遺和歌集秋歌下358、大蔵卿有家の歌で、詞書きは、「建仁元年(1201)八月十五夜和歌所の撰歌合に、深山暁月といへる事を」。四句が、「梢に落つる」である。
もうひとつ、巻六第一一話では、主人公が、秋の花の咲き乱れた武蔵野を過ぎ、
武蔵野はゆけども秋のはてぞなき
いかなる風の末に吹くらん
と感興を述べているが、この人物の自詠なのか、他人の歌を朗吟したというのか、はっきりしない。この歌は、新古今和歌集秋歌上378、左衛門督通光の歌で、詞書きは、「水無瀬にて、十首歌たてまつりし時」。初句は、「武蔵野や」である(四句が、「いかなる風か」とある本も)。建仁元年の作だというが、これは、調査が困難かもしれない。
「撰集抄」には、西行自著を装って、読者を信じさせる意図がないのだ。反対に、作者は、これを知らせるために、「解説」の調査によれば、主要なものを挙げただけで、四一話に及ぶ、錯誤を設けた。誰にもこの内の一、二で充分だ。勅撰集は、八代集だけを読み、あるいはこれに加えて新勅撰和歌集、続後撰和歌集だけを読む、という俳諧宗匠はいないだろうから、西行が、もしや、転合書の人物のごとき自画像を書いたのではないか、という空想を満たすこともできないのである。錯誤はそれぞれ簡単ななぞを訊いているが、どれを解いてもそれらしい興趣は少ない。仏教説話集として、その目的を跋に言う。
いみじき人々を書き載せて、且はかの人々のごとくならんと欣求し、且はこれ閑居の友にせんとて
この中の詩歌雑談は、
新羅の元暁法師の言葉に「他作自受の理なしといへども縁起難思の力あり」と侍れば
ここでは、西行の仮面といえども、「他力をも蒙れかし」という、一素材である。巻五第一五話「西行於高野奥造人事」の怪奇による寓言は、作るまでは作ったが、高野の奥に放棄した人骨のごとく、「撰集抄」の西行像は、この本から出て一人歩きすることがない、ということだ。西行説話の西行が、すでに幾つも、人の顔をして歩き回っている。人にするその方法は作者も知っているが、西行を愛する故なのだろう、「よしなしと思ひかへして」とらないのである。 西尾光一の「撰集杪」解説に言う。
第二は、仮宅の書であることが明らかにされるまでの長い年月、「撰集杪」は西行自著と信じられて読まれ続けてきたという点である。芭蕉が、「西行・宗祇・雪舟・利休」とならべて、自己の文学的系譜の頂点に据えて敬愛追慕したその西行は、芭蕉の場合、この「撰集杪」をふくめて理解感得された西行像であったことなどは、その顕著な例である。
芭蕉ら俳諧師で、「撰集杪」が西行の著作だと理解した者はいない。すなわち、解説にいう、「この「撰集杪」をふくめて理解感得された西行像」には、「撰集杪」が西行と関係がない本であるという事実の理解感得も、含まれている。名も知れぬ作者、という理解ではない。名利を捨てて文学的成果を達成した先達を確認したのだ。俳諧と近親の、かつ先駆的な文学的手法を、芭蕉らがここに読んだことを意味する。しかし、芭蕉の小蓑の句では、「撰集抄」においては中断された、「あたに懼るべき幻術」が、生きた猿を作ったわけだが、これを取って、孤独の人が友とすることがあるかどうか、と危惧する。
小蓑の句は、「これを元として此集をつくりたて」る、即ち、この句によって猿蓑の新風を一挙に理解させるに足る、と宣言された。この集を通読して、秀逸に交じる幾つかの凡庸な句を発見する、つまりは、読者がこの集の水準を計ってようやく、この集が、「古今にわたりて此道のおもて起すべき」意図のある集だと、理解する。それに先立って、巻頭のこの句が、新風に掲げられた旗となって、読者の理解を、新しい俳諧に誘導するのである。このために「晋其角序」が言う幻術は、充分に定義されていなければならない。
新風の宣言ということであれば、この句だけが、その役割を担うとする根拠はおそらくない。けれども、満尾した連句の発句が、取り替えが効かないのと同じ理由で、もはやこの句の代わりに、また、この句の前に、別の句を置くことはできない。発句に脇が対するように、すなわち、「三冊子(白雙紙)」に、
まづ発句出づるとよく聞きしめ、させる事みえずとも、作者より句意をあらはすやうに挨拶して、よく聞きふせて脇をすべし
という、去来・凡兆らの、「よく聞きふせて」した小蓑の句の読みが、猿蓑の構成を決めたのである。小蓑の句を巻頭に置いて、冬の部から、季節の順にもよらずに異例の部立てを構成する。これが、芭蕉の教示に依存するのであれば、去来・凡兆らの小蓑の句の読みによる提案でなければ、京の撰集の名は意味がない。
「去来抄(先師評)」〔三二〕はしりとねばり(「俳論集」全集)
いそがしや沖のしぐれの真帆かた帆 去来
去来曰く「猿蓑は新風の始め、時雨はこの集の眉目なるに、この句仕そこなひ侍る。ただ、有明や片帆にうけて一時雨、といはば、(略)
と書いた、この集の眉目、時雨の句十三人の吟声は、小蓑の句の読みに応じて、この句の句意をあらわすように謂集したのである。「紫式部集」八一、
猿もなを(ほ)遠方人の声交はせ
われ越しわぶるたごの呼坂
この歌の遠方人・旅人の一人となって、作られた小蓑の句は、この句もまた、俳諧の越しわぶるわりなき懸け路で、励ましの声を交わし合う、遠方人を求めていた。連衆の声が、やはり時雨の景の中にいて、京と湖南、そして伊賀から聞こえる。森田蘭「猿蓑発句鑑賞」が、
近江を中心とした「時雨」の景の意識的な編集の痕が伺える。伊賀、三井寺、堅田、瀬田(二句)、嵯峨広沢、琵琶湖上、伊賀、大原里、竹田里、(「だまされし」「新田に」は不明)、琵琶湖上という風に。
と書く通りだろう。全て、芭蕉と共に動いていくパノラマの、時雨の景だ。江戸の其角の声も、遥かに芭蕉に聞こえるように、三井寺の鐘の音に託して届けられた。
そして杜甫詩、「乾元中寓居同谷縣作歌七首」、その一、客居貧苦のさまをいう詩(「杜詩」鈴木虎雄・黒川洋一訳注・岩波文庫)。
有客有客字子美 客有り客有り字は子美
白頭亂髪垂過耳 白頭乱髪垂れて耳を過ぐ
歳拾橡栗隨狙公 歳々橡栗を拾うて狙公に随う
天寒日暮山谷裏 天寒く日暮る山谷の裏
中原無書歸不得 中原書無うして帰り得ず
手脚凍皴皮肉死」 手脚凍皴皮肉は死す」
鳴呼一歌兮歌已哀 鳴呼一歌す歌已に哀し
悲風爲我從天來」 悲風我が為めに天従り来たる」
卿相、富貴な者ではなく、旅芸人の主に往来する街道を、ことしも旅人は狙公の後を付いてゆくようにして旅する。狙公の連れていく者と同じく、行く先はあなた任せだ。詩人の天来の想を借りて、旅の実景を句に引き直してみる。悲しそうな風は雨を呼んで、狙公の肩に乗った猿が濡れている。去来・凡兆が、詩の終聯、「鳴呼一歌兮歌已哀 悲風爲我從天來」を使って、この句を第一歌として巻頭に置く。
ただし、芭蕉がこの詩を、詩の中に芭蕉の感慨がそのままあると、去来・凡兆らに読ませる意図はない。むしろこれは、去来・凡兆らが、男児一般の生涯をよく把握しているとして愛唱して、逆に芭蕉に教えるかもしれない詩である。そのその三、弟をおもってつくる詩の、三人を、連衆として歌仙を興行するのに都合のよい人数として、かれらを数えて牽強付会するのである。
有弟有弟在遠方 弟有り弟有り遠方に在り
三人各痩何人強 三人各々痩せたり何人か強なる
生別展轉不相見 生別展転相見ず
胡塵暗天道路長 胡塵天に暗うして道路長し
東飛駕鵝後X鶬 東に飛ぶは駕鵝後にはX鶬
安得送我置汝傍」 安んぞ我を送って汝が傍に置くことを得ん」
鳴呼三歌兮歌三發 鳴呼三歌す歌三たび発す
汝歸何處収兄骨」 汝帰るも何の処にか兄が骨を収めん」
去来・凡兆が芭蕉と一緒に杜甫の弟になりたがっているとして、これを読むなら良い。しかし、この詩の作者を芭蕉に準えて阿るのは、許されないのである。なぜなら、去来・凡兆らが抱いている悲憤慷概が、この詩人によって鎮められるとしても、芭蕉の受容の態度と同じではないからだ。それは、「幻住庵記」によっても明らかにされている。杜甫が儒をもってみずから任じた詩人であるのに比べて、芭蕉は、此一筋につながる、俳諧が人を繋ぐことになった、世に希有というべき、純粋な詩人であることを宣言している。その七、長安卿相の栄達と自己晩年の不遇とを対比して感慨を述べた詩。
男兒生不成名身已老 男児生まれて名を成さず身已に老ゆ
三年飢走荒山道 三年飢走す荒山の道
長安卿相多少年 長安の卿相少年多し
富貴應須致身早 富貴には応に須らく身を致すこと早かるべし
山中儒生舊相識 山中の儒生は旧相識
但話宿昔傷懐抱」 但だ宿昔を話すれば懐抱を痛ましむ」
鳴呼七歌兮悄終曲 鳴呼七歌す悄として曲を終う
仰視皇天白日速」 仰いで皇天を視れば白日速やかなり」
読めば、いかにも抵抗しがたく、一般の男児の慷概にかわって既に委曲が尽くされているという、不快感と名付けたい思いがやって来る。同じことを、去来・凡兆がなぞることはあっても、芭蕉が言う契機は、訪れることはない。
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十一、芭蕉の、猿と狙公の句
芭蕉の、猿の字を使った句と、狙公・猿引(曳)の句は、発句、連句中の句を併せて、九つある。
一、「野ざらし紀行(甲子吟行)」の句。貞享元年(1684)秋。
猿を聞人捨子に秋の風いかに
二、「おくの細道」の途中、那須黒羽の、「Fおふ」歌仙の二十九句目。元禄二年(1689)四月。
蔦の葉は猿の泪や染つらん
三、同じく尾花沢の、「おきふしの」歌仙の三十三句目。元禄二年五月下旬。
繋ばし導く猿にまかすらん
四、猿蓑の巻頭の句。元禄二年冬。
初しぐれ猿も小蓑をほしげ也
五、伊賀の連衆と興行した、「木の本に」四十句の六句目。元禄三年三月二日の前書がある。
猿のなみだか落る椎の実
六、猿蓑の、「市中は」歌仙の十七句目。元禄三年夏。
さる引の猿と世を経る秋の月
七、「續有磯海」などの句。「芭蕉句選」に元禄四年の句とするが、年次不詳。
猿引は猿の小袖をきぬたかな
八、元禄六年の歳旦句。
年々や猿に着せたる猿の面
九、「続寒菊」などの、「五人ぶち」歌仙の第三。元禄七年春。
猿曳の月を力に山越て
十、延宝九年の、木因宛芭蕉書簡〔一〕中の文字。
(略)愚句も烏之句・猿の句(未詳)、皆仕そこなひ残念に存候。(略)
記録に見える芭蕉の猿の句では、「野ざらし紀行」の句が最も早いのだが、それ以前にも未詳の句ながら存在したことが知られる。全て失われたのは、芭蕉の意図であるかどうかわからない。
十一、その他、句ではないが、「枇杷園随筆」士朗編・文化七年(1810)刊に載る句文。「笈の小文」の句、
ちゝはゝのしきりにこひし雉の声
を末尾に置く、「高野登山端書」(貞享五年三月と推定)。この一節に、猿の字を使った。文末に、「右秋挙夜話」と典拠を示す。秋挙は士朗門の俳人。「秋挙夜話」という本は現存しない。(「諸本対照・芭蕉俳文句文集」)
(略)一印頓成の春の花は、寂莫の霞の空に匂ひておぼえ、猿の声、鳥の啼にも腸を破るばかりにて、御 をこころしづかにをがみ、骨堂のあたりに彳て、倩おもふやうあり(略)
引用は、次の「撰集抄」巻七第八「覺鑁上人事」の一節をほぼそのまま使ったものだ。こういうことを滅多にしない芭蕉が、何のために西行の口まねをして見せるのか分からない。
近比、高野の御山に、覺鑁上人とてやごとなき聖おはしけり。眞言宗を悟りきはめて、一印頓成の春の花は、匂ひを寂莫の霞の衣にうつし、禪心の秋の月は、ひかりを無垢の心の内に照して(略)
「猿の声、鳥の啼にも腸を破るばかり」というのも、「さけびたる猿のこゑ」を、「撰集抄」が巻八第八「江口遊女歌之事」などに幾度も使う。同巻一第七「讃州白峯之事」から。
長夜のあかつき、さけびたる猿の聲をきくに、そゞろにはらわたを斷ち侍り。
「高野登山端書」が偽作ならば理解できる。西行の作なる「撰集抄」を作った何者かに倣って、士朗らが、芭蕉が書いた「高野登山端書」を作ったのであろう。「笈の小文」では地の文はない。
高野
ちゝはゝのしきりにこひし雉の声
ちる花にたぶさはづかし奥の院 万菊
十二、これも句ではないが、「去来抄(先師評)」〔二〇〕自称と他称の中で、去来を詰問する芭蕉の言葉。
岩鼻やここにもひとり月の客 去来
先師上洛の時、去来曰く「酒堂はこの句を、月の猿、と申し侍れど、予は、客勝りなん、と申す。いかが侍るや」。先師曰く「猿とは何事ぞ。汝この句をいかに思ひて作せるや」。去来曰く「明月に乗じ山野吟歩し侍るに、岩頭また一人の騒客を見付けたる」と申す。先師曰く「ここにもひとり月の客と、己と名乗り出づらんこそ。(略)
「猿とは何事ぞ」というのは、詰問するのだ。酒堂の答を聞きたいものだが、黙って聞いていた去来も同罪だというのである。
猿蓑の巻頭の句の猿引は、どこからやってきたのか。そして芭蕉の俳歴のうちでは何故か遅く、貞享元年に初めて使った猿の字は、猿引が連れてあらわれた猿と、違う種類の猿なのだろうか。それを見るために九つの句を、右の年次の通りではないが、読んで行く。安東次男「芭蕉発句新注」は、猿蓑の巻頭の句について何と言っているか。要約できない注なので引用が長い。
(略)「初」に動いた興が「小蓑」の「小」を誘い出したところを見とめれば、多言を要しない。蕉風連句にいう「ひびき」、「にほひ」の付味が、一句の仕立に活されている。一行詩だけ作っていてはできない句である。蓑を着た(あるいは蓑をほしがっている)人間の目で眺めれば、この句は、猿にも小さな蓑をやれという思付の句になってしまう。そういう観察の次元からは離れて作られている。因に句には、「あつかりし夏も過、悲しかりし秋もくれて、山家に初冬をむかへて」と、行脚の事実とは違えた工夫を前書とした真蹟も書遺されている。
「観察の次元」とは、「風狂始末」で、「ならば発句は、あの日の野猿に替って今度は吾々があなたの冬ごもりを祝う、と師に告げている送別の句になる」と書いた、去来句・発句が、「あの日」の野猿を観察した次元までも含むのか。諸注に見る、「観察の次元」は、確かにこの句を、「猿にも小さな蓑をやれという思付の句」にしてしまっているようだが、それとこれと、どれほどの違いがあるのか。「「初」に動いた興が「小蓑」の「小」を誘い出したところ」を、芭蕉が山中で野猿を見ている光景を作って重ねるのならば、「多言を要しない」という訳にはいかないだろう。「風狂始末」ですら、あの日の野猿が、芭蕉の冬ごもりを祝っていると、去来句に読ませている。一旦、野猿を想像して作り出せば、既に注釈は、「観察の次元」に入りこんだのだ。初しぐれの、「「初」に動いた興」つまり珍しさの行く先を、山中には野猿がいて、という現代の先入観に求めている。昔なら、山中で猿に出会わないでもないだろうと、こういう紋切り型の先入観は、幾らでもある。しぐれに初の字を付けただけで、野猿に冬ごもりを祝ってもらうという思い付きも、想像の野猿を観察する次元で、辛うじて生まれた光景ではないのか。鳶が芭蕉を知っているように、野猿が芭蕉を知っていたと、「風狂始末」は言っているのだ。去来句の鳶にそうさせたいように、野猿が芭蕉の冬ごもりを祝ったとするのならば、野猿は芭蕉の近しい知己である筈だが、「多言を要しない」という「風狂始末」のために、芭蕉がどんな猿に会ってきたかを見ることにする。
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十一の一、七つ目の句
「続有磯海」では「擣衣」と前書し、「蕉翁句集」によれば元禄四年の句である。
猿引は猿の小袖をきぬた哉
「続有磯海」の前書によって杜甫詩「擣衣 衣を擣つ」を見る。
亦知戍不返 亦た知る戍の返らざるを
秋至拭清砧 秋至りて清砧を拭う
已近苦寒月 已に近し苦寒の月
況經長別心 況んや長別の心を経たるをや
寧辭擣衣倦 寧ぞ辞せん擣衣の倦むことを
一寄塞垣深 一に塞垣の深きに寄す
用盡閨中力 用い尽くす閨中の力
君聽空外音 君聴け空外の音を
句を詩に当てはめれば、猿引は戍人(遠征している夫)の妻、猿は戍人となる。猿引と猿とは、細引きの長さに繋がれて一組となり、猿の芸によって口に糊する者たちであるが、女と男がいつもこのように繋がれているはずのものでもない。解き放たれた者たち、閨婦と嫖客のそれぞれの愁いと行状は、杜甫詩「擣衣」と次の、李白詩「子夜呉歌 其三」(「李白」武部利男注・中國詩人選集)とにそれぞれ述べられている。
長安一片月 長安 一片の月
萬戸擣衣聲 万戸 衣を擣つ声
秋風吹不盡 秋風 吹いて尽きず
總是玉關情 総べて是れ 玉関の情
何日平胡虜 何れの日か 胡虜を平らげて
良人罷遠征 良人 遠征を罷めん
どちらの側でも、いったいどんな化粧をした胡虜を平らげていることか、あるいは、戍の返らざるを知って用い尽くす閨中の力を、疑えば幾らでも疑えるのではあるが、普通の人々の嗤うべき迷妄がそのまま杜甫詩や李白詩に登場する訳はない。
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十一の二、六つ目の句
猿蓑の「市中は」歌仙の初折の裏の句。
‥
僧やゝさむく寺にかへるか 凡兆
さる引の猿と世を経る秋の月 芭蕉
‥
「三冊子(赤雙紙)」は、
二句、別に立ちたる格なり。人の有様を一句として、世の有様を付とす。
と極めて簡単に説く。猿のような、飼い慣らし難きものを飼い慣らして、世に経る道の資とするのが「世のありさま」である。凡兆の前句に、「唐詩選」巻六、五言絶句の賈島詩「尋隠者不遇 隠者を尋ねしも遇わず」(「唐詩選」前野直彬注解・岩波文庫)
松下問童子 松下にて童子に問えば
言師採藥去 言う 師は薬を採らんとして去れり
只在此山中 只だ此の山中に在らんも
雲深不知處 雲深くして処を知らずと
を使ってあるのを見て、「三体詩」五言律詩、四実の賈島詩「題李疑幽居 李疑が幽居に題す」(「三体詩」村上哲見・中国古典選)の僧の様と見込んだのである。
閑居少隣竝 閑居 隣並少に
草徑入荒園 草径 荒園に入る
鳥宿池中樹 鳥は宿る 池中の樹
僧敲月下門 僧は敲く 月下の門
過橋分野色 橋を過ぎて 野色を分ち
移石動雲根 石を移して 雲根を動かす
暫去還來此 暫らく去りて 還た此に来る
幽期不負言 幽期 言に負かず
第四句は「推敲」ということばの源で、賈島は、はじめ「僧推月下門」としていたのを、推を敲に改めるべきか思案しながら道を歩くうちに、韓愈の行列に突っ込んでしまったという有名な逸話をもつ。
苦吟の詩人が、詩の効験を求めてするあれかこれかを「人の有様」とする。「として」は助詞ではなく、芭蕉句が、「世のありさま」をもって付とすることで前句に、「人の有様」という一句の格を立てしめたのである。推としても敲としても、物の言いようでは変わりようがないことがある。それを「世のありさま」という。紫式部が、あるとき病を得ることがあつて、歌がたりの歌絵を見ながら人生観の練習を試みた。「紫式部集」九八と九九
「かひ沼の池といふ所なんある」と、人のあやしき歌語りするを聞きて、心(試)みに詠まむといふ
世に経るになぞかひ沼のいけらじと
思ひぞ沈むそこは知らねど
又、心ちよげに言ひなさんとて
心ゆく水のけしきは今日ぞ見る
こや世に経つるかひ沼の池
戯れに、生きている甲斐もないとも、生きてきた甲斐があったとも、どのように言いなしても、かい沼の池にさざ波一つ立つわけではない。「世に経る道」のからきものであることは誰にも解りきっている。しかしこの一時は、病床のつれづれの慰めに歌語りを読んでくれる人の為に、感謝して、歌と絵の効験を人と共にしようというのである。「紫式部集」二三
塩津山といふ道のいとしげきを、賎のお(を)のあやしきさまどもして、「なを(ほ)、からき道なりや」といふを聞きて
しりぬらむ往来に慣らす塩津山
世に経る道はからきものぞと
芭蕉句は「世を経る」であって「世に経る」ではない。「世に経る道」のからきことを味わい尽くした、充分に経験を積んだ、と読める。飼い慣らし難きものによって、あるときは夜離れのからきめを見せ続けられ、あまつさえ先立たれる。そういう頃、心ないという外はない人の訪問を受けねばならない。返歌は取りつくしまもない。「紫式部集」四九と五〇
門たたきわづらひて帰りにける人の、翌朝
世とともに荒き風ふく西の海も
磯辺に波は寄せずとや見し
と恨みたりける返りごと
かへりては思ひ知りぬや岩かどに
浮きて寄りける岸のあだ波
これに似た、もっと扱いかねた経験もある。藤原道長の深夜の不意の訪問。
「紫式部集」七五と七六
夜更けて戸をたたきし人、翌朝
夜もすがらくひなより異になくなくぞ
真木の戸口にたたきわびつる
かへし
ただならじとばかりたたくくひなゆへ
あけてはいかにくやしからまし
果たしてこれで断ったことになるのかどうか。一般に式部と道長の関係はあったことと憶測されている。凡兆の句の月下の僧は、「寺にかへるか」とあるのは、おとなしく寺に帰ったのだろうか。「暫らく去りて 還た此に来る。幽期 言に負かず。」と、自分勝手なしつこい男であるのかもしれない。芭蕉が、前句の中七に、はじめ「山にかへるか」とあった山を寺に直したのは、僧が、「三体詩」五言律詩、前実後虚の賈島詩「暮過山寺 暮に山寺を過る」
衆岫聳寒色 衆岫 寒色聳え
精盧向此分 精盧 此に向いて分る
流星透疎木 流星 疎木を透り
走月逆行雲 走月 行雲に逆らう
絶頂人來少 絶頂 人の来ること少に
高松鶴不羣 高松 鶴 群せず
一僧年八十 一僧 年八十
世事未曾聞 世事 未だ曽て聞かず
この山寺の、世事を知らぬ年八十の老僧と、間違えられるのを避けたのであろう。
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十一の三、九つ目の句
元禄七年春の、野坡と芭蕉の、両吟の「五人ぶち」歌仙の第三(第三までを示す)。
五人ぶち取てしだるゝ柳かな 野坡
日より日よりに雪解の音 芭蕉
猿曳の月を力に山越て ゝ
‥
歌仙興行の状況が判らないが、芭蕉庵の俳席とすればこの柳は属目のものではないだろう。「評注七部集」に「五人扶持ハ柳アル家ノ程ヲ云ヘルナリ。」というこの家の暮らし向きも、芭蕉庵のことではない。野坡が「炭俵」の芭蕉の「むめがゝにのっと日の出る山路かな」の句を発句とする両吟の歌仙に続いて、再び両吟の歌仙の相手に選ばれたことの挨拶を「五人ぶち取て」と言ったものか。もしこの俳席が人麿影供のそれであるなら、発句のしだり柳は、風雅和歌集春歌中96 人丸(「(旧)国歌大観」)(万葉集巻十1852は作者不記で三句「かづらける」)
百敷の大宮人のかざしたる
しだり柳は見れどあかぬかも
の柳だろう。新古今和歌集春歌下104 赤人(万葉集巻十 1883では作者不記で四、五句は「梅をかざしてここに集へる」)
ももしきの大宮人はいとまあれや
桜かざして今日もくらしつ
の良く知られた桜、あるいは梅の花に比べて地味ではあるが、大事な俳諧の発句の本歌としてこれ以上のものはなかなか選べない。五人扶持を自称しながら、古今和歌集雑歌下1000
歌めしける時に、たてまつるとて、よみて奥に書きつけてたてまつりける
伊勢
山川の音にのみきくももしきを
身をはやながら見るよしもがな
この歌を奥に隠してある。柳といえば陶淵明「五柳先生傳」や白楽天詩「隋堤柳」などあり、離別の詩文も多い。脇は発句を、詩文に誘う意図があるものと執りなす。「紫式部集」二八
年返りて、「唐人見に行かむ」といひける人の、「春はとく(解)く(・)るものと、いかで知らせたてまつらむ」といひたるに
春なれど白嶺の深雪いや積り
解くべきほどのいつとなきかな
娘のころの紫式部を、藤原宣孝が「唐人見にゆかむ」と任国の越前に誘ったのに、答えた歌である。宮仕えのころの歌には、「紫式部集」六二
つれづれとながめふる日は青柳の
いとど憂き世に乱れてぞふる
もある。発句の誘いを受けるべきしだり柳は、先の歌の伊勢のように、野坡が隠しているらしい、いつまでも百敷ばかりを憧れている女ではなく、古今和歌集雑歌下938
文屋のやすひで、みかはのぞうになりて、あがた見にはえいでたたじやと、いひやれりける返事によめる 小野小町
わびぬれば身をうき草のねをたえて
さそふ水あらばいなむとぞ思ふ
の、小町のような浮気なのでもない。「雪解の音」は「山川の音」でもあり、たぎつ瀬の音でもあるが、堅い深雪がゆっくりと溶けてゆく瀬音である。慎ましくてこういうのが飽きないのだという。第三は脇にようやく好転してゆく事情の気配を見て、朗報を得て月の山路を行く猿曳を付けた。脇の品定めは、帚木の蜃気楼に過ぎなくても、独り身らしい野坡に対する教育になるだろう。絵に書いたような女ならば、発句で見た、人麿の歌のある風雅和歌集雑歌上1561と1562の貫之の屏風歌。
承平五年、内裏の御屏風に、月夜に女の家に男いたりてすのこに居て物云はせたる所 貫之
山の端に入なむと思ふ月見つゝ
我はと乍らあらむとやする
女返し
久堅の月のたよりに来る人は
いたらぬ所あらじとぞ思ふ
の女だろうが、絵にも書けない女、言い換えればそこらにいる現実の女というものは、「いたらぬ所あらじ」などとは要求しないかわりに、「紫式部集」九三
なにのお(を)りにか、人の返・(り)ごとに
入る方はさやかなりける月影を
うはの空にも待ちし宵かな
のようには山の端の月影の、来ぬ人をただ待っているばかりではない。「月のたよりに玉章」もこちらから書き絶えることもないし、それはきっと次の歌の、女友達に贈る玉章のことばかりではない。「紫式部集」七
西へゆく月のたよりに玉章の
書き絶えめやは雲の通ひ路
いざとなれば心細い夜の山路も、「月を力に」こっちからどこへでも越えて行くであろう。「紫式部集」八一
都の方へとて、かへる山越えけるに、呼坂といふなるところの、わりなき懸け路に、輿も舁きわづらふを、恐ろしと思ふに、猿の、木の葉の中よりいと多く出で来たれば
猿もなを遠方人の声交はせ
われ越しわぶるたごの呼坂
詩文では旅愁の人の腸を断つという猿の声も、歌では、「わりなき懸け路」を行く者に励ましの声になる。猿曳の命ずる、旅人が交わし合う励ましの声は猿の芸である。とすれば、句の猿曳は逢いに行くのではなくて、猿を引き連れて行くのである。第三は、「わりなき懸け路」を連れて行く者と、それに随う者のあることを野坡に見せたのであった。俳諧修業の上で寓することが何かあるはずだが、より実生活上で野坡の為になるのではないか。
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十一の四、八つ目の句
元禄三年以後の、芭蕉のもう一つの猿・猿引の句と言われているのは、元禄六年の歳旦の句である。
元旦
年々や猿に着せたる猿の面
猿の叫び声ではなくて、面の下の猿の顔を登場させている。詩の、知識としては知っているがかって聞いたことがない叫び声ではなくて、いつかしら誰でも見た姿の、心ないものとしての猿の面の後ろにある、それを外せばきっと見えてくる哀しみ、のようなものを指し示した。あるいは、「三冊子(赤雙紙)」が伝える芭蕉の言葉では、
この歳旦、師の曰く「人同じ所に止りて、同じ所に年々落ち入る事を悔いて、いひ捨たる」となり。
とあって、猿は猿の面を着けることで、年々同じ猿であることを悔いる身振りの芸をして見せる。人は人の面を付けて同じ事をするのである。猿を強いて芭蕉に重ね合わせたようなこの句は、許六が「俳諧自讃之論」(「定本芭蕉大成」)に展開する、「血脉」論の発端には、
全ク仕損の句也。ふと歳旦ニ猿の面よかるべしとおもふ心一ツにして、取合たれバ、仕損の句也。
とあって、この芭蕉の言葉のままに仕損じの、解けない句として受け取っておきたい。しかし句の、「年々」からは、特に「三冊子(赤雙紙)」の芭蕉の言葉を読んでは、「唐詩選」巻二、七言古詩の劉廷芝詩「代悲白頭翁 白頭を悲しむ翁に代る」に思い至る。
洛陽城東桃李花 洛陽城東 桃李の花
飛來飛去落誰家 飛び来り飛び去り誰が家にか落つる
洛陽女兒好顏色 洛陽の女児 顔色好し
行逢落花長歎息 行くゆく落花に逢うて長歎息す
今年花落顏色改 今年花落ちて顔色改まり
明年花開復誰在 明年花開くも復た誰か在る
已見松柏摧爲薪 已に見る 松柏の摧けて薪と為るを
更聞桑田變成海 更に聞く 桑田の変じて海と成るを
古人無復洛城東 古人復た洛城の東に無く
今人還對落花風 今人還た対す 落花の風
年年歳歳花相似 年年歳歳 花相似たり
歳歳年年人不同 歳歳年年 人同じからず
寄言全盛紅顏子 言を寄す 全盛の紅顔の子
應憐半死白頭翁 応に憐れむべし 半死の白頭翁
この後、白頭翁の愚痴が十二行続く。白頭翁も、
伊昔紅顏美少年 伊れ昔 紅顔の美少年
なのである。花のように美しくなく、人のように心を持たぬ、それが猿だ。人は、歳々橡栗を拾うて狙公に随う生き物のように、強いられて生きる。もう今年は人になったかと、その仮面を外せば、きっと人の顔が現れるというものでもない。
テキストの解説に、この詩の逸話を紹介してある。
作者はこの詩を作るとき、「今年花落ちて顔色改まり、明年花開くも復た誰か在る」の句を書いてから、これはどうも不吉な句だと考えたが、さらに進んで、「年年歳歳 花相似たり、歳歳年年 人同じからず」の句に至って、これも不吉な句だ、しかしすべては運命なのだからと言って書き直さなかった。
この逸話は、許六が「俳諧自讃之論」で、芭蕉の言葉を聞いて言下に大悟したと称して、「血脉」論を主張する、その言葉に似たところがある。仕損じと言いながら、芭蕉はこの句を捨てたのではない。
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十一の五、初めの猿の句
元禄三年以後の猿引の句を読んできたことが、元禄二年の冬の句、
初しぐれ猿も小蓑をほしげなり
の、山中で出逢った猿と、猿を連れた者の姿を推測する傍証とは、たとえならないとしても、その代わりに、題詠が詩の断片の翻案となることを、猿について、機知の方法で拒否した、目覚ましい歌人の例ならば挙げることができる。躬恆の外には誰もいないことを、芭蕉が発見したと、信じる。「無名抄」〔貫之躬恆勝劣事〕が伝える、俊頼の発見、「躬恆をば、な侮り給ひそ」という言葉に導かれたのであろう、芭蕉の、誹諧歌作者躬恆の再発見を、信じる。古今和歌集雑躰誹諧歌1067
法皇西川におはしましたりける日、猿山のかひに叫ぶといふことを題にてよませたまうける みつね
わびしらにましらな鳴きそあしひきの
山のかひあるけふにやはあらぬ
この国にも流行している詩の中に、その声を聞いたという偽りの証言は幾つもありながら、事実は、誰もその声を聞いたことがない異国の種類の猿の声を、躬恒は拒否したのであった。山の「峡」を「甲斐」に転じて、歌の魂として、より直裁には歌人として生きる命の甲斐の問題として翻案を拒否したのだ。字も違う猴と もしくは猿には、この国の「さる」とは明らかに違う絵がある。それを見て、その声が我々が知っている声と違うことを想像した者はいないのだろうか。王朝漢詩と違って、古今和歌集では、猿は正体の和歌(1000番まで)の景物となっていない(「新大系古今集」)。というのは、人が連れた猿を見る外には猿が知られず、旅情を慰める景物としても、かって歌人が逢ったことがなかったのである(平安女流歌人が出逢った)。これが叫ぶ断腸の声とは、どんな声なのか知らないのは、譬えは大袈裟だが、空想の麒麟・鵬の姿を知らないのと同じことだ。古今和歌集仮名序の宣言は、桜ならば、「花を見て詠める」、郭公ならば、「鳴きけるを聞きて詠める」ものと、詞書きによく遵守された。「わびし」とは、貧困で苦しい気持ちをいうのが原義。せっかくの題詠なのに、 もしくは猿と、真名に書かない「ましら」は、どこで鳴いているのか、よく聞こえない。日本詩人諸君の詩嚢の中で、誉めてもらおうと犇いて出番を待つ「猿」に較べて、歌人が知っている「ましら」は、なんと「わびしらに」、不景気な声で鳴くものであることか。「躬恒集」(「(旧)国歌大観」底本を流布本にする)に、この歌と並んでいる歌、
心あらば三度てふ度鳴声を
いとゞ物思ふ我に聞すな
この「三度てふ度」は、のちに躬恒の先の歌も並ぶことになった、和漢朗詠集巻下猿456にある白楽天の句、
三聲の猿の後に郷涙を垂る 一葉の舟の中に病まうの身を載せたり 白
三聲猿後垂郷涙 一葉舟中載病身 白
の、三声などの三度である。猿の字がないこの歌は、その字を捜させる「なぞ」歌である。そして、「猿よ心あらば」と言っているのではない。知識として口に慣らして、詩がなぜ三声と言うのか知らずに口まねして、猿は、「三度てふ度」鳴くものとばかり心得ている者に、心あらば、異国の猿の哀しみの声の翻案を、拒否すべきことを激しく言っている。猿の字を隠した易しい「なぞ」の後ろに、もう一つの、人に苦い味を与えるもしかしたら危険な、強い「なぞ」があった。「古今和歌六帖」二(「(旧)国歌大観」)にある同じ歌
心あらば三度二度なく聲を
物思ふ人に聞せざらなむ
が、二句を意味が明暸でない「三度二度」として、四・五句を「物思ふ人に聞せざらなん」と「我」を「人」にしてあるのは、訛伝ではなく、「躬恒集」の歌の苦い強さを突き崩そうとしているものである。同じく「躬恒集」でも、底本に流布本でない善本を選んだ「(新)国歌大観」の歌は、「古今和歌六帖」の歌形を採用している。これは決して杜撰な処理の為ではなく、少しでも危険な匂いがするものは覆ってしまう歌学者の繊細な手の仕事だろう。躬恒は行幸の慶びの時も、悲哀の時も、聞こえないものは聞こえないと言うのである。
その躬恒も、詩の効験によって異国の歴史と異国の季節に身を委ねるという、詩の受容そのことを否定しないだろう。決して唐土の詩を貶める態度ではない。それは、聞こえもしない郭公を出せと注文した、日本的な酔漢に対しても、先の歌の態度と同じ趣向をもってしたことで証明される。古今和歌集夏歌161
さぶらひにて、をのこどもさけたうべけるに、めして、郭公まつ歌よめ、とありければよめる みつね
ほととぎす声もきこえず山びこは
ほかになくねをこたへやはせぬ
古今和歌集仮名序の、冒頭の宣言、
やまとうたは、人のこころを種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざしげきものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひいだせるものなり。
は、貫之とともに躬恒のものである。これを、その目が見、その耳が聞いたことを歌う、と読み替える、仮名序の宣言の一側面を躬恒が受け持っているのだ。この理念を危うくするものに対して、すなわち題詠、あるいは屏風歌を求める貴顕に、歌人の目の前にいる人が喜ぶその人の肖像を、すなわちその目が見、その耳が聞いたことを、機知の歌で提出する。この人柄を、頑なであるとして笑い憐れむには及ばない。
時遥かに下って、俳諧の滑稽の種としてばら撒かれた詩は、俳席の凡庸な作者自らの手を傷付ける凶器となっている。いま芭蕉の目の前にある光景は、詩の受容の正しさと誤りとに関するものではない。いつまでも詩をおもちゃにする手付きの習熟に腐心する人々の姿である。
貞亨元年(1684)「野ざらし紀行」の中の猿の句は、芭蕉その人の俳諧の歴史の上で、この状況に全く責任がないとは言えない、その責任の取りようについて言っているらしく見える。傷付いたものの側にあって、というより最も良く習熟し、最も深く傷付いた者が出逢わなければならなかった路傍の設問に答える。
富士〔川〕のほとりを行に、三つ計なる捨子の哀げに泣有。この川の早瀬にかけて、うき世の波をしのぐにたえ(へ)ず、露計の命を待まと捨置けむ。小萩がもとの秋の風、こよひやちるらん、あすやしほれんと、袂より喰物なげてとを(ほ)るに、
猿を聞人捨子に秋の風いかに
いかにぞや汝、ちゝに悪まれたるか、母にうとまれたるか。ちゝは汝を悪にあらじ、母は汝をうとむにあらじ。唯これ天にして、汝が性のつたなき〔を〕なけ。
安東次男「芭蕉・その詞と心の文学」(「棄児秋風」)は、「猿を聞人」が「江湖風月集」にある詩、「霊隠聴猿」の作者、介石朋であることを捜し出している。
此心未歇最関情 此の心いまだ歇せざるは最も情に関わる
那更猿声入夜頻 那ぞ更に猿声夜に入りて頻りなる
従此飛来峯下寺 此より飛来峯下の寺
又添多少断腸人 又添う多少断腸の人
「哀猿の声を聞いて心乱される未歇の状をうたった(安東次男)」この詩にして詩でないものが、「じつはとことんまで断腸してはじめて帰家穏座の境地も得られよう(同上)」という、禅機という無署名の力に人を導こうとしている。これが、復本一郎「笑いと謎−俳諧から俳句へ−」の言う、やはり「江湖風月集」の偃溪広聞の詩、「越上人住庵」であっても同じである。この詩に従う人が、聞きもしない異国の猿の叫び声を聞いて、断腸の空想を持続するという、暴力的な過程を受け入れなければなららない。しかもこの詩一つの事ではない。のちに「幻住庵記」に言う、「一たびは仏籬祖室の扉に入らんとせし」者が日常的に出会うべき教程である。ここにも、躬恒の場合に見た、詩想の題詠への流用と同質の、不快な難題がある。
捨子が珍しくないはずはない。捨子は今すぐに養育されなければならないのであって、ここは旅人の倫理観が問われるべき場所ではない。旅人のでる幕ではないのだ。しかし、憐憫の思いを言うことだけは許されるだろう。
理不尽にも詩の受容が彼の人生観と隣接している、ということの不快感が沸き起こる。どうしてこの子供の声を吹き消す秋の風の音と、猿の声を取り替えて聞かなければならないのか。
大きな慈悲の力が降りてきて彼もまた捨子であることを教える。「唯これ天にして、汝が性のつたなきをなけ」。この、公案の答に似たものが、捨子である彼自身に向かって語られたものであることは疑えない。
躬恒の猿の歌のうち、「躬恒集」にだけある方の歌は、古今和歌集夏歌145 よみ人しらず
夏山になく郭公心あらば
もの思ふ我に声なきかせそ
この歌と対になるべき歌である。心なき生き物である郭公も、鴬の巣に捨てられた捨子であった。捨子ではあるが、哀れではあるが、卯の花の野辺に、橘の花を散らして、自由である、歌うその鳥。万葉集巻九1755と1756(「新訂新訓・万葉集」佐佐木信綱編・岩波文庫)
霍公鳥を詠める一首并に短歌
うぐひすの 生卵の中に ほととぎす ひとり生れて 己が父に
似ては鳴かず 己が母に 似ては鳴かず 卯の花の 咲きたる野邊ゆ
飛びかけり 來鳴き響もし 橘の 花をゐ散らし 終日に
鳴けど聞きよし 幣はせむ 遠くな行きそ わが屋戸の 花橘に
住み渡れ鳥
反歌
かき霧し雨のふる夜をほととぎす
鳴きて行くなりあはれその鳥
猿を捨子に振り替えた芭蕉の反問は、郭公の字を隠した「なぞ」を聞く句であった。夏には鳴いて秋になると全く聞こえないものは何ぞ。
けっして難しい「なぞ」ではない。歌のことは知らないという人でも、杜甫詩「杜鵑」、「子規」を読む人には解ける「なぞ」である。「杜鵑」では、昔の蜀の天子の魂が化してほととぎすとなって、色々な鳥の巣に産み落とされて養育されることが語られる。
西川有杜鵑 西川に杜鵑有り
東川無杜鵑 東川に杜鵑無し
涪万無杜鵑 涪万に杜鵑無し
雲安有杜鵑」 雲安に杜鵑有り」
我昔遊錦城 我昔錦城に遊び
結廬錦水邊 廬を結ぶ錦水の辺
有竹一頃餘 竹有り一頃余
喬木上參天」 喬木上天に参わる」
杜鵑暮春至 杜鵑暮春に至る
哀哀叫其間 哀哀其の間に叫ぶ
我見常再拝 我見て常に再拝す
重是古帝魂 是れ古帝の魂なるを重んず
生子百鳥巣 子を生む百鳥の巣
百鳥不敢嗔 百鳥敢て嗔らず
仍爲其子 仍お為に其の子にわしむ
禮若奉至尊」 礼至尊に奉ずるが若し」
鴻雁及羔羊 鴻雁及び羔羊
有禮太古前 礼有り太古の前
行飛與跪乳 行飛と跪乳と
識序如知恩 序を識り如恩を知る
聖賢古法則 聖賢古法則
付與後世伝 後世に付与して伝えしむ
君看禽鳥情 君看よ禽鳥の情
猶解事杜鵑」 猶お杜鵑に事うるを解す」
今忽暮春間 今忽ち暮春の間
値我病經年 値う我が病みて年を経るに
身病不能拜 身病みて拝する能わず
涙下如迸泉」 涙下りて迸泉の如し」
「杜鵑」に対する「子規」は、先に見た万葉集の霍公鳥の長歌に対する反歌
に似ている。
峽裏雲安縣 峡裏の雲安県
江樓翼瓦齊 江楼翼瓦斎し
兩邊山木合 両辺山木合し
終日子規啼 終日子規啼く
眇眇春風見 眇眇として春風に見え
蕭蕭夜色淒 蕭蕭として夜色淒たり
客愁那聽此 客愁那でか此を聴かん
故作傍人低 故に人に傍いで低るるを作す
巴猿三叫の、聞こえない声を聞くという感受性というものがあると主張する人、それを蓑虫の「ちゝよちゝよ」と鳴く声にも敷延して、捨子を虫のように見る人には、違ったかたちの「なぞ」になる。枕草子(春曙抄)四十一段「虫は」の一節。
鬼の産みければ、親に似て、これもおそろしき心地ぞあらむとて、親のあしき衣ひき着せて、「今秋風吹かむ折にぞこむずる。待てよ」と云ひて、逃げていにけるも知らず。風の音聞き知りて、八月ばかりになれば、ちゝよちゝよとはかなげに鳴く、いみじくあはれなり。
聞こえないのに、秋の風が吹くと鳴くものは何ぞ。答は蓑虫。しかし、「枕草子」の文句をそのまま問いに使ったこの形の「なぞ」は、これだけでは不審なほど拙劣である。蓑虫は、既に和泉式部が易しい古風な「なぞ」に仕立てている。和泉式部集523(「和泉式部歌集」清水文雄校訂・岩波文庫)(番号はテキストによる)の歌。
雨ふらば梅の花がさある物を
柳につけるみのむしの何ぞ
答は雨に濡れて、憂く漬ず(うくひす)で鴬。
清少納言の蓑虫もこれ自体が「なぞ」であるらしい。答は法師。大和物語百六十八段の遍昭は清水寺で蓑一つを着た姿で小町に会っているし、枕草子(春曙抄)二百九十二段「初瀬に詣でて」の一節には、
いつしか佛の御顏をおがみ奉らんと、局に急ぎ入たるに、簑虫のやうなる者の、あやしき衣着たるが、いとにくき立居ぬかづきたるは、押し倒しつべき心地こそすれ。
とあり、この「蓑虫のやうなる者」は法師であるらしい。「春曙抄」ではない本(「枕草子」石田穣二訳注・角川文庫)では、この部分が、
いつしか仏の御前をとく見たてまつらむと思ふに、白衣着たる法師、蓑虫などのやうなる者ども、集りて、立ち居、額づきなどして、つゆばかり所もおかぬけしきなるは、まことにこそねたくおぼえて、押し倒しもしつべきここちせしか。いづくも、それはさぞあるべし。
となっているものもある。子供好きではあっても清少納言が蓑虫が好きな女であるはずがない。清少納言の蓑虫は、秋風が吹く折にはきっと迎えに来るからとだまされて法師にされた子、富士川の三つ計なる子ではなく、十ほどにはなっている子供のことであろう。子の親の、鬼と言われた人はこの「なぞ」を解いたろうか。そう言えば、和泉式部の鴬も「法華経」と鳴く蓑虫であった。
枕草子(春曙抄)二百二十八段「鴬に郭公は劣れる」は、
「鶯に郭公は劣れる」といふ人こそいと辛う憎けれ。鶯は夜鳴かぬいと悪し。すべて夜鳴く物はめでたし。兒どもぞはめでたからぬ。
と、鴬より郭公が好きだと言っているから、句は、見る人によって二様の姿をした「なぞ」を聴く句なのだったが、答が郭公の「なぞ」の側面の方が優れている。
芭蕉にも蓑虫の句がある。貞亨四年(1687)の「続虚栗」の句。
聴閑
蓑虫の音を聞に来よ艸の庵 芭蕉
聞にゆきて」
何も音もなし稲うちくふて螽かな 嵐雪
草の庵は、古歌ならば伊勢物語五十六段、
むかし、をとこ、臥して思ひ、起きて思ひ、思ひあまりて、
わが袖は草の庵にあらねども
暮るれば露のやどりなりけり
であり、他にも多いが、西行には「山家集」の、五首述懐のうち、
あはれしるなみだの露ぞこぼれける
くさのいほりをむすぶちぎりは
がある。草の庵は露の宿りであり、契りを結ぶ宿りである。私の家は「山家集」の草の庵ではないけれども、小枝にぶら下がって秋風を待っている君の蓑虫の約束を忘れていないならば、迎えに来てくれないか。臥して思い、起きて思い、思いあまって、手紙を書く。俳諧の、蓑虫の「なぞ」遊びがしたくて。
同じく聞こえない声を聞くというのでも、猿の声と蓑虫の声とは、それぞれ違っていて、容易に俳諧になろうとしないのと、なるのがあるということは、迎えに来てくれた俳席で明らかにされてゆくはずである。
素堂に、芭蕉の蓑虫の句を見て、「まねきに応じて、むしのねをたづねしころ」と題した「蓑虫説」があり、これに芭蕉の跋がある。芭蕉の句は、朝湖の蓑虫図に飾られて、この一幅一軸の共同制作は、鯉屋杉風の所有となっていた(以下も、「諸本対照・芭蕉俳文句文集」より)。「素堂家集」(子光編、享保六年序)には、
はせを老人行脚かへりのころ
蓑虫やおもひしほとの庇より
此日、予が園へともなひけるに
きこへぬ□蓑虫の音そ露の底(この句は別本による)
また竹の小枝にさかりけるを
みのむしにふたゝひあひぬ何の日そ(三句は素堂の蓑虫連作である)
此のち、はせをのもとより
蓑むしの音を聞にこよ草の庵
続けて、「これに答ふる詞」として、「蓑虫説」があ。土芳は、「庵日記」の貞享五年春の条に、
蕉翁、面壁の畫図一紙ふところより」
取出て、是をこの庵のものにせはやと」夜すか
ら書るハと也。その讚に」
○みのむしの音を聞にこよくさの庵 はせを」
則、おしいたゝきて、初五の文字を摘て」
蓑虫庵と号すへし、と云へはよろしと也。」
その画に題す」
○そちむくはとこの桜の夕暮そ」
本文ニハ尚、抹消訂正等アリ。煩雑ノタメ省略ス。
と書き、嵐雪には、先の「続虚栗」の句があった。
彼らが、蓑虫の句をどう読んだからと言って、また、「野ざらし紀行」の、富士川の辺の捨子の句の「なぞ」を解いたから、解けなかったらと言って、これからも彼らと俳諧を続けることに、かわりはない。「露の底」は、新古今和歌集秋歌下474。
百首歌の中に 式子内親王
跡もなき庭の淺茅にむすぼほれ
露のそこなる松蟲のこゑ
「きこえぬ 」の句が、芭蕉の蓑虫の句より先にできたとは、「素堂家集」の子光が勝手に拵えたことだろう。素堂は、「露のそこなる松蟲のこゑ」の艶なることは体験しているが、蓑虫のは知るはずがないと言った。「なぞ」は人に出して共に楽しむもので、人を試して遠ざける為のものではない。
「野ざらし紀行」の「濁子絵巻」も、「蓑虫説」の素堂・朝湖との共同制作のように、これも濁子の絵と文の清書に、素堂の解題風の跋文があって、末尾に芭蕉の奥書と句、
たびねして我句をしれや秋の風
がある。「濁子絵巻」と「蓑虫説」の、制作の前後が分からないが、形式から見てともかく、「野ざらし紀行」の旅後の一連のものかと思われる。素堂の跋文で、猿の句について触れた部分。
そも野ざらしの風は一歩百里のおもひをいだくや。富士川の捨子は其親にあらずして天をなくや。なく子は独りなるを、往来いくばくの人の仁の端をかみる。猿を聞人に一等のかなしみをくはへて、今猶、三声のなみだくだりぬ。
「猿を聞人」が素堂をいうのが明らかではないか。句は、「猿を聞人に一等のかなしみをくはへ」ようと作られたのではなく、「猿を聞人」の俳諧観、つまりは文学観の変革を求めていた。聞こえない猿の声を聞く、同じことならば、まずは、蓑虫の音を聞きにおいで。
捨子の句に、二つ、別の句形がある。その一、「誹林一字幽蘭集」(元禄五年刊)の句。
山行
猿をきく世すて子に秋の風いかに 芭蕉
「人」を「世」に誤ったのではなく、「野ざらし紀行」の中に置く句としては避けられたが、別案がこのようにあったとすれば、この捨子は、「猿をきく」という、詩の断片を弄ぶ風潮の世に捨てられた子である。捨子はここにいる。この声を聞くかわりに、いる筈のない「猿をきく」とは如何、という問いが、この句を読む人に向かって問われていることが、この句形ではまぎれもない。
「野ざらし紀行」の句形は、この、「誹林一字幽蘭集」の句形をも含み込んで、猿を聞く人が出逢った捨子に秋の風が吹く如何、とこの句を読む人に向かって問われている。芭蕉が富士川で出逢ったようにして、詩人が、杜甫が同谷県の山中、または巫峡で、捨子を見たと空想する。「江湖風月集」も覗いたとすれば、霊隠寺の門前であってもいい。実は彼らは出逢うことがなかったのだけれども、その捨子に秋の風が吹く如何、と公案の形を借りたのである。俳諧師が公案の形を借りて作れば、それは「なぞ」を聞く句である。そして、答えられない公案があっても、答のない「なぞ」はない、答はどこかに用意されているはずである。答は「杜鵑」。この時、捨子が芭蕉に呉れた公案は、芭蕉自身がいつまでも抱え込んで行く。
その二、真蹟草稿に残っている句形。
途中捨子を憐
猿を泣旅人捨子に秋の風いかに
(「啼」を見せ消ち)
旅人は杜甫詩「秋興八首」、特に第二首(再掲)の杜甫である。
夔府孤城落日斜 夔府の孤城落日斜めなり
毎依北斗望京華 毎に北斗に依りて京華を望む
聽猿實下三聲涙 猿を聴きて実に下す三声の涙
奉使虚隨八月槎 使いを奉じて虚しく隨う八月の槎
畫省香爐違伏枕 画省の香炉に違いて枕に伏す
山樓粉堞隠悲笳 山楼の粉堞隠れて悲笳あり
請看石上藤蘿月 請う看よ石上藤蘿の月
已映洲前蘆荻花 已に映ず洲前蘆荻の花に
全く古人の言ったそのとおりに巫峡に至って林猿の長嘯するのを聞き、旅人は本当に三声の涙をおとす。「杜鵑」の終聯、
今忽暮春間 今忽ち暮春の間
値我病經年 値う我が病みて年を経るに
身病不能拜 身病みて拜する能わず
涙下如迸泉 涙下りて迸泉の如し
の涙も信じられる。句が草稿のままに置かれたのは、「なぞ」の聞きかたが滑稽として熟さずに、句の捨子が杜鵑そのものを指してしまうからだろう。古帝の魂のように捨子の魂もほととぎすになる。
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十一の六、二つ目の句
元禄二年四月、「おくの細道」の途中、那須黒羽の「Fおふ」歌仙の二ノ折の句。打越からの三句を示す。
‥
乞食ともしらで憂世の物語 翅輪
洞の地蔵にこもる有明 翠桃
蔦の葉は猿の泪や染つらん 翁
‥
連句の途中の句を孤立させて読むのは、打越からであっても雰囲気を、それも憶測に基づいて集歌のあれこれに依存した曖昧なものを、確かに〈有る〉ものとして認めてかかることになる。発句から次第に読み進んでその句に至るのでなければ、それが〈有る〉ものかどうか、〈有る〉ものの広がりの全てであるかどうかを検証する方法はない。労力を節約して、憶測によって〈有る〉ものの全てを捕捉しようと期待するのである。誤りを免れない、というばかりではなく、〈有る〉にせよ虚像にせよ、連句の途中の句が、生まれてきた雰囲気を呼び出すのが、そもそも困難なのである。この例でいっても、打越の前の句、すなわち二十六句目、
一釜の茶もかすり終りぬ 曾良
を隠して示さずにいれば、打越が、虚空から生まれた見知らぬ花であるように、翅輪の詩的霊感を妄想することから、読みを開始したらしく見える。曾良の句から始めても、やはり二十五句目を隠すことになる。
ここまで、句の運びの中で、連衆が作り交換してきた全てのものが隠されている。「Fおふ」歌仙の小世界を構築する、連衆の関係がどう秩序づけられてきたかを、憶測に任せなければならない。翅輪とは誰か、翠桃とは誰か、そもそも芭蕉も曾良も、我々は知らないではないか。連衆は、空想の詩的人格を共有しようとしている訳ではないのだ。句は、掛け替えのない個性から、もう一つの掛け替えのない個性に手渡される。
連句の途中の句を、読むとき(労力をできるだけ節約する必要がある、として)、特に前句は、語の一つ一つが持つ、歌ことばとして俳言としての広がりを、あるいは過剰な範囲に及ぶことがあっても検証したい。「三冊子(わすれみづ)」に、
〔一九〕付句の心得
付句の心得、色々いひ出でられし余りに、「前句を添へて付心の顯るる事などなしてみるべし」と、さまざま句をさせて見侍られし事もあり。
とあるのに習って、打越からばかりでなく、「蔦の葉」の句の方からも前句を見て、「付心の顯るる事」を期待すべきだ。すなわち、ここに呼び出されている雰囲気が、打越のものか前句のものか、それとも「蔦の葉」の句だけの働きによるものか、截然とした区別が難しい。しかし、そういう雰囲気の中から、「蔦の葉」の句は生まれた、として当分は済まさねばならない。
翠桃の句、「洞」はもと仙人の住家である。和漢朗詠集巻下仙家付道士隠倫552
夢を通するに夜深けぬ蘿洞の月
蹤を尋ぬるに春暮れぬ柳門の塵 菅三品(菅原文時)
通夢夜深蘿洞月 尋蹤春暮柳門塵 菅三品
あるいは同行旅643
暁長松の洞に入れば 巖泉咽んで嶺猿吟ず
夜極浦の波に宿すれば 青嵐吹いて皓月冷じ 爲雅(慶滋爲雅)
暁入長松之洞 巖泉咽嶺猿吟 夜宿極浦之波 青嵐吹皓月冷 爲雅
などに見える。
「有明」は、古今和歌集恋歌三625 みぶのただみね、百人一首歌、
有明のつれなく見えし別れより
暁ばかりうきものはなし
によるだろう。歌の四・五句を、打越の乞食が着るもの、「垢付きばかり憂き着物はなし」と、読ませる地口を隠して、邂逅がたちまち遣る瀬ない別れに続くことをいう。とすれば、打越の、「憂世の物語」が交わされた場所は、垢付きが、「暁長松の洞に入れば」として、陸奥の歌枕の入口の路傍にあって、旅人の仮りの避難を許す所に、案内したのらしい。その石窟は微かに仙境の徴を帯びている。
日本詩人の朗詠の章句に依拠すると、唐土の仙境の地理は曖昧になる。歌ではなおさらで、古今和歌集雑躰誹諧歌1049 左のおほいまうちぎみ(藤原時平)
もろこしの吉野の山にこもるとも
おくれむと思ふ我ならなくに
は、「伊勢集」にあって仲平のための代作らしい歌だが、どことさえ言わぬ、もろこしの吉野の山には、少しも現実味がなかった。また、古今和歌集恋歌五768 けむげい法師
もろこしも夢に見しかばちかかりき
おもはぬ中ぞはるけかりける
でも、唐土は夢に見る外には到達することのない遥かな土地であって、業平以来、東国こそが、現実に提案されることのある辺土であった。しかし、翠桃の「洞の地蔵」も、法螺の地蔵とあるから、真面目な参籠の対象ではないのかもしれない。
平中・平貞文はついに東国に下ることがなかつたが、古今和歌集雑歌下964(拾遺和歌集雑上481)
つかさとけて侍りける時よめる 平さだふん
うき世には門させりとも見えなくに
などかわが身のいでがてにする
東国では、東下りした人々の末裔が、そこかしこの路傍の洞穴に閉じ込められて、出がてにしている。翠桃は、業平の裔または実方の裔、あるいは「撰集抄」の終章に西行が伝える覚英僧都の裔のつもりらしい。
そのかみ、陸奥の國のかたへさそらへまかりて侍りしに、信夫の郡くづの松原とて、人里遠くはなれたる所侍り。
覚英が傍らの松の木を削って自ら書き付けた。
昔は應理圓宗の學徒として、公家の梵莚につらなり、今は諸國流浪の乞食として、終りをくづの松原にとる。
世の中の人にはくづの松原と
よばるる名こそうれしかりけれ
于時、保元二年二月十七日、權少僧都覺英、生年四十一、申の刻に終りぬ。
乞食でありかつ聖なる隠遁者が、くづの松原を聖化する。信夫の郡と黒羽との距離は、芭蕉らの行程ではあと半月余あるが、東国は黒羽のあたりから、辺土と仙境は混交して区別されない。そこは鄙のまた外側であり、行旅の人によってたまたま齎される憂世の物語としての都は、恋にも似ている。「撰集抄」のこの一章が、翠桃に、業平の裔または実方の裔であるよりも、覺英の裔であるという意識を与えていると読んで、芭蕉は、くづ・葛よりも遥かに強い、「蔦の葉」によって、翠桃を慰撫する。
洞の地蔵はまた、唐土の仙境をこの世にないものと知って歌にいう、「巌のなか」に似たものである。古今和歌集雑歌下952 よみ人しらず
いかならむ巌のなかにすまばかは
世のうきことの聞えこざらむ
「和泉式部集」442〜453は、この歌の二・三句、「いはほのなかにすまはかは」を、一字づつ歌の上の文字に据えた十二首の連作である。先に、「巖泉咽んで嶺猿吟ず」とあるのによって、巖の中の泉・和泉式部の歌を読んでみる。連作の詞書きは、「こころにもあらずあやしき事いできて、例すむ所もさりてなげくを、おやもいみじうなげくと聞きていひやる、上の文字は世の古言なり」その442は、
いにしへや物思ふ人をもどきけん
むくひばかりの心ちこそすれ
古の物思ふ人をもどくのが父、大江雅致の家の事業である。和泉式部が帥宮と結ばれ、それと引き換えに橘道貞が国守として陸奥に下った、この事件について、「赤染衛門集」(「国歌大系」)を引用する。
いづみしきぶとみちさだとなかたがひてそちのみやにまゐると聞きてやる(新古今和歌集雑歌下1820・1821の贈答の詞書きは「和泉式部、道貞に忘られて後、程なく敦道親王(帥宮)かよふと聞きて遣はしける」)
うつろはでしばし信田の森をみよ
かへりもぞするくずのうら風
かへし しきぶ
秋風はすごくふくとも葛のはの
うらみがほには見えじとぞおもふ
みちさだみちの国になりぬと聞きていづみしきぶにやる(後拾遺和歌集別491 詞書きは「橘道貞式部を忘れてみちのくにゝ下り侍りければ式部が許につかはしける」、二句「とまるもいかに」、五句「又の別を」)
ゆく人もとまるもいかゞ思ふらむ
別れてのちのまたの別れは
かへし 式部
わかれてもおなじ都にありしかば
いとこのたびの心ちやはせし
みちさだくだるとてみちなればをはりに来てものがたりなどしてかくはるかにまかることの心細きことなどいひてかへりぬるにさるべきものなどやるとて
こゝをだにゆくかたのとは思はなん
これより道のおくとほくとも
かへし みちさだ
いざさらばなるみの浦に家ゐせむ
いと遠うなる末のまつとも
帥宮との「和泉式部日記」の頃の歌である。赤染衛門の、義理の叔母にあたる者としての心遣いと慰憮の歌に対する、和泉式部の返歌を捩じまげて読む者がいるのである。道貞自身にも、あだし心を持たないことを主張するのが困難なようだから、事件の解釈は俳諧者の自由である。
先の「和泉式部集」442〜453の連作の詞書きと、「和泉式部續集」1126、
かたらふ人の、「世にて世ならぬ所をなんみでわびたる」といひたるに
もとむれどいはほのなかのかたければ
我もこの世になほこそはふれ
は、巌のなか・世にて世ならぬ所、そこで世に真実のみが行われる所が、歌の中にだけあるのだという。
次の引用は、「和泉式部日記」の、和泉式部が帥宮と車宿りの「すずろにあらぬ旅寝」の一夜の後、帥宮に参る決心をする部分。(「和泉式部日記」川瀬一馬校注・現代語訳・講談社文庫)
何しかはかう懇ろにかたじけなき御志を見知らず心強き様にもてなすべきことごとは、さしもあらでなど思へば、参りなんと思ひ立つ。まめやかなることとて言ふ人あれど、耳にも立たず、心憂き身なれば、宿世にまかせてあらんと思ふにも、この宮仕へ、今さらに本意もあらず、[の中こそ住ままほしけれ。又憂きことあらば、いかがせんと、心ならぬ様にこそ思ひ言はめ。なほかくて過ぎなまし。近くてだに親兄弟御有様見聞えん。又ほだしの様に見ゆる人々の上も見定めんと思ひ立ちにたれば、あいなし。参らんほどまでだに便なきこといかで聞しめされじ。近くてはたさりとも御覧じてんと思ひて、好きごとせし人々の文も無しと言はせて、さらに返りごとせずのみあるほどに、御文あり。
「和泉式部日記」の歌と、歌集の歌の間に異同の多いことは、最も素朴な読者の為に、この日記が仮託の書であることを暗示するかのようでもあり、あるいは和泉式部自身が俳諧の人々の仲間であることを示すかのようである。先の贈答に見た赤染衛門の、「まめやかなること」を、日記の、「耳にも立たず」を生かして読めば、橘道貞との別れそのことよりも、世間の顔をした垢染めの歌ほどいやなものはない、と忠岑の百人一首歌を読むことになろうか。求むべき巌の中などは世にないのであり、もしも和泉式部が日記の言葉どうりに、山の洞にでも隠れて住んだならば、親に大事に育てられた娘に、翠桃の句に見る日常が待っていたかもしれない。
「和泉式部集」576は、
つらしともそれは(し)ひてはおもはぬに
猶身にしむは葛のうら風
人の心は花染めの衣のように色あせ易く、葛の葉のように裏返った夫道貞を、つらいと思うまいと決心したのに、赤染衛門の歌は、差し出口とは言わないまでも、さながらこの世に吹く秋風のようだ。このままじっと風に吹かれる葛の葉となって、恨みがおを覗かれる苦しみよりも、「和泉式部集」21、
櫻色にそめし衣をぬぎかけて
山郭公けふよりぞまつ
と、若かった夏のように、いっそ我から移ろう花になる。
葛は、古今和歌集恋歌五823 平貞文
秋風の吹きうらがへす葛の葉の
うらみても猶うらめしきかな
によって、捨てられたもの・屑の謂であった。葛の葉の名をささやく葛のうら風こそ耐え難い。
「和泉式部集」342〜345の連作、詞書きは「人に定めさせまほしきこと」のうちの342、
いづれをか世になかれとはおもふべき
忘るる人とわすらるる身と
若い日の空想の言葉遊びは悲劇として実現した。「和泉式部集」442に言う、「物思ふ人をもどきけんむくい」であろう。忘るる人とわすらるる身と、そのどちらかが消えなければならなくなった時に、凶々しい手が、その片方を紙屑のようにして、巌の中にではなく、もう一つの「世にて世ならぬ所」・陸奥に放逐するのが、別れてのちのまたの別れであった。
秋の木の葉が紅や黄に濃くあるいは淡く色付くのを詠む歌を古今和歌集の歌について見る。秋歌下257〜259
是貞のみこの家の歌合によめる としゆきの朝臣
白露の色はひとつをいかにして
秋のこのはをちぢにそむらむ
壬生忠岑
秋の夜の露をばつゆとおきながら
かりの涙やのべをそむらむ
題しらず よみ人しらず
あきの露いろいろことにおけばこそ
山の木の葉のちぐさなるらめ
どれも同様な見立てを競う歌にみえるが、藤原敏行の歌が259のよみ人しらずの歌の後にあり、芭蕉句が似ている忠岑の歌が、同集秋歌上211 よみ人しらず
夜を寒み衣かりがねなくなべに
萩の下葉もうつろひにけり
このうたは、ある人のいはく、柿本の人まろがなりと
同221 よみ人しらず
なきわたる雁の涙やおちつらむ
物思ふやどの萩のうへのつゆ
があってこそ詠まれたのは明らかである。しらつゆ・白玉と言い慣わす透明な天来の影響力が、清浄であまねく平等であるべきなのが、何故かその時々によって恩寵であったり災厄であったりする。忠岑の歌は、白露に遭って千ぐさに色付く山の木の葉に遅れて、ひっそりと野辺のもの思ふ宿の萩の下葉は、仲間とはぐれてしまった雁の涙で染まったのである、という。司召・除目が情実の別の名であることは誰でも知っている。「露をばつゆとおきながら」という手触りの悪い歌によって、自らの微官を諧謔の種にするのも大人げない事だが、それによって招き寄せるかもしれない危険を、無名氏の不運を悲しみながら遊ぶのである。この歌合に忠岑の別の歌と並んで猿丸大夫の百人一首歌もある。古今和歌集秋歌上215 よみ人しらず
おく山に紅葉ふみわけなく鹿の
こゑきく時ぞ秋はかなしき
古今和歌集の撰者が全員出席している歌合で名を逸すると考えることは不合理で、古の猿丸大夫の場合と似た事情でその名を削られたのであろうか。
「蔦蘿」は、「−支那文を読む為の−漢字典」・山本書店によれば、「今、蔦蘿を以て戚屬の稱と爲すは以て高門に攀附するに喩へしなり」とある。この言葉は、「詩経」小雅・甫田之什「頍弁」に源がある。その第一聯(「詩経・楚辞」目加田誠訳・中国古典文学大系15)。
有頍者弁 キと立てる冠いただく
實維伊何 なぞやこれ
爾酒既旨 旨くめでたき
爾殽既嘉 酒殽
豈伊異人 異人ならぬ
兄弟匪人 兄弟ぞ
蔦與女蘿 つたかづら
施于松柏 松と柏に施いまとう
未見君子 君を見ぬ間は
憂心奕奕 胸晴れず
既見君子 相見しきょうぞ
庶幾説懌 よろこばむ
これをみれば蘿月・蔦のひま漏る月は仙家に合わないはずで、和漢朗詠集にあった、「蘿洞月」は、それ自身が「洞の地蔵」の微かな聖徴を否定している。大和物語・附載説話の一は、先の葛の葉ではない、紅葉した蔦の葉の使い途を示していた。
今は昔、二人して一人の女をよばひけり。先立ちてよばひける男つかさまさりて、其時の帝近うつかふ(う)まつりけり。後よりよばひける今一人の男は、その同じ帝の母后の御兄末にて、つかさを(お)くれたりけり。それをいかゞ思ひけん、後よりよばひける男に、かの女はあひにけり。さりければ、この初よりいひける男は、宿世のふかく有(り)けるとおもひけり。かくてよろづによろしからずたいだいしき事を、物の折ごとに、帝のなめしと思し召しぬべき事を、つくりいでつゝ聞えないける間に、この男は宮仕へいと苦しうして、ただ逍遙をして、歩きを好みければ、衛府の官にて、宮仕へもせずといふ事出きて、其ありける官をぞとり給ひてける。さりければ、男、世の中を憂しと思ひてぞこもりゐて思ひける。人の命といふもの、幾代しもあるべき物にあらず。思ふ時は、はかなき官も何にかるべき。かゝるうき世にはまじらず、ひたぶるに山深くはなれて、行ひにや就きなんと思ひければ、近くをだにはなたず父母のかなしくする人なりければ、よろづの憂きもつらきも、これにぞ障りける。時しも秋にしも有(り)ければ物のいと哀におぼえて、夕ぐれにかゝる獨言をぞいひたりける。
うき世には門させりとも見えなくに
など我が宿のいでがてにする
といてひがみをりける間に、なまいどみて時々物などいひける人のもとより、蔦の紅葉の面白きを折りて、やがて其(の)葉に、「これをなにとかみる」とてかきを(お)こせける、
うきたつたの山の露の紅葉ばは
ものおもふ秋の袖にぞ有(り)ける
といひやりけれど、返しもせず成(り)にければ、かくとしもなし。
「これをなにとかはみる」と聞いた、蔦の葉のなぞは、貞文がその庇護を受けた大叔母・宇多天皇の母后に関することである。あなたには美しい蔦の手蔓がおありですから勅勘と言っても、そんなに心配なさることもないでしょう、という悪質ななぞに、平中は、返事ができない。
蔦の葉の名こそ憂き名である。あなたが遣したこのしっかりした蔦の葉は、乾いていてどこのものとも知れないが、私に心当たりがあるのは、全て私の不真面目が原因して「もの思ふ秋の袖」に零れあふれる涙の血の色に濡れて、千ぐさの紅葉に混じって流されてゆく竜田川のもみじ葉です、と返事すれば良かった。
蔦の葉のなぞが彼を憂世につなぎとめて、貞文は結局、陸奥にも唐土にも行かずに済んだ。唐土の言葉の遣いかたとは別に、このころわが朝では男は紅葉する蔦を介して高門に攀附するのであった。「和泉式部集」194
海にのぞみたる松に、つたの紅葉のかかりたるを
紅葉する蔦しかかればおのずから
松もあだなる名ぞたちぬべき
では、同集5
花にのみ心をかけておのづから
人はあだなる名ぞたちぬべき
と並べて、和泉式部にも、紅葉する蔦に準えたい女があったらしいが、これが誰かは分からない。しかし博士の家の娘が、蔦に向かって蔦と言ったのでは危険なだけで、何を言ったことにもならない。屏風絵の松に這う蔦・女蘿だけをそこから引きはがして貶めて言う方法はないのである。紅葉する蔦の名は「あだなる名」、何を言ってやっても無駄なものの名である。むしろ褒めことばに近い。
「山家集」の歌
いやしかりける家に、つたの紅葉のおもしろかりけるをみて