*

 

  十、猿蓑巻頭の芭蕉句

 

 

 

 小蓑の句は、初冬の伊賀で披露された。幾つか伝わっている真蹟懐紙、色紙の染筆が、全て伊賀の人々のための、この時のものかどうかは分からない。前書と句の文字使いは皆同じである。

 

あつかりし夏も過、悲しかりし秋もくれて、山家に初冬をむかへて

はつしぐれさるもこみのをほしげ也  ばせを(芭蕉 桃青)

 

 土芳の「蕉翁全伝」で見るこの句の前書は、真蹟よりも詳しくて、

 

五百里ノ旅路ヲヘテ、アツカリシ夏モ過、かナシカリシ秋モクレテ、古里ニ冬ヲ迎ヘ、山家ノ時雨ニアヘバ

 

というのである。およそ五百里の旅路の、夏と秋を過ごした人を迎えた古里の人々に、安堵の挨拶がされた。深川から舟出した「おくの細道」の旅は、大垣で終わる。

 

露通も此みなとまで出むかひて、みのゝ国へと伴ふ。駒にたすけられて大垣の庄に入ば、曽良も伊勢より來り合、越人も馬をとばせて、如行が家に入集る。前川子・荊口父子、其外したしき人々、日夜とぶらひて、蘇生のものにあふがごとく、且悦び且いたはる。旅の物うさもいまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮おがまんと、又舟にのりて、

蛤のふたみにわかれ行秋ぞ

 

 ここから伊勢に、式年遷宮は内宮が元禄二年九月十日で、これには間に合わないが、外宮が同十三日と定められた期日に合わせて、長途の行脚を生きて帰った報告をしに行くのである。伊勢遷宮奉拝を済ませた時、漂泊の聖性が追認され、かつ解かれて、芭蕉は憧れたものを手にして、帰ってきたのである。もしも生きて帰るならば、それが、この旅が神の嘉し給う旅であった証明であった。漂泊の聖性がそのとき、「おくの細道」の旅に対して付与され、紀行の構想が約束されたのである。したしき人々はいつも貝合わせの貝のように、ようやく巡り逢い、またいつか逢おうとして別れる。この漂泊の日常を、旅立ちの行春の句

 

行く春や鳥啼魚の目は泪

 

と、行秋との、二つの句の間に区切る。小蓑の句は、聖別された旅の外側で、この旅を鳥瞰する場所で作られた。

 

 五百里の旅路を経めぐって、旅人は故郷に帰ってきた。山ふかい生家のあたりに現れた猿は、伊勢遷宮奉拝から旅人と同じ道をたどって、道案内をするようだったろう。狙公が握って決して手放すことのない細引きの先に緊がれて、装束は子供の姿に似せてあるが、それは彼が実は獰猛な生き物である表徴である。見物の正客は喝采する子供達である。その芸は太鼓ばかりのささやかな音曲に乗って子供を遊ばせ、自らは楽しむことを知らない生き物である。来る年も来る年も狙公に随って銭を拾う。小さな公演は時雨に遭ってたちまち散会となり、後片付けはそのまま旅支度になる。「初しぐれ」は、「山家集」の歌、

 

初時雨あはれ知らせてすぎぬなり

おとに心のいろをそめつつ

 

に倣い、初五に置かれたのだろう。再び旅にゆく猿のために、旅装束に小蓑を、「ほしげ也」と見るのは、猿が子供の姿をしているからである。「夫木抄」三二にある西行法師の歌、

 

たはぶれ歌とてよみ侍りける

篠撓めて雀弓はる男のわらは

ひたひ烏帽子のほしげなるかな

 

 故郷に安堵することは言うまでもない。旅の物うさは恢復して、やがて蓑を借りる、新しい旅が用意されるだろう。前書は、かって父母の地に育まれた子には許されている筈の、旅立ちの予告をそのまま、安堵の挨拶に重ねてする戯れの、許可を求めている。猿引きが連れた猿の、かって初めての旅立ちは、何者かが子を奪い去る、母の断腸の思いの旅立ちであったが、それは誰も知らず、彼も知らない。あれが、私が街道の仲間とした者だ。心なき身である彼さえもが、この地の初時雨のあはれに感応して、小蓑を欲しそうにしている。この易しいなぞを解いてみないか。

 蓑といえば、太田道灌のよく知られた話がある。その話柄の歌。後拾遺和歌集雑五1154

 

小倉の家にすみ侍りける頃、雨のふりける日蓑かる人の侍りければ山吹の枝ををりてとらせて侍りけり。心も得でまかりすぎて又の日山吹のこゝろもえざりし由、いひにおこせて侍りける返事にいひつかはしける    中務卿兼明親王

七重八重花はさけども山吹の

みの一つだになきぞかなしき

 

 この伊賀に、まだ一つの集もない。伊賀の連衆は、果実をつけない山吹の花のように、悲しい花なのだろうか。私が滞在している間に、この初時雨の効験に預かることにしようよ。

 

 小蓑の句は、猿蓑に先立って、元禄四年五月に板行された「卯辰集」のために、元禄三年中に金沢に送られたらしい。前書は、

 

伊賀へ帰る山中にて

 

 無事に金沢を送り出してもらって、芭蕉は生きて故郷へ帰った、これが金沢に向かってする芭蕉の挨拶である。都へ、越路を行く古人の旅の歌に替えて、「おくの細道」から伊賀へ帰る山中の句を送った。福井から敦賀まで、越路の道中は「おくの細道」は、次のようだ。

 

漸白根が嶽かくれて、比那が嵩あらはる。あさむづの橋をわたりて、玉江の蘆は穂に出にけり。鶯の關を過て、湯尾峠を越れば、燧が城、かへるやまに初鴈を聞て、十四日の夕ぐれ、つるがの津に宿をもとむ。その夜、月殊晴たり。‥

 

 これらの歌枕の月見の句が、

 

福井洞栽子をさそふ

名月の見所問ん旅寢せむ

 

など、「芭蕉翁月一夜十五句(荊口句帳)」に残っている。都から越へ、越から都への旅路の、多くは羈旅歌・離別歌に詠まれた歌枕を、芭蕉は名月の見所を捜して通過する。芭蕉はこの中の句を、金沢を発って越路も過ぎたと知らせるのならば、適当だろう句のどれも、「卯辰集」のために選ばなかった。芭蕉の越路の旅が、故郷である都を恋しくてめざす、古人の旅に似ていないからだ。「紫式部集」二七(「紫式部集」南波浩校注・岩波文庫)、

 

降り積みて、いとむつかしき雪を、掻き捨てて、山のやうにしなしたるに、人々登りて、「なを(ほ)、これ出でて見たまへ」といへば

ふるさとに帰る山路のそれならば

心やゆくとゆきも見てまし

 

 越路は都に行く道ではなく、このまま故郷に帰るのでもない。人の作った雪の山のような、名月の見所を作っては通過する。「かへる山」は、都から遥かな越に旅立つ人との離別の際に、再び都へ帰ることを願って多く詠まれた歌枕だが、越から都への道中の歌もある。「紫式部集」八一、

 

都の方へとて、かへる山越えけるに、呼坂といふなるところの、わりなき懸け路に、輿も舁きわづらふを、恐ろしと思ふに、猿の、木の葉の中よりいと多く出で来たれば

猿もなを(ほ)遠方人の声交はせ

われ越しわぶるたごの呼坂

 

 紫式部が、かへる山の呼坂で見た猿を、遥かな時と空間とを越えて、越路ではなく、伊賀へ帰る山中にきて、芭蕉も見た、と金沢に報じたのである。それがいま、どんな姿をして、この世を漂泊しているものであるかは、金沢の連衆が解くべき、句のなぞに属する。

 九月、晩秋に想を得た句が、初冬の伊賀で披露されても、歳旦帳の句の場合を見るまでもなく、この季語に何の不審もない。仮に山中で手帖に控えられたとしても、句の瑕とはならない。仮に伊賀に雨が降らなければ、この句はないことになるのだ。しかし、「伊賀へ帰る山中にて」と前書して金沢に送れば、「卯辰集」を見る人は(編者の北枝らはともかく)、句が、伊賀へ帰る山中から、金沢に報じられたものと読むだろう。芭蕉が伊賀に到着したのが、九月中であるのは、多くの人々が知っている事実だ。九月に使った冬の季語・初時雨の不審は、容易に解けない。「卯辰集」の読者がいつまでも芭蕉の旅程を知らずにいて、この句を、初冬の山路の句として芭蕉が金沢に報じたと読んだ、とすることはできない。

 金沢の読者が、晩秋の景を強いて初冬の景に言いなすことは、有り得ないことを知り、この句が、すでに伊賀で披露された句であることに気付けば、解は一つだけある。前書は、「伊賀へ帰る山中にて、想を得た作」、と読まなければならない。すなわち、伊賀の連衆は知らないことであるが、小蓑の句は、かへる山の句がなかった越路の道中で、すでに伊賀のために、胚胎していたといえる。「伊賀へ帰る」とはそういうことだ。小蓑の句は金沢に、こういうなぞも訊いていた。

 

 小蓑の句は、真蹟懐紙と「卯辰集」と、どちらの前書も外して、京の連衆の撰集に与えられた。「晋其角序」は、

 

只誹諧に魂の入たらむにこそとて、我翁行脚のころ、伊賀越しける山中にて、猿に小蓑を着せて、誹諧の神を入たまひければ、たちまち断腸のおもひを叫びけむ。あたに懼るべき幻術なり。

 

と、「卯辰集」の前書を踏襲するようだが、「伊賀へ帰る山中にて」と「伊賀越しける山中にて」とは同じではない。其角には、「卯辰集」の芭蕉の工夫は要らない。伊賀越は、「奈良時代の官道。大和から山城の笠置を経、伊賀の柘植に出て、鈴鹿関に通じた街道の称。(「広辞苑」)である。江戸からみれば、関から水口・草津を経て京に至る東海道の、裏街道をいう。伊賀を通過して、去来・凡兆らの京に出て、猿蓑を板行することになった、それ以前にも湖南の連衆と「ひさご」を出した、その行脚のころの、京・湖南に至った道程の小部分を言うのである。「晋其角序」は、「去来・凡兆のほしげなるにまかせて書」かれた、京の撰集の序である。伊賀越なる語は、伊賀と金沢から小蓑の句を奪い取った、京の連衆の仕業を韜晦するために、選んだのだろう。伊賀と金沢は、この前書で披露されたこの句を、奪われて手放さなければならなかった。その名目は、猿蓑の板行が、「晋其角序」の冒頭に、

 

俳諧の集つくる事、古今にわたりて此道のおもて起べき時なれや。

 

と主張するのによって充分である。

 

 「晋其角序」は言うまでもなく、小蓑の句の前書ではないが、ここにある其角の句解は、「あたに懼べき幻術なり」という措辞を含めて、芭蕉が裁可したものだ。またこの読みは、これを書かせた去来・凡兆のものでもある。

 

 断腸の故事は、「世説新語」黜免(「世説新語」竹田晃訳・中国の古典21)によるという。

 

桓公蜀に入り、三峽中に至るに、部伍の中にW子を得る者有り。其の母岸に縁りて哀號し、行くこと百餘里にして去らず。遂に跳りて船に上り、至れば便即ち絶ゆ。其の腹中を破り視れば、腸皆寸寸に断えたり。公之を聞きて、怒りて、命じて其の人を黜けしむ。

 

 子猿はこのまま人に飼われることになる。其角が断腸の語を持ち出したのは、いずこからか奪われて猿引きの猿となったものを、更に去来・凡兆が奪って、この猿蓑の巻頭に置いたことによる。句を奪われた者の悲しみはさることながら、去来・凡兆に、「公之を聞きて、怒りて、命じて其の人を黜けしむ」という罰が、桓温ならぬ、賢明なる集の読者から与えられるかもしれない。一見しては陳腐な断腸の語を使って、集の序らしい挨拶の韜悔の修辞と、句解を兼ねたのだ。

 幻術については、「撰集抄」の不思議の中でも、西行が自ら手を下した怪奇によって説明した。巻五第一五話「西行於高野奥造人事」で、西行は、高野の奥に住んで、孤独になり人恋しさのあまり、「信ずべき人のおろおろ語り侍りし」ことをそのままに、野に捨てられた人骨を集めて編み、造人の術を施したところ、未熟のため、色も悪く吹き損じた笛のような声を出す、人間に似て非なるものができてしまった。不審をただすために、教えてくれた徳大寺を訪ねたが留守だったので、「伏見の前の中納言師仲の卿」のところへいって、いろいろ教えられた。(「撰集抄」西尾光一校注・岩波文庫の「解説」より。この項は「解説」の調査に多く負う。)

 

「その事に侍り。廣野に出て、人も見ぬ所にて、死人の骨をとり集めて、頭より足手の骨をたがへでつゞけ置きて、砒霜と云藥を骨に塗り、いちごとはこべとの葉を揉みあはせて後、藤もしは絲なんどにて骨をかゝげて、水にてたびたび洗ひ侍りて、頭とて髪の生ゆべき所にはさいかいの葉とむくげの葉を灰に焼きてつけ侍り。土のうへに疊をしきて、かの骨を伏せて、おもく風もすかぬやうにしたゝめて、二七日置いて後、その所に行きて、沈と香とを焚きて、反魂の秘術を行ひ侍りき」と申し侍りしかば、「おほかたはしかなん。反魂の術猶日あさく侍るにこそ。我は、思はざるに四條の大納言の流をうけて、人をつくり侍りき。いま卿相にて侍れど、それとあかしぬれば、つくりたる人もつくられたる物もとけ失せぬれば、口より外には出ださぬ也。それ程まで知られたらんには教へ申さむ。香をばたかぬなり。その故は、香は魔縁をさけて聖衆をあつむる徳侍り。しかるに、聖衆生死を深くいみ給ふほどに、心の出くる事難き也。沈と乳とを焚くべきにや侍らん。又、反魂の秘術をおこなふ人も、七日物をば食ふまじき也。しかうしてつくり給へ。すこしもあひたがはじ」とぞ仰せられ侍り。しかれども、よしなしと思ひかへして、其後はつくらずなりぬ。

 

 西行は、あともうすこしで、西行的人間ではない人になるところから引き返した。七日物を食わずにいて、香を焚いた替わりに乳を焚いて、反魂の秘術をもういちど行えば、もはや、西行は本の作者の手に余る人物に変貌したことだろう。しかし、人跡も希な高野の奥に放置した、化け物のごときものの始末はどうなるのか。

 この本が、慶安四年本(1651)の識語に、

 

撰集抄者西行上人之所作也。或謂不也。盖人物時代和歌作者齟齬者夥矣。豈彼上人之作哉。雖然難波春夢江口秋雨殆非他人之詞矣。余嘗見此書之序曰巻擬九品淨土事比八十随好。就而考之凡属事蹟者百十余段。想是其三十余事則後人之所添而非上人之所記歟。読者不取其疑只翫其余焉耳。

 

と、言うことは折衷案のようだが、西行自著にはっきり疑問を提出して、と言うよりそれを否定しながら板行されているのを、其角も見ているだろう。作者について、この本に添えられた伝承もないことも知られる。見ずとも、古今和歌集や拾遺和歌集の作者についてさえ、齟齬する所があるのでは(巻八第一六話、同第三〇話、同第一〇話)、この識語も不要なのである。この本の目的が、識語の、「読者不取其疑只翫其余焉耳。」にないことが確かだ。読者が、「撰集抄」でも、山家集の西行に出会おうとして、疑わしいところを取り去っていけば、ここには何も残らない。

 「撰集抄」全篇一二一話の中で、西行没後に詠まれた歌が出てくる話が、三つある。「西行物語」では、建久九年(1198)二月十五日となつている西行の没年は、史実は文治六年(1190)二月十六日であるが、元禄二年は西行五百年忌と喧伝されて、どちらかの年は、誰もが知るところだ。

 巻六第八話では、西行に仮託された主人公が、信濃国さののわたりを通った折に、秋草を手折って結んだ庵に閑居する不思議な僧をみかける。六種の秋草に紙で札を作りつけ、

 

夕さればまがきの荻に吹く風の

目にみぬ秋をしる涙かな

 

など、六首の歌を書いてあった。これは、西行没後二六年に当る、建保四年(1216)成立の「土御門院御百首」の中の六首である。その内の二首は、続古今和歌集秋歌上353(二句は「まがきの荻を」)と304であり、一首は続拾遺和歌集秋歌上248である。土御門天皇は、建久九年正月十一日、四歳で受禅した。承元四年(1210)に、順徳天皇に位を譲る。「承久記」、「増鏡(第一おどろの下)」に詳しい。

 巻九第一一話では、主人公が、陸奥の国に行った折、信夫の郡くづの松原で、覚英僧都の閑居往生の跡なるものを発見する。この覚英は、

 

花をのみ惜しみなれたるみ吉野の

木の間におつる有明の月

 

という名歌をよみ、若くして出家、名利をすてて諸国を流浪した人だ、としている。この歌は、続後拾遺和歌集秋歌下358、大蔵卿有家の歌で、詞書きは、「建仁元年(1201)八月十五夜和歌所の撰歌合に、深山暁月といへる事を」。四句が、「梢に落つる」である。

 もうひとつ、巻六第一一話では、主人公が、秋の花の咲き乱れた武蔵野を過ぎ、

 

武蔵野はゆけども秋のはてぞなき

いかなる風の末に吹くらん

 

と感興を述べているが、この人物の自詠なのか、他人の歌を朗吟したというのか、はっきりしない。この歌は、新古今和歌集秋歌上378、左衛門督通光の歌で、詞書きは、「水無瀬にて、十首歌たてまつりし時」。初句は、「武蔵野や」である(四句が、「いかなる風か」とある本も)。建仁元年の作だというが、これは、調査が困難かもしれない。

 「撰集抄」には、西行自著を装って、読者を信じさせる意図がないのだ。反対に、作者は、これを知らせるために、「解説」の調査によれば、主要なものを挙げただけで、四一話に及ぶ、錯誤を設けた。誰にもこの内の一、二で充分だ。勅撰集は、八代集だけを読み、あるいはこれに加えて新勅撰和歌集、続後撰和歌集だけを読む、という俳諧宗匠はいないだろうから、西行が、もしや、転合書の人物のごとき自画像を書いたのではないか、という空想を満たすこともできないのである。錯誤はそれぞれ簡単ななぞを訊いているが、どれを解いてもそれらしい興趣は少ない。仏教説話集として、その目的を跋に言う。

 

いみじき人々を書き載せて、且はかの人々のごとくならんと欣求し、且はこれ閑居の友にせんとて

 

 この中の詩歌雑談は、

 

新羅の元暁法師の言葉に「他作自受の理なしといへども縁起難思の力あり」と侍れば

 

ここでは、西行の仮面といえども、「他力をも蒙れかし」という、一素材である。巻五第一五話「西行於高野奥造人事」の怪奇による寓言は、作るまでは作ったが、高野の奥に放棄した人骨のごとく、「撰集抄」の西行像は、この本から出て一人歩きすることがない、ということだ。西行説話の西行が、すでに幾つも、人の顔をして歩き回っている。人にするその方法は作者も知っているが、西行を愛する故なのだろう、「よしなしと思ひかへして」とらないのである。 西尾光一の「撰集杪」解説に言う。

 

第二は、仮宅の書であることが明らかにされるまでの長い年月、「撰集杪」は西行自著と信じられて読まれ続けてきたという点である。芭蕉が、「西行・宗祇・雪舟・利休」とならべて、自己の文学的系譜の頂点に据えて敬愛追慕したその西行は、芭蕉の場合、この「撰集杪」をふくめて理解感得された西行像であったことなどは、その顕著な例である。

 

 芭蕉ら俳諧師で、「撰集杪」が西行の著作だと理解した者はいない。すなわち、解説にいう、「この「撰集杪」をふくめて理解感得された西行像」には、「撰集杪」が西行と関係がない本であるという事実の理解感得も、含まれている。名も知れぬ作者、という理解ではない。名利を捨てて文学的成果を達成した先達を確認したのだ。俳諧と近親の、かつ先駆的な文学的手法を、芭蕉らがここに読んだことを意味する。しかし、芭蕉の小蓑の句では、「撰集抄」においては中断された、「あたに懼るべき幻術」が、生きた猿を作ったわけだが、これを取って、孤独の人が友とすることがあるかどうか、と危惧する。

 

 小蓑の句は、「これを元として此集をつくりたて」る、即ち、この句によって猿蓑の新風を一挙に理解させるに足る、と宣言された。この集を通読して、秀逸に交じる幾つかの凡庸な句を発見する、つまりは、読者がこの集の水準を計ってようやく、この集が、「古今にわたりて此道のおもて起すべき」意図のある集だと、理解する。それに先立って、巻頭のこの句が、新風に掲げられた旗となって、読者の理解を、新しい俳諧に誘導するのである。このために「晋其角序」が言う幻術は、充分に定義されていなければならない。

 新風の宣言ということであれば、この句だけが、その役割を担うとする根拠はおそらくない。けれども、満尾した連句の発句が、取り替えが効かないのと同じ理由で、もはやこの句の代わりに、また、この句の前に、別の句を置くことはできない。発句に脇が対するように、すなわち、「三冊子(白雙紙)」に、

 

まづ発句出づるとよく聞きしめ、させる事みえずとも、作者より句意をあらはすやうに挨拶して、よく聞きふせて脇をすべし

 

という、去来・凡兆らの、「よく聞きふせて」した小蓑の句の読みが、猿蓑の構成を決めたのである。小蓑の句を巻頭に置いて、冬の部から、季節の順にもよらずに異例の部立てを構成する。これが、芭蕉の教示に依存するのであれば、去来・凡兆らの小蓑の句の読みによる提案でなければ、京の撰集の名は意味がない。

 「去来抄(先師評)」〔三二〕はしりとねばり(「俳論集」全集)

 

いそがしや沖のしぐれの真帆かた帆  去来

去来曰く「猿蓑は新風の始め、時雨はこの集の眉目なるに、この句仕そこなひ侍る。ただ、有明や片帆にうけて一時雨、といはば、(略)

 

と書いた、この集の眉目、時雨の句十三人の吟声は、小蓑の句の読みに応じて、この句の句意をあらわすように謂集したのである。「紫式部集」八一、

 

猿もなを(ほ)遠方人の声交はせ

われ越しわぶるたごの呼坂

 

この歌の遠方人・旅人の一人となって、作られた小蓑の句は、この句もまた、俳諧の越しわぶるわりなき懸け路で、励ましの声を交わし合う、遠方人を求めていた。連衆の声が、やはり時雨の景の中にいて、京と湖南、そして伊賀から聞こえる。森田蘭「猿蓑発句鑑賞」が、

 

近江を中心とした「時雨」の景の意識的な編集の痕が伺える。伊賀、三井寺、堅田、瀬田(二句)、嵯峨広沢、琵琶湖上、伊賀、大原里、竹田里、(「だまされし」「新田に」は不明)、琵琶湖上という風に。

 

と書く通りだろう。全て、芭蕉と共に動いていくパノラマの、時雨の景だ。江戸の其角の声も、遥かに芭蕉に聞こえるように、三井寺の鐘の音に託して届けられた。

 そして杜甫詩、「乾元中寓居同谷縣作歌七首」、その一、客居貧苦のさまをいう詩(「杜詩」鈴木虎雄・黒川洋一訳注・岩波文庫)。

 

有客有客字子美   客有り客有り字は子美

白頭亂髪垂過耳   白頭乱髪垂れて耳を過ぐ

歳拾橡栗隨狙公   歳々橡栗を拾うて狙公に随う

天寒日暮山谷裏   天寒く日暮る山谷の裏

中原無書歸不得   中原書無うして帰り得ず

手脚凍皴皮肉死」  手脚凍皴皮肉は死す」

鳴呼一歌兮歌已哀  鳴呼一歌す歌已に哀し

悲風爲我從天來」  悲風我が為めに天従り来たる」

 

 卿相、富貴な者ではなく、旅芸人の主に往来する街道を、ことしも旅人は狙公の後を付いてゆくようにして旅する。狙公の連れていく者と同じく、行く先はあなた任せだ。詩人の天来の想を借りて、旅の実景を句に引き直してみる。悲しそうな風は雨を呼んで、狙公の肩に乗った猿が濡れている。去来・凡兆が、詩の終聯、「鳴呼一歌兮歌已哀 悲風爲我從天來」を使って、この句を第一歌として巻頭に置く。

 ただし、芭蕉がこの詩を、詩の中に芭蕉の感慨がそのままあると、去来・凡兆らに読ませる意図はない。むしろこれは、去来・凡兆らが、男児一般の生涯をよく把握しているとして愛唱して、逆に芭蕉に教えるかもしれない詩である。そのその三、弟をおもってつくる詩の、三人を、連衆として歌仙を興行するのに都合のよい人数として、かれらを数えて牽強付会するのである。

 

有弟有弟在遠方   弟有り弟有り遠方に在り

三人各痩何人強   三人各々痩せたり何人か強なる

生別展轉不相見   生別展転相見ず

胡塵暗天道路長   胡塵天に暗うして道路長し

東飛駕鵝後X鶬   東に飛ぶは駕鵝後にはX鶬

安得送我置汝傍」  安んぞ我を送って汝が傍に置くことを得ん」

鳴呼三歌兮歌三發  鳴呼三歌す歌三たび発す

汝歸何處収兄骨」  汝帰るも何の処にか兄が骨を収めん」

 

 去来・凡兆が芭蕉と一緒に杜甫の弟になりたがっているとして、これを読むなら良い。しかし、この詩の作者を芭蕉に準えて阿るのは、許されないのである。なぜなら、去来・凡兆らが抱いている悲憤慷概が、この詩人によって鎮められるとしても、芭蕉の受容の態度と同じではないからだ。それは、「幻住庵記」によっても明らかにされている。杜甫が儒をもってみずから任じた詩人であるのに比べて、芭蕉は、此一筋につながる、俳諧が人を繋ぐことになった、世に希有というべき、純粋な詩人であることを宣言している。その七、長安卿相の栄達と自己晩年の不遇とを対比して感慨を述べた詩。

 

男兒生不成名身已老  男児生まれて名を成さず身已に老ゆ

三年飢走荒山道    三年飢走す荒山の道

長安卿相多少年    長安の卿相少年多し

富貴應須致身早    富貴には応に須らく身を致すこと早かるべし

山中儒生舊相識    山中の儒生は旧相識

但話宿昔傷懐抱」   但だ宿昔を話すれば懐抱を痛ましむ」

鳴呼七歌兮悄終曲   鳴呼七歌す悄として曲を終う

仰視皇天白日速」   仰いで皇天を視れば白日速やかなり」

 

 読めば、いかにも抵抗しがたく、一般の男児の慷概にかわって既に委曲が尽くされているという、不快感と名付けたい思いがやって来る。同じことを、去来・凡兆がなぞることはあっても、芭蕉が言う契機は、訪れることはない。

 

*

 

  十一、芭蕉の、猿と狙公の句

 

 

 

 芭蕉の、猿の字を使った句と、狙公・猿引(曳)の句は、発句、連句中の句を併せて、九つある。

 一、「野ざらし紀行(甲子吟行)」の句。貞享元年(1684)秋。

 

猿を聞人捨子に秋の風いかに

 

 二、「おくの細道」の途中、那須黒羽の、「Fおふ」歌仙の二十九句目。元禄二年(1689)四月。

 

蔦の葉は猿の泪や染つらん

 

 三、同じく尾花沢の、「おきふしの」歌仙の三十三句目。元禄二年五月下旬。

 

繋ばし導く猿にまかすらん

 

 四、猿蓑の巻頭の句。元禄二年冬。

 

初しぐれ猿も小蓑をほしげ也

 

 五、伊賀の連衆と興行した、「木の本に」四十句の六句目。元禄三年三月二日の前書がある。

 

猿のなみだか落る椎の実

 

 六、猿蓑の、「市中は」歌仙の十七句目。元禄三年夏。

 

さる引の猿と世を経る秋の月

 

 七、「續有磯海」などの句。「芭蕉句選」に元禄四年の句とするが、年次不詳。

 

猿引は猿の小袖をきぬたかな