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十一の七、三つ目の句
「おくの細道」の途中、尾花沢の「おきふしの」歌仙の三十三句目。揚句前の三句は一度、「八の二」で見たが、不十分なので詳しく読んでみる。
‥
父が旅寝を泣きあかすねや 良
うごかずも雲の遮る北のほし 風
けふも座禅に登る石上 蕉
盗人の葎にすてる山がたな 良
簗にかゝりし子の行へきく 英
繋ばし導く猿にまかすらん 蕉
けぶりとぼしき夜の詩のいへ 風
花と散る身は遺愛寺の鐘撞て 良
鳥の餌わたす春の山守 蕉
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十一の七の一、芭蕉の三十句目。
うごかずも雲の遮る北のほし 風
〇 けふも座禅に登る石上 蕉
清風句の「北のほし」が、「紫式部集」一五(新古今和歌集離別歌859 詞書きは「浅からず契りける人の、行き別れ侍りけるに」)
姉なりし人亡くなり、又、人の妹うしなひたるが、かたみに行きあひて、亡きが代りに、思ひかはさんといひけり。文の上に、姉君と書き、中の君と書き通はしけるが、を(お)のがじしとを(ほ)き所へ行き別るるに、よそながら別れお(を)しみて
北へ行く雁のつばさにことづてよ
雲の上がき書き絶えずして
の、「北へ行く雁のつばさ」の目標であったらしく、「北のほし」はいつも迷妄の雲に遮られていて、めったに旅雁はこの地まで届かない。京華の書信は行方不明になりがちだった。清風は、「紫式部集」一(新古今和歌集雑歌上1497)
早うより、童友だちなりし人に、年ごろ経て行きあひたるが、ほのかにて、十(七)月十日のほど、月にきお(ほ)ひて帰りにければ
めぐりあひて見しやそれともわかぬ間に
雲隠れにし夜半の月影
とも、言いたいのを、月が隠れるなど不吉なのを題材にして、「紫式部集」九三と九四の贈答(新古今和歌集恋歌四1262と1263)
なにのお(を)りにか、人の返・(り)ごとに
入る方はさやかなりける月影を
うはの空にも待ちし宵かな
返し
さして行く山の端もみなかき曇り
心も空に消えし月影
にもあるのに憚って、星に取り替えたのらしい。と言うのは、「山家集」の陸奥旅行途次に、「おもひもいでば」に出羽をかけていったらしい歌(新古今和歌集恋歌四1267)
はるかなる所にこもりて、都なる人のもとへ月の比つかはしける
月のみやうはのそらなるかたみにて
おもひもいでば心かよはむ
これを、空にあってあの人を思い出させてくれる形見は、月ばかりだろうか、と読んで。清風の俳諧が、うはのそらであることを暗示するように。
しかし、「うごかずも」という北辰、あるいは北斗星は、杜甫詩、「秋興八首」の二首目の二句目、
夔府孤城落日斜 夔府の孤城落日斜めなり
毎依北斗望京華 毎に北斗に依りて京華を望む
聽猿實下三聲涙 猿を聴きて実に下す三声の涙
奉使虚隨八月槎 使いを奉じて虚しく随う八月の槎
畫省香爐違伏枕 画省の香炉に違いて枕に伏す
山樓粉堞隱悲笳 山楼の粉堞隠れて悲笳あり
請看石上藤蘿月 請う看よ石上藤蘿の月
已映洲前蘆荻花 已に映ず洲前蘆荻の花に
のごとくに扱われるべきであり、辺境の尾花沢のなお北方に、不動の光によって示すべき土地はないから、この光は、源氏物語「匂宮の巻」の冒頭の、
光隠れたまひにし後、かの御影にたちつぎたまふべき人、そこらの御末々にあり難かりけり。
この、雲隠れした光に、「北のほし」の光を読み替えるべきか。論語爲政第二の一(「論語」金谷治訳注・岩波文庫)、
子曰、爲政以徳、譬如北辰居其所、而衆星共之
子の曰わく、政を爲すに徳を以てすれば、譬えば北辰の其の所に居て衆星のこれに共うがごとし。
によればいっそう、ここでは、清風を、「うごかずも」雲隠れしたと言う、北の星に比すべきようである。「匂宮の巻」に、歌は、十五才の薫の歌が一首だけある。
おぼつかな誰に問はましいかにして
はじめもはても知らぬわが身ぞ
衆星である清風の俳諧の係累が、皆若々しくてこの歌にいうように独り立ちがおぼつかない者たちなのだ。
清風句は、「拾玉集(慈鎭)」(「(旧)国歌大観」)
左金吾あづまに思ひ立つこと侍りて北斗曼陀羅つかはすとて返事をばいへと申すと聞きていひ遣しける(八首の七首目)
北の星や吾妻の旅に出る人を
祈る光りは空に見ゆらん
の、「北の星や」の特異歌によって、旅人芭蕉のために光る、極北にある微かな祈りの光を、ともすれば雲が遮っている、と言っていると、芭蕉は読んだろうか。曼陀羅といえば、と、「山家集」の詞書きが特に長い歌を思い付く。
又ある本に
まんだらじの行道どころへ登るはよの大事にて、手をたてたるやうなり。大師の御經かきてうづませおはしましたる山の峯なり。坊のそとは一丈ばかりなる檀つきてたてられたり。それへ日ごとにのぼらせおはしまして行道しおはしましけると申しつたへたり。めぐり行道すべきやうに檀も二重につきまはされたり。のぼるほどのあやふさことに大事なり。かまへてはいまはりつきて
めぐりあはむことのちぎりぞ有りかだき
きびしき山のちかひみるにも
やがてそれが上は大師の御師にあひまゐらせさせおはしましたる峯なり。我拝師山とその山をば申すなり。そのあたりの人はわかはいしとぞ申しならひたる、山もじをばすてて申さず。又筆の山ともなづけたり。とほくで見ればふでに似て、まろまろと山の峯のさきのとがりたるやうなるを申しならはしたるなめり。行道どころより、かまへてかきつきのぼりて、峯にまゐりたれば、師にあはせおはしましたるところのしるしに、塔をたておはしましたりけり。塔のいしづゑ、はかりなくおほきかり。高野の大塔などばかりなりける塔のあととみゆ。苔はふかくうづみたれども石おほきにして、あらはに見ゆ。ふでの山と申す名につきて
ふでの山にかきのぼりてもみつるかな
こけのしたなる岩のけしきを
善通寺の大師の御影には、そばにさしあげて、大師の御師かき具せられたりき。大師の御手などもおはしましき。四の門の額少くわれておほかたはたがはずして侍りき。すゑにこそいかがなりなむずらんとおぼつかなくおぼえ侍りしか。
「めぐりあはむことのちぎり」というのは、先の、「紫式部集」一がそうであったのと同じく、伊勢物語十一段の歌(拾遺和歌集雑上470)
忘るなよほどは雲居になりぬとも
空行く月のめぐりあふまで
によることは、「西行法師家集」にも、
伊勢にて菩提山上人對月述懐し侍りしに
めぐりあはで雲のよそにはなりぬとも
月になれゆくむつび忘るな
が、あることでも明らかだ。ここは弘法大師生誕の地の讃岐ではないが、そして我拝師山に似た山もないが、清風のいう暗雲を払うには、「拾玉集」の特異歌に触発されつつ、「まんだらじの行道どころへ登るはよの大事にて」ということを確認して、何よりも「めぐりあはむことのちぎり」が実現したのを有り難く大事なものにすべきだ。筆の山に書き登る人を、俳諧に引き直すために、句に、「石上」に「座禅に登る」とだけ単純化した観念上の姿の、「のぼるほどのあやふさ」を、心もとないと芭蕉がいうのは、西行も、「すゑにこそいかがなりなむずらんとおぼつかなくおぼえ侍りしか」と言うのだから仕方がないだろう。全てものごとが末には荒廃することかくのごとしだ。
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十一の七の二、曾良の三十一句目
けふも座禅に登る石上 蕉
〇 盗人の葎にすてる山がたな 良
樹下石上に修行する人が盗人に遭うのも、ないことではない。遍昭も、出家して間もなく石上寺で小町に逢った。後撰和歌集雑三1196と1197(大和物語百六十八段では、清水寺の出来事で、遍昭の歌の四句は「かさねばつらし」)
いその神といふ寺にまうでゝ日の暮れにければ、夜あけてまかりかへらむとてとゞまりて、この寺に遍昭侍りと人の告げ侍りければ、ものいひ心みむとていひ侍りける 小町
岩の上にたびねをすればいとさむし
苔の衣を我にかさなん
返し 遍昭
世をそむく苔の衣はたゞ一重
かさねばうとしいざふたりねん
遍昭に「苔の衣」を貸せと要求する小町は、追い剥ぎ、盗人の一種であろう。「いその神」は石上である。大和物語によれば、このあと遍昭は逃げて難を避けて、また行方不明になった。
「盗人」の歌には、特異歌ではないが、拾遺和歌集雑下560と561の屏風歌がある(「爲頼集」の詞書きは「屏風の絵にぬす人たがひたるかた書きたるが、唯の人とも見えぬに」)。
廉義公の家の紙繪に旅人のぬす人に會ひたるかた書ける所 藤原爲頼
ぬす人の立田の山に入りにけり
同じかざしの名にやけがれむ
なき名のみ立田の山の麓には
世にもあらしの風も吹かなむ
「同じかざし」は、後撰和歌集恋四808と809の贈答の伊勢の歌による。
女につかはしける 贈太政大臣(時平)
ひたぶるにいとひはてぬるものならば
吉野の山にゆくへしられじ
返し 伊勢
わが宿とたのむ吉野にきみいらば
おなじかざしを挿しこそはせめ
盗人も、立田の山に入るのであり、山中の旅人が、盗人に出遭う危険は多い。世をすてて山に入る、あるいは、西行などの用語では、身を捨てると言っても、皆が法師になるとは限らない。人柄によっては、躬恆が心配してやる山に入った法師と同じ契機で、すなわち、この世がそれほどまでに我身を厭うのならばと、悪行の象徴である山がたなを腰に差して、山に入る者もあるだろう。
古今和歌集雑歌下956、
山の法師のもとへつかはしける 凡河内みつね
世をすてて山に入る人山にても
なほうき時はいづちゆくらむ
古注釈(「十口抄」、「新大系古今集」による)に、躬恆が、「その人を責めていふにあらず」とある歌の、「すてて」に着目して、山の法師のもはや憂き時に揺るがぬ心境を、遍昭を試しながら思いやる小町とともに、曾良句は、信じることにする。境涯の似た盗人の方でも、苔の衣の法師に害をなしても、得るところは少ない。不退転の覚悟のある無名の法師の歌には、拾遺和歌集物名382
くまのくらといふ山寺に賀縁法師の宿りけるに住持し侍りける法師に歌詠めといひければ詠める よみ人しらず
身をすてて山に入りにし我なれば
くまのくらはむ事も覺ず
というのがあって、盗人に遭う心配などしていない。「山家集」の歌にも、熊に襲われることは盗人のためにも懸念された。
くまのすむこけのいはやまおそろしみ
うべなりけりな人もかよはぬ
しかし、躬恆らの友人であるらしい、大和物語二十七段の戒仙法師が、都の家に洗い物を頼んだために親たちの不興を買って詠んだ歌、
いまは我いづちゆかまし山にても
世のうきことはなを(ほ)もたえぬか
に言うように、山中に憂き事があるのではない。世の憂きことが、都近い麓の、憂き世から絶えず吹き上って来るのである。「山家集」の歌は、
すてたれどかくれてすまぬ人になれば
なほ世にあるに似たるなりけり
と言っている。
一方、葎の内側の人の場合はどうか。古今和歌集雑歌下975(拾遺和歌集恋二775)
今さらにとふべき人もおもほえず
やへむぐらしてかどさせりてへ
八重葎は、たくさんの蔓草の雑草の意、「万葉集」以来の景物、敬愛する人を迎える家を謙譲的にいう表現、であるが、源氏謫居のころ、源氏物語「蓬生」の巻」の末摘花邸の門は葎の蔓でよい戸締りになっていた。
かかるままに、浅芽は庭の面も見えず、しげき蓬は軒をあらそひて生ひのぼる。葎は西東の御門を閉じ籠めたるぞ頼もしけれど、(中略)盗人などいふひたぶる心ある者も、思ひやりのさびしければにや、この宮をば不用のものに踏み過ぎて寄り来ざりければ、かくいみじき野ら薮なれども、さすがに寝殿の内ばかりはありし御しつらひ変らず。つややかに掻き掃きなどする人もなし、塵は積れど、紛るることなきうるはしき御住まひにて、明かし暮らしたまふ。
盗人の、「思ひやりのさびしければにや」、想像力が乏しいからだろうか、葎に閉じ込められて、一途に敬愛する人を待ち続けている女がいようとは知らずに、盗人などという、乱暴に我を押し通そうとする、やはりひたぶる心の持主さえ、葎を鬼の栖の徴、ただの雑草としか見ないで踏み過ぎて行く。伊勢物語五十八段の歌
葎生ひて荒れたる宿のうれたきは
かりにも鬼のすだくなりけり
けれど盗人も、伊勢物語三段(大和物語百六十一段)の歌
思ひあらば葎の宿に寝もしなむ
ひじきものには袖をしつゝも
に見るとおり、彼に「思ひあらば」、葎などは門の固めにはならない。盗人は、盗もうとする女に対する思いが強ければそれだけ、求めてより大きな危険を冒すのだった。大和物語百五十四段(男の歌は、古今和歌集雑歌下995 よみ人しらず。「猿丸大夫集」では五句「打羽ぶきなく」)の盗人は、
大和の國なりけるひとのむすめ、いときよらにてありけるを、京よりきたりける男のかいまみて見けるに、いとお(を)かしげなりければ、ぬすみてかき抱きて馬にうちのせて逃げていにけり。いとあさましうおそろしう思ひけり。日暮れて立田山にやどりぬ。草のなかにあふりをときしきて、女を抱きて臥せり。女、恐しと思ふことかぎりなし。わびしと思ひて、男の物いへど、いらへもせで泣きければ、男、
たがみそぎゆふつけどりか唐衣
立田の山におりはへてなく
女、かへし、
立田川いはねをさして行く水の
行方もしらぬわがごとやなく
とよみて死にけり。いとあさましうてなむ、男抱きもちて泣きけり。
先に、廉義公の家の屏風絵で見た、立田山の盗人とは別人かもしれないが、盗人は恐らくこのために名を奪られて、よみ人しらずとなる。葎の中で、誰にも取られずにいた、末摘花の寂しい日常は次のように語られる。
はかなき古歌物語などやうのすさびごとにてこそ、つれづれをも紛らはし、かかる住まひをも思ひ慰めむるわざなめれ、さやうのことにも心おそくものしたまふ。(中略)古歌とても、をかしきやうに選り出で、題をも、よみ人をもあらはし心得たるこそ見どころもありけれ、うるはしき紙屋紙、陸奥国紙などのふくだめるに、古言どもの目馴れたるなどは、いとすさまじげなるを、せめてながめたまふをりをりは、引きひろげたまふ。今の世人のすめる、経うち誦み、行ひなどいふことはいと恥づかしくしたまひて、見たてまつる人もなけれど、数珠など取り寄せたまはず。かやうにうるはしくぞものしたまひける。
末摘花は紅花の異名だから、「末摘花の巻」に描かれた、忘れ難い姿を、清風に責任があると言えば厭がるだろうか。
まづ、居丈の高く、を背長に見えたまふに、さればよと、胸つぶれぬ。うちつぎて、あなかたはと見ゆるものは鼻なりけり。ふと目ぞとまる。普賢菩薩の乗物とおぼゆ。
しかし、「蓬生の巻」に描かれた姫君の文芸の趣味が、「はかなき古歌物語などやうのすさびごと」にも、「心おそくものしたまふ」、心が鈍くていらっしゃると言うのは、尾花沢でも心当たりがあることであろう。
源氏は末摘花をわざと放っておいた訳ではない。源氏が忘れていた間、盗人は誰も、葎の中の末摘花を知らなかったのだろうか。実は皆、良く知っていて、明るいところで凄い顔も見ていたのではないか。論語顔淵第十二の十八に、
季康子患盗、問於孔子、孔子對曰、苟子之不欲、雖賞之不竊、
季康子、盗を患えて孔子に問う。孔子対えて曰く、苟くも子の不欲ならば、これを賞すと雖ども竊まざらん。
とある。持主が要らないというものを盗む者は、まあ、いないのである。
曾良句の葎にすてる山がたなは、ついによく解らないが、狩衣を尅ム蘿衣に着替え、冠を脱ぐ人ならば、北山の北に抽き捨てる簪に似たものか。和漢朗詠集下閑居619
尅ム蘿衣 簪を北山の北に抽づ
蘭橈桂檝 舷を東海の東に鼓く 江相公
尅ム蘿衣 抽簪於北山之北 蘭橈桂檝 鼓舷於東海之東 江相公
遍昭は仁明天皇の崩御にあって、簪を抽き捨てた人だった。あるいは、末摘花の器量を見て、医者だったら投げる匙のようなものに譬えたか。
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十一の七の三、素英の三十二句目。