*

 

   十一の七、三つ目の句

 

 

 

「おくの細道」の途中、尾花沢の「おきふしの」歌仙の三十三句目。揚句前の三句は一度、「八の二」で見たが、不十分なので詳しく読んでみる。

 

父が旅寝を泣きあかすねや   良

うごかずも雲の遮る北のほし   風

けふも座禅に登る石上     蕉

盗人の葎にすてる山がたな    良

簗にかゝりし子の行へきく   英

繋ばし導く猿にまかすらん    蕉

けぶりとぼしき夜の詩のいへ  風

花と散る身は遺愛寺の鐘撞て   良

鳥の餌わたす春の山守     蕉

 

*

 

    十一の七の一、芭蕉の三十句目。

 

 

うごかずも雲の遮る北のほし  風

  けふも座禅に登る石上    蕉

 

 清風句の「北のほし」が、「紫式部集」一五(新古今和歌集離別歌859 詞書きは「浅からず契りける人の、行き別れ侍りけるに」)

 

姉なりし人亡くなり、又、人の妹うしなひたるが、かたみに行きあひて、亡きが代りに、思ひかはさんといひけり。文の上に、姉君と書き、中の君と書き通はしけるが、を(お)のがじしとを(ほ)き所へ行き別るるに、よそながら別れお(を)しみて

北へ行く雁のつばさにことづてよ

雲の上がき書き絶えずして

 

の、「北へ行く雁のつばさ」の目標であったらしく、「北のほし」はいつも迷妄の雲に遮られていて、めったに旅雁はこの地まで届かない。京華の書信は行方不明になりがちだった。清風は、「紫式部集」一(新古今和歌集雑歌上1497)

 

早うより、童友だちなりし人に、年ごろ経て行きあひたるが、ほのかにて、十(七)月十日のほど、月にきお(ほ)ひて帰りにければ

めぐりあひて見しやそれともわかぬ間に

雲隠れにし夜半の月影

 

とも、言いたいのを、月が隠れるなど不吉なのを題材にして、「紫式部集」九三と九四の贈答(新古今和歌集恋歌四12621263

 

なにのお(を)りにか、人の返・(り)ごとに

入る方はさやかなりける月影を

うはの空にも待ちし宵かな

返し

さして行く山の端もみなかき曇り

心も空に消えし月影

 

にもあるのに憚って、星に取り替えたのらしい。と言うのは、「山家集」の陸奥旅行途次に、「おもひもいでば」に出羽をかけていったらしい歌(新古今和歌集恋歌四1267

 

はるかなる所にこもりて、都なる人のもとへ月の比つかはしける

月のみやうはのそらなるかたみにて

おもひもいでば心かよはむ

 

これを、空にあってあの人を思い出させてくれる形見は、月ばかりだろうか、と読んで。清風の俳諧が、うはのそらであることを暗示するように。

 しかし、「うごかずも」という北辰、あるいは北斗星は、杜甫詩、「秋興八首」の二首目の二句目、

 

夔府孤城落日斜  夔府の孤城落日斜めなり

毎依北斗望京華  毎に北斗に依りて京華を望む

聽猿實下三聲涙  猿を聴きて実に下す三声の涙

奉使虚隨八月槎  使いを奉じて虚しく随う八月の槎

畫省香爐違伏枕  画省の香炉に違いて枕に伏す

山樓粉堞隱悲笳  山楼の粉堞隠れて悲笳あり

請看石上藤蘿月  請う看よ石上藤蘿の月

已映洲前蘆荻花  已に映ず洲前蘆荻の花に

 

のごとくに扱われるべきであり、辺境の尾花沢のなお北方に、不動の光によって示すべき土地はないから、この光は、源氏物語「匂宮の巻」の冒頭の、

 

光隠れたまひにし後、かの御影にたちつぎたまふべき人、そこらの御末々にあり難かりけり。

 

この、雲隠れした光に、「北のほし」の光を読み替えるべきか。論語爲政第二の一(「論語」金谷治訳注・岩波文庫)、

 

子曰、爲政以徳、譬如北辰居其所、而衆星共之

子の曰わく、政を爲すに徳を以てすれば、譬えば北辰の其の所に居て衆星のこれに共うがごとし。

 

によればいっそう、ここでは、清風を、「うごかずも」雲隠れしたと言う、北の星に比すべきようである。「匂宮の巻」に、歌は、十五才の薫の歌が一首だけある。

 

おぼつかな誰に問はましいかにして

はじめもはても知らぬわが身ぞ

 

 衆星である清風の俳諧の係累が、皆若々しくてこの歌にいうように独り立ちがおぼつかない者たちなのだ。

 清風句は、「拾玉集(慈鎭)」(「(旧)国歌大観」)

 

左金吾あづまに思ひ立つこと侍りて北斗曼陀羅つかはすとて返事をばいへと申すと聞きていひ遣しける(八首の七首目)

北の星や吾妻の旅に出る人を

祈る光りは空に見ゆらん

 

の、「北の星や」の特異歌によって、旅人芭蕉のために光る、極北にある微かな祈りの光を、ともすれば雲が遮っている、と言っていると、芭蕉は読んだろうか。曼陀羅といえば、と、「山家集」の詞書きが特に長い歌を思い付く。

 

又ある本に

まんだらじの行道どころへ登るはよの大事にて、手をたてたるやうなり。大師の御經かきてうづませおはしましたる山の峯なり。坊のそとは一丈ばかりなる檀つきてたてられたり。それへ日ごとにのぼらせおはしまして行道しおはしましけると申しつたへたり。めぐり行道すべきやうに檀も二重につきまはされたり。のぼるほどのあやふさことに大事なり。かまへてはいまはりつきて

めぐりあはむことのちぎりぞ有りかだき

きびしき山のちかひみるにも

やがてそれが上は大師の御師にあひまゐらせさせおはしましたる峯なり。我拝師山とその山をば申すなり。そのあたりの人はわかはいしとぞ申しならひたる、山もじをばすてて申さず。又筆の山ともなづけたり。とほくで見ればふでに似て、まろまろと山の峯のさきのとがりたるやうなるを申しならはしたるなめり。行道どころより、かまへてかきつきのぼりて、峯にまゐりたれば、師にあはせおはしましたるところのしるしに、塔をたておはしましたりけり。塔のいしづゑ、はかりなくおほきかり。高野の大塔などばかりなりける塔のあととみゆ。苔はふかくうづみたれども石おほきにして、あらはに見ゆ。ふでの山と申す名につきて

ふでの山にかきのぼりてもみつるかな

こけのしたなる岩のけしきを

善通寺の大師の御影には、そばにさしあげて、大師の御師かき具せられたりき。大師の御手などもおはしましき。四の門の額少くわれておほかたはたがはずして侍りき。すゑにこそいかがなりなむずらんとおぼつかなくおぼえ侍りしか。

 

 「めぐりあはむことのちぎり」というのは、先の、「紫式部集」一がそうであったのと同じく、伊勢物語十一段の歌(拾遺和歌集雑上470

 

忘るなよほどは雲居になりぬとも

空行く月のめぐりあふまで

 

によることは、「西行法師家集」にも、

 

伊勢にて菩提山上人對月述懐し侍りしに

めぐりあはで雲のよそにはなりぬとも

月になれゆくむつび忘るな

 

が、あることでも明らかだ。ここは弘法大師生誕の地の讃岐ではないが、そして我拝師山に似た山もないが、清風のいう暗雲を払うには、「拾玉集」の特異歌に触発されつつ、「まんだらじの行道どころへ登るはよの大事にて」ということを確認して、何よりも「めぐりあはむことのちぎり」が実現したのを有り難く大事なものにすべきだ。筆の山に書き登る人を、俳諧に引き直すために、句に、「石上」に「座禅に登る」とだけ単純化した観念上の姿の、「のぼるほどのあやふさ」を、心もとないと芭蕉がいうのは、西行も、「すゑにこそいかがなりなむずらんとおぼつかなくおぼえ侍りしか」と言うのだから仕方がないだろう。全てものごとが末には荒廃することかくのごとしだ。

 

*

 

    十一の七の二、曾良の三十一句目

 

 

けふも座禅に登る石上   蕉

〇  盗人の葎にすてる山がたな  良

 

 樹下石上に修行する人が盗人に遭うのも、ないことではない。遍昭も、出家して間もなく石上寺で小町に逢った。後撰和歌集雑三11961197(大和物語百六十八段では、清水寺の出来事で、遍昭の歌の四句は「かさねばつらし」)

 

いその神といふ寺にまうでゝ日の暮れにければ、夜あけてまかりかへらむとてとゞまりて、この寺に遍昭侍りと人の告げ侍りければ、ものいひ心みむとていひ侍りける                           小町

岩の上にたびねをすればいとさむし

苔の衣を我にかさなん

返し                             遍昭

世をそむく苔の衣はたゞ一重

かさねばうとしいざふたりねん

 

 遍昭に「苔の衣」を貸せと要求する小町は、追い剥ぎ、盗人の一種であろう。「いその神」は石上である。大和物語によれば、このあと遍昭は逃げて難を避けて、また行方不明になった。

 「盗人」の歌には、特異歌ではないが、拾遺和歌集雑下560561の屏風歌がある(「爲頼集」の詞書きは「屏風の絵にぬす人たがひたるかた書きたるが、唯の人とも見えぬに」)。

 

廉義公の家の紙繪に旅人のぬす人に會ひたるかた書ける所   藤原爲頼

ぬす人の立田の山に入りにけり

同じかざしの名にやけがれむ

なき名のみ立田の山の麓には

世にもあらしの風も吹かなむ

 

 「同じかざし」は、後撰和歌集恋四808809の贈答の伊勢の歌による。

 

女につかはしける                贈太政大臣(時平)

ひたぶるにいとひはてぬるものならば

吉野の山にゆくへしられじ

返し                             伊勢

わが宿とたのむ吉野にきみいらば

おなじかざしを挿しこそはせめ

 

 盗人も、立田の山に入るのであり、山中の旅人が、盗人に出遭う危険は多い。世をすてて山に入る、あるいは、西行などの用語では、身を捨てると言っても、皆が法師になるとは限らない。人柄によっては、躬恆が心配してやる山に入った法師と同じ契機で、すなわち、この世がそれほどまでに我身を厭うのならばと、悪行の象徴である山がたなを腰に差して、山に入る者もあるだろう。

 古今和歌集雑歌下956

 

山の法師のもとへつかはしける             凡河内みつね

世をすてて山に入る人山にても

なほうき時はいづちゆくらむ

 

古注釈(「十口抄」、「新大系古今集」による)に、躬恆が、「その人を責めていふにあらず」とある歌の、「すてて」に着目して、山の法師のもはや憂き時に揺るがぬ心境を、遍昭を試しながら思いやる小町とともに、曾良句は、信じることにする。境涯の似た盗人の方でも、苔の衣の法師に害をなしても、得るところは少ない。不退転の覚悟のある無名の法師の歌には、拾遺和歌集物名382

 

くまのくらといふ山寺に賀縁法師の宿りけるに住持し侍りける法師に歌詠めといひければ詠める                    よみ人しらず

身をすてて山に入りにし我なれば

くまのくらはむ事も覺ず

 

というのがあって、盗人に遭う心配などしていない。「山家集」の歌にも、熊に襲われることは盗人のためにも懸念された。

 

くまのすむこけのいはやまおそろしみ

うべなりけりな人もかよはぬ

 

 しかし、躬恆らの友人であるらしい、大和物語二十七段の戒仙法師が、都の家に洗い物を頼んだために親たちの不興を買って詠んだ歌、

 

いまは我いづちゆかまし山にても

世のうきことはなを(ほ)もたえぬか

 

に言うように、山中に憂き事があるのではない。世の憂きことが、都近い麓の、憂き世から絶えず吹き上って来るのである。「山家集」の歌は、

 

すてたれどかくれてすまぬ人になれば

なほ世にあるに似たるなりけり

 

と言っている。

 一方、葎の内側の人の場合はどうか。古今和歌集雑歌下975(拾遺和歌集恋二775

 

今さらにとふべき人もおもほえず

やへむぐらしてかどさせりてへ

 

 八重葎は、たくさんの蔓草の雑草の意、「万葉集」以来の景物、敬愛する人を迎える家を謙譲的にいう表現、であるが、源氏謫居のころ、源氏物語「蓬生」の巻」の末摘花邸の門は葎の蔓でよい戸締りになっていた。

 

かかるままに、浅芽は庭の面も見えず、しげき蓬は軒をあらそひて生ひのぼる。葎は西東の御門を閉じ籠めたるぞ頼もしけれど、(中略)盗人などいふひたぶる心ある者も、思ひやりのさびしければにや、この宮をば不用のものに踏み過ぎて寄り来ざりければ、かくいみじき野ら薮なれども、さすがに寝殿の内ばかりはありし御しつらひ変らず。つややかに掻き掃きなどする人もなし、塵は積れど、紛るることなきうるはしき御住まひにて、明かし暮らしたまふ。

 

 盗人の、「思ひやりのさびしければにや」、想像力が乏しいからだろうか、葎に閉じ込められて、一途に敬愛する人を待ち続けている女がいようとは知らずに、盗人などという、乱暴に我を押し通そうとする、やはりひたぶる心の持主さえ、葎を鬼の栖の徴、ただの雑草としか見ないで踏み過ぎて行く。伊勢物語五十八段の歌

 

葎生ひて荒れたる宿のうれたきは

かりにも鬼のすだくなりけり

 

けれど盗人も、伊勢物語三段(大和物語百六十一段)の歌

 

思ひあらば葎の宿に寝もしなむ

ひじきものには袖をしつゝも

 

に見るとおり、彼に「思ひあらば」、葎などは門の固めにはならない。盗人は、盗もうとする女に対する思いが強ければそれだけ、求めてより大きな危険を冒すのだった。大和物語百五十四段(男の歌は、古今和歌集雑歌下995 よみ人しらず。「猿丸大夫集」では五句「打羽ぶきなく」)の盗人は、

 

大和の國なりけるひとのむすめ、いときよらにてありけるを、京よりきたりける男のかいまみて見けるに、いとお(を)かしげなりければ、ぬすみてかき抱きて馬にうちのせて逃げていにけり。いとあさましうおそろしう思ひけり。日暮れて立田山にやどりぬ。草のなかにあふりをときしきて、女を抱きて臥せり。女、恐しと思ふことかぎりなし。わびしと思ひて、男の物いへど、いらへもせで泣きければ、男、

たがみそぎゆふつけどりか唐衣

立田の山におりはへてなく

女、かへし、

 

立田川いはねをさして行く水の

行方もしらぬわがごとやなく

とよみて死にけり。いとあさましうてなむ、男抱きもちて泣きけり。

 

先に、廉義公の家の屏風絵で見た、立田山の盗人とは別人かもしれないが、盗人は恐らくこのために名を奪られて、よみ人しらずとなる。葎の中で、誰にも取られずにいた、末摘花の寂しい日常は次のように語られる。

 

はかなき古歌物語などやうのすさびごとにてこそ、つれづれをも紛らはし、かかる住まひをも思ひ慰めむるわざなめれ、さやうのことにも心おそくものしたまふ。(中略)古歌とても、をかしきやうに選り出で、題をも、よみ人をもあらはし心得たるこそ見どころもありけれ、うるはしき紙屋紙、陸奥国紙などのふくだめるに、古言どもの目馴れたるなどは、いとすさまじげなるを、せめてながめたまふをりをりは、引きひろげたまふ。今の世人のすめる、経うち誦み、行ひなどいふことはいと恥づかしくしたまひて、見たてまつる人もなけれど、数珠など取り寄せたまはず。かやうにうるはしくぞものしたまひける。

 

 末摘花は紅花の異名だから、「末摘花の巻」に描かれた、忘れ難い姿を、清風に責任があると言えば厭がるだろうか。

 

まづ、居丈の高く、を背長に見えたまふに、さればよと、胸つぶれぬ。うちつぎて、あなかたはと見ゆるものは鼻なりけり。ふと目ぞとまる。普賢菩薩の乗物とおぼゆ。

 

しかし、「蓬生の巻」に描かれた姫君の文芸の趣味が、「はかなき古歌物語などやうのすさびごと」にも、「心おそくものしたまふ」、心が鈍くていらっしゃると言うのは、尾花沢でも心当たりがあることであろう。

 源氏は末摘花をわざと放っておいた訳ではない。源氏が忘れていた間、盗人は誰も、葎の中の末摘花を知らなかったのだろうか。実は皆、良く知っていて、明るいところで凄い顔も見ていたのではないか。論語顔淵第十二の十八に、

 

季康子患盗、問於孔子、孔子對曰、苟子之不欲、雖賞之不竊、

季康子、盗を患えて孔子に問う。孔子対えて曰く、苟くも子の不欲ならば、これを賞すと雖ども竊まざらん。

 

とある。持主が要らないというものを盗む者は、まあ、いないのである。

 

 曾良句の葎にすてる山がたなは、ついによく解らないが、狩衣を尅ム蘿衣に着替え、冠を脱ぐ人ならば、北山の北に抽き捨てる簪に似たものか。和漢朗詠集下閑居619

 

尅ム蘿衣 簪を北山の北に抽づ

蘭橈桂檝 舷を東海の東に鼓く   江相公

尅ム蘿衣 抽簪於北山之北 蘭橈桂檝 鼓舷於東海之東   江相公

 

遍昭は仁明天皇の崩御にあって、簪を抽き捨てた人だった。あるいは、末摘花の器量を見て、医者だったら投げる匙のようなものに譬えたか。

 

*

 

    十一の七の三、素英の三十二句目。

 

 

盗人の葎にすてる山がたな   良

〇  簗にかゝりし子の行へきく  英

 

 「簗」、または簗瀬の語があるのを、特異歌とすることはできないが、拾遺和歌集雑春1061

 

延喜の御時御屏風に                      貫之

梁みれば河風いたく吹く時ぞ

浪の花さえおちまさりける

 

など、数が少ないのは、前句の「盗人」の語のある歌と同様である。簗は網代のごときものだ。簗と網代とは、それぞれの漁法の相違はあるのだろうが、宇治川ではなく一般の河川に設置されるので、歌にはあまり詠まないが同じものを、素英句は、簗と呼んだのだろう。例えば、仙台の近くの名取川にも簗があることは、新古今和歌集冬歌553 源重之

 

名取川やなせの浪ぞ騒ぐなる

紅葉やいとどよりてせくらむ

 

の叙景歌で知られている。宇治の網代に寄って掛かるものは氷魚(ひを)、鮎の稚魚である。網代に寄る氷魚は様々に詠まれた。大和物語八十九段は、

 

修理の君に右馬の頭すみける時、「かたのふたがりければ、方違にまかるとてなむえ参りこぬ」といへりければ、

(修理)

これならぬことをもおほくたがふれば

うらみむ方もなきがわびしき

かくて右馬の頭行かずなりにけるころ、よみてを(お)こせたりける。

(修理)

いかでなを(ほ)網代の氷魚にこととはむ

何によりてか我をとはぬと

といへりければ、かへし、

(右馬の頭)

網代よりほかには氷魚のよるものか

知らずはうぢの人にとへかし

(略)

 

 「いかでなを(ほ)」の歌は、拾遺和歌集雑秋1134 修理(藤原真行女)である。郊外の別荘地の宇治にちなんで、別宅の方を網代に譬える。男なら誰でも寄る、網代木を詠んだ歌は、新古今和歌集雑歌中1648 人麿、

 

もののふの八十うぢ川の網代木に

いさよふなみの行方知らずも

 

が最も名高いだろう。歌では、武士と公家の子がこれに寄る様子を詠んで、宇治川の網代木というのだが、庶民の子も安直に寄るものを言いたくて、簗と呼ぶのである。

 葎は、その形にしては思いがけなく罠だと、曾良句は言っていた。女は、

 

さりとも、あり経ても思し出づるついであらじやは。

 

と、ひたすらに昔の人を待つ。尾花沢で、末摘花の葎に習う罠を仕立てて、芭蕉を待って目的を達した清風は、実は、越王勾践から逃げた笵蠡に比べたい程の金持ちであった。曾良句が、「蓬生の巻」によって、

 

今の世の人のすめる、経うち誦み、行ひなどいふことはいと恥づかしくしたまひて、見たてまつる人もなけれど、数珠など取り寄せたまはず。かうにうるはしくぞものしたまひける。

 

と、尾花沢の俳諧が、「経うち誦」む今の流行に暗いと言い、「山家集」をよく読まないと非難がましいのに対して、素英句は、「山家集」の歌、

 

笵蠡長男の心を

すてやらでいのちをこふる人はみな

ちぢのこがねをもてかへるなり

 

を選んで答えることにする。「史記」巻四十一越王勾践世家第十一の、笵蠡の長男の話は、「宝物集」に要約してある。

 

笵蠡が子は惜しみて持ちて帰ると云ふは、笵蠡が子、罪せられて禁められたるを、兄に千金を持たせて乞請けにやりたりけるに、遥かの道を来ながら、金を惜しさにいたづらに持ちて帰る事なり。

 

 大部な「史記」をどれほど連衆が読んでいたか、という現代の疑問は、元禄六年冬の「続猿蓑」の芭蕉句

 

笵蠡が趙南のこゝろをいへる山家集の題に習ふ。

一露もこぼさぬ菊の氷かな  芭蕉

 

があるのによって満足しなければならない。

 「山家集」久保田淳・古典を読む6の解釈を示しておく。

 

 大富豪陶朱公笵蠡の長男は殺人罪を犯した弟の命を助けようと(笵蠡が命じた末子を退けて)黄金千溢を持参して楚国へ赴いたが、金を惜しんだばかりにみすみす弟を見殺しにして、その黄金を空しく陶に持ち帰ったそうだ。ところで、憂き世を捨てきれずにこの世での生をおえる人は、身に備わっている仏性という宝を持ち腐れするのだから、言ってみればこの笵蠡の長男と同じことではないか。

 

 古今和歌集に、躬恆が「世をすてて」と詠むところを、西行は「身をすてて」と詠んだ。玉葉和歌集雑歌五2454

 

鳥羽院に出家のいとま申し侍るとて詠める          西行法師

惜しむとて惜しまれぬべきこの世かは

身を捨ててこそ身をも助けめ

 

よみ人しらずとして、初めて勅撰集に入集した歌にもこの用語を採用した。詞華和歌集雑下371 讀人不知(「西行物語」では、初句「世を捨つる」、下句「捨てぬ人をぞ捨つるとはいふ」と誤る。(「西行物語・全訳注」桑原博史・講談社学術文庫))

 

身をすつる人は誠にすつるかは

捨てぬ人こそすつるなりけれ

 

 西行は、「世をすてて」ではなく、仏教語「捨身」によって同じことを、「身をすてて」と言うのだ。この歌が世に知られてから、身を捨てて身を助けようとするのが、歌には暗い者が、世に忘れられると感じるべきところを、世に捨てられると実感して、事前に取るべき手段となった。世を捨てるのではなく、世に捨てられる前に先手を打ち、身を捨てるので、流れて簗に掛かる。曾良が西行贔屓の余りに、故なき批判をしている、西行の影響は陸奥の若い者の実生活にも、色濃く及んでいる、と素英句は言っている。簗は、この捨てて流れた身が掛かって助かる場所である。

 古今和歌集で、「身を捨てる」の用例は、古今和歌集雑躰誹諧歌1064 おきかぜ

 

身はすてつ心をだにもはふらさじ

つひにはいかがなると知るべく

 

などだが、この、「身はすてつ」は次の、「身をなげば」とほぼ同意で、同1061 よみ人しらず

 

世の中のうきたびごとに身をなげば

深き谷こそあさくなりなめ

 

和歌は、「身」と「心」を本意としてもそれぞれ自立するものとして詠む。また、成り行きとしての死は本意として詠むが、身投げは、つきつめ過ぎのこととして本意に外れる(テキスト)から、一転してこれらの語は、おどけたりふざけたりして、悲惨で苦汁に満ちたこの世を和らげ戯れて認識する方法の歌、誹諧歌に属するのである。釈教歌に現れる仏教語の教養は、古今和歌集に保持された和歌の本意を混乱させることになった。さらに、本意に外れた観念の受け皿である、誹諧歌の機能を硬直化して、地口、言葉遊びなど下等なものに貶めて、その代わりに身を捨てることを薦めた。身を捨てても助かるのだと言うから、この世に生還したいと願う、世の中を思い離れぬ、信心の中途半端な者がこの幻想を支持して、身を捨てて簗に掛かる。

 古今和歌集雑歌下989 よみ人しらず

 

風のうへにありかさだめぬ塵の身は

行くへもしらずなりぬべらなり

 

 世・世俗をたとえる漢語「風塵」をふまえる(「新大系古今集」)歌だが、自分の意志など持たぬ小さな軽い塵の身が、世の仕業である風を予感した時に、先手を打って身を捨てる。きっとどこかの簗に掛かっているはずだ。

 笵蠡の長男が金を使うのを惜しんだことを、山家集は、「すてやらで」と言った。親の金を使う事を、金を捨てると言うのだ。この話の、笵蠡がはじめ長男ではなく末子を遣わそうとしたのは、「宝物集」では省かれている。長男は親と共に苦労して、財産を作ることのいかに難しいかを体験して、金を捨てることは気がすすまないだろう。しかし、末子は生まれおちてこのかた親の富裕しか見て来なかった。彼ならば惜し気もなく大金を捨てるだろうとみて、笵蠡は末子を楚国にやろうとした。

 簗に掛かって身が助かるには、金が要る。つまり、身を捨てるたびごとに、親の金を使う、金を捨てるのだ。笵蠡ほどではないが、子のために掛かる金の心配はどの親もする。簗に掛かる子が自ら次のように詠むのだから、彼の行方を知ろうとする者は、有り難い親のほかには誰もいない。

 古今和歌集恋歌二611 みつね

 

わがこひは行くへもしらず果もなし

逢ふを限りと思ふばかりぞ

 

 親の方の歌には、後撰和歌集雑一1103(大和物語四十五段の歌、五句は「まよひぬるかな」)

 

太政大臣の左大將にて相撲のかへりあるじゝ侍りける日、中将にてまかりてことをはりてこれかれまかりあがれけるに、やむごとなき二三人ばかりとゞめて、まらうどあるじ酒あまたゝびの後、酔にのりて子どものうへなど申しけるついでに

                             兼輔朝臣

人の親の心はやみにあらねども

子を思ふ道にまどひぬるかな

 

を読んでみよう。というのは、論語八佾第三の七

 

子曰、君子無所爭、必也射乎、揖讓而升下、而飮、其爭也君子、

子の曰わく、君子は争う所なし。必ずや射か。揖讓して升り下り、而して飲ましむ。其の争いは君子なり。

 

に、「君子は何事にも争わない。あるとすれば弓争いだろう。」とある。この歌の還饗は賭弓ではなく相撲であるが、この連句もあと少し、揉め事なしに進行しようという提案を兼ねている。歌には、子が幾つになっても、子を思う道の闇の深さと、子の恋の行方の果てしなさとが区別し難いことが詠まれている。何もかも承知して、素英が行方を聞かれているのだ。彼はいま誹諧歌の方法を学んでいるところだ。このごろもよく身を捨てて簗に掛かるのらしいが、本意ではなく、誹諧歌の方法によって身を捨てるのだから、心までも捨てたわけではない。そっと放って置いてやればいいのだが。

 

*

 

    十一の七の四、芭蕉の三十三句目。

 

 

簗にかゝりし子の行へきく  英

◎  繋ばし導く猿にまかすらん   蕉

 

 

 簗といえば、こういう詩がある。杜甫詩「白小」。

 

白小羣分命  白小も群命を分かつ

天然二寸魚  天然二寸の魚

細微霑水族  細微にして水族を霑す

風俗當園蔬  風俗園蔬に当つ

入肆銀花亂  肆に入れば銀花乱る

傾筺雪片虚  筺を傾くれば雪片虚し

生成猶捨卵  生成猶お卵を捨くという

盡取義何如  尽く取るは義何如

 

 小さな魚の種の保全のために、引き合いに出すのではなく、素英句に、簗に掛かった氷魚を盡く独り占めさせる手はない、という。素英句が、この詩を既に使っていたと、主張することはないだろう。自らが簗に掛かった積もりでいるので、義何如に答える余裕はない。前句の気色を転ずる事なく、伸びたる句を、いわゆる遁句を出す。というより、前句の恋が一句では捨て難いので、拾い直すのである。

 真野の継橋、淀・真間の継橋ならあるが、「繋橋」という用例は見えない。似たものだろうか、何にせよ、人を繋ぎとめる橋なのだろう。後拾遺和歌集雑一881

 

ある人の、むすめを語らひつきて久しくおとし侍らざりければ  さがみ

ふみゝても物思ふ身とぞ成にける

ま野の継橋と絶エのみして

 

など、中絶えないようにと願って、外にも様々な歌枕の縁起の良い名の橋を掛ける。古今和歌集恋歌五825 よみ人しらず

 

わすらるる身をうぢ橋の中絶えて

人もかよはぬ年ぞへにける

又は、こなたかなたに人もかよはず

 

826 坂上これのり

 

あふことをながらの橋のながらへて

こひ渡るまに年ぞへにける

 

 棚橋と言うのもある。仮に棚をわたす粗末な橋だが、男を渡しはするが乗物の足を折って帰さない咒術的な橋だ。古今和歌集恋歌四739 よみ人しらず、

 

まてといはばねてもゆかなんしひてゆく

こまの足折れまへのたなはし

 

「山家集」にも、陸奥の旅の途中、古びて打ち捨てられた棚橋の見聞が詠まれた。

 

ふりたるたなはしをもみぢのうづみたりける、わたりにくくてやすらはれて、人にたづねければおもはくの橋と申すはこれなりと申しけるとききて

ふままうきもみぢのにしきちりしきて

人もかよはぬおもはくのはし

信夫の里より奥へ二日ばかりいりてある橋なり。

 

 素英句は、簗の危うさと若さ故の物珍しさのあまりに、「山家集」にも詠まれた、「おもはくの橋」の由来に気付かず、傍らに掛けた橋を渡る人が目に入らなかったのらしい。遊びながら親の顔を思い出すような者はなかなかいないが、論語読みの家に躾よく育ったらしい少年の遊びとしては無理もない事か。論語里仁第四の十九

 

子曰、父母在、子不遠遊、遊必有方、

子の曰わく、父母在せば、遠く遊ばず。遊ぶこと必ず方あり。

 

 橋を落とされても遮二無二渡ったのは、武者たちだった。治承四年五月(1180)、高倉宮以仁王を守護する源三位頼政の軍勢は、宇治橋を引き外ずして平等院に陣を敷いた。「橋合戰」の後に、平家物語巻第四「宮御最期」の場面。下野の住人足利忠綱の三百騎が先陣を務めて、平家の大将軍知盛の全軍二万八千騎が残らず宇治川を押し渡った。この時、馬いかだおしやぶられ網代に流れかかってゆられている武者を見て、頼政の嫡子伊豆守仲綱が詠んだ歌。

 

伊勢武者はみなひをどしのよろひきて

宇治の網代にかゝりぬるかな

 

 高倉宮を奈良に落として、頼政一党はここで全滅し、自害した頼政の首は、長七唱が石を付けて宇治川に沈めた。辞世の歌は、

 

埋木の花さく事もなかりしに

身のなるはてぞかなしかりける

 

 「競」には、頼政挙兵の原因として、平家の次男宗盛が仲綱の馬を強いて奪って、馬に仲綱と焼印して厩に入れて恥をかかせたことをいう。宗盛の横暴に比べて天下の人は、巻第三「醫師問答」がその死を語る重盛の徳を偲んだ。かって重盛は仲綱に、よい馬に鞍を置いて、「是はのり一の馬で候。夜陰に及んで、陣外より傾城のもとへかよはれん時、もちゐらるべし。」と、贈ったことがあった。頼政は仲綱に事の次第を聞き、「何事のあるべきとおもひあなづッて、平家の人共が、さやうのしれ事をいふにこそあんなれ。其儀ならば、いのちいきてもなにかせん。便宜をうかゞふてこそあらめ。」と言い放ち、事件を私事とせずに、「源氏揃」に、諸国の源氏蜂起の現実であることを説いて高倉宮の奮起をすすめた。

 壽永三年正月(元暦元年)(1184)、義仲が征夷大将軍となって平家追討のために西国に発向すべき時に、範頼・義経の六万余騎の軍勢は、それぞれ瀬田・宇治に迫った。宇治川はこの度も戦場となって、巻第九「生ずきの沙汰」、次いで「宇治川先陣」に語られた。瀬田も宇治も橋を引落し、水のそこには乱ぐいうって、大綱張り、逆茂木つないでながしかけた。宇治川の義経は先例に鑑みて敵前の渡河を決行し、生食に乗った高綱が先陣、摺墨に乗った景季がこれを追い、続いて畠山重忠が五百騎を率いて上陸した。義仲軍はたちまちに破れ、「河原合戦」で、六条高倉に住む女房に最後の名残を惜しむ義仲は、今参りの越後中太家光の自害を聞いて、ようやく六条河原に残軍を集めた。「木曾最期」の義仲は、瀬田から敗走した今井四郎の兵と大津の打出の浜で合流し、近江粟津まで戦って薄氷の張る深田で討たれた。(「平家物語」高木市之助、小澤正夫、渥美かをる、金田一春彦校注・日本古典文学大系)

 戦乱の時にこそ君子も武者となって橋を落とすことがあるので、流されて網代にも簗にも掛かるのであり、太平の世には、「のり一の馬」に乗り、駒の足など折らぬようにして橋を渡るのである。これを待つ宇治の橋姫は、古今和歌集恋歌四689 よみ人しらず(伊勢物語六十三段の歌は、下句「戀しき人にあはでのみ寢む」)、

 

さむしろに衣かたしきこよひもや

われをまつらむ宇治の橋姫

又は、うぢのたまひめ

 

で名高いが、人麿の、「もののふの」の歌を再発見した新古今和歌集で大いに流行した。新古今和歌集秋歌上420

 

〔家に月五十首歌よませ侍りし時〕           藤原定家朝臣

さむしろや待つ夜の秋の風ふけて

月をかたしく宇治の橋姫

 

など。このころ、源氏物語宇治十帖の世界が一般に学ばれて、ようやく現実と混淆されるまでになったともいえようか。

 簗は、初心者のために優れた教育機関の一つだ。素英が恋の種々相をここで学ぼうとするのには賛成する。「匂宮の巻」で、

 

おぼつかな誰に問はましいかにして

はじめもはても知らぬわが身ぞ

 

と詠んだ薫が、「橋姫の巻」の大君との贈答でも、

 

網代は人騒がしげなり。されど氷魚も寄らぬにやあらむ、すさまじげなるけしきなり」と、御共の人々見知りて言ふ。あやしき舟どもに柴刈り積み、おのおの何となき世の営みどもに行きかふさまどもの、はかなき水の上に浮かびたる、誰も思へば同じごとなる世の常なさなり。我は浮かばず、玉の台に静けき身と思ふべき世かは、と思ひつづけらる。

硯召して、あなたに聞こえたまふ。

(薫)

「橋姫のこころを汲みて高瀬さす

棹のしづくに袖ぞ濡れぬる

ながめたまふらむかし」とて、宿直人に持たせたまへり。いと寒げに、いららぎたる顔して持てまゐる。御返り、紙の香などおぼろけならむは恥づかしげなるを、ときをこそかかるをりは、とて、

(大君)

「さしかへる宇治の川長朝夕の

しづくや袖をくたしはつらむ

身さへ浮きて」と、いとをかしげに書きたまへり。

 

まだ手も出せないでいて、独り寝の寂しい習慣をほのめかしたが、少し年上の大君にも青年の細かな所は分からない。「椎本の巻」の贈答になると、

 

(大君)

雪ふかき山のかけ橋君ならで

またふみかよふあとを見ぬかな

と書きて、さし出でたまへれば、「御ものあらがひこそ、なかなかこころおかれはべりぬべけれ」とて、

(薫)

つららとじ駒ふみしだく山川を

しるべしがてらまづやわたらむ

さらばしも、影さへ見ゆるしるしも、浅うははべらじ

 

と誇らしげに、匂宮の恋のしるべ、案内人となって、古今和歌集仮名序注にいう手習歌、万葉集巻第十六3807(大和物語百五十五段では、下句「あさくは人を思ふものかは」。この歌が混じっている「小町集」もある。)では、

 

安積香山影さへ見ゆる山の井の

浅き心をわが思はなくに

右の歌は、傳へ云へらく、葛城王の陸奥國に遣さえし時、國司の祇承ふること緩怠にして異に甚し。時に、王の意悦びず、怒の色面に顯れ、飮饌を設けしかども、あへて宴樂せざりき。ここに前の采女あり、風流びたる娘子なり。左の手に觴を捧げ右の手に水を持ち、王の膝を撃ちて、この歌を詠みき。すなはち王の意解け悦びて、樂飮すること終日なりきといへり。

 

の詞章を使うとおり、僅かな歳月は、橋姫が驚きうとましくなるほどに、少年を変貌させていた。

 意馬心猿、もしくは心猿意馬の成語がある。素英の素養がどんなものか分からないが、陽明学派の流儀でなくても、「伝習録」の初めのほうにこの語があるから、この語が、初学の人の状態を譬えることがあるのを知っているはずだ。「伝習録」巻之上三九(「伝習録」山田凖、鈴木直治訳注・岩波文庫)

 

一日學を爲すの工夫を論ず。先生曰く、「人に學を爲すを教ふるは、一偏を執る可からず。初學の時は、心猿意馬、拴縛し定めず、其の思慮する所は、多くは是れ人欲の一邊なり。故に且く之に靜坐して思慮を息むることを教へ、之を久しうして其の心意の稍々定まるを俟つ。只だ懸空に靜守して槁木死灰の如くなるは、亦用無し。須く他をして省察克治せしむべし。省察克治の功は、則ち時として間つ可きなし。盗賊を去るが如く、須く箇の掃除廓清の意有るべし。(略)」

 

 大君には、匂宮がどんな御方であれ、つららに閉じた山川を、強引に踏みしだく奔馬の、「しるべ」を先立てての御訪問では、御心が来る、通うようになるとは思えない。大和物語五十六段(後撰和歌集恋五979980のよみ人しらずの贈答。贈歌の詞書きは「思ひ忘れにける人のもとにまかりて」、初句「夕闇は」、結句「まかせてぞ來る」。答歌の三句「あやなくも」。)に、

 

越前權守兼盛、兵衛の君といふ人にすみけるを、としごろはなれて又いきけり。さてよみける、

ゆふさればみちもみえねどふるさとは

もと來し駒にまかせてぞ行く

女、かへし、

こまにこそまかせたりけれはかなくも

心の來ると思ひけるかな

 

「としごろはなれて」といい、後撰和歌集では、「思ひ忘れにける人」と事実を逆さまに言う、歌の例しもある。駒に乗った、「しるべ」の心が、猿のように妄動して、「初學の時は、心猿意馬、拴縛し定めず、其の思慮する所は、多くは是れ人欲の一邊なり。」とすれば、大君が薫の歌に答えて、宮に御約束するのは、初めから宮の心も猿、去るに任せたようなものだ、心が通うと期待することはできない。

 先の芭蕉句の座禅が、初学の人の、「且く之に靜坐して思慮を息むる」姿でもあったらしく見えてくる。初学者がこの暗示に学ばないのならば、彼の導くのに任せておいて、全て横取りしてしまおうという心積もりだったのか。

 

 誹諧歌と物語歌などの関係について少し見ておこう。釈教歌ではないが、「山家集」の歌、

 

西の國の方へ修行してまかり侍りけるに、みづのと申す所に具しならひたる同行の侍りけるが、親しきものの例ならぬ事侍りとて具せざりければ

やましろのみづのみくさにつながれて

駒ものうげにみゆる旅かな

 

は、新千載和歌集雑歌誹諧歌2151である。勝手に誹諧歌に分類したのであって、駒の本意が陣外の傾城に通うというものであるわけはない。これが誹諧歌ならば、「山家集」にはいくらでもあることになる。

 

備前國に小島と申す島にわたりたりけるに、あみと申す物とる所はおのおのわれわれしめて長き竿に袋をつけてたてわたすなり。その竿のたてはじめをば一の竿とぞなづけたる。なかにとしたかきあま人のたてそむるなり。たつると申すなることばきき侍りしこそ、涙こぼれて申すばかりなくおぼへてよみける

たてそむるあみとる浦のはつさほは

つみのなかにもすぐれたるらむ

 

 これなどは、先の薫の歌、

 

橋姫のこころを汲みて高瀬さす

棹のしづくに袖ぞ濡れぬる

 

に並べて誹諧歌にする人もあろう。

 そもそも、橋姫たちも誰かの子だったわけで、その境遇は全て、「手習の巻」の浮舟の歌、

 

身を投げし涙の川のはやき瀬を

しがらみかけてたれかとどめし

 

に似ている。だから、「簗にかゝりし子」の扱いは、橋姫も、橋姫たちを育ててきた橋守も手慣れているだろう。古今和歌集の誹諧歌の定義に従えば、これを誹諧歌と呼ばないのは不当だが、生き返った人が歌を詠むという、聞いたこともない虚構の物語が、躬恆らが開拓して用意してあった誹諧歌の領域を、あっさりと棚上げしてしまった。正体の歌の本意に外れた観念の背景が、物語には丁寧に美しく書き込まれている。この美しく悲しい歌は、古今和歌集の誹諧歌のようには、一人歩きができない。口ずさめば、この世の暴虐をしばしでも防ぐ、ということはないのだが、背景である稠密な物語と共にならば、同じ役割を果す事があるのである。

 

*

 

    十一の七の五、清風の三十四句目。

 

 

繋ばし導く猿にまかすらん    蕉

  けぶりとぼしき夜の詩のいへ  風

 

 杜鵑のいる地方、いない地方があるように、猿にも、その声が最も哀切な場所、名所があると言われる。和漢朗詠集巻下猿455

 

江は巴峽より初めて字を成す 猿は巫陽を過ぎて始めて腸を斷つ   白

江從巴峽初成字 猿過沫z始斷腸   白

 

しかも、西行が高野で見た(大原にはいない)、何心なく鳴くばかりの猿は、巫陽の峽谷に棲息する、声量の大きな吼猿の類とは、どうやら別の種類の猿であるらしいのだ。「山家集」の歌。

 

思ひをのぶる心五首人々よみけるに(四首目)

ふかき山は人もとひこぬすまひなるに

おびただしきはむらざるの聲

入道寂然大原に住み侍りけるに、高野よりつかはしける(四首目)

山ふかみこけのむしろのうへにいて

何心なくなくましらかな

 

 歌人と違い、日本詩人が使う猿は、観念の猿たらざるをえない。詩は、これにある程度の声量を要求するから、全て空想の巫陽から輸入した猿である。題詠を命じられた躬恆が詠む。古今和歌集雑躰誹諧歌1067

 

法皇西川におはしましたりける日、猿山のかひに叫ぶといふことを題にてよませたまうける                         みつね

わびしらにましらな鳴きそあしひきの

山のかひあるけふにやはあらぬ

 

歌は唐物を使わないから、わびしらに、その声が小さくて景気が悪いのは、題詠にも無理難題というものがある所為だと、良くできた誹諧歌を詠んだのだが、宇多法皇もご嘉納されたことだろう。清風は、芭蕉が出す、古典的な難題に答える。

 それでは、芭蕉句の、観念としての猿は、どこにいた猿を原型としたのか。人のような猿、猿である人と言っても良いのだが、この猿を、かって誰かが見ている。「赤染衛門集」の、夫・大江匡衡に先立たれた頃のらしい、石山寺参籠の詠歌。

 

ひごろこもりたるに夜たにに猿のなきしに

たよりなきたびとはわれぞ思ひつゝ

木をはなれたる猿もなくなり

 

参籠の法悦のうちに聞いた幻聴らしいが、俗諺を引くほどには覚めている。知らぬうちに嗚咽が漏れていたのだ。それが猿の声になって、谷の闇の中から聞こえてきた。家の風が吹く涼しい木陰をなくした、若い、木をはなれたる猿を連れて、頼りない旅がいつまで続くのかと思って。

 とても長生きして、曾孫の匡房が生まれて詠んだ歌。「赤染衛門集」(後拾遺和歌集賀438439

 

なりひらがをのこごむませたりしにうぶぎぬ縫ふほどにおぼえし

雲の上にのぼらむまでもみてしがな

つるの毛衣としふとならば

七日夜

千代をいのる心のうちのすゞしきは

たえせぬ家の風にざりける

 

 夫に助言して、藤原公任の満足を得さしめたという話は、「十訓抄」第七可専思慮事の九にある(「十訓抄」永積安明校訂・岩波文庫)。「袋草紙」のこの記事の代わりに引く。

 

四條大納言(三條関白頼忠一男)、寛弘二年の比、月來恨ありて出仕もし給はず。大納言辭退し申さむとせられけるに、匡衡を招きて、「辭表を奉らむと思ふ間、時の英才、齋名・以言等に誂へしむと雖ども、猶心に不叶。貴殿ばかりぞ書ひらかれむとおもふ。」といはれければ、匡衡なまじひに請とりて、家へ歸りて愁歎の気色あり。時に妻赤染右衛門、「何事ぞ。」と尋ぬるに、「かゝること也。かの輩は、才學優長なり。然るを、夫に勝りてかき述んこと、極めて有難し。」と答へければ、赤染打案じて、「かの人、ゆゝ敷矯餝ある人なり。我身の先祖やんごとなき者にて有ながら、沈淪の旨をかゝざるか。はやくこの旨を書べし。」と云。匡衡、彼輩の草を見るに、實に其趣なし。最可然とて、打立に云は、「臣は五代の太政大臣の嫡男なり。曩祖忠仁公より以來。」と云より、次第に數へ擧て、我身の沈るよしを書て、持てゆくところに、感歎して喜べる気色なり。依て是を用ひられけり。

 

 「本朝文粋」巻第五「爲四條大納言請罷中納言左衛門督状」江匡衡の、それに当たる部分(「本朝文粋」佐久節・校註日本文学大系)。

 

右臣公任伏以。(略)臣幸出於累代上台之家。謬至過分顯赫之任。才拙而零落。槐葉難期前蹤。病重而栖遲。柳枝可生左臂。(下略)

 

要するに、矯餝・自尊心の強い、見栄坊な公任の、門地の高いのを誇称せよと勧めて成功したものである。妻がいなければと、世に言い触らしたのは匡衡自身だろう。追従の方法を妻に教えて貰ったと言うのは、見栄坊の仕業だ。屈折して、世話の焼ける人々をいっぱい抱えて、家の風を守ってやってきた。

 せっかく大事にしている唐物の猿を捨てろとはなかなか言われないが、意外なものが、日本の詩には避けたい言葉だと言われる。和漢朗詠集巻下猿458

 

人煙一穂秋の村僻かれり 猿の叫び三聲曉峽深し   紀

人煙一穂秋村僻 猿叫三聲曉峽深   紀

 

 「人煙」は人家の竃の煙・転じて人家の存在、「唐詩選」の李白詩「秋登宣城 北樓」に使ってあるし、杜甫詩「北征」にもある普通の言葉なのだが、これについて、「江談抄」第四に、「人烟、近代忌之不作」とあるのも、当然のことだろう。「人煙」とあればまず、大和物語六十段

 

五條の御といふ人ありけり。男のもとに、我(が)かたをゑにかきて、女の燃えたるかたをかきて、煙をいとおほく燻らせて、かくなむ書きたりける。

きみをおもひなまくし身をやくときは

煙おほかる物にぞありける

 

の縁起でもない歌を思い浮かぶ。歌では、煙が多くても、絶えていても、どちらも不吉なものだ。古今和歌集哀傷歌852

 

河原の左のおほいまうちぎみの身まかりてのち、かの家にまかりてありけるに、塩釜といふ所のさまをつくれりけるを見てよめる     (つらゆき)

君まさで煙たえにししほがまの

うらさびしくも見え渡るかな

 

じつは、煙が少ないのが、一般に最も忌避される。万葉集巻一2(「万葉拾穂抄」では、「うまし國ぞ・怜 國曾」は、「おもしろき國ぞ」)

 

天皇、香具山に登りて望國しましし時の、御製の歌

大和には   群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち

國見をすれば 國原は   煙立ち立つ 海原は   かまめ立ち立つ

うまし國ぞ  あきづ島  大和の國は

 

国賛めの歌の虚構であることを暴くようなものだから、はっきりと、煙が乏しいと正直に歌うことはしない。ともあれ、論語学而第一の十五

 

子貢曰、貧而無諂、富而無驕、何如、子曰、可也、未若貧而樂道、富而好禮者也、子貢曰、詩云、如切如磋、如琢如磨、其斯之謂與、子曰、賜也、始可與言詩已矣、告諸往而知來者也、

子貢が曰わく、貧しくして諂うこと無く、富みて驕ること無きは、何如。子の曰わく、可なり。未だ貧しくして道を楽しみ、富みて礼を好む者には若かざるなり。子貢が曰わく、詩に云う、切するが如く磋するが如く、琢するが如く磨するが如しとは、其れ斯れを謂うか。子の曰わく、賜や、始めて与に詩を言うべきのみ。諸れに往を告げて来を知る者なり。

 

別に、論語憲問第十四の十一は、

 

子曰、貧而無怨難、富而無驕易、

子の曰わく、貧しくして怨むこと無きは難く、富みて驕ること無きは易し。

 

とあって、貧乏は辛いものだ。お追従をしないのは易しくて、道義を楽しむ境地に進もうとしても、子は子貢に言わなかったが、その時になってもまだ、何者かを怨まずにいられない者がいるのだ。難・殆ど不可能ということだ。怨みは誰にも覚えがある、追い詰めると最も危険な感情だ。子貢は、貧乏のいやらしい所だけ見聞きしていて、辛い所を知らずにいるようだ。一方、金持ち喧嘩せずというが、范蠡は、「千金の子は市に死せず」・金持ちの子は縊られぬという俗諺を採用して、黙って千鎰の金を捨てることにしたのだった。めったに人を裏切ることのない俗諺が外れたのは、長男はもとより范蠡さえ、金を捨てるべき相手、楚の荘生・路地裏に住む、世に清廉正直の誉れ高い男の貧乏を知らなかったからだ。

 確かに、清風は貧乏を知らない。貧乏は嘗めないと分からない。でもそれが罪だろうか。子貢も子に、「可也」と、言って貰った。歌仙はあと二句を残すだけになった。どうかして、清風は、「諸れに往を告げて来を知る者なり。」とまでは言ってくれなくても良いが、「始めて与に詩を言うべきのみ。」と言われたい。

 

 先の和漢朗詠集巻下猿455の出典は、白楽天詩「送蕭處士遊黔南 蕭処士の

黔南に遊ぶを送る」である(「白居易」高木正一注・中國詩人選集)。

 

能文好飮老蕭郎  文を能くし飮を好む老蕭郎

身似浮雲鬢似霜  身は浮雲に似て鬢は霜に似たり

生計抛來詩是業  生計抛ち來りて詩は是れ業

家園忘却酒爲郷  家園忘却して酒を郷と爲す

江從巴峽初成字  江は巴峽より初めて字を成し

猿過巫陽始斷膓  猿は巫陽を過ぎて始めて膓を斷つ

不酔黔中爭去得  酔はずんば黔中に爭でか去り得ん

磨圍山月正蒼蒼  磨圍山月正に蒼々

 

そして、頷聯(三、四句)は、和漢朗詠集巻下酒482であり、尾聯(七、八句)は、同巻上月254である。これほど詩をばらばらにして良いものだろうか。「江談抄」第四にもこの記事があるが、「古今著聞集」文学第五の二「天暦御時大江朝綱菅原文時に白氏文集第一の詩を撰ばしむる事」に、この律詩をあげている。(「古今著聞集」中島悦次校注・角川文庫)

 

天暦御時、朝綱・文時におほせて、文集第一詩えらびて、たてまつるべきよし勅定ありければ、【律詩】この四韻を、ともにえらびたてまつりたりけり。一句すぐれたるはおほけれど、四句躰ことなるによりて、ありがたき事にや。両人同心の程、興あることなり。

 

 清風は、諂うという性癖とさいわいにも無縁である。だから芭蕉のことを、公任が和漢朗詠集に撰ばなかった首聯の、老蕭郎に準えて、密かに反応を窺っても、白氏文集第一の詩中の人物の事ならば、許されると信じている。匡衡が公任のために書いた上表の粉飾と違って、芭蕉を知らない白楽天の詩に、ほぼ偽りがない。

 

*

 

    十一の七の六、曾良の三十五句目。

 

 

    けぶりとぼしき夜の詩のいへ  風

  花と散る身は遺愛寺の鐘撞て   良

 

 清風の、論語学而第一の十五を使った要請に応じて、芭蕉がもう一句、揚句を勤めることになったので、花の座の素英を外して、曾良がここに繰り上がった。「かねて案じ置く」ともいわれて、作ってあったかもしれない揚句は用なしになった。

 曾良句の「身」は、白楽天となってこの歌仙を致仕する清風に答える、老蕭郎たる身である。名残の花を持たされて、芭蕉の叱責を受けること必定の、花と散る身である。煙も乏しかろう詩の家の、文集第一の詩を選んだ二人の、花の詩を使う。人を花に譬える事はよくある。和漢朗詠集巻下親王付王孫671672

 

この花はこれ人間の種にあらず 瓊樹の枝の頭の第二の花なり

名花閑軒に在り 江

此花非是人間種 瓊樹枝頭第二花   名花在閑軒 江

この花はこれ人間の種にあらず 再び平臺一片の霞に養われたり

前に同じ 菅三品

此花非是人間種 再養平臺一片霞   同前 菅三品

 

「江談抄」第四に、「(略)又云、朝綱被称云、後代人以予并文時、為一双歟。」と注する。どこまでが礼で、どこからが諂いだという境界は難しいが、論語八佾第三の十八に、

 

子曰、事君盡禮、人以爲諂也、

子の曰わく、君に事うるに礼を尽くせば、人以て諂えりと為す。

 

 何でも諂うとするのは、清風によく当て嵌まって、大ざっぱだとも、潔いとも言える。

 花が何の樹に咲く花であろうと、何に養われようと、必ず散るものであることを、「山家集」の歌で確認することができる。

 

待賢門院かくれさせおはしましける御あとに、人々またのとしの御はてまで候はれけるに、みなみおもての花ちりけるころ堀川の局のもとへ申しおくりける

たづぬともかぜのつてにもきかじかし

花とちりにし君が行へを

返し

ふくかぜの行へしらするものならば

はなとちるにもおくれざらまし

 

 「花の歌あまたよみけるに」と詞書きしたほど、まことに多くの花の歌を詠んだ西行が、ただ一首だけ、「花とちりにし」と使って、逝った人を花に譬えた。頼みがたい世の人の心をよそに、散った花の思い出を共有する連帯感を確かめようとして。たった一人の、花と呼び慣れた美しい人のために西行は使ったのに、堀川の局までが、自らを花に譬えるとは思いよらなかったのではないか。突風はふたたび、いつやって来て墨染の霞のなかの花も散らそうとするのか、推し量ることができない。堀川の局が西行に倣って、花と散るを、逝くの同意語として使ったのは、女らしい勘違いか、でなければ、西行が死神の使いに見えたせいかもしれない。風の宿りと去年の桜とは、古今和歌集春歌76

 

桜の花のちり侍りけるを見てよめる            そせい法し

花ちらす風のやどりは誰かしる

我にをしへよ行きてうらみむ

 

それと、伊勢物語五十段の歌(続古今和歌集恋歌五1293 業平朝臣 詞書きは「女を恨みていひ遣はしける」)

 

吹く風にこぞの櫻は散らずとも

あな頼みがた人の心は

 

に拠るべきことを承知しているが、御はてを待っても、すでに尼となった身は、花の衣に着替えることもない。それよりも、新しい歌檀の担い手の用語に従うべきだろう。

 「花と散る」のではないがもう一つ、散る花の「山家集」の歌、

 

花のちりたりけるにならびて、さきはじめける櫻をみて

ちると見ればまたさくはなのにほひにも

おくれさきだつためしありけり

 

は、新古今和歌集哀傷歌757 僧正遍昭(和漢朗詠集巻下無常798

 

末の露もとの雫や世の中の

おくれさきだつためしなるらむ

 

を本歌として、「おくれさきだつためし」を一般には、消えを争う露によって言うのを、より日常化して、花にも及ぼしたのだ。死が、西行の四季の風光に瀰漫している。

 曾良句が西行歌に学んだのは、はっきりしている。清風句が芭蕉にしてしまった老蕭郎を、それらしいことを聞くと、すぐそれが自分のことだと思ってしまう悪い癖で、堀川の局が間違えたように、俺の事かと思う。「詩これ業なり」は怪しいが、「酒郷たり」は師より合っている。詩については、論語爲政第二の二

 

子曰、詩三百、一言以蔽之、曰思無邪、

子の曰わく、詩三百、一言以てこれを蔽う、曰わく思い邪なし。

 

によって、「心の思いに邪なし」ということができ、酒は、和漢朗詠集巻下刺史692(「本朝文粹」巻九「春日於右監門藤將軍亭餞能州源刺史赴任勤醉惜別」慶保胤)

 

三百盃といふとも強ちに辭することなかれ 邊土はこれ酔郷にあらず

この一兩句は重ねて詠じつべし 北陸あにまた詩の國ならんや   保胤

雖三百盃莫強辭 邊土不是酔郷

此一兩句可重詠 北陸豈亦詩國   保胤

 

によって、三百杯も辞さない事にしている。

 遺愛寺の鐘とは、和漢朗詠集巻下山家554

 

遺愛寺の鐘は枕を欹てて聽く 香鑢峯の雪は簾を撥げて看る   白

遺愛寺鐘欹枕聽 香鑢峯雪巻簾看   白

 

つまり、白楽天詩「重題 重ねて題す」(「香鑢峯下、新卜山居、草堂初成、偶題東壁」と同時の作)

 

日高睡足猶慵起  日高く睡り足れるも 猶お起きるに慵し

小閣重衾不怕寒  小閣に衾を重ねて 寒さを怕れず

遺愛寺鐘欹枕聽  遺愛寺の鐘は枕を欹けて聴き

香鑢峯雪撥簾看  香鑢峯の雪は簾を撥ねて看る

匡廬便是逃名地  匡廬は便わち是れ名を逃るる地

司馬仍爲送老官  司馬は仍お老いを送る官なり

心泰身寧是歸處  心泰く身寧きは是れ帰処

故郷何獨在長安  故郷は何ぞ独り長安にのみ在らんや

 

による。鐘声を、遺愛寺の鐘と断ったのは、「花と散り」と使うもう一首の有名な歌、新古今和歌集雑歌下1693

 

雪                          菅贈太政大臣

花と散り玉と見えつつあざむけば

雪ふる里ぞ夢に見えける

 

の作者、菅原道真の七言律詩「不出門」の頷聯で、和漢朗詠集巻下閑居620

 

都府樓には纔かに瓦の色を看る 觀音寺には只鐘の聲を聴く   不出門 菅

都府樓纔看瓦色 觀音寺只聽鐘聲   不出門 菅

 

観音寺の鐘声ではないのを言うためでもある。又、和漢朗詠集巻上雨81で、「唐詩選」の銭起の七言律詩「贈闕下裴舎人」の頷聯

 

長樂の鐘の聲は花の外に盡きぬ 龍池の柳の色は雨の中に深し   李

長樂鐘聲花外盡 龍池柳色雨中深   李橋

 

でもないのをいう。曾良句が、鐘声を聞くのではなく撞くというのは、ぬくぬくと中二階の布団の中で朝寝している詩人に聞かせるのである。曾良句は鐘の音で清風を起こしてやった。起こして、「始めて与に詩をいうべきのみ」と、清風に言わしめる。清風句は、論語学而第一の十五とともに、論語八佾第三の八

 

子夏問曰、巧笑倩兮、美目盻(盼)兮、素以爲絢兮、何謂也、子曰、繪事後素、曰禮後乎、子曰、起予者商也、始可與言詩已矣

子夏問うて曰わく、巧笑倩たり、美目盻(盼)たり、素以て絢を為 すとは、何の謂いぞや。子の曰わく、絵の事は素を後にす。曰わく、礼は後か。子の曰わく、予れを起こす者は商なり。始めて与に詩をいうべきのみ。

 

も、使いたかったらしいが、清風が芭蕉を起こす・啓発するとは考えられないので、曾良が清風を起こして、ここで読むことにするのである。

 曾良は、白楽天と一緒に、廬山の屏風絵の点景となって、遺愛寺の鐘を撞くのだ。白楽天詩「上香鑪峰 香鑪峰に上る」

 

倚石攀蘿歇病身  石に倚り 蘿に攀りて 病身を歇う

a竹杖白紗巾  青aの竹杖と白紗の巾

他時畫出廬山障  他時 廬山の障を画出せば

便是香鑪峰上人  便わち是れ香鑪峰上の人

 

*

 

    十一の七の七、芭蕉の揚句。

 

 

  花と散る身は遺愛寺の鐘撞て  良

  鳥の餌わたす春の山守    蕉

 

 芭蕉が揚句を受け持つのは、尾花沢の俳諧にとって、様々な意義があろう。俳書が教える作法に囚われがちな人々の蒙を啓いて、「三冊子(白雙紙)」にも、

 

裏一順の事も「初のごとくかろがろとあるべし。句なみを追ふにも及ばず」となり。「揚句は付かざるよし」と古説あり。今一句になりて、一座きよう興さむるゆゑなり。また「かねて案じ置く」ともいへり。発句主ならびにていしゆ亭主のする所にあらず。初の一順に執筆の句なくば、揚句を筆にすべし。発句にある文字をつつしむ」となり。

 

という先入観に優先すべき、実践を見せた。先の、清風主催の「すゞしさの」歌仙では、揚句前の花の座を清風、揚句は四句目の素英と、尾花沢の二人が勤めて、結びの四句は、素英・曾良・清風・素英の順番だった。こんどの、芭蕉が脇を勤める「おきふしの」歌仙は、旅人の曾良と芭蕉が、花の座と揚句を勤めて、先の順番の、清風を曾良に、素英を芭蕉に入れ換え、芭蕉・清風・曾良・芭蕉の順とした。旅人が脇をする歌仙を、答礼の俳席として、旅人たちの挨拶で締め括るのである。こうして二つの歌仙を一組にしながら、揚句は発句主ならびに亭主のする所にあらずと言う俳書には、盛ることが出来ない、もう一つの形式美を見せた。

 「春の山守」は、芭蕉の造語ではない。十一番目の勅撰集の、続古今和歌集春歌下116

 

建保元年内裏の詩歌合に山中花夕            前中納言定家

さくらがり霞のしたに今日暮れぬ

ひと夜宿かせ春の山もり

 

というのがある。発句の「春の山守」は、この歌を頼りに、桜狩りの旅人が歌う歌、後撰和歌集春中50

 

花山にて、道俗酒たうべける時に              素性法師

山守はいはばいはなん高砂の

尾上の桜折りてかざさん

 

と、源氏物語「椎本の巻」の、匂宮と中君の贈答、(「かざしをる」の歌は、「湖月抄」などでは、筆跡ばかりは中君で、優婆塞の宮・父宮の歌である)

 

(匂宮)

「山桜にほふあたりにたづねきて

おなじかざしを折りてけるかな

野をむつましみ」とやありけん。御返りは、いかでかはなど、聞こえにくく思しわづらふ。「かかるをりのこと、わざとがましくもてなし、ほどの経るも、なかなか憎き事になむしはべりし」など、古人ども聞こゆれば、中の君にぞ書かせたてまつりたまふ。

(中の君)

「かざしをる花のたよりに山がつの

垣根を過ぎぬ春の旅人

野をわきてしも」と、いとをかしげにらうらうじく書きたまへり。

 

を読ませて、すでに宇治の姫君(または、優婆塞の宮)の歌の中に、芭蕉が春の旅人として詠まれていたことを確認させる。山守は、「尾上の桜折りてかざさん」という春の旅人に、定家に習って、ひと夜の宿をかす。旅人が、人の気も知らぬ気に勝手なことを言い散らしながら、山がつの垣根のあたりを通り過ぎてゆくよ、と清風は言うであろう。しかし、山守が何と言っても、山桜の匂うあたりに、風流佳人を尋ねて回る、風狂の旅はまだ続くのである。

 鳥は、「荘子」至楽篇第十八の五の、魯の郊に止まった海鳥だろう(「荘子」金谷治訳注・岩波文庫)。顔淵が東方の斉の国へと旅だったとき、孔子は心配げであった。子貢の問いに対して、孔子は、生国である魯の寓話によって答えた。

 

且つ女独り聞かずや。昔者、海鳥魯の郊に止まる。魯侯御えてこれを廟に觴し、九韶を奏して以て楽を為し、太牢を具して以て膳を為す。鳥乃ち眩視し憂悲して、敢えて一臠を食らわず、敢えて一杯を飲まず、三日にして死せりと。此れ己が養を以て鳥を養うなり。鳥の養を以て鳥を養うに非ざるなり。夫れ鳥の養を以て鳥を養う者は、宜しくこれを深林に栖まわせ、つこれを壇陸に遊ばせ、これを江湖に浮かべ、これに鰌bを食らわせ、行列に随いて止まり、委蛇して処らしむべし。彼れ唯だ人の言をこれ聞くを悪む。奚ぞ夫のccを以てするを為さんや

 

すなわち、

 

吾れは恐る、回(顔淵)、斉侯の与に尭・舜・黄帝の道を言い、而して重ぬるに、燧人・神農の言を以てせば、彼れ将に内に己れに求めんとして得ず、得ざれば則ち惑う。人惑えば則ち死されんと。

 

しかし、斉侯を魯に来た海鳥とすれば、顔淵が殺される心配をすることもない筈だ。「彼れ唯だ人の言をこれ聞くを悪む」のだとしても、魯侯が迎えた鳥の方こそが、人の言を聞いたが為に、眩視し憂悲して、三日にして死んだのだった。そこで、この一章の為には、斉侯が海鳥で、海鳥がかれを養う顔淵を殺すだろう、という視点が用意された。「人惑則死」、あいてが疑惑をおこしたとなると、(回のほうは危険になって、やがては)殺されることになろう、と孔子はいう。海鳥である諸侯は、同じ効果があるのならば、海鳥として死ぬよりもいつも諸侯として殺すほうを選ぶものだ。

 逆さまに、斉侯が、珍しい海鳥である顔淵を養うとしたらどうか。論語雍也第六の十一

 

子曰、賢哉囘也、一箪食、一瓢飮、在陋巷、人不堪其憂、囘也不改其樂、賢哉囘也、

子の曰わく、賢なるかな回や。一箪の食、一瓢の飲、陋巷に在り。人は其の憂いに堪えず、回や其の楽しみを改めず。賢なるかな回や。

 

かくのごとき回・顔淵を饗応するのに、己が養を以て鳥を養うとしたらどうか。斉侯は、何のことか少しも分からぬ、尭・舜・黄帝の道を言い、而して重ぬるに、燧人・神農の言を以て言い募る、賓客・顔淵の真意を測りかねていよいよ惑い、天子の膳にすすめる、太牢の大御馳走をもってした、としたらどうか。海鳥である顔淵は、乃ち眩視し憂悲して、敢えて一臠を食らわず、敢えて一杯を飲まず、「三日にして死せり」ということになりかねない。孔子はこれを心配していた。子貢が孔子の憂色を察知して問うのを、「善哉女問」と褒めたのは、芭蕉が揚句に、この寓話を使わせる契機を作ったことによる。

 寓話は、やや入り組んで、あるいは不完全な構造になっている。春の山守である清風が、山国・尾花沢に止まった芭蕉・曾良の海鳥を養うのに、鳥の餌を、鳥の養を以て鳥を養うごとくに渡した、とすればどうか。曾良句にある、三日にして花と散るべき身が、難を逃れて、遺愛寺で鐘を撞いているその訳は、清風が至楽篇をよく理解して、魯侯の轍を踏む事なく、質素な献立を揃えてくれたことにある。と言っても、清風は少しも気を悪くすることはない。鰌 、どじょう・はやなどの川魚の料理、そしてなによりも、あのがやがやした人間の喧噪の届かぬ、深い林と川や湖が忘れ難い。曾良句は使わなかったが、白楽天詩「遺愛寺」

 

弄石臨溪坐  石に弄れ 渓に臨みて坐し

尋花遶寺行  花を尋ね 寺を遶りて行く

時時聞鳥語  時時 鳥語を聞き

處處是泉聲  処処 是れ泉声

 

に白楽天がいた自然の中で、芭蕉は、鳥の言葉だけを聞くようだった。

 

 寓話の概要は、「国語」魯語上にあって古いものだ。至楽篇第十八の五では喩えるところがやや齟齬するようだったが、達生篇第十九の十三にも、再び使われた。この寓話が重要で、粗略な解釈は慎重に避けなけれぱならないことを意味するのか、あるいは各様にも解釈を許す、便利な話が提供されているというべきか。

 ここでは孫休なる人物の人格について、子扁慶子なる弟子持ちがその弟子の問いに答える。孫休に及ぶだろうと予言された危機は、顔淵の場合と違って、彼の生命に拘わるものではなかった。そのために、ここから汲むことができる教訓と滑稽は、先のより乾いて心に染みることがない。筋書としてはよく合うが、魯の鳥の死は、これだけの喩えのためなら無駄死に違いない。

 孫休は扁慶子にむかって、彼が、天に罪せられているのかと疑うような不遇を訴えて、「休、悪んぞ此の命に遇うや」と聞いた。扁慶子の答は、至人(最高の人)のおのずからなふるまいについてだった。

 

其の肝胆を忘れ、其の耳目を遺れ、茫然として塵垢の外に彷徨し、無事の業に逍遙す。

 

この言葉は既に、大宗師篇第六の六に、子貢に向かって、方外の士を頌えた孔子の言葉としてみえる。至人のふるまいは、

 

是を「為して恃まず、長じて宰せず」と謂う。

 

と、「老子」上篇第十章などの言葉によっても説かれた。扁慶子は、孫休の行動を評して、山木篇第二十の四に、孔子を評して非難した大公任と同じ言葉で、

 

知を飾りて以て愚を驚かし、身を脩めて以て汙を明らかにし、昭昭乎として日月を掲げて行くが若し。

 

と、至人にほど遠い存在である孫休の災難の理由を教えた。孫休を追い払って、天を仰いで嘆息する扁慶子に、弟子が尋ねると、

 

吾れこれに告ぐるに至人の徳を以てせり。吾れ、其の驚きて遂に惑いに至らんことを恐るるなりと。

 

といい、「荘子」至楽篇第十八の五の、魯の郊に止まった鳥の、ほぼ同じ話によって譬えた。

 

扁子曰く、然らず。昔者、鳥ありて魯の郊に止まる。魯君これを悦び、為めに太牢を具して以てこれを饗し、九韶を奏して以てこれを楽しましむ。鳥乃ち始めて憂悲眩視して、敢えて飲食せず。此れをこれ己が養を以て鳥を養うと謂うなり。若し夫れ鳥の養を以て鳥を養う者は、宜しくこれを深林に栖まわせ、これを平陸に遊ばせ、これを江湖に浮かべ、これを食うに鰌bを以てし、委蛇して処らしむべきのみ。

 

この後にすぐ続けて、

 

今、休は款啓寡聞の民なり。吾れ告ぐるに至人の徳を以てせしは、これを譬うるに鼷を載するに車馬を以てし、鴳を楽しましむるに鍾(鐘)鼓を以てするが若きなり。彼又た悪んぞ能く驚くことなからんや。

 

と結論した。ほぼ同じ話だが、注意深く省かれた部分がある。鳥は、「敢えて飲食せず」とだけで、「三日にして死せり」とはしてない。敢えて飲食を拒めば、「三日にして死せり」という事態もあろうが、扁慶子はこれを隠したのである。また、「彼れ唯だ人の言をこれ聞くを悪む。奚ぞ夫の  を以てするを為さんや」が、無い。孫休を前にして扁慶子は、彼が「悪む」かどうかに関心がないようだった。悪もうがどうしようが、互いの生命に拘わることではない。うるさがるだけなら、何の問題もなかろうと。それならば、扁慶子は、魯の鳥の寓話を必要としなかった筈だ。ただ、孫休に至人の徳について話したのは、これを譬うるに鼷を載するに車馬を以てし、鴳を楽しましむるに鍾(鐘)鼓を以てするが若きなりと、いえばそれで済んだ。それを弟子に事の説明をするのに、魯の鳥の寓話を以てしたのは、孫休に至人の徳について話したその事と軌を一にして、物事を大きく話す態度に統一がある、そればかりではない、お喋りは恐怖を隠すためである。

 扁慶子が気付いて恐れているのは、孫休が惑いに至って、「人の言をこれ聞くを悪む」ようになることだ。惑いに至って悪めば、人は何をするか分からないのは、しばしば見聞する所だ。諸侯でなくとも、「人惑則死」ということがあるかもしれない。寓話は、隠蔽された部分が、扁慶子の目的を担っている。大風呂敷をひろげて至人の徳をいい、聖賢の言葉を盗んでは切売りする。普通の市民を言葉によって傷付け、ありもしない復讐を恐れては、寓話の一部分を切り欠いて、そこにちっぽけな心を隠す。

 寓話の中の人物となって、彼が誰の役を振られているのか、はっきりしないことが多い。また、田舎風ではあっても粗末とはとても言えない供応を、鳥の餌と呼んだからといってはそれを信じて、芭蕉が、扁慶子を見過ごしていると思うほど、清風もお人よしではない。扁慶子がした魯国の鳥の話ならば、鳥の餌を渡さずとも、人死には出ないだろうし、花と散る身も、心配は要らない。また、論語陽貨第十七の十四

 

子曰、道聽而塗説、徳之棄也、

子の曰わく、道に聽きて塗に説くは、徳をこれ棄つるなり。

 

に似た扁慶子の聞きかじりの受けうりは、「太牢を具して以てこれを饗し、九韶を奏して以てこれを楽しましむ」というには当たらない。だから清風を、論語陽貨第十七の十三

 

子曰、郷原徳之賊也、

子の曰わく、郷原は徳の賊なり

 

郷原・俗人の信用を得やすい地域的な偽君子に充てるという無礼を、春の山守と奇麗にいって、竊に隠したのかもしれない、と疑わせる。しかしそれは、打越の清風句が、芭蕉を老蕭郎にあてた返礼を、ここでするというほどの根拠しかない。「列子」鬳齋口義説符篇(和刻本が多い)が引用するという古い諺、「疑心暗鬼を生ず」の類いか。

 かなりの御馳走を鳥の餌といったのは、思い邪なき芭蕉の本心かもしれないのだ。食べ物にはまことにうるさい人らしい。全部引用しなくても良いだろうが、論語郷党第十の八

 

食不厭精、膾不厭細、食饐而餲、魚餒而肉敗不食、色悪不食、臭悪不食、失飪不食、不時不食、割不正不食、不得其醤不食、肉雖多不使勝食氣、唯酒無量、不及亂、沽酒市脯不食、不撤薑食、不多食、祭於公不宿肉、祭肉不出三日、出三日不食之矣、食不語、寢不言、雖疏食菜羹瓜、祭必齋如也

食は精を厭わず、膾は細きを厭わず。食の饐して餲せると魚の餒れて肉の敗れたるは食らわず。色の悪しきは食らわず。臭の悪しきは食らわず。飪を失なえるは食らわず。時ならざるは食らわず。割正しからざれば食らわず。其の醤を得ざれば食らわず。肉は多しと雖ども食の気に勝たしめず。唯だ酒は量なく、乱に及ばず。沽う酒と市う脯は食らわず。薑を撤てずして食らう、多くは食らわず。公に祭れば肉を宿にせず。祭りの肉は三日を出ださず。三日を出ずればこれを食らわず。食らうには語らず。寝ぬるには言わず。疏食と菜羹と瓜と雖ども、祭れば必らず斎如たり。

 

清風がこれを読む頃には、すっかり芭蕉は孔子になりきっている。

 

 

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