*

 

   十一の八、五つ目の句、伊賀の連衆と興行した、「木の本に」四十句の六

        句目

 

 

 

木の本に汁も膾も桜哉      ばせを

明日来る人はくやしがる春   風麦

蝶蜂を愛する程の情にて     良品

水のにほひをわづらひに梟ル  土芳

草枕此ごろになき月の晴     雷洞

猿のなみだか落る椎の実    ばせを

 

*

 

    十一の八の一、発句と脇

 

 

 小蓑の句が、伊賀で披露され、次いで金沢の「卯辰集」のために送られながら、なお猿蓑の巻頭の句となったのに似て、「ひさご」巻頭の、芭蕉、珍碩、曲水の三吟歌仙、題「花見」の発句、

 

木のもとに汁も膾も桜かな

 

は、伊賀上野風麦亭興行の八吟の四十句、及び七吟の歌仙(二つとも元禄三年三月二日興行で、十八句目まで同じ)の発句でもあった。芭蕉が伊賀の二つと、膳所の歌仙とを比較して、膳所を良しとして採ったのではなく、別の理由があるのだろう。伊賀のあだなるについては、「去来抄(先師評)」に言う。

 

春風にこかすな雛のかごの衆

先師、この句を評して曰く「伊賀の作者、あだなる処を作して、もっともなつかし」となり。

丈草曰く「伊賀のあだなるを、先師は知らずがほなれど、そのあだなるは、先師のあだならするなり」。

 

 伊賀の俳諧が果実を求めない、須臾の花であることが語られた。俳諧といえども、名利の世界に亙ることがあるから、敢えて世に問うことをしないのが、風雅の一つの態度だ。したがって無償の花は、内密な雰囲気の中で咲き、無技巧とも、時には女性的で雅いとさえも見せて、伊賀の小社会に閉じたままで交換されている。伊賀の俳諧は、独自の集を望まず、芭蕉も、強いてこれを中央に押し出さなかったのらしい。

 

 古今和歌集巻第二・春歌下の冒頭は、散る桜の歌が、二十一首並ぶ。その中の惟喬親王の歌。古今和歌集春歌下74

 

僧正遍昭によみておくりける             これたかのみこ

さくら花ちらばちらなんちらずとて

ふるさと人のきても見なくに

 

遍昭の返歌は、あったのだろうが、どこにも載っていない。まったく別のところにある遍昭の物名の歌で、くたにという正体不明の花に寄せて詠まれた歌が、返歌の姿を空想に誘う。古今和歌集物名435

 

くたに                        僧正へんぜう

ちりぬればのちはあくたになる花を

思ひしらずもまどふてふかな

 

 散る花を、誰が始めに自らに譬える事をしたのか。晴の歌では、禁忌の詞を去ることが必要とされる記事がある。「袋草紙下」(「袋草紙」日本歌学大系)に、

忠峯依院宣獻歌云、

白雲の折いる山と見え鶴は

たかねの花やちりまがふらむ

躬恆云、府生大誤歟。帝王に奉歌に、雲下居とは爭詠哉。帝位をば雲上と云、避位をば下居給と申。就中に末句散まがふと讀る、尤可有禁忌云。

 

長く隠棲している親王が、自らを散る花に譬えたら、大方、返歌は苦労のしがいがないのが予想される。すでに皆、自ら散る花のつもりでいるらしい連衆に先回りして、ふるさと人が禁忌に触れぬように、挨拶する。

 汁と膾は、諺にいう蓴羹鱸膾、押えがたい望郷の思いをかき立てる縁である。「晋書」張翰伝にあるが、「蒙求」487張翰適意(「蒙求」早川光三郎・新釈漢文大系)でも見える。

 

齊王冏辟して大司馬東曹の掾と爲す。翰秋風の起こるを見るに因り、乃ち呉中の菰菜・蓴羹・鱸魚の膾を思ひて曰く、人生は志に適ふを得るを貴ぶ。何ぞ能く數千里に覊宦し、以て名爵を要めんや、と。遂に駕を命じて歸る。

 

 また、羹に懲りてはなますを吹くとも、「楚辭」九章「惜誦」に引いた、とても古い諺にいう。(「詩経・楚辭」目加田誠訳・中国古典文学大系15

 

懲熱羹而吹i兮  羹にこりてはなますを吹くというに

何不變此志也   なぜにその志を変えぬのか

 

 ここ数年は、貞享元年(1684)以後は、毎年のように帰郷し、越年もしている。張翰のように、伊賀の汁と膾を目当てにしてきたともいえない。いつもの汁と膾で、同じ顔触れを相手にして、少しも懲りない志を客観視すれば、古今和歌集恋歌二614 みつね

 

たのめつつあはで年ふるいつはりに

こりぬ心を人はしらなむ

 

によっていうよりも、これが後撰和歌集では、業平朝臣の歌になっているが(後撰和歌集恋五968 詞書きは「久しういひわたり侍りけるに、つれなくのみ侍りければ」)、次の伊勢の返歌

 

夏蟲のしるしるまどふ思ひをば

こりぬかなしとたれか見ざらむ

 

の方が、適切である。

 故郷の花見には、落花で飾った汁と膾が用意される。二つの係助詞「も」で並列するものを探らせるが、花が散りかかるのは、汁も膾も、そして汁と膾ばかりではなく、木の本の人にも散りかかって、彼の着ている夜の錦を、故郷が、花のにしきに着替えさせているのだ。源氏物語「梅が枝の巻」で、源氏が蛍宮に贈った歌

 

めづらしと古里人も待ちぞみむ

花のにしきを着てかへる君

 

の、花のにしきは、古今和歌集秋歌下297

 

北山に紅葉をらむとてまかれりける時によめる        つらゆき

見る人もなくてちりぬるおく山の

紅葉はよるのにしきなりけり

 

で、貫之が使い始めた紅葉の夜の錦を、梅の花に反転したものだ。これらは、「史記」項羽本紀、秦帝国の首都咸陽を焦土と化さしめた後の、項羽の言葉による、と注釈は言う。

 

曰く、「富貴にして故郷に帰らざるは、繍を衣て夜行くが如し。誰かこれを知る者ぞ」と。説者曰く、「人言う、「楚人は、沐猴にして冠するのみ」と。果して然り」と。項王これを聞き、説者を烹る。

 

しかし、説者を烹た覇者の言葉を本説にした歌を、迂闊には使えない。烹られた者がいう、「楚人は、沐猴にして冠するのみ」も、参考にすべきだろう。なか身が野蛮なくせに姿は一人前、というほどではないが、花のにしきを着せられても、似合わない、ともいっている。

 

 花見の句の、伊賀の脇は、

 

明日来る人はくやしがる春  風麦

 

である。花の宴は、この時に除かれた者の口惜しさを想像して、楽しい。桜花は、そして呉中の蓴の羮・鱸の膾ならぬ、懐かしい伊賀の汁も膾も、明日来る人の分はこの時のために、すっかり消費されてしまうのだ。発句の人を饗応するのに、汁や膾の腥さものをもってしたのは、彼が、花を眺めてひとり静かにしているのに、ようやく飽きたらしいからだ。大和物語七十九段、

 

又おなじみこ(章明親王)に、おなじ女(監の命婦)、

こりずまの浦にかづかむうきみるは

なみさはがしくありこそはせめ

 

の歌の、「花見騒がしく」という、隠し題の花見の誘いに乗ったのだろう。

 「山家集」の歌、

 

しづかならむと思ひけるころ、花見に人々まうできたりければ

花見にとむれつつ人のくるのみぞ

あたらさくらのとがには有りける

 

を愛唱する人が、同じく「山家集」の歌、

 

屏風の繪を人々よみけるに、春の宮人むれて花みける所に、よそなる人の見やりてたてりけるを

木のもとは見る人しげしさくらばな

よそにながめてわれはをしまむ

 

の、木のもとの花の宴に、近寄って参加してくれた。脇のもてなしは、木のもとの人々を、屏風絵の活人画に見立てて、伊勢物語八十二段の、春の渚の院を演出して、芭蕉には、業平を配役する。

 

むかし、惟喬の親王と申す親王おはしましけり。山崎のあなたに、水無瀬といふ所に宮ありけり。年ごとのさくらの花ざかりには、その宮へなむおはしましける。その時、右の馬の頭なりける人を、常に率ておはしましけり。時世へて久しくなりにければ、その人の名忘れにけり。狩はねむごろにもせで、酒を飲みつゝ、やまと歌にかゝれりけり。いま狩する交野の渚の家、その院の櫻ことにおもしろし。その木のもとにおりゐて、枝を折りてかざしにさして、上中下みな歌よみけり。馬の頭なりける人のよめる。

世の中にたえて櫻のなかりせば

春の心はのどけからまし

となむよみたりける。又人の歌。

散ればこそいとゞ櫻はめでたけれ

うき世になにか久しかるべき

とて、その木のもとは立ちてかへるに、日ぐれになりぬ。(略)

 

 明日来る人は、汁も膾も蕩尽された、たえて桜もない景色にいながら、春の心はのどけからまし、と言うべきゆとりを失うことになるのだ。すなわち、業平はいま、伊賀にいて、やがて明日は、彼が旅立つとともに春は暮れる。

 

 花見の交歓は、伊勢物語十七段によっても、読むことができる。明日の景色は、雪のように折り敷いた桜の名残だ。散ればこその桜、この日に得意の花が、明日来る人を口惜しがらせている。芭蕉は、彼らを連れ出すつもりだったが、彼らは散る花として残ることを選んだ。「去来抄」に説いた伊賀のあだなる風は、花見の句の、伊賀の脇の女ぶりによりはっきりと表れているようだ。(古今和歌集春歌上62 よみ人しらず 詞書きは「桜の花のさかりに、久しくとはざりける人のきたりける時によみける」と、63 なりひらの朝臣の贈答。)

 

年ごろおとづれざりける人の、櫻のさかりに見に来たりければ、あるじ

あだなりと名にこそたてれ櫻花

年にまれなる人もまちけり

返し、

けふ來ずはあすは雪とぞふりなまし

消えずはありとも花と見ましや

 

 古今和歌集の古注釈(「平松抄」、「新大系古今集」より)では、恋の歌ではないことを注して、「伊勢物語にては、恋の心なり。当集にては只朋友の心にてあるべし。」という。物語と集と、地の文と詞書きとの僅かな相異をとらえていうのではない。集においては隠蔽されている何かが、虚構の名で、物語では解放されることがある。注釈の歴史が、ほぼこれを受容していることを言うのだろう。古注釈に従えば、古今和歌集の贈答は、およそ次のように読めるだろうか。

 「あだなりと名高い、あなたを世評していう同じ言葉で、不実なものとされる桜の花は、それでも、一年に何度も来ないあなたのお出でを待って、散らずにいるほどには誠実なのです。(私を訪ねるのではなく、あなたを待つ桜の花のさかりを見過ごすことができなくて、来たのではあっても、あなたに会えて嬉しい。)」

 「(私の若さ故の驕りを、あだなりとして、桜の花の儚さに較べて下さるのならば、こう言おう。)もしも今日の桜の花のさかりにさえ、お訪ねしなかったならば、(無沙汰のお許しはなかったことだろう。)明日はもう、雪が降るかと見えて散ってしまっていただろう。(なるほど、較べればこの花に似て、私も明日は、頭に雪を戴いて老いてゆく身なのだから。)雪のようには、この世から消えないであるにしても、そうなれば、散った花を花と誰が見るだろうか。(そのように、あだなりとしてでも、私を桜の花に較べて、あなたが許すことはなかっただろう。)」

 一方、伊勢物語十七段では、業平は女であるあるじを相手にして、返歌するという。古注釈にいう、「恋の心なり」とすればそうなる。この場合、桜花は女であるが、女の歌は、散る花と、枝を折りとって散らせる人を、同じ言葉であだなりとしても、決して混同することはない。

 「桜の花は儚い、散るために咲いた花ですから、これを折りとって散らせる人だと名高いあなたの、一年に何度もないお出でを待って、まだ散らずにいました。」

 「もしも今日の桜の花のさかりに、来なかったならば、明日はもう、(どうせいつまでも散らずにはいない桜の花ですから、私を待たずに、)雪が降るかと見えて散ってしまっていたことでしょう。そうなれば、雪のようには消えないであるとしても、(あなたがいう、花を折りとって散らせる人だと名高い、この私が、)あなたを花と見(て、折りとろうとす)るでしょうか。」

 集のよみ人しらずが、桜花と業平を較べても、業平の瑾にはならない。しかし、実を結ばない花になりたい女はなく、いちど散ってしまった花は枝に戻れない。女が自称して、「あだなりと名にこそたてれ桜花」という時、桜花は、過去に散ったことがあって、それがこの春も咲いて男を待つのならば、年ごとに花を付けては実を結ばずに散る、名高い桜の木のような女を言うことになる。業平が迂闊にも評判を聞かずに訪れて、女の歌を咎めながら手を出したとすれば、この歌物語の瑾となる。明日は雪とぞ降る、古るのならば、今日だって、桜の木はかなり古くなっているだろう。訪問は差し控えるべきだった。しかし、これでは、同じ歌が異なる状況について詠まれ、詞書きの僅かな違いが二つの状況を描き分けたことになる。

 歌物語が、なぞを訊いている、とすればどうか。業平の歌の四句、「消えずはありとも」のありともの字に、業平と同じ年、元慶四年(880)に没した紀有朋の名を読んでみる。有朋が女になって、あるいは女に代わって詠んだ女歌に、業平が返歌して揶揄した。ありともの字を入れてこれを知らせて、有朋に対する挨拶を兼ねている、とする。伊勢物語百七段では、業平が女に代わって詠んで、敏行に贈ったのだから、このなぞが、俳諧の領域にだけ属するものではなく、まして風麦らの独創、新奇な解だとはできまい。風麦らの屏風絵が、古くなっているのは、彼らも知っている。

 「もしも今日の桜の花のさかりに、来なかったならば、(散るために咲いた花だと、女であれば詠む筈のないあなたの歌に言うように、)明日はもう、雪が降るかと見えて散ってしまっていることでしょう。雪のように積もって消えずにあれば、花びらも、誰も花とは見ないでしょう。(それがあなたの頭に白く積もったものならば、有朋、あなたの令名のように、消えることがないのも道理で、雪とは見えても、花とは見えない。)」

 歌に名を隠すのは、「無名抄」同人名字讀事の記事(「歌論集(久松潜一校

注)・能楽論集」日本古典文学大系)で習う。

 

法性寺殿に會ありける時、俊頼參りたりけり。兼昌講師にて哥讀みあぐるに、俊頼の哥に名を書かざりければ、見合せて打しはぶきて、「御名はいかに」と忍びやかにいひけるを、「たゞ讀み給へ」といはれければ讀みける哥に、

卯の花の身の白髪とも見ゆる哉

賤が垣根もとしよりにけり

と書きたりけるを、兼昌した泣きして、頻りに打ちうなづきつゝ、めで感じけり。殿聞かせ給ひて、召して御覧じて、いみじう興ぜさせ給ひけりとぞ。彼の三首の題を哥一によみたりける心ばせには、やゝ勝りてこそ侍れ。

 

その、「三首の題を哥一によみたりける」の歌、新拾遺和歌集雑下物名1900

 

二條院の御時、ひだりまきのふちふち、桐火桶をこめて、河に寄せて歌奉るべきよし仰ありければみづからの名を添へて詠みはべりける   従三位頼政

水ひだりまきの淵々落ちたぎり

氷魚けさ如何に寄り増る覧

 

もあった。

 こうして、諸説のあるのが歌の常だが、古今和歌集春歌上67

 

桜の花のさけりけるを見にまうできたりける人によみておくりける

みつね

わがやどの花見がてらにくる人は

ちりなんのちぞこひしかるべき

 

を、「古今和歌集」小島憲之、新井栄蔵校注は、

 

 「わが家の桜花を見るついでにわたくしを訪ねていらっしゃるお方は、花が散ってしまったあとで、きっと恋い慕わしくお思い申しますでしょう。」と、読む。これを俗解して(ねじ曲げて)、脇は、「きっと恋い慕わしくお思いになるでしょう」と、読んで見せる。躬恆の家に、有朋の家の女のような女を想像して、躬恆がこれのために詠んだとするのだ。

 「わが家の桜花を見るついでにわたくしを訪ねていらっしゃるお方は(わたくしの娘を見て)、花が散ってしまったあとで、きっと(もう一度見る口実を求めて)恋い慕わしくお思いになるでしょう。」

 だから、どうせ散るものならば、今日、心行くまであなたが散らして行って下さい。明日来る人は、一遍も試さないうちに、すっかり散らされた桜花を、指を銜えて見るばかりだ。

 

*

 

    十一の八の二、第三。

 

 

明日来る人はくやしがる春  風麦

  蝶蜂を愛する程の情にて    良品

 

 

 散ってしまうぞ、と脅かす歌は幾つもある。明日では遅い、という惹句に惑わされてはいけない。しかし、親がまだまだと思っていることも、多いのだ。兼盛が、陸奥の、「閑院の三のみこの御むこにありける人」の、娘たちの評判を聞いた。大和物語五十八段

 

かくて、「そのむすめをえむ」といひければ、親、「まだいとわかくなむある。いまさるべからむ折にを」といひければ、京にいくとて、やまぶきにつけて、

はなざかりすぎもやすると蛙なく

井手の山吹うしろめたしも

といひけり。(略)

 

この心がけた娘は、間もなく異男して、京に上った。兼盛は、大和物語百段

 

大井に季繩の少将すみけるころ、帝の宣ひける。「花おもしろくなりなば、かならず御らむぜむ」とありけるをおぼし忘れて、おはしまさざりけり。されば、少将、

ちりぬればくやしきものを大井川

岸の山吹けふさかりなり

とありければ、いたうあはれがりたまうて、いそぎおはしましてなむ御らんじける。

 

の、季繩の少将の歌を知っていながら、それでも、古今和歌集春歌下125 よみ人しらず

 

かはづなくゐでの山吹ちりにけり

花のさかりにあはましものを

この歌は、ある人のいはく、橘のきよともが歌なり

 

の、嘆きを繰り返したのだった。伊勢物語百二十二段

 

むかし、をとこ、ちぎれることあやまれる人に、

山城の井手の玉水手にむすび

たのみしかひもなき世なりけり

といひやれど、いらへもせず。

 

もあるのだから、所もあろうに、山城の井手の山吹を詠んだのは、兼盛は、なにか予感していたのか。また、伊勢物語四十八段(古今和歌集雑歌下969 なりひらの朝臣 詞書きは「紀のとしさだが阿波介にまかりける時に、うまのはなむけせむとて、けふといひおくれりける時に、ここかしこにまかりありきて、夜ふくるまで見えざりければ、つかはしける」)

 

昔、をとこありけり。うまのはなむけせむとて人を待ちけるに、来ざりければ、

今ぞ知るくるしきものと人待たむ

里をば離れずとふべかりける

 

の、歌だって知っている筈なのに、歌一つ贈って、それで契りを交わしたも同じと考えていた。「人の待っているはずのその里は、時を置かずに訪ねるべきであった」。詞書きの事情とは合わないが、とても役に立つこの歌を忘れたとは、迂闊なことだ。

 少女が、まだ子供と思っていても、大きくなるのは早い。梅、藤、花橘をぼんやり眺めたりして、鴬、時鳥を待つようになってはもう遅い。ただし、忠岑の娘の場合は、論外だが。大和物語百二十五段

 

(略)この忠岑がむすめありときゝて、ある人なむ「得む」といひけるを、「いとよきことなり」といひけり。男のもとより「かのたのめたまひしこと、このごろのほどにとなむおもふ」といへりける返り事に、

わがやどのひとむらすゝきうら若み

むすび時にはまだしかりけり

となむよみたりける。まことに又いと小きむすめになむありける。

 

 源氏物語「若紫の巻」の幼い紫の上は、伏籠で飼っていた雀の子を犬君が逃がしたといって、少し泣いたばかりであった。小柴垣のあたりに、源氏が見ていた。

 

尼君、「いで、あな幼や。言ふかひなうものしたまふかな。おのがかく今日明日におぼゆる命をば、何とも思したらで、雀慕ひたまふほどよ。罪得ることぞと常に聞こゆるを、心憂く」とて、「こちや」と言へばつゐたり。

 

 蝶、蜂、なんでも飛ぶもの(訪ふ者)を好きになったころには、半分大人、親もそう思っていたほうがいい。ただし、蝶、蜂を愛するという少女は、集歌に見付からない。少女向けの筋で、板本がない「堤中納言物語」の存在を、芭蕉が知らない、とはされていないが、読んだ形跡はないとされている。連衆も、「虫愛づる姫君」の中に、研究の対象にすべき歌があるとは見ないだろう。これのほかに、枕草子(春曙抄)百九十八段にも、蝶が飛ぶ花であるとして、花と蝶を並べることがある。

 

三條の宮におはします比、五日の菖蒲の輿など持ちて参り、藥玉まゐらせなど若き人々、御匣殿など藥玉して、姫宮、若宮つけさせ奉り、いとをかしき藥玉外よりも参らせたるに、青刺といふ物を、人の持て來るを、青き薄様を、艶なる硯の蓋に敷きて、「これまぜこしに候へば」とて参らせければ、

皆人は花や蝶やと急ぐ日も

我が心をば君ぞ知りける

と、紙の端を引きやりて書かせ給へるも、いとめでたし。