Colosseum (独逸日記)


Colosseum の広告 -> 現在 Kunstpark にある Colosseum (click changes figure)

Colosseum は Muellerstr. 42 にあった。 しかし現在は残念ながら劇場の跡形もなく、通りから奥まったところに入った42番地は、 事務所のような無味乾燥な場所になっている。 近くに Kolosseumstr. があるが Dollinger の本によれば 1875年 頃に命名されたもので 1872年に Franz Kol という人が開いた飲み屋 Kolosseum にちなむ通り名とのこと。 この飲み屋でも寄席のようなものはあったようだが之れが鴎外の尋ねた劇場かどうか判らない。 Muellerstr. に交差する通りなので或いは番地が変更されていて、 此の飲み屋のことだったのかもしれない 。 日記には3月15日「・・・大学生連盟聨合会バワリアに赴く。 後コロッセウムに至る。倡優ありて技を奏す。卑俗見るに足らず」、 9月19日「・・・余が帰府を聞きて来たり訪う。 共にコロッセウムに至る」。、 10月13日「・・・エルケ索遜より至る。 ・・・夜倶にコロッセウムに至る。高垣伎等を見る。 ・・・その幼なる者は約三四歳。頗る奇とす可し。」とあり、 「見るに足らず。奇とす。」にしては繰り返し観賞している。倡は女の、 優は男の役者のことだが、鴎外の興味は流行のゲイ・ボーイにあったのかも。 このコロッセウムは或いはミュージック・ホールへ変貌する前の音楽カフェー(カフェ・コンセール) だったのかも知れない。当時の多くのカフェーは古い写真で見ると未だ華やな建物で人の集まる 穏やかな場所であった。しかし19世紀末から20世紀に移る前後の独逸の芸術の中心地ミュンヒェンでは 当時のイングリッシュガーデンを取り巻くシュワービング地区に小説家、音楽家、知識人が あちこちのカフェに集まっていた。 トーマス・マンやレーニンは未だその主人公にはなっていなかったが、 宮廷詩人画家を抱えた趣味の悪いウイルヘルム二世の芸術家圧制(?)にかかわらず、 実利主義に対するニーチェの厳しい批判や、ファッシングが与える「人々を日常性から解き放ち、 新しい見方を提供する」芸術的ルネッサンスの機会が、やがてはブレヒトを産み、 ジンプリツィシスムの反体制運動を経て「11人の刑吏」キャバレー開設えと続いていく前段階にあった訳で、 鴎外は既にその前兆を捕らえて興味を持ったのかもしれない。

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