その7:原作と映画
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ついに「指輪物語」を全巻読破した。 言うまでもなく、近年公開された映画「ロード・オブ・ザ・リング」の原作である。昔から世界中の人々の間で親しまれてきたこの物語は、ホビットという種族と悪の帝王が作った力の指輪をめぐる、壮大なファンタジーだ。 どれくらい壮大かというと、全3部作、文庫にして9冊である。長い。結局途中途中でブランクが空き、足掛け半年くらいかかったのだが。 さらに全部実費で購入したので、金もかかった。1冊700円である。かける9である――おっとイカンがな!こうして数字に書くと現実感が出てくるので、本にいくら使ったかなどと数えてはいけないのだ。換算しても「ぎゃふん」と言ってしまうだけである。 いわんや映画においておや、だ(強調表現)。映画館で1本1300円で観たとして、月に2・3本としても、年に…… ぎゃふん! 今回書こうとしているのはそんな話ではないので話を戻すと、小説「指輪物語」を読んでから映画「ロード・オブ・ザ・リング」を観て、小説と映画間でギャップを感じた人もいたらしい。特に字幕だ。小説の翻訳は原作のイメージを伝えるためあえて日本語で訳したようなところも、映画では英語の発音そのままにカタカナ表記だったりしたため、昔ながらの表記に慣れ親しんでいた「指輪」ファンの間ではかなりの物議を醸したらしい。 例えば、物語の世界「中つ国」が「ミドル・アース」になっていたりとか、アラゴルンの別名「馳夫」が映画では「ストライダー」になっていたりとかだ。 私は、最初に小説中で「馳夫」というのを見て「なんじゃそりゃハセオ〜?ハセウォ〜?」などと、翻訳者の苦労も知らぬ無知蒙昧な感想を持ったくらいなので、字幕に関してそれほど不満はないのだが。 むしろ物語世界は我々のイマジネーション以上に原作に沿った映像化だと思うし、原作を読み終わった今も、あれはあれでよいと思っている。 ※ かように小説を映画化すると、原作のイメージと違うだとか、ミスキャストだとか、いろいろと言われることが多い。読者は原作を読んだ時点で自分なりの作品世界を頭の中に構築する。それが映画での表現とあまりにもかけ離れていると、「なんだよ全然違うよ、ふざけんなこのオカチメンコ!」となるわけである。オカチメンコとは何かという議論はひとまず置いておくが、しかしそれでも、原作が好きなら観に行きたくなってしまう。この作品が映像ではどう動くのか気になる。それが心理ってものだ。 それでは原作を読んでいない場合はどうか?映画化の事実を知ったあとで、その映画は観たい、でも原作も読んでみたい、という場合。そこで語られるテーマこそ 「原作を先に読むか、映画を先に観るか」 である。 これは難しい。オリジナルはあらかじめ読んでおきたい、でも映画を観たときの新鮮味が失われる。だが映画を先に観てしまうと、後から原作を読むのも気が進まない。でも読んでおきたい。これは難しい。むーずかしいぞうー。 どちらが先だと良かったか、今までの経験を振り返ってみることにすると――。 例えば、最近なら「ハリー・ポッターと賢者の石」だ。元々興味はあったのだが、映画化を決定したのを機に購入。なんだかやけにでかいハードカバー製の本である。それにしても何でハードの本はこうも高いのだろうか。普段購入するのは文庫かせいぜい新書である貧乏人の私としては、1冊2千円也は痛い。 じゃあ図書館に行けばよい、というかもしれないが、こんな人気作が簡単に借りられるわけはないのである。遥かなる順番待ちなのである。そんなに待ってられるかい!おれぁ今読みたいんだ!ハードはでかいから持ち歩くのも重いし電車でも読みにくいので早く文庫化するなりしてほしいがもうハード買っちゃってるからいまさら文庫出されても知らないわよッなにさップンッ! などとオネエ言葉でキレたところでどうしようもないのだが、ようするに「ハリポタ」の場合は、「原作→映画」の順にしたわけだ。その結果は、「映画が原作に死ぬほど忠実だった」ということである。どっちが先でもよかった、と言えるかも……というのはちょっと乱暴なので、まあこの場合は「はじめに原作ありき」ということで、原作から読むのが正しいかもしれない。 スティーブン・キングの「ミザリー」も、原作を最初に読んだ。映画版はキャシー・ベイツの不気味な怖さで、一見恐怖満点だと思うかもしれないが、実は原作のほうが、映画とは比べ物にならないほど怖い。 思わず「ヒーッ!」と声が漏れるほどの、梅図かずおの漫画に匹敵する恐怖である。そうなると、原作を先に読むと映画がつまらなく感じるかもしれないので、先に映画を観て、その後さらに衝撃的な小説のほうを読む、というのがいいかもしれない。 「バトル・ロワイヤル」も原作が先だった。この場合は、あの原作をどう映画化するんだろうと興味深々で、それが思いのほか良かったもので満足した記憶がある。キャラが立っている原作だと、それを誰が演じるのかというのもかなり注目される点であろう。キャスティングが原作のイメージとエライ違いだったら、というスリルは、どうしても避けられない。 そう考えると、「バック・トゥー・ザ・フューチャー」のマイケル・J・フォックスが、すでに子持ちでありながら高校生役、しかし全く違和感がなかったというのはスゴイことである。全然関係ないけど。 逆のパターンはなかっただろうか――そういえば「ネバー・エンディング・ストーリー」は映画が先だった。 その後原作を読んで、主人公のバスチアンが実は小デブのメガネっ子という、映画版とは似ても似つかない主人公像であったのを知って、ショックを受けたものである。この場合はもしも原作が先だったら、「バスチアンはあんな可愛らしいお子様ではなく、もっとコ汚いおデブちゃんである!」と嘆き、それはそれでショックかもしれないが。 こうなるとどっちが先がいいかというのは、作品によってくるので、一概には言えなくなってしまう。 ただ、これはどの場合もそうなのだが、たいてい原作のほうがボリュームがありすぎて、すべてのエピソードを映像化は出来ない、という不満点が映画にはある。やむを得ずバッサリ切られた原作のシーンが、実は個人的には好きなシーンだった、というちょっと寂しいパターンもあるえるのだ。ならばやはり原作が先か? ここで結論を言おう。原作が先か映画が先か、それは――「タイミングによる」である。個人的には原作があるならそっち先のほうがいいんじゃない?とは思うが、時間的・金銭的制約もあることだし、臨機応変でいけばいいんじゃないでしょうか、と……こんな鶏が先か卵が先かみたいな論争はキリがないので、私はここでケツをまくることにする。 ※ それにしても「指輪」だが、確かにそれなりに金はかかったものの、それでも元は十分取れたと思うくらいの面白さと達成感があったのだよ。達成感――そう、思い返せば、読み始めたのは映画が公開される直前だったのだ。結局第1部「旅の仲間」を、あと少しで読み終わる、というところで耐え切れず映画を観てしまい、その後で小説のラストを読んだという、妙に変則的な読み方をしてしまったのだった。 だがしかし、これはなかなか良いかもしれないぞ。ラストだけわからずにおけば、映画ではクライマックスだけは何も知らないまま楽しめるのだ。うむ、これはいい。今後はこの方法を実践するか? しかしもう少しで読んでしまう状況なら、結局耐え切れず一気に読んでしまうと思うし……やっぱり「タイミング」によるような気がするってことで!(投げやり。) 2002/8/25 |