| 阪急「山本」近辺に「坂上」姓が多いのは何故
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これは社会の歴史で習ったことがある、征夷大将軍「坂上田村麻呂」と関係があるのです。
坂上田村麻呂(758年〜811年)は父である坂上苅田麻呂が京都嵯峨野の松尾大社の大神に祈願し授かった子どもだったので、
松尾大社を深く尊敬し、坂上家は子々孫々松尾大社を崇めておりました。 その後、平安期(975年)に田村麻呂の後裔である坂上党の総帥「坂上右衛門大尉頼次」が山城国坂本庄より山本郷に移住し、この地を開くことになりました。 この時、京都の松尾大社に分霊を願い出ましたところ、松尾大社は藁神輿に七分社の一座を移し、桂川に流し「お旅」をさせました。 やがて、藁神輿は尼崎の神崎川に漂着し、岸辺の茨の木に引っかかりました。近くに住む村人がこれを引き揚げようとしましたが、神霊が龍と化し人々は近づくことができませんでした。 これを聞いた坂上右衛門大尉頼次が家来と共に山本より駆けつけ、身を清めて拝むと、神霊は静まり無事山本の地に鎮座されました。 以来、この地の松尾神社と共に坂上一族は長くこの地を治め、このため 山本には「坂上」の苗字の人が多いのです。 参考文献:宝塚の風土記 |
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| 戦国時代と宝塚近辺
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歴史の片隅でこんな接点があったようです。ご存知、織田信長に謀反をおこした荒木村重は伊丹城を拠点とし、信長軍と対峙しました。 この時の戦いで武庫野(武庫川周辺)一円は焼け野原となり、中山寺、清荒神清澄寺、満願寺、平林寺等が焼失、もしくは破壊されたとのことです。 どうもあんまりいい接点は無かったようです。 |
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| 武庫川には市の指定した水泳場が有った
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昭和30年以前、庶民にとってプールは一般的な施設ではなかったことから、宝塚市は武庫川の見返り岩付近の「愛の松原」を市の指定水泳場と定めていた。 しかし、昭和30年後半になると武庫川の水質が悪くなったため廃止となったが、水質が良かった頃は多くの人が訪れていた。 |
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| 日本で最初の無軌道電車は宝塚に有った
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昭和3年、阪急花屋敷駅から満願寺に至る約2Kmの区間で営業(料金は15銭)を開始したが、昭和の不況で廃止となった。 無軌道電車はトロリーバスのように電線から電気を取り入れて走っていました。 宝塚は地方の小さな町にもかからわず新しい物を先駆けて導入する土地柄のようです。 ![]() |
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| 日本で初めての自動車専用有料道路は宝塚と繋がっていた
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1927年(昭和2年)尼崎の出屋敷と宝塚の安倉を結ぶ「尼宝電鉄」の計画が認可された。
しかし、尼崎駅で阪神電鉄と接続する高架工事に莫大な費用がかかるため計画は中止となった。 その後、阪神国道西大島から宝塚劇場前を結ぶ「尼宝線」が計画され、1932年(昭和7年)に開通しましたが、 この道路はなんと我国最初の「自動車専用有料道路」だったのです。 自動車が少ない昭和初期に自動車専用道路が作られたなんて驚きですね。 |
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| 豊臣秀吉は小浜を利用した?
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「玉の井戸」 豊臣秀吉が有馬の湯に通ったのは有名であるが、当時有馬の湯に行く者は、小浜で一泊し、翌日出かけたそうである。 有馬に行くため秀吉は小浜の「奴利屋」に宿泊した際、土地の名物の旅篭まんじゅうを味わい、 山中家の邸内にある玉の井戸の名水を使って千利休が立てたお茶を楽しんだそうである。 ![]() 「毫摂寺」 豊臣秀吉が北政所と有馬に行った折、小浜この寺で宿泊をした。この時、美貌の娘を見そめ 京の館へ連れ帰った。この娘はやがて養子秀次の側室となり、「小浜の局」と呼ばれた。 しかし、その後淀君に実子秀頼が生まれると、秀頼を後継ぎにするため秀次は自殺させられる事となった。 この時、秀次の妻妾(「小浜の局」も含む)30人は京の三条河原で殺害され、小浜の局の生家である毫摂寺 も火をかけられ寺領も没収された。 殺された小浜の局は当時16歳であったという。 参考文献:歴史の町小浜 |
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| 阪急今津線にはかってもう一つ駅があった
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昭和20年7月24日に現在の阪神競馬場にあった川西航空機宝塚製作所が空襲にあった。
この川西航空機宝塚製作所の最寄駅が「鹿塩駅」で、阪急小林駅と仁川駅の中間にあったそうである。 なお、この時の空襲はB29と小型艦載機約250機から成り、工場および近隣の村の死者106名、重傷者47名、 民家の全壊205戸、半壊244戸という凄まじいものであったそうである。 参考文献:わがまち宝塚と歴史 <鹿塩駅> 場所:鹿塩1丁目にある金竜寺裏手の竹薮が今津線に面しており、そこに駅があったそうである。 この駅は朝夕のラッシュ時だけに使われており、最盛時は1日4万人の利用客があった。 開設:昭和18年12月15日 廃止:昭和20年9月21日 |
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| 宝塚の園芸の始まりは
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長尾の園芸の始まり 弘安8年(1285年)後宇多天皇の御世に、後深草帝の第6皇子久明親王のお庭奉行をつとめた 「坂上頼定」が入道して「元珍坊」と名乗り、園芸の技を長尾の地に伝えたのが始まりとされている。 その後、文禄2年(1593年)に「山本荘司頼泰」が豊臣秀吉の旗下として活躍した後、 山本に隠棲し花卉・草木の養成に力を注ぎ、接木方を発見した。豊臣秀吉はこの技術をたたえて 「木接太夫」という名を与えたそうである。 参考文献:わがまち宝塚と歴史 |
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| 宝塚で晴れる確立が高い日
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<<これらの日は昭和49年から59年の間、全く雨が降らなかったそうです>> 参考文献:わがまち宝塚と歴史 |
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| 宝塚で雨の降る確立がとても高い日
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雨が降る確立が高いもの順
参考文献:わがまち宝塚と歴史 |
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| 我国で最初にプールを作ったのは宝塚 でも実際は宝塚歌劇はプール事業失敗の穴埋対策であった 「戻る」 |
大正4年(1915年)に大阪府立茨木中学校に日本最初の本格的なプールが出来たが、
宝塚新温泉パラダイスはそれより3年も早い明治45年7月にプールをオープンした。 しかし、当時は水を温めることも知らなかったことから、室内プールという条件も加わって水が冷たく、5分も入っておれなかったそうである。 このため、プール事業は失敗し、この施設を余興場に転用すべく考えだされたのが宝塚少女歌劇だそうです。 参考文献:宝塚市史 |
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| レビューの元の意味
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フランス語で元は「再び見る」という意味。 フランスでは年末にその一年間の出来事を風刺的にスケッチや踊りにまとめて演じられるショー があり、それに由来したといわれている。年末に「再び見る」のでレビューとなったらしい。 現在はある上演者のもとに統一され、数多い場面が次々変わって行くものを指すようになっている。 参考文献:宝塚市史 |
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| 発足当時の宝塚歌劇の応募条件
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宝塚歌劇は大正2年7月宝塚唱歌隊として発足、その時の応募条件は小学校卒業で15歳以下というものであった。 第一期生は16名で、同年12月宝塚少女歌劇養成会と名前を変え、翌大正3年4月に初回公演(ドンブラコ)を行った。 参考文献:宝塚市史 |
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| 小浜(こはま)の首地蔵
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首無し地蔵ではなく、首だけの地蔵が宝塚の小浜にあります。
滋賀県に首なし地蔵があり、その首がこの地蔵だとか色んな説があるとのこと。 頭だけに目の病気や頭痛が治る等、色々言われておりますが、近年は受験生がお参りに訪れているそうです。 |