| 一月遅れの七夕
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昔の宝塚では七夕は7月7日ではなく8月7日に行っていた。取って来た笹竹に願い事を書いた色紙を吊るし家の角に立て後、蓮の葉にトマト、茄子、西瓜などを乗せて供えました。 この頃の夜空は星や天の川がハッキリ見えてさぞや綺麗だったと思われます。 <井戸さらえ> この日は家の主人が新しい草履を履き塩で清めた後、井戸の中に入り井戸の底ざらえを行った。小浜地区の井戸は深く約20〜27mもあるが、水はきれいで良く湧いていたとの事です。 夏は冷たく冬は暖かい、そしてまろやかな味の井戸水は水道に比べるとやはり一味違います。 参考文献:宝塚の民俗 |
| 宝塚にも幽かにあった源平合戦エピソード
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元暦元年(1184年)一旦、西国に逃れた平氏は木曽義仲軍を打ち破り、福原まで攻め戻しました。これに対し義経は三草山を経由して
一の谷に向かいました。一説によると、この時義経は宝塚市の「十万辻」(現在の大宝塚GC)を通ったのではないかといわれています。 又、文治元年(1185年「平家では寿永4年」)中山寺は安徳天皇を匿った嫌疑で梶原景時のために焼き払われました。 寿永2年(1183年)7月、木曽義仲が京の都に迫ったことから平氏一門は幼い安徳天皇を伴い京の都から西海に逃れましたが、 文治元年(1185年)3月壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡しました。 中山寺は聖徳太子の創建によると伝えられていますが、 こうした関係から頼られたのでしょうか。中山寺の焼失時期は壇ノ浦の前なのか後なのかは分かりませんが、 このお寺は多田源氏歴代の祈願所であったことから、後に源頼朝の命により再建されました。 一方、宝塚市の東に隣接する川西市は清和源氏発祥の地で、子孫である多田源氏の棟梁「源頼政」は平治の乱では平氏に味方をし、 その後、平清盛の厚遇で官位が従三位まで昇進したことから「源三位頼政」と呼ばれました。 しかし、嫡子「源仲綱」の持つ名馬「木下」を平宗盛の我侭により横取りされ遺恨を持つ事となりました。 その後、新宮十郎行家の画策に乗り、後白川法王の皇子「以仁王」を奉戴し平氏に反旗を翻しましたが、 治承4年(1180年)5月宇治の合戦で敗れ最後を遂げました。 梶原景時:治承4年(1180年)8月17日「源頼朝」石橋山挙兵の折は平氏方の大庭景親の配下であったが、その後頼朝に仕えるようになり 鎌倉軍の軍艦となった。義経とは作戦面おいて対立し、義経を失脚させる一因となる人物であったようです。 |
| 農家の季節休暇
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かつての宝塚の農家には、現代の工場の一斉休業に相当する「雨喜び」という制度が存在していました。
どこかの国で似たような名前の集団がありますが、これとは全く関係ありません。 時期としては5月下旬から6月中のことで、雨が降ると村の役員が集まり、翌日を休みにするか否かを相談し、 休みが決まると太鼓を鳴らして村中にふれまわりました。 通常休みは1日ですが、時には2日程休むこともあったそうである。 朝から晩まで働きどうしの農家の人達にとってはなによりも有り難い日であったらしく、「雨を喜ぶ」という 言葉が端的に人々の心の内を表しています。 6月下旬には「サナブリ」といって、田植えが終わった次の日、やはり村中を太鼓を叩いて触れ回り、村中総てを休みとしました。 休みの日には山本地区ではうどんや鯖寿しを食べたそうです。 粉引きをする家が有ったことから、粉を買って来て家でうどんを作ったとのこと。 やはり、この時代は「うどん」がかなりご馳走であった様子が伺えます。又、通信手段は何と言っても太鼓が一番だったようです。 参考文献:宝塚の民俗 |
| 花祭りの変わった効用
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その昔の宝塚では、4月8日の花祭りになるとお寺では仏生会(ぶっしょうえ)が開かれ、訪れる人には甘茶が出された。
れんげ、タンポポ、つつじ等を取ってきてお釈迦様のために美しい花の家を作り、子ども達には正月のもち花を尼さんが煎って食べさせてくれました。 小浜地区では「山つつじ」を十文字にくくり、竹竿の先につけて家の角に立て、その下に草履をくくっておくと脚気(カッケ)が治ると言われていた。 一方、山本地区ではこの「つつじ」を残しておき、家出人があった時、この花を焼いて立ち上る煙の方角に探しに行けば良いと言われていたとのこと。 小浜地区の風習は、山で摘んだ花を竹の先につけ、それを庭に立て山の神を迎える日本古来の土俗信仰にとてもよく似ており、こうした風習が変化したものではと思わせる。 参考文献:宝塚の民俗 |
| 古代の薬草取りを思わせる神武祭
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明治大正の頃の宝塚では4月3日になると神武祭という子どものための山遊びがあまりした。
その日になると、「巻き寿し」や「団子」など子どもの好物が入った弁当を作り、
子ども達は近くの川(武庫川)の河原や山に出かけて行き、ゴザを敷いて終日遊んだそうです。 古代中国では、春になると薬草を摘みに出かける風習があったそうですが、なんだかそんな名残が感じられますね。 参考文献:宝塚の民俗 |
| 戎さんはなんで釣り竿と鯛を持っているの?
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その昔、現在の西宮市にある鳴尾浜の漁師が沖に出て、漁をしていると網に神の像のような物がかかった。
しかし、漁師は気にも止めずそれを捨て、別の場所で漁をしていると、もう一度先程の物が網にかかってきた。 不思議に思った漁師がそれを拾い上げ家に持って帰ったところ、その晩、夢に神様が表れた。 こんな事があって土地の人がこの像を奉ったのが西宮の戎神社といわれている。 戎さんが、釣り竿と鯛を持っているのは、どうやら海から拾い上げられた事が元となっているみたいですね。 |
| 昔の宝塚にはもう1つ正月があった
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山の神さん、骨正月 山本地区:1月20日になると山に餅を持って出かけ、適当な場所で餅を焼き山の神様にお供えをした。 その後、薪を少し取り家に帰った。 正月の間は餅ばかり食べていたため、骨のついたブリ等の魚を大根と炊き、神様に供えてから、家族で食べた。 注:小浜では鰯、ジャコ等の干物を主に用いたそうである。 |
| 明治時代の元旦の雑煮は夜中に食べた
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明治の頃の宝塚のお正月 <若水むかえ> 家の主人は大晦日の準備が全て終わってから、新しい桶、柄杓を持ち、井戸に若水を汲みに行った。 この若水はお雑煮を煮るためとお茶等を沸かすのに用いられ、正月2日の書初めにも使われたそうである。 <雑煮> 雑煮は一番鳥(午前二時頃)が鳴いてから、家族全員で食べたとのこと。 雑煮の材料は餅の外に焼き豆腐、ごぼう、土いも、人参、大根を入れ、これを甘味噌で味付けをした。 正月用の膳にはこの外に煮しめ、たたきごぼう、昆布巻き、数の子、ごまめ等があり、これにお酒がついたそうです。 現代と比べれば随分と質素な料理ですが、当時とすればすごいご馳走だったと思われます。 1月2日は焼き雑煮といって、焼いた餅に水菜を入れすまし汁で雑煮を作ったそうです。 ![]() <参拝> お雑煮を食べ終わった後はお布施を持ち、お寺にお参りに行ったそうです。お寺では家長が「おめでとうございます。 本年もどうぞよろしくお願いします」と挨拶をすると、お寺からお酒を飲ませてくれたとのこと。 現在と異なり、仏教が生活の中に習慣として溶け込んでいるのがよく分かりますね。 <縫初め> 1月2日、女性は宝物が入るように黄色の布で財布を作り、その年1年はこの財布を使用した。 <初風呂> 共同風呂は1月2日を初風呂とした。お湯が沸くと「風呂が沸いた、風呂が沸いた」といって、「りん」を振って町内を ふれ回り、一番風呂に入った人にはお鏡餅が当ったそうである。 参考文献:宝塚の民俗 |
| 節分の海苔巻の丸かじりは大晦日の習慣がおおもと?
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宝塚の小浜には12月31日の朝一番、鶏の鳴かない(日が登らない)間に東の方を向いて
「巻きずし」を食べるという古い習慣があったそうである。巻きずしを食べると良い年が来る、
又は、福が来ると言われており、子ども達には小さい巻きずしを作り食べさせたそうである。 巻きずしの食べ方は切らずに「かぶりつく」のが習慣とされており、こうした様を土地の人は 「尺八をかぶる」と言ったそうである。 節分に恵方を向いて海苔巻きを食べる習慣は昭和30年頃から流行始めたらしいが、案外、 このあたりの習慣がおおもとになっているのではないだろうか?。 当時の巻きずしの具:高野どうふ、かんぴょう、ずいき、卵(但し、鶏を飼っている家だけ) ![]() 参考文献:宝塚の民族 |
| 雲雀丘花屋敷駅は元は2つの駅に分かれていた
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昭和15年頃、阪急宝塚線には花屋敷駅と雲雀丘駅があった。しかし、2つの駅の間隔が狭く、
発車しても直ぐ次の駅に止まらなければならなかったことから、両駅の中間に雲雀丘花屋敷駅
を作ったとのことである。 なお、同線の平井駅と山本駅も同様の事情があり、併せて山本駅としたそうである。 |
| 宝塚には金太郎の墓がある
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昔話で有名な金太郎の物語を全部言える人は全体の10%ぐらいとのこと。
では、「金太郎のお墓がある場所を知っている人は」と訪ねたら恐らく1%にも満たないと思われます。 その金太郎こと坂田金時のお墓が宝塚の満願寺(地図) (詳細)にあります。 この満願寺は聖武天皇(701〜756年)が仏の功徳により大衆を救おうとの思いから、全国諸州に満願寺建立を命じ たことにより開かれました。 その後、多田源氏(兵庫県川西市多田)が興り、その祖である源満仲公(?〜997年)は 満願寺に深く帰依していました。その嫡男である源頼光(948年〜1021年)はある年、東国征伐に出かけ、その帰り道、 相模の国足柄山で坂田金時に出会い家来にしました。 都に上った金時は一生懸命努力をした結果、藤原軍団である頼光の四天王の一人とまで言われるようになりました。 ちなみに藤原軍団は、摂政太政大臣藤原道長配下の軍団で、源頼光(よりみつ)、坂田金時、平貞道(さだみち)、平季武(すえたけ)、渡辺綱(つな)らがいました。 その当時、人々をさらって行く大江山の酒呑童子がおり、都の人はたいそう困っておりました。 この酒呑童子を源頼光および四天王が討つこととなりました。 安倍晴明が都に結界を張った後、頼光たちは敵の館に乗り込みました。 鬼の姿に化けた頼光たちは、毒入りの酒を酒呑童子に飲ませ、見事征伐をしました。 どうやらこんな経緯があって、金太郎のお墓が満願寺にあることになったようです。 神奈川県の皆さん知ってました? 宝塚にお越しの際はお宅の県の歴史的有名人のお墓、是非一度お参りをして下さい。 ![]() 参考文献:宝塚の風土記 |