| 伊孑志の渡し
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宝塚市のど真ん中を流れる武庫川。その昔、といってもそんなに大昔ではありませんが、大正時代の初め頃までこの川には橋がありませんでした。
では、どうやって渡っていたかと申しますと、言うまでもなく「渡し」しかなかった訳であります。 この渡し、場所は現在の宝塚市役所の少し上流に在ったそうです。 この渡しはいつ頃から行われていたかは分かりませんが、安永6年(1777年)には、武庫川の増水時において有料での渡しがあったそうです。 その渡しについて、文化2年頃(1805)年の頃のエピソードをご紹介しましょう。 その頃の渡しの営業時間は昼間だけだったようで、夜は舟を堤に上げていたことから、先を急ぎたい客と言い争いになる事もあったそうです。 多分、こんな感じ? 「船頭さん、中山さんにお参りに行きたいやけど、もう、渡し、終いはりましたんか。」 「じいさん、悪いんやけど、今日はもう終いやねん。」 「そんな、まだ日は高いのに、チョット早すぎるん違いますか。」 「うるさいわい、このしじい、終わったもんは終わったんじゃ!」 「なんでっか!その口の利き方は、しじいやと思ってバカにしてからに。お役所に訴えまっせ。」 「なんやと、何時にしまおうとこっちの勝手や。文句があんなら西宮でも何処でも行って渡ったらええやないけ。」 「そんな無茶な。」 この頃、渡しに携わっていた人は、船頭さんが4人と世話人が2人がいたそうです。 文政5年(1822年)にこの渡しの世話人である市左衛門や小浜宿の菊屋万次郎らが施主となって、無料の渡し(施行渡)と仮の板橋を架けたそうです。 しかし、この板橋は武庫川が増水すると板を外してしまうため、中山寺などに巡礼する人々に不便をかける結果となってしまいました。 こうした事態を打開するため、世話人らは中山寺の講中に寄進を求めました。 しかし、お金は思うように集まらず、結局、文政7年(1824年)には渡しは有料となってしまいました。 世話人達の善意は叶えられませんでしたが、この有料の渡しは採算が良かったらしく、明治40年には渡し舟を新調した事もあったそうです。 その後、この伊孑志の渡しは大正7、8年頃まで続いたそうです。 ところで、世話人の菊屋万次郎という人は、明治初めの小浜で菊屋旅館というのがありましたから、もしかして、そのご先祖さんではないのでしょうか。 参考文献:日本歴史地名大系 |
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| 宝塚の理科(1年間の日の出)
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1年間の宝塚の日の出を追いかけたものです。生駒の山並みから日が上り、六甲山の山々に太陽は沈んで行きます。
こうしてみて見ると、太陽は随分移動する事がわかります。 普段、太陽の位置などは気にも止めませんが、この大きな移動距離によって、自然界に暑さ寒さが生じるのですから、大いなる振り子運動とでもいうのでしょうか。 ![]() |
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| 江戸時代の転出・転入届け
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結婚をしますと手続きとして夫、妻の署名捺印がある婚姻届けを役所に出します。
しかし、嫁ぎ先が他の市などの場合は、これとは別にお嫁さんは現在住んでいる市に転出届けを出し、
その後、嫁ぎ先の市へ転出証明書と印鑑を持って転入手続きをします。 ではその昔、江戸時代の人たちはどんな届けを出していたのでしょうか。 これは1800年代、宝塚にお嫁入りする際の転出転入届けに関する文書です。 ![]() 人別送手形之事 当村八郎右衛門娘、年廿七歳にてゑんと申者 宗旨代々一向宗片村正源寺旦那に紛無御座候 然る所此度其御村源蔵妻に縁付参申候間 当村人別御帳面除申候 以後其御村方人別御帳面に御書加へ可被成候 依て為後證人別送手形如件 文化十三子年二月十八日 京極長戸守殿御領分 摂津揖西郡黒崎村 庄屋 吉兵衛 (印) 阿部鉄丸様御領分 摂津川辺郡安場村 庄屋 藤右衛門殿 参考文献:古文書入門 人別送り手形の件 私共の村の八郎右衛門の娘で、年は17歳で名前は「えん」と申します。宗旨は代々一向宗で正源寺の檀家に間違いございません。 ところで、この度、そちら様の村の源蔵さんのお嫁さんになることになりました。つきましては私共の村の人別帳から削除しますので、 そちら様の村の人別帳にお書き加えください。後日の証拠のため、人別送手形の内容は以上の様になっております。 1816年子(ね)2月18日 庄屋 吉兵衛 摂津国(せっつのくに)揖西郡(いっさいぐん)黒崎村は、資料で調べても摂津国に黒崎村はおろか揖西郡そのものも見当たらず、現代でいえば何処なのかは分かりません。 しかし、天文15年(1546)浄土真宗の教珍が播磨揖西郡黒崎村に徳善寺を創建した事、又、揖保川の西側が揖西郡(いっさいぐん)と呼ばれていたとの文献がありますので、 恐らく兵庫県竜野市あたりではないでしょうか。 とにかく、ここの八郎右衛門の娘さんが、摂津の国川辺郡安場村(宝塚市の川面)の源蔵さんに嫁ぐことになりました。 当時、村人は寺請制度といって、村人はいずれかのお寺の檀家に位置付られており、お寺が身元の保証をしていました。 そしてお互いの村の戸籍係は庄屋さんが担当していたようです。 それにしても、当時の村人の結婚は近隣の村ぐらいかと思っていましたら、こんなに遠くの場所に縁談があったとは驚きですね。 竜野市から宝塚市までざっとみても120kmぐらいはありそうですから、最低でも2泊はしなければならなかったでしょう。 いったい、どういうご縁があったのでしょうか。 当時のこととて、恐らく結婚式で初めて源蔵さんを見たのでしょうね。 17歳、現在でいえば15か16歳のおえんさんは、どんな気持ちでこの長い道程を歩いて行ったのでしょうか。 冠婚葬祭に揉め事、当時の庄屋さんは何やかやと結構忙しかったのではないでしょうか。 ところで、この古文書を見ていると、幾つか素朴な疑問が浮かんでまいります。 1・領主が京極長門守となっているが、京極長門守は讃岐国丸亀藩の領主。 それがどうして摂津(播磨)の領主なのか。 2・揖西(いっさい)郡は資料によると播磨国となっているが、何故「摂津」と書くのか。 3・阿部家は関東(埼玉県行田市)は武蔵国忍(おし)藩の藩主。それがどうして遠く離れた宝塚の川辺郡安場村の領主なのか。 4・領主の名前が阿部鉄丸となっているが、普通「何々の守」という名前が多いのに、何故「鉄丸」となっているのか。本当に領主なのか? そこで資料を調べてみましたら、次の事が分かりました。 1の疑問 播磨国龍野藩の領主であった京極高和(たかかず)が万治元年(1658年)讃岐国丸亀藩に替わる際、 播磨国の内、揖(ゆう)郡の30ケ村を飛び領とすることとなり、揖西郡もその中に含まれていた。 2の疑問 これは不明。しかし、当時実際に住んでいた人、しかもそこそこの知識がある庄屋さんが書いているのですから、きっとその村は「摂津国」が正しかったのでしょう。 仮に間違って書こうものなら、「お国の名前を違えるとは不届きな奴」という事で役人からきついお叱りを受けたでしょうから、間違うことはないと思われます。 3の疑問 延宝5年(1677年)、阿部家三代目当主阿部正武(まさたけ)は五代将軍徳川綱吉の信任を得て23年間老中を勤めました。 その間、貞享3年(1686)に摂津国川辺郡、元禄7年(1694)には摂津国豊島郡、嶋下郡、武庫郡を拝領しました。 つまり、川辺郡安場村は貞享3年から阿部家の飛び領となっていたのです。埼玉県行田市の皆さん、宝塚市の一部は江戸時代お宅の藩の一部だったのです。 4の疑問 阿部家は二代目播磨守を除き、代々豊後守を名乗っていましたが、九代目当主阿部正権(まさのり)はどういう訳か官位がなく、 通称「鉄丸」と名乗っていたそうです。 参校文献:藩史大事典 |
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| 雨乞いの古文書
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今年(平成17年)も四国のとある県では干上がったダム湖で雨乞いの踊りをしていましたが、21世紀の現代の科学でも未だ雨はコントロールできていません。 まして昔は尚更の事。 ではその昔、人々はいったいどんな雨乞いをしていたのでしょうか。 これは江戸時代における宝塚市山本村の雨乞いの文書です。 願文 御神前に奉雨雲候、当年雨堅く諸作物立毛難相続成、今日から晦日迄の中雨降り候様奉願上候、 弥於御神前に被為雨降し置候は、野末迄も満作仕難有奉存候、翌日於拝殿に捧御百燈候、 諸願成就皆合満足氏子息災繁昌御守奉願上候、以上 宝暦二年申六月弐拾五日 山本村氏子中 天満宮様御神前 参考文献:古文書入門 現代風に言うとこんな具合でしょうか。 雨を降らしてもらえますように神様にお願い申し上げます。今年は雨が全然降らず、色々な作物が育たない状態がずっと続いています。 今日から月末までの間に雨を降らして下さいますようお願い申し上げます。 神前において雨を降らして貰えましたら、 見渡す限りの田んぼや畑の作物は良く育つことができ、とても有り難く思います。その翌日は拝殿に御百燈を捧げます。 願い事が叶い、皆満足、氏子は元気で繁盛。お守り下さいますようお願い申し上げます。以上。 1752年申(さる)年6月25日 山本村氏子一同 天満宮様 現代の雨乞いは「もうこれしか無いか」っていう気持ちが有りますが、江戸時代の人は他に方法がなく、神様を本当に信じており心がとても純真ですね。 |
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| 「重陽の節供」ってどんな行事?
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この節供は9月9日に行われることから、別名「菊の節供」ともいわれます。 「重陽の節供」は五節供の一つで、他には「七草の節供」「桃の節供」「端午の節供」「七夕の節供」があります。 現代ではすっかり行事として廃れてしまった感がありますが、 明治や大正の頃には未だ「重陽の節供」が生活の中に生きずいていました。 その当時は「重陽の節供」になると「早稲みかん」や「柿」「栗」を神様に供えました。 子ども達は前の日から袋を作ってもらい、家の中に吊り下げておきました。 そして、その中にみかん等をいれてもらい、「お初」と言って食べることをたいへん楽しみにしていたそうです。 自然からの恵みを常に神様に感謝する心が生活の中にあることが伺える一方、子ども達の関心は菊ではなく食べ物にいっています。 いつの時代も変わらない子どもの姿が微笑ましさを感じさせてくれます。 |
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| 宝塚にもいた「つちのこ」
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「つちのこ」でマスコミが騒いでいたのはかなり前でしたが、何とその昔、宝塚にも「つちのこ」がいたのです。![]() これは明治初年の話で、山本に住む村人はある日友達と二人で山本墓地の北側の山へ薪を取りに出かけました。 しばらく行くと前方の草むらが動いたので注意深く目をこらすと、太くて短い気味の悪い蛇がいたそうです。 びっくりした二人はあわてて村へ逃げ帰ったそうです。 この蛇は「五八寸」と呼ばれる奇妙な蛇で、長さが八寸(24センチ)太さが五寸(15センチ)で平べったい胴体は鱗で覆われおり、 鼠のような尾をもった不気味な形で猛毒をもつそうである。 この蛇は普通の蛇とは異なり地を這わず横になったり頭と尻で反転しながら進んだり、時には胴体を輪のように丸めて進むそうです。 チィ、キィもしくはギュウ、ギュウと鳴きながら襲ってくるとのこと。 江戸時代の和漢三才図絵という古文書には、この蛇に出会った時は、急いで高所へ登ると安全であると書かれているそうである。 今まで見かけたとされる場所は兵庫、大阪、奈良、岡山、広島、岐阜等で、全国的にも多数の目撃者がいるそうです。 古文書にあるくらいですから昔はもっと身近にいたんですね。今も何処かでひっそりと生きているかもしれません。 参考文献:宝塚の民話 |
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| 町名に町の字が付く数で市の発展の歴史が分かる?
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1つの市に町の数が幾つぐらいあるのか、更には町名に「町」の字が付いている町の数はと聞かれたら
殆どの人は知らないでしょう。下記は宝塚近辺の町に関するデータ
これで見ると、古くから発展していた市は町名に町の字が付く所が多いが、 発展が比較的新しいと思われる「市」はそうした割合が少ない事が分かる。 三田市や川西市、宝塚市は町名に「丘」や「台」の字が付く所が多く、町の字が付く町の数とほぼ同数かやや上回っている。 逆に95%の芦屋市は殆ど昔に発展してしまったため、昔と今もあまり町の数に変化が無い所になったといえよう。 こうして見ると宝塚市は大正時代ぐらいから発展していたようにみえるが、 戦後「市」となってからの発展度合が大きかった事が町の名前から見て伺える。 |