宝塚の徒然草(偽装問題、赤福、ニチアス、大連立、小沢氏、民主党)
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宝塚の徒然草

平成19年11月2日(金) 偽装問題ウィーク
秋も深まり、今朝はこの秋になって初めて冷え込みが感じられる日となった。 考えてみれば11月に入ったのだから当然のことなのであるが、わざわざそう感じるのは、やはり地球温暖化のせいなのであろうか。

さて、今週も出るわ出るわ、偽装問題のオンパレードなのである。 先週までの赤福に比内地鶏、そして新たなお伊勢シリーズではお福餅に太閤餅、毛色が変わったところでは建材メーカーのニチアス、かと思えばあの超有名料亭の吉兆にホネッコでお馴染みのドッグフードのサンライズ。

おっと、何か忘れちゃいませんか。そうそう、ミスタードーナッツってのもありましたな。 ドーナッツだけに、穴があったら入りたい、なんて、くだらない事でも言わなきゃおれない一週間になりました。

しかし、なんと情けない世の中になってしまったのでしょうか。 自らが世間に対して公言したコミット、つまり、賞味期限や原材料、防火性能などを守らず、客を騙してまで利益を優先させる浅ましいというかさもしいこの行為。

こうした経営姿勢の中には、商売の基本である世の中の役に立つかもしくは喜ばれる物を作り、そのお礼としてのお代を頂くと言う謙虚な考え方がすっぽり抜けている。

少し前のホリエモンなどのように、「世の中金や、金を儲けてどこが悪いねん」の守銭奴と同じでは、世の中、右も左も真っ暗闇じゃござんせんか。 しかし、こうした中にも光明はあるもので、それは、今度の事がばれたきっかけは少なからず内部告発があったとの事。

つまり、不正な事を見逃せない社員が勇気を持って会社を告発したのです。 こういう事を聞くと、世の中まだまだ捨てたものではないと思えてきます。 社会正義は未だ廃れず、といったことろでしょうか。

振り返ってみれば、以前はこうした告発は滅多になく、不祥事が水面下に潜っていたことを思えば、逆に良くなってきているといえなくもありません。 現在は、たまたま一気に噴き出しただけのことで、悪い膿は出すべきなのです。

要は考え方の問題であって、表面的には何も不祥事がないように見えて、その実、水面下に潜っているのが良いのか、不祥事は表面に出てくるが、隠れているのが少なくなる方が良いかの問題である。

無論、後者の方が望ましいのではあるが、只、社会がこういう風になってきたのは、以前、国会で内部告発をした者を保護する法律が通った事が大きな力になってきていると思えるのですが。

それにしても今年になって、ミートホープ、不二家、白い恋人、そして今回の会社と続きますが、この段階で未だ隠れている会社は今回の報道をどう見ているのでしょうか。 所詮、対岸の火事?

平成19年11月5日(月) 政界一人相撲
荒牧の秋祭りも11月3日に終わり、宝塚の秋祭りはこれで全てが終了したことになる。 そして、これを境に宝塚は晩秋を迎えるのである。 最初に色づき始めた楓も今では盛りを過ぎ、木々の葉もかなり少なくなってきている。

一方、銀杏や桜などその他の木は今を盛りと見事な色に染まり、長尾連山を秋色に染めている。 やや一段落した感のある亀田家をマスコミは相も変わらず追いかけているが、そんな折、突然民主党の小沢党首が辞任を発表した。

政治評論家ならぬ一庶民の身としては唐突な感は否めず、「何で」という素朴な疑問しか湧いてこない。 自民党との連立政権を巡って民主党を混乱させたのがその理由とのことである。

しかし、連立についてはその場で即答せず、党に持ち帰って検討してから拒否の回答をしたのであるから何の問題があるの?と素朴に思っていたら、やはり我がお頭は相当単純だったようである。

マスコミによると事はもう少し複雑で、小沢氏は一旦連立をし、政権の実務経験を積んだ後に政権を奪取するプランを持っていたようである。 同氏は現在の民主党の実力では衆院選挙では勝てないと見込んでおり、このためこうした考えを持ったようである。

只、こうした考えを自分一人で持っており、党内で意識固めをしなかったことからこうした事態になってしまったようである。 一選挙民から見れば、どうも民主党は自民党を俵に追いこんでから、後一歩の所で自らこけることが多いように見えるのである。

単純なお頭から見れば、何かあせっているように見えるのである。 次の選挙では、小泉チルドレンは殆どの者が振い落されると思うが、それ以外には圧勝する要因があまり無いようにも見える。 無論、現時点では、である。

ならば、党内の意識固めをしてじっくり攻めていけば良いのに、と思うのは、ノー天気な素人だからなのであろうか。 今日はマスコミはこの話でかまびすしいが、評論家や有識者、タレントらはどなたも見てきたように、こうじゃないかな、と推測の花を咲かせている。

しかし、今回の件は相撲の形態で言えば「一人相撲」、決まり手で言えば「根回し不足」ということになるのだろうか。

平成19年11月7日(水) 人の気持ちは分からない
さてお立ち会い、小沢氏は辞任を撤回し、引き続き民主党の党首を続けて行くことになったが、この間の評論家や有識者、元政治記者、ニュースキャスター更にテレビタレントの予想ぶりはどうであったろうか。

継続を予想した人はあまり多くなく、大抵の人は離党をするのではないか、それも腹心の議員を連れて、とかなんとか、さも本人から聞いてきたような事を言っていたが、結果は残念ながら見事に外れまくり。

尤もらしく、得意満面な顔でテレビで話していた彼らの予想は所詮この程度であったのだ。 そして、一夜明けて今日のワイドショー、自らの予想が外れたといって、民主党の誰それが悪い、と必死に言い訳をしている評論家や有識者がいたが、全く見苦しいとしか言いようがない。

「私の政界予想能力はこの程度でございます、これを機にもっともっと精進をしたいと思います」ぐらい言えないのであろうか。 反省なきところに向上の余地なし、いつも政治家に対しては「言い訳は見苦しい」とかなんとか厳しい事を言っているのに、自分の事となると途端にこの体たらくである。

一方、剛腕小沢、壊し屋小沢、と過去の映像を流しまくり、ひたすら離党のイメージを煽ったテレビ局は、又しても誰もが飛びつく話にもって行きたいようであったが、これも見事に思惑が外れたようでした。

一度、評論家や有識者などの人達が予想をした事とその結果を一覧表にしたら面白いのではなかろうか。 しかし、今回の小沢氏の動きを予想した人は、本当に人の心の機微を的確に読み取ることができる人であるといえよう。

平成19年11月9日(金) 政界連立仕掛け人
11月10日(土)、宝塚では「宝塚音楽回廊」があったが、このイベント、2004年から始まって今年で4年になる。 宝塚のあちこちの会場ではさまざまなグループがジャズやクラッシク、シャンソンなどの歌や演奏を繰り広げ、街全体が音楽に包まれた一日であった。

さて、小沢氏の辞任撤回騒動が終わった途端、今度は今回の騒動の仕掛け人についての報道で、本にマスコミというものは誠に喧しい。 ところで、その仕掛け人なる御仁は某大手新聞社の代表であることが分かったが、その新聞社の近日の社説や記事を見ると、今回の民主党の件についてまことに手厳しい内容が載っている。

・進退にかかる発言は重く、党の指導者なら尚更の事である。
・辞表の時点では連立の考えであったが、その後、基本的な戦略を変更したにもかかわらず十分な説明もない。 これで党のトップとして信頼を得られるのか。

・民主党にとっては党の脆弱な体質が露呈した。つまり、民主党には小沢氏に代わる有能な人材がいない。
・今回の件で民主党のイメージは大きくダウンした。

・自らがトップを務める政党を「政権担当能力がない」「次期衆院選挙は厳しい」とまで言い切った小沢氏を、民主党の支持者はどう見るだろうか。
要約すればこんなところである。

読んでいてなるほどと思うところもあるが、反面、自分の会社の主筆が描いたシナリオを壊され、面子を潰された事に対して青筋を立てて厭味を言っているようにも受け取れる。

しかし、「政権担当能力がない」「次期衆院選挙は厳しい」についてはどうだろうか。 これが、スポーツチームの監督の発言とすればどうだろうか。

自分のチームについて、現状の実力からすれば優勝を狙えるチームとは言えない。 来年のペナントレースについても、今の状態からすれば優勝争いには届かないだろう、と言えば今回のように「チームのファンはどう見るだろうか」と言うのだろうか。

恐らくその逆で、むしろ現状をよく把握していると見る人が圧倒的だろう。 ところが政治の世界では現状を素直に言うと、マスコミから反発を食らうのだから全く不思議なことである。

上に立つものとすれば、現状をよく把握し、気を引き締めるためにもこうした発言は時には必要であると思えるのだが。 「敵は戦いに勝利し、恐らく浮かれておりましょう。この機に乗じて攻めるには今が絶好の時」とは、日本や中国の戦国時代小説に出てくる軍師がよく使う言葉。

しかし、マスコミはこうした言葉を不適切なものと言っているが、では、政権担当能力は十分にあり、次期衆院選挙は大丈夫と言えば良いのだろうか。 それこそ味方に油断を作り、敵に付け入るスキを与えるようなものであると思うが、どうであろうか。

一方、今回の一連の動きを見るにつけ、国家のグランドデザインを描ける人が未だこの世界にいるのだな、と思うとともに、某氏にはかつての幕末の志士を彷彿させるものがある。

慶応2年、坂本龍馬が長州の桂小五郎と薩摩の西郷隆盛を会見させ、薩長同盟を結ばせたが、いずれも世を憂う気持ちがこうした大胆な行動をとらせたのである。

今朝のテレ朝のワイドショーを観ると、スタジオには大学教授や元政治記者等数人に加え某政治評論家が出ていたが、某政治評論家以外は今回のやり方について批判的であった。

しかし、この1対nの討論は清廉性や建前を問うレギュラー陣に対し、政治の世界はきれい事だけでは出来ないとする某政治評論家の説明は現実的でかつ論理性もあり説得力があった。 結果として圧倒的にこの政治評論家の勝ちであった。

印象としてはレギュラー陣の論拠は青臭く、一言でいえば大人と子ども、格の違いを見せつけられた討論であった。 この人がいつだったか言っていたが、身辺はきれいだが能力のない奴と、ダーティーな面もあるが能力の高い人のどちらを選ぶかである。

身辺がきれいで実務能力が高い人が一番だが、歴史上の有能な人物でほこりが出ない人は果たしていたであろうか。

平成19年11月12日(月) 国民という言葉
朝の冷え込みが一段ときつくなってきたこの頃、テレビでは京都の紅葉が遅れていると報じていたが、近所の木々は赤や黄色に色づき秋の深まりを示している。 中でも、白い実が木一面になる南京はぜは、赤をベースに所々黄緑の葉っぱが入り混じり、今が一番きれいな状態となっている。

ところで、野球のアジアシリーズ2007は中日ドラゴンズが韓国のSKワイバーンズに6:5で勝ち、これで日本は三年連続アジアチャンピオンとなった。 しかし、いつも思うのだが、日本は韓国との対戦では何故か受け身になっているように感じる。

これは、野球だけでなく他のスポーツに於いても言えるのだが、日本の目は常にアメリカ、ヨーロッパに向いており、韓国には向いていない。 しかし、韓国は常にかどうかは知らないが、日本をよく見ており研究しているように見える。

今回、中日は4番が帰国するなどベストメンバーで臨まなかったが、最初の対戦で中日が負けたのは、こうした日頃の姿勢の現れではなかっただろうか。 自負も結構だが、相手をじっくり研究した上であればいうことはない。

しかし、それがなければ単なる自身過剰、つまり足元をすくわれることに繋がるのである。 さて、先週は小沢氏の騒動で終始したが、テレビの報道番組やワイドショーを観ていると、出演者の発言で「国民」という言葉の使い方がとても気にかかるのである。

彼ら、彼女らは、何かと言うと直ぐに「我々国民は」という言葉を使うのである。 まるで問題を話すときの枕詞のように。 確かに貴方がたは国民ではあるが、しかし、国民の全体ではない。 あくまで国民の一部なのである。

我々はテレビ局のアナウンサー及び出演者に全国民の考えを委託した覚えはない。 つまり軽々しく「我々国民は」という言葉を使うな、と言うことである。 それも言うなら、「国民の一部としては」もしくは「一国民としては」と言うべきではないだろうか。

こうした人達はいつも画面を通して発言しているだけに、いつの間にか自分が世間を代表して喋っているかのように錯覚してしまうのではなかろうか。 しかし、勘違いをしないで欲しい。

貴方の発言に共鳴する人はいるにしても、世の大半であるかどうかは分からないのである。 こうした傾向はアナウンサーを始めとして、新聞社の論説委員や政治記者、評論家、大学教授及び作家などに数多く見受けられる。

テレビという文明の利器はアナウンス効果は大きいが、それだけに慎重な言葉使いが必要なのです。 一連の報道を見て一国民としてはかように思うのであります。

平成19年11月14日(水) ツイスティな世論
今回の連立騒動で民主党に関する世論調査が新聞に載っていた。 それによると小沢氏続投に納得できる人が35.7%で、納得できない人が56.4%。 つまり、約六割方は納得できないということである。

一方、自民、民主両党の政策協議や連立により停滞打破を望む人は八割と言うことであるが、この両者の関係、よくみると何かねじれているように見えないだろうか。

だって、そうではないか。 小沢氏の続投が納得できないのは連立を望まないからであり、一度でもそうした考えを持った小沢氏を心よく思わないからである。

なのに停滞打破には連立という手法も可とするとは、一体どうなっているのだろう。 単純に小沢氏続投納得できない派の考えを除くと100%−56.4%=43.6%が連立OK、これに政策協議という手法を含んだとしても50%台ぐらいの数字になると思うのであるが。

それが80%になるのであるから、80%−43.6%=36.4%の人は小沢=連立は厭だが、現状打破のためには連立、政策協議止む無しということになる。 つまり、純粋に政権交代を望む人は56.4%−36.4%=20%で、ここにも捻じれが生じている。

次に、民主党の支持率であるが、支持する人は22.5%で10月時点の調査18.0%より4.5%も増加しているのだ。 ここ10日間ぐらい報道番組、ワイドショーなどでさんざん民主党はイメージダウンした、イコール支持率が下がるとアナウンスしたテレビ局、新聞各紙はものの見事に世論を読み違えたことになる。

特に、テレビ局の「町の声」とか言う奴は本当に胡散臭い。 たかだか100人程度の人に聞いて、さもこれが世論の代表みたいにアナウンスしているが、100人ぐらいでは母集団としては少ないのではないだろうか。

世論というなら最低千人ぐらいが必要ではないだろうか。 更に、聞く人も新橋のサラリーマンが多いが、これもどうかと思う。 もっと様々な市や場所を変えて聞かなければ、声に場所の片寄りが生じてしまうと思うのだが。 テレビ局の人、如何?

興味深いのは、「今、衆院議員選挙があったら投票するのはどの党」という項目。 自民党が35.7%、民主党が27.4%で自民有利の結果が出ている。 小沢氏が「政権担当能力がない」「次期衆院選挙は厳しい」として、マスコミや評論家、有識者及びタレントから非難を受けたが、結果はこの通りである。

あながち誤った発言ではないように見えるが、これらの方々はどのように受け止めているのだろうか。

平成19年11月16日(金) パート女性会心の一撃
人間、何事も誤りなく人生を過ごせる人は、まずこの世の中にいないといっても過言ではありません。 「過ちを改むるに憚ることなかれ」とか「過ちて改めざる、これを過ちという」など、過ちに対する格言は昔から数多くあります。

人は誤りがある度に他人様に対して「申し訳ございませんでした」といって頭を下げるのであるが、これも最初は許すことはできますが、度重なりますとそうもいかなくなってまいります。

当然、人はもうその人の言葉を信用しなくなるのでございます。 と、ここまでは、誰に言われなくても分かっている事でございます。 ところが、船場吉兆福岡の消費・賞味期限改ざんは、「販売責任者がやったことで組織ぐるみではございません」といってクレヨンしんちゃんに出てくる政治家の様に、しおらしく記者会見で詫びたばず。

しかし、15日付けの新聞によると、船場吉兆の取締役が「改ざんはあんたがしたこと」とパートの販売責任者に罪をなすりつけようとしたとの記事が載っていた。 パートだから簡単に言うことを聞く、否なら直ぐ辞めさせることができる、と軽く見たのであろう。

ところが記者会見でこのパート社員はこの事実を証言したのである。 思いもしないパート社員の会心の一撃!、これで取締役のボスキャラは多大なダメージを受け、船場吉兆福岡のダンジョンはクリアされたのである。

さて、ここで考えなくてはいけないことは、お詫びは一回しかきかないということである。 その一回で全ての悪い事柄を言いきってしまうことが必要で、後で「実は・・」はないのである。 これは経験則から言えることである。

吉兆はこの神聖な「お詫びの原則」を破ったばかりか、嘘がばれる最悪のパターンを踏んでしまったのである。 一度は許そうとした善良な人の心を踏みにじったのである。 もうこうなると前段に書いた通り、世間はこの店の言うことを信用しなくなるであろう。

一般的な例として、仮にパートに過失があったとしても、対外的な責任を引き受けるのは正社員たるものの取るべき態度ではなかろうか。 それを、正社員どころか会社の取締役ともあろうものがパートに責任を転嫁しようとするなど卑怯千万、言語道断の振舞である。

そもそも取締役になろうという人は対外的な責任、つまり無過失責任を取る役目を役職上負わされているのである。 それがあるからこそあの高い給料が支払われるのである。

それが姑息にもこんな責任逃れをするとは・・・、吉兆は料亭として庶民には手が届かない超一流かもしれないが、会社の組織として見ればどんなものであろうか。 若くしてこういう人が取締役になれる組織とは、一流はおろか人を見る目が果たしてあるといえるのだろうか。

平成19年11月19日(月) 高さとパワー
W杯女子バレーが終わったが、結果は7位。 試合前、監督は「メダルを狙えるところにきた」とのニュアンスでインタビューに答えていたが、結果はご覧の通りである。

どこがメダルなのであろうか、とさえ思えてくる。 しかし、戦う集団はそれぐらいの気概が必要なのは否定はしないが、それにしても現在の実力と目標があまりに乖離しすぎると、言葉が虚しく、否、滑稽にさえ見えてくる。

振り返ってみれば、「高さとパワーに負けた」とはここ二十年来言われ続けている言葉である。 にも拘わらずこの間において全く対策が効を奏していないのである。 これはバレーの素人だからこう見えるのだろうか。

現在のチームを見ても前回のオリンピックメンバーとあまり変わっていないし、むしろ、先祖返りをしているようにも見える。 強い国の傾向を見ていると、オリンピックが終わると選手をかなり入れ替えている。

日本もかつてはそうで、次のオリンピックにいるのは一人か二人ぐらいであった。 しかし、現在は下から押し上げる選手がいないのか、若手が殆ど出てこない。

弱点の高さも身長の低い選手を相も変わらず起用しており、対策とは成りえていない。 守備を中心とした粘りのバレーは日本の特徴ではあるが、この特徴、かつては有効であったかもしれないが、現在ではどうであろうか。

日本のブロックの上から強いスパイクを打ってくる上位チームには全く機能していないことは明白である。 やはり強いスパイクはブロックで弱めるのが一番の対策であるが、百も承知のこの対策が二十年来出来ていない。

原因はジャンプ力である。 特に背の高い選手はそんなに飛んでいないので、これを強化すればよいのである。 実際にはどんなトレーニングをしているのか知る由もないが、テレビで観る限りにおいて、感覚的ではあるが20cmぐらいアップすれば効果は出てくると思うのである。

20cm高くなれば、指先にかかっていたブロックが手の平に当たるようになり、ブロックはしっかりする。 アタックでいえば、手の平に当たっていたスパイクが指先に当たり、ブロックを吹き飛ばせるのである。

ところで、現在のバレー中継をげんなりさせるものにジャリタレグループと女子アナの応援スタイルがある。 バレーが歌謡ショーになっているのである。 滑稽なのはこのバレー中継、大手民放各社が一通り放映したが、皆が皆、同じスタイルで局の個性が全くないのである。

兎に角、中心は選手なのであって、ジャリタレグループと女子アナではないのである。 更に、選手にニックネームをつけているが、これも頂けない。 選手をスポーツ選手としては見ておらずアイドルとして捉えているからである。

今回を含め、長年続く実力と格好いいニックネームに大きな開きがあると、選手はピエロになってしまうことをテレビ局は知るべきだ。 真剣に戦う姿はどんなニックネームよりも格好いい、早く、NHKでの本来のスポーツ中継に戻ってもらいたいものである。

平成19年11月23日(金) 年末と電飾
兵庫県北部の鉢伏高原、滋賀県の比良山、伊吹山などでは初雪の知らせが聞こえるようになり、近畿に木枯らしも吹き、季節はいよいよ冬モードに突入したようである。 初雪は例年より早いようで、昨年暖冬で泣いたスキー場は去年の無念を晴らすべく、この寒空に望みを掛けているようにも見える。

宝塚ではこの時期になると「宝塚水と光の彩り〜光のさんぽみち」が開かれ、広場や歩道、建物が色々な光のモールに包まれて、街がいっそう華やぎを増すのである。

不思議なものでこのイルミネーション、日本人の年末の季節感としていつの間にか定着してしまっているように思える。 無論、その第一の原因は戦後急速に流行ってきたクリスマスのせいであることは言うまでもない。

その象徴的な場面は、キャバレーのクリスマスツリーと酔った客のキラキラした三角帽子である。 今47、48歳以上の人なら恐らく年末という言葉でこんなシーンが頭に浮かぶのではないだろうか。

貧しかった戦後日本の社会とは対照的な戦勝国の豊かさの象徴であるクリスマスツリー。 そのきらきらとしたツリーの電飾が憧れと共に脳裏に刻まれ、いつしか年末の風景に昇華してしまった、こんなところではなかろうか。

ところで、今夏の猛暑のせいか紅葉は今一つのようである。 今週、下呂近辺に行ってきたが、飛騨の山々は紅葉してはいるものの全山紅葉とはいかず、鮮やかさももう一つであった。 つまり、燃えるような色ではなく、くすんだような色なのである。

自然は年間で気温のバランスをとると聞いたことがあるが、まさしくそうなのであろう。 今年の冬は厳しいのではないか、という巷の主婦予報ではこんな観測が流れているが、あながち間違いではないような気がする。

今年、人類は間違いなく温暖化の道を一歩進めてしまった。 これは「天空の城ラピュタ」に出てくるような滅びの呪文を唱えたことになるのであろうか。

平成19年11月26日(月) 評論家
世の中にはいろいろな評論家はいるが、概ね評論家というものはどれもあまり評判がよろしくない。 それというのも、彼らの発言には責任というものが生じず、よって言いたい放題、無責任な発言になることが聞いている人に不快感をもたらすためと思われる。

今日もとある評論家が出ていたが、この人、毎日のようにテレビに出ている40歳ぐらいの評論家で、只今売れっ子、専門は政治らしい。 しかし、この人の発言を聞いていると、とある事柄に対して、全体から見てこうすべきだ、ないしは、今後こう動くだろうという見通しなるものがあまり聞こえてこない。

目につくのは、いや、耳につくのは、素人が知らないような専門用語や裏事情を披露し、それを喜々としてのたまうのである。 が、聞き終わったこちら側とすれば、「で、だから何なの。この件について貴方はどう思うの」、という尻切れトンボのような思いしか浮かんでこない。

つまり、この人は評論というよりも知識の披露をしているのである。 中にはこちらが知っているような専門用語が出てくることもあるが、聞いているとそれほど深く知っている様子もなく、試験前の一夜漬けのような上澄み液程度の知識なのである。

その程度の知識で訳知り顔のように言われても、と思うこともあるが、他の分野はどの程度なのかは分からない。 根拠のない推測はするべきではないが、見ている限りにおいて他の政治評論家よりも勝っているようには思えない。

矢張り、評論家であるならば知識の披露は最小限に留め、「私はこう思う、全体からみてこうすべきだ、その根拠はこうである」という意見を述べるのが評論家の取るべき態度であると思うが、どうだろうか。

昨日もとある番組で、人間の皮膚から万能細胞になることを得意満面に披露していたが、内容は新聞に書いてあったままで誰でも知っている事柄である。 しかし、まるで自分だけが知っているかのような態度に見えたのは、私の見方が穿っているからであろうか。

平成19年11月28日(水) 迅速な事件解決
早いもので11月も後少し、ここ十年くらいだろうか、この時期になると年末イルミネーションを楽しむ家が多くなってきた。 宝塚でもご多聞にもれずこの虜になっている家は多く、早い家は11月になると虫が騒ぐのだろうか、もうイルミネーションを取り付けている家もある。

地域的に見ると、矢張り古くからある町よりも、ニュータウンと呼ばれる最近建った住宅街ほどこの傾向が強いようである。 そして、このイルミネーションは12月になると、あたかも鮎の解禁のように一気にあちこちの家に広がるのである。

「赤い灯青い灯 道頓堀の」は道頓堀行進曲であるが、最近では「赤い灯青い灯 住宅街の」のイルミネーション狂騒曲に取って代わられそうな勢いである。 只、このイルミネーション、世を挙げて省エネをうたう御時世にいささか逆行しているような感もするのではあるが・・・。

ところで、ここ十日ほど騒がれていた坂出市の事件であるが、昨日のニュースでは犯人が見つかったとのことで、事件が解決して良かったとの思いがする。 しかし、今朝の新聞を見ると「もっと早く解決出来なかったか」との社説が載っており、正直、これには違和感を覚えた。

素人の目から見て、目撃者も何にもない状態から犯人を見つけだすのは並大抵のことではないと思うし、 それを十日余りで解決したのだからそんなに遅いとは感じられないのである。

それをこんな言い方をするとは、警察の努力に対してあまりに敬意がなさすぎると思うのである。 被害者の立場に立てば一刻も早く解決して欲しいのは分かるが、かと言って、現実はそう簡単でないのは素人にも推測できることである。

新聞社の論説委員ならば、空調の効いた会社のデスクに座って、鉛筆なめなめ思考を巡らしながらこの社説を書いたのであろう。 が、そんなに遅いと思うなら、貴方が実際現場に出て行って指揮を執ればどうなのだろうか。

そして、迅速な事件解決とはこのようにすれば良いとの見本を見せて欲しいものである。 完璧なる初動捜査とはこのようにするものである、との手本を是非示して欲しいものである。 が、社説を読んでみてもそうした事は全く書いていない。

結果から遡ればあの時はこうすれば良かった等、誰にでも言えるのである。 少なくとも今回の見出しはそうした観点からの物言いに思え、大いに共感を欠くプアな内容であった。

平成19年11月30日(水) 偽装問題は食品だけ?
今年の話題は色々あるが、中でも食品の偽装問題は上位にくるのではないだろうか。 製造日を次の日にしたり、材料、産地を偽ったりするなど、様々な手口はよくもこんな嘘がつけるものだと感心してしまう。

そんな事を思っていたら、テレビで週刊XX12月8日付の記事によると、という声が聞こえてきた。 ちょっと待てよ、食品の製造日に先日付が偽装なら、こうした週刊誌の先日付はどうなるのだろう。

週刊誌は前々から思っていたのであるが、どうして印刷されている発売日の前、それも一週間ほど前に売りだすのであろうか。 12月8日発売なら12月8日に売りだせばよいではないか。

買う側からすれば、12月8日直近の出来事が載っていると思ってしまうのである。 しかし、11月下旬には既に売られているので、実際には更に前の出来事が書かれていることになる。

図書館などでは何か月間かの週刊誌が置かれているコーナーがあるが、ここで数か月前のとある事件を見ようとした場合、どうするだろうか。 矢張り、その事件があった日付直後の発売日のものを探すのではないだろうか。

しかし、概ねその号にはその事件は載っていないであろう。 では、どこに、それは恐らくそれよりも二週間程後の発売日に載っているのではなかろうか。

こう考えた場合、これは一種の騙し、偽装とは言えないまでも、嬉しくないフェイントの部類であると思う。 情報は言うまでもなく鮮度が命、古い情報は価値が落ちてしまう。 日付を先にして売れば、一週間後でもその週刊誌は最新のものと映ってしまう。

その心理をついたやり方だと思うが、確かに発売日で作成日とは言っておらず偽装とは言えないだろう。 となれば、あれは何に例えればいいのだろうか、もしかしたら昆虫の擬態?・・・如何であろうか。


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