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昔の宝塚

といっても昔の宝塚歌劇ではありません。
宝塚歌劇が出来るずっと以前の宝塚です。

現在の宝塚は、武庫川を挟んで両側の平野には家が途切れることなく建っています。
しかし、明治の頃の宝塚は田んぼや畑が一面に続く静かな田舎町でした。

その当時の写真を数か月かけてカラーリングしてみました。
すると、どうでしょう。
そこには緑豊かな山や河、そして出来上がりつつある温泉街の様子が鮮やかに蘇ったのです。


明治初期の頃の宝塚の地図
小さな村が点在している中、ひときわ大きな村が小浜の町。 この頃は宝塚近辺の第一の町であった。

武庫川の河道も現在と大きく異なり、うねるように流れている。

特に、市役所(黒い四角)から下流は大きな砂州が幾つもあり、川は自然の流れの赴くまま右に左に流れている。

武庫川に左から流れ込む逆瀬川(左上)は、上流の川幅が不自然な程大きく(茶色部分)なっている。

これは、この当時の六甲山麓は木が少なく、そのために雨が降ると土石の流出が止まらず、石ころが川幅以上に広がっていたそうである。

その後、植林をして現在のような緑豊かな山になったとのこと。

この地域に今でも残っている溜池があちこちに点在しているが、何故か武庫川の東側に片寄っているのが特徴的だ。

もし、この時代の夜の町を現在の衛生写真で撮ったとしたら、真っ黒で何も映らないことであろう。 それだけに、夜空の星も降るように沢山見えていたことでしょう。

宝塚は大阪と異なり、近畿の片田舎であったことから、町の発展もあまりなかったのではないだろうか。

もしかしたら、この地図は江戸後期の姿をかなり色濃く残しているのかもしれない。
*写真をクリックすると拡大します*

明治30年頃
明治19年に宝塚に温泉が見つかり、温泉町として序々に旅館や町並みが出来てきた様子が窺えます。

現在のJRが宝塚迄開通したのが明治30年であるが、武庫川には橋さえもかかっていない。

対岸に見える茂みの向こう側が現在の宝塚大劇場に該当するが、林や畑が続く農村風景が見える。 下流に向かって右手から流れて来る川が逆瀬川。

伊孑志の渡しはその向こう側にあったらしく、現在の宝塚市役所よりもう少し上流に当たる。 この頃の武庫川には堤防もなく、洪水は度々あったようで、美座には洪水の話が残っている。



明治36年頃  一本脚の宝来橋
明治30年、阪鶴鉄道(現福知山線)が開通して宝塚駅ができたことから、宝塚温泉へ来る客が急増した。

こうした流れを受け明治36年、宝塚駅と温泉を結ぶ所に橋が架けられ、宝来橋と名付られた。

橋の流失を防ぐため水の抵抗が少ない一本脚としたが、形が非常に珍しく造形的にも美しい橋であった。



明治末期頃
宝山旅館の看板や分銅屋のマークなどが見え、温泉街として旅館の数も増え発展している様子が窺える。

一方、当初優美だった宝来橋も差さえ木で補強され、継ぎはぎだらけの橋になってしまった。 向こう側に「仁丹」の看板や橋にはガス灯が見えるところはいかにも明治らしい雰囲気がある。



明治末期頃
明治44年10月に鋼鉄製の新宝来橋が作られ、前年には箕面有馬電気鉄道(現在の阪急電鉄)が開通したことから、 宝塚の温泉街にも多くの人々が訪れるようになった。